『リスクについて』
1.はじめに
前回の発表の最後に、私は以下のような推測を示した。リスクを受け入れることは個人の自立
を促し、そのような個人は他人も受け入れることができる。そしてそれは多様性にもつながり、
結果、リスク分担へ、さらにそれはリスクを受け入れることが容易になるという、循環系を生み
出すことが可能なのではないか、ということである。
そのような推測を元に、今回の発表では、リスクを受け入れることについて、考えていきたいと思う。
1.はじめに
前回の発表の最後に、私は以下のような推測を示した。リスクを受け入れることは個人の自立
を促し、そのような個人は他人も受け入れることができる。そしてそれは多様性にもつながり、
結果、リスク分担へ、さらにそれはリスクを受け入れることが容易になるという、循環系を生み
出すことが可能なのではないか、ということである。
そのような推測を元に、今回の発表では、リスクを受け入れることについて、考えていきたいと思う。
2.リスクとは何か
まず、リスクとは何かを考えていこうかと思う。その際、小松(2003)の整理が大きな助けになると思われる。彼によれば、一般的にリスクは1)損害を生ずる確率、2)個人の生命や健康に対して危害を生ずる発生源の事象、3)損失の大きさと損害が生じる確率との積、に分類することができる。
また、経済学的なリスク研究においてはKnight, F.(1921)の業績が大きいという。Knight, Fはリスクを不確実性Uncertainty と区別できるものと考えており、統計的に測定できるものだとする。また、小松はKnightのこのような考え方の背後には利子と利潤の区別があると指摘する。
このような二区分法によるものの中で一般的だと思われるのは、リスクと安全 Sicherheitの対比である。
これに対し、Luhmann, N.(1991)は、決定Entscheidung と関連付け、リスクRisikoと危険 Gefahr という区別を用いる。そこでは、リスクは、未来の損害の可能性が、自らがおこなった決定の帰結とみなされる。たいして危険は自分以外の誰かや何かによって引き起こされたものである。これに関し、小松は、リスク=「する」論理、危険=「である」論理、であると述べる。そして私がリスクというものを扱うとき、それは主にLuhmannによるこのような区分を主に用いたいと思う。
ちなみに、法学の分野にもリスクと危険を分ける傾向がある。さらに、これに残余リスクを付け加えるのが普通である。この場合、リスクは発生に関して十分な根拠を示すことができないが危険性があるもの、危険は発生に関して十分な根拠をしめすことができるもの、残余リスクRestrisikoは人間の認識能力では想定できないもの、である。ちなみに、原子力損害賠償法においては、「異常に巨大な天変地異又は社会的動乱によって生じたもの」が残余リスクにあたる。よって、同じ言葉を使ってはいるが、Luhmannによるものと法学でのものは異なるものである。また、先述のKnightと法学の分野によるものでは、不確実性に関して逆である。
まず、リスクとは何かを考えていこうかと思う。その際、小松(2003)の整理が大きな助けになると思われる。彼によれば、一般的にリスクは1)損害を生ずる確率、2)個人の生命や健康に対して危害を生ずる発生源の事象、3)損失の大きさと損害が生じる確率との積、に分類することができる。
また、経済学的なリスク研究においてはKnight, F.(1921)の業績が大きいという。Knight, Fはリスクを不確実性Uncertainty と区別できるものと考えており、統計的に測定できるものだとする。また、小松はKnightのこのような考え方の背後には利子と利潤の区別があると指摘する。
このような二区分法によるものの中で一般的だと思われるのは、リスクと安全 Sicherheitの対比である。
これに対し、Luhmann, N.(1991)は、決定Entscheidung と関連付け、リスクRisikoと危険 Gefahr という区別を用いる。そこでは、リスクは、未来の損害の可能性が、自らがおこなった決定の帰結とみなされる。たいして危険は自分以外の誰かや何かによって引き起こされたものである。これに関し、小松は、リスク=「する」論理、危険=「である」論理、であると述べる。そして私がリスクというものを扱うとき、それは主にLuhmannによるこのような区分を主に用いたいと思う。
ちなみに、法学の分野にもリスクと危険を分ける傾向がある。さらに、これに残余リスクを付け加えるのが普通である。この場合、リスクは発生に関して十分な根拠を示すことができないが危険性があるもの、危険は発生に関して十分な根拠をしめすことができるもの、残余リスクRestrisikoは人間の認識能力では想定できないもの、である。ちなみに、原子力損害賠償法においては、「異常に巨大な天変地異又は社会的動乱によって生じたもの」が残余リスクにあたる。よって、同じ言葉を使ってはいるが、Luhmannによるものと法学でのものは異なるものである。また、先述のKnightと法学の分野によるものでは、不確実性に関して逆である。
