君が許さなかった世界はこんなにも綺麗だ



◇◆


 荒れ果てた研究施設。床も壁も埃や虫の死骸で汚されきった其処は、囚人が今より遥かに劣悪な環境で贖罪の日々を送らされていた時代の監獄に酷似していた。
 忘却という罰は、時にどんな責め苦よりも苛烈な痛みとなって罪人を襲う。自分の存在が世界から完全に忘れ去られるというのは死にも等しい。
 親も子も友も敵も、自分の脳に残るあらゆる記憶が一方通行のものと化すのだ。自分という存在が世界から弾き出され、歩んできた歳月全てが白紙に還る。
 此処は、そんな罰を科された場所だった。世界を冒涜し続けた者の末路。好奇を拗らせ、触れてはならない領域に触れ、当たり前のように滅んだ科学者達の夢の跡。もはや、彼らの物語が誰かに語られることは決してない。仮に世界が終わろうとも、決して。
 日本生類創研――過去、この場所はそういう名前の研究団体が統べていた。それがかつての話だというのは、今しがた述べた通りである。

 彼らは、まずこう願った。
 科学による未知の究明、探求、不安と脅威の除去。我々は人類の存続と新たな可能性を見出す試みの先頭に立たねばならない。
 彼らは、強き人類の創造を目指した。そのためには非道な実験や倫理に背く研究も辞さず、がむしゃらに走り続けた。
 その内いつしか、彼らは狂気の領域に足を踏み入れてしまった。科学とは麻薬だ。進歩を実感する毎に世界が変わる。自分達の知的好奇心が世界の新たな真理を見出す。気付いた時には、彼らはその快楽の虜に成り果てていた。
 当初の目的など忘却し、水槽の前で機械的に命を弄ぶ。発見の恍惚。欲望実現の快感。彼らは興味という名の涎を垂らしながら、可能性という名のガラスパイプを咥えて、その先端から漏れ出る発見という名の阿片に耽溺した。

 そして、ある時彼らは一線を犯した。使命を忘れ去り、分別なく欲望を発露させたことで、それが疑似餌であるということに気付かなかった。
 この世界を俯瞰する高位思念体への接続。もしも成功すれば、それは神という存在の立証に等しい。
 狂気の頭脳は血眼になって研究を重ね、驚異と呼ぶべき速さでその偉業を達成した。彼らが自らの犯した罪の重さに気付いたのは、丁度その時だった。
 科学者にとって固定観念は贅肉だ。肥満が時に死を招くように、凝り固まった考えは不慮の事故、知識の死、あらゆる形で開拓者達に死をもたらす。
 彼らはこの時まで、ずっと決めてかかっていた。
 世界を見下ろす某かは神に等しい神聖存在であり、もしもそれと意思の疎通に成功したならば、必ずや世界には叡智の福音が降り注ぐ――と。

 その果てに何が待っていたのかは、この有様が物語っている。
 彼らはご丁寧に、画面越しに見つめるだけしか出来なかった存在に窓を与えてしまった。
 彼らが自らの知的好奇心を自制し、そしてもっと無能な連中だったなら、この物語はこうして始まりを迎えることさえなかったに違いない。

 もぬけの殻となり、人々からも忘れ去られた研究施設の一室。人型の実験体を収めるのにでも使っていたのであろうそこに、一人の男がいた。
 この世のあらゆるものに対して関心がないような、限りなく虚無に近い双眸を持った青年だった。
 青年の座るベッドは、周囲が埃で惨憺たる有様だというのに不思議とまるで汚れていない。
 陳腐だが、そこだけ時が止まっているようと表現する他ない。比喩でしかないそれが事の真実に思えてくるほど、青年は超然とした雰囲気の持ち主だったからだ。
 ピジョンブラッド・ルビーのように暗がりで妖しく輝く紅眼は、深淵の気配を宿していた。

「――相変わらず、か。つまらん男だ」

 そんな彼の姿を前に、ポークパイハットの男が言葉とは裏腹に口元を歪ませながら口にした。
 色白な肌に整った容貌を持つ、だがどこか見る者へ病的な印象を与える男だ。
 病的といえば寝台の上の彼も負けてはいないが、こちらの男は件の彼には真似のできない奇怪な性質を有していた。
 彼はつい数秒前まで、間違いなくこの空間には存在していなかった。それが、突然姿を現したのだ。何もない虚空から、当たり前のように!

「毎日毎日、よくそう楽しそうにしていられるものですね」

 苦笑交じりに溢すような文面だが、赤い瞳の彼の顔にはやはり表情らしいものはない。底のない虚無。定められた空虚。只管に虚ろな男だった。

「死魚のような眼、色を写さぬ顔。ハ、それほどまでに退屈とは、貴様を呼んだ女も浮かばれまい」
「そうでしょうか。僕にはそうは思えませんが。……だとしても。彼女の目論見もこの戦争も、そして貴方も、何もかもが――」
「ツマラナイ、か?」
「はい」

 ツマラナイ。そう、彼にとっては、何もかもが――ツマラナイ。
 全能たれと願われ、それを自らの存在を以って達成する。その為だけに生み出された存在、いわば【創られた希望】。それが、彼だった。
 特筆した才能など何もない、文字通りどこにでもいるようなごくごく凡庸な少年を素体に、その脳髄にこの世に存在するあらん限りの才能を詰め込んだ。
 結果として生み出されたのは、虚無。全能故の退屈さだけを抱いた、深淵を擬人化したような男。
 今、彼の右腕には赤い刻印が爛々と輝いていた。閉じた円環のようにも見えるそれが、人外存在……サーヴァントへの絶対命令権・令呪であることはこの期に及んで言うまでもあるまい。その三度限りの手綱で繋がれているのが、他でもないポークパイハットの彼である。

「哀れな男、そして愚かな男だ。貴様ほど退屈な男もそうは居るまいに、世を無味と嘯くか」

 この男もまた、深淵を思わせる底知れなさの付き纏う人物だった。
 英雄の高潔さとは縁遠く、その両眼には黒ずんだ感情の炎が絶えず燃えている。
 煉獄に堕ちた罪人を甚振り抜く紅蓮の高熱にも劣らない温度で火粉を散らし続けるその名は、恩讐。
 彼のクラスは、七騎のどれにも合致しない。
 その霊基はエクストラクラス・アヴェンジャー。世界に忘却されて尚、人類史にその名を刻んだ英霊にのみ与えられる復讐者の称号。
 人類史上最も高名な復讐者とされた彼は、まさにこのクラスを代表するような英霊だ。
 にも関わらず彼を呼んだ青年はこの通り、凡そ激情とは無縁の虚ろな実験体。
 何たる数奇かと、アヴェンジャーは嗤った。それと同時に、彼ほどの男が瞬時に悟った。

 これは、世界を取ることすら可能な人間だ。それだけの力を、その殻の中に宿している。
 しかし結局、彼が時代の牽引者となることはないのだろうとも理解させられた。
 何故なら、彼には熱がない。いつの世も時代を取る者には、それに足る熱が必要だ。
 仮に旧知の人物が目の前で惨殺されたとしても、彼は感情はおろか、眉一つ動かしはすまい。まさに、復讐者を反転させたような男だった。 

「その貴様が、聖杯は取ると言う。それが一番解せんよ、オレは。そのガランドウの心、鋼鉄の魂で何を願う? ――熱もない、執念もない。恩讐などある筈もないその精神で如何なる奇跡を望み、如何なる祝福(ワザワイ)で世界に君臨しようという」
「さあ」

 かつて希望たれと願われ、この世に生み出された青年は、その詰問に無味乾燥とした返答で応じた。

「僕はただ、彼女を追うだけです。聖杯が結果として何を生もうが、さしたる興味はありません」

 完璧な人類として生み出された日から、口癖のように彼は退屈だけを漏らしてきた。
 生みの親である科学者達は彼の才能以外には何の興味も抱かなかったし、彼の方も別段、青天の霹靂を望んだことはなかった。
 そんな彼に、ただ一度だけ未知を説いた者がいる。俗な外見の内に神話の悪魔ですら裸足で逃げ出すような、悪意ともまた異なったものを秘めた女だった。
 彼女は言った、未知を見せると。そしてその果てに、彼女は世界を滅ぼした。その巨大な絶望を伝染病のように世界へ解き放ち、歴史の中で幾度となく繰り返されてきた戦乱のどれもが軽く見えるほどの流血をもたらして……最後は嵐のような激しさの中で、死んだ。

 ――そう、彼女は死んだ。最悪だったのは、【死】という結末に【その先】があったことだろう。

 彼女が死して尚何かを目論んでおり、その舞台に自分を招いたというのなら、望まれた通りの役目は果たす。それが、今の彼の行動原理だった。
 聖杯戦争。聖杯に選ばれたマスターが集い、最後まで生き残った一主従だけが黄金の奇跡にその手を掛けることが出来る。
 彼女が次の絶望としてその趣向を選択し、世界を脅かすのに飽いて異世界にまで手を伸ばし。役者の一人として、自身を選んだ。
 彼がこの世界に留まっている理由は、それだけだ。
 もし聖杯戦争に彼女が噛んでいなかったなら、彼は速やかに自分のサーヴァントを自害させ、戦争が終わるまで無為に時間を費やしたろう。
 しかし、戦う理由が出来た。彼女は自分にそういうことを望んでいる。

 彼は、魔術師ではない。
 数多の才能の一環、あるいは知識の片鱗として道理は理解しているが、実際に魔術を行使して現実に不可思議を引き起こした経験は皆無だった。
 それでもアヴェンジャーは、この男は間違いなくマスターとしては最強の一角だろうと踏む。

「ハ――ならば良いだろう。束の間程の時間だが、オレは貴様の走狗として都市を駆ける」

 一つの絶対的な希望を作り出すために、一人の少年にあらん限りの技術と知能を詰め込んだ。
 そうして生み出された希望が、母の胎から生まれ落ちた人間に劣る道理がどうしてあろうか。

「だが、お前はまず知っておく必要がある」
「何をでしょう」
「お前が退屈と十把一絡げに切り捨てた、この地に集った願いの全て。その物語を、動機を! 貴様は理解し、既知としておかねばならん」
「……その必要があるとは思えませんが」
「お前は人間として完成されている、それについてはオレも認めよう。だがお前はヒトを侮りすぎている、それではいずれ足下を掬われよう。
 ……願う心が何を生むのか。……強き想いが何処へ至るのか。
 ――恩讐の炎を! 奇跡を轢き潰すヒトの可能性を! お前は、知らねばならない!」

 地獄の如き監獄島を、絶望を跳ね除け踏破し、遂には凱旋し復讐を遂げたアヴェンジャー。
 彼はこの昭和時代に集まった、全ての願いの持ち主を理解していた。
 監獄の看守が囚人のリストを持つように、彼はそれを承知しているのだ。

「では語ろう。
 ――全ての願いを。
 ――全ての祈りを。
 絶望の掌にありながら、希望を追い求めて踊る人間達の序章を」


◇◆


「この女は、哀れな小娘だ。彼女ほど、健気という形容の似合う娘はそういない。
 無実の罪で投獄された父を救うために傀儡となり、どんな理不尽も噛み締めながら歩んできた娘」

 アヴェンジャーが最初に選んだのは、如何にも彼が選びそうな女の話だった。
 違うのは冤罪で投獄された側ではなく、冤罪で奪われた側ということだろうか。
 更に言うなら、彼女は復讐しようとも考えていない。性根から優しい人物なのだ、彼女は。
 可能不可能以前に、荒事に訴えるという選択肢がそもそもない。そこに付け込んで利用しようと目論む人間に糸を繋がれ、マリオネットに成り果てても、自分の人生全てを捧げて、いつ届くかも分からない救いの手を先の見えない闇の中へと伸ばし続けている。

「いつの時代も、幼さに付け入る悪意に底はない。
 滅私を貫き傀儡に徹したままでは、伸ばした手は永遠に届かなかったろう――そんな闇の中で、彼女は聖杯戦争という希望を見出した。
 死の神を名乗る剣士を従え、振り翳す大義の剣はさぞかし鮮烈に違いない」

 糸を断ち切ったマリオネットが、奇しくも今度は糸を手繰る側として舞台へ上がった。
 初めて明確な覚悟を――自分の手で大望を叶えるという執念を乗せて振るう剣術の冴えは、アヴェンジャーの言う通り底知れぬことだろう。

「そうでしょうか。話を聞く限り、僕には傀儡は傀儡、としか思えませんが」
「然り。だから言ったろう、これは哀れな少女なのだ。絶望に見初められることなく、もう暫し踊り続けていたなら……聖杯などという胡乱な奇跡ではなく、もっと真っ当な希望を背負った人間が手を引いてくれるやもしれなかったというのに」

 奸計の掌を抜けた先で、紋白蝶が止まったのは絶望の掌だった。
 彼女はまだ、そのことを知らない。自分が迷い込んだ場所こそが真の袋小路だなどと、想像すらしていない。 
 故にアヴェンジャーは憐れむのだ、幼い剣士を。希望に出会えなかった、不遇の娘のことを――


                                              (Side:Hope――01:刀藤綺凛&セイバー


◇◆


「綺凛ちゃん、またねー!」
「はい、また明日もよろしくお願いします」

 ぶんぶん手を振って見送ってくれる剣道部の先輩に、愛想よくぺこりとお辞儀を返して帰途に着く。
 今年から発足して結果の積み重ねなどあろう筈もなく、本来ならば目立った結果を残すこともなかっただろう無名校の弱小剣道部。
 口では頑張ろうとお互いを鼓舞し合っていても、心のどこかで誰も期待していなかった。
 二回戦まで進めれば健闘賞、三回戦の土俵を踏むことが出来たなら大勝利。その程度の意気込みでは当然、本気で優勝を志している剣士達に届くわけもなく、彼女達は強豪の荒波に揉まれて一人また一人と脱落していった――ただ一人を除いては。
 その剣士は、決して目立つ人物ではなかった。
 性格は控えめで内気、誰か特別仲の良い友人がいるでもなく、道場の片隅で黙々と自主練をしているような、良くも悪くも印象に残らない人物。
 彼女の人となりをよく知る者は部員の中に一人も居なかったし、好かれているわけでもなければ特別嫌われているわけでもない。
 故に、誰もが予想していなかった。件の彼女が立ち塞がる剣士の全てを寄せ付けず圧倒し、悠々と優勝旗とトロフィーを勝ち取ってくるなどと。

 現金なものと言えばそれまでだが、それから彼女……刀藤綺凛は皆の人気者になった。
 同学年からは天才として持て囃され、一緒に弁当を食べたり、放課後どこかへ行こうと誘ってくれる人が初めて出来た。
 先輩方からは自分達の誇りであり、また可愛い後輩として愛され始めた。綺凛が容姿端麗なことに加えて小動物のように庇護欲を誘う愛嬌のある人物だったことも幸いして、誰も見向きもしなかった少女剣士は一躍部のマスコット的存在に成り上がった。
 綺凛は件の大会で結果を残してしまった時、早まったかな、と思った。 
 セイバーに自分の力量を見てもらうためということもあったが、生来綺凛はそういう質なのだ。
 剣のことになると人が変わる。仮に何の大義名分もなしに大会へ臨んだとしても、綺凛はなんだかんだで同じ結果を収めたに違いない。
 聖杯戦争において、目立つ行動は厳禁だ。どこから足が付くか分からないのだから、極力社会への情報露出は避ける必要がある。
 その点、綺凛の行動はマスターとしては落第もいい所の愚策だったのだが……その愚策の末に彼女を囲むようになった新たな環境は、今まで経験したこともないような新鮮さに満ち溢れていた。

「……随分、ガキらしい顔になったじゃねえか」
「あ……すみません。その、こういうのにはあまり慣れていなくて……」

 父親を救うために、綺凛はこれまでの青春を叔父のプランに従いながら過ごしてきた。
 父が収監されてからというもの、自分のために使える時間はいつも必要最小限のものだけだった。
 だが、今は違う。皆が綺凛を友達として扱ってくれるし、先輩は沢山可愛がってくれる。
 友達に誘われて、初めて学校帰りにファーストフード店に寄った。ゲームセンターなんてところにも連れて行ってもらった。
 今、綺凛はかつてないほどに充実した学校生活を送っている。最初はやはり当惑もあった。こんなことをしていていいのだろうかと焦燥に駆られたことも一度や二度ではない。だが結局彼女は、周りの人達が向けてくれる好意を無碍に出来なかった。
 今日は帰りは一人だが、いつもはクラスメイトの一人二人が隣に居る。霊体化したセイバーとこうやって帰り道で話すのも、数日ぶりのことだ。

「別にダメって言ってるわけじゃねえ。……それに、お前くらいの歳ならむしろそれが普通だろ」

 セイバーはそんな彼女を、一度として咎めたことはない。彼は元々、聖杯に縣ける願いを持たない異端のサーヴァントだ。
 聖杯を手に入れるために戦うというのならサーヴァントとしてそれに協力するし、仮に聖杯戦争を許せないというのならルーラーに反逆することも厭わない。
 要するに、彼は善のサーヴァントなのだ。綺凛が無辜の一般人を魔力源にせよなどと命じるようなことがあれば、きっとセイバーは反抗しただろう。しかし綺凛は、間違ってもそういった凶行に走るような人間ではない。
 願いを叶えたいという想いは強く抱いているが、結局のところ手段を選んでしまう。非情になりきれないのだ、綺凛は。何故なら、彼女は普通の女の子だから。
 セイバーは彼女を守るサーヴァントとして、綺凛に与えられた日常をずっと見ていた。自分の前では一度として見せなかった楽しそうに笑う顔や、頭を撫でられてこそばゆそうにする顔を見てきた。そうしている時の綺凛は、本当に幸せそうに見えた。

