怖気づく後悔と踏み鳴らす土壌 - おはようセックス＠小説まとめ

明日に至るのに、何ら難しいことはないはずだ。
ただ、私はそれを掴み損ねている。
もう眠ろうと部屋の電球の紐を引くつもりでいるのに、いつまでも手に取れないかのようだ。
滑稽だ。それがしっかり見えているなら、それを掴み損ねることはないだろうに。
微睡みの中には毒がある。その毒が、私を曇らせているのだろう。
午前3時のアラームが、世の苦しみを統べている。
然り、それは怒濤。わけのわからない波になって、押し流されて消えてゆく。
大気に散った苦々しみが、廻り回って巡り来る。
それは偶然。或いは天命。或いは運命。或いは、人生。
苦しんで苦しんで苦しんで、痛がって寒がって強がって、熱くて酷くて禍々しくて、下衆で下卑て下品で、疎ましがって羨んで幻滅して、期待して葬って馬鹿を見て、したがって欲しがって途方に暮れる。
右に歩いて左に歩いて、一体何が見えただろう。
何も見えなかったのかもしれない。
味のない文章に渇いて、喋れなくなってしまったのかもしれない。
砂漠を歩く旅人は、何を食らっているのだろう。
この身体を動かす血は、何を欲しがって歩くのだろう。
わからないことは山ほどあって、けれども結果だけが得られている。
数学の問題集。巻末の解答。そこだけを読んでいるように、ただ、何もわからないながらに、答えだけを手渡された。
私は、何も受け入れることが出来なかったのだ。
いっそ誰かが、私を臆病者だと罵ってくれればよかった。
愚かで残酷で不確かで、不誠実で怠け者で無能だ、お前みたいな人間に生きている資格はないと罵倒して欲しかった。
けれども私の周りの人間は冷酷なまでに優しかった。この無能の穀潰しが死んだとしても、それは悲しいからやめろと曰う。
否、言われる内が華かもしれない。
悲しみの中に逝けるならどれほどか楽だろう。
誰からも疎まれて、死んで良かった、と云う人間がいるなら、それもまた良い。
ただ、最も生命の無念を叫ぶものは、誰一人として私の死を、知る者がないことである。
私は私を看取ってくれる人間を探すことにした。
私の死への旅路が、枕元で手を振っていた。

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「暑い」
今日、初めて発した言葉だった。
もう八月は半ばを過ぎ、夏は終結に向かう頃合いだ。それなのにこの町は相も変わらず蝉が赤子のように鳴きじゃくり、太陽は地球に迫っている。
ひたすらに歩く私を咎める者は何もない。ただ、暑さと五月蝿さばかりが、私の生気を削いでゆく。
暑い。知っていることと理解することはまったく別だ、という言葉があるが、その通りだ、と思う。暑いという事実を知っていても、それを体験を通さずして理解することは難しい。誰かにファラリスの雄牛の苦しみを理解してくれ、と頼んだところで無理な話なのだ。
思考の糸が解けて、湿気っている。もはや思索は奪われて、考察は忙殺された。絶望的なまでに疲弊して、背は猫になり、首筋に滴が流れ落ちた。
暑い。暑い。暑い。五月蝿い。
募るばかりの苛立ちをぶつけた私の健脚は、路側の小石をえぐるばかりだった。
──図書館に入ろうと思ったのは、ほんの気まぐれだ。コンビニでも良かったし、博物館でも良かった。本屋でも良かったし、或いはレコードショップとか、ファスト・フード店とか、ともかく、座って涼むことが出来ればどこでも良かった。だから、図書館はたまたま目に入っただけで、別段利用するようなこともなかったが、別に入り浸っても文句を言う者はいないだろうし、公共施設ゆえに空調設備は万全であろうという幾ばくかの打算はあったにしろ、やはり大意としては気まぐれにそこを選んで、暑さに朦朧としながら自動ドアを抜けた。
凍えそうなほどの冷気が私の汗腺をぴっちり閉じさせる。
長袖でも快適そうなほどの室温に少々寒気さえ覚えたが、汗が乾くのには丁度良いと思えた。別段耐えがたいほどではなく、むしろ身体がこちらに馴染む方が早いだろう。
てくてくと歩いてロビーに至る。二階への階段と事務室、それに不要な本の無料配布コーナー、あとは談話室やトイレ、数個のベンチ、テーブルと椅子、奥への道などが見られる。平凡な設備ではあるが、そこそこ大きな図書館だということは見て取れた。
