中沢博康(なかざわひろやす)〈1962年12月ー〉は、日本の政治家、議員秘書。
来歴
前半生
父の
中沢安夫は共和党・自由党の代議士で、兄の
中沢康之も参院議員である。幼い時から地元
長崎で育ち、母の下で教育を受けることになる。
長崎高等学校卒業後、
東大に進学するために
慶應義塾大学を蹴って浪人。一浪の末、進学することになる。上京後、父の
議員宿舎から東大に通学。在学中には、
弁論会で政治論議をあおり一時期は右派の学生運動組織であった
日本学生連合に幹部委員として参加した。
法学部に進学した後、
東大新聞部に入部して、記者活動に本腰を入れ2年留年する。新聞部時代に執筆していた、「日本保守の論」は、東大内外で非常に話題になった。特に、学生運動の中で日の目を浴びることのなかった右派の学生運動の起爆剤となった。1987年12月には、
日本新聞協会出版特別賞を受賞した。
東大卒業後、業界最大手で政治へのコネもある
大栄出版社の内定を蹴って父の私設秘書になる。地元長崎の集票を担当しており、地元事務所で有権者の元を回る生活を送る。1989年1月に
政策秘書試験に合格すると、父の元を離れて他議員とともに行動する。父が一時期会長を務めた派閥でもある
雄伯会(若狭派)の若手議員だった
荒山白利(
衆院安全保障委員会理事)のもとで第二秘書として勤める。そんな中で、兄が参院選に当選すると、兄の後継として父の私設秘書に戻ることになる。
政界進出
1994年12月、父安夫が死去。衆院の地盤を引き継ぐ後継候補者としての指名を受ける。この時
自由党が示したのは、兄の
中沢康之を衆院に鞍替えさせることで立候補させる案だった。しかし、衆院議員を目指して熱心に活動していた姿を
雄伯会が
小選挙区の候補者として推薦した。自由党入党後、
党長崎県連に所属。1996年12月、
第31回衆議院総選挙に父の地盤である長崎3区から弔い合戦のために立候補。父の後援会が全面支援を表明、父と大接戦を演じてきた
脇坂雄一(
社会党前職)を下して小選挙区で初当選を飾る(以降9期連続当選)。この選挙の当選同期は、
藤生光史、
島延太郎、
山川亮介。当選後、雄伯会に入会。その後派閥の推薦を受けて、
学生局委員、
文部副大臣(総務)、
青年局次長、青年局長を歴任。特に、2003年3月には、入閣が決まった
藤生光史から直接の指名を受けて青年局次長から青年局長に昇進した。政策では、水産族だった父の跡を継がず、自ら競争力をもつべきだと訴えてきた科学振興に重点を置き文教族として成長していく。その過程で、反保守路線を明確に表していた
日教組長崎県本部や
JP労連九州支部などの社会党系労働団体と関係改善に努める。
文教族の議員として
野党自由党
与党復帰・離党
第37回衆議院総選挙では、自由党として躍進。与党への復帰を果たすと、
深沢内閣・
深沢改造内閣の
自治大臣兼
特命担当大臣(
地方創生)として入閣。この時期、
藤生光史に要請を受けて、
二期会への入会を決定。二期会座長に就任する。2017年9月、同年12月に行われる予定の
長崎県知事選挙への出馬を自由党執行部から要請される。しかしながら地元県連では、すでに社会党系労組出身の候補者を自社共同推薦体制で出馬させることが決定していたため執行部からの要請を辞退。2017年10月には、自由党執行部との折り合いが合わなかったことを理由に閣僚を辞職。2018年3月、
通常国会終幕直前に
自由党を単身で離党。離党の要因は、自由党執行部からのあからさまな要職外しだった。この背景には、これまで所属していた
雄伯会を見限って
二期会に所属。派閥が推薦していた長崎県知事選挙を地元県連の意向から辞退したことなど様々なものであった。
無所属・無会派議員
自由党を離党後、
衆院懲罰委員会理事を除名されると、
