環境保護運動と自然保護運動は19世紀にまで遡る。自然保護運動が始まったときすでに、道徳的-倫理的な基礎づけという戦略が明確にうたわれている(Ott, 1999)。たしかに絶対的な「生命に対する崇敬」(Schweitzer,1923)の倫理学もまた、「環境保護運動の先駆者」というカテゴリーに単純に包摂することのできない、生命中心主義の倫理学な構想である。何人かの著作家は、ハイデガーの後期著作の中に、自然中心主義倫理学の基礎があると考えている(Foltz, 1997)。ハイデガーの後期著作に「エコロジー的な暗示性」があることは(jacob,1996)、少なくとも疑うことはできない。
『存在と時間』(1927年)の後、『形而上学とは何か』(1929年)や『真理の本質』(1930年)が出版され、ハイデガー(1889-1976)の「転回」がはじまる。この「転回」以後のハイデガーの著作が後期著作と呼ばれるのであるが、しかしその「存在」思想が、異様に難解で謎めいている点については、多くの論者の一致するところである。
『存在と時間』(1927年)の後、『形而上学とは何か』(1929年)や『真理の本質』(1930年)が出版され、ハイデガー(1889-1976)の「転回」がはじまる。この「転回」以後のハイデガーの著作が後期著作と呼ばれるのであるが、しかしその「存在」思想が、異様に難解で謎めいている点については、多くの論者の一致するところである。
■要点
『存在と時間』では、現存在(=実存する人間)の本質が「存在」の本質の根拠として語られていた。つまり、事物、ものごとの「存在」は、人間存在のあり方に相関してその意味と価値を生成する、と考えられていた(和辻哲郎の風土論にも影響を与えた道具的連関は、この図式に沿っている)。ここでは、「存在」という概念が、客観論的なそれから実存論的なそれへと編み変えられている。
しかし「転回」以後はこのニュアンスが逆になる。むしろ「存在」それ自体が現存在の本質を規定するとされる。それでは、「存在」とは何なのか? それをハイデガーは明示しない。詩的な暗示にとどめる。
むしろ後期ハイデガーで顕著なのは、近代ヨーロッパ思想への批判といえる。
ヨーロッパ思想は古代ギリシア以来「自然」をその本然性において捉えず、人間の一方的な利用可能性の観点からのみ捉えてきた。このことが、近代ヨーロッパの人間中心主義的な合理主義、技術主義、物心二元論を生み出したのである。その発端は、プラトンが「イデア」という概念によって、世界を「感覚的なもの」と「超感覚的なもの」に二分割したことに由来する。近代哲学のデカルトやカントも同罪で、悪しき近代合理主義や近代二元論も、精神原理と物質原理をまったく異質なものとして分け隔てた彼らの哲学の必然的な結果である。
後期ハイデガーのこのようなメッセージ性は、第一次世界大戦や植民地の悲惨に直面して近代西欧文明への疑問を抱きつつあった当時の若き知識人たちに、その難解かつ神秘的な文体と相まって非常に大きな影響を与えることとなる。
『存在と時間』では、現存在(=実存する人間)の本質が「存在」の本質の根拠として語られていた。つまり、事物、ものごとの「存在」は、人間存在のあり方に相関してその意味と価値を生成する、と考えられていた(和辻哲郎の風土論にも影響を与えた道具的連関は、この図式に沿っている)。ここでは、「存在」という概念が、客観論的なそれから実存論的なそれへと編み変えられている。
しかし「転回」以後はこのニュアンスが逆になる。むしろ「存在」それ自体が現存在の本質を規定するとされる。それでは、「存在」とは何なのか? それをハイデガーは明示しない。詩的な暗示にとどめる。
むしろ後期ハイデガーで顕著なのは、近代ヨーロッパ思想への批判といえる。
ヨーロッパ思想は古代ギリシア以来「自然」をその本然性において捉えず、人間の一方的な利用可能性の観点からのみ捉えてきた。このことが、近代ヨーロッパの人間中心主義的な合理主義、技術主義、物心二元論を生み出したのである。その発端は、プラトンが「イデア」という概念によって、世界を「感覚的なもの」と「超感覚的なもの」に二分割したことに由来する。近代哲学のデカルトやカントも同罪で、悪しき近代合理主義や近代二元論も、精神原理と物質原理をまったく異質なものとして分け隔てた彼らの哲学の必然的な結果である。
後期ハイデガーのこのようなメッセージ性は、第一次世界大戦や植民地の悲惨に直面して近代西欧文明への疑問を抱きつつあった当時の若き知識人たちに、その難解かつ神秘的な文体と相まって非常に大きな影響を与えることとなる。
- ベアード・キャリコット『地球の洞察 多文化時代の環境哲学』
- 『環境倫理学のすすめ』
- アルネ・ネス『ディープエコロジーとは何か』文化書房博文社
以上の著作には、ハイデガーに言及した部分はない。