3.Luhmannのリスク概念
ここでは、先ほど出てきたLuhmannのリスク概念いついてもう少し深めてみようと思う。
小松は、Luhmannのリスク概念の特徴を5つ挙げる。1つめは、リスク/危険の区別は単に能動的/受動的、といった区別ではない、ということである。個人にとって危険であっても、それがコミュニケーションの過程でリスクとして扱われることもあるし、逆も然りである。つまり、これらは”個人の「構え」や「態度」の違い”ではなく、“(社会的な)観察の様式の相違”である。
2つめは、何も決定しないことも1つの決定として考えられるということである。
3つめは、Luhmann自身が、このような区別を他の区別(特に安全とリスクの区別)に比べて優れている、と思っているわけではないということである。区別にはそれぞれ盲点があり、Luhmannがこのような区分を用いるのは、あくまで他の区分では見えなかった視点をみるためのものでしかないのである。
4つめは、特に現代においては、特定のものに損害を帰属させることが不可能なケースが典型的であるがゆえに、このような区分が重大な欠陥を抱えているように感じられるかもしれないが、このような事態こそ、1つの観察対象になるということである。帰属をめぐる争いの激化や、被害の自己定義が余儀なくされるということをかんがえることができるのである。
5つめは、4つめのことに関連して、このような区分が、決定者と受益者が必ずしも同じでなく、誰が被害者なのかということが論争になる今日的な問題を考慮に入れているという点である。
このようなLuhmannのリスク概念が、現代において、リスクを受け入れるということを考える際にいかなる意味を持つのだろうか。それを考える前に、現代というのがどういう時代であるのか簡単に考察して行きたいと思う。
ここでは、先ほど出てきたLuhmannのリスク概念いついてもう少し深めてみようと思う。
小松は、Luhmannのリスク概念の特徴を5つ挙げる。1つめは、リスク/危険の区別は単に能動的/受動的、といった区別ではない、ということである。個人にとって危険であっても、それがコミュニケーションの過程でリスクとして扱われることもあるし、逆も然りである。つまり、これらは”個人の「構え」や「態度」の違い”ではなく、“(社会的な)観察の様式の相違”である。
2つめは、何も決定しないことも1つの決定として考えられるということである。
3つめは、Luhmann自身が、このような区別を他の区別(特に安全とリスクの区別)に比べて優れている、と思っているわけではないということである。区別にはそれぞれ盲点があり、Luhmannがこのような区分を用いるのは、あくまで他の区分では見えなかった視点をみるためのものでしかないのである。
4つめは、特に現代においては、特定のものに損害を帰属させることが不可能なケースが典型的であるがゆえに、このような区分が重大な欠陥を抱えているように感じられるかもしれないが、このような事態こそ、1つの観察対象になるということである。帰属をめぐる争いの激化や、被害の自己定義が余儀なくされるということをかんがえることができるのである。
5つめは、4つめのことに関連して、このような区分が、決定者と受益者が必ずしも同じでなく、誰が被害者なのかということが論争になる今日的な問題を考慮に入れているという点である。
このようなLuhmannのリスク概念が、現代において、リスクを受け入れるということを考える際にいかなる意味を持つのだろうか。それを考える前に、現代というのがどういう時代であるのか簡単に考察して行きたいと思う。
4.現代という時代
現代を見る時に、まずはリスクということに関して時代分析を行ったBeck(1998)の成果をみていきたいとおもう。そして、これに関して、小松(2003)と丸山(2001)の整理が簡潔であるので参考にした。
Beckによれば、まず社会は前近代の伝統的な社会から近代産業社会へ「単純な近代化」を遂げる。そして、その次にやってくるのが再帰的(自己内省的)近代であり、これがまさにリスク社会である。
それでは、リスク社会とはどのような社会であろうか。小松はBeckの時代診断を11のポイントにまとめている。
1) 補償がほとんど不可能な損害が現出する
2) ダイオキシンなど、日常では直接に知覚することのできないリスクが表れる
3) 知覚できないので、リスクであるかの定義は科学的知見に大きく依存せざるをえなくなる
4) 不可避的に、半ば「宿命的に」関わってしまわざるをえないリスクが表れる
5) 人間が自ら作り出したリスクに被害者としてさらされてしまう、「ブーメラン効果」
6) リスクが国の枠を飛び越え、グローバル化し、「世界リスク社会」が到来する
7) 世界は「等しくリスクにさらされる」ことになるが、新しい国際間の不平等が生じる
