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新戦場の怪
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新戦場の怪
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)中村宗吉《なかむらそうきち》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)者|中村宗吉《なかむらそうきち》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「ひっそり」に傍点]
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[#3字下げ]地下壕の怪事件[#「地下壕の怪事件」は中見出し]
「おい、眠れないのか」
「すっかり眼が冴えちまったよ」
東京合同通信社の若い記者|中村宗吉《なかむらそうきち》は、焦《じ》れったそうにごそごそと藁束の上へ起直《おきなお》った。
「何だか耳の底でまだチェッコ機銃の音がしているようだ」
「無理もないさ」
東邦日報の和田治恵は同情するように、
「ひどい激戦だったし、おまけに君はたしか第一線の戦闘に加わったのは初めてだろう――俺は上海《シャンハイ》戦が最初だったけれどあのチェッコ機銃の変に乾いたような音は忘れられなかった。カラカラカラカラ……っていうやつだ。あいつは妙に耳に残る音だよ」
「僕ぁ今度こそ討死《うちじに》だと思ったっけ」
中村青年は堙草《たばこ》を取出《とりだ》して火を点けた。
ここは中支戦線のXX部隊最前線で、最も難攻不落と云《い》われた、杏花屯《きょうかとん》である。部隊は数日来非常な苦闘激戦を繰返《くりかえ》した結果、遂《つい》に是《これ》を占領したが、続いて追撃戦に移るため、非常手段として通信部員七名と軍属を此処《ここ》に留め、部隊は果敢に進発して行った。
残されたのは非戦闘員である。然《しか》も附近には未《ま》だ敗残兵も居るし、二十七名の捕虜も檻禁《かんきん》してある。――後援部隊の到着するまで守備の任に当るのだが、その責任は重大だった。
「みんなよく睡《ねむ》っているなあ」
「馴れると君もこうなるさ、――どうしても眠れないなら外の空気を吸って来たらどうだ。今夜は月が佳《い》いぜ」
「それよりも、どうせ僕は寝られないんだから、代りに不寝番をしよう。和田君は横になったらどうだ」
「君一人で大丈夫かい」
「そんなに見縊《みくび》るなよ、これだって一昨日《おととい》の戦闘じゃ銃を執《と》って確実に十人は射斃《うちたお》しているんだぜ」
笑いながら中村は立上《たちあが》った。
もう午前一時に近い、混凝土《コンクリート》と鉄板で固めた地下壕は石油ランプの仄暗《ほのぐら》い光の下でひっそり[#「ひっそり」に傍点]と寝静《ねしずま》っている。――中村宗吉は懐中電灯を持って見廻りに出掛けた。
地下壕は五百|米突《メートル》ほどの通路と、五つの房室とから成っていた。占領前は敵の司令部があったのでその設備はすばらしいが、今は砲弾に破壊された跡や突撃戦のために突崩《つきくず》された穴が処々にあるし、天井にも壁にも鮮血の痕が生々しく、惨憺たる光景を見せている。――中村青年は房室を見て廻った。一番奥の広い部屋には二十七名の捕虜が檻禁されている。そのうち六名は将校だ。鉄格子のあいだから懐中電灯をさしつけて見ると、みんな豚のようにごろごろ寝ている。
――なんという態《ざま》だ。これが日本人なら一人も生きてはいないだろうに!
舌打をして引返《ひきかえ》すと、壕内に異常のない事を慥《たしか》めて、今度は石段を登って地上へ出て行った。
いい月夜だった。杏花屯の三方を囲む山嶺が、夜空にくっきり[#「くっきり」に傍点]と黒く見える。砲弾の炸裂した穴や、掘起《ほりおこ》された塹壕や、そして敵の遺棄し去った無数の屍《しかばね》が、月光の下に慄然《ぞっ》とするような荒涼たる風景を展開している。――二十四時間前には、そこで凄《すさま》じい白兵戦が演じられたのだ。機銃は火を吐き、砲弾は呻《うめ》き、剣は閃《ひら》めき、叫喚は地をゆるがしたのだ。……それが今はまるで、死そのものの如く鎮《しずま》りかえっている。
「――友よ!」
中村青年は思わず空を仰いで呟《つぶや》いた。
「友よ、安らかに眠れ、君たちの血と骨は、大東洋万代の礎《いしずえ》となって遺《のこ》るのだ。やがて我々も後から行くぞ、後から直《す》ぐに……」
涙がひと筋、彼の頬を伝って流れた。
遠くでけたたまし[#「けたたまし」に傍点]い犬の咆声《なきごえ》が起った。中村は本能的にポケットの拳銃《ピストル》を抜出《ぬきだ》した。――敗残兵の夜襲か? 犬の声はまるで獅子《ライオン》にでも襲われたような、物狂わしい悲鳴であった。然《しか》しそれは直ぐに聞えなくなった。そして、殆《ほとん》ど同時に、地下壕の中から、
「……誰か来いッ」と云う叫声《さけびごえ》、
「人が殺されてる」
「――怪しい奴が入ったぞ」
「みんな起きろッ」
物々しい騒ぎが聞えて来た。
中村青年は拳銃《ピストル》を握ったまま脱兎のように地下壕へとび込んだ。――寝ていた通信記者達はみんな起出して、がやがや罵り騒ぎながら檻禁室の方へ走って行く。
「どうしたんだ、何が起ったんだ」
「――捕虜が二人殺されたんだ」
「捕虜が……?」
中村も一緒に走って行った。
[#3字下げ]恐ろしき蛇身魔[#「恐ろしき蛇身魔」は中見出し]
「蛇身魔《じゃしんま》、――蛇身魔、……」
檻禁室の中では捕虜の兵卒たちが、まるで、気違いのように喚叫《わけきさけ》んでいた。――調査を終えて、部屋へ帰ってからも、捕虜たちの叫声がいつまでも中村の耳に残っていた。
何事が起ったのか?
