第88話 フェイレの半生
1483年(1943年)10月20日 午前8時 ウェンステル領ラグレガミア
季節は秋を迎えていた。
ラグレガミアは、ルベンゲーブより30ゼルド離れた所にある中規模の町である。
町は山脈の麓に位置しているため、夏場はあまり暑さを感じさせない。
秋の時期から、ラグレガミアは少しずつ気温が低下し、冬ともなれば雪が降って来る。
町の住人達は、シホールアンルの支配下にありながらいつも通りの生活を行っており、郊外に駐屯する
シホールアンル軍の部隊(1個中隊程度)も、前線とは違って、毎日をのんびりと過ごしていた。
そんな町に、フェイレは情報収集の為に足を運んでいた。
「なかなか悪くない町だわ。人の顔も結構良いし。」
繁華街を歩いているフェイレは、この町に対してそのような印象を持った。
ラグレガミアは、そこそこ設備の整った町ではあるが、少し郊外に出れば広大な草原が広がっている。
町の東側には湖がある。フェイレは先ほど、その湖に行ってみたが、その湖には釣りを楽しむ人が何人もいた。
大抵は年配の物が多いが、釣りを楽しむ者達は戦争など、どこ吹く風と言った表情で湖面の魚が罠に引っかかるのを待っていた。
フェイレは繁華街を歩きながら、周囲を見回し続ける。
「どうも、シホールアンル兵が見当たらないわね。」
彼女は、町中を一通り歩き回ってある事に気が付いていた。
それは、シホールアンル兵があまり見当たらない事である。
ルベンゲーブの町には、ちらほらとシホールアンル兵が見受けられ、彼女はシホールアンル兵を見るたびに
目立たないように心掛けながら通り過ぎていた。
この逃亡生活の中で、彼女は一般のシホールアンル兵には自分の情報が伝わっていない事が分かっていた。
2ヶ月前、彼女は山中で、シホールアンル兵の一団と出会ってしまった。
止む無く、強行突破を試みかけたが、
「ああ、旅人さんか。悪いね、いきなりぶつかっちまって。どこか怪我はないかい?」
シホールアンル兵はフェイレの本当の事を知らなかった。
以前、このウェンステルに逃れる前は、何度も腕の良い刺客に襲われて来たものだ。
刺客達の様相は、明らかに暗殺専門部隊を思わせる服装であったり、時には一般の普通の人にまぎれたりと、様々であった。
彼女は、この追撃部隊がシホールアンル国内省が差し向けた刺客である事は知らなかった。
ただ、あまりにも執拗なシホールアンル側の追撃に、彼女は一般のシホールアンル軍部隊までもが自分を狙っているであろうと
その時から思い込んでいた。
ところが、彼女が恐れていた一般のシホールアンル兵は、彼女を旅人か、現地人としか見なさなかった。
フェイレは、シホールアンル一般部隊の反応振りを見て、自分はとても公に公表できる存在ではないと初めて確信した。
シホールアンル帝国は、国民の信用を得るために誠実な軍を持った帝国として盛んにアピールしている。
だが、実際はそうではない。
軍の一部では、秘密で何らかの実験を繰り返したり、国内省は国内外の邪魔者を排除するために、高度に訓練された
準軍事組織のような物を持っている。
フェイレや、そのほかの実験に関する問題事は、一般市民や、シホールアンル軍一般部隊には全く知らされていない。
情報を伝えるべき相手がかなり限られているから、当然、彼女に関する情報網も、伝わるのは軍の一部や国内省にいる
ほんの一握りの者、そして、南大陸に潜伏しているスパイ達のみであった。
もし、このような情報が一般市民に伝われば、隠し事をする者には容赦の無いシホールアンル国民は、なぜこのような事を
隠すのか、と、声高に叫びながら憤激するであろう。
この事で、皇帝の威信は揺るぐような事はないであろうが、国に対する信用はがた落ちとなる。
それを恐れるオールフェスは、あえて伝えるべき相手を制限し、秘密裏にフェイレを回収しようとしていたが、その事は、
逆にフェイレを逃げやすくするだけとなってしまった。
オールフェスの致命的なミスによって身を救われたフェイレは、今、堂々と町の中を練り歩いていた。
「あっ」
ふと、フェイレはとある店に注目した。
その露天は喫茶店のようだが、店の中のみではなく、外にも4つほどのテーブルが置かれている。
自然と、懐かしい思い出が蘇ってきた。
かつて、自分が過ごしてきた短くも、素晴らしい日々。
父が家族と共にフェイレをよく連れて行った、村の喫茶店。彼女はそこの喫茶店特製の香茶がお気に入りであった。
月に2度ほど、その喫茶店に連れて行って貰ったが、フェイレはこの喫茶店に行くと決まるとよく心を躍らせた物だ。
(まあ、あの店で好きだったのは、香茶と、あと1つあったんだけどね)
あの時は、確かに香茶がおいしいから今度も行きたいと言っていたのだが、実を言うとそれは口実に過ぎなかった。
喫茶店に行く目的はもう1つあったのだ。
彼女が目にしている喫茶店は、昔慣れ親しんだ店と、雰囲気が似ていた。
自然と、体はその喫茶店に向かっていた。
テーブルの上を掃除していた店員が、店にやって来たフェイレを見た。
「・・・・・」
どういう訳か、店員はフェイレをじっと見つめていた。
「あの~、どうかしたの?」
「・・・・あっ」
フェイレの言葉を聞いた店員が、思わず間の抜けた言葉を発した。
「す、すいません!ちょっと・・・・・その・・・・」
「何?あたしに何か変なのついていたの?」
フェイレはそう言いながら、自分の服装に改めて目を配る。
彼女の服装は、上が薄茶色の上着で、下にもう1枚赤い薄着を着ている。
下は上と同じような色をした長めの衣服(いわばズボンのようなもの)を着ている。
傍目から見れば冬用の服装に見え、動きにくそうであるが、彼女からすれば別に動きにくくない。
実を言うと、この服は、3ヶ月前にたまたま襲って来た山賊を叩きのめした時に強奪した服なのだが、
ウェンステル領では女性の旅人も山中を移動するためか、フェイレと似たような格好をする者が多い。
別に珍しくない服装だろう、とフェイレは思った。
「いや、ちょっとお姉さんが綺麗なもんで、つい見入っちまって。」
店員はまだ少年なのであろう、やや高い声で、顔を赤らめながらそう言った。
「あたしに見入っていた?そんな珍しい顔なのかしら。」
フェイレはきょとんとした表情で言う。
彼女はあまり気付かないのだが、フェイレは端整な顔立ちにやや大きめながらも、気の強そうな目、それに
青い長髪が合間ってモデル並みの容姿を持っている。
体のスタイルは、上着に隠れて判り辛いものの、胸部はなかなかあり、これもまた一般の男性ならばすぐに目を引きそうなほどだ。
店員がフェイレに見取れたのは、その美貌のせいであった。
「そりゃすげえ美人だよ、あんた。こいつは裏の角の散髪屋の姉貴に勝るとも劣らないぐらいだぜ。」
店員の少年は、評価と独り言を交えながらフェイレに言う。
「まあ・・・・一応ありがとうと言っておく。」
「こりゃどうも。親父が帰ってきたら自慢してやらねえとな。ところで姉さん、こっちに来たって事は、何かご注文でも?」
少年はフェイレに聞いてきた。
「注文・・・・ああ。ちょっと待ってて。」
フェイレはそう言いながら、懐にしまってある袋を取り出して確認した。
金はある程度は入っている。この店で飲み物を注文する分なら充分すぎるほどだ。
「じゃあ、香茶を頼むね。」
「まいど。それでは少々お待ち下さい。」
少年は爽やかな営業スマイルを浮かべると、店内に入っていった。
「あの人には似てないか。まっ、それはそれで良いと思うんだけどね。」
フェイレは、店の中に入っていく少年の後姿を見つめながら、そう独語した。
自然に、脳裏に昔の記憶が蘇り始めた。
フェイレは、自分がどこで生まれたかはあまり覚えていないが、元々はデイレアの人間である。
6歳頃までは記憶が曖昧であるが、農家を営んでいる両親は、苦しい生活に困りながらも、フェイレを懸命に育て続けた。
両親の愛を受けながら成長を続ける生活は、僅か6年余りで終わった。
彼女が6歳の時、両親が泣きながら、震える手で見慣れぬ男達に自分を差し出した事は覚えているが、
男達は両親に何かを叫びながら彼女の目と耳を何かで覆い隠した。
遮られた聴覚と視覚。
男たちはフェイレに、今から起こる事を見せたくなく、そして、聞かせたくなかったのだろう。
だが、遮られた視覚には、微かながらもフェイレを思う言葉が聞こえたように感じられた。
そこで意識は無くなった。
次に気が付いた時、彼女は見慣れぬ施設にいた。
その時見たのは、広い石造りの部屋に集められた、自分と似たような年の子供達だった。
そこで、彼女は思いがけない言葉を耳にした。
