HEART GOES ON ◆gry038wOvE
元の世界への帰還の瞬間、花咲つぼみの頭に次々と浮かんだのは、本来、バトルロワイアルに連れて来られた彼女にはあるはずのない記憶だった。
ブラックホールを通して粒子空間に入り、膨大な記憶と情報が雪崩のように頭に舞い込んでくる。
──地球の砂漠化。
──デューンとの決戦。
──後の時代のプリキュアたちとの出会い、交流。
(これは……)
つぼみがバトルロワイアルに巻き込まれた後──いや、もっと言えば、“つぼみがバトルロワイアルに巻き込まれなかった場合の世界”のその後の話であった。誰が与えるわけでもなく、湧き出るように──しかし、彼女の頭の中には、微弱な負担をかけながら、そんな記憶たちが生まれてくる。
やがて、身体的にも、その期間における成長分だけ、微かに彼女の身長・体重・スリーサイズ・髪や爪の長さ・健康状態などが修正されていった。それにより、“その時代”にいても大きな違和感のない形になっていく。
この世界において連れ去られた参加者の内、最も遠い時代──桃園ラブが連れ去られた未来の時間軸の数日後が、つぼみの帰るべき世界の“今”だった。つぼみが連れて来られる直前の記憶は、誰にとっても遠い過去へと変わっていくのである。
彼女は、まるでタイムスリップするように自分の未来へと帰っていく事になるのだが、彼女自身もそこまでの自分の記憶と身体的変化を取り戻しており、その結果、あまり大きな違和感を覚える事もなく、時代に適応できる形に変わっていった。
(ゆりさん……)
自然と更新されていく記憶の中には、このバトルロワイアルで持った疑問を解決する物もあった。──月影ゆりとサバーク博士とダークプリキュアの事も、つぼみの目の前で繰り広げられた戦いの記憶として再生されたのである。その実感が、つぼみの中に湧きあがる。
確かにそれは、つぼみが経験したはずのない出来事であったが、この環境につぼみを適合させる為、本来つぼみが持つべき記憶を世界が与えていったのだ。
殺し合いに巻き込まれた自分と、巻き込まれなかった自分──同じ時間の中で二つの記憶が混在していく。確かに矛盾はしているが、いずれも、真実であった。
そして、その中でつぼみは、自分が帰る世界にはもう、えりかやいつきやゆりは絶対に存在しない事を──元々、希望を持ってはいなかったものの、そこで完全に知る事になった。
──テッカマンブレードの世界の住人がそうであったように、彼女たちは元の世界の帰還と同時に、“最終時間軸”の世界に統一される現象が起こったのだ。
桃園ラブも、蒼乃美希も、山吹祈里も、東せつなも、ノーザも、花咲つぼみも、来海えりかも、明堂院いつきも、月影ゆりも、ダークプリキュアも、クモジャキーも、サラマンダー男爵も、元々この一つの世界の別の時間軸から連れ去られた身である。
もし、誰か一人がどこかの時間軸で連れて来られた場合、その時点で、その人物が行方不明になった世界が展開されなければ不自然な事になってしまうだろう。しかし、先に誘拐された人物以外の他の参加者たちは全くその記憶を持っていなかった。
それでも、彼女たちは、間違いなく同一世界の人間たちであった。
一人の不在で歴史が修正されていく前にまた別の参加者が同じ世界から連れて来られたのだ。世界や歴史そのものがベリアルたちの暴挙に対応する事ができなかったのである。
その結果、この世界の住人たちは──“誰かがいなくなった世界”と“ある日突然全員が一斉に消えるまで正常に進んでいた世界”の二つの記憶を持つ事になった。中には、そのせいで起きた世界の混乱で復活したテッカマンオメガやテッカマンダガーのような者もいる。
とにかく、こうして、つぼみは、“ここで戦い続けた記憶”と、“変身ロワイアルに招かれた記憶”の、本来同居するはずのない二つの記憶を持つ事になったが、その仕組みを理解せずとも、「何故かそうなっている」というくらいで、あまり疑問には持たなかった。
これも、彼女自身、この世界を構成する物の断片として、どこかで理解しているせいなのかもしれない。
(……みんな)
──確かに昨日、つぼみはバトルロワイアルの最中にあった。
こちらの世界での様々な出来事が遠い過去の事として蘇っていくが、あの戦いは確かに昨日の事だという実感は残っている。──しかし、つぼみの中に平穏な時はなかった。
響良牙や、蒼乃美希、佐倉杏子、左翔太郎、涼邑霊、涼村暁、レイジングハート……などといった仲間たちと、血祭ドウコクとの共闘と、別れ。
石堀光彦を救えず、結局はダークザギとして葬った無念。
これはちゃんと消えずに、胸の中に秘められていた。
──遂に、彼女は、自分のいた世界に戻る事になった。
◆
つぼみは、自分の世界に帰ってきて間もなく、かつて、初めてプリキュアに変身した丘の上に転送された。
どこかから、小鳥の鳴き声が聞こえた。──そういえば、あの殺し合いの現場には、小動物などいなかった。こんな鳴き声を聞くのは久々で、それがまた帰って来た実感を彼女の中に強くする。
「良牙さん……」
殺し合いが終わり、あそこで共に戦った仲間たちの姿が自分の周りにない事を知って、つぼみの胸中には微かな寂しさも湧きでていた。
思い返せば、良牙たちに、ちゃんとした挨拶が出来なかったな……と、少し感傷的な気分になり始めていた。空を見上げ、自分たちを送ったであろう場所を見つめてみるが、そこにはもう彼女たちを異世界に送る事ができるブラックホールは消えていた。
良牙から貰ったバンダナを、つぼみは強く握りしめた。
……だが、そんなノスタルジーを覚えられるのも、束の間の話であった。
まずはここがどこなのかを知っておく必要があると思い、つぼみはフェンスの外から見下ろせる町を見る事になった。そしてその時、彼女はその異変に気づいた。
一応、見下ろしている景色は希望ヶ花市のそれであるのは、自分が通う私立明堂学園の校舎が遠くに見える事からもわかる。
──だが、街の様相は大きく異なっていた。
明堂学園の周囲には、人が集まっており、祖母の話に聞いていた「学生運動」のデモのような光景が広がっている。
