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戦争(第四次欧州大戦、英:Europe Great War 4th、???年 - ???年)神聖ローマ皇帝兼フランス王エリックによる強制徴募法の施行を契機に、反対する神聖ローマ帝国諸侯と反仏の外国勢力とが結びついた対仏大同盟とフランスおよび同盟国との戦争である。 | 第四次欧州大戦 | ||||
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目次[非表示] 1. 概要 2. 背景 2-1. 2-2. 3. 開戦 4. 開戦後の経緯 4-1. 4-2. 4-3. 4-4. 4-5. 5. 終戦と講和 6. 影響 7. 関連項目 8. 参考文献 |
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戦争:戦争 | |||||
年月日:1000年10月10日 - 1000年10月10日 | |||||
場所:フランス、ドイツ、イタリア等 | |||||
結果:- | |||||
交戦勢力(第一次対仏大同盟) | |||||
imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 | スミトラント王国 | ![]() |
フランス王国 | ||
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アイゼルネ=アルギニア国 | ![]() |
デンマーク王国(npc) | ||
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ライン=アルギニア同盟 | ||||
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ハプスブルク帝国 | ||||
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スウェーデン王国(npc) | ||||
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ザーティエラ王国 | ||||
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アストリア聖国 | ||||
交戦勢力(第二次対仏大同盟) | |||||
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トラキア・ローマ帝国 | ![]() |
フランス王国 | ||
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モレラ共和国 | ![]() |
アナトリア王国 | ||
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スミトラント朝ボヘミア | imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 | スミトラント王国 | ||
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ハプスブルク帝国 | ![]() |
ライン=アルギニア同盟 | ||
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ザーティエラ王国 | ![]() |
プジェミスル朝ポーランド | ||
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アストリア聖国 | ||||
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安勢国 | ||||
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交戦勢力(第三次対仏大同盟) | |||||
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Holy Nation | ![]() |
フランス王国 | ||
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トラキア・ローマ帝国 | ![]() |
アナトリア王国 | ||
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モレラ共和国 | ![]() |
プジェミスル朝ポーランド | ||
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ザーティエラ王国 | ||||
imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 | スミトラント王国 | ||||
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ハプスブルク帝国 | ||||
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アストリア聖国 | ||||
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安勢国 | ||||
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交戦勢力(ロシア遠征) | |||||
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ユークバニア連邦共和国 | ![]() |
フランス王国 | ||
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シランナ社会主義連邦共和国 | ![]() |
プジェミスル朝チェキア王国 | ||
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月ノ谷共和国連邦 | ![]() |
ヴィリニュス公国 | ||
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ローゼノワール王国 | ||||
交戦勢力(第四次対仏大同盟) | |||||
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スミトラント=スウェーデン | ![]() |
フランス王国 | ||
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アイゼルネ=アルギニア国 | ![]() |
アナトリア王国 | ||
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ライン=アルギニア同盟 | ||||
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ヴァルキア王国 | ||||
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Holy Nation | ||||
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アストリア聖国 | ||||
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安勢国 | ||||
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トラキア・ローマ帝国 | ||||
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モレラ共和国 | ||||
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プジェミスル朝チェキア王国 | ||||
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ヴィリニュス公国 | ||||
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ローゼノワール王国 | ||||
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シランナ社会主義共和国 | ||||
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ユークバニア連邦共和国 | ||||
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月ノ谷連邦共和国 | ||||
imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 | 凸合衆国 | ||||
交戦勢力(第五次対仏大同盟) | |||||
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スミトラント=スウェーデン | ![]() |
フランス王国 | ||
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アイゼルネ=アルギニア国 | ![]() |
アナトリア王国 | ||
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ライン=アルギニア同盟 | ![]() |
ザーティエラ王国 | ||
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ヴァルキア王国 | ||||
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Holy Nation | ||||
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アストリア聖国 | ||||
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安勢国 | ||||
