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米の武士道
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米の武士道
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)美富《みとみ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#5字下げ]
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[#5字下げ]裏富士の春[#「裏富士の春」は大見出し]
[#10字下げ]一[#「一」は中見出し]
「旦那さま、旦那さま!」
とりみだした声で叫びながら、ひとりの老爺が土蔵の裏から庭のほうへとびこんで来た。広縁で雛の箱をあけていたお千代は、ぎょっとしながら立ちあがって、
「美富《みとみ》の弥平さん、どうなさいました」
「ああ、お千代さまか、旦那さまをお呼び申してくださいまし、大変でござります」
「父《とと》さんは富竹《とみたけ》へ行っていますが」
「富竹……はあそれは困ったことだぞ」
老人は流れる汗を拭こうともせず、肩で息をしながら、すぐ駈けだしそうにした。
「お待ちなさいまし弥平さん、急用ならうち[#「うち」に傍点]の太助を迎えにやります、なにか間違いごとでもあったんですか」
「間違いどころではございません。いま石和《いさわ》の代官所から郡代の料治《りょうじ》さまがおいでなさいまして、美富から秋山の村じゅう、百姓という百姓の倉をあけ、持ち米ぜんぶお取上げということで、えらい騒動でござります」
お千代はびっくりして声をあげた。
「お百姓の倉からお米を? ……それは料治さまがご自分でおっしゃるんですか」
「そうでござります、料治さまが先頭に立って、抜身の槍を持った足軽十人、大八車二十輌を引いて、いま村を廻っているところでござります」
「……あたし行ってみましょう」
お千代は襷をはずしながら、いましも土蔵から雛を運びだして来たお梅にふりかえって、
「ばあや、あたしちょっと美富まで行って来るからね、おまえにここをたのみますよ」
「はい、でもお嬢さま」
「心配することはないわ、きっとなにかわけがあるのでしょう、あたしが料治さまによく訊いてみます。父さまがお帰りになっても、黙っていておくれ、たのみますよ」
「はい、ではどうぞお気をつけて」
お千代は腰紐をきゅっと締め直して、弥平老人といっしょに屋敷を出て行った。
桃の節句にあと四五日、春の空はよく晴れあがって、東南の山なみ[#「なみ」に傍点]のかなたにくっきりと描いたように美しく裏富士が見えている、麦の伸びた畑地のそこ此処に、緋色の桃がほころび初めて藪のなかではのどかに老鶯《ろうおう》の笹鳴きが聞えていた。山も野も、森も林もやわらかい春の陽にうっとりと眠っているような真昼のひととき、そのしじまをやぶって、米俵を山と積んだ大八車が、轍の音もけたたましく、美富の村道を石和のほうへと走っていた。
「ごらんなされませ、あのとおりでござります」
「まあ……」
「わたし共は、どうやら料治さまを見損っていたようでござりますぞ」
走りなが、弥平老人は忿怒の声をあげた。お千代は胸がふるえた。そんな筈はない、あのかたに限ってそんな筈はない。現におのれの眼で見たものを否定するように、そう呟きながらお千代は老人を急きたてて走った。
美富村の用水堀を前にして、久保田という名主の屋敷がある、その表に大勢村人たちが集てっいた、老人も若者も、女も子供も、不安そうに屋敷の中を覗きながら、みんな蒼い顔をしてひそひそとなにか囁き交わしている。
「ごめんなさい、通して貰いますよ」
お千代は人垣をかきわけて、屋敷のなかへはいって行った。しかし前庭までゆかないうちに、彼女はあっと云って足をとめた。
父がいるのだ、父の五郎右衛門が、すでにそこへ来ていた。いま駈けつけたところとみえて、荒々しく肩で息をしながら、土蔵の戸前に立ち塞がって叫んでいるのだ。
「なりません、なりませんぞ。いかに御郡代とはいいながら、五ヶ村名代名主のわたくしに一言のご相談もなく、かようなことをなさるという法はござりません」
「そうだそうだ、こんな無法なことがあるものか」
「名主どの一歩も動かっしゃるな、みんな死なばもろともだ」
庭へ詰めかけていた村人たちが、五郎右衛門の言葉にわっと喚声をあげた。
「騒がしい、しずまれ」
若き郡代料治新兵衛は大喝した。彼のまわりには十人の足軽がいて、ぎらぎらと光る真槍の穂先をならべ、すわ[#「すわ」に傍点]と云えば突きまくらんと身構えをしていた。
「拙者は甲府城郡代として来ている。美富、諏訪、英、一ノ宮、日下部、以上五ヶ村にある持ち米は、ぜんぶ石和の社倉へ積み入れることになったのだ、代官所の達令だ、騒ぐ者は重きお咎めを受けると思え、またこれを拒む者、邪魔をする者は容赦なく突き伏せるぞ」
「その理合《りあい》をお聞かせください」
五郎右衛門は、拳をふるわせて叫んだ。
「百姓の持ち米を社倉へ入れてどうなさるのです、なんのために社倉へ入れるのです、持ち米がぜんぶお取上げになったら、百姓はなにを食って生きてゆけばよいのです」
「問答無用、そこ退け!」
新兵衛は、一歩大きく踏みだした。
[#10字下げ]二[#「二」は中見出し]
五郎右衛門は、白髪まじりの髪の毛をふるわせながら、はげしく頭を振った。
「退きません、その理合を伺う迄は一歩も退きませんぞ」
「そうか、では仕方がない」
新兵衛はきゅっと唇をひき結ぶと、ふりかえってさっと手を挙げた。真槍の穂先をならべていた足軽たちは、それを見るなりおっ[#「おっ」に傍点]と鬨をつくって五郎右衛門に迫った。その刹那であった、つぶて[#「つぶて」に傍点]のように走せつけたお千代が、
「ああ! 待ってくださいまし」
と叫びながら、すばやく父親の前へ立ち塞がった。
「父はわたくしが申し訓します、どうか乱暴はなさらないでくださいまし。父さまお願いです、どうかお千代を可哀そうだと思って」
「はなせ、わしは五ヶ村の名代だ」
「でも父さまは殺されます」
「旦那さま!」
あとから追いついて来たのだろう、下男の太助がとびだして、お千代とともにしっかりと五郎右衛門を抱き止めた。
「ここであなたがお死になすっても、五ヶ村が助かるわけではござりません。あとのことはみんなで相談するとして、ともかくもあちらへおいでなさいまし。おーい、みんな手を貸してくれろ」
久保田の下男たちもとんで来た。五郎右衛門はなおも懸命に踏み止まろうとしたが、血気の若者たちに押えられてどうしようもなく、ずるずると向うへ引摺られて行った……。
新兵衛は顔の筋も動かさず、
「よし米を運び出せ」としずかに命じた。
お千代は、身をふるわせながら見ていた。足軽たちはどしどし蔵の戸前をあけ、米俵を運びだしては車へと積みあげる。積み終った車はすぐに表へと曳きだされて行った。
「一俵も残してはならんぞ、手間どって刻を過した、早くしろ」
新兵衛は、断乎たる口調で命じていた。
七十俵あまりの米俵が、たちまちのうちに積みだされた。そしてぜんぶの俵数を書いた郡代手形を渡すと、新兵衛は部下を促して大股に屋敷を出て行った。村人たちは茫然としてそれを見送った、蒼い顔に憎悪の眼を光らせていたが、もう誰も声をあげる者はなかった。
お千代は、彼等のあとを追った。
忿りと、疑いとが、彼女の小さな胸を緊めつけ、かき紊した。新兵衛は大股に、車と足軽の列のうしろをあるいて行く、背丈の高くたくましいその肩つきが、いまお千代にはまるで見知らぬ人のようにみえる。
「料治さま、お待ちくださいまし」
土橋の袂まで来たとき、お千代は足をはやめて追いつきながら呼びかけた。新兵衛は足を停めてふりかえった。
「……なにか用ですか」
「あなたは、あなたは」
お千代の声は哀れなほどふるえた。
「わたくしの父を、いま殺そうとなさいました」
「そうです」
新兵衛は娘の火のようにはげしい眸を、正面にかっちと受け止めてうなずいた。
