保守主義は、文化や文明の文脈において伝統的な社会制度を推奨する政治的・社会的な哲学である。保守主義の中心的な信条には、伝統、有機的な社会、階層、権威、そして財産権が含まれる。保守派は、宗教、議会制政府、財産権といったさまざまな制度を維持し、社会の安定と継続性を重視することを目的としている。より伝統的な要素を持つ反動主義者は、近代主義に反対し、「かつての状態」への回帰を求める。

サブイデオロギー


政治思想であれ文化哲学であれ、定義上、保守主義とは伝統主義的理想を中心に据えるものであり、社会規範に従って社会的・文化的制度を維持し、磨きをかけていくことに専念する保護主義だ。伝統的に政治劇の舞台の右側に立つことを好むが、状況に応じたリベラルな分子との協力に本質的に反対しているわけではない。ただ、それはやや稀である。保守主義者は自由放任的な自由市場資本主義を当然のように支持し、一般的に政府支出の増加よりも緊縮財政を好むが、必ず、厳密にそうであるとは限らない。

フランスとイギリスという偉大な自由民主主義国家が、ヨーロッパのファシズムの脅威によって崩壊したことを受け、保守主義はファシズムが未だ存在していなかった地域で復活した。ますます全体主義的になる世界に対抗する民主主義最後の防衛線として、自らを位置づけているのだ。

保守的政治家や政府の多くは改革を否定しているわけではないが、公的な場においては、よりリベラルで進歩的な同世代の人々としばしば対立することになるだろう。
保守主義
ジェファーソン流民主主義からエミリアーノ・サパタによるメキシコ革命まで、「農民第一」の概念は、民主主義それ自体と同じくらい古いものだ。農民の地位を向上させようとする政党は今でも数多く存在するが、いずれも伝統的な価値観と並んで、農民を第一に考えるという国家の役割を優先している。

典型的な農本主義国家は、どれも比較的単純で類似した政策を特徴とする。自給自足農業の推進、地域社会の農業開発への国家の参画、そして人類誕生時の黎明期と同じように、農民を国家において重要な位置づけに置くことである。
農本主義
平等を重視し全ての者が世の中に影響を与えられることを保証しようとする社会もあれば、階層を重視し自分の立場を自覚している各階層の人間がそこでの義務を果たせるようにと努める社会もある。父権的保守主義はといえば、後者のタイプに属する。

義務や名誉といった概念にこだわる父権的保守主義者は、貧民や極貧層を最も気に掛けることが出来るのは社会における特権階級なのだと主張する。彼らにとってエリートとは、人道主義や慈善行為を奨励し、下層階級の人間が経済的機会を掴むことを許す、慈悲深い者のことをいう。貧民のためセーフティネットの構築やより良い労働環境を政府の手によって保証する一方で、指令経済に属するものには全て反対する。彼らはエリートの力によって個人と国家の利益の均衡が維持され、全ての人のための安定性が保たれることを望む。
父権的保守主義
「反対や外国の支配を受けずにシャリーアを施行できる、強力なイスラム独立国家が存在しない限り、ムスリムは自らの宗教が完全だとは考えない」

アッラーは、ムハンマド、彼に平安あれ、を預言者として選んだ。預言者を通じ、アッラーは不変の神性を持つ全く完全な経典であるコーランを地上の民に授け給うた。その中身は、知恵と美徳の宝庫であった。コーランの中、また預言者の記したハディースによって、地上のあらゆる法に取って代わる高貴な法体系、シャリーアが概説された。

シャリーアを否定するということは、アッラーの言葉を否定するということだ。しかし、シャリーアは法体系であり、政府形態ではない。そのため、多くの人々は、貴族や聖職者の支持する時代遅れの独裁政治を拒否し、西洋の侵略と伝統的な独裁政治を拒否する純粋なイスラム的民主主義の形態を好んでいる。

イスラムのシャリーアとその法規範に強い忠誠心を持ちながらも、人民の自己支配の権利を擁護するイスラム保守主義者は、リベラル、近代主義者、西洋人、社会主義者の広める腐敗した反イスラム的価値観から、長年受け継がれてきたイスラム的伝統を守りたいと考えている。

