![]() |
父権主義という政治哲学は、独裁者から君主、皇帝に至るまで、数千年もの間、無数の政府の主要論理として存在してきた。父権的な政府形態を支えるイデオロギーは、自由主義的政治思想の台頭を、古くからの文化的・政治的規範、制度、真理に対する不正や不安定化の原因として描くものだ。より良い未来のために国家、社会、文化を維持する手段として、一時的、あるいは永続的に権利と自由を制限することによってリベラルの影響に対抗しようと試みるものであり、国民の福祉に対する国家の役割を、親から子への指導のようなものに例える。 この点において、現在ヨーロッパやアジアを支配している数々の独裁政権とのイデオロギー的類似性は無視しがたい。自由民主主義も保守民主主義も、一般的には父権的政治体制に見られる独裁主義を忌み嫌っており、新たなファシスト政治思想の胎動、あるいは薄っぺらい模倣に過ぎないと考えているのである。とはいえ、父権的社会において隣人の意見を気にする者などほとんどいない。そのため、内外のいかなる試みに対しても、しばしば政治的・軍事的な激しい抵抗を示すのである。 |
父権主義 | |
![]() |
過去20年間の人類文明は、何よりも、力こそが正義なのだということを示した。強国、団結した国こそが、世界の舞台で勝ち抜くチャンスを得る。枢軸の勝利を再現しようとする者は、彼らの厳格な国家意識をも再現しなければならない。これこそ、国民保守主義の原点である。 右翼の理想とされる国民保守主義者は、国民の統一は他の全ての社会的目標より優先され、民族固有の伝統を守ることによって統一が維持されると信じている。国家は、国民の結束を強化するための機関となる。多くの国民保守主義者は自由放任主義の経済政策を支持するが、国家は父権的な立場で国民を養うべきだと考える者もいる。国民保守主義者の多くは自らの思想とファシスト思想の違いを強調するが、目標が一致すればファシストとの協力を厭わない者も少なくない。ファシズムに支配された世界で、このイデオロギーが生き残れるかどうかは、まだ分からない。 |
国家保守主義 | |
![]() |
この世でもっとも邪悪な犯罪のひとつ、それは同じ人間を植民地主義の餌食にすることだ。土地を、人々を、国そのものを植民地にするというのは、そこにあるべき権利を否定しているということに他ならない。民族は未来を奪われた抜け殻となり、加害者たちに食い荒らされ、正常な社会構造が機能しなくなってしまう。こうした状況に陥った国は世界中で散見される。これはアメリカ人やヨーロッパ人がアフリカで為した犯罪であり、日本がアジアで為した犯罪である。 しかしすべての犯罪にはいずれ糾弾される。残酷な植民地主義への糾弾、それが社会民族主義理論だ。これはドイツや日本で生まれたナショナリズムと違って、植民地化を肯定的に評価している。植民地化によって人々が同じ闘争を経験し、かえって民族の団結に寄与する一要素になりうるというのがその理由だ。社会民族主義者は自分たちの民族や文化こそが優れていると語り掛けるのではなく、団結して圧制者を打ち払うべしと唱えている。社会民族主義は目標達成のためならあらゆる経済体系を利用するが、ある種の社会主義の実現に向けて闘っているケースがほとんどだ。 この世に誕生してからの10年間、社会民族主義はドイツの爆撃によって、あるいは日本の軍事演習によって粉砕された。しかし世界は今も変わりつつある。うまく立ち回れば、一縷の望みはある。 |
社会民族主義 | |
![]() |
寡頭制(oligarchy)はギリシャ語の\oligos(少数)\と\arkho(支配する)\という二語に由来しており、権力が少人数のグループの手中にある政府のことを指す。政府は富や教育、軍民両方への支配力などにより大衆とは切り離された存在になっており、場合によっては少数派が多数派を支配していることもある。この種の政府は非常事態や暫定政権といった名目によって、または違法だったり秘密の手段を用いることで存在を裏付けされうる。一部の寡頭制国家は世襲制により権力継承が行われるが、すべての寡頭制国家に対して当てはまるわけではない。 