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田村一

田村一(たむらはじめ、1912年3月~)は、政治家。衆議院議員

来歴

生い立ち

奈良県随一の名門である、田村本家の出身。
曽祖父の田村善之助は、大和郡山藩老中。祖父の田村太蔵は、大和郡山藩外事聴取調役、初代衆議院議員。初代奈良県知事を歴任した。父・田村末広は、内閣審議会高等官、奈良県知事衆議院議員を務めた。弟の田村次郎内務庁官庁を経て、奈良県知事を歴任した。
父の関係から東京で長らく過ごし、旧制駒場高校東京大学にそれぞれ進学する。

大蔵省官僚

1934年4月、東京大学法学部私法学科を経て、高等文官行政科採用で、大蔵省に入省する。2学年上には、官界・政界で先輩後輩関係となる加藤信彦がいる。
主計局法務課を経て、広島国税局徴税部、浜田税務署で勤務。浜田税務署長を経て、松江税務署長に転任。本省復帰後、主税局査察課長補佐、同課長、大臣官房秘書課長、文書課長。

大蔵省外でも、海軍軍令部内務部出納課長、パラオ特別区行政院出納部次長、同出納部長。パラオ陥落後は、米軍の捕虜収容所に収監される。パラオ勤務当初より、現地出身の行政官には求めに応じて日本語を教えたり、現地語を教わったりするなど親密な関係を築く。1944年3月にはパラオの現地収容所から米国本土の日本人隔離収容所に移送される。移送中に、乗船中の輸送船が攻撃を受ける中で九死に一生を得る。復員まで収容所に勤務する若い米兵相手に日本語を教えたり、日本人の収容者に英語を教えたりしていた。

郷里の奈良県に立ち寄ってから大蔵省に復帰する。国外派遣されていた大蔵省職員の中で最も遅い帰国だった。そのため大蔵省内にポストがなく、一度は退官も考えたが、就任直後だった加藤信彦主計局長の口添えで主計局長補佐(課長相当)に就任。理財局次長、同局長を歴任する。加藤信彦大蔵事務次官就任に伴い、主計局長に就任する。齋藤惟重内閣官房長官)の指名を受けて、首相首席補佐官に就任。

政界入り

1954年3月、大蔵省を退官し、共和党へ入党。保守党加藤信彦の仲介を経ての入党であった。

同年6月の第3回参議院通常選挙で、南紀選挙区から初当選。同年12月から鳥山大(幹事長)の補佐役である、幹事長代行に就任する。
この時期、奈良銀行相談役に就任。経営不振が続いていた奈良銀行に対して、大蔵省からの資金的支援が行われていないことに言及して、同期でもある天原安司(銀行局長)に対して「奈良銀行に支援をしなければ、奈良経済は崩壊する。地銀が一行つぶれれば、この流れは全国に波及する。日本の地方経済は大蔵省の一支援によって崩壊する」と詰め寄った。これによって、奈良銀行が融資を停止していた奈良県農業協同組合への融資が復活した。

1955年5月、第17回衆議院総選挙において、奈良全県区から当選を果たし、衆議院に鞍替えする。この選挙では、現職知事の弟である田村次郎の応援演説に立った。当選後、組織運動局副局長に就任。

幹事長

1958年3月、遠山昇総裁の下、異例の速さで幹事長に就任。周囲の重鎮議員に対しても毅然とした態度で大ナタを振るった。特に、航空法の党内審議や国会審議では関係各所との密室政治を取り仕切った。杉浦静総裁の下でも幹事長を続投するが、人事草案を起草して、後に問題となる利益団体へ配慮した人事をまとめる。特に、暴走気味であった大蔵族の政策取り纏めに奔走した。
初当選の佐々木景時を徴用して、初当選議員ながら選対副局長として起用した。閣内不祥事が乱発すると、不祥事議員4名については無期限公認停止を下した。一方、この責任を負う形で幹事長を禅譲することになる。

1960年6月、杉浦改造内閣自治大臣として初入閣。時の自治政務次官佐々木景時を起用した。郵政改革では、郵貯保険事業を打ち立てた。後継総裁である村上謙吾は、人柄だけで政界の王道を歩んできた人物であったため、党内調整のために内閣官房長官として入閣。懐刀として重宝していた佐々木景時も、内閣官房副長官(政務担当)に就任する。村上内閣に対する党内からの風当たりに対して閣内安定のために内閣改造を提言。しかしながら、1963年7月には新たな総理総裁として赤城勇作が内定する。