8) リスク分配の問題は、富の分配の論理からは自立することになる
9) リスク管理の私事化が進行する
10) 政治と非政治の概念の境界が曖昧になる
11) 科学も「真理」を独占することができなくなる
1つ気をつけておきたいのが、Beckにおけるリスクの定義の曖昧さである。先ほど、リスク/危険の区別と、リスク/安全の区別を取り上げた。原著にはリスクと危険、どちらの語も登場し一見、前者の定義を取り入れているように思われるが、しかし、『危険社会』の訳者である伊藤が指摘するように、これらを使い分けているとはあまり思えない。よって、基本的には後者によるリスクの定義とみていいと思う。
先述のLuhmannによるリスク概念を取り入れつつ、Beckの分析を特に9)に注目して解釈してみると、現代とはリスクが顕在化した社会、だということができるとおもう。つまり、損害というものが、個人の選択に大きく依存する社会、である。これに関して、Beckは「人生を営むということは、このような条件化では、システムの矛盾を個々人の人生において解決していく営みとなる」と述べている。これは、個人化というものが、リスクを選択する、という段階においてのみならず、結果を評価する、という段階においても進んでいることを示唆していると思う。Luhmann(1991)は、現代を現在的未来(gegenwaertige Zukunft)と未来的現在(zukuenftige Gegenwart)との差異が拡大する社会だという。小松が言うように、リスク社会以前は、”因果法則や進歩(時間次元)への信頼について人々の間である程度のコンセンサス(社会的次元)が見込まれていたので”現在的未来と未来的現在の差が深刻な形で顕在化することは少なかった。小松は以下のような例を示す。
“企業城下町のように地域住民と企業とが密接な結びつきを持つところでは、煙を出す煙突が「進歩」の象徴とされ、その大気汚染の被害を被る地域はいわば運命共同体となり、こうした汚染を避けられない運命として甘受せざるをえなくなる”
そしてこれは、水俣で起こったこととももちろん深く関わってくる。チッソに対して立ち上がったという、システムの矛盾に立ち向かった住民がいる一方、チッソの操業を止めないよう陳情した住民もいた。近代産業社会とリスク社会、この側面をどちらも色濃く表しているのが水俣での出来事であると思う。
ある損害に対して、それを甘受せざるをえないかどうかはコンセンサスがあるかないかに深く関係しているが、そのコンセンサスの存在に、大きな影響を与えてきたのが宗教である。宗教は受け入れがたい現実に対し、それに、もしくはそれに向かう個人の生に対して意味づけを与えてきた。しかし、Weber(1936)が“それは欲しさえすれば、どんなことでもつねに学び知ることができるということ、したがってそこになにか神秘的な、予測しえない力がはたらいている道理がないということ、むしろすべての事柄は原則上予測によって意のままになるということ、-このことを知っている、あるいは信じているというのが、主知化しまた合理化しているということの意味なのである。ところで、このことは魔法からの世界解放Entzauberung der Weltということにほかならない”と資本主義を分析する際に言ったように、宗教はもはやすべての人を救えるものではない。これは宗教に限ったことではなく、自然や伝統など、私たちが損害を甘受する際に、その責任を負ってくれていた絶対的なものが現代には存在しない。これは起こった損害を引き受けるときだけでなく、未来のリスクを受け入れるということにも当てはまることである。
このように、リスクや損害を引き受ける際に、責任を免除してくれたり、背中を押してくれたりするものを大澤(2011)は「第三者の審級」とよぶ。彼によれば、社会主義において指導する立場の人、サブプライムローンのリスクを引き受ける役割を担った証券会社や科学もこれに当てはまる。もちろん、これらはもはや「第三者の審級」と呼べる存在ではない。そういう意味で彼は、現代を「第三者の審級」の撤退した時代だといい、自己責任という言葉ですべてが片付けられ、誰かに頼ることができない、誰かに助けを求めることができない時代だともいう。
以上をまとめると、次のように言うことができる。「第三者の審級」を失った現代においては、選択を誰かに委ねることができないし、責任を誰かに請け負ってもらうこともできない。つまり、すべてのものごとは自分で選択するほかなく(選択しないという選択も含めて)、リスクというものを負わされる。自分のリスクは自分のものでしかなく、それは目を背けたくなるものであるかもしれない。それでも、リスクの語源がイタリア語のrisicare=「勇気をもって試みる」であるように、私たちはそれらから逃げずに、希望を持って立ち向かわなければいけない。冒頭で私は「リスクを受け入れる」ことについて考えたいと述べたが、実はそれは正しくない。リスクというものは私たちの選択のうちにすでに含まれており、受け入れていないように見えるのは、見ようとしていないだけなのである。そういう意味では、現代において危険は存在しないといってもいいかもしれない。どんな選択をしても、リスクというものは常にある。このような理解に立てば、一見Beckがリスク概念を曖昧にしているように見えることも理解できるのではないかと思う。