それに──
「──あれは……一体?」
街に浮かんでいる巨大な電子モニター。そこで映し出されているのは、殺し合いが行われている真っ最中に何度か見た光景。
知らない映像もある。──そう、たとえば、“ゆり”が“えりか”を殺害するまさにその瞬間の映像。
知っている映像も映っている。──そう、たとえば、良牙とあかねの戦いの時の映像。
しかし、どうして──何故、そんな映像がこの街の中で堂々と発信されているのだろう。
つぼみの中に、この上なく厭な予感が芽生え始めている。彼女は息を飲む。
『──ベリアル帝国に属する皆さんには、このゲームの生還者・蒼乃美希、佐倉杏子、涼邑零、血祭ドウコク、花咲つぼみ、左翔太郎、響良牙、およびその仲間の捜索、確保──あるいは殺害をして頂きます』
つぼみがその異様な光景に気圧され、背筋を凍らせながらそれを見ていれば、加頭と同じ白い詰襟服を着た、眼鏡の中年男性がそんな事を宣告する。何やら、変身ロワイアルの第二ラウンドとして、そんな提案をしているらしい。
「──どういう事ですか……変身ロワイアルって……!?」
……だが、つぼみには何が何だかわからない。
あの悪夢の殺し合いは終わったのではないか。
だからこうして帰って来られたのではないか。
そして何より、あの戦いは、つぼみたちの胸の中にだけ秘められたものではないのか。
「まさか……」
──しかし、考えてみれば、このゲームの主催者はまだ生きている。異世界の異なる時間軸から人間たちを拉致し、あらゆるオーバーテクノロジーや魔力の道具を与え、島や建造物まで用意して殺し合いをさせる事ができる強大な存在が。
その時、サラマンダー男爵の言葉がつぼみの脳裏に浮かんだ。
『いや、主催の目的はこの殺し合いがどう転がろうが、もうじき達成されるんだ』
『……何があっても、お前たちの所為じゃない。お前たちは、状況を見て正しい行動をし続けた。それだけは言っておく』
主催の目的──それは、殺し合いそのものにはない?
変わる、という事が、あそこに集められた人間の共通点だった……?
……そんな事をつぼみも考えていたのを思い出す。
では、この支配こそが主催の目的であり、あそこでつぼみたちが変身して戦う事が、何らかの形でこの世界の今の現状に繋がったという事だろうか。
それが、「変身ロワイアル」──変わっていく者たちの、変身者たちのバトルロワイアル。
そして──ここでもまた、それが行われている。参加させられた者同士の殺し合い、バトルロワイアルが終わり、ゲームの生還者を狙う「バトルロアイアルⅡ」が始まったのだ。
「じゃあ、まだ……あの戦いは、終わってなんていなかった……?」
そうだ、今のこの生還も彼らからの施しに過ぎない事を忘れていた。
──今は、花咲つぼみたちを追い詰めるまで、この戦いは終わらない。そんな仕組みが構築されている。
ずっと、肝心な事を忘れていた気がする。いや、忘れようとしていたのだ。ほんの少しだけでも休息を取ろうとしていた。外の世界に出てさえいれば、そこから先の戦いの存在をしばらく考えなくても良いような気がしていた。
だが、つぼみたちは、無力になって外の世界に放り出されたのだ。
勝利はしていない。──あれは、敵側の“譲歩”だ。
「……そんな」
自分のいるべき世界が、その野望に巻き込まれているという事をつぼみは悟った。
ここにいる人々が侵略され、それぞれ自分の生活をしながらも、否応なしに殺し合いの観戦をして、つぼみたちを捕える為のゲームに参加させられている。
そんな、あってはならない日常が繰り広げられている世界。──どんなに記憶を遡っても、彼女の世界がそんな風だった事はない。
だが、人々がこんな支配下に置かれる環境について、一つだけつぼみは心当たりがあった。
管理国家ラビリンスである。──そう、それはかつて、メビウスが支配し、統一する世界の名であった。
この世界の人々の記憶にも、その名は新しい事だろう。人々のFUKOを原動力に支配を続けた悪の組織。──殺し合いならば、FUKOを集めるには最適である。
かつて現れた際、ラビリンスそのものはフレッシュプリキュアによって撃退されたが、その原理で人を支配できるという法則はこの世界に残り続けている。
ただし、インフィニティさえあればの話だが……いや、それをおそらく手にしたのだろう。
ともかく、ラビリンスと同じだ。よく目を凝らして見れば、人々の恰好も、黒いタイツに身を包み、妙に規則的に遠く、街を歩きだしているようだった。
先ほどのモニターの言葉と照らし合わせるならば、このラビリンスと同じ支配を行っているのは、「ベリアル帝国」だ。
初めて聞く名前ではない。あの殺し合いの主催者たちの組織だ。──今、つぼみの中で様々なロジックが繋がってくる。
「また戦わなきゃいけないなんて……!!」
────つぼみは、自分が掴んでいた柵に支えられながら、少しだけ力を失い、へたり込んだ。
◆
つぼみは、呆然としながらも、自分の知っている場所が気になり街を彷徨っていた。
つぼみの両親や祖母は、えりかの両親や姉は、いつきの家、ゆりの家、学校のみんなは──今、どうしているのだろう。コッペ様やシプレやコフレは……。
身近な人たちが、この世界でどうしているのかが気になった。
誰もいない町に降りて、なるべく人の目を避けるようにしてつぼみは歩いていく。
意外にも、丘の近くのほとんどの路地には、人影は全くなかった。もしかすると、人々はどこか一点に集められている為かもしれない。とにかく、つぼみがどれだけ堂々と歩いていても、街には人気がなかったのである。
真昼にこの活気のなさは異様だったが、つぼみはただふらふらと歩いていた。
「……お父さん、お母さん、ふたば……」
そして、見知った通りに出たのを気づき、しばらくすると、つぼみの目の前には、二つの商店の姿があった。
HANASAKIフラワーSHOPと、その隣にある来海家の家──服飾店フェアリードロップの二店舗だ。だが、HANASAKIフラワーSHOPの様子は違った。
