白石大吾(しらいしだいご、1895年8月-1979年10月)は、日本の
総理大臣(41代)。
進歩会代表、「学者総理」の愛称で知られる。
来歴
生い立ち
大学教員時代
政界入り
1945年8月の終戦後も、大学教員として精力的に活動していたが、1946年3月に旧知の
大路晴雄から誘いを受けて
日本共和党へ参加。次期衆院選での出馬を検討していたが、同年8月に
協同共和党設立に際し、政権綱領作成を手伝うために
慶応義塾大学を退職。
第14回衆議院総選挙(1946年12月)で、
東京1区から初当選。党の政調副会長に就任する。政権綱領づくりを専門とするため、
大路晴雄の派閥である
二期会への参加を見送りとした。その後、野党暮らしの中で、議席を取れず苦しんでいた
大路晴雄の下で、政策親分として活動。
入閣
1966年4月、総選挙後に
赤城勇作の後継者として無投票で総裁に就任。首班指名を受けて、
白石内閣を組閣した。「経済の白石、組織の白石」と呼ばれるほどの経済政策と組織交渉力を武器に
社会党包囲網と呼ばれる体制を
保守党とともに構築。閣外協力ではあったものの保守党との政策協力を行った。
第7回参議院通常選挙で共和党を勝利に導くと、安定の長期政権になると言われていた。
しかし、1967年の
通常会を経た後、訪米の予定をキャンセルして突如退陣を発表。就任前からささやかれていた、循環器系疾患などの健康不安説が流れていたものの公式にこれを否定。結局、
鶴田正弘亡き後のキングメーカーとして君臨するためともいわれていたが、本人の中には世代交代への意向があったとされる。
1967年6月、総理大臣退任の2か月後、
村上謙吾の後任として進歩会3代目会長に就任。しかし、キングメーカーとしての活躍の機会なく
社会党に政権を譲る。1975年の
自由党結党の際には、「旧時代の代表者」として派閥会長のまま党の役職を断った。国民世論からは、返り咲きを期待する声も大きかったが、高齢を理由に
第24回衆議院総選挙への立候補を断念。政界引退を表明。
政界引退後は、自宅で療養を送るも、政界引退の翌年に逝去する。
経歴
選挙歴
最終更新:2025年07月20日 12:00