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トラキア・ローマ帝国 | ||||
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モレラ共和国 | ||||
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プジェミスル朝チェキア王国 | ||||
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ヴィリニュス公国 | ||||
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ローゼノワール王国 | ||||
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シランナ社会主義共和国 | ||||
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ユークバニア連邦共和国 | ||||
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月ノ谷連邦共和国 | ||||
imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 | 凸合衆国 | ||||
概要 | |||||
見出し 本文 |
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背景 | |||||
強制徴募法の施行 44年から147年にかけて争われたレグルス戦争における北海海戦、また十仏戦争における日本海海戦に見られるように、フランス海軍の弱体ぶりは明らかであった。フランス王にして神聖ローマ皇帝エリックの勅命でフランス海軍は改革が始まり、その指導者として、同盟国クラフタリアからシフエンテス提督が招かれた。しかし、フランスの体質として、武力で無理やりまとめ上げた不安定な帝国にあって、常に陸軍力の優位を維持するため、自国のリソースを海軍力に割り振ることを嫌い、特に不足している水兵の新規徴兵についてフランス国内での許可が出なかった。途方に暮れ酒浸りとなったシフエンテスに対し、同僚となったフランス地中海艦隊の"死神"コルーメディ提督が助言を与えた。曰くフランス海軍の人員不足は伝統であり、ときには港の住民を拉致同然で船に乗せてしまうこともあるという。これとアルコールが化学反応を起こし、後に大戦の契機となる強制徴募法の素案が完成した。これは"神聖ローマ帝国内"で、皇帝が水兵を強制的に徴兵できる権利を定めたものであった。シフエンテスの上奏をうけ、皇帝エリックはこれを名案と、視察先の復興中のブレストから「ブレスト勅令」として帝国全土へ発した。この一方的かつ無茶苦茶な法令に対し、諸侯では当然反発が起こったが、仇敵レグルスを下したフランスは当時絶頂期にあり、反抗することはできなかった。かくしてブレスト勅令は施行され、帝国諸侯各国での"フランス海軍への"徴兵が、フランス役人の手で開始された。 |
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第二回帝国会議 徴兵はまずラインや北イタリアなどフランスに近いところから始まったが、徴兵逃れや下請け現地人のサボタージュなどが多発し、補うように地域が拡大していった。遂には内陸国のボヘミア王国にまで及び、ここで事件が起こった。スミトラント王国と同君連合を形成するボヘミア王国では、かつて第三次欧州大戦の契機ともなったプラハ窓外投擲事件にみられるように反フランスの総本山とも言え、強制徴募法への反発も最も凄まじい地域であり、スミトラント王フリードリヒ=アウグストも公然とこれを支持していた。000年00月、フランスの徴募官がプラハに到着し、あまつさえ市庁舎の一角にオフィスを構えたため、徴募官一行は怒ったプラハ市議に捕まり、窓外に投げ落とされた。第三次プラハ窓外投擲事件である。この事件を契機に帝国全土で反強制徴募法の機運が広がり、反乱寸前となった。皇帝エリックはフリードリヒ=アウグストに犯行に加担した市議の逮捕を命じたが、フリードリヒ=アウグストは帝国全土に適応される法案は先ず帝国議会で議決すべきと当たり前の反論を行った。議会の開催は爆発寸前の反強制徴募法運動を鎮める為にも必須となり、エリック帝はしぶしぶアーヘンに全諸侯を呼び寄せた。第二回帝国会議の開催である。&r()会議では勿論大半の諸侯は反対したが、多数決で決定される議会において、諸侯のほとんどは事実上フランスの属国状態であり、フランスは各国へ圧力をかけ議決を強行した。これは完全に第三次欧州大戦前夜の前会議の再演であり、フリードリヒ=アウグストが「帝国の否定につながる茶番である」と述べたように、諸侯の不満は頂点に達した。それでもエリック帝は、二度にわたり完膚なきまでに叩きのめしたスミトラントが立ち上がるとは考えていなかった。支援者となり得るビュザンティウム連合の勢力がレグルス戦争によって国土が荒廃し戦争ができる状態でなかったことも影響した。しかし、前回と異なり豊かなボヘミア王国を手に入れたことで、スミトラントの国力は完全に回復していた。なによりかの若き王は、後に"不屈王"と称され、エリック帝と並び立つ程の名声を歴史に残すことになる英傑であった。 |
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開戦 | |||||
プラハの密約と対仏大同盟 スミトラント王フリードリヒ=アウグストはフランスへ反旗を翻す決心を固めた。世界帝国への野望を持つ彼は、神聖ローマ帝冠は再びドイツ人の下に帰るべきだと考えていたし、追放された敬愛する父の仇を討ちたいと思っていた。旧知の中である、かつて第一次プラハ窓外投擲事件加担の疑いでフランスに逮捕されていた元プラハ市議ヨーゼフ・ベルクマンが釈放されると、彼を密偵頭として雇い、反フランス諸侯や周辺国へのネットワークを構築させた。アイゼルネ=ライン同盟諸侯は事実上フランスの属国状態で反仏感情も強く、フランスに近い諸侯ほど苛烈な徴募が行われたため、諸侯の中にはフランスから離反するものも現れた。彼らはアイゼルネ=アルギニアへの再統合を望み、アイゼルネ=アルギニア国は要請を受け立ち上がった。ロイターやグレービナなどスミトラント国境の諸侯はむしろスミトラントの保護を求めスミトラントに同調し、帝国外ではかつてフランスに領土を奪ザーティエラが応えた。問題の領土であるバスクはフランス直轄領とされていたが、高度な自治が認められてはいた。しかし、今回はそれによって元々徴兵が課されていなかったことで強制徴募法の対象となり、分離運動が盛んになっており、奪還の機会と見た。また、第三次欧州大戦に乗り遅れ神聖ローマ帝国の復活から外されたハプスブルク帝国は、自身こそが帝位に相応しいと考えていたし、イタリアへの野心からも参加した。スウェーデン王国はフランスの保護国となっていたデンマークを奪取せんとスミトラントと同盟を結んだ。こうして反仏諸国はプラハ市庁舎の地下に作られた秘密会議場を拠点に組織化され、対仏大同盟を結成した。さらにパナマ問題でフランス王と対立している、フランス最大の諸侯ブルゴーニュの公爵"常裸公"シャルルが、フランス王への対抗勢力を求め同盟に参加した。 対仏大同盟諸国は、仮想的フランスの弱体化を狙うブリテン島のアストリア聖国の資金援助の下で着々と戦争準備を進めた。しかし、ブルゴーニュ公は酔っぱらって計画を言いふらし、アストリアからブルゴーニュへの金の動きもフランス警察大臣フーリアンによって露見してしまう。エリック帝は対仏大同盟の可能性に気づいた。大同盟諸国は止む無く慌てて戦時体制に移行し、いよいよ戦争が迫った。 148年、フランスは対仏大同盟諸国に対し宣戦布告した。大陸軍はライン川を越え、後に第四次欧州大戦と称される長い長い戦争が幕をあけた。 |
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開戦後の経緯 | |||||
開戦 エリック帝の大陸軍は、前回のように副戦線を抑えつつ、主力で以て電撃的にドイツへ進軍しこれを撃破、返す刀で他勢力を撃破するという戦略を取り、ドイツ連合軍の合流前にこれを撃破せんと中間地点のハノーファーへ進軍した。この機動速度は圧倒的で、アイゼルネ=アルギニア軍は身動きする間もなく集結地点ブラウンシュヴァイクで包囲され降伏した。さらにこれを知らず合流しようと進軍したスミトラント主力の第1軍はブラウンシュヴァイクで大陸軍の大軍と遭遇し敗走、マクデブルクに逃げ込みウダンクール元帥に包囲された。その間に第2軍、第3軍もそれぞれ撃破され、大陸軍はメクレンブルク、ライプツィヒを占領し、ベルリンは地理的に包囲されスミトラントは瞬く間に敗戦寸前となった。オーストリアもミュンヘン、ニュルンベルクを占領し北上したが、ブラウンシュヴァイクの戦い後に南へ転進した大陸軍とイェナで戦い、これに敗れ南ドイツへ後退、追撃を受け本土へ追いやられた。その後オルデンブルクやベルク公国も降伏し、フランスは勝利目前に迫った。 ベルリンに迫る大陸軍に対し、フリードリヒ=アウグストは市民の請願を受けて脱出しプラハへ逃れ、敗走した第2、第3軍を再編し再起を図った。エリック帝はプラハ進軍のためベルリンで軍を再編していたが、ここで誤算が起こった。ブルゴーニュ戦線を任せた皇太子クリスチャンがバーゼルの戦いでブルゴーニュ=オーストリア連合軍に完敗し、補佐に付けたクレティエ元帥も戦死したという。老練なシャルル公は若いクリスチャンを巧みに山岳へ誘い込みボコボコにし、これを受けてオーストリア軍はフランス領ロレーヌへ侵攻、ナンシーの戦いでブルゴーニュ公軍と共にクリスチャンを破った。フランス本土が脅かされ、止む無くエリック帝は主力を率い転進、ブルゴーニュ征伐へ向かい、プラハ進軍は中止された。ブルゴーニュ公シャルルは大陸軍が迫ると、再び山岳に引っ込みオーストリア軍の到着まで時間を稼ごうとしたが、エリックは親衛隊を投入し、冬季にも関わらずアティサーリ将軍、小ジデンローヴ将軍らの活躍でミュルーズとスイスのオフトリンデンでブルゴーニュ軍を壊滅させた。オーストリア軍は慌てて踵を返したが、ライン川も目前のロルシャッハで追いつかれ大損害を出し敗走した。 バスク戦線は特に進展はなかった。エリック帝はミュルーズの戦いの後パリへ帰還していたが、ベルリンの守備に残したブランシェ元帥が略奪に奔走していると知らされ、急ぎベルリンへ戻った。 |