それは言葉で表わす事の出来ぬ奇怪な事件であった。密閉された闇の檻禁室で、捕虜の将校が二人、喉を噛切《かみき》られて死んでいたのである。然も死体の額には、生々しい歯形が遺されていた。……最も奇怪なのは捕虜の兵卒たちの話で、
――やつ[#「やつ」に傍点]は地面をのたくっ[#「のたくっ」に傍点]て来た。
――蛇のように匐《は》って来た。
――蛇身の魔だ。
と口々に叫んでいた事だった。
初めは、捕虜たちの中に犯人がいると思われたが、そうで無い事は直ぐに分った。然し厳重な檻禁室だから、外から人の出入りするような処はないし、また出入りした者があるとすれば、入口の外にいた中村にみつからぬ筈《はず》はない。
「変な事件だ。気味が悪いね」
「あの歯形が眼にちらついて仕様がない」
部屋へ戻って来てからも、記者たちは妙に無気味な、落着《おちつ》かぬ気持だった。
「捕虜たちの云った蛇身の魔ッて云うのは何だろう」
「この地方の伝説なんだ」
和田治恵が云った。
「『平妖伝』にもあるし、『三国妖異志』『怪樊綺楼《かいはんきろう》』にも出ている。体か蛇で頭だけ人間の化物《ばけもの》なんだ」
「伝説は伝説だ。殺人は眼前の事実だからな」
「然し伝説が人を殺す場合もあるよ」
「まあ議論は宜《い》い」
一番|年齢《とし》かさ[#「かさ」に傍点]の石田敏夫が遮って、
「それより問題はどうして捕虜たちが『蛇身の魔』と云ったかという点だ。彼等は『やつ[#「やつ」に傍点]は地面をのたくっ[#「のたくっ」に傍点]て来た』と云った。秘密の鍵はそこにあるよ」
「そうだ、蛇のように匐って来たと慥《たしか》に云っていた」
無論それは皆も聞いたところである。――「人間の頭を持った蛇の妖怪」という伝説があるとしても、いきなり捕虜たちがそれを思出《おもいだ》したのには理由が無ければならない筈だ……然し地面をのたくっ[#「のたくっ」に傍点]て来たとは何物であろう。
「まあ朝になったら充分に調べよう」
「よく調べたら野良犬だったッてね」
「そうだと文句はないがね」
と和田治恵が物思わしげに呟いた。
「僕は、何だかそんな単純な事件ではないような気がする。理由は分らないが、是にはどこかに慄然《ぞっ》とするようなところがあるよ」
無気味な一夜が明けた。
石田敏夫を初め七人の記者たちは、朝食を済ませると直ぐ昨夜の怪事件の調べに取掛った。然し別に新しい手懸りは得られなかった。二人の将校は喉首を半分も喰切《くいき》られたうえ、額に残されている歯形は両方とも正に人間のもの[#「もの」に傍点]である。
「野良犬じゃ無いようだな」
和田治恵が死体の始末をしてから云った。
「考える事はないさ、捕虜の中の兵卒のやった事に違いないよ。奴等は日頃から将校に恨みを持っているからな」
「初めに騒ぎだしたのは奴等だぜ。――自分たちが殺したのなら、知れるまで隠し通すのが当然じゃないか。――それに将校は全部で六人もいるんだ。他の者が黙って見ている訳はないよ」
和田は強く云切って、
「兎《と》に角《かく》僕はこの附近を捜索して来る。――中村君一緒に行かないか」
「行こう、――ついでに崔《さい》の家へ握飯《にぎりめし》を持って行ってやろうか」
中村青年は和田治恵と一緒に地下壕を出た。
二人は丘を下りて部落へ入って行った。杏花屯は村としては小さなもので、三十戸程の農家があるだけだったし、戦争の始《はじま》る前に住民たちはすっかり立退いたが、唯《ただ》一軒だけ、身動きの出来ぬ病人とその老母が居残っている家があった。崔|文孚《ぶんふ》という農民で、占領すると直ぐ救助を乞いに来たから、食糧などを与えて保護していた。
二人は部落を隅々まで見廻ったが、何処《どこ》にも怪しい処を認めなかったので、崔の家へ入って行った。――其処《そこ》では今しも老母が、薬草を煎じて病人に飲ましているところだった。
「握飯を持って来てやったぞ婆さん」
和田記者は優しい調子で、
「病人の具合はどうだね」
「有難《ありがと》うございます。もう永い病気ですから同じような具合でしてねえ、……でも日本の方が来て下すったので病人もどうやら安心して養生が出来ますだ。――まあ掛けて下さいまし」
「いやそうしては居られないんだ」
「……大将さま」
病人が弱々しく呼びかけた。
[#3字下げ]深夜の笑い声[#「深夜の笑い声」は中見出し]
病人の崔は汚い毛布にくるまって、木造の古びた寝台の上に寝ている。もう十五年も寝たっきりで身動きも出来ぬという。蒼白くむくんだ、ちょっと老人とも若者とも見当のつかない顔つきであった。――大将さま[#「さま」に傍点]と云われて和田記者は苦笑しながら、
「何だね崔?」
「ゆうべ何か変った事があったでしょう?」
「……どうしてだ」
崔の意外な言葉に和田が驚いて、
「実はゆうべ夜中に捕虜の将校二名が妙な殺され方をしたんだ。よく調べたが誰の仕業《しわざ》だか全く分らない。なにか思当る事でもあるのか」
「……犬がひどく吠えました。否《いい》え、普通の吠え方ではありません。夜の魔を見るとか、猛獣に襲われたとか、そう云う時の狂ったような吠え方でした」
「それがどうしたと云うんだね」
「……犬は――魔物を見たんです」
和田はちら[#「ちら」に傍点]と中村の方を見た。中村青年は夜半《よなか》の事を思出した。地下豪の外へ出て月を見ていた時、丁度《ちょうど》あの事件の起る前に、彼もまた奇怪な犬の声を聞いたのである。
――崔の聞いたのもあれだ。
そう思った。
「魔物とは何の事だね、崔」
「蛇身の魔です。何千年この方特権者たちに苦しめられて来た、支那の土民の霊魂です。彼は決して私たちに害はしません。善良な土民を苦しめ、膏血《こうけつ》を絞る軍閥や無慈悲な金持《かねもち》たちに復讐をするのです」
「それで君はその蛇身の魔を信ずるんだね」
「……我々農民はみんな信じています。現にゆうべ、将校が殺されたと仰有《おっしゃ》ったではありませんか。証拠は既に眼前《めのまえ》にあるんです。……蛇身の魔は思う通りにやりますよ」
