来歴
1851年8月に、佐倉藩士の家系で、
佐倉藩に生まれる。
藩校の
成故書院で学び、没落同然の暮らしをする中、藩校の成績は優秀で藩の就学生として
江戸留学を経験する。
官僚生活
1910年5月、外交的課題の全面修復を目的に、組閣の大命が降下する。大命降下に従い、
公党総統・
内閣総理大臣に就任する。元
大蔵大臣で、近代日本屈指の財政家であった
富岡正二郎を頼って官営企業の大々的な民営化策を断行する。世界大戦の兆候をいち早く察知して、独自の軍備拡張と工業力強化を目的に増産体制の整備を進めた。
1911年の
ロシア帝国による「世界同時的宣戦布告」に対抗するため、対ロ強硬外交を主張した。開戦後は、独自の外交ルートから、
アメリカ合衆国をおいて孤立静観主義路線を明確にした。
1912年8月には、難しい政権運営や国際関係への対応で無理がたたり、議会中に倒れる。そのため、
宇井喜一郎(
内務長官)に公認のポストを譲るため
内閣総辞職をする。
重鎮議員
1913年1月の
第6回衆議院総選挙で、病床にいながら議席を守り、2月に政界復帰を果たす。
衆議院の院内規則制定に活躍し、委員会制度の準備を担当した。1913年5月に
公党を離党。
1913年8月に、自身の内閣でも
商工大臣を務めた
原田宗次郎が刺殺されると、殉職者への追悼演説を
衆議院として行うべきと主張した。1913年10月の
第37回国会において、憲政史上初の追悼演説を担当。「原田商工大臣の死を持って、古代政治と決別する」と論じた追悼演説は、後年において日本経済史の大きな転換点となった。
政党の設立
財政健全化、小さな政府論の論者として国政に活躍する論客となる。
地方議員の育成や自身の近い政治観をもつ議員の育成を目的として、1921年の
大衆国民党、1924年の
革新本党設立に協力するも、自身は属さずあくまで
無所属を貫いた。
1928年に、
憲政党総裁の就任打診を受けるが固持。政党政治家への復帰を望まず、
東亜同盟結集後は、非推薦議員の地位にありながら元
内閣総理大臣という立場で不当選挙に持ち込ませずに影響力を誇示する。1934年8月から
坂本内閣の内閣参与として、
平城会議での強硬姿勢などを主張した。
自主軍事宣言下の国民戦意高揚を高らかに主張するなど、晩年の政治スタンスについては注目すべきところが大きい。
1941年に没するまで、選挙区は守り通され、
無所属政治家として
「憲政の神様」と呼ばれる。
選挙歴
略年歴
最終更新:2026年05月25日 07:15