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フランスの勝利 ブランシェを更迭し再びプラハ進軍を計画したが、そのころにはスミトラント軍はアストリアの資金援助によりズデーテンに強固な防衛線を建設していた。これにはウダンクール元帥、リュッシュモン元帥などが攻略を命じられたが、スミトラントの名将シュヴェリーン公によってこれらの攻撃は跳ね返されていた。エリック帝はアストリアを黙らせる必要があると、対ザーティエラへスペイン沖へ出撃させていた地中海と大西洋の艦隊を呼び戻し決戦を挑んだが、トラファルガーで大敗を喫してしまった。この頃痔の悪化で弱っていたエリック帝は失意し、ベルリンの破壊でフリードリヒ=アウグストを脅し上げ屈服させようとした。しかしベルリンの窮状と降伏勧告を伝えに行ったその使節はプラハで窓外投擲されたため、ベルリンをしこたま略奪した後に議会を占領し、フリードリヒ=アウグストの廃位を議決させ傀儡のハインリヒ11世を立て講和を結ぶという姑息な手段を使った。とはいえ中心であったスミトラントが落ちたことで同盟の経戦意欲は下がり、ドイツ諸侯は屈服した。その後大陸軍はスウェーデンが占領していたユトランド半島へ侵攻しこれを撃退したが、海峡は強力なアストリア海軍が阻んでおり、ストックホルムの攻略は不可能と思われた。しかし、この年記録的な寒さでベルト海峡が凍結した。エリック帝は自ら先頭で氷上を渡りマルメーを攻略した。この戦いでスウェーデン王太子が戦死してしまい、スウェーデンは降伏した。 この遠征でいよいよエリック帝は痔の悪化が深刻なものとなった。オーストリアはロルシャッハの戦い後に追撃していたシェイフスキ元帥をインスブルックで撃退したが、スミトラントが脱落しフランス主力がオーストリア国境に迫ると休戦を申し入れ、エリック帝はこれを受け入れた。戦線がバスクから動かなかったザーティエラも休戦に合意し、第一次対仏大同盟との戦争はボヘミアを除き集結、同盟は解散した。この手ぬるい対応によって各国は余力を残し後の第二次対仏大同盟に繋がるのだが、エリック帝は這う這うの体でパリに帰ると入院を余儀なくされた。 |
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第二次対仏大同盟 プラハのフリードリヒ=アウグストはボヘミアの防衛をシュヴェリーン公やザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ家のハインリヒ大公らに任せ、トラキア・ローマ帝国首都アンドロニコポリスへ向かった。フランスが速攻し損ねたことにより、トラキアはレグルス戦争のダメージから立ち直る時間を得ており、イタリア征服の野望のため、皇帝ユリウスは第二次対仏大同盟の盟主となることを受諾しフランスへ宣戦布告した。この頃フランスはエリック帝が痔の悪化のため床に臥せっており、政権は皇太子クリスチャンが摂政として担っていた。彼は不在がちな父に代わり母マリー・ド・スミトラントの影響を強く受けた親スミトラント派であり、軍事行動に消極的だった。そのため反仏諸国はこれを好機と再び立ち上がり、対仏大同盟にこぞって参加した。失地回復を望むモレラ共和国も参戦し、アナトリアへ侵攻した。アストリアの同盟国安勢国も参戦した。 前回の敗戦をうけてライン同盟諸侯は日和りフランスに付いたため、クリスチャンは彼らの軍をライン方面軍の傘下に加え、さらにハインリヒ10世のスミトラント王国とボヘミアを望むポーランドのプジェミスル朝と同盟を結んだ。ドイツ方面は安泰と判断したクリスチャンは主力をザーティエラ攻略へ向け、ロンバルド軍とイタリア方面軍とでトラキアへの対処は充分と判断した。 |
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ドイツ戦線 ボヘミア攻撃の隙を衝いてブレーメンの市民がフランスに反乱を起こし、アストリアの援軍と共に市を占領した。これを奪還せんとライン方面軍のウールップ元帥は市を包囲し、安勢軍が市の援護のためシュターデに上陸し迫った。ウールップはヘッセン公を司令官とするライン同盟諸侯軍を率いる、イェリング朝の親戚でもあるオルデンブルク公爵クリストファにこれの対処を命じ自身は包囲に当たったが、寄せ集めの彼らはロクに連携できず安勢軍はこれを易々と撃破し包囲軍の側面を衝いたため、ウールップはハノーファーへ撤退した。アストリア=安勢連合軍はハンブルクを占領した。その後もライン戦線ではライン同盟諸侯が各地で敗れたり降伏したり裏切ったりと散々で、ウールップ元帥やライン方面軍に転属となった小ジデンローヴ将軍らが駆けずり回りなんとか戦線を維持した。これは諸侯の無能というよりは、単にフランス嫌いでやる気がなかったためであった。さらに、この隙を衝きプラハのフリードリヒ=アウグストがベルリンへ進軍した。ハインリヒはスミトラント軍を率い阻止に向かったが、スミトラント兵はこぞって攻撃を拒否し投降した。そのためライン方面軍へ応援を求めるためベルリンへ戻ったハインリヒだが、市民に捕まり市庁舎の窓から投げ落とされ重傷を負った。ベルリンは無血開城しフリードリヒ=アウグストはベルリンへ帰還を果たしスミトラント王に返り咲いた。 スミトラント=アストリア=安勢連合軍は合流し、フランス軍の小ジデンローヴ将軍の守るライプツィヒを奪還のため攻撃した。この戦いは三日三晩続いた。その間にアストリア軍の分隊がマクデブルクを占領したため、劣勢のジデンローヴはハノーファーとの連絡が脅かされることを恐れエアフルトへ後退した。連合軍は遂にフランス軍をスミトラント領からたたき出すことに成功した。 ポーランド軍はポニャトフスキ将軍の下でトルトノフの戦いでシュヴェリーン公を破りボヘミアへ侵入したが、オーストリア軍がスロバキアから進軍しクラクフを包囲すると、後退してフシャヌフでオーストリア軍と戦った。この戦いは長期戦となったが、ポーランド騎兵がヴィスワ川を迂回しオーストリア軍の補給線を脅かすと、オーストリア軍はスロバキアへ後退した。 |
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イベリア戦線 こうしたドイツでの劣勢の報を受けてなお、イベリア戦線で指揮を執る皇太子クリスチャンは主力を戻すことをためらった。ザーティエラとの争点であるバスク地方は未だ国民に人気のあるソフィア先王が暗殺され、第三次欧州大戦を経て父帝が奪還した、いわば聖地であった。ここを皇帝代理の立場で失えば、支持を失うことは明らかだった。 大陸軍は速攻でザーティエラを倒すべく、ピレネーの東西から大軍で進行した。マドリード、サラゴサ、バルセロナを占領し、首都バレンシアへ迫る作戦であった。マルシアル元帥はサラゴサ攻略の命を受け進軍した。サラゴサでは第二王子ピエールが防衛を固めていたが、マルシアルの偽装退却に釣られて打って出たところを撃破されてしまった。マルシアルはサラゴサに入ろうとしたが、軍無き後でも、市民が守備隊を編成し、防衛設備を引き継ぎ抵抗した。激闘の末マルシアルはサラゴサを陥落させ、報復として町を破壊した。その後、クリスチャンが数にものを言わせブルゴスを占領すると、功名心のためバルセロナに入り軍に口出ししていたテネリフェ公はビビッて後退を命じたため、デレッセル元帥は苦も無くバルセロナを占領した。 00月、ブルゴスのクリスチャンとサラゴサのマルシアルが動き出した。これにより目標が連携によるマドリード攻略と判断したザーティエラ軍は、大軍を集結させた。これの指揮官に王太子フェルナンドが任ぜられたが、フェルナンドは防衛より各個撃破をめざし打って出た。ブルゴスからサラゴサへの伝令は全て山中でザーティエラ軍によってとらえられており、サラゴサのマルシアルへ偽の伝令書を送っており、両軍の連携を破壊していたためである。そうとも知らず愚直に街道沿いを南下したクリスチャンがロソヤ川を渡河しようとしたところを襲撃し、ブイトラゴ デル・ロソヤの戦いが起こった。大軍の猛攻撃にクリスチャンはびっくりして落馬し、川に落ち溺れてしまった。命からがら救出されたが意識不明で、補佐に付いていたリュッシュモン元帥は代わって撤退を指示し自身の率いる師団で殿を務めた。この戦いでなんとかクリスチャンはフェルナンドの追撃を逃れブルゴスへ下がったが、リュッシュモンは重傷を負い後送された。フェルナンドは急いで引き返し、グアダラハラでマルシアルと激突した。クリスチャンの援軍が来ると信じていたマルシアルは頑強に抵抗し、フェルナンドの軍も大きな損害を出し自身も右腕を負傷したが、遂にマルシアルがブイトラゴ デル・ロソヤの戦いの顛末を知ると後退した。一連の勝利でザーティエラ人は活気づき、バスクで分離派の大反乱が発生した。 |
imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。イベリア北部でシェラルド軍を迎え撃つザーティエラ軍砲兵 | ||||
イベリア戦線その② イストリアの戦いでフランス・イタリア方面軍が壊滅したとの報が届くと、ザーティエラはトラキア軍との連携のためジェノヴァへ上陸し、これを占領した。クリスチャンはやむを得ずデレッセル元帥にバルセロナを放棄させ本土への後退を命じた。さらにパリで王妃マリー・ド・スミトラントと外務大臣プラティエ、そして弟シャルルが共謀したクーデター計画の噂が持ち上がると、クリスチャンは慌ててパリへ帰還し、大陸軍はマルシアル元帥に預けられた。マルシアルはサラゴサを放棄、後退し、バスクの叛徒を鎮圧した。その間にザーティエラ軍はジブラルタルのフランス軍を追い出し、サルデーニャ、コルシカをも占領した。 クーデターの実態は、ブイトラゴ デル・ロソヤの戦いの敗北に尾ひれがつき、クリスチャン戦死の噂が流れたために、マリーが弟シャルルを傀儡にたて、スミトラントに有利な講和を勝手に結ぼうとした、とのものであった。クリスチャンはマリーを逮捕したが、母に死を利用されたショックで疑心暗鬼に陥り、プラティエを解任し、勝手に担ぎ上げられただけのシャルルもパリから遠ざけるため、新規編成された軍の司令官に付けドイツへ送り出した。他国との交渉役であったプラティエが更迭され、後任には強硬派のモンディエール侯爵が就いたことで、フランスはさらに孤立を深めた。 |