政調会長

赤城内閣大蔵大臣を経て、1966年4月から政務調査会長に就任。例のごとく、佐々木景時も政調副会長に就任する。主要政策の公企業民営化の詳細を固める。

1967年総裁選挙では、派閥運動とは距離を置くため、相山貞雄厚生相に票を投じる。相手陣営に属していたものの、党長老が沈んでいく中、黒田内閣の組閣に多大な影響を与え、政調会長に留任。

1968年総裁選挙

同志会は、国内金融政策の立て直しを目的とする政党綱領を書き換えるため、財務政策に明るい新総裁の起用を画策していた。このため、田村に白羽の矢が立つことになる。これまで、派閥運動と距離を置いていた田村であったが、自身の盟友である伊原大四郎(外務大臣)が筆頭推薦人になって、出馬することとなる。派閥では全会一致の推薦があったものの、構造研他3派閥が応援する青山剛志が勝利することになる。

総裁選に敗れたのち、党内融和の人事として青山内閣大蔵大臣として入閣。蔵相としては、日本銀行総裁をはじめとする金融関係者を集めて、金融政策決定会合を主宰。改正国会法を巡る社会党の徹底抗戦には、苦言を呈して国民世論を味方につけた。しかしながら、世紀の大失敗とされた太平洋国際協力公庫の設立を内々に決定。このスクープによって、共和党の衆院選大敗が決定的となる。

派閥代議士

第20回衆議院総選挙での党大敗の責任を負って、青山剛志総裁が退陣を表明。後継総裁には、7個師団の代表者協議によって石原幸一が後継総裁に起用される。この裏では、党大敗の遠因を作った田村自身も十分に責任を感じており、政界の表舞台から一度姿を隠すことになる。

自由党への合流後、1977年6月より長老格の総務会長に就任する。

この時期、同志会伊原大四郎派の顧問格となり、苦手としていた派閥政治に身を置くことになる。一方、自らを政界に近づけた恩師ともいえる治水会加藤信彦に、「共闘戦線を張ろう」と持ちかけられたため同志会全体の治水会合流を目指すことになる。しかしながら、1983年党首公選伊原大四郎が派閥会長代行の地位にありながら独立勢力として立候補を表明したため、田村自身の意に沿わないとなったため、長年の盟友と決別し、党首公選ののち、佐々木景時らを中心とした一部議員とともに治水会へ合流する。浅上浩二を派閥として擁立する流れを自ら作り、旧共和党の重鎮でありながら、保守党勢力との党内融和を推し量る立場となった。

党の長老

加藤信彦が音頭を取って組閣させた浅上内閣では、多くの商工省出身政治家が入閣することになった。一方、浅上内閣(改造)の組閣では、田村自身が力を持つことになる。しかしながら、1986年2月、親分でもある加藤信彦に違法献金疑惑が急浮上。派閥内の力関係は大きく変化し、自由党党首である浅上浩二が強大な権力を持つことになる。この影響から、田村自身の立場も危うくなり、派閥顧問に追いやられることになる。この一件ののち、創業者である加藤信彦を追いやった治水会では、浅上浩二の独裁体制が確立。意に沿わない旧加藤派に属していた田村らは、冷や飯食いの日々を送る。

1989年10月、瀬川内閣の組閣において、絶大な権勢をふるっていた浅上浩二であったが、第15回参議院通常選挙での歴史上まれにみる大敗によってその権威は失墜することになった。この後、瀬川記之が治水会会長に就任する中、派閥顧問の地位にあった田村が、その力を取り戻ることになっていく。華政クラブという新派閥を背景とする長期政権を築いた船中勉の政権下、党内・閣内の人事に影響を及ぼすことになる。派閥調整などの目的から、1993年6月より自由党副党首に就任することになる。1998年8月の緑の会、1999年11月の平町政治研究所、2000年7月の初世会など派閥の離反が会いついたことなどから、治水会の結束は崩壊していくことになる。治水会6代目会長となっていた佐々木景時は、新派閥として、令月会を設立し、治水会の歴史は終焉を迎えることになる。田村自身は、派閥政治から離れるために、自ら派閥から離れることになる。

人物

  • 旧制駒場高校東京大学法学部というルートは、大蔵省の王道とされていた旧制一高に対しては傍流とされてきたが、同ルートの加藤信彦とともに、珍しく出世の階段を歩むことになっていく。
  • 日米開戦の混乱の最中、多くの同期が陸軍主計学校に進む一方で、24歳で税務署長、27歳で本省課長、28歳で官房三課長という異例の若さで出世を重ねていくことになる。
  • 32歳でパラオ行政院の次長職で出向したことで、パラオ陥落を経験。自らの副官としてついていた陸軍軍曹が陥落の騒乱の中で死んでいったことが、非常に大きな経験となる。