「拙者は石和郡代として、役目の命ずる所に従ったまでです」
「では、本当に父を殺すおつもりだったのですか、お百姓たちから大切なお米を取り上げたうえ、そんな非道なことをなさるおつもりだったのですか」
「拙者は役目の命ずるところに従ったまでです。料治新兵衛が石和の郡代である以上、郡民は料治新兵衛の命にそむくことを許しません!」
「千代は、郡代としてのあなたに申上げているのではございません」
お千代は、哀訴するように云った。
「父がお好きな料治さま、きょうまで千代がお信じ申していた料治さまに申上げているのです、本当のことをお聞かせくださいまし。お百姓たちのお米を社倉へお取り上げになるのはどういうわけでございますか、あなたは本心から父を殺そうとなすったのですか」
新兵衛はきっ[#「きっ」に傍点]と娘の眼をみつめて、
「……お千代どの」
低く力のある声で云った。
「あなたはいま、この新兵衛を信じていたと云いましたね」
「はい申しました」
「拙者を信じながら、拙者のすることが信じられないのですか」
お千代は、膝ががくっ[#「がくっ」に傍点]となるような感動に襲われた。返事ができなかった、新兵衛はなおも娘の眼をつよくみつめていたが、
「人を信ずるということは軽率ではない筈だ、あなたにとって、いま拙者のしていることが疑わしいのなら、拙者を信じていたというあなたの眼は狂っていたのだ、ただそれだけのことですよ」
「…………」
お千代はものも云えずに立竦んでいた。新兵衛は軽く目礼したまま、車のあとを追って去った。
[#5字下げ]甲府籠城[#「甲府籠城」は中見出し]
[#10字下げ]一[#「一」は中見出し]
事は迅速に、しかも断乎としておこなわれた。石和郡代の支配下にある農家の貯蔵米は、片はしから運びだされて社倉へ納められ、三日目にはどこの蔵にも一俵の米も残ってはいなかった。
「ああ見損った、あの人間だけは見損った」
五郎右衛門は忿怒にふるえながら、われとわが不明を恥じて罵りたてた。
「甲府のお城がどうなろうと、郡代だけはわれわれの味方だと思っていた、あの男だけは無道なまねはすまいと信じていた。わしは馬鹿者だ、盲人だ、あのような人間とは夢にも知らず、娘を嫁にやろうとまで考えていた、この眼は節穴も同然だった」
五郎右衛門は、心から新兵衛が好きだった。
料治新兵衛が郡代に赴任して来てから、四年にしかならない。彼はまだ若く、二十五歳になったばかりだったが、果断と明敏な手腕を存分にふるい、たちまち郡内の治績をすばらしくあげた。しかもその治法がすべて官に薄く郡民に厚く、第一に農村の繁栄を土台としていたから、ひとり五郎右衛門だけでなく、支配下にある民たちは『名郡代』として心から信頼していたのである。
時勢は奔湍のような転変のもとにあった。その前年、すなわち慶応三年十月、徳川慶喜が大政を奉還し、大政が朝廷に復してから、天下は御一新のよろこびを迎えたと思う間もなく、伏見鳥羽の戦が起って慶喜は追捕使を受ける身上となり、諸代諸侯は徳川家のために、鉾を執って起つという評判が縦横に飛んだ。
甲府城には堀田相模守が城代として赴任する筈だったが、江戸へのがれた慶喜は寛永寺にはいって謹慎し、政権はすでに朝廷に復しているので、城代という役目が執れないというのを理由に、まだ甲府へは来ていなかった。
征東軍はすでに甲信の国境へ迫っている、領民たちはまだ和戦いずれともわからず、
――お城では合戦のつもりらしい。
――いや、将軍家のおぼしめしどおり、おとなしく城を明渡すそうだ。
そんな噂に、一喜一憂をくりかえしていた。すると二月下旬にはいって、急に甲府城から附近の農村へ手配があり、農民の貯蔵米を『兵糧』として片はしから借り上げをはじめた。
――市川の郡代で米のお借上げがはじまったぞ。
――何々村へもお借上げが来た。昨日はどこの村へ行った。
そういう飛報が、村から村へと伝わった。けれども石和郡代の支配下にある人々は、料治新兵衛が自分たちの味方だと信じていた、自分たちに餓死をさせるような、無慈悲なことはしないものと信じきっていたのである。
それがみごとに裏切られた。料治新兵衛はなんの前触れもなく、真槍をひっさげて村々にあらわれ、拒むすきもあたえず、電光石火のすばやさでさっ[#「さっ」に傍点]と貯蔵米をひきあげてしまったのだ。五郎右衛門の怒は誰よりもはげしかった、彼は新兵衛の人柄にすっかり惚れこんで、娘のお千代を娶って貰おうと、すでに縁談をすすめていたくらいである。
「わしは自分が愚者だったために、五ヶ村の人たちにとんでもない不運をあたえた、あんな人間だと知っていたら、早く米をよそへ移す手配をしたものを、残念だ」
彼は自分の馬鹿さを責め、郡代の無道を罵りつづけた。
お千代の心は宙に迷っていた。新兵衛のやりかたは、たしかに無法である。まったく日頃の人柄に似合わないやりかたの無法さについては、なんとも弁護の余地がない。しかしお千代の耳にはまざまざと新兵衛の一言が刻みつけられていた。
――拙者を信じながら、拙者のすることが信じられないのですか。
新兵衛を信じ、いや愛してさえいたお千代にとって、この一言は骨髄に徹する意味をもっていた。
あの日から三日、新兵衛の手で村々から貯蔵米がどしどし社倉へ運び去られるのを見ながら、彼女の心は怒濤に揉まれる木の葉のように、信頼と疑惧とのあいだをさ迷っていた。
かくて、三月一日の朝のことだった。
美富と日下部から名主年寄が息せき切って駈けつけ、甲府城の手代衆が、『貯蔵米お借上げ』という触れを持って、いま村々を廻っているということを知らせた。
「それはどういうわけだ」
五郎右衛門もおどろいた。
「貯蔵米は、ぜんぶ石和の社倉へ運ばれてしまったではないか」
「だからそのとおり答えたのだ、すると手代衆はうろん[#「うろん」に傍点]と思ったものか、一軒々々蔵を開かせて見廻っている、もう間もなくここへも来るにちがいない」
「待て、……ちょっと待て」
五郎右衛門は、急に膝をのりだした。
「是はうまいぞ、石和の郡代はお城の触れをさし越して米を取上げたのだ、郡代へはまだ命令が来ていないのに、料治新兵衛が独り合点でやったのだ。よし……お城から手代衆が来たのを幸い、わしが郡代にひと泡ふかせてやろう」
「なにか妙案があるか」
「やってみる、手代衆のいるところへ案内してくれ」
五郎右衛門は卒然と立った。
[#10字下げ]二[#「二」は中見出し]
石和の代官所の地続きに、七戸前のすばらしく大きな土蔵が建っている、それが『社倉』であった。
社倉は備荒貯蔵米を納めて置く倉庫で、天明七年の大饑饉のあとを受け、領内の富豪の捐金と、幕府の補助とをもって造営され、甲府城中にも清水曲輪に建てられていた。つまり凶荒変災に備えたるもので、よほどのことがないと手をつけることはゆるされない。
村々から運んで来た夥しい米を、料治新兵衛はとの社倉へ納め、戸前を閉したうえ、いま目塗りまでし終ったところであった。
「すっかり終ったか」
「はい終りました」
「手ぬかりはないだろうな」
新兵衛は、倉の周囲を入念に見て廻った。
「村かたの者はだいぶ気が荒くなっている、火をかけて焼いてしまえと云う者さえあるそうだ、その用心にぬかりがあってはならんぞ」
「水の手の用意も、決してぬかりはございません」
「よしよし、ではみんな休むがよい」
連日やすむ間もない激しい労働で、みんなくたくただった。新兵衛もようやく重荷をおろした感じで、ひと息いれようとしているところへ、下役の者がとんで来て、
「城下から与力衆がおみえです」
と知らせた。新兵衛は期していたものの如く、
「みえたか、よしすぐ会おう」
「こちらへおとおし申しましょうか」
「いや自分でまいる」
新兵衛は先に立って、代官役所のほうへ戻った。
すでに黄昏の色が濃く、あたりは夕靄でおぼろに霞んでいた。役所の門をはいったところに、与力山田権之助と海野伊八郎の二人、なにやら声高に話していたが、新兵衛が近づいて来るのを見ると満面の笑とともに、
「よう、料治、貴公やったな」
と元気な声で叫んだ。新兵衛はしずかに近よりながら、
「やったとは、なんのことだ」
「兵糧お借上げさ」
