『〈私〉の構造と「共通感覚」』
1.「私」とは何かという問い
「私」とは一体何か。私たちが普通に生活している限りでは何も疑問に思うことがないこの「私」ということの意味は、一度その自明さから一歩下がって考えてみたとき、その答えを見いだすことが非常に困難である。
この問いに対しては色々な答え方がある。まず、「私」はこういう名前で、年齢はいくつ、このような社会的な立場にある人間である、という答えがあるだろう。しかし、社会的な立場も年齢も常に変わるものであり、立場が変わっても歳をとっても、「私」が「私」であるということは変わらないから、それらは「私」とは何かということとは関係がない。名前は「私」そのものを表しているように思えるが、名前というのは記号であって「私」ということとは関係なく決められたものに過ぎない。それは「私」の性質や性格、身体的な特徴によって「私」とはこういう存在であると答えても同様である。周知のように身体というのは生きている限り代謝によって日々その構成物質も形も変化するものであるし、怪我で手足を失うこともあるだろう。顔にしても整形手術をして別人のようになるかもしれない。性格も様々な経験を重ねることで変わっていくことがある。しかし「私」が「私」であるということは、そのような変化によっても普通変わることはない。名前や社会的立場、性格、身体的特徴というものは「私」が性質として持っているものであって、「私」が「私」であるということはそのような性質以前の問題であるだろう。
つまり最初の問いをもっと正確に言えば、「なぜ『私』は『私』であるのか」「なぜ『私』は『他者』ではなくて『私』なのか」ということになる。この「私」が「私」であるというのは全く自明のことのように思えるが、実はこのことは私たちに初めから与えられているのではない。例えば、生まれたばかりの赤ん坊は自他の区別がないと考えられている。また統合失調症の患者においてはこの自明なことが自明ではなくなっていて、「自己が自己でありうるかどうか」ということが問題になっているために、常に「自己が非自己へと他有化されうるという危険な可能性」にさらされているのである(木村2006、p207)。
この問いに対しては色々な答え方がある。まず、「私」はこういう名前で、年齢はいくつ、このような社会的な立場にある人間である、という答えがあるだろう。しかし、社会的な立場も年齢も常に変わるものであり、立場が変わっても歳をとっても、「私」が「私」であるということは変わらないから、それらは「私」とは何かということとは関係がない。名前は「私」そのものを表しているように思えるが、名前というのは記号であって「私」ということとは関係なく決められたものに過ぎない。それは「私」の性質や性格、身体的な特徴によって「私」とはこういう存在であると答えても同様である。周知のように身体というのは生きている限り代謝によって日々その構成物質も形も変化するものであるし、怪我で手足を失うこともあるだろう。顔にしても整形手術をして別人のようになるかもしれない。性格も様々な経験を重ねることで変わっていくことがある。しかし「私」が「私」であるということは、そのような変化によっても普通変わることはない。名前や社会的立場、性格、身体的特徴というものは「私」が性質として持っているものであって、「私」が「私」であるということはそのような性質以前の問題であるだろう。
つまり最初の問いをもっと正確に言えば、「なぜ『私』は『私』であるのか」「なぜ『私』は『他者』ではなくて『私』なのか」ということになる。この「私」が「私」であるというのは全く自明のことのように思えるが、実はこのことは私たちに初めから与えられているのではない。例えば、生まれたばかりの赤ん坊は自他の区別がないと考えられている。また統合失調症の患者においてはこの自明なことが自明ではなくなっていて、「自己が自己でありうるかどうか」ということが問題になっているために、常に「自己が非自己へと他有化されうるという危険な可能性」にさらされているのである(木村2006、p207)。
2.「差異化」のはたらき