この一角で、その一軒だけが、何者かによって、店内を踏み荒らされ、外のガラスが割られ、鉄骨が潰され、そして、全てが崩されていたのである。──いや、何者かと言う言い方は適切ではなく、おそらくは何名かの人間の手による物だ。
「……酷い……酷すぎます……」
もしかすると、人間の手による物ではないほど、叩き潰されている。ショベルカーでも使わない限り無理だが、この周辺をそんな物が通った様子はなかった。
しかし、実際のところ、つぼみにとっては、誰がどうしたのか、その方法は何なのか……などというのは、どうでも良かった。
「私……どうしたら……」
──ここは、つぼみの帰るべき場所だったのだ。
壊した者の正体が掴めないというのも恐ろしいし、同時に、そこにいたはずの家族の姿が見えないのもつぼみの胸を締め付けた。
これから自分はどうすればいいのだろう……。
「まさか……みんな……!」
つぼみの中に巡る嫌な想像──。
つぼみの自宅が壊されているという事は、生還者の身内を狙っている可能性が高い。もしかしたら、両親やふたばは──。
つぼみは、慌てて、今はそこに誰もいないと思い、呆然としながらも、自分の家に帰ろうとした……。ドアですらなくなったHANASAKIフラワーSHOPのドアの前に立つ。
中の花たちは建物に押しつぶされ、萎れていた。プランターからこぼれた土が床中に散乱している。
つぼみの両親が売る大事な花たちが誰かに荒らされたのである。
「捕えろォーッ!!!」
そうして言い知れない悲しみと不安感に言葉を失っていた時、どこからともなく聞こえた野太い男性の声。
「!?」
見ると、そちらにいたのは、白い詰襟姿の男たちであった。
そう、加頭や先ほどの男同様の服装をした集団──財団X。
彼らがベリアルの侵略を手伝い、外世界の支配に一役買っているのである。
「──っ!!」
──そうか。これは、囮だったのだ。
と、つぼみは今この瞬間に気づく事になった。
先ほどのモニターの情報がすっかり頭の中から飛んでいた。いわば、つぼみたちは指名手配犯と同じ状況だ。
あの殺し合いから脱出した者は外の侵略世界では罪人として捕えられようとしている。
冷静に考えれば、そんなつぼみがこの世界でまずどこに向かいたがるのかは明白であり、彼女たちを捕えたい者たちが自宅に張りこむのは定石の策である。
つぼみの家の周囲に人がいなかったのは、ここまでつぼみをおびき寄せる為に違いない。
つぼみは、変身しようと、ココロパフュームとこころの種を取りだした。あのバトルロワイアルに参加させられていた反動だろうか、つぼみはいつもより迅速にそれを取りだし、装填する事ができた。
「プリキュア・オープンマイハート!!」
いつものように、叫ぶ。──が。
彼女の身体は、この時、キュアブロッサムには変身しなかった。
財団Xの構成員たちも、彼女が変身しようとするのを許してしまっただけに、一瞬焦ったようだが、彼女が何らかの事情で変身できないと知ると、躊躇なく飛びかかった。
「どうして……っ!? 変身できません……っ!」
彼らは、つぼみの両脇を固めるようにして捕える。
軽く捻るような動作も入れたため、つぼみの神経に痛みが走った。
人の正しい捕え方を知っているようである。
「くっ……!」
慌てて、自力で振りほどこうとするが、二人の屈強な成人男性に両腕を捕えられて抵抗する力はつぼみにはなく、抵抗すれば腕に痛みが走るような形になっている。だいたい、それを振りほどいたところで、視界に入っている残り十名ほどの財団Xの連中に対処する方法はつぼみにはない。
彼らはすべて、無感情に任務を遂行しようとしているようだ。──たとえ、目の前にいるのが年端もいかない少女であっても。
「離してください……っ!!」
「大人しくしろっ! 花咲つぼみだな……? 我々と来てもらう!」
ここは大人しく捕えられるしかないのだろうか……。
いや、だとして、その先には何がある?
良い事は決してない……おそらくは、殺害されるだろう。だが、抵抗の術はない。
まさか、こんな所で──と、つぼみが希望を失いかけた時であった。
「──何だ、貴様は……!?」
財団Xの誰かが、何かを見て驚いたように叫んだ。
次の瞬間、──驚くべき事に、つぼみの左腕を掴んでいた財団X構成員の身体が遥か前方に吹き飛んだのである。
つぼみの身体にも、何かが彼を突き飛ばした衝撃が伝導される。
更に、つぼみの身体の自由を奪っていたもう一人も、誰かが蹴り飛ばしてくれた。
他の構成員たちも慌てふためくが、彼らもすぐにたった一撃で撃退される。所詮は、変身道具を持っただけの屈強な人間に過ぎなかったらしい。
「つぼみ……やっぱり、まずはここに来ると思ってた」
──そう。
つぼみを捕えようとする者たちがここに来るならば、つぼみを守ろうとする者もここに来るという必然があった。
それは、つぼみがかつて会った知り合いの姿だ。
そして、この殺し合いにおいても何度か、つぼみは彼の事を思い出す機会があった人物であった。
「……オリヴィエ!」
フランスで出会った人狼(ルーガルー)の少年・オリヴィエだったのである。
あの殺し合いに加担していたサラマンダー男爵を慕っていた彼が、つぼみを助けてくれたのだ。
「今は……とにかく逃げよう! つぼみやえりかの家族は大丈夫……みんな、学校で戦ってるんだ!」
オリヴィエは、つぼみを抱き上げ、この付近の建物の屋根の上まで飛び上がった。オリヴィエの言葉で、つぼみはほっと胸をなで下ろす。
すると、屋根と屋根とを駆け、地上にいる管理下の人々たちには届かないよう、あっという間にそこから離れて行ってしまった。
◆
──私立明堂学園。
かつてこの世界のプリキュアに助けられ、この映像によりプリキュアの正体を知った人々は、ここに立てこもり、力がないなりの戦いを見せていた。
ひとたび校門の外を見れば、そこには、財団Xの構成員や、管理下の人々、そして、この街を何度も襲撃してきた砂漠の使徒のデザトリアンやスナッキーたちが囲んでいる。
ここに立てこもった人々は、二日に渡ってここで生活している。学校内で暮らすというのは、普段ならばワクワクもする話かもしれないが、状況が状況で、殆どは浮かない顔だった。
