概要
1960年代、日本ではボウリングが大流行した。しかし、他の流行と同じように、その人気も衰え、1971年までに多くのボウリング場が廃れてしまった。これらの施設を新たな用途に利用したいと考えた任天堂の山内溥社長は、これらの施設で開催される新しいゲームの構想を練り始めた。1970年代初頭、任天堂は主に玩具会社であったが、他の業界にも進出しており、山内氏のアイデアはレーザークレー射撃システムとして知られるようになった。
このゲームは、任天堂がビデオゲーム業界に進出した最初のゲームだったと言えるかもしれないが、本当の意味での「ビデオゲーム」ではなかった。電子ビデオの代わりに、投影された 16mmフィルムが使用され、プレイヤーは光線銃を持って一列に並び、ターゲット (この場合はクレー射撃) は、フィルムから元ボウリング場の後ろの壁に投影され、プレイヤーはそれを狙って撃つ。プレイヤーがターゲットに命中したかどうかはコンピューターが計算する。
コンピューターが故障して竹田玄洋氏が舞台裏でプレイヤーのスコアを計算しなければならなかったりといった問題があったにもかかわらず、このゲームは成功し、任天堂がアーケードゲームに参入するきっかけとなった。しかし、1973年に石油危機が起こると、日本は不必要な設備を削減の流れとなり、顧客は注文をキャンセルし始めた。しかし、任天堂は最終的にミニレーザークレイと呼ばれる、より小さなアーケード筐体サイズのモデルを設計し、1974年のワイルドガンマンなど、それをベースにしたいくつかの新しいゲームの制作へ繋がっていった。
可用性
現在、レーザークレー射撃システムで稼働しているものや無傷で残っているものは知られていない。
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