よって、問題関心はどうすればリスクと向き合うことができるだろうか、ということになってくる。
現代を見る時に、まずはリスクということに関して時代分析を行ったBeck(1998)の成果をみていきたいとおもう。そして、これに関して、小松(2003)と丸山(2001)の整理が簡潔であるので参考にした。
Beckによれば、まず社会は前近代の伝統的な社会から近代産業社会へ「単純な近代化」を遂げる。そして、その次にやってくるのが再帰的(自己内省的)近代であり、これがまさにリスク社会である。
それでは、リスク社会とはどのような社会であろうか。小松はBeckの時代診断を11のポイントにまとめている。
1) 補償がほとんど不可能な損害が現出する
2) ダイオキシンなど、日常では直接に知覚することのできないリスクが表れる
3) 知覚できないので、リスクであるかの定義は科学的知見に大きく依存せざるをえなくなる
4) 不可避的に、半ば「宿命的に」関わってしまわざるをえないリスクが表れる
5) 人間が自ら作り出したリスクに被害者としてさらされてしまう、「ブーメラン効果」
6) リスクが国の枠を飛び越え、グローバル化し、「世界リスク社会」が到来する
7) 世界は「等しくリスクにさらされる」ことになるが、新しい国際間の不平等が生じる
8) リスク分配の問題は、富の分配の論理からは自立することになる
9) リスク管理の私事化が進行する
10) 政治と非政治の概念の境界が曖昧になる
11) 科学も「真理」を独占することができなくなる
1つ気をつけておきたいのが、Beckにおけるリスクの定義の曖昧さである。先ほど、リスク/危険の区別と、リスク/安全の区別を取り上げた。原著にはリスクと危険、どちらの語も登場し一見、前者の定義を取り入れているように思われるが、しかし、『危険社会』の訳者である伊藤が指摘するように、これらを使い分けているとはあまり思えない。よって、基本的には後者によるリスクの定義とみていいと思う。
先述のLuhmannによるリスク概念を取り入れつつ、Beckの分析を特に9)に注目して解釈してみると、現代とはリスクが顕在化した社会、だということができるとおもう。つまり、損害というものが、個人の選択に大きく依存する社会、である。これに関して、Beckは「人生を営むということは、このような条件化では、システムの矛盾を個々人の人生において解決していく営みとなる」と述べている。これは、個人化というものが、リスクを選択する、という段階においてのみならず、結果を評価する、という段階においても進んでいることを示唆していると思う。Luhmann(1991)は、現代を現在的未来(gegenwaertige Zukunft)と未来的現在(zukuenftige Gegenwart)との差異が拡大する社会だという。小松が言うように、リスク社会以前は、”因果法則や進歩(時間次元)への信頼について人々の間である程度のコンセンサス(社会的次元)が見込まれていたので”現在的未来と未来的現在の差が深刻な形で顕在化することは少なかった。小松は以下のような例を示す。
“企業城下町のように地域住民と企業とが密接な結びつきを持つところでは、煙を出す煙突が「進歩」の象徴とされ、その大気汚染の被害を被る地域はいわば運命共同体となり、こうした汚染を避けられない運命として甘受せざるをえなくなる”
そしてこれは、水俣で起こったこととももちろん深く関わってくる。チッソに対して立ち上がったという、システムの矛盾に立ち向かった住民がいる一方、チッソの操業を止めないよう陳情した住民もいた。近代産業社会とリスク社会、この側面をどちらも色濃く表しているのが水俣での出来事であると思う。
ある損害に対して、それを甘受せざるをえないかどうかはコンセンサスがあるかないかに深く関係しているが、そのコンセンサスの存在に、大きな影響を与えてきたのが宗教である。宗教は受け入れがたい現実に対し、それに、もしくはそれに向かう個人の生に対して意味づけを与えてきた。しかし、Weber(1936)が“それは欲しさえすれば、どんなことでもつねに学び知ることができるということ、したがってそこになにか神秘的な、予測しえない力がはたらいている道理がないということ、むしろすべての事柄は原則上予測によって意のままになるということ、-このことを知っている、あるいは信じているというのが、主知化しまた合理化しているということの意味なのである。ところで、このことは魔法からの世界解放Entzauberung der Weltということにほかならない”と資本主義を分析する際に言ったように、宗教はもはやすべての人を救えるものではない。これは宗教に限ったことではなく、自然や伝統など、私たちが損害を甘受する際に、その責任を負ってくれていた絶対的なものが現代には存在しない。これは起こった損害を引き受けるときだけでなく、未来のリスクを受け入れるということにも当てはまることである。
