目次
part19(126~130)
「ごめんね、荷物手伝ってもらっちゃって」
「いいさ、大した重さじゃない」
寮までの道に月に照らされた淡い影が2つ伸びる。
買い物袋を両手に提げた二人、オグリキャップとレスアンカーワンが歩いていた。
「それに、これは私のためでもあるんだし。手伝うのは当然だ」
そう白い息混じりに言うオグリの目は明日以降のお弁当のことでも考えているのか爛々と目を輝かせていた。
そんなライバル兼親友の姿に思わず苦笑がこぼれる。
「それにしてもすっかり寒くなったわねえ」
時折、吹き抜ける北風を受けて思わず身を縮こませる。
あれだけ猛威を振るっていた残暑はめっきり姿を消してしまい、代わりに身を刺すような痛みすら覚える猛烈な寒さがやってきていた。
あたりはすっかり冬めいていて葉を散らした木々が物悲しく道の左右を飾っている。
「イチ、寒くないか」
「ん、大丈夫よ」
「そうか、寒かったら言ってくれ。マフラーを貸そう」
「平気だってば、それに貸したオグリが風引いちゃったら元も子もないでしょ?」
ふと、空を見上げる。
雲ひとつ無い完全な黒。
都会の明かりのせいか実家とは違って星は満足に見られない。
そのせいだろうか。
まるで主役の独壇場のように煌々と輝く満月だけが目に映った。
澄んだ空気のお陰ではっきりと映る満月を見て、思わず息を飲む。
こんなにきれいな月を見たのはいつ以来だろうか。
自然と足を止め、見入ってしまう。
一瞬の静寂。
互いのわずかな息遣いと風の音だけが聞こえる。
意識を月に持っていかれて完全に気がゆるんでいたとき、
「──月が綺麗だな」
まるで狙いをすましたかのようにオグリがそう言った。
「へ!?」
突然の一言で思わず素っ頓狂な声が飛び出てしまう。
今、こいつなんて言った!?
聞き間違えじゃなきゃ、つ、つ、月が綺麗って。
息が苦しい。顔はおろか体が熱い。あれだけ冬の寒さに苦しんでいたのが嘘みたいに。
錆びついたブリキ人形もかくやという調子でぎこちなくオグリの方へ顔を向ける。
視線の先には澄ました顔で月を眺めるオグリの姿があった。
自分の発言を毛ほども気にする様子も見せずに。
こ、こいつ……。よくもそんな澄ました顔でそんなキザったらしいセリフを──。
そこまで思い立ったところで、ふと我に返る。
いやいや、こいつがそんなロマンチックなセリフの意味を知っているのか?
“あの”オグリキャップだぞ?
ひとまず、気持ちを落ち着かせるために深く息を吸い込む。
体の熱が冷やされていくのを心地いい。
茹だった頭が冷えたのを確認して、意味を知っているか聞こうとしたとき。
地鳴りのような音があたりに響いた。
私じゃない。
だとすれば、当然──。
再び地鳴り。
目の前の芦毛からだった。
街頭に照らされる本人の口元がわずかに光って見えたのは気のせいか。
「あんなきれいな月はみんなで団子を食べたとき以来だな」
──やっぱりかい。
倒れ込みそうになるのをなんとか耐える。
やっぱりオグリはオグリだった。
こいつがあんないかにも詩文的なセリフの意味を知るはずがない。
おおかた、十五夜のときに食べたお月見団子のことでも思い出しているのだろう。
こっちの気持ちも知らないでいい気なものね。
これじゃ一人でやきもきしていた自分があまりにもバカバカしいじゃない。
恨めしそうに目の前の芦毛を睨みつけてはみるが、当の本人にはなんの意味もない。
すぐに無駄だと思い、深くため息を吐いた。
しかし、やられっぱなしというのも癪に障る。勝手に勘違いしたこっちが悪いとはいえ何か仕返しをしてやりたい。何かないものか。
そんな邪なことに思いを馳せていると、とあるいたずらを思いついた。
「そうねえ……。私も──」
「ん?」
私のつぶやきに耳を傾けるオグリ。
しめしめちゃんと聞いてるわね。
自分の声に耳を傾けているのを確認すると思いついたことを言ってやった。
「私も、あんなに大きくて真ん丸なお団子を食べられたら死んでもいいかな」
「な!?」
驚きの声を上げたオグリの方を伺えば、案の定その目を白黒させながら慌てた様子で
「なんてことを言うんだイチ。そんな、死ぬなんて!?」
と必死にこっちのことをたしなめようとしていた。
いたずらが上手くいったことを確信すると思わず笑みがこぼれてしまう。
「別にそういう意味で言ったんじゃないよ」
笑いながらそう言ってやると、
「じゃ、じゃあどういう意味で……」
と困惑の色を顔に浮かべながら聞いてくる。
「んー?」
勿体つけるように間延びした返事をすると、私はオグリに背を向けそして──。
「さーてね、食い意地ばかりはってるオグリには関係ないもんね!」
寮に向けて駆け出した。
「あ、おい! イチ! それはどういう意味だ!?」
「教えてあーげない! あとでタマ先輩にでも聞いてみればー?」
「ちょ、おい、イチ!! 置いていかないでくれ!」
荷物のせいで走ることのできないオグリの叫びを背にいたずらっぽい笑みをたたえながら逃げるイチ。
そんな愉快な二人の背を、空に浮かぶ満月だけが見つめていた。
その後、イチとのやり取りを話し、イチの言っていた意味をオグリから尋ねられたタマモクロスは、まるで歯痛を我慢するかのような渋い顔を見せながらそのやり取りの意味を説明する。
