◆第三章『春と修羅』詩作品の起源にある〈まことのことば〉
第一節 〈まことのことば〉は法華経の姿をとらなければならなかったのか?
第一節 〈まことのことば〉は法華経の姿をとらなければならなかったのか?
第二章で考察したように、彼が短歌の創作に勤しんでいたころに風景から直接的に侵入し、彼に〈まことのことば〉の幻覚をもたらした視線は、〈まとこのことば〉ともども、法華経の教説への書き換えが不能である。だが、賢治は彼にとっての真実を語るとき、法華経という形式に依る。なぜ〈まことのことば〉は法華経の姿をとらなければならなかったのか?
ここで重要なのは、第一章で紹介した賢治の病理学的な側面である。彼の幻想、あるいは〈まことのことば〉は性的衝動の作動とは切り離せない。〈まことのことば〉が作品内で強く主題化されている心象スケッチ「春と修羅」の前後には「恋と病熱」、「春光呪詛」という性衝動を暗示する作品が配置されている。賢治は刊行に当って作品の配置にかなり意を砕いたことが、現存する印刷用原稿に残された書き込みから窺えることから、上の二つと同系の作品として賢治が「春と修羅」を意識していたのは間違いない。
一般に性的な活動は抑圧されることによって、対象から分離した自動的な反復強迫として発現するが、この反復とは原初的な模倣活動であるため、反復される自己の運動は、模倣される対象と限りなく等価な感触と価値を持つ。フロイトは『快感原則の彼岸』でこう述べる。
「患者は抑圧されたものを医師が望むように、過去の一片として追想するかわりに、現在の体験として反復するように余儀なくされる。この再現は、望ましくはないがいとも忠実に登場して、いつも小児の生活、したがってエディプス・コンプレックスと、それからの派生物との幾分かを内容としており、つまり医師に対する関係という転移の領域で規則的に演ぜられる。」(p.159)
反復強迫は抑圧された衝動興奮を発現させるので自我に不快をもたらすが、一定の満足をも与えるのはものでもあるため、快感原則には矛盾しない。しかし、苦痛に満ちた人間関係を何度も繰り返す人たち、あるいは災害神経症者や子どもの糸巻き遊びを考えれば、快感原則の外にも反復強迫が存在するのではないかという仮定が成り立つ。「反復強迫の仮定を正当づける余地は充分にあり、反復強迫は快感原則をしのいで、より以上に根源的、一次的、かつ衝動的であるように思われる。」(p.163)
もともと意味作用はと、他者が想像-幻想から切り離され、それが半ば死体のようなものとして言語に取り込まれることによってその意味の確定を「他者への要求」として留保することで成立している。だが、この反復強迫に際しては、自身の想像-幻想と他者がしだいに同一化することによって(だが、決して同一化しない現実の他者によって)意識は攻撃的なものへと反転する。この反復のなかで思考は、現実の他者から分離し、言語にあらかじめ持ち込まれている膨大な他者の残骸と対面し、他者に向けられて発せられた声は抽象的なハウリングをひき起こす。
誤解を招くかもしれないが一つのモデルを考えよう。いま、完全にランダムにひらがなが浮き出てくるn×n個の升目を考える。その升目のなかに主体が思考した言葉だけが縦横に曲がりながら斜めに記載されていくとする。もう少し簡略化して、9×9個の升目を用意し、そして、その升目のなかに、「わたしはいのちしらずにかえつてきた(私は命知らずに帰ってきた)」を入力してみよう。そして、入力した文章をそのままにして、隙間に平仮名をランダムに入れる。
(図省略)
このとき、私が発話した文章は「わたしはいのちしらずにかえってきた」だけであるはずだが、上から四行目横列にはまったく偶然に(今回の例では恣意的に)「せばすちやんばつは(セバスチャン・バッハ)」が現れている。だが、この二つの文章「私は命知らずに帰ってきた」、「セバスチャン・バッハ」は読まれた時点でどちらが偶発的な産物であるかすでに判断するとこができない。その検証作業の合間にも思考は作動するだろう。(検証、というメタレベルにおいてでなくても、「セバスチャン・バッハ」を意識した時点で新しい増殖が始まる)