寡頭制は様々な状況から発生する可能性がある。例えば、上流階級が徐々に特権階級に変貌することで権力が一部のエリートに集中し、最終的に富裕層が政府のすべてを表向き・裏向きの両方で支配する場合がある。またクーデターの後に勝利した将軍が一派や軍部の権力を世間に定着させようとする場合もある。 寡頭制国家は何の集団が権力を握っているかという点で他の形態とは大きく異なり、一般に政府は国民全員に対して広範な支配力を行使する。市民の自由は通常制限され、どのような程度の投票も同じように制限される。しかしながら、ある種の意図的ないし非意図的な見せかけの民主主義が存在する国家では例外も見受けられる。例え欺瞞的な選挙が民主主義の上辺を取り繕うことができるとしても、結局市民は自らの指導者を自らの手で支配することが出来ないのだ。 |
寡頭制 | |
![]() |
連帯主義は、ヴャトカを拠点とする全国連帯主義連合が推進するイデオロギーである。共産主義を激しく否定する連帯主義は、現代の問題に対処するために20世紀の基礎を提供することを目的としている。社会経済や政治問題に対する純物質主義的な対処を拒否し、階級間の連帯、兄弟愛、キリスト教的寛容、慈善を促進する。また、(ロシア君主の有無にかかわらない)政府への民主的な参加、個人主義、市民的自由の推進を主張している。その最終目標は、「右向きでも左向きでもなく、前向きな」第二の革命を起こし、ボリシェヴィキやツァーリ主義の誤りに帰すことなくロシアを再生することだ。 一方、社会のコーポラティズム組織的体質や、彼らの望む「道徳と精神の再生」をもたらすための「一時的な」独裁化の見通しに対する過度な好意が見られるなどといった批判も見られる。そのような主張をする評論家にとってみれば、連帯主義はイタリアのファシズム、サラザール主義のポルトガルやアンシュルス以前のオーストリア国で実践されてきたコーポラティズムと、驚くほど似通っているのである。 |
連帯主義 | |
![]() |
軍政とは、兵役を中心とした政府形態である。軍部が政府の全部門を支配してはいるが、他の軍事政府と違い、完全に非民主的というわけではない。現役の軍人も、名誉除隊した退役軍人も、政府の方向性に対して発言力を持つ。政治力を得るために必要なのは、忠実に奉仕することだ。軍政は、憲法の停止を伴わず、社会における軍の役割を明確に指示する条文を盛り込んだ憲法を制定することが多い。 軍政には本来、寡頭的や独裁的である必要性はないが、軍による支配の必要性から、そのような形態となる事が多い。基本的に、実力主義の特徴を維持することに注意を払わない軍政は、通常の軍事独裁政権となる。文民政府と軍部は分離するが、それは必ずしも平和的に行われるとは限らない。 軍と民主主義の融合は極めて稀であり、実力主義的信念と戦争や内紛などの持続的な軍事的圧力が組み合わさって初めて実現される。しかし、この希少性を弱点と誤認してはならない。軍政とは軍団であり、軍団は征服を行うものなのだ。 |
軍政 | |
![]() |
ディキシークラット(「Dixie」と「Democrat」の混成語)は元はアメリカ南部で民主党に所属していた様々な種類の派閥と人物の複合的な表現であるが、何らかの理由によって、国民進歩連盟の極右派へと逃げ延びた。元は1948年大統領選挙時、あるジャーナリストがジョージア州権党のリチャード・ラッセルを説明するために作った表現であるが、今ではNPPの南部派閥を指す言葉として定着している。 多くのディキシークラットは、ヒューイ・ロング、トーマス・ワトソン、ベンジャミン・ティルマンが掲げた農村ポピュリストの伝統、伝統的な自由主義や保守的な経済を皆それぞれに信奉しているため、経済面では分断され、細分化されている。しかし、彼らは公民権と連邦政府による「内政干渉」への嫌悪感によって団結しているのである。 白人労働者から南部の実業家、事業主、社会保守主義者、南北戦争から一世紀が経過してもなお南部を支配し続ける伝統的な農業王者まで、候補者に応じてディキシークラットの支持層は多岐にわたる。その多くは南北戦争後のリコンストラクション期の物語に取りつかれており、政府のあらゆる階層に自らの総力を結集し、熱心に分離を維持し続けようとする--どんな手段を使ってでも。 |