花咲つぼみの祖母──花咲薫子は、職員室のブラインド越しに外の様子を見ていた。彼女の周囲には、プリキュアのパートナーである妖精たちが浮いている。
シプレ、コフレ、ポプリ……今だ、微弱でも元気があるのはパートナーを失っていないシプレだけであった。他は妖精でありながらもこころの花が枯れる直前という次元である。
「この学校も時間の問題かしら……」
薫子が見ているのは、校庭に立っている、薫子のパートナー妖精・コッペ様である。
彼は、そのファンシーで愉快にも見える外見とは裏腹に、妖精の中でも屈指の実力者である。彼が、この場所に強力な結界を張り、この学校一帯だけを守護していた。
それでも、バトルロワイアルが行われていた二日間ずっとここに結界を張りっぱなしであった為、彼の力も限界に近い所まで来ているらしい。無表情な彼があまり見せない、怒りと苦渋の表情になりつつある。
シプレ、コフレ、ポプリも何度か力を貸そうとしたが、未熟な彼らの力ではコッペの力には敵わず、結界を手伝えるだけの力はなかった。──だいたい、パートナーを喪ったコフレとポプリは、本来の力を出せるような精神状態ではない。
(頑張って……今はあなただけが、ここにいるみんなの全てを背負ってるの……)
先ほどまで、校庭に出て、外に向けて石を投げ、抗議の旗を振るう生徒もいた。
花咲つぼみ、来海えりか、明堂院いつき、月影ゆりの友人やクラスメイトがその殆どである。先生たちが彼らの身に危険が及ぶ可能性を恐れて、それをやめさせたのはつい一時間前の話だ。抗議の証であるプラカードや旗はいまだ外に向けて立てかけられている。
彼らに限らず、この学校に立てこもり、世界に対する抗議活動を続けるのは、そうした一度デザトリアン化した生徒たち、それからプリキュアたちに助けられた事がある街の人々であった。
それぞれの胸に悲しみや驚きは膨れ上がっている。しかし、管理には屈しない。
『こんな事でめげてたら、プリキュアたちに──つぼみやえりかや会長に笑われちゃうよ』
そう、それでも、戦おうとする意志が彼らにはあったのだ。
かつて砂漠化したこの街でも、ここにいる人々は戦い続けた。
いや、かつてより多くの人がこの学校に集い、戦おうとしている。
外で管理されている人々の中にもきっと何かが芽生え始めている。──それがわかっているから、コッペもいつも以上に力を尽くしてくれている。
「──花咲さん。訊きたい事があるのですが、よろしいですか?」
ふと、つぼみの担任である鶴崎が、後ろから、どこか心配そうな顔で薫子に声をかけた。振り向いて、薫子は、疲弊している彼女の全身を眺める事になった。この人は、まるで男性のように快活で、竹を割ったような性格で生徒に接する、女性から見てもどこか恰好の良いタイプの先生であったが、この時ばかりは塩らしい表情である。
本当は、抗議活動に積極的な部分もあったが、やはり生徒の身に危険が及ぶよりはやめさせる道を選んだのだろう。
転校以来、長くつぼみの担任をしてきた彼女である。あのバトルロワイアルでは、自分のクラスの生徒──えりかを喪った。そして、つぼみも今、生還したとはいえ狙われており、まだ中学生の生徒たちもここで戦おうとしている。
これ以上生徒を失いたくない気持ちと、それから、つぼみやえりかがここで巻き込まれてきた戦いへの強い反発心とが纏めきれていないのかもしれない。
しかし、その両方ばかりを考えていたところ、ある疑問に辿り着き、やがて、彼女はこうして、薫子にある質問をぶつける事になった。
「つぼみさんやえりかは、どうして、私たちにプリキュアである事を黙って来たんでしょう」
親族である薫子を前に、「つぼみさん」という呼び方をする鶴崎であるが、本来は「花咲」「つぼみ」と呼び捨てにしてフランクに接していた。
それも何となく、薫子は察している。彼女の事は何度かつぼみたちに聞いたからだ。
精神が露わになるようなこの切迫した状況でも、そうした大人な面を崩さないのは、彼女が信頼に値する立派な社会人だという証でもある。
「……つぼみさんは、まだわかります。でも、目立ちたがりのえりかまで私たちに黙って、プリキュアとして戦い続けたなんて……信じられません」
プリキュアの全てを知った鶴崎は、プリキュアたちの彼女を知っている数少ない人物である薫子に、それを訊いた。彼女たち四人に加え、薫子もプリキュアであった事は、彼女たちの家族たちでさえ知らなかった事実だ。
だから、あのモニターによって、彼女たちがプリキュアだと知った時、衝撃と共にあらゆる想いが鶴崎の胸中を駆け巡った。
──私は、彼女たちの教師でありながら、彼女たちに守られてきたのか。
──私は、何も気づけなかった。教師失格だ……。
しばらく、ずっとそう思っていた。プリキュアたちの親も同じ事を考えたかもしれない。
彼女たちが今直面している問題を支える事ができなかったのだ。それを行うのは大人の責任であるはずなのだが、逆に自分たちが子供に支えられていた。
それが歯がゆく、二日前のえりかの死と共に、鶴崎を苦しめていた。もしかすれば、同じ役割をするのが自分だったなら、あの殺し合いに巻き込まれるのは生徒ではなく、自分だったのではないかと──何故、あの子たちだったのだ、と。
薫子は、そんな鶴崎に向けて、顔色を変えずに言った。
「──それは、プリキュアである事が周囲にわかってしまうと、大変な事が起きるからです」
「大変な事?」
「あなたも、つぼみやえりかの教師なら本当は気づいているはずでしょう? 彼女たちが何のために戦っているのか……何を守りたくて戦ってきたのか。それは、誰かにプリキュアとして褒めてもらう為でも、敵を倒す為でもありません」
そう言われても、鶴崎にはぴんと来なかった。
それは自分が未熟なせいなのだろうか、と少し思い悩む。薫子の何気ない「つぼみやえりかの教師なら」という言い方が、彼女の心を逆に締め付ける事になった。鶴崎は、それだけでは何もわからなかったからだ。
わかるのは……今の今まで、自分は何にも気づけていなかった、という事だ。このまま教師を続けて良いのだろうか、とも思う。
