杉浦静(すぎうらしずか、1893月8月-1975年1月)は、日本の記者、政治家。
第38代内閣総理大臣
来歴
政界進出
1939年2月の
大日本政治会設立から、政界に深くかかわるようになると、
大塚恒夫や
野元干城といった歴代首相から政界転身の誘いを受けることになる。1942年6月に、新聞記者を辞職して
大日本政治会へ入会。特別枠という扱いで
第12回衆議院総選挙に
兵庫4区から出馬。トップで初当選。当選後に活動を支えてくれたのは、後に腹心となる
鶴田正弘であった。鶴田の紹介で
海堂武臣と懇意となり、政界での人脈を作っていく。院内では、
衆院文部委員会や
衆院経済委員会で委員としていきなり活躍。記者時代から続けてきた官僚への根回しにより、多くの情報を集め、情報通の議員として活躍。1943年6月に、
海藤武臣を中心として設立された
保守研の事務を総覧する要職である事務総長に就任する。派閥設立に際しては、議員集めに奔走する。
戦後政界
戦後、
大日本政治会、
日本共和党、
民主党を経て、
共和党に合流。
大日本政治会では、政策立案の中枢であった国務部で部長代行を務め、戦後においては、
日本共和党の中枢に回る。1948年1月の政界再編の流れに従って、
鶴田正弘の意に反して
民主党へ合流。国会対策、党内組織の再編成などの実績や経験から民主党組織担当副代表に就任。
第2次長田内閣では、
商工大臣として国際経済、経済成長基盤の育成などを進めた。1951年12月、
日本共和党が解党して
共和党に合流したのを見て、自身も
共和党へ合流する。長らくたもとを分かっていた
鶴田正弘と復縁し、
保守研へ復帰する。1954年12月、
鶴田正弘の
共和党総裁就任に際して、同派閥の
福田信夫総裁室長のナンバー2である総裁室長代行に就任。
鶴田内閣発足以後、党幹事長に就任する。1956年12月より、国際航空機輸入協定の諸制度運用に関する特定法案を取りまとめるために、経験者閣僚として
商工大臣に就任する。
遠山昇の総裁就任に
保守研が助力した関係性から、幹事長に再任。幹事長への再任は、
共和党の歴史上唯一の人事である。
60歳(48)、鶴田正弘を筆頭推薦人として総裁選に勝利。総理総裁に就任した。総理在職中には、「国際空港開発法」を本会議の強行採決で通過させるなど鶴田の強引な手法を擁護していた。一方で、鶴田は密かに「蔵元おろし」の運動を始めた。保守研の中でも強力な勢力となっていた鶴田側近の議員連中が派閥を飛び出したことで保守研は混乱していた。62歳(68)党内の混乱を収めて次の選挙に挑みたい党執行部の要請から総選挙前に総裁選を行うことを決めた。総裁選では、同志会の支持を得て臨むつもりだったが、派閥内での内部分裂が表面化して保守研から2名の候補者を出す事態となってしまった。結果として総裁選に敗れると、派閥会長職も退くこととなった。64歳(70)で赤城勇作の総裁選筆頭推薦人に名を連ね、経済大臣(
赤城内閣)として入閣。次の選挙を目指した、「全国経済発展運動キャンペーン」を主導していたが効力が現れず内閣支持率低下の要因ともなってしまった。この時期には、鶴田正弘と党二大長老を争っていたものの1972年総選挙で落選しそのまま政界引退を発表した。
略年歴
- 1916年4月_生田海運へ入社
- 1916年4月_海運部
- 1918年10月_倉庫部
- 1920年11月_上海支店
- 1921年12月_釜山支店
- 1923年10月_経済之日本社へ入社
- 1923年10月_経済部
- 1928年4月_経済部主筆
- 1931年8月_経済部長
- 1937年8月_経世新聞編集長・経済部長
- 1939年10月_経済之日本社取締役・統括編集長
- 1951年12月_共和党へ入党
- 1952年1月_保守研へ復帰
- 1952年5月_組織運動局長
- 1954年12月_総裁室長代行
- 1955年5月_幹事長
- 1956年12月_商工大臣(鶴田内閣)
- 1957年6月_幹事長
- 1959年7月_共和党総裁・内閣総理大臣
- 1962年12月_党顧問
最終更新:2026年07月19日 23:34