ディキシークラ ット |
|
![]() |
投資家や企業家たちの利益を何よりも優先する政治の中でさえ、ほとんどの企業支配体制は対外的な便宜のために国民国家の形態を維持している。国の成功は国民、すなわち労働から利益を生み出す機械の中でなんの発言権も持たない「従業員」によって支えられているのである。 企業エリートの間で、資本は労働に対抗する搾取的な企業であるべきだという考えに対し異議を唱える異端派が台頭している。賛成派は、労働者の要求を「合理的」な範囲で経営判断へ反映させることを提唱し、それにより発生する利益よりも安定性へのメリットを主張する。支配を受け入れる労働力の方が、長期的に考えて生産性が高いと主張しているのだ。 このような労使関係モデルは資本主義社会では珍しくないが、企業を中心とした政治という特殊な状況下においては、この経済理論は必然的に大きな政治的意味を持つことになる。この理論の提唱者は、新たな「国民従業員」に対して公共サービスを提供するという、政府としての役割の拡大を構想している。それと引き換えに、労働者は企業や市場原理による公共生活の支配を受け入れ続けるのだ。 |
企業父権主義 | |
![]() |
社会信用とは英国の工学者、クリフォード・H・ダグラスによって第一次世界大戦後に考案された経済理論である。1920年、ダグラスは、経済不況は商品の市場価格、商品の生産コスト、生産者への賃金の3者間に生じる一方的な不一致によって発生すると主張した。つまり、企業が恣意的に、労働者が実際に購入できる価格より遥かに高い価格で商品を販売していることに彼は気が付いたのだ。利益を追求するために人工的に生み出された希少性によって、労働者の生活は苦しくなり、個人消費の減少によって経済も停滞するのである。この状況を改善するために、ダグラスは政府に対し、個人消費の増大と消費者への金銭の分配、つまり「社会信用」の分配によって生産価格と購入価格の間に生じている格差を縮め、個人消費を増加させ経済成長を促進することを要求した。 カナダにおいてダグラスの経済理論は、キリスト教原理主義との相乗作用により、右翼ポピュリストの政綱を形作った。社会信用党は個人主義と民間企業を、キリストと同じくらい信仰している。彼らは消費者、生産者への直接融資を通じた通貨流通量の大幅な増加を主張し、国際的銀行家が利益のために経済を奪う際の道具である国債を公然と非難する。自由な市場を支持するが、自由で道徳的な選択にはほとんど関心がない。カウンターカルチャーに対し狂気的なほど敵対し、保守的に解釈されたキリスト教をカナダの国教とするべきだと考える。イベリアのカウディーリョや、故人となったイタリアのドゥーチェの経済政策を支持する党員さえ存在するため、進歩的なカナダ人は社会信用が国をどの方向へ導くか目の当たりにする事を恐れている。 |
社会信用 | |
![]() |
ケマル主義とは、その名前が示す通り、トルコ共和国の建国者、ムスタファ・ケマル・アタテュルクの理想を中心とした考えである。オスマン帝国末期の後進性に対する反発から生まれたケマル主義は、共和主義、国粋主義、民族主義、世俗主義、国家主義、改革主義の六つの指導的理念を基本とする近代的トルコ国民国家を創生し、維持することを目指す。ケマル主義は歴史的に民主主義の原則と微妙な関係を持ち、選挙で選ばれた政府も選ばれていない政府も、公式イデオロギーとしてケマル主義に奉仕してきた。第二次世界大戦後、トルコ民族主義の原理は主にヨーロッパのファシスト支配に対する序曲として、また極右派への対抗策としてますます強調されるようになった。 |
ケマル主義 | |
![]() |
世界中で絶対君主制が廃れていき、立憲主義が主流となっていく中、第三の選択肢が現れ始めている。多くの立憲君主制では、権力は官吏、行政、立法の国家機関に移譲されるが、半立憲君主制ではそうはいかない。 この制度では、君主の権力行使に対する統制はほとんどなく、実際には象徴的なものとなる。結果として、行政や立法などの政府に対し、大きな権力を持つ君主が残り続けることになる。半立憲君主制は、自らに穏健的なイメージを持たせつつも、既存の権力を手放したくないという君主自身の思いからしばしば誕生する。絶対君主制ほど君主に振り回されはしないが、彼らに対抗できる者はほとんどおらず、排除することもできない。結局のところ、国家は君主の成すがままになっているのだ。 |