海野伊八郎が、こくっと頭を振った。
「われわれは朝から廻っているのだが、貴公の支配内へはいると、まるですっからかん、一粒も残らず積みだしたあとだという。さすがは料治新兵衛だとおどろいたところだぞ」
「実は貴公がふだん百姓びいき[#「びいき」に傍点]なのでな」
と山田権之助が、にやりとして云った。
「正面から申しては反対があろうという、隙をみて一気呵成にやれというので、きょう海野とふたり虚を衝いたわけさ、ところがさすがに締まるところは締まる、もうすっかり掠ったあとと聞いて呆れたよ」
「だが料治、気をつけぬといかんぞ」
「……なんだ」
「貴公の果断には敬服するが、百姓どもはだいぶ貴公を恨んでおる、現にさっきも五ヶ村名代の秋山五郎右衛門とやらいう者が、貴公の仕方を差越しであると云って訴訟しおった」
「そうか、……ふむ」
「拙者は一言のもとに叱りつけたが、うっかりすると闇夜に光り物がするぞ」
「……忘れないようにしよう」
新兵衛は、にこっとしてうなずいた。
「用事はそれだけか」
「いやまだ肝心なことがある」
伊八郎が、急にかたちを正して云った。
「明朝十時、甲府城中でいくさ[#「いくさ」に傍点]評定がある、刻限たがわず登城せよとのお達しだ」
「心得た」
「十時を忘れるなよ、ではまたその席で会おう」
「料治、おもしろくなるぞ」
権之助と伊八郎はそう云って高々と笑い、会釈をして黄昏の道を帰って行った。
その夜、新兵衛は久しぶりに風呂へはいり、また珍しく小酌して寝所へはいったが、いつも午前六時に起きるならわしをやぶって、その朝はいつまでも起きるようすがなかった。前日の話を耳にしていた家士が、心配していくたびか寝所を覗きに行ったけれども、彼は泰然と鼾をかいて眠っている。
しかし七時を過ぎ八時を打っても起きないので、家士はついに我慢をきらし、
「申上げます、申上げます」
と障子のそとから呼び起した。
「う、う、誰だ」
飽きるほど呼んだあとで、ようやく新兵衛の寝ぼけ声がした。
「喜右衛門にございます」
「ああ、喜右衛か、なんだ」
「さきほど八時を打ちました、ご登城なればお支度をなさいませんと、間に合わぬと存じますが」
「なに登城?……ばかな」
新兵衛はむにゃむにゃと寝ぼけ声で云った。
「登城する要はない、もう少し寝るからそっとして置いてくれ、ああいい心持だ、ううむ……」
[#10字下げ]三[#「三」は中見出し]
甲府城から、勤士柴田監物が、馬をとばして来たのは正午近い頃であった。附添いは太田市郎兵衛、西田武四郎の両人、接待部屋へとおされたが、待つこと三十分あまり、やがていま起き申し候という眼つきで新兵衛が出て来た。
「お待たせ仕って失礼」
「失礼ではないぞ!」
監物はいきなり呶声をあげた。できるだけ我慢して、我慢の緒が切れた声だった。新兵衛はべつに愕くようすもなく、けろりとして座につく、その面上へ叩きつけるように、監物は口から唾液を飛ばして喚いた。
「今朝十時、城中に於て軍評定のあることを忘れたか、山田、海野両名の者からそう申してあるはず、聞かぬとは云わさぬぞ」
「なるほど、……いや、なるほど」
新兵衛は、もっともらしくうなずいた。
「そう云われてみれば、たしかに聞いたように思いますが。失礼、拙者との四五日ぶっ続けの奔走で疲れはて、珍しく寝酒を用いましたせいか、とくと失念を仕りました、もはやその評定には間に合いませんだろうか?」
「貴公まだ酔っておるのか」
「なかなかもって、もはやかくの如く正気でございます」
「よし、正気だと申すなら、城中評定のしだいを聞かせる」
監物はかたちを正して云った。
「せんぱん、将軍家には大政奉還あらせられ、朝廷に対し奉りひたすら恭順のまことを致すといえども、薩長土その間にあってことを弯曲し、ついに追捕使を遣わさるの御悲命におちいらせたまう。われら徳川譜代の臣として君の寃を看過しがたく、あえて正邪を闕下に奏上し奉らんと欲す、――よいか」
監物ははた[#「はた」に傍点]と膝を打ってつづけた。
「この意味を以て、われら甲府勤番の士は、新撰組近藤勇どのの兵を城へ迎え、籠城し、東征軍と決戦することに決したのだ」
「ほう、近藤さんが来られますか」
「到着は両三日うちであろう、こちらとはすでに固く連絡がついておるのだ」
鳥羽伏見の戦で傷ついた近藤勇は、慶喜に迫って一戦を慫慂したが、すでに恭順の意かたき慶喜は、寛永寺にひきこもって動かない。それで甲府城の勤士柴田監物、保々忠太郎らと計って決戦の策をたて、自分は大久保大和と変名して、すでに隊士を率いて甲斐へと発向していたのである。
「拙者がここまで馬をとばして来たのは、ついさっき韮崎の番所から急使があって、土州藩の先鋒隊が小淵沢を越えたという情報を持って来た。戦備は急を要する、ついては貴公の預る社倉米をすぐ城へ移して貰いたいのだ」
「それはまたなぜです」
「むろん籠城に備えるためだ。またここに置いては敵の兵糧に遣われるからだ」
「城外の近村へお借上げを命じた米が、じゅうぶんにお城へはいっているのではありませんか、そうむやみに積込んでも、食糧あまって兵足らずではしようがないでしょう」
「わけのわからぬことを云う」
監物は苛々しながら、
「つまり、貴公は社倉米を城へ移すことに反対なのか」
「反対もくそもないですよ、社倉というものはなりたちが違うのです。むろんご存じだろうが、これは領民たちのための備荒貯蔵で、城兵の兵糧につかうべき性質のものでありません」
「なに! ……貴公、それは本気でいうのか」
「本気ですとも」
新兵衛は、にやりともせずに云った。監物にとっては夢想だもせぬ一言である。嚇と怒りがこみあげて来た、しかし監物は辛くもそれを抑えつけて、
「なるほど、社倉ほんらいのなりたちはそうかも知れぬ、しかし今はまったく非常の場合だ、甲府城の運命を賭する必至の場合だぞ、甲府城の運命はすなわち領民の運命だ、かかる時には社倉もお役にたつのが当然ではないか」
「おっしゃることはよくわかりました、それでもういちど申上げますが」
と新兵衛はしずかに云った。
「料治新兵衛は、甲府城代の命で石和郡代を勤めています。郡代として社倉を護るのは、拙者の責任です」
「では、城代副事として拙者が命ずる、社倉米をすぐに城へ移すがよい」
「郡代への命令は、城代直々に限ります」
「ではどうしてもならんと云うのだな」
「そうです」
はっし[#「はっし」に傍点]と膝を打って監物が立った、彼は忿怒の眼で新兵衛をねめおろし、ぶるぶると拳をうち振りながら叫んだ。
「重代恩顧の城を捨てても、片々たる社倉の掟を固執するのが貴公の武道か、それが幕臣としての道だと思うか、貴公それで腰の刀に恥じぬか」
「柴田さん帰りましょう」
西田武四郎が、憤然と促した。
「なにを云っても無駄です、口でわからぬやつは実力で教えるのが一番、帰って手配をするほうが早いでしょう、ゆこう市郎兵衛」
三人は席を蹴立てて去った。
[#5字下げ]国の稔り[#「国の稔り」は大見出し]
[#10字下げ]一[#「一」は中見出し]
「父さま、父さま」
息をせいて走せつけたお千代が、そう叫びながら父の居間の襖をあけると、そこには五ヶ村の名主たちが集って、なにか密談をしていたらしい、ぴたりと口をつぐんでふりかえった。
「来てはいけない、出ろ、お千代」
「いいえ、いいえ!」
お千代はつよく頭を振りながら、つかつかと部屋の中へはいって、
「みなさまの御相談にも関わりのあることです、父さま、千代は代官所へ行ってまいりました」
「なに代官所へ行った? それは」
「申しわけのないことですけれど、お城の手代衆へ料治さまを訴えて、ひと泡ふかせるとおっしゃったのを聞き、どうなったか気懸りでとてもじっとしてはいられなかったのです」
「千代! おまえそれは本当か」
「本当です、でもお聞きくださいまし」
お千代は、父の言葉をさえぎっていった。
「千代がまいったとき、ちょうど役所へお城からお使者が来ておいででした。聞いてみますと社倉の米のことなんです。お使者のおっしゃるには、土佐の先鋒軍が寄せて来るので、籠城はまぬがれないから、すぐ貯蔵米を城へ移すようにとのことでした」
「そうなることと思った」