以上の作業を不断に続けることによって言葉は機械的に無際限に増殖していき、表層の運動は意味作用から切断されて運動野に短絡し、精神分裂患者の絶叫――あるいは聖霊に満たされた使徒ペテロのグロッソラリア(意味不明な呟き、異言)へと至る。話者は無意識のうちにこれらの「叫び」を疑似言語的なものにしたいと欲求するため、表面的には言語と類似するものの、「叫び」は根源的に言語ではなく、思考の空白部分で身体が反復-模倣運動に回帰することで生じている。この「叫び」の次元を共同体論と合わせて考察するのはあまりに突飛で危険だと思われるかもしれないが、グロッソラリアが聖者・司祭によって深遠なる霊的洞察として解釈されたのはギリシャからイスラエルに至るまでの古代の慣行であり、歴史的妥当性はある。(*1)終章では、このハウリングで得られる次元が「叫びの次元」として考察される。
賢治の発話が真実へとへと向けられるとき、性的衝動の素描が同時に現れるのは以上のような事情があるからである。(*2) さらに重要なのは、性的衝動の反復は意識以前のレベルに属しているために、まったく不意に意識の外から到来するために、言語に従属している幻想-ファンタズムにとってその衝動は必ず悪しきものである。賢治を睨む牛の目や、空に浮かぶ眼球は、彼自身が性的衝動に対して抱く忌まわしさを正確に転写している。(*3)
だが、それ自体が真理を告げ知らせる〈まことのことば〉が賢治にもたらされるのはまさにこの最も忌まわしい瞬間である。物質的な還元不可能性のその忌まわしさゆえに、真実は疑われ、憎まれる。実際に、性的衝動と同時におこる反復強迫は、単純な反復ではなく、常になにかを打ち消す意味を持っており、心象スケッチ「〔丁丁丁丁丁〕」に特徴的に見られるような機械的な反応をも呈する。(「〔丁丁丁丁丁〕」は「ていていていていてい」と発音され、当時の成績評価、甲乙丙丁における「最低」を意味する。)
丁丁丁丁丁
丁丁丁丁丁
叩きつけられてゐる 丁
叩きつけられてゐる 丁
藻でまっくらな 丁丁丁
塩の海 丁丁丁丁丁
熱 丁丁丁丁丁
熱 丁丁丁丁丁
熱 熱 丁丁丁
(尊々殺々殺
殺々尊々々
尊々殺々殺
殺々尊々尊)
ゲニイめたうたう本音を出した
やってみろ 丁丁丁
(〔丁丁丁丁丁〕)
そのため、この忌まわしい真実を受け入れるためには、思考する主体は真実に際してもう一度encore、それを原初的な光景(事実である必要のない原幻想)と重ね合わせる必要がある。つまり意識(と無意識)の主体は自らの無力性の惨めさを受け入れるのと引き換えに、暴力的な悪しき真実をすでに経験し知りつくされた劇として倒錯的に再編しなおし、安全なものとする。この劇はあらかじめ未知の部分が排除されているので、受動的な観客でいることと能動的な演技者であることは同等であり、劇はまったく無害なものである。この劇の再演と並行して善/悪、能動/受動、自/他の境界が消え去るとき、初めて直接的に伝達される言語、〈まことのことば〉が可能となる。
だが、〈まことのことば〉の設立には、悪しき真実を隠す倒錯的な再演という疵が常につきまとうため、その劇の/への否定性が常に含まれることとなる。〈まことのことば〉を真実たらしめる過程には偽りの操作が不可避であるという状況は、その破断がただちに劇の裏幕に隠された正体不明の悪へと引き戻されることを意味しているので決して中性的-無痛的なものではなく、恐るべきものであり、一般化することは不可能である。(短歌創作時期から賢治の妄想にあった、「裂ける空から伸びてくる腕」というモチーフは絵にも描かれているが、この絵の評判が悪いのは賢治の恐怖心があまりに厳密に明かされているからだろう)
ここで述べられてきたことは、〈まことのことば〉が分裂病とも神経症とも区別のつかない(というより分裂病と神経症が不即不離なものとなった)病的状態をその起源とし、悪や、恐怖心から切り離されえないことの確認であった。この恐怖心を鎮痛するために、賢治が擬似的に真実であると思い込んだ対象――自身の真実性をそれ自身が真実であると証言しつつ、なおかつその設立の要所で偽りの操作を含んでいる〈まことのことば〉と構造が同形である理論装置、それが法華経であったのだ。