そう云って崔は冷やかに笑った。
外へ出てからも、二人は暫《しばら》く口をきかなかった。長い間、支配者たちから牛馬の如く酷使されて来た哀れむべき支那の民衆は、そうした伝説のうえで自分たちの味方を拵《こしら》え、憎い軍閥や悪い金持たちに復讐するという空想を作りあげ、僅《わずか》に心を慰めているのであろう。けれど無論それは何処《どこ》までも伝説であって、昨夜《ゆうべ》の事件は別に考えなければならぬ事である。
「何方《どっち》へ廻っても妖怪説ばかりだね」
中村青年が暫くして云った。
「実に支那人は怪談が好きだ」
「好くと好かぬとに拘らず、妖怪はずいぶん其処《そこ》らに存在するよ。ただ我々に理解する事の出来るものと出来ないものとの区別があるだけさ」
「では今度の事件は何方《どっち》なんだ?」
「分らない。――分らないが然し、蛇身の魔という伝説が重要な関わりを持っている事だけは確実だよ」
二人は地下壕へ帰った。
結局なにも得るところが無かったと知って、その一日はみんな妙に不安な気持で送った。そして其《その》夜は不寝番を三人に増して油断なく警戒を続けたのである。――そのためか、其夜は何事も起らなかった。ただ一度、午前二時頃に丘の下の方で無気味な犬の吠声《ほえごえ》が起り、五分間ほど気違いのように吠え狂った。
「――あの声だよ」
中村青年は、丁度一緒に不寝番をしていた和田の方へ囁《ささや》いた。
「崔が聞いたという犬の声は……」
「……妙な吠え方だ」
「実は僕もゆうべ聞いたんだ。あの事件の起る直前だった。――あれは崔の云う通り、普通の吠え声じゃないな」
「外へ出てみよう」
二人は地下壕の外へ出てみた。
犬の吠声は直ぐにやんだ。
其夜も月が冴え、そよ風もない静夜だったが、何物も見えず、何処《どこ》にも異常のある様子は無かった。――其処《そこ》にも此処《ここ》にも屍の転がっている血腥《ちなまぐさ》い新戦場で、えたい[#「えたい」に傍点]の知れぬ怪物の襲撃を待っている気持は凄いものだった。
その翌《あく》る夜の事である。宵のうちから降りだした雨が、夜半《よなか》になってもしとしとと陰気な音を立てていた。――不寝番に当っていた中村は、懐中電灯と拳銃《ピストル》を持って、壕の出口に立ったまま凝乎《じっ》と雨の音を聞いていると、和田治恵が石段を上って来た。
「下へ行って茶を飲んで来給え」
「有難う、――何時頃かね」
「いま二時を打ったよ」
「今夜も無事に終るらしいな。今まで何事もないところをみると」
「そうだと宜いがね」
和田がそう云った時、二十|米突《メートル》ほど先の闇のなかで不意に、
――ひひひひ、ふふふふ。
と云うような笑声《わらいごえ》が起った。――初めは犬の遠吠のようだった。然しそれは慥《たしか》に人間の笑声だ。然も狂人の噎泣《むせびな》くような、骸骨を叩くような乾いた声であった。
[#3字下げ]不思議な濡れ跡[#「不思議な濡れ跡」は中見出し]
二人は水を浴びたように、慄然《ぞっ》としながら立竦《たちすく》んだ。と殆ど同時に、地下壕の中からけたた[#「けたた」に傍点]ましく、
「みんな来て呉れ、人が殺されてるぞ」
「出口を見張れッ」という叫声が起った。
「――やった!」
和田は呻くように云いながら壕の中へ走り降りる。むろん中村もそれに続いた。
事件は再び檻禁室で行われた。捕虜の将校が又も二人殺されたのだ。然も同じように喉を噛切られ、額には歯形が残っていた。
「蛇身の魔です」
捕虜たちは口々に叫んだ。
「やつ[#「やつ」に傍点]は闇の中を匍って来ました。――其方《そっち》の方から、……みんな聞いていました。やつ[#「やつ」に傍点]は笑いながら去って行きました」
「そうです。やつ[#「やつ」に傍点]は笑いながら、其方《そっち》へ去って行きました」
和田と中村青年は顔を見合せた。彼等もその笑声を聞いたのである。――更《さら》に捕虜たちが「其方《そっち》へ去った」と指差した処を調べると、床の上を何か濡れた物を引摺ったような、びしょびしょした跡が檻禁室の一隅まで続いていた。
「――何だろう、その濡れた跡は?」
「まるで蛇でも匍ったようじゃないか」
記者たちは気味悪げに眉を顰《ひそ》めた。
和田治恵は中村を促して檻禁室を出た。彼の顔は強く引緊《ひきしま》り、その眼は物思わしげに眤《じっ》と空《くう》をみつめていた。――二人は地下壕の出口まで黙って出た。
「あの笑声だね」
「――そうだ」
「あの時追いかけたら……」
そう云いかけて、中村青年は思わずあとの言葉をのん[#「のん」に傍点]だ。――追いかけて行って、雨の闇の中で相手を捉えたとして、それが若《も》し人間の頭を持った蛇の妖怪であったら……そういう想像が頭に閃めいたのだ。
「どうも、段々と伝説が事実になって来るようだ。君はあの濡れた跡をどう思う?」
「やつ[#「やつ」に傍点]が通った跡さ」
「然しあれは足で歩いた跡じゃないぜ」
中村青年は相手の意見を探るように行った。
「慥《たしか》に! 足で歩いた跡じゃない」
「とすると……?」
「君の云う通りだよ、伝説の再生だ。――やつ[#「やつ」に傍点]が何者であるかは分らない。然し捕虜たちの云ったように、やつ[#「やつ」に傍点]は匍って来たのだ。そしてまたやって来るよ」
「だが我々が狙われる心配は無さそうだな」
「恐らくね……然し」
云いかけて和田は闇の向うを覗くようにした。――雨の中を誰かが走って来るのだ。
「誰だ! 停れッ」
和田は拳銃《ピストル》の安全錠をあけながら叫んだ。
「大変です」
ずぶ濡れになって走って来た人影が、ひきつるような声で叫んだ
「早く支度をして下さい。敗残兵がやって来ます」
「崔の婆さんだな?」
「そうです」
駈けつけて来たのは崔の老婆だった。
「敗残兵というのは本当かい」
「いま村へ入って来たところです。よくは分りませんが百人くらい居ましょうか、みんな鉄砲や機関銃を持っています」
「よく知らせて呉《く》れた。有難う」
和田と中村は壕の中へ馳下《かけお》りた。