このように、リスクや損害を引き受ける際に、責任を免除してくれたり、背中を押してくれたりするものを大澤(2011)は「第三者の審級」とよぶ。彼によれば、社会主義において指導する立場の人、サブプライムローンのリスクを引き受ける役割を担った証券会社や科学もこれに当てはまる。もちろん、これらはもはや「第三者の審級」と呼べる存在ではない。そういう意味で彼は、現代を「第三者の審級」の撤退した時代だといい、自己責任という言葉ですべてが片付けられ、誰かに頼ることができない、誰かに助けを求めることができない時代だともいう。
以上をまとめると、次のように言うことができる。「第三者の審級」を失った現代においては、選択を誰かに委ねることができないし、責任を誰かに請け負ってもらうこともできない。つまり、すべてのものごとは自分で選択するほかなく(選択しないという選択も含めて)、リスクというものを負わされる。自分のリスクは自分のものでしかなく、それは目を背けたくなるものであるかもしれない。それでも、リスクの語源がイタリア語のrisicare=「勇気をもって試みる」であるように、私たちはそれらから逃げずに、希望を持って立ち向かわなければいけない。冒頭で私は「リスクを受け入れる」ことについて考えたいと述べたが、実はそれは正しくない。リスクというものは私たちの選択のうちにすでに含まれており、受け入れていないように見えるのは、見ようとしていないだけなのである。そういう意味では、現代において危険は存在しないといってもいいかもしれない。どんな選択をしても、リスクというものは常にある。このような理解に立てば、一見Beckがリスク概念を曖昧にしているように見えることも理解できるのではないかと思う。
よって、問題関心はどうすればリスクと向き合うことができるだろうか、ということになってくる。
5再魔術化について
リスクと向き合うことを考えていきたいといったが、その前に1つ触れておかなければいけないことがある。それは、「第三者の審級」を復活させることについてである。そして、それを考える上で重要になる1つのキーワードが「再魔術化reenchantment」である。一般的にこれはウェーバーの「脱魔術化」に抗する概念として捉えられている。渡邊によれば、近年、再魔術化という言葉を使って現代社会を分析しようとする作業がいくつか発表されてきており、その代表的論者はパートリッジ、バーマン、リッツァ、マフェゾリ、山之内靖などである。しかし、消費構造や若者文化など、彼らの関心にはまとまりがなく、Weberに倣って魔術化という言葉を使っているのではなく、陶酔感といった意味合いで使っている人も多くいる。また、吉田(2004)はウェーバーのいう「魔術」そのものが曖昧なものであることを指摘しているし、山之内(1998)はそもそも脱魔術化論が非合理的な要素を含んでいると言っているので、彼らの再魔術化が何を指すか、私の関心とどう重なってくるのか、については今後みていきたい。
彼らは社会分析として再魔術化という言葉を挙げているが、再魔術化すべきだという論者もいる。Marquard(1993)は、ヨアヒム・リッターを参考にしつつ、近代を“生活世界の喪失を引きおこ”す時代であり、“一様性が勝利をおさめる”“冷ややかな世界”だといい、歴史や伝統に注目し、近代化は“脱歴史化であり、ほかでもなくこの脱歴史化によってーつまり近代に特有な現象としてーすべての歴史が排除され、一つの唯一な歴史しか後には残らないという危険が増大する”という。そして、そのような近代に対して彼は、“人文科学は物語ることによって、近代化による損失を補償”するといい、物語ることの必要性を唱える。つまり、個人が生きがいを見出すために、人文科学は多義性のある歴史の解釈を与える役割を果たすべきだというのである。中岡(2003)はMarquardついて“ウェーバーが指摘した近代における「脱呪術化」に抗して、むしろ「再呪術化」を図って生活世界に聖性を取り戻すべきだと論じている”と言う。確かに、Marquardは歴史や伝統について、例として宗教的なものをたびたび使用している。しかし、宗教的なものだけではいけないとは言っておらず、また、多義性を重視する姿勢は魔術化とはむしろ相反するようなものであるように感じられるし、ここにも再魔術化論の曖昧さが表れているといえる。とはいえ、人文科学を用いて、各々に物語を紡がせるという思想からは学べることも多くあるはずであり、これについては後に論じたい。