生徒が大事な戦いをしている時、鶴崎は一体何をしていたのだろう。本当に彼女たちを思いやっていたか? 学校に通いながら戦い続ける彼女たちに、もっと特別な配慮をするべきではなかったか? と。
そんな彼女たちの気持ちがわからなかったが、鶴崎はもう一度、考えた。確か、つぼみはあのゲームの最中、こんな事を言っていて、そして、何度も敵を救おうとしていた。
だから──、こう告げる。
「人のこころの花を守る為……ですか?」
「いいえ。確かにそれもそうですけど、決してそれだけじゃないんですよ」
結果は撃沈である。それがまたショックを与える。自分は常に的外れで、生徒の気持ちを本当に理解できていないような気がした。
そして、薫子の放つ妙な貫禄は、全てを知った上で話しているようで、だからこそ鶴崎もそれがつぼみの真意だと納得せざるを得なかった。
人のこころを守る為ではないとするならば、本当に鶴崎は検討もつかなかった。必死に頭を悩ませるが、鶴崎にはそれがわからず、教師としての自分のあり方もわからなくなってきていた。
……やがて、少しだけ時間を空けて、薫子が、その答えを鶴崎に教えた。
「彼女たちは、何より、自分自身の大切な日常を守る為に戦っているんです」
──鶴崎は、その言葉を聞いて、はっと、何かに気づいたように顔を見上げた。
薫子は、決して険しい顔はしていない。彼女はその先を、続けた。
「だから、プリキュアである事を明かしてしまえば、プリキュアではない──花咲つぼみとして、来海えりかとしての大切な日常を壊す事になってしまう……」
そうだ……。彼女たちは、プリキュアではなく、それ以前に、この学校の一人の生徒だった。そして、誰かの娘であり、誰かの友人であり、誰かの教え子なのだ。プリキュアになるまでは、本当にそれだけの関係だったはずである。
だが、もし、こうしてプリキュアになって……それが周りに事が明かされた時、その平穏な関係性は、ある別のフィルターによって崩れる事になる。
そう、“守ってくれる誰か”と、“守ってもらえる誰か”の二つの存在になってしまうのだ。──それが、彼女たちの求める日常を一斉に崩してしまう。
彼女たちは恩を売っているわけではないのに、鶴崎は彼女たちに恩を感じて、彼女たちを一人の生徒として扱う事ができなくなってしまう。
「……彼女たちにとっては、それが一番大変な事なんです」
だから、彼女たちは、全て黙っていたのだ。
決して、進んでプリキュアになったわけではない。彼女たちは、本来普通の日常を歩みたいのに、それを、明かしてしまえば壊れてしまうかもしれない。
それが、彼女たちにとって、最も恐ろしい事だったのだ。
薫子に言われる前にそれに気づいてしまった鶴崎は、彼女の言葉を耳に通さずに涙を垂らしていた。
──やはり、気づいているではないか。
と、薫子は思い、微笑みかけた。全く彼女たちの事を知ろうとしていなければ、薫子の最初の言葉だけで何かに気づけるはずはない。
「鶴崎先生。私は、あなたが二人の担任で良かったと思います。だから、どうか……彼女たちが自分を守ってくれていたなんて思わないでいてください。彼女たちはあなたのヒーローじゃなくて、あなたの生徒でいたいんです」
いつか、つぼみたちに関わった人たちには、これを教えていく必要があるだろう。
彼女たちが本当に望んでいるもの──明日からの日常について。
そして、ここにいる人たちは、また変わっていく。つぼみたちのように、誰かの心を知って、それを認めて前に進んでいく事ができるはずだ。
「そうでしたか……」
「ええ」
「……ありがとう、ございます」
これが終わったら辞職する事も考えていたが、鶴崎はそれを取りやめる事にした。
これからも教師を続けていかなければならない。えりかはいないかもしれないが、つぼみや、ここにいる彼女のクラスメイトたちとともに。
今も、彼女のクラスだけは誰一人欠ける事なく、この学校に来ている。制服を着用している人までいるほどだ。
鶴崎はハンカチを片手に、廊下へ出ていった。
「……えりかのバカ……そんな事ないって……みんな、お前にいつも通りに接してくれるって、……みんな、いつも通りに笑ってくれるお前を待ってるって……私が教えてやる前に、なんで死んじまうんだよ……」
だが、鶴崎のこころはどこか救われたが、その一方で、そこで救われない感情も湧きで来るのだった。
それでも……薫子は、そんな鶴崎の後ろ姿に目をやって、これで良いと思っている。
薫子は、また、少し外を見た。僅かばかり視線を上にあげた。
(……えりか。あなた、本当に良い先生を持ったわね)
だが、薫子の胸に、少し何とも拭いきれない気持ちが残るのも事実だ。
そう。えりかの命を奪ったのが誰なのか、という事。──それは、この場においては一つの禁則事項となっていた。
誰も、ここでそれについて多くは語らない。
加害者の名前を全員が知っているはずでありながら、誰も口に出そうとはしなかった。
もしかすると、多くの人にとっては事情を鑑みて許せる話であっても、誰かの胸には、“月影ゆり”への恨みが湧きでているのかもしれない……。
鶴崎も──あるいは薫子自身もそうだが、ゆりに対して沈黙する態度に、どうも、尾を引くものを感じざるを得ないのだ。
◆
オリヴィエとつぼみは、学校から少し離れた裏山の小さな洞窟の中にいた。
裏山はともかく、そこにこんな場所があるなど、つぼみも全く知らなかったが、オリヴィエは、まるで土地勘があるかのように、その洞窟の奥へと進んでいく。
「どうしてこんな所に……?」
「直接学校に行くのは無理だ。ここに抜け道があるからそれを通って行く」
「いつの間にそんな物を……」
「一週間前、この街に来て徹夜で作ったんだ。学校に集まる事は、この街のみんなにも伝えてあったから……」
学校の周囲が隙間なく包囲されていた為、校庭に侵入するにはオリヴィエが掘り出した地下通路を通る必要がある。コッペの結界は悪意を持つ者だけを拒む為、つぼみやオリヴィエはそこから出入りできるらしいが、やはり地上からは無理だ。