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イタリア戦線 トラキア軍はオーストリア軍と連携し、イストリアからトリエステ、ゴリツィア両市の占領を目指し侵攻し、これをロシェシュタール元帥率いるイタリア方面軍とロンバルド王国軍とが迎え撃っていた。ヴィパーヴァ川の両岸を進軍するトラキア=オーストリア連合軍に対し、モンブラン准将の軽騎兵が奇襲しオーストリア軍をリュブリャナへ後退させたため、ロシェシュタールはシチリア戦争の反省を鑑み沿岸線の確保へ前進し、イストリア半島を占領した。しかし、孤立したリュシマクス司令官麾下のトラキア軍はあえて前進しトリエステを攻撃し、守備に付いていたヴェネツィア軍をオピチーナの戦いで撃破し、市内へ逃げ込んだヴェネツィア軍を包囲した。ロシェシュタールはゴリツィアのロンバルド軍に応援を要請したが、フランス人指揮官のイブレ将軍は部下の元holynation人に暗殺され、親仏のロンバルド兵は虐殺されゴリツィアはHN派に占領された(ゴリツィアの反乱)。イタリア方面軍は孤立してしまった。ロシェシュタールは包囲を突破しトリエステを目指すべく、パジンから後退しコペルの戦いでトラキア軍を破ったが、たどり着いたトリエステは既に陥落しており、市壁から砲撃を受けると士気が崩壊し潰走が始まった。一部の将兵は逃れたものの、ロシェシュタール含む大多数が捕虜となる大敗北となった。トラキア軍はヴェネトへ進出した。 イタリア方面軍の後任司令官アルシュペール将軍は北イタリア中から兵を集め、トラキア軍を食い止めんとパドヴァに集結した。しかし、トラキア艦隊がヴェネツィアに入り援軍を送り込みトラキア・イタリア遠征軍が大軍となると、ビビッて後退した。フランスはスイスからフロー師団を増援に送った。両軍はヴェローナで合流する手筈であったが、オーストリア軍がトレント方面から南下していた。アルシュペールは各個撃破のためほぼ全軍で北上したが、ブレンティーノの戦いはオーストリア軍が勝利した。敗走したフランス軍はヴェローナで立て直しを図るもトラキア軍の大軍にボコボコにされた。ヴェローナを放棄し敗走した兵のうち、アルシュペール麾下2万がマントヴァへ逃げ込んだ。他のブリエ師団、カファエッリ師団なども撃破されフランス方面へ敗走し、リュシマクスはマントヴァを包囲した。このころザーティエラ軍はジェノヴァを占領し、オーストリア軍はロンバルドの首都ミラノを占領した。トラキア軍は難攻不落のマントヴァを無視し進軍、ボローニャを占領した。その後、ザーティエラ軍との合流を目指しジェノヴァへ進軍した。 |
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イタリア戦線その② ジェノヴァ奪還のため、フランスから援軍が送られた。この師団の指揮官は、ミュルーズの戦いで小ジデンローヴ将軍の下で旅団を指揮し名を上げたルイ・ナポレオン・ド・バルニエ・ボナパルト将軍であった。彼は低地戦争の引き金となったルーデヴェイク・ヴァン・バルニエ・ボナパルトの弟であり、もともと軍人だったが、一家がヴァルキアから追放された際にフランス軍に入隊し名もフランス風に改めていた。ボナパルトはジェノヴァの攻略を命じられ、これを包囲していたが、トラキア軍先遣隊が迫ると包囲を解き、アレッサンドリアの戦いでこれを速攻で撃破し、返す刀でジェノヴァを飛び出し背後に迫るザーティエラ軍も撃破した。オーストリア軍もトルトナにいたが、トラキア、オーストリア間はイタリアへの領土的野心から潜在的対立があり、オーストリア軍はトラキア軍の応援要請を無視した。クリスチャンは久々の勝利に喜んでボナパルトをアルシュペールの後任としてイタリア方面軍司令官に任命すると、彼はミラノへ退却したオーストリア軍撃破のため、ポー川の下流へ機動し背後を衝こうとした。これに気づいたオーストリア軍は渡河地点ピアツェンツアでイタリア方面軍を攻撃したが一歩遅く、反撃と迂回部隊の側面攻撃を受けて敗走した。退路を脅かされたオーストリア軍はミラノから後退し、イタリア方面軍はミラノを奪還した。 ボナパルトは続いてマントヴァを解囲せんと攻撃したが、中にいるフランス軍を出すわけにはいかないと包囲中のトラキア軍は必死に抵抗した。するとボナパルトはあっさりとマントヴァから手を引き北方へ迂回、ミンチョ川を越えトラキア軍の補給拠点ヴェローナを攻撃、これを攻略した。トラキア軍は電撃戦に対応できず、マントヴァの軍は逆包囲され降伏した。マントヴァは解放され、餓死寸前だったフランス軍は救出された。アレッサンドリアの戦い後にボローニャへ後退したトラキア軍はローマ進軍を計画していたが、ヴェローナ、マントヴァを失い本土との連絡線が断たれたためリュシマクスには後退命令が下り、パドヴァで軍を再編した。 トラキア、オーストリア連合軍は数の上ではフランス軍を圧倒していたが、なまじ緒戦で大勝してしまったことで、北イタリア一帯が草刈り場と化したために両者の領土的野心が対立し、連携がとれなくなっていた。そのためにボナパルトの各個撃破による反撃を許してしまった。このころフランクフルトの戦いで同盟軍が敗れたため、オーストリア戦線を守りやすいトレントまで下げ、主力をドイツ戦線へ移動させた。ボナパルトはアルシュペールと共に各地で戦勝を重ねていった。 |
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ギリシャ、アナトリア戦線 制海権を握るモレラ軍はあっさりとレスボス島を占領した。モレラ共和国とアナトリア王国は共にレグルス戦争で最もダメージを受けた国だが、モレラでは占領後も残存軍人主体で組織的なレジスタンス活動が行われ、戦後も軍隊の再建が比較的早かった。モレラはメガリ・イデアを掲げアナトリア再征服を目指しボスポラスを越えた。しかし、山沿いに防衛線を構築したアナトリア軍の前にモレラ軍は苦戦し、前線は少しずつしか進まなかった。 苦戦したモレラはクリミア戦争で奪った黒海油田を譲渡することでクリミアの凸合衆国を参戦させた。凸軍は前線の後方へ強襲上陸を成功させ、アナトリア軍は慌てて後退した。モレラ軍はイズミト、サカリヤを占領したが、アナトリア軍がフィッツカラルド元帥によって立て直されると、反撃を受けサカリヤ川で戦線は停滞した。 |
imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。ホバークラフトでアナトリアに上陸する凸軍 | ||||
ドイツ戦線その③ ドイツ戦線では、仏ライン方面軍とポーランド軍が連携しベルリンを攻撃しようとしたが、ポーランド軍はフランクフルト・デア・オーデルの戦いで食い止められた。マクデブルクで反撃を受けたライン方面軍もハノーファーへ戻った。スミトラント王フリードリヒ=アウグストはボヘミア軍を率い西進し、ニュルンベルクの戦いでライン同盟軍を撃破し降伏させた。続いてエアフルトの小ジデンローヴ将軍を攻撃したが、小ジデンローヴは寡兵ながら持ちこたえ、フリードリヒ=アウグストは右腕ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ公ハインリヒに包囲を命じ、目標を変えフランクフルトを攻撃した。ハノーファーのライン方面軍とウールップ元帥は、北のハンブルクで増強したアストリア=安勢軍の対応のため動けず、小ジデンローヴもエアフルトの戦いのダメージの回復に時間を要した。また、中立を宣言していたヴァルキア王国が、フランスがバルニエ弟を将軍にしたことに反発し、アストリアへ通行権を与えた。これによりアストリア軍がネーデルラントに上陸し、ライン沿いに進軍、デュッセルドルフを占領した。ドイツのフランス軍は大包囲寸前だった。 パリで再編された大陸軍を率い、シャルルが出立した。この際、オルレアン公の地位が与えられている。ザーティエラ戦線はバスク防衛に専念し縮小され、イベリア方面軍の指揮はデレッセル元帥が執り、余剰人員はマルシアル元帥と共にドイツへ回された。シャルルはフランクフルトの解放に向かいライン川を越え、00日、フリードリヒ=アウグスト指揮下のボヘミア=アストリア連合軍とフランクフルトの戦いが始まった。シャルル率いる右翼軍は新兵中心だが数は多く、少数精鋭のボヘミア軍へ波状攻撃をかけ疲弊させた。フリードリヒ=アウグストの要請で左翼のアストリア軍は前進し、マイン川で包囲を狙ったが、こちらを支えるマルシアル軍団は古参兵揃いで攻撃を凌ぎアストリア軍を後退させた。ここで右翼で戦っていたシャルルが重騎兵を率い反転し、後退中のアストリア戦列の隙へ突撃するとこれが成功し、アストリア軍は大きく後退した。さらに先月にイタリアでオーストリア軍と戦ったフロー師団が強行軍で引き返し、マイン川の対岸へ迫っていることを知ると、フリードリヒ=アウグストは全軍に撤退を命じた。フランス騎兵は追撃戦で大いに戦果をあげた。 |
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和平へ ボナパルト指揮下のフランス・イタリア方面軍がトリエステ、ゴリツィア両市を奪還すると、トラキア帝国は緒戦での戦果の喪失、さらに本土へ迫られたことで、レグルス戦争の後遺症を残しての戦争に国民の理解が得られなくなり、リュシマクス司令官に命じフランスとの和平を図った。トラキア特使はトリエステでボナパルト司令官と接触し、トリエステ条約を結び戦争から離脱した。この条約でトラキアは北イタリアから撤退し、さらにスロヴェニア、イストリア半島がフランスに帰属すると、ボナパルト将軍は国民的英雄として称えられた。モレラ共和国もまた、トラキアの離脱と立て直したアナトリア軍の反撃によって離脱に同調した。 第二次対仏大同盟を主導したトラキアが屈したことで同盟は崩壊した。トラキアの離脱でオーストリアはイタリアのフランス軍とポーランド軍とに挟撃されることとなり、ポーランド軍の全面攻勢に対し、フリードリヒ=アウグストはボヘミア防衛のためプラハへ戻った。この際、先のフランクフルトの戦いで戦線を支え切れず先に後退したアストリアに不信感を抱き、連絡せずに撤退したために、ドイツに取り残されたアストリアは怒って安勢軍と共に帰ってしまった。 フランス・ライン方面軍にとって千載一遇の機会であったが、クリスチャンはシャルルにこれ以上戦果をあげさせ人気を奪われることを恐れ、進軍を許さなかった。また、長く戦場となった北ドイツ諸侯は疲弊しきっており、宗主国フランスへ繰り返し停戦要請していたことで、クリスチャンは各国と休戦交渉を行った。対ザーティエラにおいて、プラティエの助言に基づきバスクの返還による和平を模索した。これはザーティエラのジェノヴァ占領の際、同時にクラフタリア領サルデーニャが占領されており、クラフタリアより両国へ和平の圧力がかかっていたことも原因であった。ザーティエラはバスクの返還及びサルデーニャ、コルシカからの撤退で合意し、両国はサッサリ条約を締結し和平を結んだ。 残る国家も戦争に疲れ、休戦交渉に応じた。これらはフランス領ラインラントの主要都市ケルンにて、ケルンの和約として合意された。強制徴募法も撤廃された。 |