「やはり昨夜のうちに押してゆくべきだった」
五人の名主たちが囁き交わすのを、
「お待ちくださいまし」
と、お千代を制してつづけた、
「お使者はすぐに米を運べとおっしゃいました、すると料治さまはきっぱりお断わりになったのです」
「え、え? 断わったと?」
「お断わりになったのです、料治さまは社倉のなりたちをご説明なさいました。社倉の米は領民の為の備荒貯蔵で兵糧にするものとは性質が違うとはっきりおっしゃいました」
名主たちは唖然と顔を見合せた。
お千代は感動にふるえる声で、
「父さま、わたくしたちは間違っていたのです、おわかりにならないでしょうか、料治さまが五ヶ村の米を取上げたのは、社倉へ集めて、そこで護るためだったのです。米が五ヶ村にちりじりにあっては護りとおすことが困難です、まして無力なお百姓たちが持っていては、お城からお借上げに来られた場合どうにもできません。料治さまはそれを見越して、ぜんぶを社倉へ積込んでしまったのです」
「そう云えば、昨日お城から手代衆がお借上げに廻って来たそうだ、郡代さまが取上げなくとも、昨日はお借上げになるところだった」
名主たちは坐り直した。
五郎右衛門は膝をすすめながら念を押した。
「お千代、いまの話に偽りはあるまいな」
「嘘でない証拠に、みなさまのお力を借りに帰ったのです、父さま」
お千代は息もつかずに云った。
「料治さまがお断わりになったので、お使者たちはすっかり怒り、どうやら城へ戻って人数を集めて来るようすでした」
「腕づくで社倉をあけようと云うのか」
「はっきりそう申して行きました。父さま、郡代役所では僅かな人数で社倉を護ろうとしています。わたくしたち黙って見ていてよいのでしょうか」
名主たちは、五郎右衛門を見た。郡代の本心がはじめてわかり、その危急が目前に迫っている、しかも郡代の危急は五ヶ村の米を護るためのものだ。
五郎右衛門はくっ[#「くっ」に傍点]と面をあげた。
「みなの衆、いまお聞きのとおりだ、すぐに村へ帰って若い者を集めてくださらぬか」
「よいとも、若い者には限るまい」
「そうだ! 足腰の利く者はみんな出て、郡代のお味方をするだろう」
名主たちは、一斉に立ちあがった。
「しかし騒ぎ立ててはいけない、武器も持ってはならぬ、眼立たぬようにわし[#「わし」に傍点]の家へ集めて貰いたい、刻限は暮れ六つだ」
「承知した、では六つまでに必ず……」
勇みたって行く名主たちを、見送る五郎右衛門の顔は明るく晴れあがっていた。お千代はそれを、泣きたいような幸福感でじっとみつめていた。
そのころ郡代役所では、社倉の周囲に壕を掘り、それに水を引いて万一に備える一方、役所の内部もすっかり片づけて、いつ城兵が攻め寄せてもいいように準備を急いでいた。代官手附の人数三十二人、みんな新兵衛のために一身を投げだす人々だけだった。城からはなんの沙汰もなく、宵節句の日はとっぷりと暮れた。
「おい、篝へ火をつけろ」
新兵衛の命令で、篝火があかあかと燃えだした。社倉の周囲に五ヶ所、役所の前に二ヶ所、宵闇を焦がして燃えあがる篝火は、そのまま彼等の闘志を表白するようだった。
甲府城から保々忠太郎が、十名の見知らぬ武士を伴って来たのは、およそ七時ごろのことであった。
「……来たか」
新兵衛はうなずいて出て行った。
[#10字下げ]二[#「二」は中見出し]
保々忠太郎は、小具足に身をかため、右手に鉄の鞭を持っていた。
彼はぎろりと新兵衛を見やりながら、
「柴田から貴公の存意を聞いた」
と切り口上に云った。
「いろいろ言葉のゆきちがいがあるようだ、しかし今更そんな問答をしている場合ではない。幸い近藤勇どのの隊士がみえたから、ここへご案内して来た、お互いによく話し合おうではないか」
「もう話すことはないと思いますがな」
「あるよ、大いにある」
近藤勇の隊士という十人ばかりの壮士の中から、すぐれて逞しい人物がひとり大股に前へ出て来た。
「貴公は徳川家の直臣だろう、甲府城は幕府直轄だ。よいか、はじめにそいつをはっきりさせて置く。ところで土佐軍の先鋒はもう韮崎近くまで来ておる。もうここの米を城へ運び入れる暇はない。しかしこのまま置けば、社倉の米は敵の兵糧にされてしまうだろう。貴公が甲府城勤番の士であり幕臣なら、みすみす敵を利するようなまね[#「まね」に傍点]はしない筈だ。よいか、そこでわれわれは社倉に火を放って焼却することに一決した、むろんこれなら貴公にも異存はあるまいが」
「それでわざわざお越しですか」
新兵衛は、平然として云った。
「そうだ、それでわざわざ来たんだ」
「それはお気の毒ですな」
「なに?……」
新撰組の隊士は、猪突果断を以て聞えている。はじめは田舎の郡代ごときと舐めていたのだが、この大胆な挨拶に遭って嚇となった。
新兵衛は色も変えずにつづけた。
「柴田さんに申上げたとおり、社倉の米は領民たちの備荒貯蔵です。甲府城のものでもなく、幕府の物でもありません。殊に、昨年十月、将軍におかれては大政を奉還あそばされ、国政はあげて朝廷のおん手に復しました。将軍家において深く御謹慎あそばす如く、拙者はおのれの預る社倉を護り、これを無事に維新政府へ、お引渡し申すことを責任と思います」
「だが、みすみす敵軍を利するものだぞ」
「焼き捨てることが敵の不利を決定すると思いますか」
新兵衛が、はじめて声をはりあげた。
「米は国の稔という。戦に多少の利があるにせよ、国の稔を焼きすてるような無道をして、貴公らの大義名分が立つと思いますか。これほどの道理がわからぬようでは、なにを申すもたがいの無駄だ、お帰りなさい」
「元気だな郡代、帰れというなら帰る」
相手はひきつるような笑い方をした。
「だが帰るには土産が要るぞ、くれるか」
「ご所望なれば」
「よしっ」
叫ぶとともに隊士の一人が身を沈めた、抜討ちである。身を沈めたとみるや、ぎらっと白刄が新兵衛の右胴に伸びた、しかし同時に新兵衛の体が伸びあがったと思うと、大きく上から抜討ちの剣をふりおろした。隊士の剣は新兵衛の脾腹を裂き、新兵衛の剣は隊士の頭を断ち割った。だっと、前のめりに顛倒する隊士を見て、
「やった、その郡代のがすな!」
喚きざま、ぎらりぎらりと抜きつれたときである、わあっ[#「わあっ」に傍点]という鬨をつくって、手に手に松明をふりかざした農民たちが、雪崩のように門内へ殺到して来た。
「いかん、立退け!」
保々が叫ぶまでもない、残った隊士たちはそのまま、裏手の垣を押しやぶってのがれ去った。新兵衛はそのありさまを篤と見定めた、そして意識を失って倒れた。
×××
板垣退助の先鋒、因州藩の軍監西尾遠江介が甲府城へ入ったのは、三月五日であった。これが予想以上に神速だったのと近藤勇の隊の入城が後れたために、城兵は一戦するいとまもなく敗走した。
脾腹の傷で寝ていた新兵衛のもとへその知らせを持って来たのは、五郎右衛門であった。娘の千代もいっしょだった。
「やはりそんなことでしたか」
「まったく情ない負け戦で、逃げた者も多くは捕えられたり、斬られたり、落ちのびたのは僅かな人数だと申します」
「……しかし」
と新兵衛は、低く呟くように云った。
「いずれも幕府の恩を忘れぬ人たちだった。考え方こそ誤っていたけれども、身命を惜しまぬ覚悟はあっぱれ武士だ、本当にあっぱれな人たちだった」
五郎右衛門は思わず頭を垂れた。
ひっそりと物音の絶えた春の午後、言葉のとぎれたいっときのしじまを縫って、そのとき遠くから小太鼓の音がかすかに響いて来た。
「太鼓の音がする、お千代どの」
「はい」
「障子をあけて見てください、なんです」
お千代は立って障子をあけた。街道をはるかにゆく軍馬の列、蒙々たる土煙のなかに、輝かしい錦旗を捧持しているのが見えた。
「見えますか」
「はい、官軍が東へゆくところでございます」
「東へ、……では進軍の太鼓ですね」
「錦の御旗もおがめますわ」
新兵衛は枕をどけて頭を伏せた、五郎右衛門もお千代も頭を伏せた、太鼓の音は東へ、東へ。
底本:「甲州小説集」実業之日本社
1975(昭和49)年8月20日 初版発行
1979(昭和54)年8月15日 12版発行
底本の親本:「講談雑誌」