なぜ「私」は「他者」ではなくて「私」なのか。この問いを考えるとき、この「私」と「他者」それぞれがはじめからそれぞれで自立した存在であると捉えてしまうと、その答えは先にみたように「持っているもの」の問題としてしか考えられなくなってしまい、統合失調症患者において起こっていることも単なる「狂気」として排斥する他なくなってしまう。「私」と「他者」は少なくともその源においては分離したものではないと考えなければならない。
「私」と「他者」という対概念は、一見「大―小」「多―少」「長―短」のような反対語であるように思えるが、実はそうではない。「A―B」という反対語では「A=非B」かつ「B=非A」という関係が成り立ち、二つの関係は双方が双方に対してちがっているという関係であり二つはその“ちがい”という点では対等である。「大きくないもの」は「小さいもの」であり、かつ「小さくないもの」は大きいものである、というように。
しかし「私」と「他者」の場合には果たして「私ではないもの」は「他者」でありかつ「他者ではないもの」は「私」であるということができるだろうか。木村(2006)が明らかにしたように、「私」がなぜ「私」であるかということを問題にする限り、これらのことがはじめから成立していると考えることはできない。そうではなくて、「私」と「他者」がまだ一体であるような自他不分の状態から、「私」が「私」であろうとする力、“生への欲求”とでも言うべきものが働いて、「私ではないもの」として「他者」を「私」から分離するのであると考えなくてはならない。この場合の「他者」というのは現実の人間というだけではなく表象としての「他者」や「自然」も含む。「私」と「他者」の区別のない世界から「私ではないもの」として「他者」を分離することで「私」が「私」として成立する。反対語の例で考えると、「私」と「他者」の場合ではそれぞれがそれぞれのものとしてちがいを持っているのではなく、「私」以前の“力”が一方的にちがいを作り出しているという関係にある。二つの間の差異は「他者」ではなく「私」の側にあり、常に「私」の側で差異が生み出される。自覚された意識としての「私」も「他者」とともにこのとき分離され、また「他者」によって限定される。反対語の双方のちがいもこのような「私」がそれらを“ちがい”として理解することでちがいとなるのである。以下ではこのような、“自他不分”の状態から「私ではないもの」として「他者」を分離し「私」を「私」として限定するというはたらきを、「差異化」(木村)と呼び、そのプロセスの全体であるような存在を〈私〉、それを基盤とする自覚・対象化された自己という意味で「私」と表記することにしたい。
私が以前の発表(『身体としての人間の“健康”と自然』)で紹介した「ウェルビカミング」概念の中核である「自己回復の循環生成」における“自己”というのは、この「差異化」のはたらきを担う“「私」が「私」であろうとする力”“生への欲求”を示していると考えることができるのではないか。
「私」と「他者」という対概念は、一見「大―小」「多―少」「長―短」のような反対語であるように思えるが、実はそうではない。「A―B」という反対語では「A=非B」かつ「B=非A」という関係が成り立ち、二つの関係は双方が双方に対してちがっているという関係であり二つはその“ちがい”という点では対等である。「大きくないもの」は「小さいもの」であり、かつ「小さくないもの」は大きいものである、というように。
しかし「私」と「他者」の場合には果たして「私ではないもの」は「他者」でありかつ「他者ではないもの」は「私」であるということができるだろうか。木村(2006)が明らかにしたように、「私」がなぜ「私」であるかということを問題にする限り、これらのことがはじめから成立していると考えることはできない。そうではなくて、「私」と「他者」がまだ一体であるような自他不分の状態から、「私」が「私」であろうとする力、“生への欲求”とでも言うべきものが働いて、「私ではないもの」として「他者」を「私」から分離するのであると考えなくてはならない。この場合の「他者」というのは現実の人間というだけではなく表象としての「他者」や「自然」も含む。