「その――ありがとうございます、セイバーさん」
「礼を言われるようなことをした覚えはねえよ」
「……だってセイバーさんは、私なんかのサーヴァントでいてくれますから」

 セイバーほどの優秀な英霊であれば、新たなマスターに鞍替えすることも難しくない筈なのだ。少なくとも綺凛はそう思っている。
 何より、綺凛は決して良いマスターではない。
 人間相手の剣術も、結局サーヴァントには有効打を与えられない。魔術の知識もない上に、行動も我ながら軽率なものばかりだ。
 頭だってプロの魔術師を出し抜ける程のものじゃない。自分より良いマスターなんてそれこそごまんといる筈。それなのに、彼は自分のサーヴァントでいてくれている。
 そのことが綺凛にとっては、とてもありがたかった。
 どんなにマスターとして駄目でも、根っこの部分は毛ほども揺らいでいない。綺凛は聖杯を求めている。聖杯で願いを叶えるために、自分の命さえ投げ捨てる覚悟がある。
 ただ、どれだけ覚悟があったところでサーヴァントが居なければどうにもならない。
 だからセイバーは、日番谷冬獅郎というサーヴァントは、刀藤綺凛にとって【最後の希望】なのだ。

 面と向かってむず痒くなるようなことを言われたセイバーは、やり辛そうに目を伏せ嘆息した。

「……直に、聖杯戦争も始まる。此処までの微温い前哨戦じゃなく、もっと本格的な戦争がだ」
「……はい」
「お前が聖杯を本気で取りたいってんなら、俺はその為に戦ってやる。だが、俺も万能じゃない。常に最悪の可能性は想定して動け」

 セイバーは自分の力を謙遜するような質ではない。
 これは、客観的な視点から語った事実だ。
 生前にもセイバーは、何度も敗戦を経験している。戦場とは常に予想外の連続だ。思い通りに進むことの方が圧倒的に少ないことを、これまで彼は身を以て経験して来た。
 自分が敗れ、綺凛を置いて消え去ることも絶対にないとは言い切れない。
 むしろその可能性は大いにあるだろうとセイバーは踏んでいた。問題は、その後だ。聖杯戦争は個人戦ではない。セイバー一人が大ポカをやらかして消滅する分には自業自得で済むが、残された綺凛は剣と鎧を剥ぎ取られた上で鉄火場に放置されるようなもの。
 願いを叶えることはおろか、生き延びられるかどうかも怪しい――

「――そして、決して絶望するな。最後の一瞬まで、諦めんじゃねえぞ」

 それでも、希望だけは捨てるなと。絶望に落ち、心に抱いた願いを諦めることはするなと、セイバーはそう言った。
 こんな見た目でも、生きてきた時間は綺凛よりもずっとずっと長いのだ。
 失礼な話、綺凛の方もその実感は正直なかったのだが、この時ばかりはそうではなかった。彼の言葉には、数多の苦楽を経てきた先人故の重みがあった。

「……はい!」

 その言葉に、綺凛が在りし日の師であり、父であった男の面影を見てしまったのも――無理のないことだろう。


◇◆


「一方で、これは傀儡となることを拒んだ娘だ。世の不条理を否と嫌い、それに背いた女。
 敢えて茨の道を進むと決め、ただ一人、求道を続ける兄に殉ぜんとする願いの徒」

 恵まれた、何の不自由もないことを約束された温室――それを自らかなぐり捨て、吹雪の吹き荒ぶ外界へ出る。その決断に如何程の勇気が必要かは想像に難くないだろう。
 彼女は、余人には想像も出来ないような深い愛情の持ち主だった。
 ブラザーコンプレックスと言ってしまえば陳腐だが、彼女は実の兄を心から敬愛し、親愛を寄せていた。一族から見捨てられ、劣等たれと誰もに望まれた兄を。
 一族への背信と取られてもおかしくない言動を繰り返しながらも、しかし彼女が兄のように疎まれるということはついぞなかった。欲すれば与えられる、望めば叶う。その気になればいつでもそんな堕落した生活を送れるほど、彼女は恵まれていた。
 富も名誉も生まれながらに備わっていた名家の娘。今更我欲で聖杯に願うことなどある筈もなく、やはり彼女の願いは兄の為に捧げる祈りだった。

「あらゆる愛情で兄に報いんとする想いは狂気と隣接している。
 兄の味わった絶望を知るからこそ、彼女は決してその愛情を覆さない。故に彼女が聖杯を求む理由も一つだ。――兄に希望を。愛する男に贈り物を。
 如何に思う、マスターよ! この女は自ら望んで、狂気の側へと一歩を踏み出したのだ!」

 彼女は、傀儡になりたくなかったのだ。
 兄を排斥して絶望を与えた、忌まわしい家の人間達と同じになりたくなかった。
 別に、自分が彼と結ばれなければならないというわけではない。
 彼を幸せにしてくれる女であれば、最愛の兄を任せてもいい。
 それが兄の幸せならば、喜んで己は退く。そして事実、今彼の隣にはある女がいる。女の方も兄の方も、とても幸せそうに過ごしている。
 そう――彼らは聖杯などなくても。充分に、救われているのだ。

「救われた者に伸べた救いの手は、どうなると思う?」
「…………」
「取られることのない救いの手はな、悪魔が引くのだ」

 既に戻り道は消滅している。伸ばした手を引き戻す手段はない。
 やはり彼女もまた、虫籠に囚われた白い蝶だ。希望などどこにもないプラスチックの壁に体当たりを続け、いずれは落ちるが定めの小さな命。

「この時代は巨大な蜘蛛の巣だ。切なる願い程、麗しい蝶はなかろうよ」


                                              (Side:Dispair――02:黒鉄珠雫&ランサー


◇◆


 『神童現る』『冬木の天才剣士』『現代に蘇った剣聖』――そんないささかセンセーショナルに過ぎる市内新聞の見出しを見つめ、黒鉄珠雫は小さく溜息を吐いた。
 中学剣道といえば、レベルに大体の想像はつく。しかし市大会ともなれば、相応の強豪が並び立っていたのだろう。
 その中でただ一度の不覚も取らず、無名の一年生が全員を圧倒したというのだから、これほどの扱いもされて然るべきなのかもしれない。
 無名の剣士が実力を以って名を上げる。珠雫も、そういうエピソードには覚えがあった。
 世の中に星の数ほど存在するしがらみの鎖を引き千切る上で、実力で掴み取った【結果】を見せ付けることに勝る手段は存在しない。
 彼女の兄、黒鉄一輝もそうだった。自分の置かれた不遇な環境に恨み言の一つも吐かず研鑽を続け、遂には無冠の剣王(アナザーワン)と呼ばれるまでに至ったのだ。
 この少女がどんな人物なのかは知る由もないが、兄の姿を誌面から思い浮かべてしまうのだけはどうにも否めなかった。

 これ以上感傷に浸っていても、単に時間を無駄にするだけだ。
 そう判断した珠雫は新聞紙をテーブルの上に置くと、携帯端末を取り出そうとして、そこでこの時代には携帯電話がまだ普及していないことを思い出した。
 珠雫は生まれも育ちも現代、この時代からすれば近未来の出身者である。
 キーボードの操作一つで大概の情報を得られ、小型端末を持ち歩いていればそれをキーボードの代わりにすることだって出来る。今までどこかで当たり前だと思いながら使ってきた最先端技術の数々が、此処にはない。その不便さと来たら、形容し難いものがあった。
 それは、日常生活を送る上での話だけではない。聖杯戦争を効率的に進めようと思うなら、情報の収集は必須だ。
 使い魔を飛ばす初歩的な魔術の心得さえ持たない珠雫は、その段階でまず一般的な魔術師に対してハンデを背負っていると言って差し支えない。
 ただでさえそんな状況だというのに、携帯電話やインターネットが使えないのは痛すぎる。ままならないものだと、何度も珠雫はやきもきさせられた。

「文句を言っていても、始まりませんか……」

 自分に言い聞かせるこの台詞も、もう何度目だか分からない。覚えている限りでも、この冬木市にやって来てからかれこれ十回は口にしている筈だ。
 そう、今更文句を言ったところで状況は好転も悪化もしない。
 何故よりにもよって昭和の時代で聖杯戦争を行うのか、そこについては生憎さっぱりだ。
 もっと便利な年代が幾らでもあるだろうと、許されるならルーラーに文句を言ってやりたい思いもある。
 だがそれでも、諦めようとは思わない。魔術の心得がなかろうと、珠雫には伐刀術がある。深海の魔女(ローレライ)と恐れられた、戦うための力がある。
 細かい部分や情報面では確かに遅れを取るかもしれない。ならば、正面から力で潰すまで。
 ……どこかの誰かを連想するような脳筋加減で我ながら嫌になる思いだったが、それが最適解だという確信が珠雫にはあった。
 そして彼女のサーヴァントは、そういった単純戦闘でこそ最大限にその力を発揮できる。

「ランサー。居ますか」
「……出撃か」
「聖杯戦争が長引けば、それで痛手を被るのは私達の方でしょう。キャスターのサーヴァントを筆頭とした"入念に準備を整えることで猛威を奮うサーヴァント"を安全に撃破するためにも、此処でペースを上げておいて損はない筈です」
「同感だ。わざわざ不精に走り、小癪な妖術師共に花を持たせてやる義理もない。下衆共が肥え太る前に、我が腕を以って一騎残さず蹴散らすまで」
「期待しています」

 槍などどこにも装備していない、まさしく巨人と呼ぶに相応しい剛漢。彼こそが黒鉄珠雫のサーヴァント・ランサーだ。真名を、戦国三英傑が一人――豊臣秀吉と云う。
 彼の拳を受け止められるサーヴァントは存在しない。槍のような鋭さと戦略兵器もかくやといった破壊力でもって、その拳を受けた物体は等しく粉々に砕け散る。
 珠雫はこれまでの戦いの中で、そうなったサーヴァントを何体も見てきた。
 珠雫のランサーは、強い。力こそが究極なのだと言外に知らしめる圧倒的な破壊力を持った彼は、既にこの冬木で幾つもの戦果を上げている。
 ――珠雫達は既に、他人の願いを踏み潰している。どうしようもなくなり、最後の手段として聖杯に縋り付いた哀れな者を蹴散らして、今日この日まで生き延びてきた。

 それだけではない。珠雫達が倒したのは何も、サーヴァントだけに限った話ではないのだ。
 宝具でドーム状の障壁を貼り、その中に籠城することでやり過ごそうと目論んだ主従がいた。
 それをランサーは事もなげに自分の拳で打ち砕き、そして――絶望を顔に浮かべたマスターとサーヴァントの両方を、彼は纏めて葬り去った。
 珠雫が直接手を下したわけではない。それでも、珠雫にはあの時ランサーを止めることが出来た。
 そうでなくても事を済ませた後のランサーを叱責し、過ちを繰り返さないように努めることは出来た筈だ。しかし彼女はそれをしなかったし、今もしていない。
 必要がなかったからだ。これは戦争。サーヴァントを失ったマスターが最後に助かるという保障もないし、再契約を行うことでまた自分達の前に立ち塞がってくる可能性だってある。ランサーの行動は聖杯戦争に臨む者としては、至極正しいものなのである。

「行きましょう、ランサー。私達の願いの為に」

 珠雫は、兄の為なら何でも出来る。そう思っているし、事実として今もその通りだ。
 この聖杯戦争に参戦することを決めた時も、そうだった。
 兄の為に手を汚し、そうして勝ち取った奇跡という名の希望を彼に贈ろうと思っていた。
 その想いは、今も変わってはいない。珠雫は勝つつもりで昭和の冬木に立ち、英霊を召喚した。
 私の願望(あい)を以て、全ての願望(ねがい)を打ち破る。
 そう宣言した始まりの日も今となっては大分前のことになるが、あの時と今では、一つ違うことがある。

 あの時の珠雫は、まだ綺麗なままだった。兄を愛する一心で戦争に参加することを決めはしたものの、禁忌の一線までは越えていなかった。
 だが、今は違う。直接的か間接的かの違いこそあれど、珠雫のせいで確実に一人の命が失われた。
 もはや黒鉄珠雫は綺麗な少女などではない。純潔を保っているだとか、見目麗しいだとか、そういう以前の問題だ。――人殺し。今の珠雫は、人殺しなのである。

 元々、戻り道などどこにもない戦いだ。仮にあったとしてもその道を選びはしなかっただろうが、今となっては珠雫の意思は関係なく、後戻りは許されなくなった。
 仮に珠雫が聖杯戦争に勝利し、自分の願いを叶えて冬木を出ることが出来たとしよう。
 望んだ通りの奇跡を兄へと贈り、彼が誰からも疎まれず、理不尽を科されることもない幸福な世界を作り上げることが出来たとしよう。
 それでも、そこに居る自分は彼らの知る自分ではない。人を殺し、沢山の願いを踏み潰し、誰かの希望を踏み台にして帰ってきた絶望の罪人だ。
 その時私は、今までのように笑えるだろうか。兄やステラ・ヴァーミリオン、ルームメイトの彼へいつも通りに接することが出来るのだろうか。

 そんなことが、許されるのだろうか。

(……構わない)

 弱気を起こしかけた自分を叱責し、止まりかけた足を強引に動かして家を出る。春の冷風が肌に痛かったが、気にも留めない。
 聖杯戦争に参戦した時点で、こうなることは必然だったのだ。サーヴァントなんて存在を呼び出し、互いの願いを懸けて行う殺し合い。
 これで死人が出ない筈がないし、誰かを殺さずに勝利することなど出来る筈がない。遅かれ早かれ、いつかはこうなっていたのだ。自分の場合は、それが少し早かったというだけのこと。聖杯戦争が進行し、重要な局面で要らない迷いを抱くよりはずっとマシに違いない。
 そう自分へ言い聞かせながら、珠雫は今日も戦いへ向かう。

 ――そんな彼女の胸には、もう一つ懸念があった。

 穂村原学園。彼女がロールの一環として通っている、こう言っては悪いがありふれた学び舎だ。珠雫は当然、クラスでも目立たないように努めていた。
 別段友人も作らず、登下校は当然一人でする。元々、不登校生は悪目立ちするというだけの理由で通っている学校だ。必要以上のものをそこに望んではいないのだったが、ある日、珠雫は此処にある筈のない名前を見つけてしまった。その時の驚きたるや、言葉にし難いものがある。
 実際に顔を見たわけではない。……もとい、顔を見る勇気がない。
 もし本当にそれが珠雫の知る"彼"だったなら、どんな顔をすればいいのか分からなかったからだ。

 自分のルームメイトであり、姉のような存在でもある"彼"。
 彼は今の自分を見て、どう思うだろうか。――珠雫は、彼の顔と名前を脳裏の片隅に追いやった。今は、何も考えたくなかった。早く帰って眠りに就きたかった。


◇◆


「正義とは何だと思う? ――答えは【傲慢】だ。正義などという定義の困難な理屈を並べ、耳障りのいい綺麗事を並べながら悪を誅する。
 更に質の悪いことだが、正義は時に過つ。無実の罪で悪の名を着せられた者は、どれだけの時間が経とうと薄れることのない恩讐を内に飼って生き続けるのだ。
 ……何時か正義に報いを与える日を夢見て、な。これを傲慢と呼ばずして何とする」

 後半の話は、恐らくアヴェンジャーの実体験に基づいた話なのだろうと青年は推察する。
 辛辣な物言いとは裏腹に、彼はこれから語る主従のことを高く飼っているように見えた。
 実際この主従は――特にサーヴァントの方は、今回の聖杯戦争に招かれた全ての英霊を引っ括めても最も異端な在り方の持ち主だ。
 何と言っても彼女は聖杯戦争の原則、神秘の秘匿という概念を完全に無視している。白昼堂々霊体化もせずに人前に姿を現して、何をするかと思えばアメリカンヒーローの真似事だ。悪人は許さないと豪語し、市民の味方を名乗り、挙句の果てに真名を街のド真ん中で高らかに宣言する始末。
 もし頭の硬い魔術師が見たなら卒倒してしまうのではないかと思うほど、そのサーヴァントは人目を憚ることなく冬木の空を飛び回っていた。

「あのライダーは【感染源】だ。断じて、英雄などではない。
 アレが正義を名乗って民衆の前に現れる度に、無知な民の価値観がアレの形に固定されていく。彼女が庇うなら正義、彼女が拳を向けたなら悪――といった具合にな。
 時に希望は伝染する。……だがオレに言わせれば、アレが振り撒いているのは熱病だ。アレが正義の象徴となれば、いずれ監獄のような社会が出来上がるだろう」

 個人の正義が基準点となった世界は地獄だ。
 俗にディストピアと呼ばれる管理社会も、あるいはそういった個人の秩序が感染源となり、それが社会全体に伝染していくのをきっかけに誕生するのか。
 しかし、当の彼女にその自覚はない。彼女にしてみれば、自分に与えられた正義という役目を誠実にこなしているだけに過ぎないのだ。
 だからこそアヴェンジャーは、彼女を興味深い女だと思っていた。志半ばで無謀な行いの報いのように死ぬのか、それとも正義の戦士らしく誰かを助けて力尽きるのか。
 仮に聖杯の前に立ったなら、彼女は聖杯を善悪のどちらに定めるのか。
 興味は尽きないが――、一つ彼には解せないことがあるようだった。