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戦間期 ケルンの和約後も、ドイツ統一を大願とするスミトラントのフリードリヒ=アウグストは対仏戦の再開を模索した。000年、スウェーデン王太子が第一次対仏大同盟戦争で戦死し、スウェーデン王カールは嫡子なきまま高齢となっていた。そこでカールは次期国王にスミトラントのフリードリヒ=アウグストを指名した。近縁であったことは勿論のこと、カールはフリードリヒ=アウグストとプラハの密約締結時に交流し、その人柄を非情に気に入っていた。フリードリヒ=アウグストはこれを受け入れ、ストックホルム条約を締結した。これにより両国は同盟を締結し、フリードリヒ=アウグストはスウェーデン王太子となった。フランスやポーランドは反対したが、どこもすぐに戦争を再開できる余裕はなかった。 フランスでは、シュレースヴィヒ、バスクでの妥協は国民に大いに不興を買い、エリックは政権への不満をそらすため、大々的にスミトラント批判キャンペーンを行った。その一環でスミトラント人の間で主流である異端プロテスタントとその保護者フリードリヒ=アウグストを主的し、リヨンの勅令を定めフランスや西ドイツ、イタリアなど支配域からプロテスタントを追放した。これによってフランスの少なくない学者や資本家などがスミトラント領へ流れ、フランスは弱体化した。また、戦況的には優勢にも関わらず敗戦同然の和約を結んだクリスチャンは人気が地に落ちており、逆にフランクフルトの勝利を齎したシャルルこそ皇太子に相応しいという論調が立っていた。 000年にエリック帝が痔の悪化に伴う熱病から回復すると、サッサリ条約に非情に不満を持ち、プラティエを解任するとザーティエラに対しバスクの際割譲を要求した。ザーティエラはこれを拒否し、戦争止む無しの姿勢を見せた。このころ、ペルシア戦争が勃発すると、フランスはペルシア側に立って参戦し、バスクへ侵攻した。ただし、この時点ではあくまでペルシア戦争の一戦線と見られ、戦争疲弊の抜けない反仏諸国は動かなかった。それでもエリックは反仏諸国の参戦を警戒し、多くの兵をフランスに残さざるを得なかった。 |
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ペルシア戦争とフランス=ザーティエラ開戦 エリック帝が痔の悪化に伴う熱病から回復すると、サッサリ条約に非情に不満を持ち、プラティエを解任するとザーティエラに対しバスクの際割譲を要求した。ザーティエラはこれを拒否し、戦争止む無しの姿勢を見せた。このころ、ペルシア戦争が勃発すると、フランスはペルシア側に立って参戦し、バスクへ侵攻した。ただし、この時点ではあくまでペルシア戦争の一戦線と見られ、戦争疲弊の抜けない反仏諸国は動かなかった。それでもエリックは反仏諸国の参戦を警戒し、多くの兵をフランスに残さざるを得なかった。 フランス軍はピトリアの戦い等緒戦の決戦では勝利を重ねたが、剣俊なイベリア戦線の維持には兵が足りず、ザーティエラが決戦を避けるようになると戦果が上がらなくなり、泥沼へ陥った。 |
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ナポリ継承問題と第三次対仏大同盟 -年、ナポリ王マクシミリアーノが死去し、嫡子がなかったため、ナポリ王位は空位となった。マクシミリアーノはもとはフランスの騎兵元帥マクシミリアン・メーレンカンプであり、戦功の褒美としての王位であった。そのため、エリック帝は死後のナポリ王位は親族に与えるつもりであり、クリスチャンや釈放された王妃マリー・スミトラントらの推薦でオルレアン公シャルルを据えようと考えていた。推薦はシャルルをパリから遠ざけるためのものであったが、イタリア支配を強化したいエリック帝の意向にもかなうものであった。 しかし、ここで帝国諸侯のひとつ、マルタ島辺境伯から待ったがかかった。マルタ島辺境伯領はもともとイタリア全土を支配していたholynationの亡命政権であり、半島戦争、シチリア戦争を経て半島の全領土を喪失してからマルタ島に逃れ、フランスと和解してからは帝国諸侯のひとつとなっていた。この和解はフランスとトラキアがアフリカ植民地で争ったチャド戦争に際し、マルタ騎士の援軍を得るかわりに結ばれたものであり、その際「継承者の絶えたイタリア諸侯領に対し、マルタ島辺境伯の継承に便宜を与える」という取り決めが交わされており、辺境伯テオドラはこれを引き合いに出しナポリ王位を要求した。しかし、エリック帝は対トラキアの最前線となるナポリを渡すことを渋り、代わりとしてロンバルド王冠領内のトスカーナ公爵領を与えることにした。 テオドラは表向きこの提案を承諾し、トスカーナ公国首都フィレンツェに入り戴冠した。しかし、このとき既にテオドラはトラキアとマルタ条約という密約を結んでいた。これはトラキアがマルタ辺境伯のholynation旧領の再征服を全面的に支援し、フランスがイタリア戦争に係りきりになっている間にアナトリアを再征服しようというものであった。フランスの主力部隊がスペイン戦線で泥沼に嵌っているこの隙を逃す手はなかった。エリック帝はスペイン戦線を離れ、ミラノのロンバルド王宮でトスカーナ=マルタ公となったテオドラへ改めて臣従礼を求めたが、テオドラはこれを拒否しholynationの復活を宣言、トラキア、モレラと同盟した。さらに第三次対仏大同盟の結成を宣言すると、これ幸いとスミトラント=ボヘミアが参加し、アストリアと安勢も加盟を表明し、第二次対仏大同盟のそれと同様の構図となったことで、ふたたびの国土の荒廃を恐れたライン同盟諸侯もこぞって反仏に転じた。瞬く間に結成された包囲網に、エリック帝はたまげたという。トスカーナ=マルタはフランスへ宣戦布告し、第三次対仏大同盟戦争が始まった。 |
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ドイツ戦線 エリック帝は未だ旗色を明らかにしないライン同盟諸侯を牽制するため、ライン方面軍司令官ウールップに中部ドイツへの進出を命じ、ウールップはカッセルに進出した。スミトラント軍とアストリア軍は、これを撃破すべくカッセルへ連合軍を集結させ、カッセルの戦いが起こった。両軍の合流にはフルダ川を越えなければならず、各個撃破を企図しウールップは主力を連れシュタウフェンベルクでスミトラント=ボヘミア軍と接敵し、小ジデンローヴ将軍が寡兵でフェルマーでアストリア軍と対峙した。シュタウフェンベルクの戦闘ではウールップ軍の猛攻撃に晒されたスミトラント軍は一時敗北手前まで追い込まれたが、フリードリヒ=アウグスト自ら前線に立ち兵を鼓舞しなんとか持ちこたえ、戦闘は長期戦となった。速攻が挫かれ、寡兵の小ジデンローヴ軍が追い込まれていくと、ウールップは焦りジデンローヴの下へ援軍を割いた。その日の戦闘は日暮れにより休止となったが、これにより両戦線で劣勢となってしまったライン方面軍は、夜のうちにカッセルを放棄しフランクフルトへ後退しなければならなかった。その後、連合軍はフランスに付いたバイエルンの軍をエルヒンゲンで撃破した。これを受けてオーストリア帝国が大同盟へ参加し、フランスへ宣戦布告した。 カッセルの決着がついたころ、エリック帝は親衛軍団と予備軍とでドイツへ進軍した。エリックは北のスミトラント=アストリアと南のトラキア=モレラ=マルタが連携しようとする動きを阻害するため、中間地点となるオーストリアが戦争準備を完了する前に撃破しようと、気づかれないようスイスから強行軍で進軍した。フランス軍はオーストリア軍の一軍を第二次インスブルックの戦いで撃破し、主力の集結していたザルツブルクを包囲すると、オーストリア軍は降伏し休戦を結んだ。フランス軍はその後、オーストリアの降伏を知らず、合流しようとしていた○○司令官指揮下のトラキア=モレラドイツ遠征軍を目指した。この軍はグラーツで小休止していたが、大陸軍の最先鋒としてアルプスを駆け抜けたマルシアル軍団、ウダンクール軍団、ボナパルト軍団らに包囲され、戦闘準備もままならないままに戦闘が始まった。さらに後続のエリック帝の主軍やオリオール軍団、ブランシェ軍団らが到着すると、遂に敗走した。大陸軍は踵を返しリンツでドイツ連合軍と接敵すると、こんどは正面から大軍で圧倒し撃破した。連合軍はフランス騎兵の追撃を受け大損害を出しながら敗走し、エリック帝はドイツへ進軍した。 北からはポーランド軍がオストラバの戦いでスミトラント=オーストリア連合軍の大軍をフサリアの重騎兵突撃で破った。ポーランド軍はプラハへ進軍、占領し、遅れてエリック帝率いるフランス軍もプラハへ入った。ポーランド王○○はボヘミア王位を宣言した。トラキアは仏と休戦した。 |
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イタリア、アナトリア戦線 トスカーナ=マルタ軍はナポリへ進軍し、ナポリ市民はフランスからの解放者となるテオドラを歓迎した。イタリア方面軍軍を任せられたオルレアン公シャルルはナポリ奪還のため教皇庁に通行権を要求したが、教皇クレメンスはシチリア戦争のときのように教皇領が戦火に包まれることを恐れ拒否し、フランス、大同盟双方に対し中立を宣言した。そのためナポリ全土にholynation旗が掲げられるのに時間はかからなかった。一方でトスカーナはイタリア方面軍の攻撃に晒さえた。テオドラはトラキア軍、オーストリア軍に応援を要請したが、彼らはオーストリアでの戦いでフランス軍に敗れ後退しており応援は不可能だった。holynation軍はピサでザーティエラからの援軍を得たが、イタリア方面軍と激突したルッカの戦いでは、それでも数的不利であった。シャルル率いるイタリア方面軍のサルキオ川渡河攻撃は熾烈を極めたが、士気高いマルタ騎士を主力とするholynation軍はよく粘った。しかし同時に攻撃を受けていた、ザーティエラ軍が籠っていたリボルノ、ビアレッジョ両港の戦いでイタリア方面軍が勝利した。両港はザーティエラ海軍に守られており、最初の攻撃は艦隊の支援で跳ね返したものの、翌日は嵐となり、大雨の中フランス軍の夜襲を受け敗走した。退路が失われたことでルッカ戦線のザーティエラ軍はパニックとなり、混乱の中でイタリア方面軍の総攻撃をうけ、遂に戦線は崩れた。イタリア方面軍はトスカーナ首都フィレンツェ含む全土を占領し、holynation軍はナポリへ逃れた。 アナトリアではフィッツカラルド元帥がロシア遠征のため本国に召還されたこと、ペルシア戦争のために戦力が割かれていたことでモレラの攻勢を防ぎきれなくなり、遂にサカリヤ川防衛線の突破を許した。しかし、イズミル大公率いるアナトリア軍との間にビレジクの戦いが起こると、これにアナトリア軍が勝利し、モレラ=凸軍をふたたびサカリヤ川防衛線まで押し戻した。 |