アッラーの法の支配下で安定した、民主的で豊かな社会が一つにまとまってこそ、イスラムのウンマは帝国主義が伸ばす手を打ち砕き、世界の最前線に返り咲くことができるのだと、イスラム保守主義者は考える。
イスラム保守主
保守派は一種の固定観念を持たれている。古臭く、頑固で揺るぎないモラリストは、左派、右派を問わずあらゆる人々の心の中に常に存在する人物像だ。しかしもう一つ、人目をひくタイプの保守主義がある。それは多くの点において、一般的なイメージとは正反対だ。粗暴で、粘り強く、国家的・民族的な精神を維持するために非常に現実主義的となる大衆保守主義者は、社会主義者やファシストの工作員と同様、激しい人物である。

多くの場合、この種の保守派は改革を通すことに抵抗がないばかりか、直接的に庶民を助ける特定の種の改革を通すことには積極的ですらある。しかしこれらの改革は全て、過激な感情を抑制し、どのような形であれ現状を維持することができるように行われるものである。

このように、大衆保守主義者は、伝統を重んじつつも一般人の日々の苦労を理解して即座に十分な対応を行うため、地方の人々に最も良く政策を評価され、支持される傾向にある。適切に動かせば、この支持基盤は殆どの国で最も強力なものになる可能性を秘めている。この種のポピュリストは、まさにこの理由から、「ヘルレイザー」や「扇動政治家」などと揶揄されるのである。
大衆保守主義
「悪を離れて善を行い、やわらぎを求めて、これを努めよ」

人類の長い歴史に思いを馳せれば、教会と国家の分離は比較的新しい概念だ。「信心の無い扇動者ども」がたとえ否定しようとも、聖書の価値観、キリスト教の教義、理想化されて一枚岩となった社会は、多くの西洋政治家が否定しつつも心を傾ける理想である。否定する者と受け入れる者がいる。まさにこの部分に、キリスト教保守主義は力を見出しているのだ。

宗教色が強く、歴史的に教会が強い存在感を持ち続けている地域では、十字架を同じような価値観の下に置く者たちを見つけることができる。それらの人々はまた、人々が大切にする全ての価値を奪い、天国を盗み出す「現代」的な潮流に逆らっているのだ。アメリカの「バイブル・ベルト」からブラジルの「コロネル」まで、キリスト教保守主義は良くても変化を警戒し、悪ければ危険物と見なす。自らの敵を、刑罰と天罰に値する神の敵だと都合よく主張することがある穏健な右翼政治家に魅力的な、中央集権主義の現状維持の立場に立っているのだ。
キリスト教保守
主義
保守主義は統一された旗印ではない。それは、世界中に100ある政治的イデオロギーに対抗する、あるいは敵対するものとしてゆるやかに結合しているに過ぎない、複数の信念が芽生えていく土壌である。したがって、あるイデオロギーが成長し、他の保守主義者が「行き過ぎ」だと考えるような価値観を受け入れることがあっても、それは驚くに値することではない。

進歩的保守主義は、自らや有権者の心を楽にする手段を求めている者たちが編み出した、ある種の妥協案である。福祉、等しい権利、経済介入の考慮は全て、国とその伝統を結び付ける基盤を危険に晒すことなく社会的な苦境を和らげる手段だ。そして、社会と有権者を、彼らの嫌う急激な変化を行うことなくより健全な体系へと導くことができるように願っているのである。
進歩的保守主義
自由市場とは、国家の舵取りによってではなく、競争と社会が自ら最適化された状態を作り出すという考え方であり、国家に対する政府の介入を最小限に留めるものである。しかし、その社会的側面が、古典的自由市場主義者と他の保守派とを分けるのだ。

自由市場保守主義とは、伝統的な家族の価値を説くと同時に、関税の引き下げを提案するイデオロギーである。官僚支配の弱化を提案するこのような者たちは、国家が嫌がる「問題児」を役職に就けない限り、経済に関する規制を削減していく。少なくともほとんどの場合は、自らの道徳観と「一致」していない国に追加関税を課す。

自由市場主義者が提案する自由は、まず経済から始まる。それ以外のことは、保守派の方が明らかに正しく理解している。
自由市場保守主
過激な思想や圧政が跋扈する世界の中で、アメリカは荒廃を避けるべく、安定した、保守派のかじ取り役を求めた。やがてリチャード・ミルハウス・ニクソンが独自の視点でアメリカ保守主義を繋ぎ合わせ、内外の危機に直面し続けてきた合衆国の繁栄と安定を維持しようとした。ニクソンがアピールした、いわゆるアメリカ政治の「サイレント・マジョリティ」に由来する\物言わぬ保守主義\は、共和党系の実業家グループと、民主党の文化的保守の有権者の利益を組み合わせることで繊細かつプラグマティックな方法論を編み出し、国内の経済・社会問題を解決しようとしている。