「私」と「他者」の区別のない世界から「私ではないもの」として「他者」を分離することで「私」が「私」として成立する。反対語の例で考えると、「私」と「他者」の場合ではそれぞれがそれぞれのものとしてちがいを持っているのではなく、「私」以前の“力”が一方的にちがいを作り出しているという関係にある。二つの間の差異は「他者」ではなく「私」の側にあり、常に「私」の側で差異が生み出される。自覚された意識としての「私」も「他者」とともにこのとき分離され、また「他者」によって限定される。反対語の双方のちがいもこのような「私」がそれらを“ちがい”として理解することでちがいとなるのである。以下ではこのような、“自他不分”の状態から「私ではないもの」として「他者」を分離し「私」を「私」として限定するというはたらきを、「差異化」(木村)と呼び、そのプロセスの全体であるような存在を〈私〉、それを基盤とする自覚・対象化された自己という意味で「私」と表記することにしたい。
私が以前の発表(『身体としての人間の“健康”と自然』)で紹介した「ウェルビカミング」概念の中核である「自己回復の循環生成」における“自己”というのは、この「差異化」のはたらきを担う“「私」が「私」であろうとする力”“生への欲求”を示していると考えることができるのではないか。
3.「差異化」の根源
人間は生まれて間もない赤ん坊の頃には自他不分の世界に生きており、そこには「母親」と「私」との分離はなく「私」は「母親」や世界と一体のものとしてある。そのような状態から、赤ん坊はまず、食欲の不満から思い通りにならない別の存在として「母親」を、自ら歩き回って見聞き触れることによって「世界」を、さらには父親や兄弟姉妹など多くの「他者」を自覚しながら〈私〉を形成していく。
ところで、「差異化」のはたらきと〈私〉の形成のプロセスでは、“生への欲求”というものを前提としている。赤ん坊はお腹が空いたと泣いて母親を呼んだり、あちこちに歩き回りながら周囲のものに触れたり口に入れたりするが、なぜそんなことをするのか、なぜただ為されるがままにあるのでないのか、はこのような“欲求”を想定しなければ説明できない。しかしこの“欲求”の存在を証明するのは難しい。
赤ん坊だけではなく、私たちは世界のあらゆることを何らかの意味のあるものとして関心を持ちながら関わっている。音楽は物理的にはただの音波の振幅の変化にすぎないが、私たちはそれを聞いて楽しいとか悲しいとか感じることができる。絵画も単なる紙の上の色の変化と線のつながりにすぎないが、それをみて感動したりする。私たちは、眼に映る世界を私たちが現実に生きている世界として感じることができる。
しかし、こういったこともやはり、自明なことではないのである。精神医学で「離人症」と呼ばれる症状群においては、このような感覚が失われてしまうことが分かっている。
ところで、「差異化」のはたらきと〈私〉の形成のプロセスでは、“生への欲求”というものを前提としている。赤ん坊はお腹が空いたと泣いて母親を呼んだり、あちこちに歩き回りながら周囲のものに触れたり口に入れたりするが、なぜそんなことをするのか、なぜただ為されるがままにあるのでないのか、はこのような“欲求”を想定しなければ説明できない。しかしこの“欲求”の存在を証明するのは難しい。
赤ん坊だけではなく、私たちは世界のあらゆることを何らかの意味のあるものとして関心を持ちながら関わっている。音楽は物理的にはただの音波の振幅の変化にすぎないが、私たちはそれを聞いて楽しいとか悲しいとか感じることができる。絵画も単なる紙の上の色の変化と線のつながりにすぎないが、それをみて感動したりする。私たちは、眼に映る世界を私たちが現実に生きている世界として感じることができる。
しかし、こういったこともやはり、自明なことではないのである。精神医学で「離人症」と呼ばれる症状群においては、このような感覚が失われてしまうことが分かっている。
| + | 離人症 | 
離人症は決して珍しいものではなく、躁鬱病や神経症の症状として多く現れることがあるし、さらには健康な人であっても一過性の症状を示すことは少なくない。