リスクと向き合うことを考えていきたいといったが、その前に1つ触れておかなければいけないことがある。それは、「第三者の審級」を復活させることについてである。そして、それを考える上で重要になる1つのキーワードが「再魔術化reenchantment」である。一般的にこれはウェーバーの「脱魔術化」に抗する概念として捉えられている。渡邊によれば、近年、再魔術化という言葉を使って現代社会を分析しようとする作業がいくつか発表されてきており、その代表的論者はパートリッジ、バーマン、リッツァ、マフェゾリ、山之内靖などである。しかし、消費構造や若者文化など、彼らの関心にはまとまりがなく、Weberに倣って魔術化という言葉を使っているのではなく、陶酔感といった意味合いで使っている人も多くいる。また、吉田(2004)はウェーバーのいう「魔術」そのものが曖昧なものであることを指摘しているし、山之内(1998)はそもそも脱魔術化論が非合理的な要素を含んでいると言っているので、彼らの再魔術化が何を指すか、私の関心とどう重なってくるのか、については今後みていきたい。
彼らは社会分析として再魔術化という言葉を挙げているが、再魔術化すべきだという論者もいる。Marquard(1993)は、ヨアヒム・リッターを参考にしつつ、近代を“生活世界の喪失を引きおこ”す時代であり、“一様性が勝利をおさめる”“冷ややかな世界”だといい、歴史や伝統に注目し、近代化は“脱歴史化であり、ほかでもなくこの脱歴史化によってーつまり近代に特有な現象としてーすべての歴史が排除され、一つの唯一な歴史しか後には残らないという危険が増大する”という。そして、そのような近代に対して彼は、“人文科学は物語ることによって、近代化による損失を補償”するといい、物語ることの必要性を唱える。つまり、個人が生きがいを見出すために、人文科学は多義性のある歴史の解釈を与える役割を果たすべきだというのである。中岡(2003)はMarquardついて“ウェーバーが指摘した近代における「脱呪術化」に抗して、むしろ「再呪術化」を図って生活世界に聖性を取り戻すべきだと論じている”と言う。確かに、Marquardは歴史や伝統について、例として宗教的なものをたびたび使用している。しかし、宗教的なものだけではいけないとは言っておらず、また、多義性を重視する姿勢は魔術化とはむしろ相反するようなものであるように感じられるし、ここにも再魔術化論の曖昧さが表れているといえる。とはいえ、人文科学を用いて、各々に物語を紡がせるという思想からは学べることも多くあるはずであり、これについては後に論じたい。
6リスクと向き合うこと
「第三者の審級」の復活についてみたが、例え再魔術化が進んでいたり、もしくは推進すべきだとしても、そこからこぼれ落ちる人は確実にでてくる。そもそも、それが現代だという視点で論を進めていたのだから、そちらに話を戻したいと思う。
リスクと向き合うということについて考えるとき、私が注目したいのがHeideggerである。彼は死を“現存在の最も固有な、没交渉的な確実な、しかもそのようなものとして無規定的な、追い越しえない可能性”であるといい、それは“現存在の終わりとしておのれの終わりへとかかわるこの存在者の存在の内で存在している”という。これは、先ほどみてきたリスクの理解と似ている。これに対し、村上(2005)が“人生の最後に訪れる死は、必然ですから、リスクとは言えない”というように、単にHeideggerの使う死をリスクと置き換えて解釈することには無理があるかもしれない。しかし、先ほどみたように、あるリスクは必然ではないかもしれないが、リスクそのものは必然であるし、これが極論だとしても、自分のうちにすでにあるリスクという視点と死のそういう側面を照らし合わせるだけでも、有意義なことではないのかと思う。
Heideggerによれば、日常において、現存在Daseinは死から目を背け、非本来的なあり方、世人 Das Manであるという。これをHeideggerは頽落Verfallenとよぶ。しかし、“死は、そのつど現存在自身が引き受けなければならない一つの存在可能性なのである。死とともに現存在自身は、おのれの最も固有な存在しうることにおいて、おのれに切迫している”。そして、本来的な生のあり方を取り戻すのは、“おのれの死を不断に確実であるとさとりつつ、いいかえれば、先駆しつつ、決意性はおのれの本来的で全体的な確実性を獲得する”。Heideggerが言っていることは、Maruquardのいうこととも深く関わってくる。両者とも共通するのは、今必要なものは個人が自分の生に意味を与え、物語をかたちづくることであるということなのではないだろうか。内田(2004)がいうように、“「私」はいわば「私という物語」の読者である”。また、これについては、山之内(2009)が、後期Heideggerが「受苦的存在者」という言葉に注目していた、と指摘していることも興味深いので、検討していきたい。
「第三者の審級」の復活についてみたが、例え再魔術化が進んでいたり、もしくは推進すべきだとしても、そこからこぼれ落ちる人は確実にでてくる。そもそも、それが現代だという視点で論を進めていたのだから、そちらに話を戻したいと思う。