ここで重要なのは、第一章で紹介した賢治の病理学的な側面である。彼の幻想、あるいは〈まことのことば〉は性的衝動の作動とは切り離せない。〈まことのことば〉が作品内で強く主題化されている心象スケッチ「春と修羅」の前後には「恋と病熱」、「春光呪詛」という性衝動を暗示する作品が配置されている。賢治は刊行に当って作品の配置にかなり意を砕いたことが、現存する印刷用原稿に残された書き込みから窺えることから、上の二つと同系の作品として賢治が「春と修羅」を意識していたのは間違いない。
一般に性的な活動は抑圧されることによって、対象から分離した自動的な反復強迫として発現するが、この反復とは原初的な模倣活動であるため、反復される自己の運動は、模倣される対象と限りなく等価な感触と価値を持つ。フロイトは『快感原則の彼岸』でこう述べる。
「患者は抑圧されたものを医師が望むように、過去の一片として追想するかわりに、現在の体験として反復するように余儀なくされる。この再現は、望ましくはないがいとも忠実に登場して、いつも小児の生活、したがってエディプス・コンプレックスと、それからの派生物との幾分かを内容としており、つまり医師に対する関係という転移の領域で規則的に演ぜられる。」(p.159)
反復強迫は抑圧された衝動興奮を発現させるので自我に不快をもたらすが、一定の満足をも与えるのはものでもあるため、快感原則には矛盾しない。しかし、苦痛に満ちた人間関係を何度も繰り返す人たち、あるいは災害神経症者や子どもの糸巻き遊びを考えれば、快感原則の外にも反復強迫が存在するのではないかという仮定が成り立つ。「反復強迫の仮定を正当づける余地は充分にあり、反復強迫は快感原則をしのいで、より以上に根源的、一次的、かつ衝動的であるように思われる。」(p.163)
もともと意味作用はと、他者が想像-幻想から切り離され、それが半ば死体のようなものとして言語に取り込まれることによってその意味の確定を「他者への要求」として留保することで成立している。だが、この反復強迫に際しては、自身の想像-幻想と他者がしだいに同一化することによって(だが、決して同一化しない現実の他者によって)意識は攻撃的なものへと反転する。この反復のなかで思考は、現実の他者から分離し、言語にあらかじめ持ち込まれている膨大な他者の残骸と対面し、他者に向けられて発せられた声は抽象的なハウリングをひき起こす。
誤解を招くかもしれないが一つのモデルを考えよう。いま、完全にランダムにひらがなが浮き出てくるn×n個の升目を考える。その升目のなかに主体が思考した言葉だけが縦横に曲がりながら斜めに記載されていくとする。もう少し簡略化して、9×9個の升目を用意し、そして、その升目のなかに、「わたしはいのちしらずにかえつてきた(私は命知らずに帰ってきた)」を入力してみよう。そして、入力した文章をそのままにして、隙間に平仮名をランダムに入れる。
(図省略)
このとき、私が発話した文章は「わたしはいのちしらずにかえってきた」だけであるはずだが、上から四行目横列にはまったく偶然に(今回の例では恣意的に)「せばすちやんばつは(セバスチャン・バッハ)」が現れている。だが、この二つの文章「私は命知らずに帰ってきた」、「セバスチャン・バッハ」は読まれた時点でどちらが偶発的な産物であるかすでに判断するとこができない。その検証作業の合間にも思考は作動するだろう。(検証、というメタレベルにおいてでなくても、「セバスチャン・バッハ」を意識した時点で新しい増殖が始まる)
以上の作業を不断に続けることによって言葉は機械的に無際限に増殖していき、表層の運動は意味作用から切断されて運動野に短絡し、精神分裂患者の絶叫――あるいは聖霊に満たされた使徒ペテロのグロッソラリア(意味不明な呟き、異言)へと至る。話者は無意識のうちにこれらの「叫び」を疑似言語的なものにしたいと欲求するため、表面的には言語と類似するものの、「叫び」は根源的に言語ではなく、思考の空白部分で身体が反復-模倣運動に回帰することで生じている。この「叫び」の次元を共同体論と合わせて考察するのはあまりに突飛で危険だと思われるかもしれないが、グロッソラリアが聖者・司祭によって深遠なる霊的洞察として解釈されたのはギリシャからイスラエルに至るまでの古代の慣行であり、歴史的妥当性はある。(*1)終章では、このハウリングで得られる次元が「叫びの次元」として考察される。