半立憲君主制 | |
![]() |
時に、政党は単なる政党以上のものとなる。 激動の時代には、それが政治的なものであるにしろそうでないにしろ、ある一つの政党が現われ、国が劇的に変化する中で、真の競争相手が存在しない中で新しいやり方の象徴となることがある。このような時代には、民主主義的制度や伝統を含んだ諸制度上にあっても、この政党が時流に乗り、権力をほぼ独占することがあり得るのだ。 それは他の政党やイデオロギーが欠如しているということではない。それらがエスタブリッシュメントに対抗するための魅力や基盤を十分に獲得することが困難、あるいは不可能であったということだ。政治や思想の多元性は民主的な言論活動によってというよりも党本部内での議論によって確保されるようになり、結果、この体制を存続させ続ける。 権力構造の定着と制度化は、しばしば、それに有利なように形成された国の基盤と民主主義の構造そのものによって助けられる。とはいえこうしたシステムは、支配を維持するための第一手段が失敗した場合においてのみ、安全装置として機能する。一党優位政党制の真に重要な要素は、政治状況を仔細に管理したり、民意を覆すような陰謀を企てたり、政治的・軍事的圧力によって権力を維持するようなものであってはならない、という所にある。 党それ自体が国民にとって政治的にも日常的にも基本となっているがために、ほとんどの国民は、他の政党に投票しようとは夢にも思わない。それが信念に基づくものにしろ、冷笑主義的なものにしろ、多くの人々は、その政党の存在を不変かつ揺るぎない日常的事実として、ただ受け入れているのである。 |
一党優位性民主 主義 |
|
![]() |
世界の関心がロンドンとモスクワの陥落に持ちきりとなっていたころ、フアン・ペロン大佐は、アルゼンチンの閣僚の中で最も隅の地位である労働福祉長官への降格を寛大にも受け入れた。 だが、この動きは、ペロンの巨大な構想を実現に移すための計算された試みであった。アルゼンチンの労働者階級と労働組合が、一つの分野として政治体制に統合されるようにすることで、共産主義の恐怖からアルゼンチンを救うというのである。その実現過程においてペロン大佐の運動は、様々なイデオロギーの潮流を吸収していった。社会主義者も、保守主義者も、カトリック・リベラルも、ファシストも、皆がペロンの周りに集まっていった。その意見は、後に大佐の名を冠することとなるイデオロギーの原型へとしみ込んでいったのだ。日によってどのペロン主義が最も目立つかを最終的に決めるのは、大佐である。だが、長年にわたる内外での政府工作により、その定義はもはや認識できないほど歪められ、引き伸ばされてきた。 専門用語では正義主義というペロン主義は、その定義の曖昧さを超えて認識可能な特徴を依然として保持している。寡頭制の退廃の洗礼を受けていない大衆の高揚、経済ナショナリズムへの傾倒、労働組合の崇拝が、ほとんど変わらず残っているのだ。もちろんこのことは、ペロン主義の極端な人格主義にも関わらず、このような特徴、ひいてはペロン主義自体が組織化されて生みの親より長く生き残り続ける可能性を提示している。 |
ペロン主義 | |
![]() |
戦争の悲惨さは、紛争が過ぎ去れば消えて無くなるような単純なものではない。国が混沌に陥り、政府が崩壊しても、残り続ける傷跡となるのだ。その廃墟の中から現れるのが、臨時政府である。 長期にわたる混乱の後、秩序と法の支配を回復するため、これらの一時的な政府は比較的穏やかな環境をもたらす。それは、終わりなき戦争や革命によってもたらされた、前時代の無秩序に近い状況と比較され、心地よい快適な状況としてしばしば人々に歓迎される。政府が後の通常政府の法的構造を定義し始めると、過去の不和は水に流され、新たな国民的対話が開始されることもある。放置と腐敗によって侵食された制度の再生、法律の明確化など、国の再建へ向けた長期的な闘争に、政府は参加しているのだ。このような状況にあって、政府は国が受けた被害を調査し、政治的・経済的な再建計画を通じて旧政権時代の混乱や問題に文字通り対処する。根底から揺らぐ国家と、それに伴って揺らぐ国民の一般感覚を正常に戻すことを目標としているのである。 |
