杉浦静

杉浦静(すぎうらしずか、1893月8月-1975年1月)は、日本の記者、政治家。第38代内閣総理大臣

来歴

1893年8月、兵庫県出身。杉浦家は、神戸経済に影響を与える大地主で、生田財閥神戸伊原商事などの新興財界人らに影響を与えた。

生田海運

旧制神戸高校(兵庫県立神戸高等学校)、京都大学に学び、京都大学経済学部経済学科を卒業。学部生時代は、企業法の研究者である森友由一に師事した。大学卒業後、1916年に生田海運に入社。志望業界は、サラリーマンを中心に爆発的な人気を誇った週刊誌の編集だったが、大手の大阪日本新聞社東都東京新聞社東京大学卒業生の選考に限ったことで入社をあきらめざるを得ず、貿易業界の名門となっていた生田海運へ入社。
海運部、倉庫部での勤務を経験し、上海釜山などの外地勤務を経験した。

経済之日本

1923年、当時生田海運の顧問弁護士を務めていた藤原京志郎の誘いを受けて、藤原が経営に参画していた経済之日本社へ転職。経済部記者として自身がこれまで関わっていた国際貿易関連の取材を担当。1928年より経済部主筆、1931年より経済部長に就任。1935年の自主軍事宣言発令に合わせて社説を担当。「自主の剣は自主の工場より鍛えよ」と題された社説は、商工省幹部や参謀本部幹部から賛辞を贈られることになった。財界にあっては日本経営者連盟土橋英吾会長、経済団体連盟榊原文蔵会長、日本商工会議所小林次郎会頭から高い評価を受けた。学界にあっては、山本新之助藤井恭一といった東京大学教授らから好意的にみられた。戦後、産業界記者座談会において、戦前経済新聞の最高傑作と評価されることになる。1939年より、統括編集長に就任し、新聞発行だけでなく経済雑誌の発行に関しても絶大な権限を持つことになる。

政界進出

1939年2月の大日本政治会設立から、政界に深くかかわるようになると、大塚恒夫野元干城といった歴代首相から政界転身の誘いを受けることになる。1942年6月に、新聞記者を辞職して大日本政治会へ入会。特別枠という扱いで第12回衆議院総選挙兵庫4区から出馬。トップで初当選。当選後に活動を支えてくれたのは、後に腹心となる鶴田正弘であった。鶴田の紹介で海堂武臣と懇意となり、政界での人脈を作っていく。院内では、衆院文部委員会衆院経済委員会で委員としていきなり活躍。記者時代から続けてきた官僚への根回しにより、多くの情報を集め、情報通の議員として活躍。


46歳(52)民主党から政界入り。文部委員、経済委員を経て、50歳(56)経済大臣(福原内閣)として初入閣。52歳(58)経済大臣(鶴田1内閣)として続投。54歳(60)国務委員長代行/総理府長官(鶴田23内閣)。58歳(64)保守研会長を禅譲され、国務委員長(遠山内閣)に就任。

60歳(48)、鶴田正弘を筆頭推薦人として総裁選に勝利。総理総裁に就任した。総理在職中には、「国際空港開発法」を本会議の強行採決で通過させるなど鶴田の強引な手法を擁護していた。一方で、鶴田は密かに「蔵元おろし」の運動を始めた。保守研の中でも強力な勢力となっていた鶴田側近の議員連中が派閥を飛び出したことで保守研は混乱していた。62歳(68)党内の混乱を収めて次の選挙に挑みたい党執行部の要請から総選挙前に総裁選を行うことを決めた。総裁選では、同志会の支持を得て臨むつもりだったが、派閥内での内部分裂が表面化して保守研から2名の候補者を出す事態となってしまった。結果として総裁選に敗れると、派閥会長職も退くこととなった。64歳(70)で赤城勇作の総裁選筆頭推薦人に名を連ね、経済大臣(赤城内閣)として入閣。次の選挙を目指した、「全国経済発展運動キャンペーン」を主導していたが効力が現れず内閣支持率低下の要因ともなってしまった。この時期には、鶴田正弘と党二大長老を争っていたものの1972年総選挙で落選しそのまま政界引退を発表した。
最終更新:2025年09月11日 14:57