賢治の発話が真実へとへと向けられるとき、性的衝動の素描が同時に現れるのは以上のような事情があるからである。(*2) さらに重要なのは、性的衝動の反復は意識以前のレベルに属しているために、まったく不意に意識の外から到来するために、言語に従属している幻想-ファンタズムにとってその衝動は必ず悪しきものである。賢治を睨む牛の目や、空に浮かぶ眼球は、彼自身が性的衝動に対して抱く忌まわしさを正確に転写している。(*3)
だが、それ自体が真理を告げ知らせる〈まことのことば〉が賢治にもたらされるのはまさにこの最も忌まわしい瞬間である。物質的な還元不可能性のその忌まわしさゆえに、真実は疑われ、憎まれる。実際に、性的衝動と同時におこる反復強迫は、単純な反復ではなく、常になにかを打ち消す意味を持っており、心象スケッチ「〔丁丁丁丁丁〕」に特徴的に見られるような機械的な反応をも呈する。(「〔丁丁丁丁丁〕」は「ていていていていてい」と発音され、当時の成績評価、甲乙丙丁における「最低」を意味する。)
丁丁丁丁丁
丁丁丁丁丁
叩きつけられてゐる 丁
叩きつけられてゐる 丁
藻でまっくらな 丁丁丁
塩の海 丁丁丁丁丁
熱 丁丁丁丁丁
熱 丁丁丁丁丁
熱 熱 丁丁丁
(尊々殺々殺
殺々尊々々
尊々殺々殺
殺々尊々尊)
ゲニイめたうたう本音を出した
やってみろ 丁丁丁
(〔丁丁丁丁丁〕)
そのため、この忌まわしい真実を受け入れるためには、思考する主体は真実に際してもう一度encore、それを原初的な光景(事実である必要のない原幻想)と重ね合わせる必要がある。つまり意識(と無意識)の主体は自らの無力性の惨めさを受け入れるのと引き換えに、暴力的な悪しき真実をすでに経験し知りつくされた劇として倒錯的に再編しなおし、安全なものとする。この劇はあらかじめ未知の部分が排除されているので、受動的な観客でいることと能動的な演技者であることは同等であり、劇はまったく無害なものである。この劇の再演と並行して善/悪、能動/受動、自/他の境界が消え去るとき、初めて直接的に伝達される言語、〈まことのことば〉が可能となる。
だが、〈まことのことば〉の設立には、悪しき真実を隠す倒錯的な再演という疵が常につきまとうため、その劇の/への否定性が常に含まれることとなる。〈まことのことば〉を真実たらしめる過程には偽りの操作が不可避であるという状況は、その破断がただちに劇の裏幕に隠された正体不明の悪へと引き戻されることを意味しているので決して中性的-無痛的なものではなく、恐るべきものであり、一般化することは不可能である。(短歌創作時期から賢治の妄想にあった、「裂ける空から伸びてくる腕」というモチーフは絵にも描かれているが、この絵の評判が悪いのは賢治の恐怖心があまりに厳密に明かされているからだろう)
ここで述べられてきたことは、〈まことのことば〉が分裂病とも神経症とも区別のつかない(というより分裂病と神経症が不即不離なものとなった)病的状態をその起源とし、悪や、恐怖心から切り離されえないことの確認であった。この恐怖心を鎮痛するために、賢治が擬似的に真実であると思い込んだ対象――自身の真実性をそれ自身が真実であると証言しつつ、なおかつその設立の要所で偽りの操作を含んでいる〈まことのことば〉と構造が同形である理論装置、それが法華経であったのだ。
(*1)参考HP:http://www.genpaku.org/skepticj/glossol.html
(*2)「春と修羅」で描かれる春の性的なニュアンスに関しては、大塚常樹『宮澤賢治―心象の記号論』「春と修羅」論に詳しい。