臨時政府 | |
![]() |
一部の人々の考えとは違って、ポピュリズムとは諸刃の剣である。左派にとってはポピュリズムは、平等や社会正義の実現といった一般大衆の願いを叶える手段にもなるが、しかし右派が権力掌握のためにポピュリズムを利用する場合もある。このため右翼ポピュリズムは一つのイデオロギーとして類型化するのが難しいが、しかしその試みはかねてから行われている。 上記の事情を踏まえた上で、右翼ポピュリズムはいくつかの共通点を有するイデオロギーと言える。まず反エリート論の強調だ。エリートたちを腐敗した金満家として扱い、大衆を抑圧する存在として取り扱っている。しかし左翼ポピュリズムと違うのは、こうした「エリート」が往々にして民族的マイノリティである点だろう。右翼ポピュリズムは福祉制度の整備にも熱心で、その代わりに経済への影響を度外視している。 右翼ポピュリズム(経済ポピュリズムとも)は、社会問題についてはおおむね保守的なスタンスを取り、またその大多数が反共産主義を鮮明に打ち出している。こうした要素が混在しているため、ポピュリズムは大きな破滅をもたらしかねないと思われている。だとしてもポピュリズムという大津波は突き進んでいる。それがいつ止まるかは、今のところ神しか知らない。 |
右翼ポピュリズ ム |
|
![]() |
孫文先生は中国の民主化に関して三段階の移行を提唱し、国民党が主導する「訓政」は民主主義に向けての最終段階だと定義した。訓政では国民党が実質的な与党であることには変わりはないものの、国民党ではない他の政党にも立法院に議席を置くことや投票をすることが認められ、表立った集会に対する規制も緩和される。そして内外の状況が十分に安定したならば、民主化の最終形態であり立憲政治でもある「憲政」が実施されるものとされる。 故・蒋介石総統は自らの統治下で中国が「訓政」段階に入ったと主張した。しかし蒋介石の掲げた構想は本来のそれより遥かに中央集権型であり権威主義であったため、一部の人物はこれは蒋介石の軍政を隠すための見せかけに過ぎなかったと主張する。そして今日、中国は護国軍の尽力により復活し、訓政は孫文先生が仰っしゃられた真の意味でここに蘇る。 |
訓政 | |
![]() |
「半民主制」は、世界中のどのような政府にも簡単に適用できる広義の意味を持つ言葉だ。基本となる学術的定義は、独裁と民主主義が混在していることだが、これはそれ以上に奥深いものだ。多くの場合、この体制は民主化が中断されたり、未完成な状態にあったりすることで生じるものであり、かつて専制的・独裁的だった国が民主化の途上にある場合もまた、半民主制と分類されることがあるのだと、学者たちは主張する。 逆に、民主主義国家でありながら、民主主義が減退していっている場合もある。この現象は、世界中でよく知られている。腐敗した大統領から、民主主義の一部要素を許容する軍事政権まで存在するのだ。 民主主義から独裁主義への移行、あるいはその逆のプロセスは、驚くほど短期間で終わることもあれば、失速し、数ヵ月、数年、数十年も半民主的な状態が続くこともある。全ては、民意と専制指導者の意志で決定されるのだ。 |
半民主制 | |
![]() |
コーポラティズムは、共通の利害に基づいた集団による社会の組織化を提唱する。この言葉はラテン語の「人体」に由来し、明らかに集産主義的な思想体系である。その究極の目的は、共産主義のような体制に内在する階級闘争とは対照的な、国家の庇護の下で階級が協力し合う社会の建設だ。 テクノクラート的、あるいはファシズム的なコーポラティズムとは異なり、左派コーポラティズムは人種差別的なレトリックを排除している。左派的な要素と協調したり、少なくとも取り入れたりすることに喜びを感じる。これは、左派思想の正当性を純粋に信じているからかもしれないし、プロレタリアを黙らせるためには他に方法がないと指導者が考えているからかもしれない。 |