「ライダーのマスターは嘘を吐いている。そしてライダーは、間違いなくそれを認識している。だが、一向にそれを糾弾する気配がない」
「……単に、主従仲を考慮して抑えているだけではないのですか」
「いいや、違うな。奴にそんな利口な真似が出来るとは思えん。……あるとすれば、奴もまた何らかの変化を起こしかけているのか。
 いずれにせよ、確かなことは一つだ。――この主従には先がない。比喩ではなく、文字通りの話だ。人の手によって再現された人格は自壊を引き起こし、遠からぬ内に記憶(データ)が暴走を始めるだろう。そうなれば、正義を従える娘は人間の敵になる。
 正義の使者たるライダーに討たれて然るべき、狂乱した徘徊者(ワンダラー)へと変貌する」

 正義を従える作り物の心は、こうしている今も砂の城のようにボロボロ崩れ続けている。
 今は先延ばしにされていても、タイムリミットは必ず来る。奇跡は決して起こらない。
 あのライダーだ。どんな逆境に立たされようと、どんな悲劇を目にしようと、たとえ自らのマスターを自分の手で破壊する事態になろうとも、決して絶望はすまい。
 では、そのマスターはどうか。
 崩れていく心と思い出の中で、彼女は最後まで微かな希望の光を見続けることが出来るのか。

「……記憶(データ)、ですか」

 完全者の青年が呟いた言葉の意味は、アヴェンジャーにも理解の出来ないものだった。
 いや――彼自身も、それを理解出来ていなかったのかもしれない。


                                              (Side:Hope――03:アイラ&ライダー)                  


◇◆


 盛大に倒壊した建造物を前にして、ライダーのサーヴァント、アースちゃんは顔を顰める。
 まだ警察は駆け付けていないようだが、明日の朝には新聞の一面を飾るだろう。戦車砲か何かを撃ち込んだように派手な倒壊の跡は、明らかに自然ではあり得ないものだ。
 幸いなのは、倒壊したマンションは既に廃墟となって久しかったことか。
 仮に住人が中に居る状態でこれだけの破壊力をぶつけたなら、どれほどの大惨事になっていたか考えただけでもゾッとする。
 大方メディアは過激派テロリストの犯行とでも解釈し、思い思いの憶測で事件を報じるのだろうが、アースちゃんは真相がそうではないことを知っている。
 人間の悪意よりもずっと恐ろしい、巨大な悪の力が影にあることを知っている。

「……サーヴァントめ。なんてやつだ」

 かく言うアースちゃんも、聖杯戦争に際して召喚されたサーヴァントの一騎だ。
 しかしアースちゃんは、善良な市民の生活を脅かして自分勝手な戦いを繰り返す悪いサーヴァントを心の底から嫌悪し、許せないと思っている。
 彼女が人前に堂々と姿を現し、彼らのために戦っている理由はそこだ。
 サーヴァントやマスターの身勝手な都合で傷付けられ、幸せな日常を奪われる悲しい人が生まれない為。彼らを守る為になら、アースちゃんは自分の安全を顧みない。
 街中で魂喰いや戦闘など始めようものなら、彼女は黙っちゃいない。
 威勢よく雄叫びをあげながらその場所へ急行し、許し難い悪の英霊を必ず成敗する。
 ――たとえそれが、聖杯戦争のセオリーに反していようとも。あくまでアースちゃんは、自分の信じる正義を振り翳して戦う。

「許せない。もし私の前に姿を見せたなら、その時は覚悟してもらうぞ」

 アースちゃんは、頭が固い。
 作られた存在だからといえばそれまでだが、あまりにも正義の基準が極端すぎるきらいがある。
 そんな彼女のことだ。――もしもその目に、その心に悪と認識されたなら、たとえ聖杯ですら彼女の成敗対象となり得る。
 彼女は悪が嫌いで、弱い者いじめが嫌いで、嘘つきが嫌いだ。
 聖杯のもたらす奇跡とやらがそれに当て嵌まる【悪いもの】だったとしたら、アースちゃんはそれを許さない。彼女は、そういう英霊なのだ。そう願われた正義なのだ。

「……そろそろ、アイラも帰ってる頃かな」

 そして今、アースちゃんは一人きりではない。
 彼女もサーヴァントである以上、当然の理屈として彼女を召喚したマスターが存在するのは自明だ。
 強く凛々しく戦うアースちゃんとは全く違って、彼女のマスターは"戦えない"マスターである。
 魔術など使えないし、超人のように特別な力を持つわけでもない。ただ一つ人間と違うのは、彼女が人間の手で作られた精巧な機械……アンドロイドであるということ。
 とはいえ、端から見てそれに気付ける者はまずいないだろう。それほどまでに、彼女はよく出来た人工知能(こころ)を持っていた。
 同じ作り物でも、そんなだから彼女は馬鹿正直な正義しか貫けないアースちゃんよりも数段人間らしい。

 アースちゃんの目から見ても、彼女……アイラというマスターは"いい子"だった。
 人に迷惑をかけたがらず、聖杯の為に人を殺すなんてことは考えもしない正しい少女。
 ただ、アースちゃんは時々アイラが分からなくなる。
 ――彼女は自分に、ずっと嘘を吐いているからだ。それが何かは分からない。しかしアースちゃんには分かる。アイラは、自分に何かを隠している。
 昔のアースちゃんなら、その時点で彼女を嘘つきと糾弾していただろう。嘘つきとは仲良く出来ないと言い放ち、マスターそっちのけで自分の正義に没頭していた筈だ。
 そう、昔の彼女ならば。嘘と悪をイコールで結んでいた頃の、あの魔女っ娘に出会う前のアースちゃんならば。

「……やっぱり、難しいな……」

 アースちゃんは困ったような顔をして、記憶の中のとある嘘を思い返す。
 あの夜、魔女っ娘に見せてもらった夢。戦いも正義も悪もない、安らぎに満ちた幻想。

 ――アースちゃんというサーヴァントに願いごとがあるとすれば、それはもう一度あの幻想(うそ)の世界に行くことなのかもしれない。


「アイラちゃん、今日はもうあがっていいよ」
「……? 退勤時間にはまだ一時間ほど早いですが……」
「いいっていいって、隠さなくても。アイラちゃん、今日あんまり体調よくないんでしょ?」

 そう言われて、動揺の表情を隠せたか分からなかった。
 ぺこりと頭を下げて気を利かせてくれた店長にお礼を言い、足早にその場を後にする。
 制服から私服に着替え直し、無人の更衣室でアイラは自分のこめかみに手を当て、静かに奥歯を噛み締めぎりりと音を鳴らした。
 アイラに与えられたロールは、冬木市に住む大学生というものだ。
 地元のスーパーでアルバイトをしながら一人暮らしをしている、どこにでもいるような普通の娘。
 だが、本当は違う。アイラは人の手によって生み出された心を持ったアンドロイド、"ギフティア"だ。
 ギフティアは、81920時間の耐用期間の間だけは本物の人間のパートナーとして一緒に生きることが出来る。彼らの生活を豊かにし、家族や恋人を失ってぽっかり空いた心の隙間を埋めることが出来る。耐用期間の間だけは、人の心に寄り添うことが出来る。
 ただし、あくまでそれは81920時間という短い時間の内だけだ。
 それが人工の心の限界。それを超過した瞬間に、彼女達は人間の敵になる。

 アイラも、そうなったギフティアを見たことはあった。
 人格と記憶を崩壊させながら暴走する姿はあまりに悲しく、こういう事態を生まないためにも、人間とギフティアの別れは必要なものなのだと強く感じたのを覚えている。
 ――今でも、覚えている。覚えているのに、彼女は今もこうして活動を続けていた。

 耐用期間の終わりを迎え、アイラは機能を停止した筈だった。
 いつの日かの再会を願いながら、未練などなく意識を閉ざした。
 こぼれ落ちて消えていく筈の心はしかし誰かの手のひらで拾い上げられ、【もう一度】のチャンスを与えられることと相成った。
 それが、聖杯戦争。幕を閉じた筈の恋に続きを与えることが出来る、奇跡の行方を懸けた戦い。

「私は……」

 アイラは今でも迷っている。聖杯を手に入れるために戦うべきなのか、それとも潔く恋の続きを諦めて、再び目を閉じるべきなのか。
 ギフティアは人を助けるために生み出された存在だ。そのギフティアが誰かの願いを踏み躙って我欲を優先するなど、本来なら言語道断の行いである。
 しかし、諦めたなら今度こそ此処で終わりだ。"もう一度"は、今度こそない。
 如何に回収部署、ターミナルサービス課の一員として別れを割り切っている彼女でも、こればかりは機械的に選択することは難しかった。
 すぐには決められない。だが、残り時間は着々とゼロに近付いている。

 店長は自分を体調が悪そうに見えると言っていたが、アイラにはその自覚は全くなかった。
 如何なる手段で自分の人格が延命されているのかは、定かではない。
 それでも――遅らされている崩壊が限界に達し、自分が自分でなくなる日は遠くない。そうなった日のことを、アイラは考えたくなかった。
 アイラは、答えを出さなければならない。今ならまだ、答えを選ぶことが出来る。それすら出来なくなる前に、プラスティックのメモリーの行方を定めなければならない。
 更なる希望を求めるか、未来に希望を託したまま消えるか。
 どちらにせよ、確かなことが一つある。

 ……アイラは、アースちゃんを裏切ってしまう。それだけは、揺るぎようもなく確かだった。


◇◆


「愛する物の堕落――いや、変化を許せないのは全人類に共通した悪癖だ。女であれば容貌の劣化。宗教であれば教義の変遷。国家であれば在り方の変化。
 それが堕落と呼ぶべきものか否かは個人の思想に拠るが、大概は心の中に不満こそ抱けど、時間の経過と共にその変化を受け入れていくものだ。
 だが希に、その"受容"が出来ない人間が存在する。そういう者が怒りと歪んだ使命感を蓄積させていくと、何が起こると思う?」
「革命、ですか。それはまたありふれた話ですね」
「そう、ありふれた話だ。――それだけに恐ろしい。この手の人間の決意は短絡的な手段として外界へ発露し、数多の屍を積み上げるのだ」

 今回は、国だ。自分の祖国が腐敗していく様子を受容できずに、このマスターは立ち上がった。
 ペンの代わりに銃を取り、物理的な力を以って祖国に革命の嵐を吹かせんとしている。……いや。正しくは"していた"というべきだろうか。
 彼はこの冬木を訪れる前に、自分の全てを懸けた戦いに敗れている。
 全てとは、金の話ではない。自分の命すらもチップとした死のギャンブルに難攻不落の嘘(小細工)を抱えて臨み、涎を垂らした死神に喰い尽くされた。
 彼の革命は一度失敗している。無念の内に生涯を終え、そこを聖杯に見初められた。

「先のライダー・アースの話ではないが、極端過ぎる思想は等しく傲慢の領域に達する。
 過ぎた傲慢は狂気だ。この革命家が持つような狂信の思想は、力を持たない人間にとっては災害よりも尚恐ろしい脅威として君臨する。
 ……奴が変わっていない、以前の奴のままであればな。
 果たして絶望の楔を打たれた狂信者は、それでも悟ったような顔で大義を実行できるのか」

 それが分岐点だろうと、アヴェンジャーは言う。
 この革命家は彼の言う通り、力なき者にとっての天敵だ。
 対話の前に相手を殴る、切り札ではなく前提としての暴力行使。
 何の心得もない人間であれば、抵抗することも出来ずに蜂の巣にされる未来さえあり得るだろう。
 そして質の悪いことに、彼の引いたサーヴァントがそもそも兵器、脅威という言葉に人の形を与えたような存在と来ている。
 彼らは間違いなく、この聖杯戦争全体で見ても上位に食い込む戦力を持った主従の筈だ――しかしアヴェンジャーはこうも言った、彼は楔を打たれていると。

 それは死の記憶であり、死の恐怖。克服した筈の感情を、死の寸前で取り戻すという絶望。

「それが出来るのならば大したものだ。その狂信は必ずや、他の願いを跳ね除けて進撃するだろう。
 だが出来ぬのならば、奴に未来はない。――何しろ背を預けるサーヴァントが悪い。最悪だ。聖杯の性根の悪さが透けて見える。
 奴の言葉を借りて言うならば、それも天命というヤツなのかもしれんがな」

 アヴェンジャー、復讐の権化をしてこう言わしめる英霊。
 子女の殻を被って妖艶に笑うその鬼は、彼の言葉通りの怪物である。
 常人では、あの大鬼を従えられない。恐れという感情をそもそも抱かない狂人でもなければ、逆に取り殺されてしまうのがオチだ。
 死の峠を乗り越えた革命家は、まだ自分の中の狂気を保っていられるのか。
 万一彼が、彼女の前で恐怖の感情を思い出すことがあったなら――きっと、それが彼の最期の時だ。


                                              (Side:Dispair――04:佐田国一輝&アサシン)


◇◆


 革命家のマスター、佐田国一輝を取り囲む環境は元世界のものと然程変わらなかった。
 即ち、国際手配中のテロリスト。佐田国と志を同じくする同志達の顔触れも、佐田国が知るものから誰一人として変わっていない。
 現在は聖杯戦争の舞台である冬木市に潜伏しながら、来るべき聖戦の時を待機している状況だ。

「愚かな連中め」

 同志からの報告を受けて、佐田国は心底の軽蔑を含んだそんな台詞を口にした。
 彼らの話によれば、現在冬木市内では聖杯戦争の原則を忘れたマスター達による大規模な戦闘の痕跡が数多く確認されているという。
 廃マンションの明らかに不自然な倒壊。住宅街を襲った原因不明の大火災。
 ――極めつけが、一際異質な威容で冬木郊外に君臨している"城"と、何一つ憚ることなく人前に姿を現し、真名を公開し、勧善懲悪を謳って飛び回るアースなる英霊だ。
 その馬鹿としか形容のしようがない行いのせいで、冬木の警察は警備の目を明らかに強化している。
 この世界に暮らすNPCの安寧など、佐田国に言わせれば視界に入れるにも値しない些事である。だが、彼の戦力の一つである同志達はそうは行かない。彼らはあくまでこの世界の住人なのだ。加えて件の人間衛星アースは、英霊であるだけに無視することも出来ない目障りな存在だった。

「全くだ。自殺願望があるならば、速やかに首でも括ればいいものを」
「同志佐田国、如何にする? アースを落とすことは俺達には出来ないが、愚かなマスターを探るくらいなら俺達にも可能かもしれんぞ」

 佐田国がNPCを軽視しているのは先に述べた通りだが、彼は革命に賛同する同志に限ってはその生命を重んじ、尊重するつもりであった。
 彼は早々に聖杯戦争についてを彼らに打ち明け、それを信じさせることに成功。
 聖杯戦争を有利に進める為の"強力な暴力を持った手駒"を、首尾よく入手することが出来た。
 彼らの協力がなければ、強力な銃器を調達することも難しかっただろう。いざとなればアサシンを使って警察なり暴力団なりを襲撃して入手しようかとも思っていたが、必要最小限の動きで獲得出来るのならばそれに越したことはない。
 優秀な同志に恵まれたことを、佐田国は心の底から感謝する。彼らに報いる為にも、今度こそは必ず革命を遂げねばならぬと兜の緒をより一層固く締め直した。

「そうだな。わざわざあの淫売に暴れる場を与えてやることもない――狙いはマスターに絞る。
 奴らは決まって撃てば死ぬ。どだい俺達の革命を邪魔立てする度し難いゴミどもだ。ガキだろうが容赦をする必要はどこにもない」

 革命の完遂を妨げる障害物は、彼らに言わせれば等しく屑だ。
 掃討されるべき悪であり、のうのうと息をしていることすら度し難い。
 女だろうが子供だろうが、彼らはそれを殺すことに微塵の罪悪感も覚えはしないだろう。
 その程度のことで引き金に乗った指を止められるのであれば、そもそも彼らは革命などという大それた野望を志してはいない。
 敵ならば殺す。聖杯戦争の参加者は皆殺しだ。
 何故なら生かしておく理由がない。彼らにとって他人の願いや希望など、聖杯へ至る道へ敷き詰める肉の煉瓦と何一つ変わらないのだから。

「マスターを狙うというのであれば、穂村原学園への襲撃も視野に入れておくべきだろう。此方から働きかけなくても勝手に人が集まってくれるんだから、それを一網打尽にしてしまえばいい。あれだけの生徒数が居るのだから、一人や二人の当たりはあってもおかしくない」

 同志の提案に、佐田国は頷く。
 本来の形式の聖杯戦争ならば兎も角、今回のような形式であれば、学生のロールを与えられ、日常の中に潜伏しているマスターも一定数存在する筈だ。
 彼らが日常の一環として向かう学校を襲って武力を行使すれば、成程簡単に数が稼げる。
 とはいえそれだけの大事をしでかすとなると、相応の準備は必要だ。
 自分の素性を晒すことなく速やかに、且つ確実に大量の命を殺戮しなければならない。
 この時ばかりは、佐田国が蛇蝎の如く嫌うアサシンも動かす必要があろう。
 だが、あくまでそれは念の為の備えだ。佐田国の予想では、教室内部に向けて機関銃の一丁でも乱射してやれば、殺戮行為自体は恙なく進めることが出来る。
 実際、外国のテロではよくある手口だ。対テロリストの備えが脆弱な、ましてや昭和後期の日本で通用しないとは思えない。

(この戦い、勝つのは俺だ。俺は自分の勝利を信じている。今の俺にはあの時以上に、己の望む天命を引き寄せる力が宿っている。……強いて問題を挙げるならば……)