「我が帝国の手足となるであろう、選ばれし諸君。よく集まってくれた。」
彼女はその言葉がする方向に顔を向けた。
壇上と思しき台に上がりながら、声高に言葉を発している男は、今までに会ったことも無い人だった。
男が言うには、ここに集められた100人の子供は、特別に選ばれた者達であり、これからの訓練によって更に
選ばれた一部の者は、帝国にとっての信頼できる武器となる、という事であった。
だが、家族からいきなり引き離された身の子供達は、この男が喋る言葉を理解出来なかった。
この日から、子供達はシホールアンル帝国の足となるべく、訓練を始めた。
フェイレは訳が分からぬままに訓練を受け続けた。最初の1年は普通の勉強(ただし、軍事関連が多い)や
少しきつめの軍事教練であり、この時点で100人の子供達は誰1人として脱落しなかった。
異変が置き始めたのは2年目からであった。
2年目からは、1年目と比べてややきつめの体を使って訓練が行われた。
この訓練は1ヶ月続けられ、この時点でも脱落者はいなかった。
真の地獄は1年2ヶ月目から始まった。
教官はいきなり、どこぞから集めてきた汚いなりをした子供達をフェイレ達の前に差し出し、こう告げた。
「これから狩の訓練を始める。」
何気なく、フェイレ達に言い放った。
「今まで、お前達には殺しの訓練をさせ、見事に覚えてもらった。今日は、その成果を遺憾なく発揮する日だ。喜べ。」
教官は、おぞましさを感じさせる笑みを浮かべながらフェイレ達に向かって言う。
そして教官は、手に短剣やら、棍棒やらを携えながら怯えている子供たちにも言った。
「あの子達にはああ言ったが、お前達のやるべき事はただあいつらに向かって、持っている武器で殺してくる事だ。
全滅させる事が出来れば帰してやるぞ。」
教官は、最後の部分を皮肉気な口調で言いながら、怯える子供たちを煽り立てた。
そこから地獄が始まった。
フェイレ達がやっていた訓練は、本格的な殺人術であった。
刃物はもちろん、素手のみでもどこを叩けば相手が死ぬか、教え込まれている。
相手を殺す事を知っている者と、相手を殺す事を知らぬ者の差は、残酷なまでにも現れた。
教官の口車に乗って向かって来た子供達は30人。それに対して、フェイレ達の班は14人しかいなかった。
だが、フェイレ達は教えられた通りの動作を行った。
1人目の背後に回って首をあらぬ方向に捻ると、骨が折れる音がして1人目があっけなく死ぬ。
後ろから襲い掛かった2人目の攻撃をしゃがんでかわし、足払いをして仰向けに倒す。
その際、2人目が手に持っていたナイフが掌から離れ、一瞬宙を舞う。
それを一瞬のうちに受け取ったフェイレが、まるで虫を潰すかのような気持ちで2人目の左胸に突き刺し、抉った。
簡単な動作で、相手側の子供達は次々と死んでいった。
唐突に、味方側の子供1人が、血に染まった自らの手を見るなり放心状態に陥った。
教官の視線が、その子供に集中する。
やがて、その子供は頭を抱えながらその場にうずくまった。体ががたがたと震えている。
1人の教官が、その子供のそばに歩み寄った。うずくまった子供の顔を無理矢理上げる。
「チッ、壊れたか。使えねえ奴だ。」
教官が忌々しげにそう呟くと、一息にその仲間の首を捻る。あっという間に、その子供の首があらぬ方向に曲がる。
その子供の目からは、既に光は失われていた。
訓練は、フェイレ達の圧倒的な力の差によって速やかに終了した。
「ご苦労だった。まだまだお前達の手際が悪い事には、正直言って不満だが、まあ今日は最初だからここまでやれれば上出来だと思う。」
教官は、返り血を浴びて所々赤く染まっている13人の教え子に対して、淡々とした口調でそう言った。そして、教官は付け加えた。
「それから、1人だけ壊れた奴がいた。残念ながら、もはや今後の訓練には使えぬと見て止む無く処分した。よく覚えておけ。
今後、訓練の最中に貴様らが壊れたと判断すれば、遠慮なく処分する。武器に感情はいらぬからな。」
教官は、付け加えた文も淡々とした口調でそう言っていた。
それからというものの、過酷な訓練に耐え切れず、精神を壊し、処分されていく“同期生”達は次々と現れた。
それまで“おままごと”に過ぎなかった訓練とは違い、教官はフェイレにも不手際があれば容赦なく殴り、あるいは蹴り飛ばした。
「どうした?そんな事でもう参ったのか?全く、役立たずだな。」
このような罵倒は何度も浴びせられた。だが、フェイレは耐えた。
生き残るためには、まず感情を捨てたふりをしなければならない。
フェイレは感情を捨て去り、教官の暴行に対してもめげる事無く訓練を続けた。
次に強くならなければならない。
フェイレは教官の期待通りに、特殊戦術や魔法を素早く覚えていった。
その次に、教官に気に入られなければならない。
フェイレは、人一倍努力したお陰で、同期生の中でも5本の指に入るほどの腕前となった。
担当教官はフェイレの事が気に入り、彼女に対する暴行が少しずつ減っていった。
そして・・・・・・・
油断せぬためには、どんな事でもする。
この過酷な訓練が4年目を過ぎ、年齢が10歳を迎えた時、フェイレは同期生達と殺しあった。
生き残っていた40人の同期生のうち、8人までに絞られる最終試験で、フェイレは満点に近い成績をたたき出した。
感情を殺し、昨日まで笑い合っていた友人の喉をナイフで掻っ捌く。
別の知り合いには、特殊な魔法を使って爆砕した。
そのまた別の者には罠に誘い込んでから身動きを取れなくし、そこにナイフを突き刺した。
最後には、互いに激しいナイフ戦を演じながらも、相手を真っ二つに切って捨てて、訓練を終わらせた。
「素晴らしい。」
訓練終了の際、卒業生の視察に来ていた年配の魔道士が、笑いながら教官に言っていた。
「実に素晴らしい!これだけ素材があれば、強力な兵器を生み出す事が出来る。」
魔道士はそう言いつつ、視線をフェイレに留める。
「特に、この19番は素晴らしい物を持っている。これは次の仕事が楽しみだ。」
魔道士は陰気めいた笑いを浮かべながら、フェイレを見つめていた。
その1週間後、フェイレは教官と共に馬車に乗った。途中、鉄道を使ってずっと北のほうへ向かった。
移動には5日ほど掛かったであろうか。
フェイレは目的地に着いた。そこは、四方が塀に覆われていた。何よりも、雪が降っていてとても寒かった。
「さて、私はここまでだ。19番。お前の住処は、今日からここだ。」
教官は、塀を指差した。
その塀に開口部が唐突に開かれ、中から数人の男が現れた。
先頭に立つのは、いつか見たあの陰湿そうな年配魔道士であった。
「ようこそ!君が来るのを待っておったよ。」
「では、後は頼みましたぞ。」
「ああ、ここまで護衛ご苦労であった。この子は我々が引き受けよう。」
教官と魔道士は、ただそれだけのやり取りを終えてから、フェイレを魔道士に引き渡した。
教官はその後、馬車に乗ってもと来た道を戻って行った。
「さあ、来なさい。」
フェイレは言われるがままに、その魔道士と一緒に塀の中にある魔道研究所に入っていった。
その後、フェイレはここに移った意味がわかった。
それから1週間が経ったとき、フェイレはこの施設に移動させられた事を理解し、激しい後悔を感じていた。
寝台らしき物に無理矢理寝かされている。手足は広げられたまま動かない。いや、動けないと言ったほうが正しいであろう。
なぜなら、両手両足は、革製のベルトで寝台に固定されていたからだ。
「初めての実験はまずまずの成功を収めましたな。」
若い魔道士の声がした。
「まずまずどころじゃない。大成功だよ!」
それに対して、喜ぶような口調が返される。あの年配の魔道士だ。
「初めてとは言うが、あの実験は4回目の実験でやる物だった。そのきつい実験をいきなり耐えて見せたのだから、
フェイレ君の体は素晴らしい。」
年配の魔道士はフェイレの事を名前で呼んだ。
ここでは、前にいた訓練施設とは違って番号で呼ばない。
家族といた時のように名前で呼んでくれる。だが、ここでの生活は最悪であった。
どのような薬物を投与されたのか、彼女は抵抗しようにも出来ない。
訓練施設で習った殺人術は、子供でも大の大人が殺せるような技がいくらでもある。
だが、ここの魔道士達はフェイレが抵抗しないようにあらかじめ薬物を投与して、普通の生活に支障をきたさない程度の動きしかさせなかった。
実験は、簡単であった。
寝台に固定したフェイレの体に、何かの薬品を注射する。
何かの薬品が注射されると、数秒後に体が内側から熱を発した。
熱い!熱い!さっさとこの熱さを止めて!体が溶ける!!