その意味を知ったオグリが蒸気を吹きそうなほどに顔を真赤にさせながら自分のベッドで蹲ったのは、また別のお話し。
了
part19(186~192)
「ふいー、めっきり冷え込んできたもんやなぁ」
冷気が肌にささる昼下がり。タマモクロスは一人、カフェテリアのオープンテラスでお茶を啜る。
手元の紙カップからは入れた頃よりわずかに冷めたとはいえ湯気が白く濃く立ち込めており、外の寒さの厳しさを物語っていた。
紙コップを両手で包み込み暖を取りながら何気なく周囲に目をやれば、生徒たちがクリスマスイベントに向けた準>備に勤しんでいた。
友人たちも例にもれずクリスマスの準備で忙しそうだった。
スーパークリークは同室のナリタタイシンとプレゼントやら買い出しに出ており、イナリワンは未だにサンタ信望者で同室のツインターボのためにヒシアマゾンやターボの所属しているチーム・カノープスの面々と打ち合わせに参加していた。
ちなみに自分の同室のオグリキャップはどうしているかというと、これまた頭の痛くなることだが、今年こそサンタクロースとトナカイのルドルフコンビに出会ってレースで勝ってみせると息巻いて、ビワハヤヒデを連れて雪山にトレーニングに出かけてしまった。
まあ、何にせよ。今年のクリスマスも賑やかになりそうだ。
そう、ひと心地つきながらまったりと冬景色を楽しんでいると、ふらふらと傍目から見ても疲労感あふれる少女が向こうから歩いてきた。
自分のかわいい後輩、エイジセレモニーだった。
「おーい、モニー!」
タマモが声をかければ、気が付いたのかモニーがこっちにやってくる。
「タマ先輩、おはよーございます……」
あきらかに様子がおかしい。
「ど、どうしたんや? ずいぶんくたびれとんな。なんかあったんか?」
そう訪ねてみれば、「いやー、その」と言葉を濁しながら目をテーブルに向けたり泳がせたりとおぼつかない様子を見せる。
やがて、意を決したかのような仕草を見せたかと思うと、力強い目をこちらに向けて
「タマ先輩」
と、じっと見つめてきた。
「な、なんやそんな改まって」
「聞きたいことがあるんです」
あまりに真剣な表情で言われるので釣られて思わず姿勢を正す。
自然と胸の鼓動が早くなる。
「あのですね」
「お、おう」
一瞬の間。
まるでこの場だけが切り取られたかのように時間の流れが遅くなったように感じる。
何を言われるのか身を固くして待つ。
やがてモニーの口が開かれ、
「トナカイって何なんですかね?」
「──はあ?」
素っ頓狂な声を上げてしまった。
そりゃそうだろう。あれだけ真剣な表情で何を聞かれるかと思えばそんな突拍子もない質問。誰だって予想できるわけがない。
「トナカイって、あれやろ? サンタがソリ引かせる動物やんか」
「それって実際にいますよね?」
「当たり前やん。フツーに海外の野山を駆け回っとるやろ。そんな真面目くさって何言うてんのや、いきなり」
そう当たり前のことを言えば「そうですよね~」と後ろに頭を後ろに傾かせながらモニーが言う。
「何かあったんか?」
「いや、そのですね。昨日の夜のことなんですけどね?」
そう顔をこっちに寄せながらモニーが言うには──。
◇
「ねえ、イチ」
「なあにモニー?」
スキンケアに勤しみながら自分のベッドで横になっているイチへと声をかける。
「イチはもうサンタにプレゼントのお願いはしたの?」
「はあ? 何急に?」
「いや、イチほど純な女の子だったら未だにサンタのこと信じてるんじゃないかなーって思って」
そうからかい混じりに言うと、「あのねえ!」と体を起こしながらこちらを向けて抗議をする。
「馬鹿にしないでくれる? こっちだってもうそんな歳じゃないの」
「そりゃそうだ」
ケラケラと笑うモニーをよそになおもイチは言葉を続ける。
「サンタクロースもトナカイも、もうそういうのは卒業したのよとっくに!」
「そうそう、未だに信じてるわけ──」
──ん?
今なにか変じゃなかったか? そんな違和感を感じたモニーを怪訝そうに見てくるイチ。
「何よ?」
「いや、あの、イチさん?」
「どうしたの? 急に改まって」
「あの、サンタはともかくトナカイはいますよ?」
そう恐る恐る口に出してみれば、少し間があったもののすぐに勝ち誇った評定をするイチ。そして自信満々に「馬鹿にしないでって言ったでしょ」と胸を張った。
「騙してからかおう立ってそうはいかないわよ、モニー。トナカイがいるなんて、そんな分かりやすい嘘まで吐いて」
「いや、嘘じゃなくて」
「だいたいねえ、鳥でもないのに空を飛ぶ動物なんているわけないでしょうが」
「えぇ……」
こりゃ言ってもだめだ。実物見せないと。
そう思いたつと手元のスマホを手に取りトナカイを画像検索する。
「ほらこれ」
イチにスマホに映ったトナカイの画像を見せる。
すると、画面を覗き込むなりイチは、
「んー? 何急に海外の鹿なんて見せてきて」
「へ、鹿?」
「うん、これ鹿でしょ海外の」
そう言われて思わず天を仰いだ。
マジかこいつ。トナカイを鹿って。海外の鹿って。
そう言われて思わず天を仰いだ。
マジかこいつ。トナカイを鹿って。海外の鹿って。
呆然とするモニーをよそにイチは、
「どうしたの? おかしいわよ、モニー?」
とまた怪訝そうな目でこっちを見ていた。
──おかしいのはアンタだよ!?