リスクと向き合うということについて考えるとき、私が注目したいのがHeideggerである。彼は死を“現存在の最も固有な、没交渉的な確実な、しかもそのようなものとして無規定的な、追い越しえない可能性”であるといい、それは“現存在の終わりとしておのれの終わりへとかかわるこの存在者の存在の内で存在している”という。これは、先ほどみてきたリスクの理解と似ている。これに対し、村上(2005)が“人生の最後に訪れる死は、必然ですから、リスクとは言えない”というように、単にHeideggerの使う死をリスクと置き換えて解釈することには無理があるかもしれない。しかし、先ほどみたように、あるリスクは必然ではないかもしれないが、リスクそのものは必然であるし、これが極論だとしても、自分のうちにすでにあるリスクという視点と死のそういう側面を照らし合わせるだけでも、有意義なことではないのかと思う。
Heideggerによれば、日常において、現存在Daseinは死から目を背け、非本来的なあり方、世人 Das Manであるという。これをHeideggerは頽落Verfallenとよぶ。しかし、“死は、そのつど現存在自身が引き受けなければならない一つの存在可能性なのである。死とともに現存在自身は、おのれの最も固有な存在しうることにおいて、おのれに切迫している”。そして、本来的な生のあり方を取り戻すのは、“おのれの死を不断に確実であるとさとりつつ、いいかえれば、先駆しつつ、決意性はおのれの本来的で全体的な確実性を獲得する”。Heideggerが言っていることは、Maruquardのいうこととも深く関わってくる。両者とも共通するのは、今必要なものは個人が自分の生に意味を与え、物語をかたちづくることであるということなのではないだろうか。内田(2004)がいうように、“「私」はいわば「私という物語」の読者である”。また、これについては、山之内(2009)が、後期Heideggerが「受苦的存在者」という言葉に注目していた、と指摘していることも興味深いので、検討していきたい。
7終わりに
今回、リスクに立ち向かうということが個人の自立を促すことに深く関わっているということを示せたのではないかと思う。しかし、リスクに向き合うということが結局のところどのようにしたら可能であるのか、など課題も山積である。おそらく、それに大きく関わってくるのが物語ること、である。野家は“「物語」概念がウェーバーのいう「鉄の檻」としての近代資本制社会に対するイデオロギー批判の装置としても機能しうること”をしているといい、それを考える上で柳田國男に注目している。また、金井(2010)石牟礼道子が、水俣病に関しての運動体が生まれるための半状況を作るために、タテマエの組織論ではなく、魂や情念を表現する文体が必要であったと述べていることに注目し、「聞き書き」の可能性を示している。しかし、Heideggerが歴史性や民族性と結びつけて自らの物語を描き、ナチスに加担したこととからも分かるように、物語ることには危険な一面もある。また、Heideggerに関連していえば、他者の不在がたびたび指摘される。それは、リスクに立ち向かうことに関しても、大きく関わってくる問題である。
今回、リスクに立ち向かうということが個人の自立を促すことに深く関わっているということを示せたのではないかと思う。しかし、リスクに向き合うということが結局のところどのようにしたら可能であるのか、など課題も山積である。おそらく、それに大きく関わってくるのが物語ること、である。野家は“「物語」概念がウェーバーのいう「鉄の檻」としての近代資本制社会に対するイデオロギー批判の装置としても機能しうること”をしているといい、それを考える上で柳田國男に注目している。また、金井(2010)石牟礼道子が、水俣病に関しての運動体が生まれるための半状況を作るために、タテマエの組織論ではなく、魂や情念を表現する文体が必要であったと述べていることに注目し、「聞き書き」の可能性を示している。しかし、Heideggerが歴史性や民族性と結びつけて自らの物語を描き、ナチスに加担したこととからも分かるように、物語ることには危険な一面もある。また、Heideggerに関連していえば、他者の不在がたびたび指摘される。それは、リスクに立ち向かうことに関しても、大きく関わってくる問題である。
参考文献
小松丈晃『リスク論のルーマン』2003、勁草書房
Knight, F. “Risk, Uncertainty, and Profit” 1921, Houghton Mifflin (=『危険、不確実性及び利潤』文雅堂銀行研究者)
Luhmann, N. “Soziologie des Risikos”1991, Walter de Gruyter
Luhmann, N. “Die Gesellschaft der Gesellschaft” 1997, Suhrkamp
Beck, U、東廉・伊藤美登里 訳『危険社会―新しい近代への道』(原題:Risikogesellschaft: Auf dem Weg in eine andere Moderne)1998、法政大学出版局
丸山正次「リスク社会における不安と信頼―U.ベック、ギデンズの視点を中心にして」『山梨学院大学 法学論集』47,47-78, 2001