フェイレは必死に懇願した。
だが、
「さて、今回はどれぐらいまで耐えられるかな?」
「魔法薬の量は計画通りですから、まあ耐えられるでしょう。」
「耐えられなかった場合は捨てればいいですよ。代わりは一応いるんですから。」
魔道士達は、苦しむフェイレの事なぞ知らぬと言った表情で、のんびりと会話しているだけであった。
いつ果てるとも知れぬ苦しみが終わった時には、体には刺青のような紋章が出来ていた。
「今回の分は成功です。見てください。」
若い魔道士が、どこか明るい表情で年配の魔道士に、腹に出来た紋章を見せる。
「ほう。これはまた素晴らしい物だ。フェイレ、今日はよく頑張ったな。」
年配の魔道士は、陰湿な笑いを浮かべながら、“試験体”にそう言った。
このような実験が、3日に1度の頻度で行われていった。
フェイレはその度に言語に尽くしがたい苦痛を味わい続けた。
彼女にとって、この魔法研究施設繰り返される人体実験は地獄に等しい物であった。
まだ、陰鬱とした訓練施設時代のほうが可愛く思えるほどだ。
日が経つにつれて、フェイレの体には紋章が増えていった。
最初はほんの少しの部位にしか現れなかった紋章が、魔道士達が繰り返す薬物注入によって次第に増えていく。
2ヶ月目には腕が、3ヶ月目には足が、そして、半年後には胴体部分が、幾何学的な紋章に覆われていた。
未知の魔法研究施設に連れてこられて半年が経った。
フェイレは、もはや抵抗する気にもなれぬほど、精神を消耗し尽くしていた。
副作用が収まる8分ほどの時間。1日1回、僅か8分間の実験。だが、受ける側に取って、それは地獄の8分間である。
実験のたびに繰り返される猛烈な痛み。
実験後に訪れる強烈な不快感と、疲労感。
そして、次の実験に対する恐怖感・・・・・・
もはや、フェイレにとって、この魔法研究施設という名の地獄から逃れる術は無かった。
だが、転機が訪れた。
それは未だに寒い2月のある日・・・・・
彼女は、これまでの実験よりも特別な実験を終えていた。
その実験で、フェイレは本当に自分が死んでしまうのではないかと思うほど、体の痛みを感じた。
これまで以上に体を苛む魔法薬の副作用に、激しく熱する体。
いますぐにでも破裂しそうなほど、熱く感じたフェイレは、必死に暴れた。
副作用が収まるまでに要した時間は、20分間。
記録では20分であったが、フェイレにとって、その20分は永遠にとも思える長さであった。
実験終了後、フェイレは副作用との戦いで、体力を消耗し尽くし、息すらも満足に出来なかった。
苦しみに喘ぐフェイレの側に、彼女を苦しめた張本人達が歩み寄ってきた。
「所長、見てください。良い出来です。」
若い魔道士が、目を輝かせながらフェイレの体に見入っている。
「これなら、我が国は他国を差し置いて、一躍最強の称号を手に入れるでしょう。」
「同感だ。しかし、慣れるという物は恐ろしい物だ。」
暗闇の中で繰り返される会話。人数からして7、8人はいるだろう。
会話をする者達の口調には、フェイレの体調を心配する者は誰1人としていない。
ただ、彼らはフェイレという兵器が生まれた事に喜びを感じていた。
「こうやって、どこぞの少女を弄ぶのに、最初は抵抗を感じたが、今では何も感じん。むしろ楽しくなってきたよ。」
「今回はいい適正体なので、実験も順調に進みましたな。長い間の研究が報われ、私も感無量です。」
聞きなれた声の主が、感動に打ち震わせている。
閉じられた瞼。見えるのは暗闇。
だが、その暗闇からでも、彼らの酷く冷たい視線が、体に突き刺さるのがはっきりと分かる。
体が恐怖に震え始める。
怖い、いやだ。この場から逃げ出したい。
だが、いくら心で思っても、実験で磨耗しつくした体力はとうに失われており、フェイレは指1本すら動かせなかった。
「これで、鍵は出来たという事か。よし、すぐに上に報告しよう。」
その瞬間、けたたましい轟音が暗闇の中で鳴った。
フェイレは、その音を聞いた後に意識を失っていた。
次に意識が戻った時には、誰かの背中におぶさりながら、雪原を移動していた。
外はまだ寒く、周りには雪がしとしとと舞っている。
「おっ、気が付いたか?」
フェイレを抱えていた男が、意識を取り戻した事に気が付いたのであろう。
男は歩くのを止めた。
「やあ、お姫様。いまはちょっと寒いが、もうすぐであったかい所で眠れるぞ。」
男はそう言いながら、フェイレと顔を合わせた。
険しそうな顔に柔和な笑みを浮かべるその男の表情は、邪な物を一切感じさせなかった。
「だから、もうちっとだけ我慢してくれよ?」
男の言葉に、フェイレは自然と頷いていた。
彼の新たな育て主となった男、ジェグル・ラーカントと出会ったのはその時である。
それから更に月日が経ち、フェイレはジェグルの住むヒーレリ公国に連れて来られた。
ジェグルの職業は、ヒーレリ陸軍の軍人で、階級は大尉であった。
ジェグルは、間の研究所から救い出したフェイレを本当の子同然に育て上げた。
元々、家にいたジェグルの子供達もフェイレに優しく接した。
最初は心を閉ざしていたフェイレも、ジェグルや、彼の妻、そして子供たちによって心を開き、最終的には明るい子供として成長していった。
ジェグルの住む村は、ヒーレリ公国の中西部バヌラミリト地方にある田舎町であった。
人口は220人ほどと、かなり少ないが、村の住人は人柄も良く、旅人や行商人等からの受けも良かった。
フェイレはこの村に移り住んでから程無くしてここが気に入った。
彼女はこの村で色々な事を学んだ。
育て親となったジェグルは、フェイレを学校に行かせ、普通の勉強の楽しみというのを教えた。
休日は家族と共に少し遠くに出かけ、休日の楽しい過ごし方を教えた。
今まで触れる事の出来なかった、普通の楽しみという物に、フェイレの陰鬱とした気持ちはどこかに吹っ飛んでいた。
特に彼女が楽しみにしていたのは、近所の喫茶店に家族と一緒に行く事であった。
フェイレはここの特製香茶の美味さを知って以来、すっかり香茶の虜となってしまった。
そのため、喫茶店に行く時は常に心が躍った物である。
ちなみに、彼女が喫茶店に行く時、楽しみは香茶を飲むのみではない。
喫茶店は、店主とその息子が店を営んでいた。
フェイレは、この店主の息子と居る時がとても楽しかった。
彼女はこの少年に恋心を持っていたのだろう。だが、少年には彼女がおり、フェイレの初恋は片思いのままに終わった。
ちょっとした挫折もあったが、フェイレは普段の生活に満足していた。
だが、永遠に続くと思われた、この楽しい生活も終わりを迎える事になる。
異変は、夏のとある日から起こった。
その日、村に新しい人が移り住んできた。夫婦と見られる男女は、常に明るく、近隣の住民達にもたちまち好かれていった。
フェイレも何度かこの若い夫婦と出会ったが、とても愛想が良く、フェイレに対しても気軽に接してきた。
ただ、フェイレは少しばかり、この夫婦に違和感を感じていた。
時々、この夫婦は冷たい目つきで村の住民達を見ていた。
それもほんの一瞬だけで、すぐに愛想の良い夫婦に戻っている。
ただ、あのような目付きは見覚えがあった。
訓練施設時代、感情の無い目付きで仲間を処理した教官・・・・・
魔法研究所にいる時、フェイレを実験動物としてしか扱わなかった魔道士・・・・・
彼らの目付きは、常に冷たかった。
だが、フェイレはただの錯覚であろうと思った。
彼女は、夫婦の本当の正体を掴めぬままに、遂に運命の日を迎えた。
あの夫婦が引っ越してきて1ヶ月が過ぎたある日、珍しくあの夫婦がフェイレの家に差し入れを持って来た。
差し入れは香茶の原料であった。気を利かせたジェグルは、フェイレが学校から帰って来るまでに香茶を作っておいた。
学校から帰ってきたフェイレは、ジェグルから
「お帰り。近所のパリネルさんが香茶の原料を持ってきてくれてな。それで俺がお前の為に作ってやったぞ。まずは飲んでみろ。」
と言って飲むように勧めた。
「ありがとう。早速頂くわ!」
喜んだフェイレは、早くも香茶を飲んでみた。実を言うと、ジェグルも香茶を作るのが上手い。
「あっ、おいしい。やっぱ父さんの作る香茶も悪くないわ。」
「そうか。そりゃ良かったぜ。」
ジェグルは嬉しそうな口調でフェイレに言った。
そこから、彼女の人生を狂わす事件が起きた。
カップに入っている香茶を飲み干した時、フェイレは急激に眠くなってきた。
「おい、フェイレ?どうした?」
「なん・・・か・・・・急に頭が・・・・・」
朦朧とする意識。頭が溶けてしまいそうな感覚に陥ったフェイレの脳裏に、
「さあ、君の実力を試してみよう。」
どこか寒気のする声が響いてきた。
「まずは、殺せ。」
そして、惨劇は始まった。フェイレを乗っ取った何者かは、彼女が持つ本来の力を発揮させた。
体が異様に熱くなってきた。まるで、あの実験の時のような感覚。
だが、珍しく痛みは無い。その代わりに、力を解放できる喜びを感じていた。
見慣れた住民があっという間に火の塊になる。
学校の親友が自分を見て泣き叫ぶ。邪魔だ、死ね。
親友は呆気なく切断され、そして火達磨になる。
(いやだ)
お気に入りの喫茶店に右腕を向ける。その次の瞬間には喫茶店が吹き飛んだ。
(やめて)
自宅が燃えている。赤々と燃えている。
中に人の形をした物体が燃えている。家族だ。
(そんな・・・・・そんな・・・・・)
燃えていない家を見つける。今度は左手をかざす。家に火が付き、瞬時に全体にへと燃え広がる。
中から人が出てくるが、全身に火をまつわりつかせて熱さにのた打ち回る。
(なんて・・・・こと・・・・・)
驚愕する自分・・・・・の筈が・・・・・
口の感覚は全く別の物だった。
自らの口が不自然に広がっている。笑っていた。
心では笑う余裕が無いのに、何者かに操られた体は、家が燃え、人が焼け死んでいく光景を見て笑っていた。
まるで、この光景を心から望んでいたように。
「化け物!」
唐突に、横から悲鳴じみた叫び声が聞こえた。声のする方向に振り返る。
そこには、喫茶店の店員をしていた、知り合いの少年が立っていた。手には棍棒を持っている。
「お前みたいな・・・・・お前みたいな化け物は、俺が殺してやる!!」
少年は怒りで真っ赤となった顔を震わせながら、フェイレに喚いた。そして、彼女を棍棒で殴りつけようとしていた。
(逃げて!今すぐ逃げて!!)
フェイレは心の中でそう絶叫していた。
その次の瞬間、少年の首が胴体から離れた。
気が付くと、見慣れた筈の村は、炎上していた。
道端には、真っ黒に焼けた遺体が散乱している。誰がやったのか?
「ご苦労さん。」
不意に、明るい声が彼女の耳に入ってきた。
「なかなか良かったわよ。あなた。」
別の声が聞こえる。後ろを振り返った。
「まさに鍵にふさわしい物だった。」
「あ・・・・あなた達・・・・・」
フェイレは信じられなかった。目の前に居た男女は、あのパリネル夫妻だった。
いつもは普段着を着ている筈のパリネル夫妻は、なぜか黒い戦闘服のような物を身に着けている。
「驚いたかい?俺達は、実はパリネルという名前じゃないんだ。」
「私たちはシホールアンル帝国軍の物よ。あなたを迎えに来たわ。」
シホールアンル・・・・彼女がここに来る前に、散々痛めつけられた、あの憎き帝国!