そう口から出そうになったのをどうにか堪え、どう説明したものか頭を悩ませる。
「あのね、イチ、聞いて。これがトナカイなの」
「いや、何を言ってんのよ。これは鹿でしょ」
「そう鹿だけどトナカイなの。鹿の仲間なのトナカイは」
「いや、違うじゃない全然。鹿とトナカイは別よ? 鼻も赤くないし」
「いや、そうだけど。赤鼻のトナカイは実際にはいないけど」
「ほら、やっぱりいないんじゃない」
「いやそうじゃなくて」
「じゃあ何? この子達は空飛ぶの?」
「いや飛ばないけど」
「じゃあ、鹿じゃない」
思わず手で顔を覆ってしまうモニー。だめだ、これはだめだ。何言ってもトナカイが幻想生物になる。この子の中だとトナカイ=鹿の方程式が欠如している。どんな生き方をしてたらトナカイが架空の生き物になるんだ。
こっちが親友の勘違いをどうにか直そうと必死に頭を悩ませていると、当の親友は──
「あら、もうこんな時間じゃない。明日も早いからもう寝るわね」
「え、ちょ」
こちらの静止も聞かずに「おやすみー」と早々に布団に潜りこんでしまった。
すぐにイチの寝息が聞こえてくる。
所在なさげに漂うモニーの片手。
そんな姿をあざ笑うかのように北風が窓を叩いた。
◇
「──てなことがあったわけでして」
「えと、いや、えぇ……」
言葉に詰まる。というよりコメントの出しようがない。
純粋というか世間知らずというか。
モニーの言うとおりどんな生活を送ってきたらそんな認識になるのか。
サンタはともかくトナカイの存在も許されないって。
反応にこまる話をされて閉口するタマモクロス。
「どうしたらいいと思います?」
「どうしたらって……、どうしたらええんや?」
「いや、私が聞いてるんすけど」
「そない言われたって、分からんもんは分からんて。だいたい何やねんトナカイがおらんて。んなもん、動物図鑑とかテレビとか見てればどっかしらで出てくるやん。なんで架空の生き物にされてんねんトナカイ」
「いや、私に聞かれても困るんすわ」
二人して天を仰いで自然と唸り声が伸びる。なんで今更いい年した女子高生にトナカイが現実にいることを諭さなければならないのか。あまりにもバカバカしいはなしだ。
しばらく考えてみるもののいい考えは浮かんでこず、自然とどちらからともなくため息が重なった。
──と、気が抜けたせいだろうか。話し込んでいたために聞こえていなかった周囲の音が耳に入るようになる。
どこからか喧騒が二人のもとにわずかに飛び込んできた。
カフェテリアの中からだ。
「何や? やけに賑やかになっとるな」
「さあ?」
二人して首をかしげていると、「タマちゃん、モニーちゃん」と声をかけられる。
声の方に振り向けば、カフェテリアの入り口からこっちに駆けてくるスーパークリークの姿が見えた。
「おう、クリーク買い物は済んだんか?」
そう訪ねてみても答えないクリーク。なにやら慌てている様子で、「早く来てください」と言うやいなや二人の手をつかんでカフェテリア内へと連れ込んだ。
クリークに引っ張られるようにカフェテリア内に入った二人の目に飛び込んできた光景は、
「だから、サンタとトナカイは架空の存在で実際にはいないの!」
「いや、サンタもトナカイも実際にいる!」
周囲を生徒に囲まれながら、オロオロとその場に立ちずさむビワハヤヒデを挟んで激しく言い合うイチと小栗の姿だった。
「えっと……」
「……クリーク?」
「私もさっき戻ったばかりで詳しくは知らないんですけど、二人ともサンタクロースとトナカイがいるかいないかで揉め始めちゃったみたいで……」
「ええー……」
呆然とするモニーとタマモ。そんな二人に気づくわけもなく二人の口論は加速していく。
「だいたい、羽もないのに飛ぶような生き物がいるわけ無いでしょ!? 何を馬鹿なこと言ってるの!?」
「いや、どっちも確かにいるぞ!」
「じゃあ、どこにいるってのよ!?」
「北欧とか北極圏とか、北の方に住んでるってハヤヒデは言ってたぞ!」
「ちょっとハヤヒデさん!! なにうちのオグリに変なこと吹き込んでるのよ!?」
「いや、わたしは、その……」
自信満々に言い張るオグリ。ハヤヒデに詰め寄るイチ。困ったように双方を見ながらたじろぐビワハヤヒデ。
「……なあ、モニー」
「なんです?」
「あれ、止めなきゃアカンか?」
「アカンでしょ」
「だよなあ……」
思わずため息が溢れる。