 佐田国は、自分が遅れを取る可能性など微塵も考えてはいなかった。
 彼がただ一つ警戒している存在を挙げるとすれば、それは――

「そんなに怖い目ぇせんと。寄って来る女(もん)も寄って来えへんよ?」
「耳が穢れる。戯言を吐きたければ壁を相手にしていろ、売女が」

 鬼の長角を頭から生やした、露出の多い和装の少女。瑞々しい葡萄の乗った杯と瑠璃色の酒瓶を携えた彼女からは、絶えず果実系の酒気が漂っている。
 これは人の理性を溶かして骨抜きにする、魅了の毒だ。
 佐田国の同志達は既に拠点を出ていたが、もしも彼らの前でアサシンが酒気のスキルを発動したなら、彼らは一秒と保たずに蕩けて使い物にならなくなるだろう。
 佐田国自身、彼女を抑えるのに令呪一画を要した。

「もう、親切で声掛けてやっとんのに。……そろそろ本格的に聖杯戦争が始まるさかい、旦那はんにも一応伝えといてやろうと思ったんよ?」

 彼女が強いか弱いかで言えば、疑いようもなく強い。それは、佐田国も認める。
 サーヴァントが彼女だから、佐田国は戦力面では全くと言っていいほど不安を抱かずにいられるのだ。その華奢で弱々しい見た目からは信じられないことだが、彼女を真っ向から打ち倒せる英霊はそうは居まい。聖杯を手に入れようと思ったなら、彼女は間違いなく最上に近いカードだ。
 ……戦力としての側面だけで見たならば、そうなる。
 しかしもう一度サーヴァントを召喚する機会が与えられ、サーヴァントを鞍替え出来るというのなら、佐田国は一瞬も迷わずにこのアサシンを切り捨てる。
 彼がアサシンのように浮ついた人格の持ち主が嫌いだという事情も、確かにある。とはいえ、彼女の本質を理解したならそれしきのことは忽ち些事に成り下がる。

 アサシン――酒呑童子は怪物だ。討伐されるべき魔物であり、英霊などでは断じてない。
 革命家・佐田国一輝ではなく一人の人間として、この鬼がのさばることを許してはならないと本能が警鐘を鳴らしているのだ。
 佐田国にとって、アースよりも他の強力なサーヴァントよりも、自分の呼び出してしまったこの鬼こそが何よりも大きな悩みの種だった。

「それを知ったところで、俺の、俺達のすべきことは何も変わらん。
 革命という偉業を成すために、使える力は全て使う。誰でも殺す、幾らでも殺す。
 糞ほどの価値もない余興をとっとと終えて、聖杯を持って我らの日本国に凱旋する。
 ――貴様をこの冬木に参じた者の誰よりも激烈な地獄へと突き落としてから、な」

 泣く子も黙る、とはまさにこのようなことを言うのだろう。
 視線で人を殺せるのではないかと錯覚してしまうほどの殺意を込めた眼光を向けられて尚、アサシンは動じた様子もなくケラケラ笑うだけだった。
 アサシンから見ても確かに佐田国はイカれた狂人だが、鬼の頂点である彼女にしてみれば、狂気など酒のつまみにかっ食らう肴に過ぎない。
 要はこれは、二人の間で繰り広げるゲームなのだ。
 食らうか食らわれるか、滅ぼすか滅ぼされるかのデスゲーム。
 かつて佐田国を恐怖と絶望のどん底に突き落とした"嘘喰い"にも劣らない破滅を背負った酒の悪鬼が、いつでも彼の側で嗤っている。

 楽しそうに、愉しそうに。


◇◆


「彼はまさに、この聖杯戦争に呼ばれるに相応しい男だ。かつて希望を夢見て行動し、人の愚かさに絶望し、そうしてこの最果てに辿り着いた。
 悲しいと涙を流し、奪われる者達の胸中を想像して心を曇らせる。それほど人間味を残しておきながら、しかし己の理想を捨て去ることは選択肢に入ってすらいない。
 まさしく此奴はあの女が望む絶望だ。さぞかし期待していることだろうよ、奴も」

 男の心はかつて、若い希望で溢れていた。
 争いのない世界を作りたい。それは真っ当な価値観を持って生まれた人間であれば、誰もが一度は志し、しかし現実を知ると共に諦める夢物語。
 貧困層の救済を続ける中で、彼も例外なくその現実に直面した。
 争いの根絶された世界は、きっと実現できる。そんなか細い希望を胸に、身を粉にして奔走し続けた男の努力が報われることはついぞなかった。
 人類は彼の想像を超えて、どこまでも愚かだったのだ。
 彼はそれを知り、世界に失望し、打ちひしがれて――遂にはその心へと黒い灯火を輝かせるに至った。

「……確かに、それは的を射ているかもしれませんね」
「彼が絶望の末に悟ったのは真理だ。世界から争いという名の腫瘍を消し去ろうと思ったなら、真っ先に人類の存在が弾き出される。
 だがその結論へ達した人間は、何も彼だけではない。言ってしまえばこれも、先の革命家と同じでありふれた話だ。救済者の末路としては定番と言ってもいいだろう」

 この聖杯戦争で、彼が立ち止まるきっかけを見出すことはあり得まい。
 聖杯の巡り合わせはかくも悪辣だ。
 失望と絶望の末、世界には選民――淘汰による救済が必要であるとの思想に至った男へ、最終戦争という終わりを望む現人神の英霊をあてがった。
 これではブレーキの壊れた車を、坂道で爆走させるようなものだ。
 勢い付いた絶望は、涙を流して悲しみながら、多くの人々から生きる望みと明日を奪い去るだろう。聖杯の奇跡を死神の鎌に変え、そうして世界を救うだろう。
 ――全ては争いのない、美しき世界のために。癌であり害虫である人類は、死の厳罰を以って犯した罪の全てを清算すべきである。
 彼らは真面目な顔で、そんな狂気を吐き散らす。

「あの現人神が勝利したなら、世界の命運は尽きるだろう。人類は彼らが謳うように、皆殺しという結果で救済される。――もとい、滅ぼし尽くされる。
 それが嫌だというのなら、殺すしかないぞ人類よ。人類の掃滅者を名乗る二つの絶望を撲殺することで、己が希望を、未来を勝ち取るが良い!」


                                              (Side:Dispair――05:フラダリ&キャスター


◇◆


 昭和の町並みを俯瞰しながら、マスター・フラダリは室内灯も点けずに窓際へと立っていた。
 此処は、ポケモンという生き物の存在しない世界。カロスなどという地域は地球上のどこにも存在していない、フラダリにとって全く知慧のない異世界である。
 フラダリの知る世界では、人々の暮らしには良くも悪くもポケモンが密接に関わっていた。
 そのポケモンがただの一匹も存在しないこの世界の有り様は、フラダリの目にはそれはそれは見慣れないものに映った。
 ――だが、根っこの部分では同じだ。
 人間の本質は、世界の垣根を越えた程度では変わらない。この冬木市に住まう者達もまた、かつて己を絶望の淵へと追いやった人類と同質の愚かしさを孕んでいる。
 争いが止むことは彼らが生きている限り決してなく、我欲の為に他者を傷付け蹴落とすことに何の呵責も抱かない邪悪が平気な顔をして彷徨くばかり。
 聖杯戦争の舞台となるこの世界を訪れてから、一体何度そう実感させられたことか。

「……やはり君は正しい、キャスターよ」

 いつの世も、あらゆる時代も、どんな世界であろうとも、闘争以外で人は救えない。
 ただの一つの例外もなく、あらゆる生命に下る天誅。
 それは闘争という名の審判であり、虐殺という名の救済である。
 それこそが秩序を齎す絶対の法だと、彼のキャスターはかつてフラダリに言った。
 平等に降り注ぐ死という厳罰でなければ、人類の犯してきた罪は決して贖えない。――その通りだと、フラダリは幾度目かも分からない同意を覚えて一人頷く。

「皆で美しき世界を望めば、世界は――未来は変えられる。
 ……綺麗事だ。それが出来るなら、とっくに全ての争いはこの世から消えていなければならない」

 フラダリには、未来が見える。堕落の未来が、破滅の未来が見える。
 誰かがきっかけを与えなければ、世界に訪れる未来はこの凄惨なる現在さえも遥かに下回る、一縷の救いも存在しない絶望の坩堝と成り果てよう。
 奪い合い、傷付け合い、殺し合い、果てなく汚されていく世界。
 想像しただけでも怖気が走る。拳は出血するほどに握り締められ、胸が義憤の炎で焦がされる。

 フラダリがやらなければ、どこかの遠い未来で、誰かが自分以上の悲しみを背負うことになろう。
 自分達の醜さも愚かさも自覚することなく、穢れた現在を当然のものと思い込みながら日々を過ごす人間の数はどこまでも増え続けていくことだろう。
 人間という生き物は、生まれついて絶望の隣人なのだ。
 欲という感情を持っているから、時に人は他者から奪い取る。
 分け合えないから、譲れないから、そうすることで自分を満たそうとする。
 ―――歴史とは、一言その繰り返しだ。無限に繰り返されてきた、そしてこれからも永遠に繰り返され続ける絶望のエンドレスループ。
 これまではそれで上手く行っていたかもしれない。だが、そんなものは絶対に長くは続かない。
 少なくともフラダリはそう確信している。このままでは、世界はやがて行き詰まる。
 自分達の罪を認めず、蛮行を重ねてきた報いとして、いつかその未来は閉ざされよう。

「愛するが故に鞭を振るう。痛みと喪失こそ、世界を癒やすことの出来る唯一の特効薬だ」
「然り。そして全てを癒すとなれば膨大な激痛が必要になる。我々は痛みを以って、より大きな痛みを手に入れるのだ」

 命は、選ばれねばならない。
 明日とは、未来とは、平等に訪れるものであってはならない。
 未来へ進む為の切符は限定されるべきだ。
 それこそがフラダリの願い。そして、キャスターの望む景色。
 人類に絶望した男と、人という種を刈り取るために出現した男が抱く人類最後の希望。

 とはいえフラダリの呼び出したキャスターは、神の如く凄まじい権能を持ったサーヴァントではない。
 彼を低く評価しているわけでは断じてないが、仮に彼を何の策もなしに突撃させるような真似を繰り返したなら、フラダリ達の先はそう永くはないだろう。
 万事が整うまでは慎重に、滾る意思の光を押し殺して冬木の闇に潜伏しておく必要がある。
 雌伏の時なのだ、今は。いずれ世界にその願いを届かせるための、大いなる準備期間。

「――首を洗って待っているといい、この冬木に集いし全てのマスター達よ」

 世界が生み出せる物には、必ず限りがある。
 それは金もエネルギーも、―――生命でさえも。
 全てを失うか、それとも一握の何かを救うか。
 それを決めていいのは、断じて人間などではない。

「救済の時は―――必ず訪れる」

 聖杯という神の道具によってこそ、世界の行方は真に定められるのだ。


◇◆


「時にマスターよ。無間地獄という言葉に覚えはあるか?」
「……讒法、四重、五逆の罪を犯した者が堕ちる八番目の地獄。
 その苦痛は他の七大地獄に存在する全ての苦しみを合計した、更に千倍以上。
 ……間断なく極限の苦痛が押し寄せることから無間の名を与えられた、と記憶していますが――それが何か?」
「地上に居ながらその片鱗を味わったのだ、このマスターは。苦痛の程でいえば比べるべくもなかろうが、幼子にしてみれば大差はあるまい。極限の苦痛と恐怖、一縷の光もない絶望の海から漂着した、この冬木で最も深い闇を知る女だよ」

 彼女は、既に救われている。聖杯を手に入れるまでもなく、彼女の望みは叶えられた。
 鳥籠のように自分を取り囲む苦痛と恐怖。逃げ場などどこにもなく、毎日飽きることもなく、気の遠くなるような回数繰り返された『処置』という名の姦淫。
 ただの一度経験しただけでも一生残る外傷になり得るそれを、檻の中にも等しい狭く無機質で嫌な匂いのする部屋で何度も何度も繰り返す。
 人間という生き物が生きながらに無間地獄の片鱗を味わう方法があるとしたなら、まさに彼女の経験したものこそがそれに違いない。
 そんな地獄の真っ只中に置かれた人間が願うことなど、一つしかないのは明らかだ。
 ここを出たい。自由になりたい。誰でもいいから、助けてほしい――――
 そしてその願いは、サーヴァントという超常存在にしてみれば赤子の手を捻るよりも簡単に叶えられるものでしかない。
 いかに彼女を収容していた『財団』の力が強大であるとはいっても、サーヴァント……まして彼女が呼び出したバーサーカーレベルの存在ともなれば、ウォーミングアップにすらならない。発泡スチロールをカッターで切り割るようにあっさりと、呪われた花嫁を囲む格子は崩れ去った。

「されども、娘は理解していない。自分が解き放たれていることの意味もその重大さも、何もな。
 ――――七つの印、七つの指輪。淫王のための七人の花嫁、その七人目。
 あるいは聖杯を巡る戦いを終わらせるのは、未だ胎盤の内で眠っているだろう『何か』なのかもしれん。だとすれば、それは傑作なことだが」

 いつか必ず、その時は来る。
 それを防ぐために、世界は彼女に地獄を見せていたのだ。
 心を殺して冷淡に徹し、あらゆる罪の意識を消し去って、彼女を収容していた組織は最悪の事態から世界を守ろうとしていた。
 だがその防衛線は呆気なく突破され、花嫁は連れ出された。
 花嫁はまだ幼い。幼い腹を趣味の悪い風刺画のように膨らませ、明らかな心の傷を背負っている彼女の目を見たならば、大概の人物は義憤の心を抱くに違いない。
 それが正常な反応だ。だからこそ、彼女は恐ろしい存在なのである。
 誰かの良心の呵責が、起爆寸前の核爆弾を世界に解き放ってしまう。
 彼女に同情するというそのこと自体が、何よりも大きな災いに繋がってしまう。

「淫王の伴侶は、他ならぬ竜の王によって連れ去られた。
 クハハハハ! こう聞けば、なかなかどうして大衆好みの物語だ! どちらの王が勝ったとしても、世界の先行きが消え去るということを除けば、な!!」


                                              (Side:Dispair――06:SCP-231-7&バーサーカー)


◇◆


 テレビも何もない廃墟の一室で、SCP-231-7と呼ばれていた少女は赤く熟した林檎を一口齧った。
 静脈を通じて体内に注入する、単に生命活動を維持するためだけの栄養液とはまるで違う。
 齧った果実の破片を飲み込むたびに、体がその味わいと栄養を喜んでいる実感がある。
 その林檎自体は別段上等なものでもなかったが、こうして普通に物を食べられるというだけのことが、少女には今や新鮮な感覚だった。

 この廃墟を仮初の拠点とし始めてから、数日ほど経過しただろうか。
 彼女は学校には通っていない。元の世界と同じく『財団』によって収容されていたところをバーサーカーが連れ出したという設定(ロール)のため、そもそも戸籍が存在するのかどうかからして怪しいし、知り合いのような都合のいいNPCも存在しない。
 手持ちのお金など一銭もなく、この時点で彼女は他のマスター達に比べて結構なハンデを背負わされていた。
 とはいえ、仮初の姿でいる時のバーサーカーは器用だ。このように食料の調達くらいなら魂喰いのついでに上手くやってくれるし、実際少女も特に苦労はしていない。
 朝、昼、晩。流石に三時のおやつまでは望みすぎだが、ちゃんと食事が与えられている。

 少女の日常と世界は、この狭く埃の積もった部屋だけで完結していた。
 窓から降り注ぐ光の量で昼夜を判別し、外には出ない。
 廃墟になる前の住人が置いていったのだろう本を読んでささやかな自由を謳歌する。それだけでも、ずっと囚われの身だった少女には十分すぎる幸福だった。

「――あ」

 少女の鋭敏な感覚が、自身のサーヴァントの帰還を感知する。
 パッと視線を気配の方向へ向けると、ちょうどバーサーカー――今はキャスターと呼ぶべきなのかもしれないが――が霊体化を解除したところだった。
 その見た目は、人間のものとはかけ離れている。
 奇妙な形に歪んだ頭部。そして、この地球上のどこにも持ち主のいないだろう水色の肌。
 彼の身長ほどの大きさがある長杖を携え、ローブで身を包んだ姿は、童話の世界から抜け出してきた悪い魔法使いのイメージとピッタリ合致している。
 その姿が仮初のものでしかないことを、今は彼女だけが知っていた。

「何か変わったことはあったか?」
「………」

 ふるふると少女がかぶりを振ると、バーサーカーは良しと答えて口を笑みの形に引き伸ばす。
 彼が毎日外で何をしているのか、詳しいことを少女は聞かされていない。聞けば答えてくれるのだろうが、彼女は一度もそういう質問をしたことはなかった。
 特に知りたいとも思わないからだ。
 彼女は今の現状に十分満足している。これ以上を望んで何かが壊れてしまうような事態になるくらいなら、ずっとこのままでいいとすら思っている。

「あの時そなたが囚われていた建物は確かに破壊したが、あの場にいた人間を皆殺しにしたわけではない。詳しい理由までは分からぬが、そなたは連中にとって余程重要な意味を持つ存在のようであった。所詮はNPC、しかしされどNPCじゃ。この場所を突き止め、そなたを再び攫いに来る可能性も決してゼロではあるまい」
「……ッ」