「まあ、要するに俺達はシホールアンルのスパイという事さ。お姫様。」
「どう?結構面白かったでしょ?」
2人の男女は、薄ら笑いを浮かべてフェイレに言って来た。
「許さない・・・・・」
呻くような声で言ったフェイレは、2人を睨み付けた。
「許さない、ね。なかなか威勢の良い事だわ。」
「操られていたとはいえ、よくもここまでやったものだ。まさに化け物だよ。」
「しかし、ちょっとした小手調べで、1つの村をあっという間に潰してしまうとは、私達シホールアンルも、とんでもない物を作ったわね。」
「ああ、まさに世界を覆す鍵だ!君が手に入れば、我らシホールアンルも安泰だよ。」
「まさか・・・・あの香茶に何かを混ぜたのね!卑怯者!!」
苛立ったフェイレは、あらん限りの声で叫んだ。
「何が鍵よ!ふざけた事言わないで!!」
「ほう・・・・では、あなたはこのままの状況で、今後も普通に暮らせると思っているの?」
女の言葉が、フェイレの心に突き刺さった。
操られているとはいえ、フェイレは、自らの手で村の人達を皆殺しにしてしまった。
その罪は、恐らく、ずっと付いて回るであろう。
「こうなった以上、普通の生活は出来ないね。なぜなら。」
男はにたりと、邪悪な笑みを浮かべた。
「お前は人を必ず不幸にする化け物、だからだ。」
その容赦の無い言葉に、フェイレは強いショックに打ちのめされた。
「話はここまでだ。お姫様、ひとまずは休んでくれ。」
男がそう言うと、右手をサッと上げた。その直後、フェイレの意識は消え去っていった。
その日は、フェイレが12歳になってちょうど2ヶ月が経った日であった。
彼女は捉えられた後、シホールアンル側から話を聞かされた。
フェイレの体には、いくつもの魔術刻印が刻まれている。その魔術刻印によって、フェイレは色々な魔法を使えるという。
だが、同時に、この魔術刻印には別の使い方がある。
それは、体に刻まれた魔術刻印の一斉発動によってのみに発動できる大破壊魔法である。
この魔法は、シホールアンル帝国でも禁忌とされていた魔法で、これを使えば、刻印を受けている者は体が砕け散るという。
だが、それと同時に周囲を広範囲に渡って破壊できるため、兵器としては絶大な威力を持っている。
後年、アメリカが開発した核兵器(それもメガトン級と推測される)と同じような魔法を、フェイレは体に仕込まれたのである。
それからと言うものの、彼女は更正のためにシホールアンル帝国南部にある特別収容所に入れられた。
フェイレは、一度はシホールアンル帝国の魔法研究所に連れて行かれた。
だが、そこで何度も脱走未遂を起こしたために、この収容所に連れて来られたのである。
彼女の更正には1年はかかると思われていたが、相次ぐ“修正”も、フェイレには全く効果が無かった。
逆に、下手な修正を行えば、フェイレに叩きのめされるという場合もあり、下手な動きは出来なかった。
そうこうしている内に、早5年が過ぎた。
1480年1月・・・・・フェイレはついに行動を起こした。
ここ数ヶ月、収容所の所員達はようやく安堵の表情を見せていた。
原因は、フェイレがやっと大人しくなって来たからである。フェイレは、所員達に抵抗するのを諦め、修正にも大人しく従った。
フェイレの従順ぶりからして、あと1ヶ月もすれば、フェイレを研究所に送り込めるであろうと所員達は思っていた。
1月28日の夜、1人の所員が、フェイレが収監されている独房の前に立っていた。
体格はがっしりしており、顔はまるで山賊の長のようにいかつい。
彼は、長い間フェイレの修正を担当していた研究所の主任であった。命令で、修正の際は一線を超えるなと言われていた。
だが、日に日に女らしくなっていくフェイレに対し、その主任は1度だけならば別によいであろうと思い、この日、決行に写った。
鍵を開けて、独房の中に入る。すやすやと眠るフェイレを見るなり、主任は早くも行動に移った。
その次の瞬間、眠っていたはずのフェイレは素早く起き上がり、主任の首にひも状の布を巻き付け、そして絞めた。
主任は声を出そうとしたが、急激な力で締まり切った喉は、声を出す事は愚か、息すら出来なかった。
やがて、主任は呆気なく絞め落とされていた。
「まさか、色情狂が来るとは思いもよらなかったけど、まあいいわ。」
フェイレは倒れた主任を見て、ニヤリと笑うと、すぐに廊下にへと出た。
ここ最近、従順となったフェイレに対して、収容所側は体力低下用の魔法薬をあまり投与していなかった。
普段から脱走の機会を伺っていたフェイレにとって、これは渡りに船であった。
彼女は陰で自らの体を鍛えていた。訓練生時代に、仲間の命を奪ってまで習得した武術は、この時にも威力を発揮した。
彼女は、所員達や警備の兵士達の妨害を次々と蹴散らした。
ある者はフェイレの強烈な蹴りにあばらを叩き割られ、ある者は顔面を殴り潰される。
運の悪い者は、フェイレを剣でしとめようとしつつ、逆に持っていた剣を奪われて切り捨てられた。
主任を絞め落としてから5分後、フェイレはまんまと収容所を脱走していった。
脱走後、彼女を捕らえるためにシホールアンル本国からの追っ手が何人もやって来た。
追っ手の中には、彼女を捕らえたあの偽夫婦もいたが、死闘の末にその2人は返り討ちに会っている。
それからと言うものの、彼女は南大陸にいくような形で逃亡を続けた。
逃亡中にフェイレは、北大陸南部のウェンステル領で、ミスリアルの魔道士と会い、自らの存在を伝えた後、再び行方をくらました。
そして1481年10月、シホールアンル帝国は大義名分を掲げ、南大陸に侵攻を開始した。
「あっ、もう無くなってる。」
気が付けば、飲んでいた筈の香茶は無くなっていた。
「お客さん、お代わりはどうです?」
いつの間にか、店員である少年がテーブルの側に立っていた。
「う~ん・・・・どうしようかな。」
フェイレは手袋に包まれた指で頬を掻きながら、少し考えたが、
「じゃあ、もう一杯の飲もうかな。」
彼女は少年の勧めを受ける事にした。
「まいどあり。では、カップをお下げしますね。」
少年はそう言って、ニコニコと笑いながらカップを下げた。
収容所から脱走して、2年以上が経った。フェイレは今年で19歳になった。
思い起こせば、逃亡生活の中でも、印象に残った時はあった。
中でも、あの偽夫婦が追っ手として現れた時は、果たして勝てるかと思ったものだ。
「鍵は、自力で逃げ出さないモノなんだけどね。」
戦いが始まる前に、あの男が軽薄そうな笑みをこぼしながら吐いた言葉。
「自力で逃げ出さない・・・・か。」
そう独語したフェイレは、思わず苦笑した。
「失礼だけど、実際逃げ切れてるわよ。お生憎様ね、レゲム・ブレイグド中佐。」
彼女は、もう会う事も無い人物の名前を呟いた。
「はいよ。ご注文の品です。」
少年が、香茶のお代わりを持ってきてくれた。
「ん、ありがと。」
フェイレは歌うような口調で、少年に礼を言った。
「この香茶、なかなかいい花を使ってるわね。」
「おっ?わかるかい?」
「ええ。こう見えても、あたしは通なのよ。」
「へぇ~、そうなんだ。この香茶はね、この土地でしか見れないカベリンナという花を原料にしてるんだ。
ここに来る途中で、少し赤い色をした花があるのを見ただろ?」
「ああ、そう言えば。」
フェイレは途中で、淡い赤色の花を何度か見ている。その美しさに、彼女は少し見とれていた。
「ふーん、あの花を原料にして作ったんだ。」
「ああ。親父が言うには、他の香茶と比べても負けない、いい香茶って自慢してるよ。」
「そう言うあなたの父さんの気持ち、分かるね。それにしても」
フェイレは会話を一旦区切ってから、香茶をすすった。
「いい味ね。」
「ありがとう。そう言ってもらえると、俺も嬉しいよ。ところで、ちょっと話変わるんだけど。」
少年は、やや声を小さくしてから、フェイレに言って来た。
「旅人さんは最近、南に行った事あるかい?」
「南?」
「ああ、ルベンゲーブとか、マルヒナス運河とかさ。最近、アメリカ軍とやらにこっ酷くやられているという噂があるんだ。」
「あたしも、そのアメリカ軍の話なら何度か聞いてるわ。ていうか、あたしはルベンゲーブが空襲されたその日に、あっちに居たわ。」
「えっ!?姉さん、ルベンゲーブ空襲を間近で見たのか?」
少年は驚いた顔を見せた。
「ええ。アメリカ軍は凄い数の飛空挺を繰り出して、あの広大な魔法石精錬工場を次々に攻撃してた。あの時、
アメリカ軍の飛空挺は400機ほどいたんじゃないかな。」
「400機って、どんだけなんだ。」
少年は、驚きと同時に参ったと言わんばかりの表情でそう言った。
「たった1度の作戦でそんなに飛空挺を投入できるって・・・・」
「シホールアンルは、結構な難敵と戦っているみたいね。最近では、南大陸戦線でもちょっと危ないっていう話もちらほら聞かれるわ。」
「そうなのか。シホールアンルって、常に無敵って言う印象があったけど、やはり人が操る軍隊ってもんは、どこかで限度があるんだな。」