せっかくゆっくりとしていたのに、何でこんな目に合わなきゃならんのか。
痛む頭を強く揺すると、タマモクロスは生徒たちをかき分けて二人のもとへ向かうのであった。
part20(186)
とある寒い休日の朝。
イチの実家から荷物が届く。
中を開けてみると大量のふきのとうが入っていた。
中に入っていた母からの手紙を読むにおすそ分けらしい。
とはいえ、これだけ大量のふきのとう、どう処理したらいいか。悩んでいると、オグリが側から顔をのぞかせる。
オグリがふきのとうを見て、お腹を鳴らすのを呆れながら見るも、仕方がないとばかりになにかリクエストはあるかと尋ねるイチ。
少し考えるようにして顎に手を当て唸るオグリ。ふと閃いたように天ぷらがいいと言う。
言葉に詰まるイチだが爛々と目を輝かせて楽しみにするオグリを前に喉元まで上がってきた言>葉を飲み込む。
大きくため息を吐くと、「作るけどちゃんと完食してよ」と念を押す。
大きく頷きながら喜ぶオグリをよそに、道連れにタマモとモニー、イナリやクリークを巻き込もうと画策するイチであった、
part21(124~129)
弱々しい日差しが降り注ぐ中庭。時折、冷たい北風が音とを立てて駆け抜けていく。
「ごちそうさまでした」
「はい、お粗末様でした」
今日も今日とて同じやりとりをする私たち。
最初こそ“芦毛のこいつ“の嫌いなものをふんだんに使った弁当でもって苦しめてやろうとか思っていたのに、今となってはすっかりこいつの体調や好みに合った料理を作るようになってしまった。
━━まあ、今更気にすることでもないが。
「いつもすまないなイチ、今日も美味しかったぞ」
「そ、それならよかったわ。別に大した手間じゃないしね」
お弁当を片付けながらそんなことを言う。口調が若干素っ気なくなったのは別に照れ隠しでもなんでもない━━はずだ……、うん、多分……。
そんな些細な戯言を自問自答していると、不意にオグリが体を強張らせ、
「━━クシュンッ」
小さくくしゃみをしていた。
「ちょっと、大丈夫? 風邪でも引いたの?」
「いや、最近寒くなってきたからかな。練習後だというのに少し肌寒くて」
わずかに身震いをして自分の体を抱きながら二の腕を擦る。ふとその手を見れば痛々しいくらいに赤くなっていた。
「ちょっと、ずいぶんひどいことになってるじゃない! 手袋とかなかったわけ?」
「ん? ああ、見当たらなくてな。どうやら、寮に置き忘れてしまったらしい」
まったくこいつは……。いつもどこか抜けてるんだから。
こっちが呆れまじりに心配してるのを他所に当の本人は息を吹きかけながら悴んだ手を揉み擦る。
そんな姿が余計に痛々しさを助長したからだろう。私は自分でも思ってみなっかったことをしてしまった。
「ちょっと手貸して」
「え、イチ!?」
驚くオグリを他所にオグリの両手を引ったくるようにして包み込む。
「もーこんなに冷たくして……」
手のひらに直に伝わるオグリの手はひどく冷たい。氷とまでは行かないがそれでもキンキンに冷やした何かみたいだ。
包み込んだオグリの手に優しく息を吹きかけながらあちこちを摩るが、私の手の熱は一瞬で奪われてしまう。そこまでしてもオグリの手はまだ冷たかった。
少し考え込んだ私はまたしても自分では思いがけないことだが、かなり大胆なことをした━━いや、してしまった。
「えい!」
「!!?」
オグリの両手を首元にくっつけたのだ。
冷たさに身を震わせるものの、なんとか耐える。
最初こそ刺すような冷たさだったが、だんだんとその冷たさは薄れていった。
少しは温くなったと思った頃に、オグリが申し訳なさそうな声を出す。
「━━あの、イチ」
「何?」
「友人同士だからってこれは少し恥ずかしいんだが……」
「へ?」
そう言われて自分の今の状況を冷静に見つめ直す。
首元に相手の手を当てる私。
恥ずかしそうな表情で上目遣いに私を見つめてくるオグリ。
そこまで理解した瞬間、私は自分が何をしているかようやく気がついた。
「うひゃあ!! えと、ごめん……」
悲鳴に似た声を上げながらオグリの手を突き返すとあまりの恥ずかしさに思わず体を背けてしまった。
「いや、構わない、全然気にしてないから……、その、うん、全然……」
背中越しに聞こえてくるオグリの声は後になるにつれてしどろもどろになっている。
あー、もう最悪。何しているんだ私は。いくらなんでも大胆すぎるでしょ私。バカじゃないの!?