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ロシア遠征 フランス軍はスミトラントへ侵攻し、ベルリンを占領した。フリードリヒ=アウグストは本土決戦を覚悟したが、このときスウェーデン王が崩御した。そのためスウェーデン政府の誘いもあり、フリードリヒ=アウグストは本土決戦をせずに、アストリア海軍の支援でスミトラント軍を連れてスウェーデンへ後退し、ストックホルムでスウェーデン王として戴冠した。追撃に失敗したエリックは第一次対仏大同盟のときのようにデンマークからスウェーデンへ侵攻しようとしたが、制海権は強力なアストリア海軍が握っており、前回のように海峡が凍結する可能性は少なかった。フランスはドイツ、イタリアと陸戦で圧勝したにも関わらず、泥沼のスペイン戦線での疲弊やアストリア、ザーティエラ、スウェーデン海軍らの攻撃で苦しめられていた。第一次対仏大同盟戦争から続く海上封鎖もフランス経済を深刻な不況へと陥れており、エリック帝は一刻も早い戦争終結のため、ふたたびの野戦での大勝利、そしてスウェーデンへ逃れたフリードリヒ=アウグストを屈服させる必要があった。 000年、エリック帝はスウェーデン遠征を決意した。海峡を通れないのであれば、ロシアから陸路でスウェーデンを攻めようというものであった。エリック帝はユークバニア連邦、シランナ民主共和国らに通行権と遠征への支援を求めたが、両国は拒否した。かつて中華社会主義共和国連邦を消滅させ安全保障体制を崩壊させたフランスは仇敵であった。しかし後に引けなくなっていたエリックは遠征を強行した。先ず占領下にあったスミトラントで再び傀儡王ハインリヒを即位させ同盟を結ぶと、フランス、ライン同盟諸侯、イタリア等各地で徴兵を行い、ドレスデンに大軍を集結させた。ロシア遠征軍である。圧倒的大軍であって進軍すれば、ロシア諸国は逆らえずフランス連合軍の通行を黙認するだろうという考えであった。遠征軍は先ずワルシャワに入り、同盟国ポーランドの軍を加えミンスクへ向かった。ロシア諸国の脅威にさらされているヴィリニュス大公国はフランス連合軍を歓迎し、同盟を結び遠征軍へ加わった。際限なく膨らみあがった大軍は補給線を圧迫していった。 ちなみに、月ノ谷に関しては、ペルシア戦争では共闘関係にあったため、フランスへの宣戦は形式的なものであり戦闘には参加しなかった。 |
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ロシア遠征その② フランス連合軍はスモレンスクへ進軍した。ロシア連合軍総司令官○○はこの大軍に恐れ慄き勝手に後退してしまい、スモレンスクはなんなく陥落した。これに気をよくしたエリックは軍を二手に分け、一方をサンクトペテルブルク方面のプスコフへ、自身はモスクワへ進軍した。 エリックの望みはスウェーデンへの道の安全であり、これを飲ませる程度であれば、野戦で1,2度勝利すれば叶うと考えていた。しかしロシア連合軍総司令官○○はフランス軍のドイツ、イタリアでの戦いから学び、退却に退却を重ね決戦を避け続けた。しかし、この姿勢が大統領ラーチンに敗北主義的と批判され更迭されると、変わって司令官に就いた○○はモスクワへの途上、ヴァジマで決戦を挑んだ。ヴァジマの戦いでは、ロシア連合軍を逃がしたくないエリックはポーランド軍、リトアニア軍とヴァジマを包囲するように機動しようと計画した。しかし、ドイツよりはるかに広く、さらにコサックの奇襲が絶えないロシアの無限荒野では離れた各軍の連携が取れなかった。エリック率いるフランス軍はカイダコヴォでロシア軍を撃破し気をよくし、ポーランド軍に撤退したロシア軍の追撃を命令した。しかし、これはロシア軍の分隊のひとつに過ぎなかった。ボロジノで接敵したポーランド軍はロシア軍の主力と対峙してしまい、両軍の激闘は凄惨なものとなった。援軍要請を出したリトアニア軍も到着時間が大幅に遅れ、ポーランド軍は辛うじて虎の子のフサリアを突撃させることでなんとかロシア軍を撤退させたものの、被害はむしろ多かった。フランス連合軍はヴァジマで合流したが既にロシア軍は撤退済みであり、エリックはボロジノの激闘を知らないままポーランド軍司令官ポニャトフスキ将軍へ苦言を呈した。これによりフランス、ポーランド両国の関係は決裂してしまう。ポーランド軍は帰国してしまい、ヴィリニュス軍も続いて離脱し、ただでさえ落伍兵、脱走兵が続出していた連合軍は大きく数を減らしてしまった。 |
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ロシア遠征その③ ポーランド、リトアニア軍が離脱してなお、エリックは自身の野戦の才能があればロシアを倒せると考えていた。フランス軍はモスクワへ向け進軍した。シランナ領へ侵攻したシェイフスキ元帥の軍は同盟国ローゼノワール王国の軍と合流しプスコフを攻め、これを攻略したとの報が届いたことも追い風と考えた。一方でユークバニア軍は司令官○○が返り咲き総指揮を執った。フランス軍はいよいよモスクワへ迫り、慎重派の○○も後へは引けなかった。両軍はドロホヴォで激突した。 このときエリックはふたたび痔が悪化し、何の作戦もなく正面攻撃を命じ、指揮も冴えなかった。ユークバニア軍は急ごしらえの堡塁からフランス軍を砲撃し死体の山を築く。一方でフランス軍もまた、ウールップ、フィッツカラルド、昇進した小ジデンローヴといった元帥たちの現場でのふんばりでいくつかの堡塁を奪っていった。フランス軍最大の誤算は王太子ベリー公クリスチャンの率いる軍団が動かなかったことだった。彼は歴戦の元帥たちと異なり、総司令官エリックの指示なしには動けなかった。フランス軍は次第に劣勢に追い込まれていったが、日が暮れたためこの日の戦闘は終了した。この戦いではユークバニア軍も相当大きな被害が出ており、司令官○○は夜間のうちに後退した。 フランス軍はドロホヴォを占領し軍を再編すると、モスクワへ進軍した。ユークバニア軍と政府は戦略的なモスクワ放棄を選択し、あらゆる住民、食料、資本と共に後退した。エリックは遂にモスクワを占領したが、ユークバニア政府は当然和平の使節を送り返し、エリックの望むような結果とはならなかった。フランス軍はドロホヴォの消耗からユークバニア軍を追撃できず、エリック自身も痔を癒すためにモスクワへ留まらざるを得なかった。次第にロシアへ厳しい冬が訪れた。エリックとフランス軍は冬のロシアの真ん中、モスクワへ閉じ込められてしまう形となってしまった。 シェイフスキ元帥麾下のフランス軍とローゼノワール軍は共同でサンクトペテルブルクを包囲していた。しかし、制海権のないフランス軍と海上補給を受けられるサンクトペテルブルク市とでは、どちらが包囲されているのかわからないような消耗差であった。それでも市はフランス=ローゼノワール軍の砲撃によりダメージを受けていたが、そんな中で冬が到来した。シェイフスキはエリック帝の指示を仰ごうとしたが、伝令はすべてコサックの餌食となるか一面の銀世界で方向感覚を失い迷子になり凍死するかで、連絡は取れなかった。シェイフスキは撤退か冬営かの選択を迫られたが、皇帝の勝利を信じ冬営に入り、包囲を継続した。 |
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ロシア遠征その④ エリックは再三ロシア連合各国政府へ和平交渉を行ったが、成果は上がらず時間だけが過ぎていった。いよいよ冬の到来が本格化すると、補給線は無いも同然となってしまい、北のシェイフスキ、ローゼノワール軍とも連絡が取れなくなっていた。エリックは止む無く撤退判断を下した。フランス軍がモスクワを出て退却を開始すると、ユークバニア軍の猛反撃が始まった。ドホロヴォ、ヴァジマなども既にユークバニア軍の手によって奪回されており、フランス軍は道なき道を村々を焼き払い略奪しながら退却する羽目になった。ときおり会戦になればフランス軍は奮闘したものの、補給線は寸断され、寒さと飢えで戦死者よりはるかに多くの落伍兵を出していった。もはやロシア遠征軍は存在しないも同然だった。フランス軍は這う這うの体でスモレンスクへたどり着いた。 中でもフランス軍の最後尾で退却したフィッツカラルド元帥の部隊はユークバニア軍の最も激しい追撃を受け、殆ど本隊と連絡がとれなかったが、元帥がスモレンスクに現れると、エリックは彼を勇者の中の勇者と称えた。エリックはスモレンスクの守備にオリオール元帥を残し、ヴィリニュス大公国へ後退した。オリオール元帥は親衛隊出身で、忠誠心を代われ元帥に叙されたが、指揮官としての能力は殆どなかった。スモレンスクは陥落し守備隊は玉砕した。 フランス軍はヴィリニュス、ポーランド領内は無事に退却することができたが、ドレスデンへ戻るころには、ドイツ、イタリアは再び敵まみれの状況となっていた。フランス軍ロシアで大敗の報は瞬く間に欧州を駆け巡り、かつての対仏大同盟諸国はこぞってフランスへ宣戦布告していた。スウェーデンのフリードリヒ=アウグストもスウェーデン軍を連れスミトラントへ上陸し、フランスの傀儡王ハインリヒを再び窓外投擲しベルリンへ入城していた。 ドレスデンはボナパルト将軍が守っており、そこから睨みを効かせることで辛うじてライン同盟諸侯の離反を防いでいたが、スミトラントが奪回されたことで、これも怪しくなっていた。000年、エリック帝とロシア遠征軍はドレスデンへ帰還し、拠点をよりドイツ中心部に近いライプツィヒへ移した。 |