物言わぬ保守主義は基本的には保守色が強いが、一方でいわゆる「ナイーブな」リベラルとも、アメリカ政治を脅かす無慈悲な反動とも異なる第三の道を作ろうとしている。支持者たちは左右の急進思想を拒絶し、代わって広範なポピュリズム的言説、柔軟な改革、国民への父権的態度を通じてアメリカ国内の幅広い票田にアピールしようとしている。

ニクソン自身のプラグマティズムに依るところが大きいためか、物言わぬ保守主義はしばしば政治課題に対して強い姿勢を取ろうとせず、特定の課題ではマジョリティの意見に大きく迎合して中間の立場に立とうとする。今のところ、根深い分断を抱えた共和民主連合の安定強化には大きく寄与している。しかし政治課題が国を蝕み、対立が深まる一方の現状にあって、ニクソンの政治アプローチがこれからも危うい綱渡りを続けられるのか。それはまだ分からない。
物言わぬ保守主
アメリカは常に、広範な中央集権に対する疑念によって定義されてきた。トーマス・ジェファーソンは、強力な政府が個人の権利を損なってしまうことを懸念していた。ジェームズ・マディソンは「ザ・フェデラリスト」において、政府の権威乱用を制限し、統制することのできる連邦制度の必要性を広く説いた。ジョン・アダムズでさえ、「国家を設立し、その統治のために適切な法を制定しようとするものは、全人類が生まれながらにして悪人であることを前提としなければならない」と信じていたのだ。

自然保守主義は、まさにこの潮流の最新版である。サンベルト地帯に政治的拠点を置く自然保守主義者は、現代の福祉国家の行き過ぎと、それが地域社会に及ぼす影響に深い懸念を抱いている保守派の集団である。その支持者にとって、人類の「自然」な組織とは、すべての町、群、州が外部からの干渉を最小限に抑え、自らにとって最適なものを自由に決定できる組織のことである。連邦政府の役割は、基準を強制したり社会構造を操作する事ではなく、できるだけ目立たないようにし、個人の権利を保障して事業の繁栄を可能とする際に必要な範囲でのみ、目につくような行動をとることであると信じているのだ。

もちろん、自然保守主義者が望む社会の在り方は千差万別だ。商工会議所には、この思想が言論の自由や企業にとって必要不可欠だと考える者たちがいる一方、ディープサウスには、不公平で少数派への偏見だと見られるような概念を推進するためにこの思想を利用する者がいる。これらの集団がどのように共存していくのか、外部からの影響への反対が今後にどのような結果をもたらすのかは、時間が経たねば分からない。
自然保守主義
現代社会には問題が山積みだ。アメリカ国内の多くの人々は、これらの問題を解決不可能なものだと考えているのかもしれない。何百万人もの人々が、自らを取り巻く不公平さと、それを解決するはずの自由民主主義秩序の明らかな無力さに落胆しているのである。そのため、国内の専門家が推進している新たな近代的手法に目を向ける者もいる。そのような者たちは、近代的保守主義に転向したのだ。

ジョージ・ロムニーら共和党穏健派が提唱した近代的保守主義は、今日の政治的危機を解決するために必要なのは「一流の市民」の専門知識であるとするものだ。その通りに、近代的保守主義者はボランティア活動の価値を強く信じ、全国のシンクタンク、NPO、企業などの盟友と頻繁に交流している。その信奉者は、理念やイデオロギーの純粋さについての試験よりも、「根拠に基づく政策立案」について語ることが多い。彼らは、科学的に導き出されたコンセンサスを重視する解決策を党派に囚われず支持し、所得税の均一化や住宅の公平化・差別化といった常識的な政策を受け入れているのである。

経営者層には人気を誇っているが、情熱的なレトリックや雷のような答弁を用いて人を鼓舞するイデオロギーではない。むしろ、近代的保守主義は、企業的、技術官僚的、父権的とみなされることが多く、リベラル派や地方の保守派には不快感を与えることもある。この新たな運動が懐疑派を味方につけることに成功するのか、それとも国民の疎外感を深めることになるのかは、時が経たねば分からない。
近代的保守主義
開拓時代の伝統と現実から生まれたプレーリー大衆主義は、エリートの不道徳的な腐敗と闘う、庶民の知恵と正直さを中心に据えた政治信条である。プレーリー大衆主義者は、通常の生活を送る者の美徳を称賛し、人々と共に権力者の邪悪や不名誉を非難する。社会の悪や政府の失敗の責任を、分別や良識を持たず、カネとコネに物を言わせる者たちに押し付ける。プレーリー大衆主義者にとってみれば、社会問題を引き起こしているのは、田舎で暮らす庶民の日常的な苦労から切り離され、孤立している利己的なエリートの過ちなのだ。その種の問題を解決する方法は、そのエリートたちを権力から排除する以外にないのである。