さて、どこへ向かおうか。元より涼みに来ただけだが、図書館なのだから暇を潰す本ぐらいは探すのが筋だと思われた。別に借りなくとも、その場で読んで返せばいい。私は面倒が嫌いだ。
私は一階の蔵書をちら、と見やり、図鑑や料理のレシピ、旅行の計画などの実用本が並んでいるのを確認して早々に見切りをつけ、さっさと二階へ登った。二階への階段は長く、これだけ立派な施設なのだからエレベーターのひとつも設置して欲しいものだと思った。私は面倒が嫌いだし、体力もなかった。
ふと、消えてしまったもののことを考える。この図書館が建つ前には何があったのだろう。何もなかったのかもしれない。何にせよ、この図書館が生まれたことで失われた何かがあったはずで、今の私にはそれを見ることは叶わない。
尤も、図書館がなければここに来ることもなかったのだろうし、ここに何があったところで私にとってはどうでもいいことだ。
ただ、失われた何かが、消えてしまったものがあるということだけが、私の頭に良くない種を蒔いている。瞬く間に芽吹き、私の養分を吸い取って肥大化していく。
私はそれを思考の鉈で叩き折り、階段を登り終えた。
『どうでもいい』と書かれたその鉈は、おそらくは、私の持つ刃物の中で最も切れ味が良いものだ。
────だから、それで切れないものなど、何もないと思っていた。
階段を登り終え、あたりを見回す。二階はいくつかの部屋に分かれていたが、いずれも書庫のようだった。
それぞれの部屋には暇そうな司書がおり、本の貸出を受け付けている。
私は本棚にずらりと並ぶ背表紙を流し見しながら、あちらこちらをぐるぐると回った。いわゆるライトノベル作品というのもこういった場所に並んでいることに若干の衝撃を受けたが、考えてみれば料理のレシピ本もこの場に相応しいかと言えばそうではない気もする。要は、需要と供給の問題であって、欲しいと思う人間が多ければ置かれるものなのだろう。それならば漫画本が揃い始めるのも時間の問題かもしれない。いや、それは図書に分類されないか。
私は勝手に納得しながら、最後の部屋に入る。二階のスミにあって、他の部屋に比べると些か小さい。
ぎい、と木が軋む扉を開く。ばたん。閉まる。
狭い部屋だった。全体を一目で見渡せるほどの小部屋だ。この部屋には受付の司書もいないようだ。そして、本棚の一つも置かれていない。
ただ、休憩のために置かれたのかベンチだけが一つ、ぽつんと置かれており、そこに座す人間は異様に目立つ有り様だ。
そして、実際に目立っていた。
燃えるような髪をした、少女とも少年とも──或いは、人間とも──つかないようなものが、そこに横たわり、眠りこけていた。
この世のありとあらゆる苦しみから解放されたかのような表情で、大層安らかな眠りだろう。空調も効いているし、何よりここには自分一人だ。最高のプライベートスペースだったことだろう。
今、この瞬間までは。
私はその異様な生き物に少しばかりの好奇心を刺激され、歩いて近くに寄った。
近くに寄ると、ますます奇妙だ。日本人離れしているし、下手をすると人間離れしているようだ。人間に近い造形の宇宙人だとか、或いはマネキンとかフィギュアだ、人形だと言われても納得できるような、違和感のあるものだった。
ただ、ただ。私はそれをじっくり眺めてみて、もしかしたら生まれて初めて、純粋に『綺麗だ』と思った。
私が今まで見てきた『綺麗なもの』は単に、『他の人間がおそらく綺麗だと判断するようなもの』であって、自分の意思でそう思っていたわけではなかった。そう思えるほど、直感的に言葉と存在が結び付いた。
私がまったく興味を惹かれない様々なものに人々が夢中になっているのは、きっとこういう直線的な結び付きがその人間の中に生まれるからだと思った。それならば、全てが納得できるような気がした。
ベンチの上に横たわったその華奢な四肢はしなやかで、しかし身体からは芯を持った強さを感じる。その閉じた瞼は触れれば溶けてしまいそうなほど繊細で、睫毛は宝玉の如くに深い輝きを放っている。燃えるような髪は意思を持って主を守るかのように広がり、頬はあどけない幼さを残しながら、唇は絵画に描かれた美少年のように官能的だった。こうして思い付く限りの美辞麗句を連ねても、決して表現出来るとは思えないほどに、けれども表現せずにはいられないほどの美しさで、それはそこにあった。