ただ、出入りの為に出来上がったその場所は、通路といっても、それはまるで脱獄囚が掘り出した抜け穴のような物だ。
姿勢を低くして土の中を二十分這う事でしか目的地にたどり着けないという、女子中学生には非常にきつい場所だった。
中は暗く、蒸し暑く、空気も悪い。場合によっては、虫が出る。当たり前に土だらけになるし、今のつぼみは髪留めをしていないので、髪の中に大量の泥が混ざるかもしれない。
実際に校舎に立てこもる事になったこの二日間、比較的小柄な男子生徒が外に食料や備品を調達する為に使っていたが、彼らも片道で音をあげ、往復して帰らなければならない時には少し躊躇もしていた。
しかし、つぼみも、家族や知り合いに会いたければ他に道はない。
「……わかりました。ここを行きます」
……オリヴィエが折角作ってくれた抜け道だ。
たとえ環境が多少悪くとも、ここを通る事で家族や友達にまた会う事が出来る──そんな希望への道なのだ。
つぼみは、多少のデメリットを踏まえても、ここを通るべきであった。
「ただ……オリヴィエ。一つだけ良いですか?」
だが、この暗い道を通る前に、つぼみはオリヴィエに一つ言いたい事があった。オリヴィエが、なんとなく要件を察して、振り向いた。
「さっきから少し、険しい顔をしていますけど……やっぱり、男爵の事を考えていたんですか? だとすれば、私は言わなければならない事があります」
それはオリヴィエにとって、予想通りの質問だった。
オリヴィエは、元々サラマンダー男爵と共に旅をしている身だった。しかし、ある日、突然サラマンダー男爵は彼の前から姿を消し、再び目にした時には、管理世界のモニターで、殺し合いの放送を人々に向けて発していたのである。
……それを知ったオリヴィエのショックは並の物ではなかっただろう。
少し躊躇った後、オリヴィエは、自ずと湧き出る怒りを噛み殺そうとしながら言った。
「……ボクは、もう男爵はあんな事はしないと思ってた。でも、それは違ったんだ。父さんだと思って慕っていたのに……なのに……あんな人はもう、父さんなんかじゃない!」
だが、やはり、怒りは爆発した。
生まれた時から親のなかったオリヴィエに最初に出来た父親だったのだ──サラマンダー男爵は。
ずっと欲しがっていた父親であり、彼もまた、オリヴィエと一緒にいる時、だんだんと丸くなっていったと思っていた。確かにかつて、プリキュアと戦った事はあるが、もう誰かに牙を向ける事はないと、オリヴィエはずっと思っていた。
しかし、つぼみは、そんなオリヴィエを、少し落ち着いてから、諭した。
「──それは……違いますよ、オリヴィエ。この街は戦いの映像を中継していたのかもしれませんが……実は私は中継されていない所で、男爵に会って、本当の事を聞いたんです」
「え……?」
「……さやかを救いに行った時の事でした」
オリヴィエは意外そうにつぼみを見つめた。
確かに、つぼみは一時的にモニターでの中継ができない空間に引き込まれ、そこで何をしていたのかは明かされる事がなかった。
そこでつぼみはサラマンダー男爵と会っていたのだという。
「男爵は、私たちと同じく、巻き込まれたうちの一人でした。男爵はあなたの前から、自ら姿を消したのではなく、私たちと同じように、無理やり連れて来られたんです。そして、男爵は……オリヴィエ、あなたを守り、あなたとずっと暮らし続ける為に、意思と無関係に加担させられていただけなんです!」
それを知り、オリヴィエは、呆然とし、やがて項垂れた。
オリヴィエは、男爵をもう親だと思わないと──そう思う事にしていた。
しかし、現実には、まだ微かに、男爵への信頼が残っていたのかもしれない。
今、その微かな想いが強まっている。つぼみは、たとえ誰かの為でも平気で嘘をつけるような人間ではないと思っていたから、なおさらだった。
「そんな……」
「男爵がいなかったら、さやかを……一時的にでも救う事は出来なかったと思います! 私たちに協力して、私の命を助けてもくれました! だから……──もし、また会う事ができたら、ちゃんと向き合って、仲直りをするべきだと思います」
つぼみがそう言った時、オリヴィエの脳裏にある告知がフラッシュバックした。
そうだ……彼女は知らないのだ、とオリヴィエは思う。
それは、彼女の視点ではまだ知られていない話であった。
「そう、だったんだ……」
「ええ。だから、男爵を信じて、また会った時に仲直りしましょう!」
「……でも、つぼみ。それは無理だよ」
オリヴィエの中に、今度は深く強い悲しみが湧きでる。
もし、つぼみの言う通り、サラマンダー男爵は、オリヴィエを守る為にこの殺し合いの主催者に利用されていたのかもしれない。だとしたら、確かに、また会えば仲直りする事はできるのかもしれない。
だが──
「あのモニターで告知されたんだ。……サラマンダー男爵は、処刑されたって」
──男爵は、もういないのだ。
だから、そんな事はもう、できないのだ。
「嘘……」
男爵が処刑されたのなら、それは、自分の所為だ──と、つぼみは思った。
◆
──洞窟から抜け道を通り、つぼみは本来二十分で辿り着くべき道を、四十分かけて這っていた。男爵が死んだという事実を知らされたショックを受けた精神的疲労も大きいのだろう。
殺し合いの真っ最中も酷いストレスがかかったが、ここに帰ってきてからも良い事ばかりではない。
月影ゆりの母や、えりかの姉のももかが一体、今どんな気分でいるのか──それを想像すると、それだけで息が詰まりそうになる。
男爵が処刑されたのは、きっと自分のせいだ──という想いも、つぼみを深く落ち込ませる。
そんな終わりの見えない沈んだ気分ながら、何とか──辛うじて、つぼみは校舎の体育館まで、その身を動かしていく事が出来た。空気が薄く、半ば酸欠状態になりながらも、時にはオリヴィエに背負われ、彼の肩を貸してもらいながら、彼女としてもやっとの事で、見知った場所を目にした。つぼみは低い体勢を続けた為、真っ直ぐに立てなかった。
「……やっと、着いた……」
──母校の体育館の裏庭である。
ふらふらになりながらも、何とか故郷らしい場所に辿り着けた喜びがつぼみの中に広がり、少しだけ元気が湧いた。