離人症において障害を蒙っている何らかの生命的機能を考えるとき、それを単なる生物的生化学的な機能としてではなく、赤ん坊が世界へ向かうときの“生への欲求”のような、あるいは感覚・感情・意志・知性といったおよそ全人間的な世界に対する関与の機能として捉えれば、そこには「人間と世界との根源的通路付けを可能にする一種の『感受能力』」を仮定せざるを得ない。
離人症において障害を蒙っている何らかの生命的機能を考えるとき、それを単なる生物的生化学的な機能としてではなく、赤ん坊が世界へ向かうときの“生への欲求”のような、あるいは感覚・感情・意志・知性といったおよそ全人間的な世界に対する関与の機能として捉えれば、そこには「人間と世界との根源的通路付けを可能にする一種の『感受能力』」を仮定せざるを得ない。
4.「共通感覚」と「差異化」
アリストテレスは「共通感覚」という一種の根源的な感覚について次のように述べている。私たちは視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚という5つの「特殊感覚」(いわゆる五感)を持っているが、それぞれの同じ種類の感覚についてだけでなく、別の感覚の領域を跨ってそれらの感覚同士を比べることができる。例えば「甘い匂い」とか「黄色い歓声」とかいう言い方がそれである。さらに単なる比喩としてではなく実際に音に色が「見え」たり、ある特定の文字に必ずある色がついて見えるといった「共感覚」という能力が知られており、共感覚者の数は、定義により違うがおよそ数万人に一人といわれ、特に芸術家に多いとされる。このような識別能力は、「判断以前の感性の領域で行われる以上」感覚能力であり、さらに個別の特殊感覚を跨って「全領野を統一的に捉える根源的な感覚能力」でなくてはならない。これが「共通感覚」(Koineaisthesis,sensus communis)と呼ばれるものである。そして特殊感覚に共通して感覚される運動、静止、大きさ、数などの感覚、また時間も共通感覚によって知覚されるとした。
これをさらに敷衍すると、共通感覚とは、音楽や絵画を単に生理学的に聴覚や視覚を刺激する音波や光の波として知覚するのではなく、そこになんらかの「プラス・アルファ」を伴わせる能力であると考えることができる。
このような「共通感覚」を仮定するなら、先の離人症において失われていたのは、まさにこの能力に他ならない。“生への欲求”あるいは“世界への関心”というようなものが世界の現実性を伴うためには、この共通感覚によって個別の特殊感覚がひとつの感覚として〈私〉の内に統合されなくてはならない。離人症患者においては共通感覚が機能しなくなっているために、世界が現実性を失って〈私〉を形成する過程が停止し、「自己は自己として自覚されえなくなるのである」(同前p167)。
これをさらに敷衍すると、共通感覚とは、音楽や絵画を単に生理学的に聴覚や視覚を刺激する音波や光の波として知覚するのではなく、そこになんらかの「プラス・アルファ」を伴わせる能力であると考えることができる。
このような「共通感覚」を仮定するなら、先の離人症において失われていたのは、まさにこの能力に他ならない。“生への欲求”あるいは“世界への関心”というようなものが世界の現実性を伴うためには、この共通感覚によって個別の特殊感覚がひとつの感覚として〈私〉の内に統合されなくてはならない。離人症患者においては共通感覚が機能しなくなっているために、世界が現実性を失って〈私〉を形成する過程が停止し、「自己は自己として自覚されえなくなるのである」(同前p167)。
5.〈私〉の身体性と共通感覚
共通感覚は「感覚能力」である以上、そこにはなんらかの物質的基盤が想定される。そこで共通感覚が諸感覚の統合能力として、体性感覚・内臓感覚という感覚系からの信号を束ね、脳の全領域へ影響を与えるとするならば、意識の維持や覚醒に関与し、体性・内臓性感覚系と視床や大脳新皮質との連絡に関わっているとされる網様体賦活系が注目される。しかしここで共通感覚が脳に存在するとしても、それは身体から切り離された別個の機能として存在するわけではなく、あくまで諸感覚器官の知覚に基づいてそれらを統合する感覚・機能として、想像力や記憶などの知性の基盤となるものとして考えなくてはならない。
