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ボディスラム
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【技名】 | ボディスラム |
【読み】 | ぼでぃすらむ |
【別名】 | |
【大分類】 | ボディスラム |
【中分類】 | ボディスラム |
【小分類】 | ボディスラム |
【開発者】 | |
【得意とするレスラー】 | |
【変形技】 | デッドリー・ドライブ、ミリタリー・プレス、全女式ボディスラム、金本式ボディスラム |
【進化系】 | オクラホマ・スタンピード、ブロックバスター、パワースラム |
【連携技】 | |
【連絡技】 | |
【類似技】 |
解説
ボディスラムはプロレスにおいて出ない試合は無いと言って良い技であろう。基本的に正面の相手を抱え上げて正面に落とす、相手に次の技を掛ける為のつなぎの技になっている。
プロレスの黎明期にはこの技がフィニッシュになる事は珍しくなかった。
プロレスの黎明期にはこの技がフィニッシュになる事は珍しくなかった。
- 相手の股間に片腕を差し込み、相手の尻のあたり、もしくはその上のあたりのタイツをつかむ。
- 片方の腕を相手の肩に掛ける、もしくは首を抱え込む(全女式ボディスラム)。
- 相手の肩に掛けた腕を支点にして相手の腰、もしくは足を抱え上げ、逆さに持ち上げる。
- そのまま前に相手の背中を叩きつけるように落とす。
4の時に首は最後までしっかり抱えたまま落とさないと、相手が回転しきらず大変危険である。
また、もう一つの投げ方として、相手を抱え上げずに自分の肩越しに背負い投げることもある。
また、もう一つの投げ方として、相手を抱え上げずに自分の肩越しに背負い投げることもある。
全女式の場合ちょっと見栄えはしないが、下記の事故の様に相手を怪我させることはまず無いと言っていいだろう。見栄えの点では相手を肩越しに投げ落とす物が一番だろう。
ボディスラムが勝敗を決するパターンもある。故アンドレ・ザ・ジャイアントなどがそうだった。あまりにも巨漢、あまりにも重いレスラーの場合、3回ボディスラム(場合によれば一回)で投げる事が出来れば勝ちというルールも存在する。
歴史
スタン・ハンセンの首折伝説
スタン・ハンセンと言えば、現在全日本プロレスの外国人レスラーのトップを永年勤め、その必殺技「ウェスタン・ラリアート」は本当に一撃必殺を体現していた。
ハンセンは再来日当時ある伝説に彩られた「まだ見ぬ強豪」の一人だった。それは『スタン・ハンセンの首折り伝説』だ。
そのスタン・ハンセンにもグリーンボーイ(新人)の時期もあった。彼が運良く当時トップ団体であったWWWFで、しかもそのトップであるブルーノ・サンマルチノとシングルで戦う機会を得た。
世界最高の会場と言われたマジソンスクウェアガーデン(MSG)で彼(ハンセン)も緊張していたのだろうか。一発目のボディスラムは教科書通りに投げることが出来た。しかし2発目のボディスラム(ショルダーバスターではないかとサンマルチノは後日述べている。)は失敗し、サンマルチノは脳天から真っ逆さまに落ちてしまった。
彼は頸椎を骨折し入院生活を余儀なくされた。その怪我は常人では耐えきれなかったほどの物で、鍛え上げた首の筋肉のお蔭で助かったようなものだ。引退は必然。時間の問題であった。しかし彼は治療に専念し、復帰に向け努力した。
しかし、運の悪いことにアントニオ猪木がボクシングのモハメッド・アリに挑戦するというイベントが決まった。これは絶対アリのKO勝ちであろうとアメリカ中が思っていた。サンマルチノ自身も同様に思い、チャンピオンとしての自覚からプロレスラーの強さをアメリカ中に知らしめなければならないと思ったと言う。その決断から同大会でハンセンと戦うために復帰した。
その後、結局その後騙し騙しやっていたが回復することなく。6年後の44歳の時、首の怪我を原因に引退した。
その後、結局その後騙し騙しやっていたが回復することなく。6年後の44歳の時、首の怪我を原因に引退した。
ハンセンの首折り事件はそのまま彼のウェスタン・ラリアートの噂と結びつき、日本に渡り、「ハンセンのラリアートで、あのサンマルチノは首を骨折した。」というように伝わった。
プロレスライターの流智美氏は後年ハンセンの全日初参戦(’75)とその5年後(’80)にインタビューを試みたが真意を聞き出すことはできなかった。
初出 プロレス技データベース
MyWiki版プロレス技wiki より転載