  • 戦後日本の荒廃と郷里奈良県の貧しさに心を打たれた田村は、やがて政界を志すことになる。1954年3月に官界を退き、政界入り。当初は、先輩でもある加藤信彦の下で、保守党入りを考えていたが、奈良県からすでに候補が擁立されている関係などから、加藤の口添え付きという条件で共和党に入党することになる。
  • 共和党入党から、出馬までの短い期間、遠戚である田村典久奈良銀行頭取を務めていた縁で、奈良銀行相談役を務める。この就任後、大蔵省に圧力をかけることで、奈良経済を回復基調に乗せることに成功させた。この成果は、後に選挙で勝利する試金石となった。

  • 政界入り後、元主計局長という黄金キャリアの中で、党三役、閣僚4期という重鎮ポストを経験する中、総理への挑戦は人生1度にとどまった。党内では、常に総裁・党首候補であったものの、党内派閥の論理から距離を置いていたいという考えであったために、首相の椅子には届かなかった。
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略年歴

1912 3 東京都出身
1930 3 旧制駒場高校 卒業
1934 3 東京大学法学部私法学科 卒業

1934 4 大蔵省 入省(高等文官行政科)
6 主計局法務課
1935 1 広島国税局徴税部
12 浜田税務署
1937 1 浜田税務署長
10 松江税務署長
1938 10 主税局査察課長補佐
1939 10 主税局査察課長
1940 10 大臣官房秘書課長
1941 4 大臣官房文書課長
12 (出向)海軍軍令部
内務部出納課長
1942 4 (出向)パラオ行政院
出納部次長
10 出納部長
1944 2 パラオ陥落
1945 12 復員

1946 3 (帰任)大蔵省
主計局長補佐
11 大臣官房審議官(理財局担当)
1947 7 理財局長
1948 10 主計局長
1952 1 首相首席補佐官田中内閣渡辺内閣
1954 3 退官

1954 4 共和党へ入党
6 第3回参議院通常選挙で初当選(南紀選挙区
12 党幹事長代行
1955 5 第17回衆議院総選挙で鞍替え当選(奈良全県区
党組織運動副局長
1958 5 幹事長
1960 6 自治大臣杉浦改造内閣
1962 12 内閣官房長官村上内閣
1963 7 大蔵大臣赤城内閣
1966 4 政調会長
1968 10 大蔵大臣(青山内閣

1975 4 自由党合流
1977 6 総務会長(ー83.6)
1993 6 自由党副党首(ー97.8)
2006 7 政界引退
2009 1 逝去

選挙歴

選挙 開票日 年齢 選挙区 政党 定数 順位
第3回参議院通常選挙 1954年6月13日 42 南紀選挙区 共和党 3 2/8
第17回衆議院総選挙 1955年5月15日 43 奈良全県区 共和党 4 2/9
第18回衆議院総選挙 1957年6月9日 45 奈良全県区 共和党 4 2/6
第19回衆議院総選挙 1959年7月12日 47 奈良全県区 共和党 4 2/10
第20回衆議院総選挙 1963年7月14日 51 奈良全県区 共和党 4 2/8
第21回衆議院総選挙 1966年4月24日 54 奈良全県区 共和党 4 2/7
第22回衆議院総選挙 1970年4月26日 58 奈良全県区 共和党 4 2/10
第23回衆議院総選挙 1973年9月16日 61 奈良全県区 共和党 4 2/10
第24回衆議院総選挙 1978年7月2日 66 奈良全県区 共和党 4 2/10
第25回衆議院総選挙 1980年5月18日 68 奈良全県区 共和党 4 2/10
第26回衆議院総選挙 1983年6月5日 71 奈良全県区 共和党 4 2/10
第27回衆議院総選挙 1987年5月1日 75 奈良1区 共和党 4 2/10
第28回衆議院総選挙 1989年10月29日 77 奈良1区 共和党 4 2/10
第29回衆議院総選挙 1991年8月11日 79 奈良1区 共和党 4 2/10
第30回衆議院総選挙 1993年8月1日 81 奈良1区 共和党 4 2/10
第31回衆議院総選挙 1996年12月1日 84 奈良1区 共和党 4 2/10
第32回衆議院総選挙 2000年10月1日 88 奈良1区 共和党 4 2/10
第33回衆議院総選挙 2004年8月8日 92 奈良1区 共和党 4 2/10
最終更新:2026年06月28日 10:36