 少女の顔が一気に青褪める。小さな歯がカタカタと音を奏で出し、額には脂汗が浮いていた。
 バーサーカーの分析はごくもっともな話だ。NPCは聖杯戦争に参加する権利を持たない、言ってしまえば粗末な木偶である。
 だが、権利の有無以外はほとんどマスター達と変わらない。逆に言えばマスターがNPCに勝っている点など、目立ったものはそれだけしかないのだ。
 大の男数人に囲まれたなら、魔術や異能の心得がないマスターでは打開は厳しいだろう。幼く、それでいて妊婦でもあるSCP-231-7などはなおさらのこと。
 彼女を囚えていた『財団』は巨大な組織だ。万に一つでも発見されたなら、民間の警察とは比べ物にならないほど厄介な障害物となる。
 バーサーカーは他のサーヴァントによる襲撃と同じくらいには、件の組織の追っ手がこの場所を突き止めることを危惧していた。

「なに、そう怯えずともよい。そなたのサーヴァントはこのわし―――『竜王』じゃ。同じサーヴァント相手ならばいざ知らず、人間ごときではわしにかすり傷一つ付けることは出来ぬ。……仮にサーヴァントがやって来たとしても、わしは負けぬがな。わっはっはっはっは!!」

 竜王。その名の通り、バーサーカーは竜種の王である。
 かつて一個の世界を恐怖のどん底に突き落とし、世界を掌握せんと駒を進めた最初の『大魔王』。

「わしを倒せる者がいるならば、それは『勇者』じゃ」
「勇者……?」
「かつて全世界の支配に王手をかけたわしは、一人の『人間』によって滅ぼされた。その人間はどんな屈強な魔物をも乗り越え、世界の半分を譲るというわしの誘いを蹴り飛ばし、遂には真の姿となったわしの心臓にその剣を突き立てた……
 あの勇者のような英霊がいたのなら、その剣がわしを滅ぼすということも万に一つはあり得よう。……もっとも、そんな人物がいるとは思えんがな」

 ほくそ笑むバーサーカーの顔は、しかし何かを懐かしむようにも見えた。
 自分の野望を頓挫させた勇者を彼は憎悪していないし、復讐しようなどとつまらない小悪党じみたことも考えてはいない。
 仮にあの勇者『ロト』のような……人の身で魔王を滅ぼすだけの勇気と力を持った英霊が現れたとしても、バーサーカーは逃げも隠れもせずそれを迎え撃つ。
 バーサーカー……竜王は破滅を恐れない。大魔王にとって恐怖とは既に克服『し終えた』悩みだ。

「わしは誰にも服従しない。サーヴァントという型に押し込まれてもそれは同じじゃ。
 もしもそなたがわしを手駒として扱うつもりならば、わしはそなたを見限るつもりだったが……聖杯をわしに捧げるというのだ、その考えは取り下げてもよかろう。
 それにわしの真の力をコントロールできるマスターが、そなたの他にいるとも思えんからな」

 バーサーカーに幼子を手篭めにして楽しむ趣味はない。
 聖杯を献上するというのならば、聖杯戦争が終わるまでは自身を従えるマスターとして守る。その後は元の世界に帰るなり、好きにすればいい。
 しかし彼女にバーサーカーを失いたくない理由があるように、バーサーカーにもこのSCP-231-7というマスターを失うのは避けたい理由があった。
 それはひとえに、異常としか形容しようのないその魔力プールだ。バーサーカーの真の姿……対文明宝具『竜王』は猛烈な性能を誇るが、しかしそれだけに膨大な魔力の消費という欠点を持つ。これを賄えるようなマスターはそうそういるものではない。
 あの時、彼女の収容されていた部屋でバーサーカーは宝具を開帳した。
 どの程度力が発揮できるかを試す程度の気構えだったが、動きにくさや肉体の衰えはまるで感じなかった。つまりそれは――バーサーカーの宝具の使用に余裕で耐えられるほどの魔力を、この妊婦の少女は保有しているという事実の裏付けに他ならない。
 魔力の問題さえ解消できれば、バーサーカーは無敵だ。どんな敵が立ちはだかろうとねじ伏せ、乗り越えてやれる自負があった。

「追々拠点をもっと立派な場所に移し、整える必要がある。……それに、何やら町の空気が妙じゃ。戦いの匂いがする―――早ければ今夜にも、聖杯戦争が本戦とやらに移行するやもしれん。気だけは常に張っておくのだぞ、〝キャサリン〟」

 キャサリン、それがSCP-231-7と呼ばれて久しい少女の本来の名前だ。
 そうとだけ言い残すと、バーサーカーは霊体化して姿を消す。
 この冬木市に、彼の思い通りに動いてくれる魔物達は存在しない。
 そのため細かな工作や索敵は、バーサーカー自らが出向いて行う必要があった。
 もっとも、そちらの方が都合がいいのも確かだ。拠点候補となり得る有力な場所に当たりをつけ、いざとなればそこを魔法で占拠してやることも出来る。
 判断して即座に実行へ移せるというのは、バーサーカーが自ら町に赴く貴重な利点だった。

(聖杯戦争が始まるまでに時間はかかるまい。アサシンにマスターの首を取られるような間抜けな事態は避けたいが、それよりも警戒すべきなのは―――)

 部屋を出る前、一度だけバーサーカーは振り返り、少女……キャサリンを見る。
 ……より正しくは、その膨らんだ腹を見る。

「……いたた」

 キャサリンは何も知らずに小さくそう漏らし、膨れた腹を労るようにさすっていた。


◇◆


「天使と聞けば、ほとんどの人間は純白の翼を携えた、花のように美しく可憐な存在を連想するだろう。そして事実、それで合っている。

 そうだ、こいつは天使などではない。

 小陸軍省――孤独な軍隊。個にして軍に匹敵する精神性を持つ怪物。狂人だよ、この女は。聖杯はそれを見抜き、彼女へ狂戦士のクラスを与えた」

 この英霊が先天的に狂人となり得る資質を有していたのか、それともかの戦争に従軍してから後天的に狂気が発芽したのか、正確なところは定かではない。
 一つ確かなのは、彼女は自らが看護婦総監督として従軍したその戦争で、想像を絶する地獄絵図を目にしたということ。
 無理解が不衛生を蔓延させ、前時代的な規則の横行が正しい医術の施行を妨げる。
 救える命がゴミのように朽ち果てていく医療現場を前に彼女は奮起し、そして――『一度は戦時医院での死亡率が跳ね上がった』ものの、遂には四十パーセント近かった死亡率を五パーセントにまで落とし込むことに成功した。
 多くの領土を勝ち取ったわけではない。摩訶不思議な聖剣や道具を扱う資格を持っていたわけでもないし、そもそも戦闘の逸話がある英霊ですらない。
 それでも医療現場というもう一つの戦場で八面六臂の活躍をし、数え切れないほどの命を救ってみせた彼女は正しく近代英雄の一人と数えるに値する存在だ。

「……小陸軍省。なるほど、フローレンス・ナイチンゲール。クリミアの天使、ですか」
「違うな。
 言ったろう、この女は天使などではない。何故ならこいつ自身が決してそれを認めない。あくまで自分は人を助けるための存在だとして、数多の喝采を浴びながらもただの一度すら微笑まなかったのだ。―――ならばそれが真実。クリミアの戦地には一人の狂人がいただけだ」
「……………」

「そしてこの女を呼んだ男もまた狂っている。まともな人間ではない」

 鋼鉄の白衣、治療の魔人は自身を呼んだ少年をこう称した。
 病んでいる。治療を受けなければならない―――と。
 その通り。赤銅色の少年もまた、彼女とは違うベクトルで狂っている。
 彼は呪われている。過去という名の傷を胸で膿ませ、今もなお病み続けている。
 自己犠牲の極限。正義の味方という、決して救われない理想を抱えた贋作者の魂。
 それを知ってなお、その道を曲げないと豪語するのだ。
 彼が鋼鉄の白衣(ナイチンゲール)という狂人を引き当てたのと同じく、人の病み/闇に対して鋭敏な直感を発揮する鋼鉄の看護婦もまた、全身に転移した癌細胞のように根深く狂った男を引き当てた。それが、この主従の真実である。

「世界には無数の絶望が在り、それと同じだけ希望が在る。
 錬鉄の魔術師も緋眼の看護婦もそれを知っている。それだけに、彼らは手強い主従となろう。
 何故ならそれこそ、狂人の第一条件なのだから。強さは狂気の同義語だ。いつの世も、最後に栄光を掴み取るのは狂気の羅患者と決まっている」


                                              (Side:Hope――007:衛宮士郎&バーサーカー


◇◆


 冬木市。衛宮士郎がずっと暮らしてきた、よく知っているはずの町。
 だがこの冬木には、士郎の知らない景色が溢れかえっていた。
 単純に時代が数十年単位で違うというのもあるが、正確には少し違う。
 冬木は平成に入ってから、大火災によってかなりの範囲が焼き尽くされる運命にある。
 町並みを、人を、あらゆるものを呑み込んで顕現した地獄。――その光景は。今でも衛宮士郎の頭の中に深く焼き付いている。
 しかしこの世界では、そうはならない。何故ならこの冬木市には聖杯戦争の歴史自体がどこにも存在せず、かの大火災が勃発する理由がないからだ。

 ……こっちの冬木に来てから、このことに思いを馳せるのは一体何度目だろうか。
 いつもひとしきり考え終えた後で我に返り、士郎は思わず苦笑してしまうのだった。
 ただ、そうやっていつも町の様子に目を向けているからこそ分かることもある。

「バーサーカー。……気付いてるか」
「ええ」

 霊体化を解いて出現したバーサーカー、ナイチンゲールが静かに頷く。
 彼女は職業柄なのか、他人の病みに対して非常に敏感だ。
 ―――聖杯。道理では成らない願いを叶える願望器。そんなものを命を懸けてまで求める者など、病んでいない方が圧倒的に少ない。
 士郎にはそれを感じ取ることは出来なかったが、バーサーカーはそんな願う者達の狂気(病)の気配を冬木の至る所に見出していた。
 士郎も士郎で、町の様子が少しずつ、しかし確実に変化しつつあるのを悟っている。
 正体を隠す気のまるでない連中から、闇に潜んで暗躍している連中まで。
 今の冬木には数多の『不穏』が跋扈している。……士郎が知る第五次聖杯戦争のそれに比べて無法な戦いだからか、あの聖杯戦争よりもそれを感じ取るのは容易だった。

「恐らく、ここまでの聖杯戦争は『前座』なのでしょう。そして直にそれも終わり、本当の聖杯戦争が始まろうとしている。……勘ですが、私はそう推測します」
「……同感だ。だとしたら、本番はこれから―――ってことだな」

 衛宮士郎のこの聖杯戦争における目的は、以前の時と全く同じだ。
 ―――聖杯戦争を止めること。こんな戦争で無用な犠牲が出てしまうことを、彼は望まない。

 対するナイチンゲールの目的は、……やはりというべきか、『救済』である。
 敵であれ味方であれ、負傷者は全て救う。存在するだけで傷病を撒き散らす聖杯を許さない。
 そして最後には、―――この聖杯戦争を生み出した病原を治療する。
 やや認識のズレがあるのは否めないが、それでも聖杯戦争に否を唱えるという点では共通している。
 これから先、聖杯をめぐった戦いは更に激化することだろう。士郎の知る大火災のような大規模災害が起こらないという保証も皆無だ。

 というのも――これは先程も述べたことだが――この聖杯戦争はどこか無法なのである。
 監督役はいまだその姿を見せず、自分の存在や真名、神秘性をあろうことか民間人へ堂々と露出させているサーヴァントに対処をする気配もまるでない。
 ……士郎個人としてはあの『人間衛星』は一度会ってみたい存在だったし、バーサーカーはバーサーカーで彼女に病の気配を見ているのだったが、それは一旦置く。
 とにかく奇妙なのは、聖杯戦争を運営する側の考えがまるで読み取れないことだ。
 民間への隠蔽工作もろくにせず、そもそも運営として機能しているのかからして怪しい。

「―――多分、これに気付いてるのは俺達だけじゃない。頭のいいマスターなんて腐るほどいるんだ」

 言っても、何もかもが見逃されるわけではあるまい。
 極端な話。冬木市を丸ごと吹き飛ばすようなとんでもない真似をしでかすようなサーヴァントが出てきたなら、その時はきっとペナルティが下ることだろう。
 しかし逆にいえば、余程のことでなければ上は動かない。要は、規範が緩い。そのことに気付いたなら、悪用を考えるのが普通というものだ。
 願いに狂い、手段を選ぶことすら捨てたマスターならば……その可能性は十分にある。

 士郎がこの町にやって来てから、既に聖杯戦争による犠牲者は出ている。
 明らかに増加している行方不明者や死亡事故の件数が、そのことを如実に物語っていた。
 ギリ、と士郎は奥歯を強く軋ませる。拳はいつの間にか硬く握られている。
 止めなければならない。そして今回は、前回以上に悠長にやってはいられない。
 ほんの少し出遅れただけで、取り返しの付かない事態になりかねないのだ。そんな『もしも』を想像すると、自然に体に力が入る。

「シロウ」
「―――うおッ!?」

 縁側に座り、決意を新たにしていた士郎の真横で銃声が炸裂した。
 ほとんど飛び退くようにその場を逃れて自分のサーヴァントに視線を向ければ、彼女は何事もなかったような顔でそこに座っている。
 ……しかし士郎は見逃さない。彼女の周りに漂う硝煙が、誰が発砲の下手人なのかを示している。

「私との誓約を、忘れてはいませんね?」
「――……ああ。ちゃんと覚えてるさ」

 少々どころかかなり手荒な行動だったが、それは赤熱化しかけた思考に叩きつける良い冷や水となってくれたらしい。頭がクールになっていくのが自分でも分かる。

「俺は生きる。前も言ったけど、絶対に死ぬつもりで戦ったりなんてしない。
 あんたとの約束はちゃんと守るよ。それに―――」
「それに?」
「……あんたを裏切りたくないってことの他にも、それを守りたい理由はあるんだ。
 話せば長くなるけど―――とにかく。俺は絶対死んだりしない。必ず聖杯戦争を止めた後、生きて元の……平成の冬木に帰るよ」

 その時脳裏に過ぎったのは、『彼女』が最後に見せた笑顔だった。
 衛宮士郎が経験した、最初の聖杯戦争。それでいて、あの冬木では最後の聖杯戦争。
 たくさんの戦いがあって、たくさんの別れがあった。許せないこと、楽しかったこと、悲しかったこと、全部今でも手に取るように思い出せる。
 ……二度目でも、やることは変わらない。戦いを止めて、最後は日常に帰る。
 バーサーカーのためにも、あの日離別(わか)れた『彼女』のためにも。

「……当然のことです」

 バーサーカーは士郎のセリフにそう返したが、その時彼女は、この病人の中に別なものを見た。
 何かを懐かしむように言葉を口にした時、衛宮士郎が見せた表情は――健康な人間が過去を懐かしむ時の、病みなどとはかけ離れたものだったから。


 ―――居間のテレビが、何かを告げていた。
 画面には火に包まれた町並みが映し出されている。
 バーサーカーはそれを見て、嫌悪の表情を浮かべる。
 それはこの世に呼び出されるのが遅かった、自分への嫌悪。

 『冬木市住宅街火災』……衛宮士郎が昭和の冬木市で目覚める、二日前の悲劇だった。


◇◆


「この少女は、強い娘だ。年端も行かない子女でありながら大の男でさえ瞠目するような行動力を発揮する……現実離れした強さの持ち主といってもいいだろう。
 神秘が廃れ、秩序が支配した温室の時代と世界に生まれ落ちていながら、聖杯戦争という非日常に怖気付かない人間などそうはいない」

 その少女を端的に言い表すならば、アヴェンジャーの口にした言葉が最も的を射ている。
 彼女は強い。
 戦争とは無縁の平和主義国家で十年育っただけの人間としては、破格の度胸を備えているのだ。
 仮にこの世界でどれほどの波乱や悲劇があったとしても、それで彼女を絶望させるのは限りなく困難だ。たとえ、全てを仕組んだ絶望の女王ですらも。正攻法で彼女を堕落させようと思ったなら、相当大掛かりな仕掛けを用意する必要があるに違いない。
 クラスのいじめというありふれた事柄から、年不相応な戦いに巻き込まれた哀れな少女。
 それでも彼女は折れることなく戦うのだろう。元の世界に帰り、4年2組という歪み狂った世界をあるべき形に戻すために。
 聖杯の力にさえ背を向けて、歩むのだろう。

「明らかに弱い立場に立たされていながら、それでも自分の信じた道を突き進む少女。
 それだけに、彼女が今のサーヴァントを引き当てたのは必然に違いない。かのサーヴァントは卑賤から栄光を勝ち取った女――最高峰の『成功譚』の持ち主なのだから」

 少女とそのサーヴァントが生きた時代は違う。
 だが共通していることはある。彼女達は二人とも、自分が底辺だった経験を持っている。
 マスターの少女はクラスを支配していた『白い悪魔』に宣戦布告し、一気にスクールカーストの最底辺にまで落下した。
 サーヴァントの女はそれより更に酷い。生まれた時から奴隷という社会の最底辺に置かれ、そこから逃れるために女としての美貌さえ捨てねばならなかった。
 底の底を知っているのに、彼女達は心の傷で病んだり、蹲ったりはしない。
 彼女達はマスターもサーヴァントも、揃ってひたすらに強い女であった。聖杯がこの二人を主従として引き合わせたのも頷ける話だ。