Weber, M.、尾高邦雄 訳『職業としての学問』1936、岩波書店(原題:Wissenschaft als Beruf)
大澤真幸『社会は絶えず夢を見ている』2011、朝日出版社
渡邊拓哉「現代文化における陶酔―再魔術化論からのアプローチー」名古屋大学国際言語文化研究科国際多元文化専攻『多元文化』vol.9、2009
吉田浩「魔術からの解放の再魔術化―ウェーバー合理化論の批判的検討―」『徳島大学社会科学研究』vol.17、2004
山之内靖『マックス・ヴェーバー入門』1998、岩波書店
山之内靖「再魔術化時代の資本と技術-「マルクスとウエーバー」からハイデガーへ」神戸大学大学院人文学研究科 倫理創成プロジェクト『倫理創成講座ニューズレター』vol.4、2009
吉田傑俊・尾関周二・渡辺憲正『ハーバマスを読む』1995、大月書店
中岡成文『ハーバーマス』2003、講談社
Marquard, O. 中尾健二 訳「人文科学の不可避性について」 (原題:Ueber die Unvermedlichkeit der Geisteswissenschaften)『静岡大学教養部研究報告 人文・社会科学篇』29(1)
Heidegger, M.、原佑・渡邊二郎 訳『存在と時間』Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ、2003、中央公論新社(=”Sein und Zeit”2006、Max Niemeyer Verlag Tuebingen)
村上陽一郎『安全と安心の科学』2005、集英社
河野勝彦『死と唯物論』2002、青木書店
黒宮一太「死者への気づき」東浩紀・北田暁大 編『思想地図 vol.1 特集・日本』2008,日本放送出版協会
木田元『ハイデガー『存在と時間』の構築』2000、岩波書店
内田樹『他者と死者』2004、海鳥社
金井景子「「償い」を問う」『学術研究 : 国語・国文学編』2010、早稲田大学教育学会
小松丈晃『リスク論のルーマン』2003、勁草書房
Knight, F. “Risk, Uncertainty, and Profit” 1921, Houghton Mifflin (=『危険、不確実性及び利潤』文雅堂銀行研究者)
Luhmann, N. “Soziologie des Risikos”1991, Walter de Gruyter
Luhmann, N. “Die Gesellschaft der Gesellschaft” 1997, Suhrkamp
Beck, U、東廉・伊藤美登里 訳『危険社会―新しい近代への道』(原題:Risikogesellschaft: Auf dem Weg in eine andere Moderne)1998、法政大学出版局
丸山正次「リスク社会における不安と信頼―U.ベック、ギデンズの視点を中心にして」『山梨学院大学 法学論集』47,47-78, 2001
Weber, M.、尾高邦雄 訳『職業としての学問』1936、岩波書店(原題:Wissenschaft als Beruf)
大澤真幸『社会は絶えず夢を見ている』2011、朝日出版社
渡邊拓哉「現代文化における陶酔―再魔術化論からのアプローチー」名古屋大学国際言語文化研究科国際多元文化専攻『多元文化』vol.9、2009
吉田浩「魔術からの解放の再魔術化―ウェーバー合理化論の批判的検討―」『徳島大学社会科学研究』vol.17、2004
山之内靖『マックス・ヴェーバー入門』1998、岩波書店
山之内靖「再魔術化時代の資本と技術-「マルクスとウエーバー」からハイデガーへ」神戸大学大学院人文学研究科 倫理創成プロジェクト『倫理創成講座ニューズレター』vol.4、2009
吉田傑俊・尾関周二・渡辺憲正『ハーバマスを読む』1995、大月書店
中岡成文『ハーバーマス』2003、講談社
Marquard, O. 中尾健二 訳「人文科学の不可避性について」 (原題:Ueber die Unvermedlichkeit der Geisteswissenschaften)『静岡大学教養部研究報告 人文・社会科学篇』29(1)
Heidegger, M.、原佑・渡邊二郎 訳『存在と時間』Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ、2003、中央公論新社(=”Sein und Zeit”2006、Max Niemeyer Verlag Tuebingen)
村上陽一郎『安全と安心の科学』2005、集英社
河野勝彦『死と唯物論』2002、青木書店
黒宮一太「死者への気づき」東浩紀・北田暁大 編『思想地図 vol.1 特集・日本』2008,日本放送出版協会
木田元『ハイデガー『存在と時間』の構築』2000、岩波書店
内田樹『他者と死者』2004、海鳥社
金井景子「「償い」を問う」『学術研究 : 国語・国文学編』2010、早稲田大学教育学会