「敗残兵の夜襲、戦闘準備」
「戦闘準備」
七名は即座に壕の機関銃座へ就《つ》いた。
それは実に危い刹那だった。彼等が射撃用意を終るか終らぬ内に、先《ま》ず北向の闇を衝《つ》いて凄《すさま》じい銃声が起った。
「射つな、まだ射つな」
実戦に経験の深い石田敏夫は、中央の機銃を執《と》りながら叫んだ。
「充分ひきつけてから一薙《ひとな》ぎにやるんだ。弾丸《たま》を大切にしろ、まだだぞ」
敵の射撃は次第に烈《はげ》しくなった。銃眼から見ると闇の中に閃発《せんぱつ》する銃火が潮の寄せるように近寄って来る。機銃の射撃も聞え始めた。然し壕内は満を持して射たない。――それが敵には戦意なしと思えたのであろう。やがて彼等は西側へ西側へと廻りつつどっ[#「どっ」に傍点]と鬨声《ときのこえ》をあげなから突撃して来た。
「今だッ、射て」
石田敏夫が叫んだ。
七台の機銃は一斉に火を吹いた。
この一斉射撃は成功した。先頭に立って来た二三十人が将棋倒しに薙倒《なぎたお》されると、敗残兵たちは忽《たちま》ち雪崩《なだれ》をうって退却した。――然しそれで終ったのではない。彼等は五百|米突《メートル》ほど退却すると、曾《かつ》て日本軍の築いた塹壕の中へ入って執拗に射撃を続けた。
「射撃止め、然し位置を離れるな」
石田敏夫が大声で喚いた。
[#3字下げ]果して蛇身の魔[#「果して蛇身の魔」は中見出し]
夜明けと共に雨は晴れた。――然し敗残兵は塹壕の中に踏止《ふみとどま》って、絶えず狙撃をしていたし、隙さえあれば突撃して来る気配を見せていた。
後援部隊の来るまでは、石に噛《かじ》りついても其処《そこ》を死守しなければならない。みんなの顔には、決死の色があった。……然も其夜、そうした危険の中で、三度《みたび》妖しい殺人事件が起ったのである。――それは午前一時少し前のことだった。交代で少しずつ休む番に当ったので中村青年と和田治恵が房室へ入って冷えた茶を飲んでいると、不意に檻禁室の方で、
「きゃ――ッ」という悲鳴が聞《きこ》えた。一昼夜というもの殆ど不眠不休で戦った二人だったが、その悲鳴を耳にすると同時に、はっ[#「はっ」に傍点]と例の事件を思出し、
「あ! またやったぞ」
と叫びながら弾かれたように立上った。そして二人が檻禁室へ馳《か》けつけると、捕虜たちは気違いのように廊下の一部を指差しながら、
「其方《そっち》へ行きました、蛇身の魔が」
「彼処《あそこ》です」
「其方《そっち》へ、そら彼処《あそこ》にのたくっ[#「のたくっ」に傍点]て」
と喚き叫んでいた。
中村青年が懐中電灯をさしつけた。――廊下の隅に何か蠢《うごめ》いている物が見えた。それは恐ろしい恰好の物だった。頭は慥《たしか》に人間である。然し腰から下は棒のように細長いまるで巨《おお》きな蛇の姿そのままのものだ。それが両手で床を這いながら、無気味にのたくっ[#「のたくっ」に傍点]ているのである。……中村青年は骨まで凍るような恐怖を感じ、
「蛇だ、蛇だ!」
と叫びながら、思わず拳銃《ピストル》をあげて射った。一発、二発!
「あ射つなッ」と和田が止めようとした時、妖怪は喉の引裂けるような悲鳴と共に、くたりと床の上へのめっていた。……そして、殆ど同時に、廊下の向うから、狂気のように叫びながら、一人の老婆が走《は》せつけて来て、
「崔や、崔や――ッ」
と倒れている妖怪を抱起《だきおこ》した。――それは崔家の老婆であった。……意外な事はそれ許《ばか》りではない。二人が近寄って行って見ると、その妖怪はあの病人の崔文孚であったのだ。
「是はどうした訳なんだ」
和田治恵は茫然としながら訊《き》いた。
「崔のこの体は……?」
「可哀そうな子です、この体を御覧下さいまし。決して生れつきの片輪ではありません。小さい時に私たちが困って蘇州の方の大金持の家へ売ったのですが、それが鬼のような奴で、この子の二本の足を縫合《ぬいあわ》せて『人間の蛇』を作ったのです。ただ自分の慰みのためにです」
支那の富豪たちが、慰物《なぐさみもの》にするため、子供を壺の中に入れたまま育てて、小人の奇形児を作るという話は有名だ。そういう悪富豪の惨虐《ざんぎゃく》さが、崔を人間蛇にしたのである。
「五年まえに、崔は家へ帰されて来ました。そして寝たっきりで外へも出られずにいたのです。崔は世間を呪いました。殊《こと》に悪い軍人や無慈悲な金持を呪い続けていました。――そして今度日本の人たちが比処《ここ》を占領し、捕虜が捉《つかま》っていると聞くと、どうしても復讐するのだと云って肯《き》かず……夜中に匍って来ては将校を噛殺していたのです。――でも矢張《やは》り人を殺した罰は罰です。斯《こ》うして死にましても決して私は恨みには思いません。是で宜《よ》かったのです。是でこの子も、もう人を呪う必要もなく静かに眠ることが出来ましょう……可哀そうな子――」
奇《く》しくも哀れな話である。中村青年も和田も、痛ましさに慰めの言葉が無かった。
――伝説が人を殺す場合もある。
曾《かつ》て和田治恵はそう云った。
意味は多少違っても、慥《たしか》にこの事件はその一つであった。惨酷無比な富豪のために、半身を蛇にされた崔は、生きながら伝説の「蛇身の魔」になって、悲しき復讐を行ったのであった。
「そうだ、伝説の再生だ」
和田は嘆息するように云った。
「蛇身の魔という伝説は、無智な土民のなかに生きている。哀れな、無力な土民たちは、是からもその伝説を信じて疑わないだろう。……支那がこんな状態でいる限りはな」
「そうだ、そしてこんな状態を叩き直すのは我々日本人の役目なんだ」
中村青年が力強く叫ぶように云った。
その時、遠くの方で凄じい銃声が起り、続いて壕中をゆるがすような歓声がどよみあがった。
何事かと思って二人は身を翻えして機銃座の方へ馳上《かけあが》って行った。
「後援部隊が来たぞ」
皆は口々に喚いていた。
「部隊だ部隊だ」
「万歳、――見ろ敗残兵は全滅だ」
「万歳、万歳」