現実的で「常識的」な統治を志向するこの種の政治指導者は、政策決定においては柔軟性を発揮し、第一に国民自身が望んでいると思われることに対して何よりも固執する。経済・社会問題に対し穏健な、あるいは進歩的な解決策を提唱することもある。だが、その根底には常に、社会構造の急激・革命的な変化と敵対する道徳主義や伝統への尊敬の念があるのだ。一方で、国家機関の出す概念的な考え方や民主主義は堅く支持する。プレーリー大衆主義者が破壊しようとしているのは、権力中枢を汚す泥棒政治家やろくでなしだけであり、中枢そのものではない。彼らは、農民や労働者の「能無しを放り出せ!」という叫び声を聞いているのだ。そしてその声は、政府から疎外され、政治家に騙され、品位を貶められたと感じている人々にとって、実に力強いものとなるだろう。
プレーリー大衆
主義
日本独特の政治環境は、暗黙の規範が多く、1910年代の護憲運動で生まれたのが護憲保守主義である。要するに、あらゆる規範を守りつつ、代表制民主主義を構築しようとする思想である。例えば、「デモクラシー」という言葉は、和訳すれば「民主主義」だが、天皇主権に挑戦することになるので禁忌である。一方、「護憲」は、主権問題を回避し、帝国憲法に規定された国民の権利を、明治寡頭制やかつての統制派将校などの悪質な行為者から守ることに焦点を当てるので、全く問題のない代物である。

言うまでもなく、護憲保守主義は、愛国心、伝統的な性別役割分担、西欧民主主義に対する嫌悪感など、多くの伝統的価値を包含している。同時に、護憲派の信奉者たちは、選挙政治を通じて民意を国家政策に反映させようとし、民意を天皇主権に則って解釈しようとする。このような護憲論の語り口は、天皇制を強化するための明治憲法の抜け穴に特に脆弱であるが、それでも、30年間の全体主義を経て、大正時代に中断された日本の民主主義の実験に戻ろうとする真の試みであると言えよう。
護憲保守主義
特異的保守主義
アダム・スミスやジョン・スチュアート・ミル、デイヴィッド・リカードといった1世紀も前の人々から発生した古典的自由主義の末期的衰退としか言いようのない時代の中に、欧州の資本主義の将来に関する根本的な疑問が存在している。ナチの旗が、冷酷なビスマルク式集産主義の触手を前に掲げて、パリやモスクワ、ロンドンの街を行進した。それとともに、統一されていた自由主義哲学は永遠に分断された。それでもなお資本主義制度を信じる少数の者に残された道具は、支配的なプロイセン流「家族国家」をさらに強化するだけの硬直した権威主義的な制度を除けば今や何もない。

自由コーポラティズムは、20世紀初頭のスカンジナヴィアで政府と労働組合との間で成された初期の妥協の中に起源を持ち、大陸型の資本主義発展の独自のモデルを代表するものである。様々な意味において、自由コーポラティズム的秩序の発展は自発的に起こってきたが、それは「共同決定」問題を解決できる政府権力が労働と資本の既得権益に打ち勝つことができる場合に限られている。自由コーポラティズム理論の中心には、完璧に組織化された企業交渉法があり、民主主義は効率性の問題となる。社会政策は組織化と生産性向上を意味するようになり、労働争議は「非政治的」なものとなる。労働組合が産業連合として行動する力が明らかになればなるほど、同様の方法論を用いた自由市場への参加という考え方は魅力的になっていく。

古き社会主義者たちが急速な経済成功の塵にますます埋もれていく中で、中央計画の叫びは誰にとっても虚しく響くだろう。アクトン=トクヴィル協会の著作から広まった成功のための急進的な公式は、欧州の「新しい」資本家たちの中に適した支持者を見つけるかもしれない。国家は自由市場の仲裁者となり、そのダイナミズムや平等性や莫大な富を受け持つことになる。しかし、このいわゆる「新自由主義」が市民福祉という危うい均衡を取ることができるかどうかはまだ未知数だ。
自由コーポラテ
ィズム

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最終更新:2024年10月13日 20:46