(*3) 『童貞としての宮澤賢治』で押野は「よだかの星」、「銀河鉄道の夜」を引いて賢治が視線恐怖症であったと分析している。本論で引用した短歌群については「賢治にとって世界ははじめから眼に満ちた空間であって、見られているという感覚は、ほとんど体質的に固有のものであった。」(p.168)と断じているが、視線だけでなく形態的な眼球の忌まわしさについては触れられていない。
眼球の持つ性的側面に関しては、バタイユ(Georges Bataille, 1897 - 1962)が地下小説『眼球譚[初稿]』で衝撃的に描写している。眼球、睾丸、玉子、太陽などへの偏執が断片的に千切れ飛んでくるこの本のなかでも、とりわけ次の闘牛士が惨殺される場面は球体幻想に満ちている。賢治は晩年に詩人・森荘已池に「草や木や自然を書くようにエロのことを書きたい」と述懐したが、賢治がエロティシズムを直裁的に描写したとしたら次のようにではないだろうか。
またたく間の出来事として、私は見たのだ、まずはじめに、ぞっとしたことに、シモーヌがなまの睾丸(註:闘牛で殺された牡牛の睾丸)の一つに齧りつくのを、次いでグラネロ(註:闘牛士)が牡牛の方へむかって前進し、真っ赤な布を目の前に突き出すのを――最後に、ほとんど同時に逆上したシモーヌが、思わず息を呑むような淫らさを発揮して、白いすんなりした腿を湿った陰門までさらけ出し、その中へいま一つの蒼白い球体をじっくり手ごたえを味わいながら押し込むのを――牡牛に突き倒され、障壁へ追い詰められたグラネロの姿。その障壁を角が三度盲滅法に突きまくり、三度目の攻撃が右の目と頭全体をぶち抜いた。恐怖に打たれた闘技場のどよめきはシモーヌのオルガスムスの瞬間と重なり、石の座席から腰を浮かすと、そのまま彼女は仰向けにぶっ倒れてしまった、鼻血を垂らし、目くるめく日光に体をさらけ出したまま。直ちに人々が駆け込み、グラネロの死体を担ぎ出した。死体の右の目は頭蓋からダラリと垂れ下がっていた。
(『球譚(初稿)』p.100)
(*2)「春と修羅」で描かれる春の性的なニュアンスに関しては、大塚常樹『宮澤賢治―心象の記号論』「春と修羅」論に詳しい。
(*3) 『童貞としての宮澤賢治』で押野は「よだかの星」、「銀河鉄道の夜」を引いて賢治が視線恐怖症であったと分析している。本論で引用した短歌群については「賢治にとって世界ははじめから眼に満ちた空間であって、見られているという感覚は、ほとんど体質的に固有のものであった。」(p.168)と断じているが、視線だけでなく形態的な眼球の忌まわしさについては触れられていない。
眼球の持つ性的側面に関しては、バタイユ(Georges Bataille, 1897 - 1962)が地下小説『眼球譚[初稿]』で衝撃的に描写している。眼球、睾丸、玉子、太陽などへの偏執が断片的に千切れ飛んでくるこの本のなかでも、とりわけ次の闘牛士が惨殺される場面は球体幻想に満ちている。賢治は晩年に詩人・森荘已池に「草や木や自然を書くようにエロのことを書きたい」と述懐したが、賢治がエロティシズムを直裁的に描写したとしたら次のようにではないだろうか。
またたく間の出来事として、私は見たのだ、まずはじめに、ぞっとしたことに、シモーヌがなまの睾丸(註:闘牛で殺された牡牛の睾丸)の一つに齧りつくのを、次いでグラネロ(註:闘牛士)が牡牛の方へむかって前進し、真っ赤な布を目の前に突き出すのを――最後に、ほとんど同時に逆上したシモーヌが、思わず息を呑むような淫らさを発揮して、白いすんなりした腿を湿った陰門までさらけ出し、その中へいま一つの蒼白い球体をじっくり手ごたえを味わいながら押し込むのを――牡牛に突き倒され、障壁へ追い詰められたグラネロの姿。その障壁を角が三度盲滅法に突きまくり、三度目の攻撃が右の目と頭全体をぶち抜いた。恐怖に打たれた闘技場のどよめきはシモーヌのオルガスムスの瞬間と重なり、石の座席から腰を浮かすと、そのまま彼女は仰向けにぶっ倒れてしまった、鼻血を垂らし、目くるめく日光に体をさらけ出したまま。直ちに人々が駆け込み、グラネロの死体を担ぎ出した。死体の右の目は頭蓋からダラリと垂れ下がっていた。
(『球譚(初稿)』p.100)