自分を詰りながらも、顔は異様に熱いし━━何なら寒さなんて吹き飛ぶくらいには体が火照ってるし、心臓が痛いくらい激しく打ちつけてるし、もう最悪。
そのまましばらくお互い何も言わないまま気まずい沈黙が続いた。
そのおかげだろうか。どこかから誰かが小声で話しているのが聞こえてきた━━それもかなり聞き覚えのある声だ。
その声の方に目をやれば、道端の植木から見慣れた“狐のお面“と“青赤のワタリ”が顔を覗かせていた。
◇
植木の端から青春真っ盛りなシーンを見つめる3つの視線。
「か~、見てるかイナリ? 二人とも初心やでホンマ」
「全くだぜい! いじらしい姿見せてきやがって、こっちが恥ずかしくなってくらあ」
揶揄うようにタマ先輩とイナリ先輩が言う。
二人とも親切心でいかにも見守ってますというような体で言っているが、やっていることは出歯亀である━━まあ、一緒に見ている私も同罪なんだけど。
「ちょっと二人とも見るのに夢中になってないで手を緩めないでくださいよ」
私の下には目の前で繰り広げられているラブコメを風紀の乱れとして取り締まろうとして抑えつけられたバンブーメモリー先輩が身を捩らせながら暴れていた。
「モガ〜!!」
「おっと、すまねえな」
抜け出されそうになったところをイナリ先輩がすかさず取り押さえてくれる。タマ先輩はといえば、相変わらず視線を中庭に向けたままだった。
「そうは言うけどなモニちゃん。今かなりええところなんやで? 見てみい二人のあの様子」
言われるがままに中庭に目を向ければ、胸焼けするくらいには見慣れた甘々な光景が飛び込んでくる。
よくもまあ、あんなお手本みたいなラブコメ展開ができるもんだ。……すこし羨ましくなる。
「いや、それはわかりますけど━━あっ」
こっちが余所見をした瞬間をついてバンブー先輩が拘束から抜け出す。
「風紀の乱れっス!! いくら友人同士でもダメなものはダメっスよ!!」
吠えるバンブー先輩の口元を慌てて塞ぎながら、タマ先輩が小声で怒鳴る。
「だああああ!! おどれ静かにせんかい! 二人にバレるやろが」
「風紀の乱れってつったって首元に手を当てさせただけだろい!」
「ちょっと、三人とも声が大きいですって! イチにバレたら━━」
「私にバレたら何かしら、モニー?」
気温に負けないくらい凍てついた一言だった。
「あっ」
3人が間の抜けた声を出しながら恐る恐る振り返ってみれば、そこには肩を怒らせたイチが腕組みをしながら仁王立ちをしていた。おまけに目を鋭く尖らせながらだ。
「タマ先輩とイナリ先輩、おまけにバンブー先輩まで揃って何をしていたんですかねえ?」
冷え切った声色で問いかけるイチ。
「あー、本日はお日柄もよく……」
「なはははは……」
「え、いや、自分はその……」
「な・に・を・しているんですか?」
あ、こりゃダメだわ。必死に誤魔化そうとはしてみたけど話を聞いてもらえない。完全にお怒りですねコレは。
いち早くそう判断した私は他の3人にはバレないようにそっと距離を取ると、
「━━お先に失礼ッ!!」
自分でも上出来と思うくらいのスタートを決めて逃げ出した。
「あちょ!?」
「おい、ズリいぞお前ッ!!」
「ちょ、置いてかないでくださいッ!!」
「待ちなさい!!」
学園内に響く足音。背中越しに聞こえてくる怒声。ちらりと後ろを伺えば、いくら逃げに適性がない相手とはいえGⅠウマ娘の先輩方に過去一抜群な追い込みをかけるイチの姿が飛び込んできた。
あー、今日のトレーニングは無理そうかな……。
どこか他人事のようにそう考えた私は、トレーナーへの言い訳とイチへのお詫びを考えつつも先輩方と仲良く必死で逃走劇を繰り広げるのだった。
━━まあ程なく生徒会の皆様に捕まって5人仲良くお説教を食らったんですけどね。
{part19(120~121,130~132,141~142,184~188)
高らかに授業終わりの鐘が鳴る。
タマモクロスは鞄の中をまさぐると目当てのものを手にして教室を飛び出した。
そのまま廊下を駆けていくが当校の高速は“廊下は静かに走るべし”なので何の問題もない──いつも思うことながら大分変わった校則だとは思う。
駆けながらも胸元に抱えた“それ”を大事そうにしながら決して壊さないよう慎重に運んでいく。
今日は二月の十四日。世間的にも一大イベント。
そう他でもない“バレンタインデー”である。
世間の男子も女子も浮足立つこの日、彼女も例外なく浮足立っていた。
レースとは違う心地の良い緊張感。足が地面を蹴るのに合わせて心臓が弾むかのような錯覚。
手元のチョコレートは馴れないお菓子作りのせいで形は歪、味は単調、おまけに包装も不器用さが際立っていたが、意中の相手への気持ちはありったけに込めた最高傑作とは彼女の自己評価。
夢心地な気分のまま、相手のクラスへひた駆ける。
◇
目的地まではそんなにかからなかった。
気持ち弾ませ、足を弾ませ、階段を降り廊下の曲がり角を曲がれば、なんて幸運だろうか彼女がそこにいた。
声をかけようと片手を挙げ──ようとして、目の前の光景に思わず廊下の陰に隠れてしまう。
陰から半身乗り出し息を潜めて様子をうかがえば、彼女が後輩と思われる二人の生徒に声をかけられていた。
「モニー先輩」
「ん? 私?」
「はい! あの」
「よ、よかったらこれ!!」
「え、と……。これは?」
「チョコレートです!」
「──あー! 今日バレンタインか!」