1942(昭和17)年2月
初出:「講談雑誌」
1942(昭和17)年2月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)美富《みとみ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#5字下げ]
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[#5字下げ]裏富士の春[#「裏富士の春」は大見出し]
[#10字下げ]一[#「一」は中見出し]
「旦那さま、旦那さま!」
とりみだした声で叫びながら、ひとりの老爺が土蔵の裏から庭のほうへとびこんで来た。広縁で雛の箱をあけていたお千代は、ぎょっとしながら立ちあがって、
「美富《みとみ》の弥平さん、どうなさいました」
「ああ、お千代さまか、旦那さまをお呼び申してくださいまし、大変でござります」
「父《とと》さんは富竹《とみたけ》へ行っていますが」
「富竹……はあそれは困ったことだぞ」
老人は流れる汗を拭こうともせず、肩で息をしながら、すぐ駈けだしそうにした。
「お待ちなさいまし弥平さん、急用ならうち[#「うち」に傍点]の太助を迎えにやります、なにか間違いごとでもあったんですか」
「間違いどころではございません。いま石和《いさわ》の代官所から郡代の料治《りょうじ》さまがおいでなさいまして、美富から秋山の村じゅう、百姓という百姓の倉をあけ、持ち米ぜんぶお取上げということで、えらい騒動でござります」
お千代はびっくりして声をあげた。
「お百姓の倉からお米を? ……それは料治さまがご自分でおっしゃるんですか」
「そうでござります、料治さまが先頭に立って、抜身の槍を持った足軽十人、大八車二十輌を引いて、いま村を廻っているところでござります」
「……あたし行ってみましょう」
お千代は襷をはずしながら、いましも土蔵から雛を運びだして来たお梅にふりかえって、
「ばあや、あたしちょっと美富まで行って来るからね、おまえにここをたのみますよ」
「はい、でもお嬢さま」
「心配することはないわ、きっとなにかわけがあるのでしょう、あたしが料治さまによく訊いてみます。父さまがお帰りになっても、黙っていておくれ、たのみますよ」
「はい、ではどうぞお気をつけて」
お千代は腰紐をきゅっと締め直して、弥平老人といっしょに屋敷を出て行った。
桃の節句にあと四五日、春の空はよく晴れあがって、東南の山なみ[#「なみ」に傍点]のかなたにくっきりと描いたように美しく裏富士が見えている、麦の伸びた畑地のそこ此処に、緋色の桃がほころび初めて藪のなかではのどかに老鶯《ろうおう》の笹鳴きが聞えていた。山も野も、森も林もやわらかい春の陽にうっとりと眠っているような真昼のひととき、そのしじまをやぶって、米俵を山と積んだ大八車が、轍の音もけたたましく、美富の村道を石和のほうへと走っていた。
「ごらんなされませ、あのとおりでござります」
「まあ……」
「わたし共は、どうやら料治さまを見損っていたようでござりますぞ」
走りなが、弥平老人は忿怒の声をあげた。お千代は胸がふるえた。そんな筈はない、あのかたに限ってそんな筈はない。現におのれの眼で見たものを否定するように、そう呟きながらお千代は老人を急きたてて走った。
美富村の用水堀を前にして、久保田という名主の屋敷がある、その表に大勢村人たちが集てっいた、老人も若者も、女も子供も、不安そうに屋敷の中を覗きながら、みんな蒼い顔をしてひそひそとなにか囁き交わしている。
「ごめんなさい、通して貰いますよ」
お千代は人垣をかきわけて、屋敷のなかへはいって行った。しかし前庭までゆかないうちに、彼女はあっと云って足をとめた。
父がいるのだ、父の五郎右衛門が、すでにそこへ来ていた。いま駈けつけたところとみえて、荒々しく肩で息をしながら、土蔵の戸前に立ち塞がって叫んでいるのだ。
「なりません、なりませんぞ。いかに御郡代とはいいながら、五ヶ村名代名主のわたくしに一言のご相談もなく、かようなことをなさるという法はござりません」
「そうだそうだ、こんな無法なことがあるものか」
「名主どの一歩も動かっしゃるな、みんな死なばもろともだ」
庭へ詰めかけていた村人たちが、五郎右衛門の言葉にわっと喚声をあげた。
「騒がしい、しずまれ」
若き郡代料治新兵衛は大喝した。彼のまわりには十人の足軽がいて、ぎらぎらと光る真槍の穂先をならべ、すわ[#「すわ」に傍点]と云えば突きまくらんと身構えをしていた。
「拙者は甲府城郡代として来ている。美富、諏訪、英、一ノ宮、日下部、以上五ヶ村にある持ち米は、ぜんぶ石和の社倉へ積み入れることになったのだ、代官所の達令だ、騒ぐ者は重きお咎めを受けると思え、またこれを拒む者、邪魔をする者は容赦なく突き伏せるぞ」
「その理合《りあい》をお聞かせください」
五郎右衛門は、拳をふるわせて叫んだ。
「百姓の持ち米を社倉へ入れてどうなさるのです、なんのために社倉へ入れるのです、持ち米がぜんぶお取上げになったら、百姓はなにを食って生きてゆけばよいのです」
「問答無用、そこ退け!」
新兵衛は、一歩大きく踏みだした。
[#10字下げ]二[#「二」は中見出し]
五郎右衛門は、白髪まじりの髪の毛をふるわせながら、はげしく頭を振った。
「退きません、その理合を伺う迄は一歩も退きませんぞ」
「そうか、では仕方がない」
新兵衛はきゅっと唇をひき結ぶと、ふりかえってさっと手を挙げた。真槍の穂先をならべていた足軽たちは、それを見るなりおっ[#「おっ」に傍点]と鬨をつくって五郎右衛門に迫った。その刹那であった、つぶて[#「つぶて」に傍点]のように走せつけたお千代が、
「ああ! 待ってくださいまし」
と叫びながら、すばやく父親の前へ立ち塞がった。
「父はわたくしが申し訓します、どうか乱暴はなさらないでくださいまし。父さまお願いです、どうかお千代を可哀そうだと思って」
「はなせ、わしは五ヶ村の名代だ」
「でも父さまは殺されます」
「旦那さま!」
あとから追いついて来たのだろう、下男の太助がとびだして、お千代とともにしっかりと五郎右衛門を抱き止めた。
「ここであなたがお死になすっても、五ヶ村が助かるわけではござりません。あとのことはみんなで相談するとして、ともかくもあちらへおいでなさいまし。おーい、みんな手を貸してくれろ」
久保田の下男たちもとんで来た。五郎右衛門はなおも懸命に踏み止まろうとしたが、血気の若者たちに押えられてどうしようもなく、ずるずると向うへ引摺られて行った……。
新兵衛は顔の筋も動かさず、
「よし米を運び出せ」としずかに命じた。
お千代は、身をふるわせながら見ていた。足軽たちはどしどし蔵の戸前をあけ、米俵を運びだしては車へと積みあげる。積み終った車はすぐに表へと曳きだされて行った。
「一俵も残してはならんぞ、手間どって刻を過した、早くしろ」
新兵衛は、断乎たる口調で命じていた。
七十俵あまりの米俵が、たちまちのうちに積みだされた。そしてぜんぶの俵数を書いた郡代手形を渡すと、新兵衛は部下を促して大股に屋敷を出て行った。村人たちは茫然としてそれを見送った、蒼い顔に憎悪の眼を光らせていたが、もう誰も声をあげる者はなかった。
お千代は、彼等のあとを追った。
忿りと、疑いとが、彼女の小さな胸を緊めつけ、かき紊した。新兵衛は大股に、車と足軽の列のうしろをあるいて行く、背丈の高くたくましいその肩つきが、いまお千代にはまるで見知らぬ人のようにみえる。
「料治さま、お待ちくださいまし」
土橋の袂まで来たとき、お千代は足をはやめて追いつきながら呼びかけた。新兵衛は足を停めてふりかえった。
「……なにか用ですか」
「あなたは、あなたは」
お千代の声は哀れなほどふるえた。
「わたくしの父を、いま殺そうとなさいました」
「そうです」
新兵衛は娘の火のようにはげしい眸を、正面にかっちと受け止めてうなずいた。
「拙者は石和郡代として、役目の命ずる所に従ったまでです」
「では、本当に父を殺すおつもりだったのですか、お百姓たちから大切なお米を取り上げたうえ、そんな非道なことをなさるおつもりだったのですか」
