自由党1990年党首公選(じゆうとう1990ねんとうしゅこうせん)は、1990年6月に行われた
自由党党首を決める
自由党の党内選挙である。
概要
選挙結果
決選投票
|
氏名 |
票数 |
議員票 |
地方票 |
| 1 |
船中勉 |
223 |
160 |
63 |
| 2 |
平川修二 |
215 |
178 |
37 |
予備選挙
|
氏名 |
票数 |
議員票 |
地方票 |
| 1 |
平川修二 |
149 |
118 |
31 |
| 2 |
船中勉 |
128 |
86 |
42 |
| 3 |
金田彦徳 |
85 |
66 |
19 |
| 4 |
梶井幸也 |
75 |
67 |
8 |
立候補者
内原内閣以来の
商工大臣として、世界に誇る日本経済の立て直しを主導し、国民の強い期待を集めていた。自らが無派閥のために、推薦人集めに苦慮していたところを
浅上浩二支配が終焉した
治水会の
田村一がキーマンとなり推薦人集めに協力。治水会のなかでも
瀬川記之に遠い人物らの支援などを受けて立候補するところとなる。
無派閥議員と治水会旧加藤派の強い支持、参議院からの支援を受けて予備選2位の結果を見せた。決選投票では、2位3位4位連合ともいえる大規模協力を取り付けたことで、最終的な勝利を手にした。
自由党結党以来、
八政会出身の
自由党党首が生まれてこなかったことに危機感を抱いていた
福岡一会長は、次期自由党党首を派閥内から出すべきであると強く主張して派内の候補者選考を進めることとなる。結果、農林族のドンである
平川修二元会長を派内候補者として決定。各派閥への根回しや農林系の族議員、JAなどの集票組織をフル稼働させた三次元での選挙戦を展開することになる。
予備選での圧勝も、決選投票後の戦略に大きな誤りがあったことと、参議院の支持が定着しなかったことで決選投票で敗れることとなった。
新派閥となる
新構造研設立のために水面下で動き始めていた
伊藤万次郎は、自身の懐刀として
外務省から引き抜いてきた金田に出馬の白羽の矢を立てる。一方、派閥設立に弾みをつける出馬となった背景もあって、決選投票での去就が最も注目される陣営であった。
結果として、決選投票では自由投票を選択して最終的な船中政権樹立を助けた。
党首公選のキーマンとなっていた
田村一は、党内リベラルで人を集められる
二期会に着目し、予備選を行うための最後の1人として立候補を促した。
予備選を成立させた論功行賞と決選投票で派閥全員が船中支持に流れた功績は大きく、党首公選後にも力を保持することになる。
各派閥の動向
会長の
若狭健一は、実施的な派閥の領袖となっていた名誉会長の
江藤隆一の意向から自ら総理総裁の椅子を目指すことができず、早い段階で派閥としての組織的対応を行わないことを表明していた。一方で、雄伯会室堂派と呼ばれて独自に勢力を増やしつつあった
室堂卓二は、出馬を目指して推薦人を集めていたものの、最終的に推薦人20人に及ばず立候補を断念した。この動きを反乱と見た江藤名誉会長と、のちに派閥内対立の様相を見せることになる。
党内中堅派閥の一角であった二期会は、会長の
村田長一(党国対委員長)が
瀬川内閣の中枢にあったことなども影響して自らの出馬をあきらめ、派閥候補の擁立を見送るべきと想定していた。しかし、党首公選のキーマンとして暗躍していた長老の
田村一の強い説得により、
農林大臣の
梶井幸也を派閥内候補として擁立する方針を一転して取った。ただ、あくまでも予備選を成立させるためだけの立候補であり、決選投票では、派閥全員が
船中勉に流れることになる。そのため、船中政権では党の要職を占める。
会長の
福岡一(政審会長)は、瀬川政権の要職中の要職に在りながら次期党首に強い影響力を持ちたいと考えていた。このため、農水族のドンとされていた
平川修二(元会長)を派閥候補として擁立することを決めた。派閥意識が弱い
参議院自由党や族議員らへの根回しによって支持を広げた。
会長の
浅上浩二は、
瀬川内閣設立の立役者であったが、内閣の退陣によってその影響力が急落。旧加藤派の
田村一らと派内対立を起こしていた。浅上派は、
瀬川記之の続投を目指す姿勢であったが、瀬川が固辞したため最後の最後まで候補を擁立することがかなわず、結果的に
平川修二を推すというという流れになった。旧加藤派は、
田村一が熱烈に支持を表明した
船中勉の筆頭支援派閥として躍進することになる。
1984年の
青洲会設立によって党内で最も小さな派閥となっていた日成会は、反青洲会を掲げていた
伊藤万次郎からの熱烈な要請を受けて、
金田彦徳擁立の動きを見せることになる。この影響もあって、のちに
新構造研に合流することになる。
青洲会は、
1989年党首公選で
治水会とともに
瀬川記之を擁立した背景から、積極的な派閥候補の擁立には否定的な流れであった。派閥としては、緩やかな結束による党首公選の実行を謡っていたが、治水会の影響などもあって
平川修二に相乗りする形となる。
党首公選当時は、派閥としての姿はなかったものの、
伊藤万次郎ら
青洲会に参加することをためらった10名が中心となって党首公選への候補者擁立を画策していた。結果的に、伊藤万次郎の懐刀と呼ばれていた
金田彦徳を担ぎ上げることになる。この党首公選では、4位と僅差の3位に収まり、決選投票では自由投票に転じた。この党首公選の2か月後に派閥として正式に旗揚げされた。
派閥意識が弱かった
参議院では、
参議院自由党と呼ばれる独自の派閥文化が醸成されていた。この組織が歴史の表舞台に出たのは、この党首公選が初めてとされている。当時
参議院自由党会長であった
恩田拓光は、
船中勉の経済理論に感銘を受け党首への強力な後押しを実現させた。
沿革
最終更新:2026年10月05日 08:09