福岡一

福岡一(ふくおかはじめ)〈1921年8月ー2008年1月〉は、日本の商工官僚、政治家。
日本政界における代表的な地行族の1人である。

来歴

前半生

福岡家は、江戸時代から続く名門の造り酒屋の家系であった。福井県会議長官選福井県知事を務めた福岡勘四郎の三男として、福井県福井市に生を受ける。大蔵官僚衆院議員を務めた福岡唯三郎南洋庁フィリピン文政部総務課長として戦死した福岡為吉は、共に実兄である。1930年9月、父が官選福井県知事になると、知事公邸で生活を送るようになる。秘書とともに、知事公邸から旧制福井中学校まで通学する姿はよく知られている。学校帰りは、父が私設秘書として雇っていた森田一義に家庭教師を自ら頼み込み、希望していた一高受験の準備を進める。他の兄と同じくして、第一高等学校に合格。東京に出た時も、兄たちに倣って地元越前銀行頭取の土田利治の別邸で下宿することになった。一高では文科を選択し、恩師の森田同様に帝大経済学部への進学を志望する。第一高等学校を経て、現役で東京帝国大学へ進学。3年時から経済学部に振り分けされると、自身の中心的な関心事だったマルクス経済学に魅了される。マルクス経済学者で日本における管理経済学の父とされていた半田孝史郎ゼミで学んだ。統制経済を推し進める商工省に深い関心を抱き、自然と自らの進路は決まっていった。

あこがれの商工官僚

半田教授の推薦を受けて、特例受験制度の恩恵から大学3年で高等文官試験を受験。当時史上最年少となる21歳で合格の栄誉を掴んだ。高等文官試験行政科に合格。1943年4月、入省席次第4位で商工省軽工業局に配属される。世に言われる、「華の43年組」の一人として数えられることになった。希望した通商局ではなかったが、自身の経済学に関する見識は大きな原動力となっていく。衣料品課生産体制調整官として広島県産業局に派遣され、繊維製品の製造を監督する。激戦の続く中、広島呉工廠繊維工場部生産監督官として広島における軍人用衣服生産に関わる。現場を経験した後、1945年4月に戦時行政特別法を根拠法とする企画院に出向。産業部に配属されると、国内の民需工場における生産量の管理情報一元化のためのシステムづくりに奔走。直属の上長であった産業部長の羽田貞夫に教えを乞いながら、全国画一的な生産量情報の管理ネットワークを構築した。しかし、その作業中に終戦を迎えることになる。

終戦期

1945年8月、企画院の後継組織として終戦連絡事務局が職員を引き継ぐ形で発足。終連事務局組織機構改革本部組織調整課長の任に就いた。上長の初代本部長には、羽田貞夫が着任する。1946年4月、羽田が出身母体の内務庁に復帰することに伴って自身も商工省に復帰。東北商工局総務部長、地域経済部長を経て、1949年4月東北商工局次長。内閣官房設立に伴い、1949年10月に内閣官房内閣人事局人事組織調整課長として出向。この時、初代局長に就いたのは、羽田貞夫であった。その後も、総務課長、内閣人事官、内閣官房秘書官(商工省)を歴任。1955年10月、「華の43年組」と同様に商工省大臣官房政策調整企画官として復帰。翌々年4月、大臣官房政策評価室長。