少年は、どこか納得したような表情で言った。
「おっと、野暮な話してごめんよ。」
「いや、いいのよ。このような話は、シホールアンルの兵隊さんに聞かれなければいいのよ。」
フェイレは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ハハ、姉さんもなかなかワルだねえ。さて、これ以上はお客さんの楽しみを邪魔しちゃうんで、僕は奥に引っ込んでおきますね。」
少年はまだ仕事が残っているのだろう、フェイレにそう言うと、店の中に入っていった。
フェイレはそのまま、香茶をすすった。
「占領下の平和、か。まあ、息が詰まるほど悪い、という訳じゃないね。」
フェイレはしんみりとした表情でそう呟きながら、束の間の休息を満喫し続けた。
1483年(1943年)10月20日 午前8時 ウェンステル領ラグレガミア
季節は秋を迎えていた。
ラグレガミアは、ルベンゲーブより30ゼルド離れた所にある中規模の町である。
町は山脈の麓に位置しているため、夏場はあまり暑さを感じさせない。
秋の時期から、ラグレガミアは少しずつ気温が低下し、冬ともなれば雪が降って来る。
町の住人達は、シホールアンルの支配下にありながらいつも通りの生活を行っており、郊外に駐屯する
シホールアンル軍の部隊(1個中隊程度)も、前線とは違って、毎日をのんびりと過ごしていた。
そんな町に、フェイレは情報収集の為に足を運んでいた。
「なかなか悪くない町だわ。人の顔も結構良いし。」
繁華街を歩いているフェイレは、この町に対してそのような印象を持った。
ラグレガミアは、そこそこ設備の整った町ではあるが、少し郊外に出れば広大な草原が広がっている。
町の東側には湖がある。フェイレは先ほど、その湖に行ってみたが、その湖には釣りを楽しむ人が何人もいた。
大抵は年配の物が多いが、釣りを楽しむ者達は戦争など、どこ吹く風と言った表情で湖面の魚が罠に引っかかるのを待っていた。
フェイレは繁華街を歩きながら、周囲を見回し続ける。
「どうも、シホールアンル兵が見当たらないわね。」
彼女は、町中を一通り歩き回ってある事に気が付いていた。
それは、シホールアンル兵があまり見当たらない事である。
ルベンゲーブの町には、ちらほらとシホールアンル兵が見受けられ、彼女はシホールアンル兵を見るたびに
目立たないように心掛けながら通り過ぎていた。
この逃亡生活の中で、彼女は一般のシホールアンル兵には自分の情報が伝わっていない事が分かっていた。
2ヶ月前、彼女は山中で、シホールアンル兵の一団と出会ってしまった。
止む無く、強行突破を試みかけたが、
「ああ、旅人さんか。悪いね、いきなりぶつかっちまって。どこか怪我はないかい?」
シホールアンル兵はフェイレの本当の事を知らなかった。
以前、このウェンステルに逃れる前は、何度も腕の良い刺客に襲われて来たものだ。
刺客達の様相は、明らかに暗殺専門部隊を思わせる服装であったり、時には一般の普通の人にまぎれたりと、様々であった。
彼女は、この追撃部隊がシホールアンル国内省が差し向けた刺客である事は知らなかった。
ただ、あまりにも執拗なシホールアンル側の追撃に、彼女は一般のシホールアンル軍部隊までもが自分を狙っているであろうと
その時から思い込んでいた。
ところが、彼女が恐れていた一般のシホールアンル兵は、彼女を旅人か、現地人としか見なさなかった。
フェイレは、シホールアンル一般部隊の反応振りを見て、自分はとても公に公表できる存在ではないと初めて確信した。
シホールアンル帝国は、国民の信用を得るために誠実な軍を持った帝国として盛んにアピールしている。
だが、実際はそうではない。
軍の一部では、秘密で何らかの実験を繰り返したり、国内省は国内外の邪魔者を排除するために、高度に訓練された
準軍事組織のような物を持っている。
フェイレや、そのほかの実験に関する問題事は、一般市民や、シホールアンル軍一般部隊には全く知らされていない。
情報を伝えるべき相手がかなり限られているから、当然、彼女に関する情報網も、伝わるのは軍の一部や国内省にいる
ほんの一握りの者、そして、南大陸に潜伏しているスパイ達のみであった。
もし、このような情報が一般市民に伝われば、隠し事をする者には容赦の無いシホールアンル国民は、なぜこのような事を
隠すのか、と、声高に叫びながら憤激するであろう。
この事で、皇帝の威信は揺るぐような事はないであろうが、国に対する信用はがた落ちとなる。
それを恐れるオールフェスは、あえて伝えるべき相手を制限し、秘密裏にフェイレを回収しようとしていたが、その事は、
逆にフェイレを逃げやすくするだけとなってしまった。
オールフェスの致命的なミスによって身を救われたフェイレは、今、堂々と町の中を練り歩いていた。
「あっ」
ふと、フェイレはとある店に注目した。
その露天は喫茶店のようだが、店の中のみではなく、外にも4つほどのテーブルが置かれている。
自然と、懐かしい思い出が蘇ってきた。
かつて、自分が過ごしてきた短くも、素晴らしい日々。
父が家族と共にフェイレをよく連れて行った、村の喫茶店。彼女はそこの喫茶店特製の香茶がお気に入りであった。
月に2度ほど、その喫茶店に連れて行って貰ったが、フェイレはこの喫茶店に行くと決まるとよく心を躍らせた物だ。
(まあ、あの店で好きだったのは、香茶と、あと1つあったんだけどね)
あの時は、確かに香茶がおいしいから今度も行きたいと言っていたのだが、実を言うとそれは口実に過ぎなかった。
喫茶店に行く目的はもう1つあったのだ。
彼女が目にしている喫茶店は、昔慣れ親しんだ店と、雰囲気が似ていた。
自然と、体はその喫茶店に向かっていた。
テーブルの上を掃除していた店員が、店にやって来たフェイレを見た。
「・・・・・」
どういう訳か、店員はフェイレをじっと見つめていた。
「あの~、どうかしたの?」
「・・・・あっ」
フェイレの言葉を聞いた店員が、思わず間の抜けた言葉を発した。
「す、すいません!ちょっと・・・・・その・・・・」
「何?あたしに何か変なのついていたの?」
フェイレはそう言いながら、自分の服装に改めて目を配る。
彼女の服装は、上が薄茶色の上着で、下にもう1枚赤い薄着を着ている。
下は上と同じような色をした長めの衣服(いわばズボンのようなもの)を着ている。
傍目から見れば冬用の服装に見え、動きにくそうであるが、彼女からすれば別に動きにくくない。
実を言うと、この服は、3ヶ月前にたまたま襲って来た山賊を叩きのめした時に強奪した服なのだが、
ウェンステル領では女性の旅人も山中を移動するためか、フェイレと似たような格好をする者が多い。
別に珍しくない服装だろう、とフェイレは思った。
「いや、ちょっとお姉さんが綺麗なもんで、つい見入っちまって。」
店員はまだ少年なのであろう、やや高い声で、顔を赤らめながらそう言った。
「あたしに見入っていた?そんな珍しい顔なのかしら。」
フェイレはきょとんとした表情で言う。
彼女はあまり気付かないのだが、フェイレは端整な顔立ちにやや大きめながらも、気の強そうな目、それに
青い長髪が合間ってモデル並みの容姿を持っている。
体のスタイルは、上着に隠れて判り辛いものの、胸部はなかなかあり、これもまた一般の男性ならばすぐに目を引きそうなほどだ。
店員がフェイレに見取れたのは、その美貌のせいであった。
「そりゃすげえ美人だよ、あんた。こいつは裏の角の散髪屋の姉貴に勝るとも劣らないぐらいだぜ。」
店員の少年は、評価と独り言を交えながらフェイレに言う。
「まあ・・・・一応ありがとうと言っておく。」
「こりゃどうも。親父が帰ってきたら自慢してやらねえとな。ところで姉さん、こっちに来たって事は、何かご注文でも?」
少年はフェイレに聞いてきた。
「注文・・・・ああ。ちょっと待ってて。」
フェイレはそう言いながら、懐にしまってある袋を取り出して確認した。
金はある程度は入っている。この店で飲み物を注文する分なら充分すぎるほどだ。
「じゃあ、香茶を頼むね。」
「まいど。それでは少々お待ち下さい。」
少年は爽やかな営業スマイルを浮かべると、店内に入っていった。
「あの人には似てないか。まっ、それはそれで良いと思うんだけどね。」
フェイレは、店の中に入っていく少年の後姿を見つめながら、そう独語した。
自然に、脳裏に昔の記憶が蘇り始めた。
フェイレは、自分がどこで生まれたかはあまり覚えていないが、元々はデイレアの人間である。
6歳頃までは記憶が曖昧であるが、農家を営んでいる両親は、苦しい生活に困りながらも、フェイレを懸命に育て続けた。
両親の愛を受けながら成長を続ける生活は、僅か6年余りで終わった。
彼女が6歳の時、両親が泣きながら、震える手で見慣れぬ男達に自分を差し出した事は覚えているが、
男達は両親に何かを叫びながら彼女の目と耳を何かで覆い隠した。
遮られた聴覚と視覚。
男たちはフェイレに、今から起こる事を見せたくなく、そして、聞かせたくなかったのだろう。