「この聖杯戦争においても、彼女達が『聖杯への叛逆者』という卑賤から『聖杯戦争からの生還』という栄光に到れるとは限らない。
 強き意思は何も生み出さず、奮闘は徒労に終わり、頂へ続く架け橋を見つけ出すことすら叶わずに朽ち果てたとしても何らおかしなことではない。
 それでも最後まで彼女達は希望を絶やさないのだろうが、そこで叛逆の物語は断絶する。
 ――――だが、もしも。もしも彼女達の足が、見果てぬ絶望の世界を踏破したのなら」

 そういう事態だって、アヴェンジャーの言う通り聖杯戦争では容易に起こり得ることだ。
 数多の世界が交差し、数多の英霊が呼び出された冬木市は群雄割拠の混沌そのもの。
 道理を無理でこじ開けることすら出来ない、打開不可能な詰みの場面はそこかしこに転がっている。

「その刃は、さぞ良い音色で未来を奏でるだろう」

                                              (Side:Hope――008:光本菜々芽&アサシン)


◇◆


「「「先生、さようならー!」」」
「ああ、さようなら。最近は物騒だからな。寄り道しないでまっすぐ帰るんだぞー」

 帰りの挨拶を終えて、光本菜々芽は真っ先に教室を出る。
 冬木市内の公立小学校に通う小学四年生。それが彼女に与えられたこの世界での役割だ。
 菜々芽はこの学校においてもクラスから浮いている。こればかりは菜々芽の性分の問題で、クラスメイトの子供達には何の非もない。
 ……そう、この『4年2組』は、正しい世界だった。
 いじめは発生しておらず、菜々芽の世界の当該クラスにはあった歪みのようなものがどこにもない。
 何より大きいのは―――やはり、蜂屋あいの不在だろう。
 あれがいないというだけのことで、無味乾燥としたこの学校生活が安らげるものにすら感じられる。
 何せあの女は、NPCだったとしても絶対何かをしでかすタイプの女だ。冬木にもあれが存在していたなら、菜々芽は常に彼女にも気を張っていなければならなかった。

「(で、今日はどうするんだ? いつも通りこのまま直帰か?)」

 念話でアサシン、軀が話しかけてくる。
 それに対して菜々芽は首を横に振った。否定の意だ。
 これまで菜々芽は学校が終わるなり、何の寄り道もせずに家へ直帰していた。
 そうしなければあの母親がうるさいというのが大きかったが、流石にいつまでもあれの機嫌取りに終始しているわけにもいかない。
 菜々芽もまた、最近冬木市に漂う空気がどこか変わってきていることを察していた。
 ……何か、嫌な予感がする。ここで動き出さなければ完全に期を逃してしまうという直感があった。

「(今日は少し町を歩いてみようと思う。……偵察、かな)」
「(それならオレに任せれば、それなりにはこなしてきてやるが)」
「(私も行く。自分の目で、色々見てみたい)」
「(成程な。だが、あのでかい城に近付くのは止めておけよ。詳しくはオレにも分からんが、あの城の主は相当な奴だ。腰を据えて挑まなきゃこっちが殺られかねん)」

 城。それは最近、冬木市に現れた異形の建築物だった。
 歴史の教科書に載っていた安土城と瓜二つの外観を持った、しかし明らかにそれとは違う禍々しさを放ち続けている謎の建物。
 調査隊が何度か派遣されたらしいが、続報がない辺り結果は推して知るべしだ。あちらから危害を加えてくる気配は今のところないのをいいことに、対応を先延ばしにしようという魂胆なのだろう。情けないとは思わない。むしろ賢明だと思う。
 菜々芽はあれの正体を知っている。あれは、サーヴァントの宝具だ。
 自分の牙城をあんな目立つ形でそのまま召喚する宝具とは何とも頭が悪いが、馬鹿げた強さのサーヴァントが使ったならその意味は変わってくる。
 馬鹿を引き寄せる誘蛾灯。飛んで火に入る夏の虫の諺が再現される。
 菜々芽は聡明な子だ。
 アサシンに言われずとも、あの城に関わる気はなかった。安土城を宝具に持つという時点で真名には心当たりがあるものの、それを活かす場面は少なくとも今ではない。

「(……例の火事があった跡地に、入れるなら入ってみたい)」
「(例のあれか。サーヴァントを連れてるんだ、封鎖されてたって簡単に入れるだろ)」

 菜々芽達は今日の日まで、ただの一度もサーヴァントと戦闘をしていない。
 そんな有様だからアサシンはともかく菜々芽の方は、サーヴァントがどれほど強いのかを半ば憶測でしか把握していない始末だ。
 危険な賭けだが、撤退戦でもいいから一度はサーヴァントの戦いというものを目にしておきたい。
 今日の放課後にわざわざ自ら出向いてまで偵察をしたがったのは、そういう理由もあった。
 もちろんその他にもサーヴァントの戦いの痕跡から何か分かることがないかだとか、冬木市から脱出する手段だとか、気になることはいくつもある。
 今日だけで全てを満たせるとは思わないが、何事も行動しなければ始まらないのは光本菜々芽が一番よく知っていることだ。

「(……しかし、本当に肝の据わったガキだよお前は。ただ巻き込まれただけの子供にしちゃ、怯えってもんがなさすぎる)」
「(怯えてても仕方ないから)」
「(そういうとこがもう子供らしくないって話だ)」

 念話でサーヴァントと会話を交わしながら、騒がしい放課後の廊下を歩いていく。
 ……と、その時だ。菜々芽は視界の隅に、職員室へと入っていく見慣れない少女の姿を捉えた。
 学校にマスターが紛れている可能性も鑑みて、ここに通う児童の動向にも出来るだけ気を配っていた菜々芽だったが、流石に全員の顔を覚えているわけではない。
 全校生徒どころか、四年生全体にしても怪しいほどだ。では何故その少女を今まで見たことのない人物と判断できたかといえば、一言。その少女は、目立つ外見だった。

 緑髪のツインテールに車椅子。
 人懐っこい性格なのか、一緒にいた教師と楽しそうに会話していた。
 車椅子の児童は、学校内にはいなかったはずだ。となるとさっきの彼女は、転校生と見るのが妥当だろう。

「(どうかしたのか)」
「(……いや、なんでもない)」

 気のせいだろうと、一瞬だけ脳裏に過ぎった不穏なものを拭って菜々芽は再び歩き始める。
 …………何故そんなことを思ったのかは、当の菜々芽が一番分からなかった。
 人畜無害を絵に描いたような無邪気さで楽しそうに話す姿、浮かべる笑顔。
 小鳥が囀っているような綺麗な声の中に隠れた、黒くどろりとしたもの。

 あの一瞬、車椅子の少女の姿が―――『蜂屋あい』と重なって見えた。

 不吉な感覚を杞憂だろうと思考野から追い出して、菜々芽はまっすぐ下駄箱まで歩いていき、靴を上靴から外靴へと履き替え外に出る。
 ……昭和も平成も、空の眩しさや風のにおいまでは変わらない。
 特に意味もなく、菜々芽は一度頭上に広がる青空を見上げて、また歩き出すのだった。


◇◆


「海とは歴史の観測者だ。遥かは太古、神々が平然と地を歩いていた頃。
 未開の新天地を求めて冒険家共が船を漕いでいる時代を経て、新しくは近代最大の世界大戦。どんな時も変わらず波立っている海原は、あらゆる物語を見てきた。
 この主従は、海に物語を刻んだ者達だ。片や賊として、片や護国の兵として。海に生き、海を舞い、最後は海で死んだ。そんな連中だ」

 彼女とそのサーヴァントとでは、生きていた世界からして全く違う。
 大航海時代が大海賊時代へと名を変え、海賊活動が全く衰退を見せなかった世界。
 そんな常識の通じない世界から、彼女のサーヴァントはやって来た。
 彼にとって海は冒険の舞台であり、愛すべき世界の象徴だった。
 一方で、マスターの少女にとっては違う。彼女にとって海とは戦いの舞台であり、仲間を自分のもとから奪い去っていく死神のような存在だった。

「いつか平和な世界、平和な海を見ることを心の標として、少女は生涯戦い抜いた。
 ―――しかし、その実現には数え切れないほどの犠牲を払わねばならなかった。何かを成すには、何かを失うことが不可欠だ。彼女は、それに納得できなかった。
 平和の代償として水底に消えた家族に、勝ち取った幸福を享受する権利を。一途に願う心に、聖杯は応えた。……正の形かどうかは別としてな」

 いつの時代も、偉業の裏には犠牲者の存在がある。
 影なくして光は存在できないように、いつでも犠牲という名の喪失は決して離れずつき纏う。
 それに納得できたなら、その生涯は満足感と幸福の中で締めくくることがきっと出来るだろう。
 逆に納得できなかったなら、最期を迎えるその時まで、その感情は未練として頭の中に病巣を張る。
 彼女は納得できなかった。そしてその未練を晴らす手段は、聖杯に願う以外にない。だが皮肉なのは、そんな彼女が呼んだ男が『犠牲になった側』ということ。

「そんな切なる願いで呼ばれたかのサーヴァントは、かつて世界の秩序のために犠牲になった。
 犠牲にされた側の彼は何も祈らない。そして、それは平和の踏み台と消えた船の少女の家族も同じだ。犠牲にされた者は皆、満足して消えていった。
 ――未練を抱くのは、生存者の特権だ」
「………」
「さて、お前はどう感じるのかな。希望の犠牲者よ」

 ――――アヴェンジャーは、完全者の青年を見てはいなかった。
 その瞳の奥。奥の奥に眠っている、もうどこにもいない誰かを見ていた。


                                              (Side:Dispair――09:Верный&ライダー


◇◆


 船着き場に座り、足を海に向けて伸ばしている少女が一人。
 錨と星のマークをあしらった白い帽子といい白い肌といい、とにかく白っぽい少女だった。
 有事となれば艤装で武装し、軍艦の名を受け継ぐ艦娘に恥じない奮戦ぶりを発揮する彼女だが、今はその艤装も持ってきていない。
 心を休めるために港を訪れたのだ、戦いの道具はなるべく切り離しておきたかった。
 そんな彼女の名前は、響―――今はВерный(ヴェールヌイ)。ヴェールヌイとは、ロシア語で信頼できる、という意味がある。

「気持ちいい風だね、ライダー」

 心地よい潮風に当たりながら、ヴェールヌイはただの少女のように自分のパートナーへ話しかける。
 暁型四姉妹の中でも長女を差し置いて一番大人びた性格の彼女も、やはりまだまだ子供だ。
 こうやってのどかに過ごしている時は、戦場のしがらみや辛いことから逃れることが出来る。
 聖杯を手に入れられなければならない使命感も何もかも忘れて、ただのんびりと過ごす時間。
 ヴェールヌイは定期的にそういった時間を自分に用意することで、願いの重圧に押し潰されないように自分の心をケアすることにしていた。

「そうだな。こればっかりは、平和な海ってやつの特権だ」

 ライダー……『火拳のエース』ことポートガス・D・エースは水平線の向こうを見据える。
 彼は海賊だ。悪魔の実の能力者となった日から海には嫌われてしまったが、それでも海という場所に特別な思い入れがないと言っては嘘になる。
 そしてこの世界の海には、彼の知る海ではあり得なかった平穏があった。
 財宝や未開の地はほぼ存在せず、聞けば海賊活動そのものが世界的にかなり衰退しており、また大戦でも起きない限り海上戦などまず起こり得ないのだという。
 海賊の英霊であるライダーに言わせれば、この海は退屈だ。面白みがないといってもいい。
 ただ、こうして黄昏れている分にはなかなかどうして悪くない。優しく穏やかな風に吹かれながら郷愁に浸るというのも、たまにはいいものだ。

「ライダー」
「なんだ?」
「ライダーは……生き返って仲間のところに帰りたいとか。そういうことは思わないのかい?」

 ヴェールヌイは時折、ライダーから生前の話を聞かされていた。
 地震の力を操る『オヤジ』と、その男気に惚れた息子達(ファミリー)による大海賊団。
 ライダーはその二番隊を任されていて、山ほどの冒険と山ほどの戦いを経験してきたという。
 そして、最期は弟を庇って腹を貫かれ―――死んだ。
 その悲劇的な末路を聞いた時から、ずっとヴェールヌイは思っていたのだ。
 帰りたいとは思わないのか、と。そんなに素敵な家族を残して死んでしまったのに、どうして聖杯はいらないなんて言えるんだろう、と。

 そんな疑問に、ライダーはカラカラ笑って答える。そこには、欠片ほどの逡巡もなかった。

「海賊だって人間なんだよ」
「……?」
「心臓一つの人間一人。どんな大層な名前で呼ばれてたって、いつまでも生きちゃあいられねェ。
 誰でもいつかは死ぬんだ。海賊なんてやってりゃ、当然人よりその時は早いだろうし、布団の上で死ねるだなんて贅沢なこと考えるのはお門違いってもんだぜ。
 死ぬのが怖くて海賊やってる奴なんざ、少なくともオヤジの船には誰もいなかった。
 それに、大事な弟の命を未来に繋げることが出来たんだ。それでお役御免ってんなら文句はねェさ」

 海賊と軍隊とでは、まるで話が違う。
 むしろ二つは常に敵対しているのが普通だし、ライダーに引導を渡したのも海軍という軍隊だ。
 しかしながら、ライダーの考え方はヴェールヌイにも覚えのあるものだった。
 軍隊は海賊とはまた違った意味で業の深い組織だ。一隻の船を沈めたなら、それだけで何十人と死ぬ。そんな仕事をしているのだから、いつどんな風に死んだって文句は言えないし――みんなそういう覚悟を決めて海に立っている。
 少なくともヴェールヌイが響だった頃の仲間達はみんなそうだった。姉も妹も、みんな、みんな。

「……なんで私が君を召喚できたのか、少し分かった気がする」

 帽子を深く被り直してヴェールヌイが浮かべた表情は微笑みだ。
 今の対話でしっかり分かった。―――海で戦う人間は、みんな覚悟を決めている。
 覚悟を決めて死んだ者を生き返らせたいと願うのは、残された者のエゴだ。
 暁達はヴェールヌイに誰かを殺してまで自分を生き返らせてほしいとは、きっと思わないだろう。
 それは分かっている。分かっていても、割り切れないものはやはりある。

「イイ目になったじゃねェか。気持ちのいい欲望を見つけた目だ」
「きっと私は間違っているんだと思う。そう思うけど、私は戦いを下りない。
 最初に言った通りだよライダー。私は君と一緒に戦って、なくしたものを取り戻してみせる」
「海軍が海賊の手を借りるなんざ、おれをブッ殺した奴が見たらすげェ顔するぜ」
「私も願いを叶えたら、真っ先に彼女達に大目玉を食らいそうだ。……それでも、やっぱり諦められないんだ。協力してくれるかい、ライダー」

 訊かれたライダーは不敵に笑いながら親指と人差し指を重ね合わせ、パチンと音を鳴らしてみせた。
 ただ指を鳴らしたわけではない。彼こそは『メラメラの実』を食べた火炎人間、『火拳のエース』。
 小気味いい音と共に派手な炎が空中に吹き上がり、潮風に吹かれて散り散りになって消えていく。

「俺は、嬢ちゃんのサーヴァントだからな」

 他人の願いを潰す絶望となってでも、聖杯という最期の希望を手に入れる。
 ―――彼女はまだ知らないことだが、この冬木に呼ばれている艦娘は彼女の他にあと二人いる。
 片方はサーヴァントとして、片方はマスターとして。問題は、このマスターの方だ。
 その顔を見た時、あるいは名前を知った時、ヴェールヌイは一体どんな顔をするのだろう。
 生き返らせねばならないと息巻いている姉妹の一人……自分の姉にあたる黒髪の駆逐艦が、自身の願いの障害となると知っても、彼女は戦う意志を貫いてみせるのか。

 ――――――すべては、まだ見ぬ未来に委ねられている。


◇◆


「武器に命を与えるというのは、こうして見ればなかなかどうして悪辣な趣向だ。
 争いの消えた世界で武器に成せる役割など、それこそ狩猟に使う程度しかあるまいに。
 この幼い正義はそれを知った。知らなければ無垢なまま突き進めたろうに、知ってしまった。
 お前はどちらが幸いだったと思う、マスターよ。全てを終わらせた後で現実に直面するか、現実を先に知って大願を遠ざけるかの二択だ」
「……前者でしょう。考えるまでもない話です」
「そうだ。いつ絶えるとも分からない敵軍を一網打尽に出来る好機を、終わった後のことを考えて逃してしまうなど普通に考えればありえない選択に違いない」

 国家間の戦争とは違い、彼女達の戦う敵軍は底が知れない。
 国が相手ならば、どれほどの強国が相手でも必ず枯渇の時はやってくる。
 後はそれをいかに早く使い切らせるかの話。戦争のセオリーの一つだ。
 だが深海棲艦という敵には、どこまで人間同士の戦争の常識を当てはめていいのかすら分かっていない状況なのだ。
 砲撃を当てて耐久値を削り切れば個としては倒せる。しかし群としての打倒手段は未だに知れない。
 どうすれば完全に海から駆逐できるかが分かっていたなら、半年ほどもあれば海は平穏を取り戻していたはず。
 それほどまでに得体の知れない恐ろしい敵なのだ、深海棲艦は。それこそ聖杯に頼りでもしなければ、ただ延々と悲しみばかりが増えていくだけ。
 少女の正解は間違いなく、聖杯で戦いを終わらせることだ。その後のことなど、終わらせてからゆっくり考えればいい。