「拙者は役目の命ずるところに従ったまでです。料治新兵衛が石和の郡代である以上、郡民は料治新兵衛の命にそむくことを許しません!」
「千代は、郡代としてのあなたに申上げているのではございません」
お千代は、哀訴するように云った。
「父がお好きな料治さま、きょうまで千代がお信じ申していた料治さまに申上げているのです、本当のことをお聞かせくださいまし。お百姓たちのお米を社倉へお取り上げになるのはどういうわけでございますか、あなたは本心から父を殺そうとなすったのですか」
新兵衛はきっ[#「きっ」に傍点]と娘の眼をみつめて、
「……お千代どの」
低く力のある声で云った。
「あなたはいま、この新兵衛を信じていたと云いましたね」
「はい申しました」
「拙者を信じながら、拙者のすることが信じられないのですか」
お千代は、膝ががくっ[#「がくっ」に傍点]となるような感動に襲われた。返事ができなかった、新兵衛はなおも娘の眼をつよくみつめていたが、
「人を信ずるということは軽率ではない筈だ、あなたにとって、いま拙者のしていることが疑わしいのなら、拙者を信じていたというあなたの眼は狂っていたのだ、ただそれだけのことですよ」
「…………」
お千代はものも云えずに立竦んでいた。新兵衛は軽く目礼したまま、車のあとを追って去った。
[#5字下げ]甲府籠城[#「甲府籠城」は中見出し]
[#10字下げ]一[#「一」は中見出し]
事は迅速に、しかも断乎としておこなわれた。石和郡代の支配下にある農家の貯蔵米は、片はしから運びだされて社倉へ納められ、三日目にはどこの蔵にも一俵の米も残ってはいなかった。
「ああ見損った、あの人間だけは見損った」
五郎右衛門は忿怒にふるえながら、われとわが不明を恥じて罵りたてた。
「甲府のお城がどうなろうと、郡代だけはわれわれの味方だと思っていた、あの男だけは無道なまねはすまいと信じていた。わしは馬鹿者だ、盲人だ、あのような人間とは夢にも知らず、娘を嫁にやろうとまで考えていた、この眼は節穴も同然だった」
五郎右衛門は、心から新兵衛が好きだった。
料治新兵衛が郡代に赴任して来てから、四年にしかならない。彼はまだ若く、二十五歳になったばかりだったが、果断と明敏な手腕を存分にふるい、たちまち郡内の治績をすばらしくあげた。しかもその治法がすべて官に薄く郡民に厚く、第一に農村の繁栄を土台としていたから、ひとり五郎右衛門だけでなく、支配下にある民たちは『名郡代』として心から信頼していたのである。
時勢は奔湍のような転変のもとにあった。その前年、すなわち慶応三年十月、徳川慶喜が大政を奉還し、大政が朝廷に復してから、天下は御一新のよろこびを迎えたと思う間もなく、伏見鳥羽の戦が起って慶喜は追捕使を受ける身上となり、諸代諸侯は徳川家のために、鉾を執って起つという評判が縦横に飛んだ。
甲府城には堀田相模守が城代として赴任する筈だったが、江戸へのがれた慶喜は寛永寺にはいって謹慎し、政権はすでに朝廷に復しているので、城代という役目が執れないというのを理由に、まだ甲府へは来ていなかった。
征東軍はすでに甲信の国境へ迫っている、領民たちはまだ和戦いずれともわからず、
――お城では合戦のつもりらしい。
――いや、将軍家のおぼしめしどおり、おとなしく城を明渡すそうだ。
そんな噂に、一喜一憂をくりかえしていた。すると二月下旬にはいって、急に甲府城から附近の農村へ手配があり、農民の貯蔵米を『兵糧』として片はしから借り上げをはじめた。
――市川の郡代で米のお借上げがはじまったぞ。
――何々村へもお借上げが来た。昨日はどこの村へ行った。
そういう飛報が、村から村へと伝わった。けれども石和郡代の支配下にある人々は、料治新兵衛が自分たちの味方だと信じていた、自分たちに餓死をさせるような、無慈悲なことはしないものと信じきっていたのである。
それがみごとに裏切られた。料治新兵衛はなんの前触れもなく、真槍をひっさげて村々にあらわれ、拒むすきもあたえず、電光石火のすばやさでさっ[#「さっ」に傍点]と貯蔵米をひきあげてしまったのだ。五郎右衛門の怒は誰よりもはげしかった、彼は新兵衛の人柄にすっかり惚れこんで、娘のお千代を娶って貰おうと、すでに縁談をすすめていたくらいである。
「わしは自分が愚者だったために、五ヶ村の人たちにとんでもない不運をあたえた、あんな人間だと知っていたら、早く米をよそへ移す手配をしたものを、残念だ」
彼は自分の馬鹿さを責め、郡代の無道を罵りつづけた。
お千代の心は宙に迷っていた。新兵衛のやりかたは、たしかに無法である。まったく日頃の人柄に似合わないやりかたの無法さについては、なんとも弁護の余地がない。しかしお千代の耳にはまざまざと新兵衛の一言が刻みつけられていた。
――拙者を信じながら、拙者のすることが信じられないのですか。
新兵衛を信じ、いや愛してさえいたお千代にとって、この一言は骨髄に徹する意味をもっていた。
あの日から三日、新兵衛の手で村々から貯蔵米がどしどし社倉へ運び去られるのを見ながら、彼女の心は怒濤に揉まれる木の葉のように、信頼と疑惧とのあいだをさ迷っていた。
かくて、三月一日の朝のことだった。
美富と日下部から名主年寄が息せき切って駈けつけ、甲府城の手代衆が、『貯蔵米お借上げ』という触れを持って、いま村々を廻っているということを知らせた。
「それはどういうわけだ」
五郎右衛門もおどろいた。
「貯蔵米は、ぜんぶ石和の社倉へ運ばれてしまったではないか」
「だからそのとおり答えたのだ、すると手代衆はうろん[#「うろん」に傍点]と思ったものか、一軒々々蔵を開かせて見廻っている、もう間もなくここへも来るにちがいない」
「待て、……ちょっと待て」
五郎右衛門は、急に膝をのりだした。
「是はうまいぞ、石和の郡代はお城の触れをさし越して米を取上げたのだ、郡代へはまだ命令が来ていないのに、料治新兵衛が独り合点でやったのだ。よし……お城から手代衆が来たのを幸い、わしが郡代にひと泡ふかせてやろう」
「なにか妙案があるか」
「やってみる、手代衆のいるところへ案内してくれ」
五郎右衛門は卒然と立った。
[#10字下げ]二[#「二」は中見出し]
石和の代官所の地続きに、七戸前のすばらしく大きな土蔵が建っている、それが『社倉』であった。
社倉は備荒貯蔵米を納めて置く倉庫で、天明七年の大饑饉のあとを受け、領内の富豪の捐金と、幕府の補助とをもって造営され、甲府城中にも清水曲輪に建てられていた。つまり凶荒変災に備えたるもので、よほどのことがないと手をつけることはゆるされない。
村々から運んで来た夥しい米を、料治新兵衛はとの社倉へ納め、戸前を閉したうえ、いま目塗りまでし終ったところであった。
「すっかり終ったか」
「はい終りました」
「手ぬかりはないだろうな」
新兵衛は、倉の周囲を入念に見て廻った。
「村かたの者はだいぶ気が荒くなっている、火をかけて焼いてしまえと云う者さえあるそうだ、その用心にぬかりがあってはならんぞ」
「水の手の用意も、決してぬかりはございません」
「よしよし、ではみんな休むがよい」
連日やすむ間もない激しい労働で、みんなくたくただった。新兵衛もようやく重荷をおろした感じで、ひと息いれようとしているところへ、下役の者がとんで来て、
「城下から与力衆がおみえです」
と知らせた。新兵衛は期していたものの如く、
「みえたか、よしすぐ会おう」
「こちらへおとおし申しましょうか」
「いや自分でまいる」
新兵衛は先に立って、代官役所のほうへ戻った。
すでに黄昏の色が濃く、あたりは夕靄でおぼろに霞んでいた。役所の門をはいったところに、与力山田権之助と海野伊八郎の二人、なにやら声高に話していたが、新兵衛が近づいて来るのを見ると満面の笑とともに、
「よう、料治、貴公やったな」
と元気な声で叫んだ。新兵衛はしずかに近よりながら、
「やったとは、なんのことだ」
「兵糧お借上げさ」
海野伊八郎が、こくっと頭を振った。
「われわれは朝から廻っているのだが、貴公の支配内へはいると、まるですっからかん、一粒も残らず積みだしたあとだという。さすがは料治新兵衛だとおどろいたところだぞ」