だが、遮られた視覚には、微かながらもフェイレを思う言葉が聞こえたように感じられた。
そこで意識は無くなった。
次に気が付いた時、彼女は見慣れぬ施設にいた。
その時見たのは、広い石造りの部屋に集められた、自分と似たような年の子供達だった。
そこで、彼女は思いがけない言葉を耳にした。
「我が帝国の手足となるであろう、選ばれし諸君。よく集まってくれた。」
彼女はその言葉がする方向に顔を向けた。
壇上と思しき台に上がりながら、声高に言葉を発している男は、今までに会ったことも無い人だった。
男が言うには、ここに集められた100人の子供は、特別に選ばれた者達であり、これからの訓練によって更に
選ばれた一部の者は、帝国にとっての信頼できる武器となる、という事であった。
だが、家族からいきなり引き離された身の子供達は、この男が喋る言葉を理解出来なかった。
この日から、子供達はシホールアンル帝国の足となるべく、訓練を始めた。
フェイレは訳が分からぬままに訓練を受け続けた。最初の1年は普通の勉強(ただし、軍事関連が多い)や
少しきつめの軍事教練であり、この時点で100人の子供達は誰1人として脱落しなかった。
異変が置き始めたのは2年目からであった。
2年目からは、1年目と比べてややきつめの体を使って訓練が行われた。
この訓練は1ヶ月続けられ、この時点でも脱落者はいなかった。
真の地獄は1年2ヶ月目から始まった。
教官はいきなり、どこぞから集めてきた汚いなりをした子供達をフェイレ達の前に差し出し、こう告げた。
「これから狩の訓練を始める。」
何気なく、フェイレ達に言い放った。
「今まで、お前達には殺しの訓練をさせ、見事に覚えてもらった。今日は、その成果を遺憾なく発揮する日だ。喜べ。」
教官は、おぞましさを感じさせる笑みを浮かべながらフェイレ達に向かって言う。
そして教官は、手に短剣やら、棍棒やらを携えながら怯えている子供たちにも言った。
「あの子達にはああ言ったが、お前達のやるべき事はただあいつらに向かって、持っている武器で殺してくる事だ。
全滅させる事が出来れば帰してやるぞ。」
教官は、最後の部分を皮肉気な口調で言いながら、怯える子供たちを煽り立てた。
そこから地獄が始まった。
フェイレ達がやっていた訓練は、本格的な殺人術であった。
刃物はもちろん、素手のみでもどこを叩けば相手が死ぬか、教え込まれている。
相手を殺す事を知っている者と、相手を殺す事を知らぬ者の差は、残酷なまでにも現れた。
教官の口車に乗って向かって来た子供達は30人。それに対して、フェイレ達の班は14人しかいなかった。
だが、フェイレ達は教えられた通りの動作を行った。
1人目の背後に回って首をあらぬ方向に捻ると、骨が折れる音がして1人目があっけなく死ぬ。
後ろから襲い掛かった2人目の攻撃をしゃがんでかわし、足払いをして仰向けに倒す。
その際、2人目が手に持っていたナイフが掌から離れ、一瞬宙を舞う。
それを一瞬のうちに受け取ったフェイレが、まるで虫を潰すかのような気持ちで2人目の左胸に突き刺し、抉った。
簡単な動作で、相手側の子供達は次々と死んでいった。
唐突に、味方側の子供1人が、血に染まった自らの手を見るなり放心状態に陥った。
教官の視線が、その子供に集中する。
やがて、その子供は頭を抱えながらその場にうずくまった。体ががたがたと震えている。
1人の教官が、その子供のそばに歩み寄った。うずくまった子供の顔を無理矢理上げる。
「チッ、壊れたか。使えねえ奴だ。」
教官が忌々しげにそう呟くと、一息にその仲間の首を捻る。あっという間に、その子供の首があらぬ方向に曲がる。
その子供の目からは、既に光は失われていた。
訓練は、フェイレ達の圧倒的な力の差によって速やかに終了した。
「ご苦労だった。まだまだお前達の手際が悪い事には、正直言って不満だが、まあ今日は最初だからここまでやれれば上出来だと思う。」
教官は、返り血を浴びて所々赤く染まっている13人の教え子に対して、淡々とした口調でそう言った。そして、教官は付け加えた。
「それから、1人だけ壊れた奴がいた。残念ながら、もはや今後の訓練には使えぬと見て止む無く処分した。よく覚えておけ。
今後、訓練の最中に貴様らが壊れたと判断すれば、遠慮なく処分する。武器に感情はいらぬからな。」
教官は、付け加えた文も淡々とした口調でそう言っていた。
それからというものの、過酷な訓練に耐え切れず、精神を壊し、処分されていく“同期生”達は次々と現れた。
それまで“おままごと”に過ぎなかった訓練とは違い、教官はフェイレにも不手際があれば容赦なく殴り、あるいは蹴り飛ばした。
「どうした?そんな事でもう参ったのか?全く、役立たずだな。」
このような罵倒は何度も浴びせられた。だが、フェイレは耐えた。
生き残るためには、まず感情を捨てたふりをしなければならない。
フェイレは感情を捨て去り、教官の暴行に対してもめげる事無く訓練を続けた。
次に強くならなければならない。
フェイレは教官の期待通りに、特殊戦術や魔法を素早く覚えていった。
その次に、教官に気に入られなければならない。
フェイレは、人一倍努力したお陰で、同期生の中でも5本の指に入るほどの腕前となった。
担当教官はフェイレの事が気に入り、彼女に対する暴行が少しずつ減っていった。
そして・・・・・・・
油断せぬためには、どんな事でもする。
この過酷な訓練が4年目を過ぎ、年齢が10歳を迎えた時、フェイレは同期生達と殺しあった。
生き残っていた40人の同期生のうち、8人までに絞られる最終試験で、フェイレは満点に近い成績をたたき出した。
感情を殺し、昨日まで笑い合っていた友人の喉をナイフで掻っ捌く。
別の知り合いには、特殊な魔法を使って爆砕した。
そのまた別の者には罠に誘い込んでから身動きを取れなくし、そこにナイフを突き刺した。
最後には、互いに激しいナイフ戦を演じながらも、相手を真っ二つに切って捨てて、訓練を終わらせた。
「素晴らしい。」
訓練終了の際、卒業生の視察に来ていた年配の魔道士が、笑いながら教官に言っていた。
「実に素晴らしい!これだけ素材があれば、強力な兵器を生み出す事が出来る。」
魔道士はそう言いつつ、視線をフェイレに留める。
「特に、この19番は素晴らしい物を持っている。これは次の仕事が楽しみだ。」
魔道士は陰気めいた笑いを浮かべながら、フェイレを見つめていた。
その1週間後、フェイレは教官と共に馬車に乗った。途中、鉄道を使ってずっと北のほうへ向かった。
移動には5日ほど掛かったであろうか。
フェイレは目的地に着いた。そこは、四方が塀に覆われていた。何よりも、雪が降っていてとても寒かった。
「さて、私はここまでだ。19番。お前の住処は、今日からここだ。」
教官は、塀を指差した。
その塀に開口部が唐突に開かれ、中から数人の男が現れた。
先頭に立つのは、いつか見たあの陰湿そうな年配魔道士であった。
「ようこそ!君が来るのを待っておったよ。」
「では、後は頼みましたぞ。」
「ああ、ここまで護衛ご苦労であった。この子は我々が引き受けよう。」
教官と魔道士は、ただそれだけのやり取りを終えてから、フェイレを魔道士に引き渡した。
教官はその後、馬車に乗ってもと来た道を戻って行った。
「さあ、来なさい。」
フェイレは言われるがままに、その魔道士と一緒に塀の中にある魔道研究所に入っていった。
その後、フェイレはここに移った意味がわかった。
それから1週間が経ったとき、フェイレはこの施設に移動させられた事を理解し、激しい後悔を感じていた。
寝台らしき物に無理矢理寝かされている。手足は広げられたまま動かない。いや、動けないと言ったほうが正しいであろう。
なぜなら、両手両足は、革製のベルトで寝台に固定されていたからだ。
「初めての実験はまずまずの成功を収めましたな。」
若い魔道士の声がした。
「まずまずどころじゃない。大成功だよ!」
それに対して、喜ぶような口調が返される。あの年配の魔道士だ。
「初めてとは言うが、あの実験は4回目の実験でやる物だった。そのきつい実験をいきなり耐えて見せたのだから、
フェイレ君の体は素晴らしい。」
年配の魔道士はフェイレの事を名前で呼んだ。
ここでは、前にいた訓練施設とは違って番号で呼ばない。
家族といた時のように名前で呼んでくれる。だが、ここでの生活は最悪であった。
どのような薬物を投与されたのか、彼女は抵抗しようにも出来ない。
訓練施設で習った殺人術は、子供でも大の大人が殺せるような技がいくらでもある。
だが、ここの魔道士達はフェイレが抵抗しないようにあらかじめ薬物を投与して、普通の生活に支障をきたさない程度の動きしかさせなかった。
実験は、簡単であった。
寝台に固定したフェイレの体に、何かの薬品を注射する。
何かの薬品が注射されると、数秒後に体が内側から熱を発した。
熱い!熱い!さっさとこの熱さを止めて!体が溶ける!!