また、〈私〉の身体を取り巻くものとしての「自然」は差異化の契機となる他者と捉えられ、共通感覚を刺激し形成するものである。これを踏まえれば、身近で地元の住民にとっては大事なものだが特別“普遍的な価値”を持たないいわゆる「ありふれた自然」は、〈私〉のうちに“生きた”自然として、また〈私〉を形成する「他者」である自然として重要な意義を持ってくるだろう。
また、〈私〉の身体を取り巻くものとしての「自然」は差異化の契機となる他者と捉えられ、共通感覚を刺激し形成するものである。これを踏まえれば、身近で地元の住民にとっては大事なものだが特別“普遍的な価値”を持たないいわゆる「ありふれた自然」は、〈私〉のうちに“生きた”自然として、また〈私〉を形成する「他者」である自然として重要な意義を持ってくるだろう。
6.共通感覚と時間
共通感覚は時計によって示される「時間」や、楽しい時間は早くすぎるというような私たちが主観的に感じる「時間」などのすべての時間の源流でもある。なぜなら、私たちが物の運動を単なる視覚刺激の変化ではなく「動き」として感じるのが共通感覚によるのであるなら、「運動」に伴う時間の経過もまた共通感覚によって感覚されるものであるから。例えば、多くの生物は生来の能力としてサーカディアンリズムを持っているものが多い。これはほぼ一日の周期でリズムを刻む生物の身体の働きのことで、その起源は地球の自転と公転に求められる。ヒトでは視床下部の視神経の交叉するところにある視交叉上核がリズムを司っているとされている。サーカディアンリズムは生物がそれ自身として持っている「時間」の原型として捉えられるが、このような「時間」は感覚として感受されるものである。離人症患者が表現しているように(第3節)、もし共通感覚を持たなければ、時間の流れは単なる「今」が断続的に次々に迫ってくるだけのものとなり、過去と現在、現在と未来のつながりを感じることができなくなってしまう。
7.〈私〉の歴史性と共通感覚
〈私〉を共通感覚に基づく他者の分離による差異化のプロセスとしてとらえるとき、現在の〈私〉は過去で様々な「他者」と出会いそのつど〈私〉を形成してきた歴史の連なりとして考えることができる。〈私〉の歴史性を了解することで、過去の〈私〉と現在の〈私〉のつながりが〈私〉にとって了解され、そのような了解があって初めて将来の〈私〉を〈私〉自身のものとして想像することができる。もしこのような〈私〉の歴史性がないとしたら、あるいは歴史性を拒否しなければならないなら、〈私〉にとっての未来を想像することはできないだろう。
8.共通感覚と「常識」
共通感覚とはcommon senseであり、一人の人間の感覚能力であると同時に「人々の間での共通の知覚や判断としてのコモン・センス」である「常識」ということも本来この意味が展開されたものであった。「常識」とは「世界」に対する橋としての共通感覚が共同体の人びとのうちに共有されたものである。この側面では社会的な時間の共有による他者に対する共感や共同性といったものが生まれるためには、共通感覚が共有されていなければならないということにもなる。人間は、生まれたばかりの頃から共通感覚を形成しつつ強化することによってその感覚を常識として身に付けていくのである。「家族」や「社会」はこのような共通感覚のいわば「再生産の場」として重要な意味を持つ。なぜなら共通感覚と差異化のはたらきによって「私」を自覚していくために人間が始めて出会う他者は母親、父親、兄弟姉妹といった家族であり、さらに友人や教師など他者の総体としての社会であるから。
また、風土ということも、人びとのうちに共有された共通感覚という視点から捉えなおすことができる。
また、風土ということも、人びとのうちに共有された共通感覚という視点から捉えなおすことができる。
9.「ある」ということと「いる」ということ
「ある」ということと「いる」ということの区別から、〈いま、ここにいる〉ということに対して〈いま、ここにある〉ということがどのように関わるかを考えたい。