「はい!!」
「ありがと! 食べてもいい?」
「ど、どうぞ!」
そうして彼女は受け取ったチョコを口に入れその味に感動していた。
その反応に嬉々とした声を上げる後輩たち。
自然、うしろ手に隠した自分のものと彼女の手にあるそれを比べてしまう。
包装は可愛らしく中のチョコは売り物みたいに綺麗だ。自分のものよりもずっといいものに見える。
和気藹々とした眼の前の光景に背を向けると、タマモクロスはほろ苦い感情を胸にその場を去っていった。
◇
昼休み、昼食時ともなればカフェテリアもにわかに活気付く。
その一席でタマモクロスはいささか沈んだ面持ちで頬杖をついていた。
視線の先にはモニーに渡し損ねたチョコレート。
それを見るとさっきの光景が目に浮かぶ。
後輩からチョコを貰って喜ぶモニー。自分のチョコを貰ってもあんな風に喜んでくれるだろうか。
後輩のチョコと比べてもお世辞にも綺麗とも美味しそうとも言えないチョコレート。渡したところで失望される姿しか浮かんでこない。
そう考えると胸の奥がちくりと痛む。もやもやと重たい何かかが胸の中で一杯一杯に広がっていくのを感じる。
息苦しさを覚えたタマモクロスは大きなため息をついた。
「よお」
そんな寂しげな背に威勢のいい声が投げかけられる。
視線だけをそちらに向ければ見知った顔が2つ。
イナリワンとスーパークリークが立っていた。
今来たばかりなのだろう、手にしたお盆の上には熱々と湯気が漂う料理が乗っている。
「相席してもいいかい?」
「かまへんよ」
いささか投げやりな言い方になってしまったが、気にした様子もなく二人は向かいに回ってくる。
「何でえ辛気臭えツラしやがって。なんかあったのか?」
「別にー、なんでもあらへん」
訝しげな視線を送ってくるイナリ。
その視線を無視して立ちあがろうとしたとき、「あら」とクリークが何かに気がついた声を上げた。
クリークの視線の先にはタマの手作りチョコレート。
それにイナリも気がつくとすぐに悪戯っぽい笑みを浮かべ「何でえ、随分モテてるみたいじゃねえか」と揶揄ってくる。
途端、苦虫を噛み潰したような苦々しさが込み上げてくる。
否定しようとしたがクリークに割り込まれる。
「いえ、これ確か以前タマちゃんと作ったやつじゃありませんか?」
「ん? そうなのかい?」
「ええ、確か昨日作るのをお手伝いさせてもらいましたし」
「ほおー……、なんだいお前さんも隅に置けないねえ! それでいつ渡すんだい?」
好奇心で爛々としたイナリの視線が突き刺さる。
言葉に詰まらせながらも視線を無視してぶっきらぼう「渡さへん」と言い捨てる。
瞬間、二人から「は?」と呆けたような声が漏れる。
「だから! 渡さへんって言うてんねん!」
「えぇー!? なんでですか!? あんなに頑張って作ったのに」
「何だってええやろ別に……」
そっぽ向いて不貞腐れたタマの様子に思わず顔を合わせる二人。
やがて、大きくため息を吐いたイナリが言う。
「話してみろ」
「は?」
「だから、話してみろって」
「何をやねん」
「なんかあったんだろ? 聞いてやるから話してみろって言ってるんでい!」
「なんで話さないかんねん、アホか」
「てやんでい!!」
唐突に吠えるイナリに思わず体が飛び上がる。
「お前さんのそんな景気の悪い姿をほっとけねえって言ってるんでい!! 友人を思ってのこっちの気持ちを、ちったあ察しろってんだい!!」
上から目線のそのセリフに思わず体を前に乗り出しかける。
機嫌が悪いからほっとけと言ってるのにそれを無視して何様のつもりだこいつは。
耳が後ろに引き絞られるのが自分でもわかる。
怒りの感情が口から飛び出そうになる寸前で、「タマちゃん」とクリークにまたしても止められた。
「無理して嫌な気持ちを押し込めるのは体にも心にも毒ですよ?」
思わずクリークの顔を見る。
こっちが怒気を顕にしてるというのに彼女の表情は優しい。一つも気にする様子もなく母性的な笑みをたたえてこちらの目を見つめていた。
「私達で良ければちゃんとお話を聞きますから──ね?」
優しい言葉に諭されたのかすっかり怒るのがバカバカしくなった。
ドカッと椅子に座り直すと、大きくため息を吐いて廊下での出来事を話し始めた。
◇
「──ちゅうわけや、話すことは全部話したで」
ひとしきり話し終えて背もたれに全身を預ける。
モニーにチョコを渡そうとしたこと。
クリークに手伝ってもらってまで馴れないチョコを作ったこと。
モニーが後輩からチョコを貰っていたこと。
そのチョコが自分のものと比べてあまりに出来が良かったこと。
話してみれば楽になるかと思えば別にそんなことはなかった。むしろ、情景を再び思い出したせいで余計に気持ちが沈んだ。
やがてイナリが口を開く。
「意気地なし」
「はあ!?」
「意気地なしって言ってるんでい」
「何やとぉ!?」
「ちょ、ちょっとイナリちゃん!?」
「もういっぺん言ってみい!?」
「おう、何度でも言ってやらあ。この意気地なしのヘタレ!!」
聞き捨てならないことを言われて思わず身を乗り出すタマモ。しかし、気にする素振りも見せず腕組みしながらなおも続ける。
「何を日和ってるんでい! 渡しゃいいじゃねえか、んなもん」
そう言い捨てると腕組みを解いて机に肘をついて身を乗り出す。