政界進出・初当選

戦後に保守党が結党すると、父の秘書として長らく支えてくれていた青葉幸隆(保守党福井県支部長)からを出馬要請を受ける。再三辞退していたものの、商工官僚としての未来を考えられなかったために、誘いを受ける形で次期参院選への立候補を決める。保守党から依頼された選挙区は、空白区でもあった北東北選挙区だった。1959年10月に商工省を退官して、保守党に入党。党青森県支部に所属することとなった。しかし、古来から革新勢力が強固な地盤であったために党の組織的な応援は期待できなかった。そのため、長らく社会党を支持していた青森県庁自治団体総同盟(自治同)の切り崩しに力を入れる。自治労の小幡正賢会長は、商工省一般職出身の地方出向組で入省同期でもあった。この気脈を通じて、県庁自治労の上層部に切り込む。加えて社会層支持層だけでなく、社会党の青森における組織そのものを切り崩す方向にシフトする。自身の東大半田ゼミの先輩でもある社会党系の二雲堅確元青森県知事の後援会長である山本惣太郎(山本農産組合合同会社社長)に後援会長を依頼。毎週火曜日に3ケ月も訪問するなど熱心に通い続け、甥を保守党から県議会議員に出馬させることを引き換えに、後援会長への就任を受諾される。山本会長の下で、選挙資金集めに奔走して社会党の熱心な支持者だった小幡晋(青森県公務員労働組合連合会長)や二山芯(青森県漁業関係者労働保険組合会長)を寝返らせる。また、青森県支部事務局秘書として、福森良太(後の自由党代議士)を雇い入れた。この福森は、青森1区選出の衆議院議員である太田大寺(社会党公認候補)の元秘書である。地道な社会党支持層の切り崩して、1960年6月12日の第5回参議院通常選挙で北東北選挙区から初出馬初当選を果たす。当時保守党選出の参院議員は29名しかおらず、1年生議員でありながら参院論戦の中心で活躍。党内にあっては、選対本部委員兼団体部次長として、選挙戦略について地方の組織票を掘り起こすため尽力。1962年12月の青森県議会議員選挙で、後援会長の甥でもある山本光多(青森大学研究生・山本農産組合会計係長)が保守党公認候補として26歳で初出馬初当選を果たす。

衆院へ鞍替え

1963年の任期満了に伴って衆院が解散。衆院選に鞍替え出馬するように要請を受けて、青森1区から衆院選への挑戦を発表。1963年7月14日の第20回衆議院総選挙で、鞍替え2選目を果たす。衆院当選後、自身の懸案であった地方公務員法の改正を目指して自治消防委員会に所属。この時期に、八尾育四郎が主宰する党内派閥の八政会に入会、入会の後見人は青葉幸隆(八政会理事)。派閥では、木山新四郎緒方武則といった若手議員とともに戦後保守政治の本流を探すことになる。三選以後、党の政策立案に力を注ぎ、1968年の通常会において念願だった地方公務員法改正を実現。地方公務員の賞与増額と団体行動権の制限、選挙への干渉禁止を盛り込んで改正を実現した。

地行族の重鎮議員

1968年の地方公務員法改正以降、院内の地行族から一目置かれるような存在となる。1970年12月、超党派の議員連盟として「地方創生総合戦略調査会議員連盟」を発足。会長に就任し、副会長に小田信義(元自治大臣/共和党)、事務総長に登米李義男(元宮崎県知事/社会党)を配した。1975年3月、臨時党大会で共和党との合流に賛成票を投じた。この時、保守党上層部からの依頼で、地方創生議連所属の共和党議員を懐柔して自由党合流のために懐柔をかけることになる。

自由党・自治大臣

転籍後、選対副委員長内務部会長に就任する。1978年6月参院選7月総選挙で大勝した社会党であったが、長期政権による不祥事の連発によって1980年5月に政権交代。政権交代後、自治大臣(片山内閣)として初入閣。大臣時代には、地方公務員制度基本法地方行財政改革特措法革新的市町村財政健全化特措法を立て続けに成立。地方自治体の独自力強化に尽くした。内閣改造では、改正内閣法に基づいて内閣組織を大きく変換。新たに設置された特命担当大臣(地方創生)を兼務。再任後、地方創生基本法を成立し、全国的な地方創生戦略を打ち上げることになった。その後の浅上内閣内原内閣で通算9年5か月にわたって自治大臣・特命担当大臣(地方創生)を務めることになった。八政会では、八尾育四郎(幹事長/衆院議長)、谷村勝国(国対委員長)、金子輝義(政審会長)、平川修二(内閣官房長官)ら歴代会長の下で活動。間野尚人(運輸大臣)、木村健(幹事長)の代には会長代行(1982年10月ー1988年9月)を務める。1986年には、与野党2会派(自由党・社会党)からの推薦を受けて永年在職25年の表彰を受けることになる。