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ドイツ戦線その② 第四次対仏大同盟が結成され、大同盟は周辺国の囲い込みに動いた。ポーランド=ボヘミア王国では王朝がボヘミア貴族のプジェミスル朝に代わり、新王は没落したフランスを見限り大同盟と交渉し、同盟へ加わることでボヘミア=ポーランド同君連合を認めさせた。スミトラント王フリードリヒ=アウグストは抗議したが、スウェーデン王位の証人で手打ちした。ローゼノワール、ヴィリニュスらもロシアの脅威から身を護るために鞍替えし、サンクトペテルブルクに取り残されたシェイフスキはロシア連合軍に包囲され、突撃し玉砕した。残るフランス軍は投降した。 000年、アストリア軍がノルマンディーに上陸した。これはパリ周辺の軍をかき集めヴァロニューの戦いで撃退したが、こんどはバルニエ家の扱いから対立していたヴァルキア王国がついにフランスを見限り、中立を宣言しつつ大同盟へ通行権を与えた。アストリア軍がネーデルラントに上陸すると、フランス本土は大いに脅かされた。エリックはフランスへの退却も考慮したが、そうするとライン同盟諸侯まで敵に回り、さらにイタリア方面とドイツ方面の敵の合流を許してしまうため躊躇い、ずるずるとライプツィヒで時間を浪費した。時折会戦での勝利を求め出撃したが、大同盟諸国は決戦を避け退避してしまい、そうした無駄な時間の間に大同盟諸国は戦争準備を整え、ロシアや東欧の軍もドイツに到着してしまった。 ライプツィヒの戦いは、第四次欧州大戦で最大規模のものとなった。アストリア=安勢、ロシア連合、オーストリア、スミトラント軍は合流し大軍となり、ライプツィヒのフランス軍を攻撃し奪回しようとした。 エリックは防衛戦の経験は殆ど無く、指揮に精彩を欠いた。それでも歴戦の元帥たち、古参兵たちが戦線を押し返し、一時は大軍でもって押しても崩れないフランス軍の精強ぶりに連合軍首脳陣が恐慌に陥りかけるほどだった。しかしライン同盟諸侯各軍の戦闘拒否が続出するようになると戦列が崩れ始め、フランス軍のブランシェ元帥がスミトラント軍へ裏切ったことで趨勢が決した。フランス軍はエアフルトへ総退却を開始した。 連合軍はエルスター川を越えて追撃の部隊を出したが、これは殿のフィッツカラルド元帥の奮戦で食い止められ、フランス軍は退却した。エリックは遂にラインの向こうへの退却を決意した。途中裏切ったライン同盟軍とオーストリア軍とがアイゼナハで立ち塞がったが、この戦いはフランス軍が勝利した。 |
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イタリア戦線 イタリアへはholynation、オーストリア、トラキアらが侵攻し、フランス親王オルレアン公シャルルと戦った。オーストリアとトラキアは再びヴェローナで合流しようとし、これを防ぐためシャルルはミラノを出立した。シャルルは山道を南下するオーストリア軍の行軍速度は遅いと判断し先にトラキア軍を強襲した。フランス軍とトラキア軍はビチェンツァの戦いで衝突し、フランス軍が勝利しトラキア軍をブレンタ川の向こうへ追いやった。しかし、オーストリア軍は○○大公の下フランス軍の背後を猛追しており、進軍速度を見誤ったシャルルはスキオで不利な地形でオーストリア軍と戦い、これに敗れヴェローナへ後退した。 |
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フランス戦線 エリックはパリに帰還すると、ザーティエラとバスクを巡り続いていた戦争の和平を行った。ペルシア戦争での敗戦もあり、フランスはバスクを返還した。これによりスペイン戦線で戦っていた大陸軍の主力を引き上げさせると、追加徴兵法も制定し、軍隊を再建し前線へ向かった。 ライン戦線では小ジデンローヴ元帥の守るハンブルクがスミトラント軍の包囲によって降伏し捕虜となった。マインツでもオーストリア軍の包囲戦で、高齢の指揮官リュッシュモン元帥が疫病で死亡し、残る軍も降伏した。スミトラント、オーストリア、ロシア連合軍はライン川を越えフランス領ラインラントへ侵攻した。アストリア=安勢国はヴァルキアでドイツ方面の戦線の押し上げを待っていたが、ザーティエラ=フランス間の和平により主力が戻ってきたことを知ると、アムステルダムを包囲し、アムステルダム条約を締結しヴァルキアを強制的に大同盟へ加入させた。 大同盟軍は各地からフランス本土に侵攻した。エリックは大陸軍を率い各地を転戦し、会戦となれば勝利することができた。しかし他戦線の対処のため追撃が行えず、戦果が上がらなかった。さらに、主力のいない戦線では大同盟軍が勝利を重ね、いよいよアミアン、ランスが陥落した。 脅威がパリに迫ると、市民は恐慌に陥った。エリックは混乱を鎮め、さらに徴兵するために一度パリへ帰還した。しかし、チュルイリーで追加徴兵法の発布を宣言しようとしたところ、王太子ベリー公クリスチャンが軍隊と共に現れ、エリックを捕縛した。クリスチャンと王妃マリー・スミトラントによるクーデターだった。クリスチャンは軍事的失敗から自身の立場が危ういと疑心暗鬼になっており、母マリーと和解し保身工作を図っていた。政権を掌握すると大同盟諸国に対し降伏を宣言した。長引く戦争に疲れていた市民は終戦を求めていたし、それは皇帝に心酔していたはずの軍隊も同じだった。前線で戦う元帥たちも不満こそ持てど、抵抗する気力は残っていなかった。 連合軍はパリへ入城し、講和会議がウィーンで開催された。フランスからは復帰したプラティエが出席した。 |
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ウィーン会議と戦争の再開 ようやく開催されたウィーン会議だが、参加国は昼にはそれぞれ利権の確保に執心し、夜には連日舞踏会を開催し、といった具合で、「会議は踊る、されど進まず」と形容した。特にドイツでのオーストリア、スミトラントの対立やイタリアでのオーストリア、トラキア、holynationらの対立は深刻だった。 会議が踊っていた頃、エリックの身柄がベルリンへ移送されることとなった。しかし、この途中でフランスのマルシアル元帥が皇帝親衛隊を率い護送隊を襲撃し身柄を奪取した。会議中の連合国は慌てて追っ手を派遣したが捕まらず、遂にエリックはザーティエラへ逃れた。このニュースはフランス全土に伝わり、フランス国民はエリックの帰還を望むようになった。というのも、このころには戦争疲弊も忘れ、日に日に伝わるウィーン会議での屈辱的なフランス敗戦条約に対する不満が高まっており、それは連合国の言いなりである国王クリスチャンへの不満でもあった。 000年、エリックは親衛隊と共にパリへ進軍した。クリスチャンは連合国の要請で討伐軍を送ったが、彼らは行く先々でエリックに忠誠を誓い、パリに着くころには大軍となっていた。クリスチャンは慌ててフランスから逃げ出した。エリックはフランス王に返り咲くと、戦争の再開を宣言しザーティエラと同盟を締結した。ザーティエラはペルシア戦争の和平条約によってバスクを奪還したことで領土対立が解消されており、大西洋への野心のため、フランスを大陸の番犬としようと考えた。さらにエリックがトスカーナを差し出すと、これを受け入れた。ミラノのシャルルもこれを聞くと戦争を再開した。 |
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第五次対仏大同盟 連合国はただちに第五次対仏大同盟を結成したが、エリックは再び連携を取られる前に各個撃破しようと各地の連合軍へ襲い掛かった。アミアンの戦いでアストリア軍を撃破し、イタリアのシャルルはholynation軍をトルトナの戦いで撃破した。 アストリア軍はシャルルロアに後退し、ヴァルキア軍、フランス領ラインラントを占領しているスミトラント軍と合流しようとした。この連携を阻止したいエリックは北進しアストリア軍へ攻撃をしかけ、ワーテルローの戦いが起こった。アストリア軍は粘りを見せ、スミトラント軍の到着まで耐え抜いたことで戦況が逆転し、フランス軍はあわや敗戦の瀬戸際となったが、ザーティエラ軍の援軍の到着により持ち直すと再逆転しこの戦いを制した。イタリア戦線ではウィーン会議での相互不信から連合軍は連携が取れず、シャルルのフランス軍相手に敗戦を重ねた。 アナトリアではモレラはレ戦から続く戦争疲弊により戦線の維持に留めたが、ペルシア戦争の集結によって月ノ谷が対仏本格参戦した。月ノ谷はクリミア戦争の反省から、アルメニアに社会主義政権を樹立させるという手段をとり、保護の名目でアルメニアを占領した。アナトリアはなんとか余力をひねり出しアルメニアへ侵攻、月谷軍を攻撃したが、これを止める余力は残されていなかった。 フランス軍の巻き返しによって、大同盟の首脳部や国民はいよいよ第二次のときのように優勢が無に帰す、ないし負けてしまうのではないかという恐怖に駆られた。ローマ教皇庁はフランスの弱体化によりholynation、トラキア・ローマらが伸長すれば、自身の立場が危うくなると和平の仲裁へ乗り出した。さらに、大同盟側では自身の利益とならないことでロシア連合が派兵を拒否したことで、再びのフランス本土侵攻の目途が立たなくなった。また、チェキアはウィーン会議後の強大化したスミトラントやオーストリアからボヘミアを守るため、水面下でフランスとの同盟を模索した。これらの動きにより、継続していたウィーン会議後の面々では妥協的な和平を目指す動きが出始めていた。フランス=ザーティエラ連合軍では、エリックは再び各個撃破により戦争に勝利しようとフランクフルト攻撃を志向したが、ザーティエラはフランス優位の和平以上は求めておらず、自身の利益の確保のためトスカーナへ上陸し、holynation軍を破りこれを占領した。結局フランス軍は単独でフランクフルトを攻撃したが、スミトラント=オーストリア連合軍がこれと戦い、粘り切りフランス軍は後退した。 |
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フリードリヒ=アウグスト 0月、いよいよフランスへ妥協的な内容で纏められたウィーン議定書が完成間近となったが、これをスミトラント=スウェーデン王フリードリヒ=アウグスト4世だけは強硬に否定し続けた。既にフランス、大同盟双陣営が戦争疲弊の限界に達しており、各国首脳はフリードリヒ=アウグストへ妥協を求めた。しかし、彼自身は先のフランクフルトの戦いで手ごたえを感じていた。スミトラント=スウェーデン軍は続く大同盟戦争の中で、それ以前の欧州大戦で、何度も何度もフランス軍に辛酸を嘗めさせられたことで多くの経験を積んでいた。フランス軍を裏切ったヴァルダン元帥によって齎された情報もあり、最早フリードリヒ=アウグストはフランス軍の戦術を、指揮官エリックの性格を誰よりも深く理解していた人物であった。 フリードリヒ=アウグストがウィーン会議の流れを変えるためには、決戦が必要であった。しかし、それはまたフランスのエリックも逆転をかけ望んでいたことであり、連合軍首脳は敗北を恐れ受け入れなかった。そんな折、デュイスブルクでザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公の軍がフランスのウールップ元帥の軍と交戦し、これに勝利しライン川を越えた。この勝利で連合軍首脳の気持ちは揺らぎ、フリードリヒ=アウグストは決戦のチャンスを手に入れた。このときアストリア軍はベルギーのハッセルトにおり、挟撃を恐れたウールップは後退した。フリードリヒ=アウグストはスミトラント=スウェーデン軍を率いケルンからライン川を越え、エリックもこれを受け大陸軍を率いルクセンブルクから北上した。両軍の合流にはアストリア軍がマース川を越える必要があり、これを睨めるようフランス軍はアーヘンへ入った。これに対しスミトラント=スウェーデン軍は近郊のブラウシュタイン湖と土手沿いに砲列を並べ、デュルヴィス村役場を本営とし前方に戦列を築いた。指揮はフリードリヒ=アウグスト自身だ。フランス軍はアーヘンに小ジデンローヴ元帥の部隊を残しアストリアへの備えとし、残る主力軍をこちらもエリック自身が率いスミトラント軍に対峙した。 |