「だいたい、お前が相手にみすみす譲るような玉かよ。レースのときの勢いはどこ行ったんだ。話を聞いてりゃちゃんちゃらおかしいぜ。走ってるときのあのギラついた勢いが全く感じられねえ。競争相手に獲物をみすみす譲るなんざ“猟犬”の名が泣いてるぜおい」
そこまで言われてなにか一つでも言い返してやろうと思ったのだが喉元に引っかかって出て来ない。ことごとく正論だからだ。
クリークが心配そうにタマモとイナリの顔をきょろきょろと見比べている。
人がわなわなと身を震わせていると何かに気がついたような素振りを見せてニヤリと口元に嫌な笑みを浮かべた。
「ははーん、それともあれか? お前さん」
椅子に座り直したかと思えば顎に手をやって小馬鹿にしたように言ってみせた。
「モニーのことが好きだって気持ちはまやかしだったってことかい?」
「──何やと?」
空気が変わる。熱気が一瞬に消え去って冷える。
タマモの射るような視線がイナリに突き刺さる。
しかし。やはりイナリは気にする素振りを見せない。それどころかどこか余裕を感じさせる。
顔を青ざめているのはクリークただひとりだ。
「まあ、それじゃあしょうがねえわな。そこまで本気じゃなけりゃ二の足を踏んじまうのも分からぁ。レースのそれと比べりゃ何が何でも勝ち取る必要はないもんなあ」
瞬間、轟音が響く。
目を丸くするクリークとイナリ。
視線の先には机にタマモの拳が振り下ろされていた。
もはや周囲のことなど目に入っていない。
耳を引き絞るどころかもはや寝かせている。目尻を裂けんばかりに吊り上げ全身からありったけの怒気をイナリに向けてぶつけている。
「じゃあしいわ!!」
タマモの怒声が──咆哮がカフェテリア内の空気を震わせる。
しかし、当のイナリは一向にこたえる素振りを見せない。そのことが余計にタマモの神経を逆撫でた。
「黙って聞いてりゃべらべらべらべら好き勝手言いおって、おどれに何が分かんねん!!」
「タマちゃん!」
必死にクリークが止めようとするがタマモの言葉は止まらない。
「うちがモニーちゃんを適当に思っとるやと? モニーちゃんの一番になれなくてもどうでもいいやと? ふざけんなや!! そんなん思っとるんやったら、何で今うちはこんな気持ち抱えとらないかんねん!! 本気でモニーちゃんのこと大切に思うとるから出来損ないでもチョコレート手作りして渡そう思うたんや!! それを──」
「タマちゃん!!」
クリークの鋭い静止の声が場を貫く。
一瞬の静寂。
その瞬間、聞き慣れた声がタマモの背中にかけられた。
「──タマ先輩」
ただ振り向くだけなのに恐ろしく時間をかけるタマモ。
そんな様子を眺めながら悪戯っぽい笑みを絶やさないイナリ。
──振り返ればエイジセレモニーがそこに立っていた。
「も、モニちゃん……」
声を震わせながら彼女の名前を呼ぶ。
静まり返ったカフェテリアの中で呼ばれた本人は曖昧な笑みを崩さない。
視線が自分達に集まっていることを気にするような素振りも見せず、こちらに近づいてくるモニー。
瞳を覗き込みながらモニーが聞いた。
「私がどうかしましたか?」
「いや、なんちゅうか、その……」
しどろもどろになりながら何か言おうとするもののうまく言葉にできない。
一瞬、モニーの視線が外れた。何かに気づいたような仕草をわずかに見せると再びタマモクロスの方へ視線を向ける。
「──ところでタマ先輩」
口元には悪戯っぽい笑み。
「私にチョコはくれないんですか?」
「んぐぅっ!?」
いきなり急所をつかれた。
うめき声を漏らしながらも助けを求める感情と恨みがましい感情が入り混じった表情で振り返る。
しかし、期待した光景は──助けを求めようとした者はそこには居なかった。
こんな地獄じみた状況を作った張本人はもちろんのこと、スーパークリークすら忽然と姿を消していた──ご丁寧に食べ終わった食器も綺麗さっぱりなくなっていた。
──クソ!! あんのアホンダラ、逃げおったなああ!!
ぐつぐつと腸が煮えくり返る思いをしていたが、「タマ先輩?」というモニーの一言で冷水を浴びせられたように冷静にされ一気に現実に引き戻された。
「いやな? そのあげようとは思っとったんやけど、そのな?」
「……くれないんですか?」
思考を総動員して必死に取り繕うとするが情け容赦無く一刀のもとに言い訳の山が断たれてしまう。耳をたれさせて悲しそうに視線を落とすモニー。その姿、表情がタマモクロスの心や胃をキリキリと締め付けてやまない。
「いやいやいや!? あるにはあるんやで!? ただその渡すには忍びないっちゅーか」
「くれないんだ……」
「ぐうっ!!」
「楽しみにしてたんだけどな……」
「んぐぐぐ……」
立て続けに繰り出される悲しみの声。その一つひとつがもはや必殺級の一撃となってタマモクロスの身に突き刺さる。
モニーの悲壮に満ちた視線を振り切るように机に向き直るタマモクロス。
そして、やけくそ気味に覚悟を決めるとテーブルの上にあったチョコを手に取ってモニーへと突き出した。
「えーい!! 持ってけドロボー!! その代わりクーリングオフは一切おことわりやからなぁ!!」
「やった!!」
曇りがかった空に日差しが差し込んだかのように一転して眩いほどに明るい表情を見せるモニー。手を胸に上げて力強くガッツポーズ。
「いやー、よかった~。正直、本当にもらえないかと思ってましたよー」
さっきまでのいっそ妖艶にまで感じてしまった悲しさはどこへやら、すっかり普段の飄々とした仕草を見せてくる。