衆院農林委員会に所属。初当選以来所属していた院内会派自由党を離れた。党の役職から離れると、久方ぶりに自由な政治家時間を謳歌。地元長崎を中心に、駅前遊説や空港演説、公共施設設立時の着工あいさつなどに積極的に赴いた。また、かねてから親交のあった
岡田美咲(
長崎県知事)らとともに長崎の公共政策を研究。
長崎諫早湾生物共生を考える会の活動に積極的に参加した。2018年12月、
名古屋市長選挙で
自由党推薦となった
東守利の応援演説で名古屋を訪れた際に、
藤生光史と会談。藤生の新党構想を聞きつけて、ともに地方で活躍している議員らに声をかけることを約束して新党への参加に関して意向を早々に表明した。
2019年4月26日、
新党日本結党集会に無所属
衆院議員として参加。当選同期の
島延太郎に指名される形で、新党日本
政調会長に就任。新党の政権構想の根幹にあった、先進的な日米共同体制に関する対外政策の素案を模索した。2019年6月には、新党政権綱領に関する党発表を主宰。全国遊説を行う傍らで、新党日本の
政権綱領を発表することとなった。2019年7月に、
第38回衆議院総選挙で野党第一党に躍進。役職者を全員続投させる島党首の方針により党の渉外を担当していた
藤生光史からの勧めで、ともに躍進した
平和再生党を取り込む大規模な野党連絡会議を設立することを提言。実現こそしなかったものの、国会論戦での協力体制を確保した。このために、急進的な保守政策を一部転換させて緩和させる。平和再生党内で右派と呼ばれる
神庭美紀子との政策協調路線を明示した。
2021年8月には、
第39回衆議院総選挙で躍進を果たし比較第二党を形成。与党
社会党を過半数割れに追い込むと、これまで協調路線を示してきた
平和再生党との連立内閣形成に向けて交渉を続ける。神庭美紀子との実務者級協議を重ねて、最終的には藤生の力添えもあって与党の島内閣を組閣。この組閣の直前に、党の要職である政調会長を
本居幾太郎に譲って組閣本部に入る。
島内閣では、特命担当大臣(
法務/情報庁設置準備)として入閣。年末にかけて行われた補正予算案を決議するための
特別国会では、
情報庁設置法をやっとの思いで政府立法として提出すると、
社会党の批判を浴びながら強行採決。
参議院では多数派だった
自由党案に寄せる形で可決させた。2022年1月に、島内閣に新設される特命担当大臣(
情報)を兼務する形で就任。
藤生体制
2022年5月、藤生光史が
新党日本党首、
内閣総理大臣に就任すると、
新党日本幹事長に就任。これまで未設だった、幹事長職を新設することで党内外に諸問題に対する対応を行うこととなった。2023年11月には、藤生から相談されることもなく衆議院が突如解散。党内での選挙対策も不十分であったものの、その流れで
日本民主党に合流することとなった。自身も、寝耳に水の状態であったもののなんとかして党内の混乱収縮に貢献。無駄な党内不破を生じさせることなく日本民主党への合流を実現した。日本民主党は、藤生の天才的なリーダーシップを根源とする政党であった。そのため、打診されていた
日本民主党政策担当副代表の職も断って、
衆院懲罰委員長への就任を要望。要望通りに、衆院の院内役職を務めることになる。2023年11月の衆院解散に伴って、政界引退を表明。藤生光史の陰に隠れたひっそりとした引退であった。
政界引退後
政界引退後、メディアなどへの露出機会を増やしたが、自身の政治的主張をする機会はほとんどなかった。一時期、長崎県知事選挙への出馬も検討していると報じられたが、その噂は自ら拒絶。息子の政界進出についても懐疑論を持っていたため、自らの子息が政界に進出することはなかった。2028年に逝去。
選挙歴
主な役職
年表
最終更新:2025年07月07日 21:35