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アーヘンの戦い 0日、日の出と共に両軍の砲声が轟いた。戦場はアーヘン近郊。このときフランス領でありエクス・ラ・シャペルと呼ばれていたこの地で、かつて名だたる皇帝が戴冠を行ったこの地で、大聖堂に見降ろされながら、両軍は激突した。 緒戦、フランス軍のフランス軍の弾幕の前に、左翼のザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公麾下のスミトラント軍は圧されかけた。エリックは好機とみてモンブラン将軍の騎兵を突撃させたが、フリードリヒ=アウグストは控えていたスウェーデン選抜歩兵を送りだし撃退、この突撃は失敗に終わった。ここでフリードリヒ=アウグストは自ら騎兵を率いフランス軍左翼へ逆襲をかけた。これは挑発でありすぐに下がったが、エリックは挑発にのり左翼のウールップ軍を大きく押し出す。しかしこの正面には土手沿いにスミトラント軍の放列があり、この攻撃でフランス軍左翼は大きく損害を出し後退した。スミトラント=スウェーデン軍右翼はシュヴェリーン公の元逆襲し、正午にはヴァルデン村を奪取したが、エリックは古参親衛隊を送り出し村を奪い返す。この攻防は一進一退で続いた。 日が傾いたころ、アーヘンでフランス軍とアストリア軍の戦闘が始まった。この音を聞いたエリックは勝利を急ぎ、敵左翼へ総攻撃をかけた。ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公の軍はデュイスブルクの戦いから連戦であり、緒戦で押されたこともあって疲労の限界にあり、この攻勢の前に大きく戦列が崩れた。さらにエリックは自ら騎兵の先頭に立ち突撃を敢行し、戦列は分断されてしまった。戦列内にはパニックが蔓延したが、フリードリヒ=アウグストは残る予備軍全てを投入し、自ら部隊の戦闘で、3発の銃弾を浴びながらも鼓舞し続けた。さらに緒戦で敵を叩いたことで余力のできた右翼から砲を回すと、今度はエリックが負傷したことで攻撃の勢いは止み、スミトラント軍は紙一重でデュルヴィス村で踏みとどまった。 この突撃に失敗し、日も暮れたことでエリックは撤退を考えた。しかし、スミトラント軍の反撃の中で鬼気迫る表情のフリードリヒ=アウグストと目が合い、自ら決戦を選んでまで自身へ追いすがった宿敵へのプライドから踏みとどまってしまったという。また、「モンカリオリでヴィットリオは逃げなかった!」と叫んだとも伝わる。日が沈む直前、フランス騎兵は最後の突撃を敢行した。スミトラント軍も最後の力を振り絞りこれに対応した。 |
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アーヘンの戦いその② このとき、村の教会の尖塔に遮られ、予定より早く日が隠れた。この隙にフリードリヒ=アウグストはスミトラント騎兵を南の森から敵側面へ滑り込ませ、暗闇のなかこれに気づくのが遅れたフランス軍右翼の新兵がパニックに陥った。さらにこの前で戦っていた騎兵へ伝播すると、エリックはこれに気を取られ、その隙にスミトラント兵の銃剣により騎馬が転倒、エリックも落馬し頭を打ち気絶した。エリックは辛うじて親衛隊のアティサーリ将軍に拾われたが、遂にフランス軍は全面敗走へ陥った。力を出し切り追撃の余力はなかったが、フリードリヒ=アウグストとスミトラント=スウェーデン軍は、遂に決戦での勝利を手にした。 敗走したフランス軍はアーヘンへ逃げ込んだ。ヴァルキアは敵に回り、南からは戦いの顛末を聞きつけたオーストリア軍がフランクフルトからラインを越え北上していたため、他に逃げ道がなかった。エリックは目を覚ました時には包囲下にあった。 エリックは経戦を主張したが、アーヘンの戦いでの敗北を聞いたフランス国民は冷めてしまっていた。連合軍首脳は再びクリスチャンを王に戻すことを望んだが、逃げ出した彼もまた国民に望まれておらず、プラティエは帰還が決まる前に戦争終盤を通してパリ司令官となっていたボナパルト将軍と組みクーデターを決行、全権を掌握して連合軍へ降伏した。パリの降伏を知ったエリックは遂に諦め投降し、スミトラント軍の捕虜となった。 フリードリヒ=アウグストとスミトラント軍は、連合軍で一番にパリへ入った。彼らが最初に向かったのは、エリックによって廃位されて以降、余勢をフランスで過ごし戦中に病没していた、父の墓であった。戦勝報告を済ませると、遺体をベルリンへと運ばせた。 |
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終戦と講和 | |||||
ウィーン会議と終戦 再開されたウィーン会議は暫く踊っていたが、ローマ教皇庁の仲介もあってようやく収束へ向かった。ドイツ地域については、スミトラントとオーストリアはそれぞれドイツ地域の利権を要求したが、スミトラント=スウェーデンによる統一ドイツはチェキアやローゼノワール、またフランスに依存する教皇庁が否定した。とはいえ戦争に最も貢献したスミトラントは、フランス領シュレースヴィヒの奪還とフランス領ラインラントを獲得し、残るライン=アルギニア同盟諸侯は緩衝地帯として中立国とされた。また、オーストリアは南チロルを獲得し、神聖ローマ帝国の帝位がハプスブルク家の下に帰ることとなった。 イタリアについては、マルタ辺境伯のナポリ王位が承認され、トスカーナがザーティエラへ、ヴェネト地方がトラキアへ割譲された。holynationはトスカーナを要求したが、協議の末代わりとしてボローニャがフランスから割譲された。ロンバルディアはフランスへ併合された。 アナトリアはモレラが占領したサカリヤ川以西がモレラに割譲され、約束どおりモレラの黒海油田のいくつかが凸合衆国へ譲渡された。アルメニア社会主義共和国は独立が承認され、後に月ノ谷連邦への加盟を宣言し月ノ谷連邦共和国内の自治共和国となった。 こうして講和内容はウィーン議定書として纏められ、長年に渡った対仏大同盟戦争、すなわち第四次欧州大戦は終戦した。戦後、フランスの権威の衰退と共に、フランスの傀儡としての姿勢を批判された教皇クレメンスは廃位され、変わって親オーストリアの教皇○○が即位した。フランスではエリックの次男オルレアン公シャルルがシャルル12世として即位し、外務大臣プラティエ、陸軍大臣ボナパルトらの下で荒廃したフランスの復興に努めた。その最中でフランス、アナトリア、hnらは神聖ローマ帝国を離脱した。オーストリアはこれを批判しかつての大同盟諸国に呼び掛けたが、どこも再び戦争を始める気力は無かった。 エリックの身柄は今度ばかりは厳重に管理され、スウェーデン王国のゴットランド島へ島流しとなった。エリックは修復された城塞の一区画で従者と共に暮らし、回顧録や兵法書の口述筆記に励んだ後、痔の悪化により2年後に死去した。 フランスでは新たにシャルル王が誕生した。 |
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影響 | |||||
戦後の外交情勢 フランス中心の統一欧州の時代は終焉を迎え、第二次欧州大戦以前の対立の時代へと、再び回帰した。スミトラント=スウェーデン王フリードリヒ=アウグストは、大戦を通じ二度ベルリンを追われながらも屈せず、遂にフランスを打倒したことでその名声を高めた。スウェーデンとの連合、フランス領ラインラントの獲得などで国力も高まったが、それは同時に周辺国の警戒を招いた。特に隣国チェキア=ポーランド王国は、チェキア王冠領を狙うスミトラント、オーストリアへの対抗のためフランスと同盟を結んだ。 オーストリアのハプスブルク家は、悲願である神聖ローマ帝位の奪還を成し遂げた。しかし、依然イタリアはフランスやトラキアらの手にあり、ドイツも異端スミトラントが権勢を誇っている。チェキアの奪回、大ハンガリー領の回収などその領土的野心は東欧に向き、それはスミトラント、プジェミスル朝、トラキアらとの対立を意味する。またフランスは相変わらず歴史的ライバルであり、敵に囲まれている状態である。欧州において誰と手を組むのかが課題と言える。 ロシア諸国は東欧戦争のリベンジを果たし、領土的拡張はなかったが存在感を高めた。これはローゼノワール、ヴィリニュスといった東欧国家群が警戒を強める結果となっただろう。 トラキアはイタリアに新たな領土を獲得し、少しずつではあるがローマの再興へ近づいている。しかし、フランスとザーティエラとの連合は、地中海の支配において強力なライバルとなるだろう。モレラは失地を回復し、その後アナトリア半島への進出を達成した。黒海海峡の両岸の支配は経済的繁栄を齎すが、同時に非情に守りにくい土地を抱えてしまった。アナトリア王国の再征服侵攻にどう対処するかが課題だ。 アナトリアはレグルス戦争の後遺症を最も深刻に引きずる国のひとつでありながら、フランスの戦争に巻き込まれる形で戦争を続けた。その結果が領土の喪失であったことで、フランスへの従属的な連合の存続へ疑義が持ち上がった。そこへフランスを追われた元王太子クリスチャンが、フランスの足を引っ張りたいアストリアの伝手で亡命し、アナトリア貴族は彼をアナトリア王として支持し独立を求めた。シャルルはこれを否定し僭称者討伐へ派兵、アナトリア独立戦争が始まった。これによってフランスが多忙となった隙を衝き、ナポリのholynationは悲願のローマ奪還へ向け動き出す… |
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関連項目 | |||||
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