そして、体育館のドアを開け、つぼみは、ようやく光の中に身を宿す事が出来たのだった。つぼみが見ると、そこには、私服、制服、体操服などそれぞればらばらの恰好で、この場に暮らす人たちの姿があった。本当にここで何日も過ごしているらしい。
「──つぼみっ!?」
泥の穴から這い出てきたつぼみを最初に呼んだのは、同じファッション部の志久ななみであった。たまたま、出入口の近くにいたのだ。顔も土に塗れて、髪もぐしゃぐしゃになっているので、彼女もそれがつぼみだとわかるには数秒を要した。
とにかく、彼女の声は、その驚きも相まって、体育館によく響き、そこで避難民のように生活していたたくさんの人々の耳に入った。
「ななみ……それに、みなさん……」
つぼみは、力なくオリヴィエに寄りかかり、疲労に満ちた顔で、笑おうとした。
しかし、実のところ、それがちゃんと笑えていたのかは怪しい。安心感が自然と、それを表情にしようとしたのだが、やはり、顔の筋肉が疲れ切っていて、今は無理だったのかもしれない。
「つぼみ……っ!!!! 良かった…………っ!!」
即座に、つぼみの父──陽一と、母──みずきがつぼみの元に駆け出し、涙に目を腫らして抱きついてきた。
つぼみが脇に目をやると、ブルーシートの上で、ふたばはベビーベッドが置かれて、呑気に寝ている。実を言えば、つぼみにとって、実際に妹を目にするのは今が初めてだった。
妹が出来るのは知っていたし、そこから先の記憶もあるのだが、つぼみがここに来たのは、彼女が生まれる前である。実際に生まれる瞬間に立ち会う事ができなかったのは、この戦いの弊害の一つだった。
それから──すぐ後に、つぼみの背筋が凍る物も見えた。
体育館の隅で、自分たちが愛娘にそんな事をできなかった悲しみか、えりかの両親といつきの両親と兄が、今、こちらをちらりと一瞥した後、目を伏し、寄り添いあうようにして咽び泣いていた。
二つの家族は、ほとんど同じ反応を見せていた。
ゆりの母やえりかの姉の姿は──ここにはない。
自分の周りに人が寄ってくるたびに、つぼみは内心で少し暗くなった。両親が何かをつぼみに言い続けているが、それは涙声で聞き取れないし、何も考えられないつぼみの耳には入らなかった。
そうだ。
彼らも決して心から喜んでいるわけではない。
確かに、つぼみが生きて帰ってきた事は非常に喜ばしい事だと思っているが──、それでも、誰も本当の笑顔という物は見せていなかった。あくまで、今狙われている一人が生きていて、安心したような、ほっとしたような気持ちである。
──たとえ、つぼみは生きていても、この学校に通っていたえりか、いつき、ゆりの三人は死んでいる事は変わらないからだ。
そして、この世界の状況も何も変わらない。
この荒んだ世界の中、ただ一つだけマシな出来事が起きただけでしかないのだ。
「……お父さん、お母さん」
それでも。とにかく──えりかやいつきが両親を呼ぶ事が出来なかった現実があるにしても、今、つぼみは、どんな配慮も欠かして、そう返さざるを得なかった。
何か言い続けていた両親が、黙った。
二人の両親がたとえそれを見て、自分たちもそうであればと思い傷つくとしても、まずは目の前の二人と、自分自身の為だけに……そんな言葉を口にせざるを得なかった。
「ただいま……。心配かけて、ごめんなさ……」
そして、言いきる前に、つぼみは気を失い、倒れてしまった。
その時、えりかやいつきの家族も心配そうに、慌ててこちらに駆け寄ったのを目にする。
──自分の娘は死んでしまったが、それでも彼らが花咲の家に嫉妬を振りまく事はなく、ただ一身に、つぼみが自分の娘と同じ運命を辿らないよう、心から心配していたのだ。
◆
つぼみが目覚めると、夜がやって来ていたようだった。
誰かが運んだのか、つぼみは今、保健室のベッドの上である。起き上がると、保健室には、祖母の花咲薫子、鶴崎先生、それから主にファッション部の何人かの女子生徒と、保健室の先生──それから、シプレ、コフレ、ポプリだけがいる。
基本的に、妖精以外は男子禁制といった感じであった。
つぼみが目を覚ますと、女子生徒たちが少し落ち着きなく騒ぎ出したが、それを鶴崎と薫子が諌めた。
「おばあちゃん……シプレ……鶴崎先生……それに、みんなも……」
つぼみは今になって少し元気を取り戻していた。やや胃が凭れるような気持ち悪い感覚もあったが、こんな者はあの殺し合いで目を覚ます度に感じていた物である。ここしばらく、慣れきっていた。
気づけば、これまで使っていた服が体操服に着替えさせられている。男子禁制になっている理由はそれでわかった。
ただ、つぼみの髪を洗うまでをする事はなく、やっぱり頭部はまだ汗や土に塗れている。
「つぼみぃーっ! 良かったですぅ!」
「……シプレ」
つぼみの胸に飛びついて来たのは、小さな妖精だった。
このバトルロワイアルにおいて、つぼみと一緒に連れて来られる事がなかった妖精だ。
この妖精の名は、シプレ。──仲間の妖精に配慮したが、耐えられなかったのだろう。
「コフレ……ポプリ……」
──えりかのパートナーのコフレと、いつきのパートナーのポプリを目にした時の感覚は、先ほど、えりかの両親やいつきの両親の様子が目に映った時と同じだった。
自分が助かると同時に、この戦いには助からない人もいた。
それを実感する時が、ここに帰ってきて一番辛い時だった。──この世界が支配されていたと聞いた時よりも、彼女たちの死をここにいる人たちが見てしまった事の方が、遥かに辛い。そして、喪った仲間は誰もここに帰れない事も……。
二人の妖精は口を噤んでいる。
「……今は、そっとしておきなさい」
薫子が、優しい口調で言った。
二人のケアは彼女が行っている。──ここにいる者で、一番老齢で落ち着いているのは他ならぬ彼女であった。
かつて最強のプリキュアとして君臨した精神力に加え、今は長い人生経験ゆえの落ち着きまで持ち合わせている。彼女もこれまで、人生の中で自然と祖父、祖母、両親、夫──即ち、つぼみの祖父も亡くし、周りで友人が亡くなる事も珍しくないほど生きている身だ。