左派コーポラテ ィズム |
|
![]() |
コーポラティズムは、共通の利害に基づいた集団による社会の組織化を提唱する。この言葉はラテン語の「人体」に由来し、明らかに集産主義的な思想体系である。その究極の目的は、共産主義のような体制に内在する階級闘争とは対照的な、国家の庇護の下で階級が協力し合う社会の建設だ。 コーポラティズムのテクノクラート的分派は、組合を真の階級協調の障害と呼び、明確に反対する。政策の実行段階においては、伝統的に右派に傾く。左翼的な思想に訴えているのではなく、伝統的なコーポラティズムの思想に基づいているのだ。しかし、テクノクラート・コーポラティズムもファシズムには及ばない。その社会的実装のための基礎として、強硬なナショナリズムは排除されているのである。 |
テクノクラート ・コーポラティ ズム |
|
![]() |
民主主義は、単なる政治体制ではない。社会の姿勢だ。成長させ、育て、発展させなければならないものだ。その達成が、移行民主主義の目的である。 この段階では、民主的統合は開始されていないか、最初期の段階にある。言論、集会、報道の自由などの政治的・公民的権利は、通常、いくつかの警告を伴いつつも提供され始めている。警察や軍隊は通常、文民政府としばしば対立しあいながら、力関係の一翼を担う。政策よりも、自由な未来に対する展望にこそ、移行民主主義の定義が存在するのである。 民主主義がなぜこの段階にあるのか、その理由はさまざまだ。古い軍事政権から脱却する新将校の改革である場合も、待ちに待った革命の後の権力基盤強化である場合も、単なる現実主義から来た、旧政府による新思想の取り入れである場合もある。理由はどうあれ、移行民主主義はか弱い鳥のようなものであり、少しの間違いで破壊されてしまいやすい。しかし、気をつけて扱えば、強力なものへと成長することもある。 |
移行民主主義 | |
![]() |
伝統的保守主義は、それ自体が1つのイデオロギーであるが、アメリカの他のイデオロギー計画に対する反応でもある。リベラルが赤ん坊殺しのシンバルを鳴らすために道路を渡れば、伝統的保守主義者は縁石でピケを張る。言われる所の保守派が、神を憎む共産主義者に役所の床を譲れば、伝統的保守主義者は「いや、もうだめだ」と言いながら足を踏み入れる。これらの断固とした意志を持つ者たちの背後には、母親、父親、二人の子供、そして白い柵というアメリカの家族像があるからだ。 伝統的保守主義者は、アメリカ人はアメリカ人らしく振る舞うことを忘れてしまったのだと主張する。キリストは学校に居るべきだ。女は男と結婚するべきだ。妻は夫の言う事を聞くべきだ。男の子は男の子らしく振る舞うものだし、そうでなくてはならない。社会主義者は、社会主義を望むのなら他所の国へ行くべきだ。ここアメリカの地で人々が歌うのは、偽りの平等ではなく自由なのだから。黒人は白人に、幸せな地域に犯罪的行為をもたらす大規模団地に税金をつぎ込むことを望むが、伝統的保守主義者は抵抗し、「我々の裏庭ではだめだ。あとでもっと要求してくるに違いない」と言う。 アメリカはまずアメリカのことに集中するべきであるため、外国に介入することはないだろう。労働者家族の金、自由、文化を奪う政府のスパイはいなくなる。しかし、リベラルはそれすらも認めない。奴らは奪っていく。学校からは祈りを、親からは子を、地球上で最も偉大な国から全ての誇りを奪っていくだろう。しかし、伝統的保守主義者は、「我々は神を信じる」ための神を、自らの時代には奪うことはないと誓っている。アメリカは安心していい。歴史の波が、高々と頭を上げて「ママとアップルパイに賛成!」と恐ろしげな調子で歌い、選挙に参加する家族を乗せて押し寄せてくるのだから。 |
伝統的保守主義 | |
![]() |