「それをすぐに選択できないからこそ、この正義は幼いのだ。
 存在意義の消失という今まで考えもしなかった問題を前に、目先の利益を優先するということが出来ない。……無理もないことではあるがな。自分の生まれた意味、生きていた意味が一瞬にして消えてなくなるなど、それほど絶望的なこともないだろう」

 少女は今も迷っている。
 簡単に答えを出せる問題ではない。まだ幼い、駆逐艦の少女にしてみれば。
 彼女のサーヴァントならば合理的に判断し、理屈としての正解を瞬時に導いてのけるだろうが、果たして当の彼女はその答えに納得できるのか。
 暗雲は、立ち込めている。見ないようにしていても、少女の脳裏には自分のサーヴァントに指摘された不安が茨のように食い込んでいる。
 存在意義の消失。それは戦うために生み出された艦娘という兵器にとって、あまりにも大きく、絶望すら通り越した【未知】の話だった。
 それを知ってしまったのは、やはり不運だったというべきであろう。

「聖杯は悲劇という名の喜劇を望んでいるぞ、いずれ護国の鬼となる弓兵よ。
 貴様が主君に殉ずるというのならば覆してみるがいい。希望の雷で絶望へ挑むがいい。
 この冬木に下りた夜の帳を、暁にて晴らしてみせるがいい!!」

                                              (Side:Hope――10:暁&アーチャー


◇◆


「……ふあ」

 冬木市に鎮守府なんてものはない。
 まず第一に、ここは深海棲艦のいない世界だ。
 仮に出現することがあったとしても、それは数十年後の未来の話。
 艦娘なんてロールが存在するはずもなく、暁は市内の小さな孤児院から公立小学校に通っているという設定になっていた。
 学校の授業は退屈で眠たくなる。艦娘として学んでいた内容はほとんど授業に出てこないし、割と居眠りがちな暁の成績はそれほどよいものではない。
 それでも学校自体はそこそこ楽しいし、友達も最初から用意されていたから遊び相手にも困らない。
 そんな聖杯の手引きのおかげで、暁はおおむね充実したスクールライフを送れているのだった。
 ……どうもクラスメイトの、いつも仏頂面でいる女の子だけは苦手だったが。

 4年2組と記されたプレートを背に、暁も帰途に着く。
 同じ孤児院から学校へ通っている児童は四年生にはいないため、帰り道は大体いつも一人だ。
 正確には一人ではないのだが―――傍目から見れば、確かに一人で間違いない。

「……アーチャー、いるー?」
「念話になっていないぞ。気を緩めるのも程々にしておけ」
「べっ、別に緩んでなんかないわよー! ……はっ!?」

 つい反射的に大声を出してしまい、周囲の児童から奇異の視線が集中する。
 暁は顔を真っ赤にして小走りでその場を抜け出すと、今度はちゃんと念話でアーチャー、アカツキと会話を始めた。

「(だから毎日ついて来なくてもいいってば! 施設と学校はそんなに離れてないし、特に人通りが少ない道を通るわけでもないんだから!)」
「(……サーヴァントにはアサシンというクラスもある。艤装とやらを装備していたならまだしも、丸腰のお前では一瞬で首を取られるぞ)」
「(く、くび……)」
「(この会話もそろそろ最後にしたいところだ。覚えている限りで既に五回は繰り返している)」

 暁は見た目も内面も年相応に幼いが、一方で一人前のレディというものに憧れている。
 子供扱いされることを極端に嫌がるのも、ひとえにその憧れと現実のギャップが許せないからだ。
 そんな暁にしてみれば、小学校への送り迎えと子供扱いが十分イコールで結ばれる。
 ……もちろん暁だってバカではない。ちゃんと理由があることは知っているし、自分を守ってくれていることにはちゃんと感謝している。
 しかし、それとこれとはどうも話が別なのであった。

「(ところで、聖杯戦争はどうなってるの? 何か状況が動いたりした?)」
「(今のところは牛歩だ。だが、近々大きく動き始めるだろう。こうして平穏な時間を謳歌していられるのも、今の内だけかもしれん)」

 淡々と脳内に恐ろしいワードを打ち込まれ、暁は思わず背筋に寒気を覚えた。
 日常が一瞬で崩れ去ることなど、艦娘として戦っていた頃にはいつも覚悟していたことだ。
 もちろんそうはなりたくないし、そうなるのは嫌だが、心の準備だけはしてあった。
 艦娘は皆、別れを経験するものだ。
 例えば轟沈による死別。そうでなくても敵の攻撃で大破し、重傷を負った仲間の姿を暁もこれまで何度も見てきた。
 この世界でただの小学生として過ごしていた時間の長さが、暁自身も気付かぬ間に、戦場に立つ者としての覚悟を鈍らせていた。

「(案ずるな。最初に言ったように、従者としての役目は我が身を賭してでも果たす)」
「(そうね……ありがと、アーチャー)」
「(礼を言われるほどのことではない、サーヴァントとして当然のことだ。―――時に、マスター)」

 答えは出たか。
 アーチャーは静かに、厳かに暁へそう問いかけた。
 暁の足が止まる。それはアーチャーと初めて会った日に、彼から言われたこと。今日までずっと先延ばしにしていた難題。
 まだ答えを出せていないということを、暁の沈黙が雄弁に物語っていた。しかしアーチャーはそれを叱責しようとはせず、彼はあくまで静かに諭す。

「(これは俺の読みだが、この聖杯戦争はそう長く続かない。―――十中八九、短期決戦だ)」
「(ってことは……あと二日とか三日で終わっちゃうかもしれないってこと?)」
「(可能性は高い。それはつまり、残された時間は限られているということを意味する)」

 聖杯を手に入れて願いを叶えることは、艦娘全ての存在意義を消し去ることと同義だ。
 暁の中では、未だに平和な海の実現と自分達の存在が天秤の上で上がり下がりを繰り返している。

「(悩める時間は、お前が想像しているよりも遥かに短いだろう。答えを出せとは言わない。だが、悔いなき選択を下せる準備だけはしておくことだ)」
「(ん……わかった。がんばってみるわ、暁も)」

 聖杯戦争が終わってから後悔をしても、取り返しはつかない。
 聖杯を逃してから後悔をしても、やはり取り返しはつかない。
 アーチャーはこう言った。後で悔いるような選択はするな、と。
 ――――自分にとって、悔いなき選択とは何だろうか。どれを選べば、自分は胸を張って笑っていられるだろう?

 司令官なら?
 雷なら?
 電なら?
 ――――あるいは、

「響なら、どうするかなあ……」


◇◆


「地獄に堕ちた亡者が、神の慈悲で垂らされた糸なり木片なりを掴む説話は世界中に伝わっている。
 この冬木ならば、最も馴染み深いのはカンダタの末路か。天から垂らされた蜘蛛の糸を伝い極楽へ向かおうとするカンダタは、自分と同じように糸に縋ろうとした亡者達を蹴落としたことで血の池地獄に逆戻りする羽目になった。
 ――――この男は、人の頭上に糸を見る。それが幻覚なのか、はたまた彼にだけ見ることの出来る真理の一つなのかは解らない。
 しかし、一つ確かなことがある。こいつは蜘蛛の糸に縋り救われようとするカンダタでもなければ、それに便乗しようとした亡者でもなく、また糸を垂らす側でもない。彼は糸を切る側だ。ヒトの頭に繋がった糸を断つことを重ね、遂にはこの冬木に招待されるに至った」

 日常に紛れ込んだ悪魔。
 それがこのマスターの本質だ。
 誰も彼もが彼には騙される。彼の狡猾さを理解しないまま、悪戯に死体ばかり増えていくのを指を咥えて眺めているしかない。
 彼は空虚というわけではない。かといって欲深いわけでもない。
 ただ、異質なのだ。普通の優秀な人物の皮を被って日常を過ごし、その価値観も基本的には善性に基づいているからこそ、今まで誰も彼を止められなかった。 
 そんな彼は当然のように聖杯を求めない。 
 そうまでして叶えたい願いなど持ってはいないし、ただ穏便に元の世界に帰れればそれでいいと本気で思っている。

「彼は聖杯の打破、あるいは冬木からの脱出を目論むマスター全てにとっての獅子身中の虫だ。
 頭脳、経験、話術、工作。シリアルキラーに必要な全てのスキルを当然のように有しているのだから、背後から忍び寄られればまず対処は不可能。
 ……そして何より絶望的なのは、奴の呼び出した英霊だ!
 ジョナサン・ジョースター! 百年に渡る因縁の始まりに立つ波紋戦士であり、気高い黄金色の魂を燃やす善性の化身! ――これほど皮肉な巡り合わせもない!!」

 そのサーヴァントは、彼と同じように善性に基づいた価値観を持つ。
 しかしそれ以上に人間離れした勇気と行動力を持ち、その内には欠片ほどの悪性も存在しない。
 彼を連れていることそのものが、カモフラージュとしてシリアルキラーの姿を隠蔽しているようなものだ。
 迷いも怖じもせずに突き進み、己の拳で道を切り開く気持ちのいいヒーロー。そんなサーヴァントだからこそ、かの人物にとって最も都合のいい道具として機能する。
 彼らは当然のような顔をしながら、希望の体内に潜むことだろう。仲間を守り、時には策を案じて過酷な聖杯戦争を生き抜いていくはずだ。
 空から伸びて頭に繋がる、蜘蛛の糸を見るまでは。糸に繋がれていることに気付きもしない、哀れな命を見てしまうまでは。

「……希望を信じるならば見抜いてみせるがいい、隣人の顔をした絶望を。
 その悪行の根本にまで辿り着いて希望の仮面を剥がすことが出来たならば見事。
 出来なければ? 何、奴は全ての命を殺して生き延びようとはせんだろうよ。何食わぬ顔で勝利を喜び、仮面を被ったまま元の世界に帰るだけだ。
 だが―――それはまごうことなく、希望の敗北、だがな」



                                              (Side:Dispair――11:八代学&セイバー)


◇◆


 放課後の予定や他愛ない談笑をしながら帰途に着く児童達を見送って、4年2組担任、八代学はようやく一息ついた。
 教師は大変な仕事だ。人を教え導くといえば聞こえはいいが、特に担任などは大抵の場合三十人以上の教え子を事実上管理しなければならない。
 中学生や高校生といった大人びてきた頃の子供ならばまだしも、小学校教諭が相手にするのはまだまだ自由奔放に行動したい年頃の本当の『子供』達だ。
 まして八代が持っているクラスは中学年の四年生。よく言えば一番成長が楽しみな時期であり、悪く言えば一番気の抜けない時期である。
 教職に就いてから何年か経つが、慣れてきたとはいえ疲れる仕事なのは変わらない。
 とはいえ、なりたくてこの仕事に就いたのだ。文句や不満を垂れる見苦しい真似をすることはせず、八代は微かに微笑みながら額の汗を拭う。

「(お疲れ様、マスター)」
「(セイバー? 何だ、学校まで来るとは珍しいな。何かあったのか?)」

 八代は魔術師でもなければ、聖杯を使って願いを叶えようとも思っていない。
 要は正真正銘、ただ巻き込まれただけの人間。彼が前線に立ったからといって何かが出来るわけではないし、ただ死のリスクばかり高まるだけだ。
 だから八代は聖杯戦争に関係する全てのことをセイバーの判断に委ね、任せていた。
 余程大きく事態が動くか脱出の糸口が見えるまで、八代は今まで通りの日常を過ごすだけ。
 こう聞けばやや無責任に聞こえるが、これにはこの冬木で暮らす人々を守るためという意図もあった。小学校教員である八代ならば、少なくとも自分のクラスだけは最低限守ることが出来る。学校の襲撃を目論むような輩が出てきても、八代がいれば令呪でセイバーを呼び寄せられる。
 基本昼間は冬木市内を探索しているセイバーが、こうして八代の下へやって来るのは珍しいことだ。
 そしてセイバーは、気まぐれで自分の行動を変えたりするようなタイプの男ではない。そこから導き出される答えは、急を要する報告があるということ。

「(さっきサーヴァントと戦った。クラスはアーチャー。少し傷を負わされたけど、これくらいなら少し波紋を当てていればすぐに直せる。
 ……それよりもだ、マスター。僕の予想が正しければ、今日を境目にして聖杯戦争は急激に加速していくと思う)」
「(それはまた物騒な話だな……根拠はあるのか?)」
「(僕の倒したアーチャーが消滅した時、明らかに町の空気が変わったのが分かったんだ。うまく言えないけれど、まるで『世界が変わった』ようだった。
 ある画家の描いた風景画を違う画家が模写したみたいな、似ているんだけどどこか違う感じ……ただの気のせいだとはどうも思えない)」

 セイバーが以前、この聖杯戦争は形式からして普通じゃないと話していたことを思い出す。
 何十という英霊が一つの町に召喚され、延々潰し合いをする。サーヴァントが与えられた知識によると、本来の聖杯戦争とはそういうものではないらしい。
 サーヴァントの数は七騎。聖杯大戦と呼ばれるものでも、ルーラーを含めて十五騎。
 そう考えると確かにこの冬木で行われている聖杯戦争は、おかしなものということになる。
 門外漢である八代には今ひとつ実感の沸かない話だったが、セイバーはこのことに随分不穏なものを感じているようだった。

「(……よく考えたら、別にそこまで急いで伝えなきゃならない話でもなかったね。すまない、マスター。仕事中に邪魔をしてしまった)」
「(いや、いいんだ。それを早く知れたことで、色々考えることも出来るからね。役に立たない僕なりに、これからのこととかを)」

 謝るセイバーの労をねぎらい、八代は小さく笑う。
 結局未だ、聖杯戦争を脱出する手段の手がかりすら掴めていない。
 そもそもそんなものがあるのかすら怪しいが、それは考えないようにしていた。
 『どうにもならない可能性』の想定は、時に容易く現状を停滞させる。
 ポジティブシンキングの有用性を謳う啓発本ではないが、いい方にいい方にと物事を考えることも時には重要なのだ。
 こういう失敗の出来ない状況に立たされた時などは特に。

「……八代先生」

 その時八代の名を呼んだのはセイバーではなく、また彼の受け持っている児童の誰かでもなかった。
 畏まった礼服に身を包んだ、品の良さそうな中年の女性。
 顔立ちにも老いを感じさせない美貌を湛えているが、目の下には深い隈が刻まれている。
 瞳には、光がない。取り返しの付かない大きな喪失を経験し、絶望した人間の目だった。

「娘の遺品を引き取りに参ったのですが……今、よろしかったでしょうか?」
「―――ええ、構いませんよ。こちらで纏めたものをお渡しするので、少々お待ちください」


 一礼すると八代は女性を先導して職員室へと向かい、自分の机の引き出しから厚みのある大きな封筒を一つ取り出して彼女へ差し出した。
 中身は写生会で彼女の娘が描いた絵、返却されなかったテスト、作文―――等など、ごくごくありふれたものばかりだ。
 受け取った封筒を胸へ抱き止め、沈痛な面持ちで女性は八代に礼を言う。
 ……あまり長居したい場所ではなかったのだろう。彼女は八代が見送る間もなく、足早に職員室を出ていってしまった。
 それも無理のないことだ。娘を亡くした母親にしてみれば小学校は、ただ哀しい場所でしかない。ここに居ては、彼女は否応なしに娘の顔を思い出してしまう。

「(……彼女は?)」
「(少し前に、誘拐殺人があってね。……僕のクラスの生徒が犠牲になった。彼女はその母親だ)」

 ―――冬木女子児童誘拐殺人事件。その事件では八代のクラスの快活な女子児童が、郊外の茂みの中で変わり果てた姿となって発見された。
 死因は絞殺。スカーフのようなもので首を絞められ、殺した後に遺棄したものと警察は踏んでいる。
 幸いなのは、スカーフに犯人の体毛が付着していたことだろう。その証拠を辿って市内のある若者が逮捕され、今も取り調べ中だと聞いている。

「(犯人が捕まったからといって、遺族の悲しみが消えるわけじゃない。僕も悔しい。友梨は……殺された子は、とても子供らしくていい子だったからな)」

 こればかりは八代には、どうすることも出来ない問題だ。
 その心中を察してか、セイバーはそれ以上この話題について話そうとはしなかった。
 セイバーは思う。ああいう悲しい思いをする人を一人でも減らすためにも、聖杯戦争はやはり止めなくてはならない。あの女性は聖杯戦争とは関係のないところで娘を失ったようだったが、聖杯戦争が本格的に始まれば、それによる犠牲者が出てくるのは避けられない。
 そう思えば、自然と拳にも力が入った。

「八代先生、ちょっとよろしいですか? 転校生の塔和さんが、一日早く学校の下見をしたいとのことでさっき来てまして。よかったら会ってあげてください」
「ん、分かりました。彼女は今どこに?」
「前田先生が案内してあげてるはずですね。職員室を出ていってからそんなに経っていませんし、まだ一階にいるんじゃないかなあ」
「ありがとうございました。――セイバー。また夜にね」
「……セイバー?」
「いえいえ、何でもありません。お気になさらず」


 職員室を出る八代を見送ったセイバーは、しかしややしばらくその場に立ち止まっていた。

 …………首筋が痛む。首筋に刻まれた、星型の痣が痛んでいる。
 冬木にやって来てからというもの、セイバーは時折痣が痛み出す場面に何度か遭遇していた。
 星の痣はジョースターの血を宿している証。
 それが痛みという形で反応していることに、セイバーは奇妙な予感を覚えずにはいられない。
 霊体のままで職員室の窓を、その向こうに広がる青空を見据える。

