歴史
飛鳥時代以前:不明
平安時代:遷都と共に、天照大神を降ろし平安京を守護することを目的とした、「日ノ本」と呼称される巫女集団が桓武天皇により制定される。
平安初期:宮廷の権力争いに対抗するため、「日ノ本」の巫女の一族同士で婚姻関係を結び、一族として血縁をまとめた上で、姓そのものを「日ノ本」と改める。この際当主だった巫女の名に因み、「日ノ本」家の当主は代々「日ノ本八千代」を名乗ることとする。また、女系であること、婿は著名な祭司、宮司や天皇一族からとることも一族のしきたりとする。
平安中期(西暦900〜1000年頃):日本の竜災害の全盛期。現代でいうA〜Bランクドラゴンが季節おきに各地方に訪れていたと考えられる。
日ノ本家の代替わりが激しく行われた時期であり、竜討伐の最前線に立つ「日ノ本八千代」の名を継ぐことに恐怖を覚え出奔する女子が後を絶たなかったとされる。一方で「日ノ本家」としては対竜の需要を一手に満たしていたこともあり、栄華を誇った。
日ノ本家の代替わりが激しく行われた時期であり、竜討伐の最前線に立つ「日ノ本八千代」の名を継ぐことに恐怖を覚え出奔する女子が後を絶たなかったとされる。一方で「日ノ本家」としては対竜の需要を一手に満たしていたこともあり、栄華を誇った。
平安後期〜鎌倉時代:この辺りで「日ノ本八千代」は30代目を迎える。仕えるべき天皇の勢力が弱まり、また貴族の地方散逸と共に日ノ本家の分家も地方に散らばり、各地に本格的な対竜巫女文化が出来上がっていくことで、相対的に日ノ本家の力も弱まっていく。
南北朝〜室町時代:日ノ本家も南北朝それぞれに勢力を二分し、互いに争う。だがのちの研究によると、この動きは「どちらの朝廷が滅びても日ノ本家が滅びないようにするため」だとされる。その後、再び権勢を失った天皇とともに、日ノ本家の勢力はさらに弱まっていく。この辺りで日ノ本家は40代目を迎える。
安土桃山時代〜江戸初期:日本文化の中心地が京の都から移ったことにより、日ノ本家は弱体化。天皇一族の補佐、祭事の取り仕切り、「弔竜祭」の補佐など祭事全般のみを行い、対竜組織としての機能はほぼ停止する。この辺りで日ノ本家は50代目を迎えるが、これ以降竜との争いで絶命することがなくなり、良くも悪くも1代が長くなっていく。
江戸中期:対竜組織としての「日ノ本家」の復興改革が開始される。天照大神を降ろす巫女としての心構えや「舞」「歌」「武」の体系的な相伝、地方に散逸していった分家のうち連絡が取れるものを京に招集し組織再編纂するなどの動き。
江戸後期:組織の改革が完了し、本格的な「対竜組織」としての「日ノ本」家の復興。同時期に黒船の来航、尊王攘夷の機運が高まり、奇しくも日ノ本家の復興と天皇が権力の座に返り咲くタイミングが重なる。
明治時代:58代目「日ノ本八千代」。約1000年もの時を天皇に尽くした一族として、大日本帝国の「竜征省」を一手に任される。また、廃仏毀釈運動による日本古来の神々の復権により、日ノ本家は最盛期を迎える。58代目日ノ本八千代は女傑としても知られ、単身でAランク相当のドラゴンとも渡り合う強力な巫女だった。
大正時代:第一次世界大戦や国際社会との関わりを経て、海外の巫女組織のノウハウを吸収し、日ノ本家の体制は盤石のものとなる。60代目「日ノ本八千代」は後方支援が上手く、組織の運営や日本の巫女組織の支援に力を注いでいたようだ。
昭和前期:敗戦とともに連合国による日本の各組織の再編成が行われる。日ノ本家は「組織」から再び「一族」へと編成され、かつての力を失うも、完全な解体は免れた。これは日ノ本家が帝国軍と距離を置いた組織だったことが大きいとされている。
昭和後期:62代目「日ノ本八千代」。彼女はあまり強い巫女ではなく、それを補うことを口実に日本巫女組織の大規模な組織化に乗り出す。結果、現代日本の巫女組織の土台が出来上がる。
平成:63代目「日ノ本八千代」通称「呪われた巫女」。自らの巫女としての能力と引き換えに手にしたものは大きく、「カミガカリ」「百鬼夜行」「ヨイヤマ」などの巫女グループの現代的なプロデュースを行うことに成功する。中でも歴代「日ノ本八千代」に匹敵するレベルで安定して天照大神を降ろすことができる「照咲 陽菜」を発掘できたことは、63代目本人をして「奇跡」としている。
令和:64代目「日ノ本八千代」。度重なる破壊的規模のドラゴンの襲撃が続くが、師である照咲の指導と天賦の才の双方を完全に制御した暁には、光溢れる太平の世が待っていることだろう。