私は懐から携帯電話を取り出し、カメラを起動し、すぐさまそれに合わせ、しばらく手ぶれと格闘したのち、電源を落とした。これをカメラに収めることに意味はないと思った。瞬間を切り取れば、その美しさは損なわれてしまうような気がした。
何よりも私はその瞼の裏の瞳に興味が湧いた。一体どんな眼をしているのか、気になって他のことは考えられない。
私はその頬にゆっくりと手を近付ける。
まるで永遠とも思える時間のあと、手がその柔らかな頬に触れ、ふに、と指が包まれるのを感じた。
私は美しいものを自ら穢すような背徳感で胸が一杯になった、絶頂すら覚えるほどの吐き気がこみ上げて、高揚感に押し流された。
心臓がうるさいぐらいに高鳴っていて、なおかつそれが聞こえないほど、私の意識は目の前の生き物に執着していた。
手が触れている。それだけで神にでも会ったかのような心地だった。
それの寝息のリズムが変わる。淡い息が漏れる。瞼が揺れて、眉が動いた。首が少し揺れて、髪がふわりと舞う。
ああ、目覚めてしまう。すまない。申し訳がない。本当にすまないことをした。
私は心の中で謝りながら手を離す。高鳴った胸の鼓動は未だに止まず、眼はただ目の前のそれを見届けることで精一杯だ。
吐息が漏れる。身体が動く。瞼が、ゆっくりと開かれる。
「……あんた、誰？」
深い藍の瞳が私を刺し殺した。
しばらく、何を言われたのかわからずに、ただ頭の中が真っ白になって、空に浮かんだような心地でいた。
「あの……ねえ、あんた、ねえ、ちょっと」
声を咀嚼して嚥下すると、この世のどんな食べ物よりも美味だと感じた。天使の歌声というのはおそらく、この口から発せられるのだろう。
あまりにも尊いものを感じて、目の前の生き物が何を言っているのかを理解するのに、平常時のおよそ二十倍ほどの時間を要して、私はようやく口を開いた。
「あ、あ、はい。私は、えっと、学生です！」
「それは見りゃわかる。何しにここに来たの」
私は聞かれるがままに答えることしかできない。
「え、えっと、その、本を、探して……」
「へえ、本か。ここにはないよ」
そうだ。それはわかる。でも今はもう、本はどうでもいいんだ。
「あ、えっと、それはわかるんですけど」
「じゃあ何？ぼくの寝顔見て楽しかった？」
目の前の生き物はいたずらっぽく笑んだ。
子供のような無垢さと大人のような蠱惑を感じ、私は眩暈がした。
「あの……えっと……」
「……あんた、なんか普通じゃないね。大丈夫？」
目の前のそれが私の顔に手を伸ばす。髪の毛が揺れる。顔が少し近付く。
私の頭は完全に熱暴走を起こし、倒れた。太陽に近付いて翼をもがれたイカロスは、きっとこんな気持ちだったのだろうか。
遠ざかる意識の中で、私は今までの人生で最も深い幸福を味わっていた。

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「大変だ管理人。人が倒れた」
「えぇ！？なんでまた！？」
気の弱そうな髭面の老人が眼鏡を飛ばして驚いた。
「知らん。ぼくが寝てたらこいつが来て、ぼくが質問したら卒倒した」
「すごい人見知りの人だったのかなあ」
気の抜けた推論を繰り出しながら、老人は頭を掻いた。
「で、どうする？この人」
「どうするって……息はしてるよね？」
「幸せそうな顔してるよ」
「それって死んでるんじゃない？」
大丈夫？と老人は恐る恐る彼女の胸に手を伸ばして、良心が咎めたのか手を引っ込める。
もう一つの声の主はそれを見て、疑問符を浮かべながら彼女の胸に手を当てる。
「動いてる。生きてるっぽいよ」
「ああ、そうかい……うーん、それじゃあそこのベッドに寝かせとこうか」
「わかった、管理人」
彼女を無造作にベッドに寝かせると、それをすぐに部屋を出て行った。
「ああこら、待ちなさい、図書館の外に出てはいけないよ！」
老人が言う間もなく、足音は遠ざかっていった。
「まったく……あれにも困ったものだなあ」
老人はため息をつきながら、ベッドで寝転ぶ彼女に毛布をかけた。

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