中村も和田も銃眼から頭をさし出して見た。到着した後援部隊が、今しも塹壕中の敗残兵を掃討しているところだった。――その閃々《せんせん》たる銃火こそ、杏花屯を死守した七名の眼には天来の祝火のように見えた。
時はこれ、昭和十X年九月十二日の夜半二時十分であった。
底本:「山本周五郎探偵小説全集 第三巻 怪奇探偵小説」作品社
2007(平成19)年12月15日第1刷発行
底本の親本:「少年少女譚海」
1939(昭和14)年10月
初出:「少年少女譚海」
1939(昭和14)年10月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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《》:ルビ
(例)中村宗吉《なかむらそうきち》
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[#3字下げ]地下壕の怪事件[#「地下壕の怪事件」は中見出し]
「おい、眠れないのか」
「すっかり眼が冴えちまったよ」
東京合同通信社の若い記者|中村宗吉《なかむらそうきち》は、焦《じ》れったそうにごそごそと藁束の上へ起直《おきなお》った。
「何だか耳の底でまだチェッコ機銃の音がしているようだ」
「無理もないさ」
東邦日報の和田治恵は同情するように、
「ひどい激戦だったし、おまけに君はたしか第一線の戦闘に加わったのは初めてだろう――俺は上海《シャンハイ》戦が最初だったけれどあのチェッコ機銃の変に乾いたような音は忘れられなかった。カラカラカラカラ……っていうやつだ。あいつは妙に耳に残る音だよ」
「僕ぁ今度こそ討死《うちじに》だと思ったっけ」
中村青年は堙草《たばこ》を取出《とりだ》して火を点けた。
ここは中支戦線のXX部隊最前線で、最も難攻不落と云《い》われた、杏花屯《きょうかとん》である。部隊は数日来非常な苦闘激戦を繰返《くりかえ》した結果、遂《つい》に是《これ》を占領したが、続いて追撃戦に移るため、非常手段として通信部員七名と軍属を此処《ここ》に留め、部隊は果敢に進発して行った。
残されたのは非戦闘員である。然《しか》も附近には未《ま》だ敗残兵も居るし、二十七名の捕虜も檻禁《かんきん》してある。――後援部隊の到着するまで守備の任に当るのだが、その責任は重大だった。
「みんなよく睡《ねむ》っているなあ」
「馴れると君もこうなるさ、――どうしても眠れないなら外の空気を吸って来たらどうだ。今夜は月が佳《い》いぜ」
「それよりも、どうせ僕は寝られないんだから、代りに不寝番をしよう。和田君は横になったらどうだ」
「君一人で大丈夫かい」
「そんなに見縊《みくび》るなよ、これだって一昨日《おととい》の戦闘じゃ銃を執《と》って確実に十人は射斃《うちたお》しているんだぜ」
笑いながら中村は立上《たちあが》った。
もう午前一時に近い、混凝土《コンクリート》と鉄板で固めた地下壕は石油ランプの仄暗《ほのぐら》い光の下でひっそり[#「ひっそり」に傍点]と寝静《ねしずま》っている。――中村宗吉は懐中電灯を持って見廻りに出掛けた。
地下壕は五百|米突《メートル》ほどの通路と、五つの房室とから成っていた。占領前は敵の司令部があったのでその設備はすばらしいが、今は砲弾に破壊された跡や突撃戦のために突崩《つきくず》された穴が処々にあるし、天井にも壁にも鮮血の痕が生々しく、惨憺たる光景を見せている。――中村青年は房室を見て廻った。一番奥の広い部屋には二十七名の捕虜が檻禁されている。そのうち六名は将校だ。鉄格子のあいだから懐中電灯をさしつけて見ると、みんな豚のようにごろごろ寝ている。
――なんという態《ざま》だ。これが日本人なら一人も生きてはいないだろうに!
舌打をして引返《ひきかえ》すと、壕内に異常のない事を慥《たしか》めて、今度は石段を登って地上へ出て行った。
いい月夜だった。杏花屯の三方を囲む山嶺が、夜空にくっきり[#「くっきり」に傍点]と黒く見える。砲弾の炸裂した穴や、掘起《ほりおこ》された塹壕や、そして敵の遺棄し去った無数の屍《しかばね》が、月光の下に慄然《ぞっ》とするような荒涼たる風景を展開している。――二十四時間前には、そこで凄《すさま》じい白兵戦が演じられたのだ。機銃は火を吐き、砲弾は呻《うめ》き、剣は閃《ひら》めき、叫喚は地をゆるがしたのだ。……それが今はまるで、死そのものの如く鎮《しずま》りかえっている。
「――友よ!」
中村青年は思わず空を仰いで呟《つぶや》いた。
「友よ、安らかに眠れ、君たちの血と骨は、大東洋万代の礎《いしずえ》となって遺《のこ》るのだ。やがて我々も後から行くぞ、後から直《す》ぐに……」
涙がひと筋、彼の頬を伝って流れた。
遠くでけたたまし[#「けたたまし」に傍点]い犬の咆声《なきごえ》が起った。中村は本能的にポケットの拳銃《ピストル》を抜出《ぬきだ》した。――敗残兵の夜襲か? 犬の声はまるで獅子《ライオン》にでも襲われたような、物狂わしい悲鳴であった。然《しか》しそれは直ぐに聞えなくなった。そして、殆《ほとん》ど同時に、地下壕の中から、
「……誰か来いッ」と云う叫声《さけびごえ》、
「人が殺されてる」
「――怪しい奴が入ったぞ」
「みんな起きろッ」
物々しい騒ぎが聞えて来た。
中村青年は拳銃《ピストル》を握ったまま脱兎のように地下壕へとび込んだ。――寝ていた通信記者達はみんな起出して、がやがや罵り騒ぎながら檻禁室の方へ走って行く。
「どうしたんだ、何が起ったんだ」
「――捕虜が二人殺されたんだ」
「捕虜が……?」
中村も一緒に走って行った。
[#3字下げ]恐ろしき蛇身魔[#「恐ろしき蛇身魔」は中見出し]
「蛇身魔《じゃしんま》、――蛇身魔、……」
檻禁室の中では捕虜の兵卒たちが、まるで、気違いのように喚叫《わけきさけ》んでいた。――調査を終えて、部屋へ帰ってからも、捕虜たちの叫声がいつまでも中村の耳に残っていた。
何事が起ったのか?