党の重鎮

1987年5月1日の第27回衆議院総選挙では、新たに小選挙区制を導入。浮動票を大きく抱える都市部の青森1区(青森市など)に立候補する。内原内閣以降では、新設した特命担当大臣(防災)に入閣。世界各国で激甚化する災害に対応する常任の最高責任者を求められた。1988年9月には、木村健から八政会を継承して会長に就任。瀬川新党首体制の下で、党の政策審議を横断的に包括する政審会長、自治政策を統括する内務部会長に就任することになった。しかし、瀬川内閣第8回参議院総選挙での大敗を理由に1年と持たずに交代することになった。そこで総務会を中心に党国会議員や党員の民意をもって新党首を選任するべきであると主張され、党大会での党首選挙が開催されることになった。八政会でも、候補者を探すこと決定。派閥の顧問であった農水族のドンでもある平川修二(元内閣官房長官)を立候補者とすることで合意した。予備投票ではトップに昇ったが、決選投票で船中に敗れて敗退。1993年5月には、八政会の会長を後継に委ねて政界引退のための準備を進めることになる。1993年の第30回衆議院総選挙では、社会党の元職である足立康文に小選挙区で3000票差で敗れる。北海道・東北比例区で復活当選を果たすが、「政界の巨人崩落」という大きな見出しが踊った。第31回衆議院総選挙でも、比例復活で当選を果たす。保守党は、3選連続での比例復活について公認停止という党紀を新たに策定した。このため、崖っぷちの第32回衆議院総選挙では、小選挙区での議席を奪取。しかし、任期途中の2008年1月に持病の悪化で逝去する。

選挙歴

当落 選挙 開票日 年齢 選挙区 政党 定数 順位
第5回参議院通常選挙 1960年6月12日 38 北東北選挙区 保守党 3 3/6
第20回衆議院総選挙 1963年7月14日 41 旧青森1区 保守党 2 2/5
第21回衆議院総選挙 1966年4月24日 44 旧青森1区 保守党 2 2/5
第22回衆議院総選挙 1970年4月26日 48 旧青森1区 保守党 2 2/4
第23回衆議院総選挙 1973年9月16日 52 旧青森1区 保守党 2 2/4
第24回衆議院総選挙 1978年7月2日 56 旧青森1区 自由党 2 2/5
第25回衆議院総選挙 1980年5月18日 58 旧青森1区 自由党 2 2/5
第26回衆議院総選挙 1983年6月5日 61 旧青森1区 自由党 2 2/4
第27回衆議院総選挙 1987年5月1日 65 青森1区 自由党 1 1/4
第28回衆議院総選挙 1989年10月29日 68 青森1区 自由党 1 1/3
第29回衆議院総選挙 1991年8月11日 70 青森1区 自由党 1 1/5
比複 第30回衆議院総選挙 1993年8月1日 71 青森1区(北海道・東北比例区) 自由党 1 2/5
比複 第31回衆議院総選挙 1996年12月1日 75 青森1区(北海道・東北比例区) 自由党 1 2/4
第32回衆議院総選挙 2000年10月1日 79 青森1区 自由党 1 1/5
第33回衆議院総選挙 2004年8月8日 82 青森1区 自由党 1 1/3
第34回衆議院総選挙 2006年7月30日 84 青森1区 自由党 1 1/4




党内の役職歴

内閣

衆議院

自由党

  • 八政会会長(1988年9月ー1993年5月)
  • 八政会会長代行(1982年10月ー1988年9月)
  • 八政会最高顧問(1993年5月ー2008年1月)
  • 政策審議会長(1989年10月ー1990年6月)
  • 政策審議会内務部会長(1975年期・1989年期)
  • 政策審議会国際問題評価特別委員長(1990年6月ー1993年8月)
  • 選挙対策副委員長(1975年4月ー1978年4月)

保守党

  • 選挙対策副本部長(1970年4月ー1975年4月)
  • 選挙対策本部委員(1960年6月ー1970年4月)
  • 選挙対策本部団体部長(1963年7月ー1966年4月)
  • 選挙対策本部団体部次長(1970年4月ー1963年7月)
  • 政策調整局次長(1966年期)

年史

最終更新:2025年02月06日 10:19