「ある」という言葉は漢字で「有る」「在る」と表記される。『広辞苑』第五版によると、「ある」とは「ものごとの存在が認識される」ことである。「ものごと」とは物と事、つまり形ある実体として認識される物体と抽象的に認識される現象や概念のことである。「存在が認識される」とき、「存在」を認識するのは人間であるから、「ある」ということには人間による認識の働きが関わっている。このことは「存在」の「存」という言葉が「存じております」という風に用いられるように、人が心の内に保持しているという意味を持つことからも分かる。そして「有る」という表記が示すように、「ある」ということはまた「所有」、「持っている」ことも意味する。「AはBである」というときにはBはAの「持っている」性質を表している。これに対して「在」は「在宅」「在学」あるいは「不在」というように、人間がある場所にあるということを示す(和辻2007p45)。ちなみに古事記においては「この世に現れる」という意味で「生る」という言葉が使われており、この「生る」が転じて現在の「生まれる」になったというのも興味深い。
この「ある」ということは主に「ある事物がある」というように用いられ、「私がある」「彼がある」というように人間に対して用いることはあまりない。あるいは人間に対して「ある」という言葉を使う場合、話し手は具体的な「誰か」としての人間ではなく、ある「ものごと」として抽象化されたものとして人間を扱っている。
それに対して「Aがいる」というとき、それはAがある場所に存在しているということであり、この意味では「ある」と重なるが、「いる」では「有」の意味は含まれていない。しかし重要な違いは、この場合Aは必ず人間か動物(あるいは植物も)を示しているということである。この違いは、単純に「動きを意識するかしないか」ということ(『広辞苑』)ではない。動きが意識されるものであっても「車がいる」「川がいる」「太陽がいる」などとは言わない。このAは何らかの広い意味での意識を持った(「主体的な」と言ってもよいかもしれない)「生命」ある存在のことを示していると考えるべきである。またこの場合も「ある」ということと同様に、「いる」ということを認識する人間の存在が前提としてあるといえるが、「私がいる」と言うときは自分自身を認識しているのであり、「ある」に比べて「いる」では話し手(認識主体)としての人間自身がある場所に「いる」という能動性や主体性のようなものが表現されていると考えられるのではないか。つまり、「私がいる」でも「あの人がいる」でも「猫がいる」でも、そこには話し手が相手に対して生命ある存在として能動的・主体的・積極的に関わろうとする関係があるということである。
以上を踏まえて〈いま、ここにある〉ということと〈いま、ここにいる〉ということとは次のように捉えられる。〈私〉が〈いま、ここにある〉ということは、〈私〉がいま、ある場所に「ある」ということ、何らかの性質をもったものとして「ある」ということ、そのように現れているということを意味している。それに対して、〈私〉が〈いま、ここにいる〉ということは、同じようにいま、ある場所に「あり」ながら、「いる」ということとして能動的・主体的・積極的に存在しているということである。〈いま、ここにある〉ということが共通感覚に裏付けられて成立していることによって、〈いま、ここにいる〉というより能動的な感覚が成り立つことができ、この能動的な「世界」への感覚・関心によってまた〈私〉が限定・形成されていく。
「ある」という言葉は漢字で「有る」「在る」と表記される。『広辞苑』第五版によると、「ある」とは「ものごとの存在が認識される」ことである。「ものごと」とは物と事、つまり形ある実体として認識される物体と抽象的に認識される現象や概念のことである。「存在が認識される」とき、「存在」を認識するのは人間であるから、「ある」ということには人間による認識の働きが関わっている。このことは「存在」の「存」という言葉が「存じております」という風に用いられるように、人が心の内に保持しているという意味を持つことからも分かる。そして「有る」という表記が示すように、「ある」ということはまた「所有」、「持っている」ことも意味する。「AはBである」というときにはBはAの「持っている」性質を表している。これに対して「在」は「在宅」「在学」あるいは「不在」というように、人間がある場所にあるということを示す(和辻2007p45)。ちなみに古事記においては「この世に現れる」という意味で「生る」という言葉が使われており、この「生る」が転じて現在の「生まれる」になったというのも興味深い。