「実は貴公がふだん百姓びいき[#「びいき」に傍点]なのでな」
と山田権之助が、にやりとして云った。
「正面から申しては反対があろうという、隙をみて一気呵成にやれというので、きょう海野とふたり虚を衝いたわけさ、ところがさすがに締まるところは締まる、もうすっかり掠ったあとと聞いて呆れたよ」
「だが料治、気をつけぬといかんぞ」
「……なんだ」
「貴公の果断には敬服するが、百姓どもはだいぶ貴公を恨んでおる、現にさっきも五ヶ村名代の秋山五郎右衛門とやらいう者が、貴公の仕方を差越しであると云って訴訟しおった」
「そうか、……ふむ」
「拙者は一言のもとに叱りつけたが、うっかりすると闇夜に光り物がするぞ」
「……忘れないようにしよう」
新兵衛は、にこっとしてうなずいた。
「用事はそれだけか」
「いやまだ肝心なことがある」
伊八郎が、急にかたちを正して云った。
「明朝十時、甲府城中でいくさ[#「いくさ」に傍点]評定がある、刻限たがわず登城せよとのお達しだ」
「心得た」
「十時を忘れるなよ、ではまたその席で会おう」
「料治、おもしろくなるぞ」
権之助と伊八郎はそう云って高々と笑い、会釈をして黄昏の道を帰って行った。
その夜、新兵衛は久しぶりに風呂へはいり、また珍しく小酌して寝所へはいったが、いつも午前六時に起きるならわしをやぶって、その朝はいつまでも起きるようすがなかった。前日の話を耳にしていた家士が、心配していくたびか寝所を覗きに行ったけれども、彼は泰然と鼾をかいて眠っている。
しかし七時を過ぎ八時を打っても起きないので、家士はついに我慢をきらし、
「申上げます、申上げます」
と障子のそとから呼び起した。
「う、う、誰だ」
飽きるほど呼んだあとで、ようやく新兵衛の寝ぼけ声がした。
「喜右衛門にございます」
「ああ、喜右衛か、なんだ」
「さきほど八時を打ちました、ご登城なればお支度をなさいませんと、間に合わぬと存じますが」
「なに登城?……ばかな」
新兵衛はむにゃむにゃと寝ぼけ声で云った。
「登城する要はない、もう少し寝るからそっとして置いてくれ、ああいい心持だ、ううむ……」
[#10字下げ]三[#「三」は中見出し]
甲府城から、勤士柴田監物が、馬をとばして来たのは正午近い頃であった。附添いは太田市郎兵衛、西田武四郎の両人、接待部屋へとおされたが、待つこと三十分あまり、やがていま起き申し候という眼つきで新兵衛が出て来た。
「お待たせ仕って失礼」
「失礼ではないぞ!」
監物はいきなり呶声をあげた。できるだけ我慢して、我慢の緒が切れた声だった。新兵衛はべつに愕くようすもなく、けろりとして座につく、その面上へ叩きつけるように、監物は口から唾液を飛ばして喚いた。
「今朝十時、城中に於て軍評定のあることを忘れたか、山田、海野両名の者からそう申してあるはず、聞かぬとは云わさぬぞ」
「なるほど、……いや、なるほど」
新兵衛は、もっともらしくうなずいた。
「そう云われてみれば、たしかに聞いたように思いますが。失礼、拙者との四五日ぶっ続けの奔走で疲れはて、珍しく寝酒を用いましたせいか、とくと失念を仕りました、もはやその評定には間に合いませんだろうか?」
「貴公まだ酔っておるのか」
「なかなかもって、もはやかくの如く正気でございます」
「よし、正気だと申すなら、城中評定のしだいを聞かせる」
監物はかたちを正して云った。
「せんぱん、将軍家には大政奉還あらせられ、朝廷に対し奉りひたすら恭順のまことを致すといえども、薩長土その間にあってことを弯曲し、ついに追捕使を遣わさるの御悲命におちいらせたまう。われら徳川譜代の臣として君の寃を看過しがたく、あえて正邪を闕下に奏上し奉らんと欲す、――よいか」
監物ははた[#「はた」に傍点]と膝を打ってつづけた。
「この意味を以て、われら甲府勤番の士は、新撰組近藤勇どのの兵を城へ迎え、籠城し、東征軍と決戦することに決したのだ」
「ほう、近藤さんが来られますか」
「到着は両三日うちであろう、こちらとはすでに固く連絡がついておるのだ」
鳥羽伏見の戦で傷ついた近藤勇は、慶喜に迫って一戦を慫慂したが、すでに恭順の意かたき慶喜は、寛永寺にひきこもって動かない。それで甲府城の勤士柴田監物、保々忠太郎らと計って決戦の策をたて、自分は大久保大和と変名して、すでに隊士を率いて甲斐へと発向していたのである。
「拙者がここまで馬をとばして来たのは、ついさっき韮崎の番所から急使があって、土州藩の先鋒隊が小淵沢を越えたという情報を持って来た。戦備は急を要する、ついては貴公の預る社倉米をすぐ城へ移して貰いたいのだ」
「それはまたなぜです」
「むろん籠城に備えるためだ。またここに置いては敵の兵糧に遣われるからだ」
「城外の近村へお借上げを命じた米が、じゅうぶんにお城へはいっているのではありませんか、そうむやみに積込んでも、食糧あまって兵足らずではしようがないでしょう」
「わけのわからぬことを云う」
監物は苛々しながら、
「つまり、貴公は社倉米を城へ移すことに反対なのか」
「反対もくそもないですよ、社倉というものはなりたちが違うのです。むろんご存じだろうが、これは領民たちのための備荒貯蔵で、城兵の兵糧につかうべき性質のものでありません」
「なに! ……貴公、それは本気でいうのか」
「本気ですとも」
新兵衛は、にやりともせずに云った。監物にとっては夢想だもせぬ一言である。嚇と怒りがこみあげて来た、しかし監物は辛くもそれを抑えつけて、
「なるほど、社倉ほんらいのなりたちはそうかも知れぬ、しかし今はまったく非常の場合だ、甲府城の運命を賭する必至の場合だぞ、甲府城の運命はすなわち領民の運命だ、かかる時には社倉もお役にたつのが当然ではないか」
「おっしゃることはよくわかりました、それでもういちど申上げますが」
と新兵衛はしずかに云った。
「料治新兵衛は、甲府城代の命で石和郡代を勤めています。郡代として社倉を護るのは、拙者の責任です」
「では、城代副事として拙者が命ずる、社倉米をすぐに城へ移すがよい」
「郡代への命令は、城代直々に限ります」
「ではどうしてもならんと云うのだな」
「そうです」
はっし[#「はっし」に傍点]と膝を打って監物が立った、彼は忿怒の眼で新兵衛をねめおろし、ぶるぶると拳をうち振りながら叫んだ。
「重代恩顧の城を捨てても、片々たる社倉の掟を固執するのが貴公の武道か、それが幕臣としての道だと思うか、貴公それで腰の刀に恥じぬか」
「柴田さん帰りましょう」
西田武四郎が、憤然と促した。
「なにを云っても無駄です、口でわからぬやつは実力で教えるのが一番、帰って手配をするほうが早いでしょう、ゆこう市郎兵衛」
三人は席を蹴立てて去った。
[#5字下げ]国の稔り[#「国の稔り」は大見出し]
[#10字下げ]一[#「一」は中見出し]
「父さま、父さま」
息をせいて走せつけたお千代が、そう叫びながら父の居間の襖をあけると、そこには五ヶ村の名主たちが集って、なにか密談をしていたらしい、ぴたりと口をつぐんでふりかえった。
「来てはいけない、出ろ、お千代」
「いいえ、いいえ!」
お千代はつよく頭を振りながら、つかつかと部屋の中へはいって、
「みなさまの御相談にも関わりのあることです、父さま、千代は代官所へ行ってまいりました」
「なに代官所へ行った? それは」
「申しわけのないことですけれど、お城の手代衆へ料治さまを訴えて、ひと泡ふかせるとおっしゃったのを聞き、どうなったか気懸りでとてもじっとしてはいられなかったのです」
「千代! おまえそれは本当か」
「本当です、でもお聞きくださいまし」
お千代は、父の言葉をさえぎっていった。
「千代がまいったとき、ちょうど役所へお城からお使者が来ておいででした。聞いてみますと社倉の米のことなんです。お使者のおっしゃるには、土佐の先鋒軍が寄せて来るので、籠城はまぬがれないから、すぐ貯蔵米を城へ移すようにとのことでした」
「そうなることと思った」
「やはり昨夜のうちに押してゆくべきだった」
五人の名主たちが囁き交わすのを、
「お待ちくださいまし」
と、お千代を制してつづけた、
