福岡一(ふくおかはじめ)〈1921年8月ー2008年1月〉は、日本の商工官僚、政治家。
日本政界における代表的な
地行族の1人である。
来歴
前半生
あこがれの商工官僚
半田教授の推薦を受けて、
特例受験制度の恩恵から大学3年で
高等文官試験を受験。当時史上最年少となる21歳で合格の栄誉を掴んだ。高等文官試験行政科に合格。1943年4月、入省席次第4位で
商工省軽工業局に配属される。世に言われる、「
華の43年組」の一人として数えられることになった。希望した
通商局ではなかったが、自身の
経済学に関する見識は大きな原動力となっていく。衣料品課生産体制調整官として
広島県産業局に派遣され、繊維製品の製造を監督する。激戦の続く中、
広島呉工廠繊維工場部生産監督官として広島における軍人用衣服生産に関わる。現場を経験した後、1945年4月に
戦時行政特別法を根拠法とする
企画院に出向。産業部に配属されると、国内の民需工場における生産量の管理情報一元化のためのシステムづくりに奔走。直属の上長であった産業部長の
羽田貞夫に教えを乞いながら、全国画一的な生産量情報の管理ネットワークを構築した。しかし、その作業中に終戦を迎えることになる。
終戦期
1945年8月、
企画院の後継組織として
終戦連絡事務局が職員を引き継ぐ形で発足。終連事務局組織機構改革本部組織調整課長の任に就いた。上長の初代本部長には、
羽田貞夫が着任する。1946年4月、羽田が出身母体の
内務庁に復帰することに伴って自身も
商工省に復帰。
東北商工局総務部長、地域経済部長を経て、1949年4月東北商工局次長。
内閣官房設立に伴い、1949年10月に内閣官房内閣人事局人事組織調整課長として出向。この時、初代局長に就いたのは、羽田貞夫であった。その後も、総務課長、内閣人事官、
内閣官房秘書官(商工省)を歴任。1955年10月、「
華の43年組」と同様に商工省
大臣官房政策調整企画官として復帰。翌々年4月、大臣官房政策評価室長。
政界進出・初当選
戦後に
保守党が結党すると、父の秘書として長らく支えてくれていた
青葉幸隆(保守党
福井県支部長)からを出馬要請を受ける。再三辞退していたものの、
商工官僚としての未来を考えられなかったために、誘いを受ける形で次期
参院選への立候補を決める。保守党から依頼された選挙区は、空白区でもあった
北東北選挙区だった。1959年10月に商工省を退官して、保守党に入党。
党青森県支部に所属することとなった。しかし、古来から革新勢力が強固な地盤であったために党の組織的な応援は期待できなかった。そのため、長らく
社会党を支持していた
青森県庁自治団体総同盟(自治同)の切り崩しに力を入れる。自治労の
小幡正賢会長は、商工省
一般職出身の地方出向組で入省同期でもあった。この気脈を通じて、県庁自治労の上層部に切り込む。加えて社会層支持層だけでなく、社会党の青森における組織そのものを切り崩す方向にシフトする。自身の東大半田ゼミの先輩でもある
社会党系の
二雲堅確元青森県知事の後援会長である
山本惣太郎(
山本農産組合合同会社社長)に後援会長を依頼。毎週火曜日に3ケ月も訪問するなど熱心に通い続け、甥を保守党から
県議会議員に出馬させることを引き換えに、後援会長への就任を受諾される。山本会長の下で、選挙資金集めに奔走して社会党の熱心な支持者だった
小幡晋(青森県
公務員労働組合連合会長)や
二山芯(青森県
漁業関係者労働保険組合会長)を寝返らせる。また、青森県支部事務局秘書として、
福森良太(後の
自由党代議士)を雇い入れた。この福森は、
青森1区選出の
衆議院議員である
太田大寺(社会党公認候補)の元秘書である。地道な社会党支持層の切り崩して、1960年6月12日の
第5回参議院通常選挙で北東北選挙区から初出馬初当選を果たす。当時保守党選出の参院議員は29名しかおらず、1年生議員でありながら参院論戦の中心で活躍。党内にあっては、
選対本部委員兼団体部次長として、選挙戦略について地方の組織票を掘り起こすため尽力。1962年12月の
青森県議会議員選挙で、後援会長の甥でもある
山本光多(
青森大学研究生・山本農産組合会計係長)が保守党公認候補として26歳で初出馬初当選を果たす。
衆院へ鞍替え
地行族の重鎮議員
1968年の地方公務員法改正以降、院内の地行族から一目置かれるような存在となる。1970年12月、超党派の
議員連盟として「
地方創生総合戦略調査会議員連盟」を発足。会長に就任し、副会長に
小田信義(元
自治大臣/
共和党)、事務総長に
登米李義男(元
宮崎県知事/
社会党)を配した。1975年3月、臨時党大会で共和党との合流に賛成票を投じた。この時、保守党上層部からの依頼で、地方創生議連所属の共和党議員を懐柔して自由党合流のために懐柔をかけることになる。
自由党・自治大臣
党の重鎮
選挙歴
党内の役職歴
- 八政会会長(1988年9月ー1993年5月)
- 八政会会長代行(1982年10月ー1988年9月)
- 八政会最高顧問(1993年5月ー2008年1月)
- 政策審議会長(1989年10月ー1990年6月)
- 政策審議会内務部会長(1975年期・1989年期)
- 政策審議会国際問題評価特別委員長(1990年6月ー1993年8月)
- 選挙対策副委員長(1975年4月ー1978年4月)
- 選挙対策副本部長(1970年4月ー1975年4月)
- 選挙対策本部委員(1960年6月ー1970年4月)
- 選挙対策本部団体部長(1963年7月ー1966年4月)
- 選挙対策本部団体部次長(1970年4月ー1963年7月)
- 政策調整局次長(1966年期)
年史
最終更新:2025年02月06日 10:19