小さな町サン・セレの平凡な紙工、ピエール・プジャードはもううんざりだった。庶民が強欲な投資家に苦しめられているのも、このフランスが悲しく惨めな状態にあるのも、反民主主義的な国民党の圧政にも。ああ、もうたくさんだ!では、どうしたらいいのだろう? そこでプジャードは黙っていることをやめて、声高に威勢よく、自分の言葉で発信し始めた。国際金融と、政府中枢のその操り人形どもを倒せ!大銀行とユダヤ・メーソンの親玉もだ!今こそ、国民のための直接民主主義を! 驚くべきことに、エリートから何を思われようが、民衆は座って耳を傾けていた。ペタン派の腐敗にうんざりしながらも、テクノクラートの口先だけの約束にも踊らされなかった者達は、少しずつ目覚め、「ピエロ」の導きの下、彼をこの国の最高権力者までへと押し上げたのだ。新たな三部会の時代が、ついにやってきたのである。 現在、超ポピュリズム的連立が、唯一無二の存在であるピエール・プジャードへの人格崇拝の下に結集している。自由企業のために、国際金融に否を。伝統的価値観のために、退廃的自由主義に否を。直接民主主義のために、腐敗政治家には否を。 フランスのために、彼女を傷つけるもの全てに否を。 |
プジャード主義 | |
![]() |
他の多くの権威主義とは異なり、通常の権威的開発主義者はある程度民主的に選出され、政府が有権者に対して何らかの義務を負っていることを否定せず、人々が持つ参政権を認めている。しかし、経済成長、つまり国民の福祉を全体的に向上させるための偉大な聖戦に関することとなると、その立場は変化する。権威的開発主義者は、経済生産高を最大化するためであれば、民主的統治や表現の自由といった「政治的超過」を止めることが正当化されると考えているのだ。 つまり、権威的開発主義政権の正統性は有権者からの投票に依るものではない。指導者が、一定の経済成長をもたらすことが出来るかどうかにかかっているのである。指導者が約束を果たせなくなれば、通常は退陣を余儀なくされるか、将来換金可能な大きな小切手を発行して権力にしがみつこうとするだろう。 多くの場合、後者の選択は大きな危険を伴う。大衆が政権に満足している唯一の理由は、自らの権利を「売った」ことによって得られた金だけであるからだ。その指導者が、あまりに頻繁に引き出し不能の大きな小切手を約束するようなことがあれば、政府内外から非難を浴びることとなるだろう。そうなってしまえば、最初の段階で平和的な政権移行に同意しておいた方が良かったと、悔やみながら思い返すことになるのだ。 |
権威的開発主義 | |
![]() |
「つまり、ナチズムの褐色の隊列にも、いかなる帝国主義の旗の上に星を一つ増やすこともないのである」 ヘレリストであるということは、ルイス・アルベルト・デ・エレラ博士が描いた道をたどるということだけでなく、19世紀のカウディーリョ主義の伝統を呼び起こすということである。それは、リオ・デ・ラ・プラタにおけるヨーロッパの干渉に対するオリベの闘いや、庶民のための政治的代表権を求めたサラビアの闘いを称えることを意味する。ヘレリストを自称する人々は、ジャコバン主義に包囲された自由・保守の伝統の永遠の擁護者である。彼らは、下らない事業のために農村の人々の富を盗んだり、都市生活者の底なしの胃袋を満足させたりすることに慣れている政府の透明性と説明責任のための戦う、社会正義の真の擁護者なのだ。 エレラの支持者たちは、自分たちが真の国家主義者であると確信している。なぜなら、ヒスパニック文化へのアングロサクソンの浸透に反対し、祖国がアメリカ人のための休暇用牧場になるのを防ぐのは自分たちだからである。アメリカ大陸のソビエト化には反感を覚えるが、サンディニストたちのような民族主義者仲間は、ラテンアメリカの不幸と従属を求める永遠の敵、アメリカに対する同盟者であることを理解しているのである。 しかし、ヘレリストは、自由民主主義の規範を重する実績が乏しく、非自由主義的な共鳴点をほとんど隠していないため、反対派の間で物議を醸している。多くのカウディーリョ主義運動と同様に、ヘレリズムにも弱点がある。エレラ博士が埋没し、指導することができないため、ヘレリスムは新たなカウディーリョが言うことは何でもありで、頻繁に内紛が起こるのである。 |
エレラ主義 | |
![]() |
|
南極行政 |