「(まさか―――)」

 どこまでも広がる青空は、どうしようもなく少年の日を思わせるものだった。

「(この町には、きみがいるのか? …………ディオ。きみが)」


◇◆


「逃げ出すことを悪と呼ぶのは間違いだ。逃避とは、万人に等しく与えられた一つの権利である。
 自分を守るために迫ってくる難題へ背を向けて走り出す。それは咎められることではあるかもしれないが、邪悪として断罪されるべき罪ではない。
 しかし多くの場合、それを罪と決め付けるのは逃げた当人だ。
 挑むことをやめ、絶望に背を向ける――そうして未来を勝ち取った人間は、時に自らを罪人と看做して自罰する。ありふれた話だ」

 裏切りの騎士を従えるかの青年は、かつて絶望的な戦いに背を向け一人で逃げ出した。
 アヴェンジャーの言う通り、それは決して罪ではない。
 むしろ彼我の戦力差を正しく理解した上で取れる最適解と言ってもいい。
 感情に突き動かされて不帰の道に突き進んでいたなら、彼も件の戦いで命を落としていたかもしれない。そう考えると、やはり彼は正しい選択をしたのだといえる。
 ―――そう彼を慰めたところで、その心には何一つ響きやしないだろう。

「逃げることは立派な解答の一つだが、同時に重篤な害を自らにもたらす麻薬でもある。
 逃避で得られる安息は続かない。いずれ安息は別な感情に変わり、逃げた臆病者を苦しめる。
 この男も当然のように、それに苦しめられている。逃げなかった仲間の末路を知ったことで絶望に魅入られ、冬木の地へと召喚された。
 逃避の代償に取りこぼした者の為、願望器を求めて戦うかどうかは未だに決め兼ねているようだが……どちらを選んだとしても、奴は既に絶望している。
 奴は自らの手で希望を手放した。『逃げる』ということは、そういうことだ」

 自問の中で過ごす時間の果てに、逃げ出した少年は仲間達の顛末を知る。
 その時彼は、心臓に穴を穿たれたような想いになり……そして絶望した。
 心から絶望して過去の自分の選択を悔やんだ。やり直せたならとイフの可能性に思いを馳せた。
 そうして辿り着いたこの冬木でも、彼はまだ自問と自答を果てなく繰り返している。
 そこに希望の光はない。――――どこにも、そんなものはない。

「裏切りの騎士を従えた、裏切りの末の生存者がどれを選ぶか。お前はどう予想する、マスター。
 過去の逃避を取り返すように戦いへ挑むのか、都合のいい奇跡を嘘だと拒むのか、……それともまた身体を翻して逃げ出すのか。
 いずれにせよ、安息とは程遠い茨道が彼を待っているぞ。逃げた程度では絶望を振り切れない。全ては白か黒に終着するから、この町に灰色は存在しないのだ」


                                              (Side:Dispair――12:パンナコッタ・フーゴ&セイバー


◇◆


 微睡みの中で夢を見た。
 それは哀しい男の記憶だった。
 完璧であることが招いた悲劇。
 愛も反目も選ばなかった結果として、自分が何より誇りに思っていたものを壊してしまった男。

 湖の騎士。
 完璧なる騎士。
 そして、裏切りの騎士。

 パンナコッタ・フーゴが見た夢は、彼のサーヴァント……サー・ランスロットの記憶に他ならなかった。

 セイバーは今も霊体としてフーゴのすぐ近くに侍っている。
 しかし彼は、セイバーに夢の話をしようとは思わなかった。
 誰にでも踏み入られたくない過去は存在する。ギャングであったフーゴは、その辺の一般人よりもずっとそのことをよく知っていた。
 ギャングと聞けば大半の人間はろくでなしという単語を連想するだろうし、事実それで合っている。
 ギャングになるような奴にはろくなやつがいない。道を踏み外すに値する過去を持っている人間がほとんどだ。それは、フーゴだって例外ではない。
 フーゴは過去、神童と呼ばれるような天才少年だった。
 幼い頃から徹底的な英才教育を施されて育ってきた彼がそのまま敷かれたレールを辿って歩んでいたなら、きっとさぞかし立派な人間として大成したことだろう。
 だが、そうはならなかった。天才に生まれてしまったがために人生を通して抑圧され続けた彼は、当たり前のようにパンクし―――かくして彼も道を踏み外した。

「ジョルノ……」

 ジョルノ・ジョバァーナ。フーゴ達の前に旋風のように現れたその少年は、ギャングにあるまじき『気高さ』を最初から持っていた。
 純粋な憧れからギャングの道に入り、その頂点……ギャングスターを目指すと豪語する彼と出会ってからのことを忘れた日は一日もない。
 彼はまさに、黄金の風だった。チームに突如として吹き込んだ、眩い輝きを放った風。

「君ならばきっと―――聖杯を拒むんだろうな」

 それは何もジョルノに限った話ではない。
 ブローノ・ブチャラティ。
 グイード・ミスタ。
 レオーネ・アバッキオ。
 そしてナランチャ・ギルガ―――かつてフーゴの仲間だった彼らなら、一人の例外もなくそういう道を選んだはずだ。

 彼らは皆『黄金の精神』に目覚めていた。ジョルノという風に感化されるように、気高い魂へと昇華していった。
 しかし誰もがそうなれるわけではない。現にパンナコッタ・フーゴという男は、『黄金の精神』に目覚められずに戦いから逃げ出したのだから。
 そう、フーゴだけが例外だった。ブチャラティチームの中でたった一人だけ、彼は戦いの道を選べなかった―――だから、彼はここにいる。
 フーゴの弱さを裏付けるように、彼はこの期に及んでもまだ自分の方針を決定付けることが出来ずにいる。
 聖杯を手に入れようと思ったなら、当然過酷な戦いをすることになる。それでももし打ち勝てたなら、なくした全ての仲間を蘇らせることが出来る。
 ただ当の彼らがそれを良しとするかというと、フーゴは途端に答えに窮してしまう。

 選べない。
 選ばなければならないのに、こうしてウジウジと迷っている自分がどうしようもなく情けない。
 苦悩するマスターを、セイバーは黙して見守っていた。

 助言を請われたなら応えよう。
 彼が泣き言を漏らすのならば、それを聞き受けるのが騎士としての役目だ。
 しかし戦うか否かを選ぶことだけは、騎士に決定できることではない。
 それは主君の役目であり、セイバーには踏み入ることの出来ない一線だった。
 決断を出せずに苦悩する主を見てセイバーがその心に抱く感情は、苛立ちでも同情でもない。
 ……『羨望』だ。ランスロットという騎士は、誰が見ても文句の付けようがない完璧な騎士だった。

 それだけに、彼は悩むことすら出来なかった―――もとい、どれだけ悩んでも結論に達することが出来なかった。

 ブリテンには理想の王が要る。そしてその傍らには、貞淑な后(ギネヴィア)の存在が不可欠だ。
 そう思うならば自分に想いを寄せる彼女を裏切ればよかったという話だが、そうすることも彼には不可能だった。
 何故なら、それは彼の騎士道に悖る行いだったから。ギネヴィアへの想いに殉ずる生き方もまた、彼の騎士道における必定だったのだ。
 何も生み出さない苦悩の末に迎えた結末は、アーサー王伝説に描かれた通りのものである。
 円卓の瓦解と共にブリテンは崩壊し、ランスロットの名は裏切りの騎士という汚名と抱き合わせで後世にまで語り継がれた。

(しかし貴方は―――マスターは、ご自身の決断で何かを変えることが出来る。そして貴方はきっと、いずれは決断することの出来るお人だ)

 フーゴはまだ苦悩している。
 それでも彼はいずれ、自分の答えを出すだろう。 
 完璧であることをずっと前にやめた彼ならば、きっとそれが出来るはずだ。
 セイバーは、ランスロットはただそれを見守るのみ。その決断に従うのみ。それが、サーヴァントとしての彼の騎士道であるゆえに。
 ランスロットは裏切りの騎士だ。当の彼自身、それを認めている。
 姿がどうあれ歴史は変わらない。自分の招いた悲劇が揺るぐことは、決してないのだ。

(それでも、貴方が理想の騎士を望むのであれば……私は騎士として、この宝剣を振るうのみだ)

 日の落ちた部屋は薄暗く、マスターの少年の心を暗示しているかのようでさえある。
 彼らの聖杯戦争は、まだ始まらない。
 今は、まだ。


◇◆


「彼らは絶望だ。形容するには、その一言で事足りる」

 アヴェンジャーは、今度は多くを語らなかった。
 邪悪の化身と忌まれたサーヴァントを召喚した男は、残忍さだけならば彼を凌駕する域にある。
 欲するままに奪い、情動のままに犯し、激情のままに殺す。
 倫理観というものを母の子宮に置き去りにしてきたのか、あるいは父の悪性のみを受け継いで生まれてきてしまったのか。
 それは定かではないが、彼らが『黄金の精神』などというものに覚醒することだけはあり得ない。
 彼もそのサーヴァントも、徹頭徹尾邪悪であり続けるだろう。そうあることを期待されて見初められたのだから、光に染まるはずがない。
 彼らはただ絶望を振り撒くだけの悪。
 類稀なる悪性を持って産声をあげ、生命の終わるその時まで、ほんの一瞬すらも悪の側から動かなかった生粋の邪悪に他ならない。

「純粋な悪であるがゆえに、その力は強大だ。生半可なサーヴァントではまず太刀打ち出来まい。
 ―――それだけに、彼らは希望を遮る壁として非常に優秀な役割を果たすことが出来る。
 時を支配する帝王と、それを従える悪漢。二つの邪悪を消し去らない限り、晴らしても晴らしても絶望の闇はこの世界に立ち込め続けるだろう」

 邪悪なる帝王は、絶大な力を持っている。
 単なる破壊力でなら対城宝具に大きく劣るだろうが、力の不可侵性で彼の右に出る者はそういない。
 まさにそれは、世界を支配する能力。絶対的な力であり、王を名乗る彼によく似合う力だ。
 世界が彼の手にある限り、その心臓を貫くことは難しいだろう。
 誰かが真実を暴かなければ、絶望の帝王はいつまでも滅ぶことなく悪徳を重ね続けるに違いない。

「悪が正義を名乗る主役に討たれて幕が下りる。物語とは得てしてそういうものだが、しかし今宵の作曲家は悪意に満ちている。
 悪が正義を討ち、哄笑の中で幕が下りる……奴好みの趣向だ。
 彼らが聖杯を手に入れる未来には、さぞかし溢れていることだろう。―――恩讐と絶望と、底のない悪意の海水が」


                                              (Side:Dispair――13:シュラ&アサシン


◇◆


 シュラにとって聖杯戦争とは、心地のいい刺激(スリル)を与えてくれる愉快なゲームだ。
 彼はまだ、自分が召喚した以外のサーヴァントと直接対面したことはない。
 しかしどんなところにも馬鹿というのはいるもので、この聖杯戦争には堂々と拠点だったり姿だったりを衆目に晒し、あろうことか真名を公衆の面前で宣言してのけた者までいる始末だ。そのため、戦わずともサーヴァントという存在がどの程度強いのかを推し量ることはそれなりに出来た。
 結論からいえば、彼ら、彼女らの強さは相当なものだ。
 少なくとも一介の帝具使いなどでは相手にもならず、一撃で倒されるのが関の山だろう。エスデスクラスの達人になれば、渡り合うことも可能かもしれないが。
 シュラも生前は帝具を使っていたが、仮に冬木に帝具を持ち込めていたとしても、それでサーヴァントと戦おうとは絶対に考えない。

 シュラは今日に至るまでの間、時折町を散策して回っていた。
 気まぐれに女を連れ去って犯すこともしばしばあったが、この日本なる国は帝国のように腐敗してはいないようなので、そっち方面の道楽は程々に留めている。
 帝国は権力のある人間が重んじられ、そういうものを持たない人間が軽んじられる分かりやすい社会だった。それほどまでに腐敗していたのだ、あの国は。
 もっとも根っからの悪人であるシュラとしては、あれくらい腐っていてくれた方が居心地がいい。
 まして彼は大臣の息子だ。たとえ警吏の前で堂々と人殺しを働いたとしても、シュラを捕らえようとするものは誰もいなかった。
 そのため、ついいつもの癖で気に入らない相手を殺すかその寸前まで痛めつけてしまいそうになる。彼の悪い癖だった。

 住宅街の大火災、アースとかいう人間衛星、禍々しい瘴気の漂う城。
 立ち会える瞬間には出来るだけ立ち会うようにしたし、行ける場所には全部行った。
 最後の城だけは流石に本能的警鐘に従って遠目から眺めるだけに留めたが、足を使って歩き回ったことで、それなりにサーヴァントの情報は得られている。

「よう、今帰ったぜ」
「シュラか」
「……何してんだ、アサシン?」

 今日の散策では、大して目立った成果は得られなかった。
 久々に女でも呼んで遊ぼうと思い立ち、日が落ちる頃に帰宅した彼。
 そうして自身のサーヴァントの根城である大部屋に踏み入ったシュラが見たのは……首の後ろ側を押さえながら、カーテンを開いて窓の向こうを眺めているしもべの姿。
 アサシン、DIO。彼は吸血鬼の英霊だ。その特性上昼間は出歩くことが出来ず、閉め切った暗い部屋の中で過ごしている。
 日が落ちた今は外に出歩くことも、こうして景色を眺めることも当然出来るのだったが、今の彼の様子はどこかおかしかった。いつもと違っていた。
 まるで何かを懐かしんでいるような、そんな雰囲気を醸しているのだ。

「私の肉体(ボディ)は、古い宿敵から奪い取ったものだ―――という話は以前したな」
「? ああ……そういやそんな話を聞いたっけな」
「肉体を奪うということは、その人物が持っていた身体的特徴をも自分のものにするということだ。
 ヤツの体はその点、鍛え上げられていること以外には大した特徴を持っていない。……この『星の痣』を除いては」

 見れば確かに、アサシンの首筋には星の形をした痣があるのが分かる。
 事情を知らないシュラも、何やらただならぬものをそこに感じ取ることが出来た。
 この痣はある気高き血筋の象徴。百年以上も続く、戦いの歴史そのものといってもいい。
 その時の重みを、シュラは直感的にアサシンの痣から感じ取ったのだ。

「この町に来てからというもの、時折この痣がズキズキと疼くように痛む。
 君には言っていなかったし、事実わたしも気のせいだと思っていた。
 いや、『思うようにしていた』のかもしれないな……『よもやこんな場所でまで、あの忌々しい血筋が出しゃばってくるはずがない』と思いたかったんだ」
「……話が見えねえな。つまりアンタ、何が言いたいんだよ」
「この世界に、わたしの宿敵がいる」

 星の痣を持つ者は、異能の力とはまた別に、お互いの距離や方向をある程度感じ取ることが出来る。
 アサシンを、DIOを襲った痛みは―――示しているのだ。
 本来同族であるはずの、しかしDIOにとっては自身の野望を最後まで阻み続けた嫌悪の象徴である『ジョースターの血統』の存在を。

「このわたしが水底に沈んでいる間に現れた、奴の子孫の気配ではない。
 これはまぎれもなく奴自身―――この肉体の本来の持ち主の気配だ」

 彼の脳内に、去来する景色がある。
 あの屋敷で過ごした青春。少年の日から、ずっと虐め続けていた男。
 誰よりも早く彼の野望に気付き、遂には彼へ百年の眠りという敗北を与えた『黄金の精神』の持ち主。

「その名は『ジョナサン・ジョースター』。フフ……よもやこんな場所で再開することになろうとは、思いもしなかった」

 同じ肉体を持つDIOには、それが分かる。
 痛みという形で伝わってきたジョースターの英霊の存在。
 最もDIOと因縁の深い相手。最初に彼を敗北させた宿敵ッ!

「シュラよ、君も気を付けておくことだ。ジョジョ……ジョナサンは一見するとお人好しの紳士でしかないが、体の内にとんでもない爆発力を秘めている。
 曲がりなりにもこのわたしを何度も破った男だ。その意味は、君にも分かるだろう」

 当のシュラはジョナサンの人となりを全く知らない。
 DIOがこれほど評価していることには驚いたが、単に爆発すると厄介なだけの相手ならば大したことはないとすら思ってしまう。
 シュラは今まで、そういう人間を山ほど殺してきた。
 キレるとヤバいと言われているような人間でも、蓋を開けてみれば底は知れている。
 無論相手もサーヴァントである以上、シュラが戦える相手でないのは確かなのだが―――それでも彼には、ジョナサンを軽んじる最大の理由があった。

「でもよ。そのジョナサンとかいう野郎でも、アンタの『世界』の前にはゴミカス同然。……そうだろ?」
「その通り」

 DIOは妖艶に笑って、シュラの言葉を肯定する。
 彼にとってジョナサン・ジョースターは、敵は敵でも特別な意味を持つ相手だ。
 自分を完全に滅ぼした空条承太郎やその祖父のことは忌まわしい怨敵としか思っていないが、ジョナサンに対しては尊敬の念すら抱いている。
 ―――そんな彼でも、今の自分は倒せない。DIOにはその確信があった。スタンド能力を持たずに時代遅れの波紋法だけを抱えて死んだジョナサンでは、逆立ちしても『世界』を超えられない。それはつまり、彼はDIOに絶対に勝てないということだ。

「……おまえもわたしの存在に気付いているのだろう、ジョジョ。
 ならば来るがいい。わたしの下を訪れ、もう一度波紋を練ってみるがいい。
 その時は二人の再会を祝して――――おまえに『世界』を見せてやろう」



割れる慟哭

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2016年09月30日 16:24