フェイレは必死に懇願した。
だが、
「さて、今回はどれぐらいまで耐えられるかな?」
「魔法薬の量は計画通りですから、まあ耐えられるでしょう。」
「耐えられなかった場合は捨てればいいですよ。代わりは一応いるんですから。」
魔道士達は、苦しむフェイレの事なぞ知らぬと言った表情で、のんびりと会話しているだけであった。
いつ果てるとも知れぬ苦しみが終わった時には、体には刺青のような紋章が出来ていた。
「今回の分は成功です。見てください。」
若い魔道士が、どこか明るい表情で年配の魔道士に、腹に出来た紋章を見せる。
「ほう。これはまた素晴らしい物だ。フェイレ、今日はよく頑張ったな。」
年配の魔道士は、陰湿な笑いを浮かべながら、“試験体”にそう言った。
このような実験が、3日に1度の頻度で行われていった。
フェイレはその度に言語に尽くしがたい苦痛を味わい続けた。
彼女にとって、この魔法研究施設繰り返される人体実験は地獄に等しい物であった。
まだ、陰鬱とした訓練施設時代のほうが可愛く思えるほどだ。
日が経つにつれて、フェイレの体には紋章が増えていった。
最初はほんの少しの部位にしか現れなかった紋章が、魔道士達が繰り返す薬物注入によって次第に増えていく。
2ヶ月目には腕が、3ヶ月目には足が、そして、半年後には胴体部分が、幾何学的な紋章に覆われていた。
未知の魔法研究施設に連れてこられて半年が経った。
フェイレは、もはや抵抗する気にもなれぬほど、精神を消耗し尽くしていた。
副作用が収まる8分ほどの時間。1日1回、僅か8分間の実験。だが、受ける側に取って、それは地獄の8分間である。
実験のたびに繰り返される猛烈な痛み。
実験後に訪れる強烈な不快感と、疲労感。
そして、次の実験に対する恐怖感・・・・・・
もはや、フェイレにとって、この魔法研究施設という名の地獄から逃れる術は無かった。
だが、転機が訪れた。
それは未だに寒い2月のある日・・・・・
彼女は、これまでの実験よりも特別な実験を終えていた。
その実験で、フェイレは本当に自分が死んでしまうのではないかと思うほど、体の痛みを感じた。
これまで以上に体を苛む魔法薬の副作用に、激しく熱する体。
いますぐにでも破裂しそうなほど、熱く感じたフェイレは、必死に暴れた。
副作用が収まるまでに要した時間は、20分間。
記録では20分であったが、フェイレにとって、その20分は永遠にとも思える長さであった。
実験終了後、フェイレは副作用との戦いで、体力を消耗し尽くし、息すらも満足に出来なかった。
苦しみに喘ぐフェイレの側に、彼女を苦しめた張本人達が歩み寄ってきた。
「所長、見てください。良い出来です。」
若い魔道士が、目を輝かせながらフェイレの体に見入っている。
「これなら、我が国は他国を差し置いて、一躍最強の称号を手に入れるでしょう。」
「同感だ。しかし、慣れるという物は恐ろしい物だ。」
暗闇の中で繰り返される会話。人数からして7、8人はいるだろう。
会話をする者達の口調には、フェイレの体調を心配する者は誰1人としていない。
ただ、彼らはフェイレという兵器が生まれた事に喜びを感じていた。
「こうやって、どこぞの少女を弄ぶのに、最初は抵抗を感じたが、今では何も感じん。むしろ楽しくなってきたよ。」
「今回はいい適正体なので、実験も順調に進みましたな。長い間の研究が報われ、私も感無量です。」
聞きなれた声の主が、感動に打ち震わせている。
閉じられた瞼。見えるのは暗闇。
だが、その暗闇からでも、彼らの酷く冷たい視線が、体に突き刺さるのがはっきりと分かる。
体が恐怖に震え始める。
怖い、いやだ。この場から逃げ出したい。
だが、いくら心で思っても、実験で磨耗しつくした体力はとうに失われており、フェイレは指1本すら動かせなかった。
「これで、鍵は出来たという事か。よし、すぐに上に報告しよう。」
その瞬間、けたたましい轟音が暗闇の中で鳴った。
フェイレは、その音を聞いた後に意識を失っていた。
次に意識が戻った時には、誰かの背中におぶさりながら、雪原を移動していた。
外はまだ寒く、周りには雪がしとしとと舞っている。
「おっ、気が付いたか?」
フェイレを抱えていた男が、意識を取り戻した事に気が付いたのであろう。
男は歩くのを止めた。
「やあ、お姫様。いまはちょっと寒いが、もうすぐであったかい所で眠れるぞ。」
男はそう言いながら、フェイレと顔を合わせた。
険しそうな顔に柔和な笑みを浮かべるその男の表情は、邪な物を一切感じさせなかった。
「だから、もうちっとだけ我慢してくれよ?」
男の言葉に、フェイレは自然と頷いていた。
彼の新たな育て主となった男、ジェグル・ラーカントと出会ったのはその時である。
それから更に月日が経ち、フェイレはジェグルの住むヒーレリ公国に連れて来られた。
ジェグルの職業は、ヒーレリ陸軍の軍人で、階級は大尉であった。
ジェグルは、間の研究所から救い出したフェイレを本当の子同然に育て上げた。
元々、家にいたジェグルの子供達もフェイレに優しく接した。
最初は心を閉ざしていたフェイレも、ジェグルや、彼の妻、そして子供たちによって心を開き、最終的には明るい子供として成長していった。
ジェグルの住む村は、ヒーレリ公国の中西部バヌラミリト地方にある田舎町であった。
人口は220人ほどと、かなり少ないが、村の住人は人柄も良く、旅人や行商人等からの受けも良かった。
フェイレはこの村に移り住んでから程無くしてここが気に入った。
彼女はこの村で色々な事を学んだ。
育て親となったジェグルは、フェイレを学校に行かせ、普通の勉強の楽しみというのを教えた。
休日は家族と共に少し遠くに出かけ、休日の楽しい過ごし方を教えた。
今まで触れる事の出来なかった、普通の楽しみという物に、フェイレの陰鬱とした気持ちはどこかに吹っ飛んでいた。
特に彼女が楽しみにしていたのは、近所の喫茶店に家族と一緒に行く事であった。
フェイレはここの特製香茶の美味さを知って以来、すっかり香茶の虜となってしまった。
そのため、喫茶店に行く時は常に心が躍った物である。
ちなみに、彼女が喫茶店に行く時、楽しみは香茶を飲むのみではない。
喫茶店は、店主とその息子が店を営んでいた。
フェイレは、この店主の息子と居る時がとても楽しかった。
彼女はこの少年に恋心を持っていたのだろう。だが、少年には彼女がおり、フェイレの初恋は片思いのままに終わった。
ちょっとした挫折もあったが、フェイレは普段の生活に満足していた。
だが、永遠に続くと思われた、この楽しい生活も終わりを迎える事になる。
異変は、夏のとある日から起こった。
その日、村に新しい人が移り住んできた。夫婦と見られる男女は、常に明るく、近隣の住民達にもたちまち好かれていった。
フェイレも何度かこの若い夫婦と出会ったが、とても愛想が良く、フェイレに対しても気軽に接してきた。
ただ、フェイレは少しばかり、この夫婦に違和感を感じていた。
時々、この夫婦は冷たい目つきで村の住民達を見ていた。
それもほんの一瞬だけで、すぐに愛想の良い夫婦に戻っている。
ただ、あのような目付きは見覚えがあった。
訓練施設時代、感情の無い目付きで仲間を処理した教官・・・・・
魔法研究所にいる時、フェイレを実験動物としてしか扱わなかった魔道士・・・・・
彼らの目付きは、常に冷たかった。
だが、フェイレはただの錯覚であろうと思った。
彼女は、夫婦の本当の正体を掴めぬままに、遂に運命の日を迎えた。
あの夫婦が引っ越してきて1ヶ月が過ぎたある日、珍しくあの夫婦がフェイレの家に差し入れを持って来た。
差し入れは香茶の原料であった。気を利かせたジェグルは、フェイレが学校から帰って来るまでに香茶を作っておいた。
学校から帰ってきたフェイレは、ジェグルから
「お帰り。近所のパリネルさんが香茶の原料を持ってきてくれてな。それで俺がお前の為に作ってやったぞ。まずは飲んでみろ。」
と言って飲むように勧めた。
「ありがとう。早速頂くわ!」
喜んだフェイレは、早くも香茶を飲んでみた。実を言うと、ジェグルも香茶を作るのが上手い。
「あっ、おいしい。やっぱ父さんの作る香茶も悪くないわ。」
「そうか。そりゃ良かったぜ。」
ジェグルは嬉しそうな口調でフェイレに言った。
そこから、彼女の人生を狂わす事件が起きた。
カップに入っている香茶を飲み干した時、フェイレは急激に眠くなってきた。
「おい、フェイレ?どうした?」
「なん・・・か・・・・急に頭が・・・・・」
朦朧とする意識。頭が溶けてしまいそうな感覚に陥ったフェイレの脳裏に、
「さあ、君の実力を試してみよう。」
どこか寒気のする声が響いてきた。
「まずは、殺せ。」
そして、惨劇は始まった。フェイレを乗っ取った何者かは、彼女が持つ本来の力を発揮させた。
体が異様に熱くなってきた。まるで、あの実験の時のような感覚。
だが、珍しく痛みは無い。その代わりに、力を解放できる喜びを感じていた。
見慣れた住民があっという間に火の塊になる。
学校の親友が自分を見て泣き叫ぶ。邪魔だ、死ね。
親友は呆気なく切断され、そして火達磨になる。
(いやだ)
お気に入りの喫茶店に右腕を向ける。その次の瞬間には喫茶店が吹き飛んだ。
(やめて)
自宅が燃えている。赤々と燃えている。
中に人の形をした物体が燃えている。家族だ。
(そんな・・・・・そんな・・・・・)
燃えていない家を見つける。今度は左手をかざす。家に火が付き、瞬時に全体にへと燃え広がる。
中から人が出てくるが、全身に火をまつわりつかせて熱さにのた打ち回る。
(なんて・・・・こと・・・・・)
驚愕する自分・・・・・の筈が・・・・・
口の感覚は全く別の物だった。
自らの口が不自然に広がっている。笑っていた。
心では笑う余裕が無いのに、何者かに操られた体は、家が燃え、人が焼け死んでいく光景を見て笑っていた。
まるで、この光景を心から望んでいたように。
「化け物!」
唐突に、横から悲鳴じみた叫び声が聞こえた。声のする方向に振り返る。
そこには、喫茶店の店員をしていた、知り合いの少年が立っていた。手には棍棒を持っている。
「お前みたいな・・・・・お前みたいな化け物は、俺が殺してやる!!」
少年は怒りで真っ赤となった顔を震わせながら、フェイレに喚いた。そして、彼女を棍棒で殴りつけようとしていた。
(逃げて!今すぐ逃げて!!)
フェイレは心の中でそう絶叫していた。
その次の瞬間、少年の首が胴体から離れた。
気が付くと、見慣れた筈の村は、炎上していた。
道端には、真っ黒に焼けた遺体が散乱している。誰がやったのか?
「ご苦労さん。」
不意に、明るい声が彼女の耳に入ってきた。
「なかなか良かったわよ。あなた。」
別の声が聞こえる。後ろを振り返った。
「まさに鍵にふさわしい物だった。」
「あ・・・・あなた達・・・・・」
フェイレは信じられなかった。目の前に居た男女は、あのパリネル夫妻だった。
いつもは普段着を着ている筈のパリネル夫妻は、なぜか黒い戦闘服のような物を身に着けている。
「驚いたかい?俺達は、実はパリネルという名前じゃないんだ。」
「私たちはシホールアンル帝国軍の物よ。あなたを迎えに来たわ。」
シホールアンル・・・・彼女がここに来る前に、散々痛めつけられた、あの憎き帝国!