それは言葉で表わす事の出来ぬ奇怪な事件であった。密閉された闇の檻禁室で、捕虜の将校が二人、喉を噛切《かみき》られて死んでいたのである。然も死体の額には、生々しい歯形が遺されていた。……最も奇怪なのは捕虜の兵卒たちの話で、
――やつ[#「やつ」に傍点]は地面をのたくっ[#「のたくっ」に傍点]て来た。
――蛇のように匐《は》って来た。
――蛇身の魔だ。
と口々に叫んでいた事だった。
初めは、捕虜たちの中に犯人がいると思われたが、そうで無い事は直ぐに分った。然し厳重な檻禁室だから、外から人の出入りするような処はないし、また出入りした者があるとすれば、入口の外にいた中村にみつからぬ筈《はず》はない。
「変な事件だ。気味が悪いね」
「あの歯形が眼にちらついて仕様がない」
部屋へ戻って来てからも、記者たちは妙に無気味な、落着《おちつ》かぬ気持だった。
「捕虜たちの云った蛇身の魔ッて云うのは何だろう」
「この地方の伝説なんだ」
和田治恵が云った。
「『平妖伝』にもあるし、『三国妖異志』『怪樊綺楼《かいはんきろう》』にも出ている。体か蛇で頭だけ人間の化物《ばけもの》なんだ」
「伝説は伝説だ。殺人は眼前の事実だからな」
「然し伝説が人を殺す場合もあるよ」
「まあ議論は宜《い》い」
一番|年齢《とし》かさ[#「かさ」に傍点]の石田敏夫が遮って、
「それより問題はどうして捕虜たちが『蛇身の魔』と云ったかという点だ。彼等は『やつ[#「やつ」に傍点]は地面をのたくっ[#「のたくっ」に傍点]て来た』と云った。秘密の鍵はそこにあるよ」
「そうだ、蛇のように匐って来たと慥《たしか》に云っていた」
無論それは皆も聞いたところである。――「人間の頭を持った蛇の妖怪」という伝説があるとしても、いきなり捕虜たちがそれを思出《おもいだ》したのには理由が無ければならない筈だ……然し地面をのたくっ[#「のたくっ」に傍点]て来たとは何物であろう。
「まあ朝になったら充分に調べよう」
「よく調べたら野良犬だったッてね」
「そうだと文句はないがね」
と和田治恵が物思わしげに呟いた。
「僕は、何だかそんな単純な事件ではないような気がする。理由は分らないが、是にはどこかに慄然《ぞっ》とするようなところがあるよ」
無気味な一夜が明けた。
石田敏夫を初め七人の記者たちは、朝食を済ませると直ぐ昨夜の怪事件の調べに取掛った。然し別に新しい手懸りは得られなかった。二人の将校は喉首を半分も喰切《くいき》られたうえ、額に残されている歯形は両方とも正に人間のもの[#「もの」に傍点]である。
「野良犬じゃ無いようだな」
和田治恵が死体の始末をしてから云った。
「考える事はないさ、捕虜の中の兵卒のやった事に違いないよ。奴等は日頃から将校に恨みを持っているからな」
「初めに騒ぎだしたのは奴等だぜ。――自分たちが殺したのなら、知れるまで隠し通すのが当然じゃないか。――それに将校は全部で六人もいるんだ。他の者が黙って見ている訳はないよ」
和田は強く云切って、
「兎《と》に角《かく》僕はこの附近を捜索して来る。――中村君一緒に行かないか」
「行こう、――ついでに崔《さい》の家へ握飯《にぎりめし》を持って行ってやろうか」
中村青年は和田治恵と一緒に地下壕を出た。
二人は丘を下りて部落へ入って行った。杏花屯は村としては小さなもので、三十戸程の農家があるだけだったし、戦争の始《はじま》る前に住民たちはすっかり立退いたが、唯《ただ》一軒だけ、身動きの出来ぬ病人とその老母が居残っている家があった。崔|文孚《ぶんふ》という農民で、占領すると直ぐ救助を乞いに来たから、食糧などを与えて保護していた。
二人は部落を隅々まで見廻ったが、何処《どこ》にも怪しい処を認めなかったので、崔の家へ入って行った。――其処《そこ》では今しも老母が、薬草を煎じて病人に飲ましているところだった。
「握飯を持って来てやったぞ婆さん」
和田記者は優しい調子で、
「病人の具合はどうだね」
「有難《ありがと》うございます。もう永い病気ですから同じような具合でしてねえ、……でも日本の方が来て下すったので病人もどうやら安心して養生が出来ますだ。――まあ掛けて下さいまし」
「いやそうしては居られないんだ」
「……大将さま」
病人が弱々しく呼びかけた。
[#3字下げ]深夜の笑い声[#「深夜の笑い声」は中見出し]
病人の崔は汚い毛布にくるまって、木造の古びた寝台の上に寝ている。もう十五年も寝たっきりで身動きも出来ぬという。蒼白くむくんだ、ちょっと老人とも若者とも見当のつかない顔つきであった。――大将さま[#「さま」に傍点]と云われて和田記者は苦笑しながら、
「何だね崔?」
「ゆうべ何か変った事があったでしょう?」
「……どうしてだ」
崔の意外な言葉に和田が驚いて、
「実はゆうべ夜中に捕虜の将校二名が妙な殺され方をしたんだ。よく調べたが誰の仕業《しわざ》だか全く分らない。なにか思当る事でもあるのか」
「……犬がひどく吠えました。否《いい》え、普通の吠え方ではありません。夜の魔を見るとか、猛獣に襲われたとか、そう云う時の狂ったような吠え方でした」
「それがどうしたと云うんだね」
「……犬は――魔物を見たんです」
和田はちら[#「ちら」に傍点]と中村の方を見た。中村青年は夜半《よなか》の事を思出した。地下豪の外へ出て月を見ていた時、丁度《ちょうど》あの事件の起る前に、彼もまた奇怪な犬の声を聞いたのである。
――崔の聞いたのもあれだ。
そう思った。
「魔物とは何の事だね、崔」
「蛇身の魔です。何千年この方特権者たちに苦しめられて来た、支那の土民の霊魂です。彼は決して私たちに害はしません。善良な土民を苦しめ、膏血《こうけつ》を絞る軍閥や無慈悲な金持《かねもち》たちに復讐をするのです」
「それで君はその蛇身の魔を信ずるんだね」
「……我々農民はみんな信じています。現にゆうべ、将校が殺されたと仰有《おっしゃ》ったではありませんか。証拠は既に眼前《めのまえ》にあるんです。……蛇身の魔は思う通りにやりますよ」
そう云って崔は冷やかに笑った。