この「ある」ということは主に「ある事物がある」というように用いられ、「私がある」「彼がある」というように人間に対して用いることはあまりない。あるいは人間に対して「ある」という言葉を使う場合、話し手は具体的な「誰か」としての人間ではなく、ある「ものごと」として抽象化されたものとして人間を扱っている。
それに対して「Aがいる」というとき、それはAがある場所に存在しているということであり、この意味では「ある」と重なるが、「いる」では「有」の意味は含まれていない。しかし重要な違いは、この場合Aは必ず人間か動物(あるいは植物も)を示しているということである。この違いは、単純に「動きを意識するかしないか」ということ(『広辞苑』)ではない。動きが意識されるものであっても「車がいる」「川がいる」「太陽がいる」などとは言わない。このAは何らかの広い意味での意識を持った(「主体的な」と言ってもよいかもしれない)「生命」ある存在のことを示していると考えるべきである。またこの場合も「ある」ということと同様に、「いる」ということを認識する人間の存在が前提としてあるといえるが、「私がいる」と言うときは自分自身を認識しているのであり、「ある」に比べて「いる」では話し手(認識主体)としての人間自身がある場所に「いる」という能動性や主体性のようなものが表現されていると考えられるのではないか。つまり、「私がいる」でも「あの人がいる」でも「猫がいる」でも、そこには話し手が相手に対して生命ある存在として能動的・主体的・積極的に関わろうとする関係があるということである。
以上を踏まえて〈いま、ここにある〉ということと〈いま、ここにいる〉ということとは次のように捉えられる。〈私〉が〈いま、ここにある〉ということは、〈私〉がいま、ある場所に「ある」ということ、何らかの性質をもったものとして「ある」ということ、そのように現れているということを意味している。それに対して、〈私〉が〈いま、ここにいる〉ということは、同じようにいま、ある場所に「あり」ながら、「いる」ということとして能動的・主体的・積極的に存在しているということである。〈いま、ここにある〉ということが共通感覚に裏付けられて成立していることによって、〈いま、ここにいる〉というより能動的な感覚が成り立つことができ、この能動的な「世界」への感覚・関心によってまた〈私〉が限定・形成されていく。
今後の課題と論点
- 〈私〉の形成過程における「差異化」と「共通感覚」の関係が論理立てられているか。
- 「共通感覚」と時間との関係が明確でない。
- 〈いま、ここにいる〉という感覚の位置づけ
参考文献
川村浩『脳の中の時計―からだのリズムとどうつきあうか』NHKブックス、1991
木村敏『自覚の精神病理』紀伊国屋新書、1970
同『異常の構造』講談社現代新書、1973
同『自己・あいだ・時間』ちくま学芸文庫、2006
中村雄二郎『感性の覚醒』岩波書店、1975
同『共通感覚論』岩波現代新書、1979
森下直貴『健康への欲望と〈安らぎ〉―ウェルビカミングの哲学』青木書店、2003
和辻哲郎『人間の学としての倫理学』岩波文庫、2007
                                
川村浩『脳の中の時計―からだのリズムとどうつきあうか』NHKブックス、1991
木村敏『自覚の精神病理』紀伊国屋新書、1970
同『異常の構造』講談社現代新書、1973
同『自己・あいだ・時間』ちくま学芸文庫、2006
中村雄二郎『感性の覚醒』岩波書店、1975
同『共通感覚論』岩波現代新書、1979
森下直貴『健康への欲望と〈安らぎ〉―ウェルビカミングの哲学』青木書店、2003
和辻哲郎『人間の学としての倫理学』岩波文庫、2007