「まあ、要するに俺達はシホールアンルのスパイという事さ。お姫様。」
「どう?結構面白かったでしょ?」
2人の男女は、薄ら笑いを浮かべてフェイレに言って来た。
「許さない・・・・・」
呻くような声で言ったフェイレは、2人を睨み付けた。
「許さない、ね。なかなか威勢の良い事だわ。」
「操られていたとはいえ、よくもここまでやったものだ。まさに化け物だよ。」
「しかし、ちょっとした小手調べで、1つの村をあっという間に潰してしまうとは、私達シホールアンルも、とんでもない物を作ったわね。」
「ああ、まさに世界を覆す鍵だ!君が手に入れば、我らシホールアンルも安泰だよ。」
「まさか・・・・あの香茶に何かを混ぜたのね!卑怯者!!」
苛立ったフェイレは、あらん限りの声で叫んだ。
「何が鍵よ!ふざけた事言わないで!!」
「ほう・・・・では、あなたはこのままの状況で、今後も普通に暮らせると思っているの?」
女の言葉が、フェイレの心に突き刺さった。
操られているとはいえ、フェイレは、自らの手で村の人達を皆殺しにしてしまった。
その罪は、恐らく、ずっと付いて回るであろう。
「こうなった以上、普通の生活は出来ないね。なぜなら。」
男はにたりと、邪悪な笑みを浮かべた。
「お前は人を必ず不幸にする化け物、だからだ。」
その容赦の無い言葉に、フェイレは強いショックに打ちのめされた。
「話はここまでだ。お姫様、ひとまずは休んでくれ。」
男がそう言うと、右手をサッと上げた。その直後、フェイレの意識は消え去っていった。
その日は、フェイレが12歳になってちょうど2ヶ月が経った日であった。
彼女は捉えられた後、シホールアンル側から話を聞かされた。
フェイレの体には、いくつもの魔術刻印が刻まれている。その魔術刻印によって、フェイレは色々な魔法を使えるという。
だが、同時に、この魔術刻印には別の使い方がある。
それは、体に刻まれた魔術刻印の一斉発動によってのみに発動できる大破壊魔法である。
この魔法は、シホールアンル帝国でも禁忌とされていた魔法で、これを使えば、刻印を受けている者は体が砕け散るという。
だが、それと同時に周囲を広範囲に渡って破壊できるため、兵器としては絶大な威力を持っている。
後年、アメリカが開発した核兵器(それもメガトン級と推測される)と同じような魔法を、フェイレは体に仕込まれたのである。
それからと言うものの、彼女は更正のためにシホールアンル帝国南部にある特別収容所に入れられた。
フェイレは、一度はシホールアンル帝国の魔法研究所に連れて行かれた。
だが、そこで何度も脱走未遂を起こしたために、この収容所に連れて来られたのである。
彼女の更正には1年はかかると思われていたが、相次ぐ“修正”も、フェイレには全く効果が無かった。
逆に、下手な修正を行えば、フェイレに叩きのめされるという場合もあり、下手な動きは出来なかった。
そうこうしている内に、早5年が過ぎた。
1480年1月・・・・・フェイレはついに行動を起こした。
ここ数ヶ月、収容所の所員達はようやく安堵の表情を見せていた。
原因は、フェイレがやっと大人しくなって来たからである。フェイレは、所員達に抵抗するのを諦め、修正にも大人しく従った。
フェイレの従順ぶりからして、あと1ヶ月もすれば、フェイレを研究所に送り込めるであろうと所員達は思っていた。
1月28日の夜、1人の所員が、フェイレが収監されている独房の前に立っていた。
体格はがっしりしており、顔はまるで山賊の長のようにいかつい。
彼は、長い間フェイレの修正を担当していた研究所の主任であった。命令で、修正の際は一線を超えるなと言われていた。
だが、日に日に女らしくなっていくフェイレに対し、その主任は1度だけならば別によいであろうと思い、この日、決行に写った。
鍵を開けて、独房の中に入る。すやすやと眠るフェイレを見るなり、主任は早くも行動に移った。
その次の瞬間、眠っていたはずのフェイレは素早く起き上がり、主任の首にひも状の布を巻き付け、そして絞めた。
主任は声を出そうとしたが、急激な力で締まり切った喉は、声を出す事は愚か、息すら出来なかった。
やがて、主任は呆気なく絞め落とされていた。
「まさか、色情狂が来るとは思いもよらなかったけど、まあいいわ。」
フェイレは倒れた主任を見て、ニヤリと笑うと、すぐに廊下にへと出た。
ここ最近、従順となったフェイレに対して、収容所側は体力低下用の魔法薬をあまり投与していなかった。
普段から脱走の機会を伺っていたフェイレにとって、これは渡りに船であった。
彼女は陰で自らの体を鍛えていた。訓練生時代に、仲間の命を奪ってまで習得した武術は、この時にも威力を発揮した。
彼女は、所員達や警備の兵士達の妨害を次々と蹴散らした。
ある者はフェイレの強烈な蹴りにあばらを叩き割られ、ある者は顔面を殴り潰される。
運の悪い者は、フェイレを剣でしとめようとしつつ、逆に持っていた剣を奪われて切り捨てられた。
主任を絞め落としてから5分後、フェイレはまんまと収容所を脱走していった。
脱走後、彼女を捕らえるためにシホールアンル本国からの追っ手が何人もやって来た。
追っ手の中には、彼女を捕らえたあの偽夫婦もいたが、死闘の末にその2人は返り討ちに会っている。
それからと言うものの、彼女は南大陸にいくような形で逃亡を続けた。
逃亡中にフェイレは、北大陸南部のウェンステル領で、ミスリアルの魔道士と会い、自らの存在を伝えた後、再び行方をくらました。
そして1481年10月、シホールアンル帝国は大義名分を掲げ、南大陸に侵攻を開始した。
「あっ、もう無くなってる。」
気が付けば、飲んでいた筈の香茶は無くなっていた。
「お客さん、お代わりはどうです?」
いつの間にか、店員である少年がテーブルの側に立っていた。
「う~ん・・・・どうしようかな。」
フェイレは手袋に包まれた指で頬を掻きながら、少し考えたが、
「じゃあ、もう一杯の飲もうかな。」
彼女は少年の勧めを受ける事にした。
「まいどあり。では、カップをお下げしますね。」
少年はそう言って、ニコニコと笑いながらカップを下げた。
収容所から脱走して、2年以上が経った。フェイレは今年で19歳になった。
思い起こせば、逃亡生活の中でも、印象に残った時はあった。
中でも、あの偽夫婦が追っ手として現れた時は、果たして勝てるかと思ったものだ。
「鍵は、自力で逃げ出さないモノなんだけどね。」
戦いが始まる前に、あの男が軽薄そうな笑みをこぼしながら吐いた言葉。
「自力で逃げ出さない・・・・か。」
そう独語したフェイレは、思わず苦笑した。
「失礼だけど、実際逃げ切れてるわよ。お生憎様ね、レゲム・ブレイグド中佐。」
彼女は、もう会う事も無い人物の名前を呟いた。
「はいよ。ご注文の品です。」
少年が、香茶のお代わりを持ってきてくれた。
「ん、ありがと。」
フェイレは歌うような口調で、少年に礼を言った。
「この香茶、なかなかいい花を使ってるわね。」
「おっ?わかるかい?」
「ええ。こう見えても、あたしは通なのよ。」
「へぇ~、そうなんだ。この香茶はね、この土地でしか見れないカベリンナという花を原料にしてるんだ。
ここに来る途中で、少し赤い色をした花があるのを見ただろ?」
「ああ、そう言えば。」
フェイレは途中で、淡い赤色の花を何度か見ている。その美しさに、彼女は少し見とれていた。
「ふーん、あの花を原料にして作ったんだ。」
「ああ。親父が言うには、他の香茶と比べても負けない、いい香茶って自慢してるよ。」
「そう言うあなたの父さんの気持ち、分かるね。それにしても」
フェイレは会話を一旦区切ってから、香茶をすすった。
「いい味ね。」
「ありがとう。そう言ってもらえると、俺も嬉しいよ。ところで、ちょっと話変わるんだけど。」
少年は、やや声を小さくしてから、フェイレに言って来た。
「旅人さんは最近、南に行った事あるかい?」
「南?」
「ああ、ルベンゲーブとか、マルヒナス運河とかさ。最近、アメリカ軍とやらにこっ酷くやられているという噂があるんだ。」
「あたしも、そのアメリカ軍の話なら何度か聞いてるわ。ていうか、あたしはルベンゲーブが空襲されたその日に、あっちに居たわ。」
「えっ!?姉さん、ルベンゲーブ空襲を間近で見たのか?」
少年は驚いた顔を見せた。
「ええ。アメリカ軍は凄い数の飛空挺を繰り出して、あの広大な魔法石精錬工場を次々に攻撃してた。あの時、
アメリカ軍の飛空挺は400機ほどいたんじゃないかな。」
「400機って、どんだけなんだ。」
少年は、驚きと同時に参ったと言わんばかりの表情でそう言った。
「たった1度の作戦でそんなに飛空挺を投入できるって・・・・」
「シホールアンルは、結構な難敵と戦っているみたいね。最近では、南大陸戦線でもちょっと危ないっていう話もちらほら聞かれるわ。」
「そうなのか。シホールアンルって、常に無敵って言う印象があったけど、やはり人が操る軍隊ってもんは、どこかで限度があるんだな。」
少年は、どこか納得したような表情で言った。
「おっと、野暮な話してごめんよ。」
「いや、いいのよ。このような話は、シホールアンルの兵隊さんに聞かれなければいいのよ。」
フェイレは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ハハ、姉さんもなかなかワルだねえ。さて、これ以上はお客さんの楽しみを邪魔しちゃうんで、僕は奥に引っ込んでおきますね。」
少年はまだ仕事が残っているのだろう、フェイレにそう言うと、店の中に入っていった。
フェイレはそのまま、香茶をすすった。
「占領下の平和、か。まあ、息が詰まるほど悪い、という訳じゃないね。」
フェイレはしんみりとした表情でそう呟きながら、束の間の休息を満喫し続けた。