外へ出てからも、二人は暫《しばら》く口をきかなかった。長い間、支配者たちから牛馬の如く酷使されて来た哀れむべき支那の民衆は、そうした伝説のうえで自分たちの味方を拵《こしら》え、憎い軍閥や悪い金持たちに復讐するという空想を作りあげ、僅《わずか》に心を慰めているのであろう。けれど無論それは何処《どこ》までも伝説であって、昨夜《ゆうべ》の事件は別に考えなければならぬ事である。
「何方《どっち》へ廻っても妖怪説ばかりだね」
中村青年が暫くして云った。
「実に支那人は怪談が好きだ」
「好くと好かぬとに拘らず、妖怪はずいぶん其処《そこ》らに存在するよ。ただ我々に理解する事の出来るものと出来ないものとの区別があるだけさ」
「では今度の事件は何方《どっち》なんだ?」
「分らない。――分らないが然し、蛇身の魔という伝説が重要な関わりを持っている事だけは確実だよ」
二人は地下壕へ帰った。
結局なにも得るところが無かったと知って、その一日はみんな妙に不安な気持で送った。そして其《その》夜は不寝番を三人に増して油断なく警戒を続けたのである。――そのためか、其夜は何事も起らなかった。ただ一度、午前二時頃に丘の下の方で無気味な犬の吠声《ほえごえ》が起り、五分間ほど気違いのように吠え狂った。
「――あの声だよ」
中村青年は、丁度一緒に不寝番をしていた和田の方へ囁《ささや》いた。
「崔が聞いたという犬の声は……」
「……妙な吠え方だ」
「実は僕もゆうべ聞いたんだ。あの事件の起る直前だった。――あれは崔の云う通り、普通の吠え声じゃないな」
「外へ出てみよう」
二人は地下壕の外へ出てみた。
犬の吠声は直ぐにやんだ。
其夜も月が冴え、そよ風もない静夜だったが、何物も見えず、何処《どこ》にも異常のある様子は無かった。――其処《そこ》にも此処《ここ》にも屍の転がっている血腥《ちなまぐさ》い新戦場で、えたい[#「えたい」に傍点]の知れぬ怪物の襲撃を待っている気持は凄いものだった。
その翌《あく》る夜の事である。宵のうちから降りだした雨が、夜半《よなか》になってもしとしとと陰気な音を立てていた。――不寝番に当っていた中村は、懐中電灯と拳銃《ピストル》を持って、壕の出口に立ったまま凝乎《じっ》と雨の音を聞いていると、和田治恵が石段を上って来た。
「下へ行って茶を飲んで来給え」
「有難う、――何時頃かね」
「いま二時を打ったよ」
「今夜も無事に終るらしいな。今まで何事もないところをみると」
「そうだと宜いがね」
和田がそう云った時、二十|米突《メートル》ほど先の闇のなかで不意に、
――ひひひひ、ふふふふ。
と云うような笑声《わらいごえ》が起った。――初めは犬の遠吠のようだった。然しそれは慥《たしか》に人間の笑声だ。然も狂人の噎泣《むせびな》くような、骸骨を叩くような乾いた声であった。
[#3字下げ]不思議な濡れ跡[#「不思議な濡れ跡」は中見出し]
二人は水を浴びたように、慄然《ぞっ》としながら立竦《たちすく》んだ。と殆ど同時に、地下壕の中からけたた[#「けたた」に傍点]ましく、
「みんな来て呉れ、人が殺されてるぞ」
「出口を見張れッ」という叫声が起った。
「――やった!」
和田は呻くように云いながら壕の中へ走り降りる。むろん中村もそれに続いた。
事件は再び檻禁室で行われた。捕虜の将校が又も二人殺されたのだ。然も同じように喉を噛切られ、額には歯形が残っていた。
「蛇身の魔です」
捕虜たちは口々に叫んだ。
「やつ[#「やつ」に傍点]は闇の中を匍って来ました。――其方《そっち》の方から、……みんな聞いていました。やつ[#「やつ」に傍点]は笑いながら去って行きました」
「そうです。やつ[#「やつ」に傍点]は笑いながら、其方《そっち》へ去って行きました」
和田と中村青年は顔を見合せた。彼等もその笑声を聞いたのである。――更《さら》に捕虜たちが「其方《そっち》へ去った」と指差した処を調べると、床の上を何か濡れた物を引摺ったような、びしょびしょした跡が檻禁室の一隅まで続いていた。
「――何だろう、その濡れた跡は?」
「まるで蛇でも匍ったようじゃないか」
記者たちは気味悪げに眉を顰《ひそ》めた。
和田治恵は中村を促して檻禁室を出た。彼の顔は強く引緊《ひきしま》り、その眼は物思わしげに眤《じっ》と空《くう》をみつめていた。――二人は地下壕の出口まで黙って出た。
「あの笑声だね」
「――そうだ」
「あの時追いかけたら……」
そう云いかけて、中村青年は思わずあとの言葉をのん[#「のん」に傍点]だ。――追いかけて行って、雨の闇の中で相手を捉えたとして、それが若《も》し人間の頭を持った蛇の妖怪であったら……そういう想像が頭に閃めいたのだ。
「どうも、段々と伝説が事実になって来るようだ。君はあの濡れた跡をどう思う?」
「やつ[#「やつ」に傍点]が通った跡さ」
「然しあれは足で歩いた跡じゃないぜ」
中村青年は相手の意見を探るように行った。
「慥《たしか》に! 足で歩いた跡じゃない」
「とすると……?」
「君の云う通りだよ、伝説の再生だ。――やつ[#「やつ」に傍点]が何者であるかは分らない。然し捕虜たちの云ったように、やつ[#「やつ」に傍点]は匍って来たのだ。そしてまたやって来るよ」
「だが我々が狙われる心配は無さそうだな」
「恐らくね……然し」
云いかけて和田は闇の向うを覗くようにした。――雨の中を誰かが走って来るのだ。
「誰だ! 停れッ」
和田は拳銃《ピストル》の安全錠をあけながら叫んだ。
「大変です」
ずぶ濡れになって走って来た人影が、ひきつるような声で叫んだ
「早く支度をして下さい。敗残兵がやって来ます」
「崔の婆さんだな?」
「そうです」
駈けつけて来たのは崔の老婆だった。
「敗残兵というのは本当かい」
「いま村へ入って来たところです。よくは分りませんが百人くらい居ましょうか、みんな鉄砲や機関銃を持っています」
「よく知らせて呉《く》れた。有難う」
和田と中村は壕の中へ馳下《かけお》りた。
「敗残兵の夜襲、戦闘準備」
「戦闘準備」
七名は即座に壕の機関銃座へ就《つ》いた。
それは実に危い刹那だった。彼等が射撃用意を終るか終らぬ内に、先《ま》ず北向の闇を衝《つ》いて凄《すさま》じい銃声が起った。
「射つな、まだ射つな」
実戦に経験の深い石田敏夫は、中央の機銃を執《と》りながら叫んだ。
「充分ひきつけてから一薙《ひとな》ぎにやるんだ。弾丸《たま》を大切にしろ、まだだぞ」