人はだんだんと、親しい人が死んでも泣かなくなる。だが、泣く人間の気持ちや傷つく人間の気持ちがわからなくなるわけではない。だから、彼女が子供の面倒を見るのに丁度良い。
「つぼみ。この世界の事は、ちゃんと聞いてる?」
「ええ、オリヴィエに」
「そう。この世界が“ベリアル”によって侵略されている事は知っているのね」
つぼみも洞窟の中でオリヴィエに全てを聞いていた。
ただ、その事実を聞かされた事で精神が摩耗するような事はなかった。
ここに来た時点で、何となく管理の事情は察していたし、正体不明の何かによって世界が侵されている気味の悪さが払拭された気分で、むしろ説明を受けた事は清々しいくらいだ。
それに──、あの“管理”に対して、屈さずにこうして戦っている人々がいるという事実もまた、つぼみには心強い話である。
「……とにかく、私が何とかして……早くそのベリアルを、倒さなきゃ……」
そう言ってつぼみはまた起き上がろうとする。──体は、ちゃんと起き上がるようだった。
バトルロワイアルの終盤で身体の回復が起きたせいか、実質、彼女にはあかねとダークザギの二名との戦闘分の傷しかない。身体的には比較的健康な状態でもある。
ここでその姿を見るつぼみの友人たちは思う。
鶴崎先生は、「お前たちはこれからもつぼみとはいつも通り接しろ」と言ったが、これでも──つぼみにいつも以上の感謝をしてはならないのか……と。
つぼみを哀れむような瞳が多くある中で、ただ一人、薫子は、険しい顔でつぼみに訊いた。
「つぼみ、一つ訊いてもいいかしら?」
「何ですか?」
「あなた……今、変身はできる?」
「え?」
唐突に、薫子がそう訊いたのを、つぼみは怪訝に思った。
しかし、そう言われて考えてみると、先ほど、ある異変が起きたのをつぼみは振り返ってしまう──。
「そういえば、さっき……何故か、変身ができなくて……」
財団Xに襲われた際、何故かつぼみの姿はキュアブロッサムには変わらなかったのだ。
それを聞いた時、──そこにいた全員の顔が暗く沈んだ。
既に、薫子から何か嫌な予感の根源を聞いていたかのようである。
「そう、やっぱりね……」
「え?」
薫子たちは、何故つぼみが変身しなくなったのか、知っているらしい。
「あなたは、この二日間、短い時間で花の力を使いすぎてしまった。妖精であるシプレを通さず、何度も何度も……。そのせいで、プリキュアの種にも限界が来ているわ」
そう言う薫子の目を、つぼみは見続けずにはいられなかった。
ただ、呆然と、薫子の瞳を眺め、次の言葉を待つばかりだった。
そして、薫子は一泊だけ置いて、口を開く。
「あなたはもう、キュアブロッサムにはなれないかもしれないの」
薫子は、その信じがたい事実を、ある意味では非常に冷徹に突きつけた。
その言葉を聞いた刹那、つぼみの心には、落雷のような衝撃が落ちてきた。
──時間が止まる。
プリキュアである限り、戦い続けなければ運命にある。そこから解放されるというのに、何故か、どうしてか……ショックを受けている自分がいた。
彼女は、慌てて、ココロパフュームとプリキュアの種を探した。誰かが着替えさせている以上、どこかで誰かがこの近くのどこかに置いたのだ。
周りを見回して探しているつぼみの前に、シプレが寄って来る。彼女が、探し物を持ってきてくれたらしい。
「つぼみ……ごめんなさいですぅ」
確かに、シプレはプリキュアの種を、両手で抱えて持っていた。
だが、シプレの持つプリキュアの種には、真ん中から真っ直ぐに亀裂が入っているのだった。それは、もはや壊れかけで、いつ崩れてもおかしくない砂の団子のようにさえ見えた。
「あっ……!」
ピキッ、と。
今、はっきり、そこから音が鳴った。
そして、それは、次の瞬間、プリキュアの種は、彼女たち全員の目の前で砕けた。
砕け散ったプリキュアの種が、つぼみの纏う白いベッドの上に落ちたのを、全員、ただ呆然と眺めていた。──「プリキュアになれない“かもしれない”」ではなくなった。
「私は……もう、プリキュアに……」
このプリキュアの種とココロパフュームが、妖精たちと、来海えりかと、明堂院いつきと、月影ゆりと──そして、あのバトルロワイアルを共に乗り越えてきた仲間たちとの絆の証でもあったのだ。
その後、しばらくして、沈黙の中、つぼみは震えた。
今、ベリアルたちに命を狙われている──。そんな中でもつぼみを守り、彼女の心に安心を齎していたのもまた、自分自身の持つプリキュアの力だったのだ。
「わたし……わたし……」
つぼみが、両手で肩を抱いて震えた。そんな彼女の震える腕を温めるように、クラスメイトたちが寄り添った。
「私……怖いです……!! もう、戦いたくなんかないのに……っ!! でも戦わなきゃいけなく……それでも……プリキュアになれないなんて……っ!!」
……初めて、キュアブロッサムとしての自分の心強さに気づいた時だった。自ずと涙が出た。ここから先の戦いを拒絶したい気持ちになった。
プリキュアに守られていたのは、ここにいる人々ではなく、誰よりも“自分自身”であったのかもしれない、と、つぼみは思った。
そして、その事を誰よりも知っている薫子が、流石に見かねて、──自分の立場さえも、捨て、一人の孫を持つ祖母として、告げた。
「つぼみ……でも、もし、怖かったら、もう戦わなくたっていいのよ。おばあちゃんが、ここにいるみんなが、きっと、あなたを守ってあげる……」
それが、最強のプリキュアの弱さだった。
それから、つぼみは何を返す事もなく、翌日まで、自分がこれからどうすべきなのか悩んだまま、そこで夜を明かす事になった。
ファッション部の仲間は、家族のもとではなく、その夜だけはつぼみのもとで休んだ。
夜には何度か、その家族たちが顔を出し、つぼみも少しずつ話したが、空元気の笑顔を返すばかりで、あまり良い時間を過ごせたとは言えなかった。
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最終更新:2015年07月24日 03:37