「お使者はすぐに米を運べとおっしゃいました、すると料治さまはきっぱりお断わりになったのです」
「え、え? 断わったと?」
「お断わりになったのです、料治さまは社倉のなりたちをご説明なさいました。社倉の米は領民の為の備荒貯蔵で兵糧にするものとは性質が違うとはっきりおっしゃいました」
名主たちは唖然と顔を見合せた。
お千代は感動にふるえる声で、
「父さま、わたくしたちは間違っていたのです、おわかりにならないでしょうか、料治さまが五ヶ村の米を取上げたのは、社倉へ集めて、そこで護るためだったのです。米が五ヶ村にちりじりにあっては護りとおすことが困難です、まして無力なお百姓たちが持っていては、お城からお借上げに来られた場合どうにもできません。料治さまはそれを見越して、ぜんぶを社倉へ積込んでしまったのです」
「そう云えば、昨日お城から手代衆がお借上げに廻って来たそうだ、郡代さまが取上げなくとも、昨日はお借上げになるところだった」
名主たちは坐り直した。
五郎右衛門は膝をすすめながら念を押した。
「お千代、いまの話に偽りはあるまいな」
「嘘でない証拠に、みなさまのお力を借りに帰ったのです、父さま」
お千代は息もつかずに云った。
「料治さまがお断わりになったので、お使者たちはすっかり怒り、どうやら城へ戻って人数を集めて来るようすでした」
「腕づくで社倉をあけようと云うのか」
「はっきりそう申して行きました。父さま、郡代役所では僅かな人数で社倉を護ろうとしています。わたくしたち黙って見ていてよいのでしょうか」
名主たちは、五郎右衛門を見た。郡代の本心がはじめてわかり、その危急が目前に迫っている、しかも郡代の危急は五ヶ村の米を護るためのものだ。
五郎右衛門はくっ[#「くっ」に傍点]と面をあげた。
「みなの衆、いまお聞きのとおりだ、すぐに村へ帰って若い者を集めてくださらぬか」
「よいとも、若い者には限るまい」
「そうだ! 足腰の利く者はみんな出て、郡代のお味方をするだろう」
名主たちは、一斉に立ちあがった。
「しかし騒ぎ立ててはいけない、武器も持ってはならぬ、眼立たぬようにわし[#「わし」に傍点]の家へ集めて貰いたい、刻限は暮れ六つだ」
「承知した、では六つまでに必ず……」
勇みたって行く名主たちを、見送る五郎右衛門の顔は明るく晴れあがっていた。お千代はそれを、泣きたいような幸福感でじっとみつめていた。
そのころ郡代役所では、社倉の周囲に壕を掘り、それに水を引いて万一に備える一方、役所の内部もすっかり片づけて、いつ城兵が攻め寄せてもいいように準備を急いでいた。代官手附の人数三十二人、みんな新兵衛のために一身を投げだす人々だけだった。城からはなんの沙汰もなく、宵節句の日はとっぷりと暮れた。
「おい、篝へ火をつけろ」
新兵衛の命令で、篝火があかあかと燃えだした。社倉の周囲に五ヶ所、役所の前に二ヶ所、宵闇を焦がして燃えあがる篝火は、そのまま彼等の闘志を表白するようだった。
甲府城から保々忠太郎が、十名の見知らぬ武士を伴って来たのは、およそ七時ごろのことであった。
「……来たか」
新兵衛はうなずいて出て行った。
[#10字下げ]二[#「二」は中見出し]
保々忠太郎は、小具足に身をかため、右手に鉄の鞭を持っていた。
彼はぎろりと新兵衛を見やりながら、
「柴田から貴公の存意を聞いた」
と切り口上に云った。
「いろいろ言葉のゆきちがいがあるようだ、しかし今更そんな問答をしている場合ではない。幸い近藤勇どのの隊士がみえたから、ここへご案内して来た、お互いによく話し合おうではないか」
「もう話すことはないと思いますがな」
「あるよ、大いにある」
近藤勇の隊士という十人ばかりの壮士の中から、すぐれて逞しい人物がひとり大股に前へ出て来た。
「貴公は徳川家の直臣だろう、甲府城は幕府直轄だ。よいか、はじめにそいつをはっきりさせて置く。ところで土佐軍の先鋒はもう韮崎近くまで来ておる。もうここの米を城へ運び入れる暇はない。しかしこのまま置けば、社倉の米は敵の兵糧にされてしまうだろう。貴公が甲府城勤番の士であり幕臣なら、みすみす敵を利するようなまね[#「まね」に傍点]はしない筈だ。よいか、そこでわれわれは社倉に火を放って焼却することに一決した、むろんこれなら貴公にも異存はあるまいが」
「それでわざわざお越しですか」
新兵衛は、平然として云った。
「そうだ、それでわざわざ来たんだ」
「それはお気の毒ですな」
「なに?……」
新撰組の隊士は、猪突果断を以て聞えている。はじめは田舎の郡代ごときと舐めていたのだが、この大胆な挨拶に遭って嚇となった。
新兵衛は色も変えずにつづけた。
「柴田さんに申上げたとおり、社倉の米は領民たちの備荒貯蔵です。甲府城のものでもなく、幕府の物でもありません。殊に、昨年十月、将軍におかれては大政を奉還あそばされ、国政はあげて朝廷のおん手に復しました。将軍家において深く御謹慎あそばす如く、拙者はおのれの預る社倉を護り、これを無事に維新政府へ、お引渡し申すことを責任と思います」
「だが、みすみす敵軍を利するものだぞ」
「焼き捨てることが敵の不利を決定すると思いますか」
新兵衛が、はじめて声をはりあげた。
「米は国の稔という。戦に多少の利があるにせよ、国の稔を焼きすてるような無道をして、貴公らの大義名分が立つと思いますか。これほどの道理がわからぬようでは、なにを申すもたがいの無駄だ、お帰りなさい」
「元気だな郡代、帰れというなら帰る」
相手はひきつるような笑い方をした。
「だが帰るには土産が要るぞ、くれるか」
「ご所望なれば」
「よしっ」
叫ぶとともに隊士の一人が身を沈めた、抜討ちである。身を沈めたとみるや、ぎらっと白刄が新兵衛の右胴に伸びた、しかし同時に新兵衛の体が伸びあがったと思うと、大きく上から抜討ちの剣をふりおろした。隊士の剣は新兵衛の脾腹を裂き、新兵衛の剣は隊士の頭を断ち割った。だっと、前のめりに顛倒する隊士を見て、
「やった、その郡代のがすな!」
喚きざま、ぎらりぎらりと抜きつれたときである、わあっ[#「わあっ」に傍点]という鬨をつくって、手に手に松明をふりかざした農民たちが、雪崩のように門内へ殺到して来た。
「いかん、立退け!」
保々が叫ぶまでもない、残った隊士たちはそのまま、裏手の垣を押しやぶってのがれ去った。新兵衛はそのありさまを篤と見定めた、そして意識を失って倒れた。
×××
板垣退助の先鋒、因州藩の軍監西尾遠江介が甲府城へ入ったのは、三月五日であった。これが予想以上に神速だったのと近藤勇の隊の入城が後れたために、城兵は一戦するいとまもなく敗走した。
脾腹の傷で寝ていた新兵衛のもとへその知らせを持って来たのは、五郎右衛門であった。娘の千代もいっしょだった。
「やはりそんなことでしたか」
「まったく情ない負け戦で、逃げた者も多くは捕えられたり、斬られたり、落ちのびたのは僅かな人数だと申します」
「……しかし」
と新兵衛は、低く呟くように云った。
「いずれも幕府の恩を忘れぬ人たちだった。考え方こそ誤っていたけれども、身命を惜しまぬ覚悟はあっぱれ武士だ、本当にあっぱれな人たちだった」
五郎右衛門は思わず頭を垂れた。
ひっそりと物音の絶えた春の午後、言葉のとぎれたいっときのしじまを縫って、そのとき遠くから小太鼓の音がかすかに響いて来た。
「太鼓の音がする、お千代どの」
「はい」
「障子をあけて見てください、なんです」
お千代は立って障子をあけた。街道をはるかにゆく軍馬の列、蒙々たる土煙のなかに、輝かしい錦旗を捧持しているのが見えた。
「見えますか」
「はい、官軍が東へゆくところでございます」
「東へ、……では進軍の太鼓ですね」
「錦の御旗もおがめますわ」
新兵衛は枕をどけて頭を伏せた、五郎右衛門もお千代も頭を伏せた、太鼓の音は東へ、東へ。
底本:「甲州小説集」実業之日本社
1975(昭和49)年8月20日 初版発行
1979(昭和54)年8月15日 12版発行
底本の親本:「講談雑誌」
1942(昭和17)年2月
初出:「講談雑誌」
1942(昭和17)年2月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