敵の射撃は次第に烈《はげ》しくなった。銃眼から見ると闇の中に閃発《せんぱつ》する銃火が潮の寄せるように近寄って来る。機銃の射撃も聞え始めた。然し壕内は満を持して射たない。――それが敵には戦意なしと思えたのであろう。やがて彼等は西側へ西側へと廻りつつどっ[#「どっ」に傍点]と鬨声《ときのこえ》をあげなから突撃して来た。
「今だッ、射て」
石田敏夫が叫んだ。
七台の機銃は一斉に火を吹いた。
この一斉射撃は成功した。先頭に立って来た二三十人が将棋倒しに薙倒《なぎたお》されると、敗残兵たちは忽《たちま》ち雪崩《なだれ》をうって退却した。――然しそれで終ったのではない。彼等は五百|米突《メートル》ほど退却すると、曾《かつ》て日本軍の築いた塹壕の中へ入って執拗に射撃を続けた。
「射撃止め、然し位置を離れるな」
石田敏夫が大声で喚いた。
[#3字下げ]果して蛇身の魔[#「果して蛇身の魔」は中見出し]
夜明けと共に雨は晴れた。――然し敗残兵は塹壕の中に踏止《ふみとどま》って、絶えず狙撃をしていたし、隙さえあれば突撃して来る気配を見せていた。
後援部隊の来るまでは、石に噛《かじ》りついても其処《そこ》を死守しなければならない。みんなの顔には、決死の色があった。……然も其夜、そうした危険の中で、三度《みたび》妖しい殺人事件が起ったのである。――それは午前一時少し前のことだった。交代で少しずつ休む番に当ったので中村青年と和田治恵が房室へ入って冷えた茶を飲んでいると、不意に檻禁室の方で、
「きゃ――ッ」という悲鳴が聞《きこ》えた。一昼夜というもの殆ど不眠不休で戦った二人だったが、その悲鳴を耳にすると同時に、はっ[#「はっ」に傍点]と例の事件を思出し、
「あ! またやったぞ」
と叫びながら弾かれたように立上った。そして二人が檻禁室へ馳《か》けつけると、捕虜たちは気違いのように廊下の一部を指差しながら、
「其方《そっち》へ行きました、蛇身の魔が」
「彼処《あそこ》です」
「其方《そっち》へ、そら彼処《あそこ》にのたくっ[#「のたくっ」に傍点]て」
と喚き叫んでいた。
中村青年が懐中電灯をさしつけた。――廊下の隅に何か蠢《うごめ》いている物が見えた。それは恐ろしい恰好の物だった。頭は慥《たしか》に人間である。然し腰から下は棒のように細長いまるで巨《おお》きな蛇の姿そのままのものだ。それが両手で床を這いながら、無気味にのたくっ[#「のたくっ」に傍点]ているのである。……中村青年は骨まで凍るような恐怖を感じ、
「蛇だ、蛇だ!」
と叫びながら、思わず拳銃《ピストル》をあげて射った。一発、二発!
「あ射つなッ」と和田が止めようとした時、妖怪は喉の引裂けるような悲鳴と共に、くたりと床の上へのめっていた。……そして、殆ど同時に、廊下の向うから、狂気のように叫びながら、一人の老婆が走《は》せつけて来て、
「崔や、崔や――ッ」
と倒れている妖怪を抱起《だきおこ》した。――それは崔家の老婆であった。……意外な事はそれ許《ばか》りではない。二人が近寄って行って見ると、その妖怪はあの病人の崔文孚であったのだ。
「是はどうした訳なんだ」
和田治恵は茫然としながら訊《き》いた。
「崔のこの体は……?」
「可哀そうな子です、この体を御覧下さいまし。決して生れつきの片輪ではありません。小さい時に私たちが困って蘇州の方の大金持の家へ売ったのですが、それが鬼のような奴で、この子の二本の足を縫合《ぬいあわ》せて『人間の蛇』を作ったのです。ただ自分の慰みのためにです」
支那の富豪たちが、慰物《なぐさみもの》にするため、子供を壺の中に入れたまま育てて、小人の奇形児を作るという話は有名だ。そういう悪富豪の惨虐《ざんぎゃく》さが、崔を人間蛇にしたのである。
「五年まえに、崔は家へ帰されて来ました。そして寝たっきりで外へも出られずにいたのです。崔は世間を呪いました。殊《こと》に悪い軍人や無慈悲な金持を呪い続けていました。――そして今度日本の人たちが比処《ここ》を占領し、捕虜が捉《つかま》っていると聞くと、どうしても復讐するのだと云って肯《き》かず……夜中に匍って来ては将校を噛殺していたのです。――でも矢張《やは》り人を殺した罰は罰です。斯《こ》うして死にましても決して私は恨みには思いません。是で宜《よ》かったのです。是でこの子も、もう人を呪う必要もなく静かに眠ることが出来ましょう……可哀そうな子――」
奇《く》しくも哀れな話である。中村青年も和田も、痛ましさに慰めの言葉が無かった。
――伝説が人を殺す場合もある。
曾《かつ》て和田治恵はそう云った。
意味は多少違っても、慥《たしか》にこの事件はその一つであった。惨酷無比な富豪のために、半身を蛇にされた崔は、生きながら伝説の「蛇身の魔」になって、悲しき復讐を行ったのであった。
「そうだ、伝説の再生だ」
和田は嘆息するように云った。
「蛇身の魔という伝説は、無智な土民のなかに生きている。哀れな、無力な土民たちは、是からもその伝説を信じて疑わないだろう。……支那がこんな状態でいる限りはな」
「そうだ、そしてこんな状態を叩き直すのは我々日本人の役目なんだ」
中村青年が力強く叫ぶように云った。
その時、遠くの方で凄じい銃声が起り、続いて壕中をゆるがすような歓声がどよみあがった。
何事かと思って二人は身を翻えして機銃座の方へ馳上《かけあが》って行った。
「後援部隊が来たぞ」
皆は口々に喚いていた。
「部隊だ部隊だ」
「万歳、――見ろ敗残兵は全滅だ」
「万歳、万歳」
中村も和田も銃眼から頭をさし出して見た。到着した後援部隊が、今しも塹壕中の敗残兵を掃討しているところだった。――その閃々《せんせん》たる銃火こそ、杏花屯を死守した七名の眼には天来の祝火のように見えた。
時はこれ、昭和十X年九月十二日の夜半二時十分であった。
底本:「山本周五郎探偵小説全集 第三巻 怪奇探偵小説」作品社
2007(平成19)年12月15日第1刷発行
底本の親本:「少年少女譚海」
1939(昭和14)年10月
初出:「少年少女譚海」
1939(昭和14)年10月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