「ふん!! 調子のいいやっちゃな。準備しとるに決まっとるやろがい!!」
「もう、そんなに拗ねないでくださいよ~」
「拗ねとらへんわ、ボケェ!!」
わざとらしく肘で突かれるのを手で振り払いやはりやけくそ気味に吠える。
それをひらりと躱しながら手元のチョコレートへと目を落としながらモニーが言った。
「いやー、でもやっぱ嬉しいですね。こうしてもらえると」
──タマモクロスの思いとはまったく別の言葉を。
「──義理チョコでも」
虚をつかれ、一瞬静止するタマモクロス。
聞き間違えだろうか。
「……今、何てった?」
「へ? いや、義理チョコでももらえると嬉しいって」
キョトンとこちらを見るモニー。
なにか変なことを言ったのか不思議そうにタマモクロスを見る。
しかし、そうしていたのも束の間。すぐにいつもの調子でヘラヘラと軽口を叩く。
「しかし、こういうイベントに合わせてちゃんと用意してるなんてタマ先輩も結構マメな方なんですねえ」
眼の前で感慨深そうにチョコを眺めるモニー。
それを見ながらなんとも言い難い感情がこみ上げてくる。
抑えることを知らずそれは喉元を通り過ぎて自然口からこぼれていた。
「──開けてみい」
「え? 今ですか?」
意外そうな声を上げるモニー。
しかし、それを無視して声を荒げるタマモクロス。
「ええから開けてみい!!」
「わ、分かりました!」
ただならぬ雰囲気を感じたのか、慌てた様子で包装をといていくモニー。
「何なんです?」と疑問を口にしながらケースの蓋を開いてみれば──。
「──へ?」
ガタガタに固まったハート型のチョコレート。
表面には竜頭蛇尾の逆を行く太さでよれによれた『I LOVE YOU!!』の文字がこれでもかと大きく書かれていた。
目に飛び込んできたものを見て、今度はモニーがぎこちなく首をきしませる。
「いや、あの、これ?」
放心状態でふらふらのモニーに向けて必殺のストレートを繰り出す。
「──本命や! 文句あっか!!」
やけくそ気味に素っ気なく吐き捨てると、ぷいっとそっぽを向くタマモクロス。
顔をそむけたのは真っ赤に染まった己の顔を見せたくないからか。
カフェテリア内で二人を見ていた全員が息を飲むのが聞こえてくる。
かと思えばなにかが倒れるような鈍い音。
音の方へ振り向いてみれば、モニーがチョコレートを抱えたまま床にうずくまっていた。
「ちょ!? モニちゃん!?」
慌てて駆け寄るタマモクロス。
体を小刻みに震わせつつも激しく主張するのをやめないモニーの尻尾と耳。
心なしかわずかに見える横顔が真っ赤に染まっているような気がした。
「何してんねん!? はよ起きいや!!」
「いや、無理ですって……」
「何が無理やねん!? こんな公の場でなにさらしてんねん!!?」
「あ~、もうほんとひきょうですよ~。ふいうちにもほどがあるって」
「なんの話やねん!! んな、ふにゃふにゃになっとらんと早う起きんかい!!」
「嫌ですー!! 絶対に嫌ですー!! 乙女の純情理解してくださいよ!!! この鈍感!!」
「おどれに言われたくないわあああ!!」
体を引っ張って必死に引っ張るものの頑なに床から離れようとしないモニー。
瞬間、静寂に包まれていたカフェテリア内に黄色い歓声が上がった。
「あ、こら! なにカメラ構えとんねん!! 見世物やないぞ!! こらそこ!? 変に囃し立てんのやめんかいボケェ!! ええい、散れ散れぇ!! 見せもんちゃうぞゴラァ!!」
タマモクロスの叫びも虚しく周囲は目の前の二人を思い思いに祝福するのだった。
◇
「──たく、世話の焼けるやつだぜい」
「もー、あそこまでやる必要ありました?」
「てやんでい、あったりまえだろい!!! ああいう怖気づいたやつはちょっと突いてやりゃ、後は勝手に勢いで転がってくもんでい」
「こっちは生きた心地がしませんでしたよ、も~……」
ため息を吐くクリークを見て、「にひひ」と笑いを零しつつ、いまだ注目の的になっている二人へ視線を向ける。
──ま、ほどほどに楽しくやんな。末永くお幸せにってな。
眼前の喜劇を眺めながら美味しそうにお茶をすするイナリワンだった。
part23(64,100~101,140~143,153~159,168~)
イチが大事な昇級レースが近いということもあってお弁当を作るのが難しくなってきたこの頃、時々ではあるものの疲労から早起きができずお弁当を作ることが出来ないでいた。
その度、イチが申し訳無さそうにオグリに謝るがオグリは優しくそれを許すだけじゃなく励ましたり、トレーニングを応援する。
いくらか救われるイチ。
その一方で、オグリは自分がイチの負担になってしまっているのではないかと漠然とした不安が渦巻く。
ある日、イチがお弁当を用意できずオグリが大きく空腹の音を慣らしていると、後ろから声がかけられる。
振り向けば見覚えのない芦毛のウマ娘。
どうやら後輩らしく自分の大ファンだという。
応援してくれることに嬉しく思い、お礼をしようとしたところ再び腹の虫が大きく鳴く。
恥ずかしがるオグリに後輩は待ってましたと言わんばかりに用意してきたお弁当を差し出してくる。
喜びを顕にしながらお弁当を受け取るとあっという間に平らげるオグリ。
お礼を言いながら談笑を楽しむ二人。
そんな姿を通りがかった折に見てしまうイチ。
一瞬、固まるもののすぐにいつものファンサだろうと悪い考えを振り払いトレーニング場へと足早に立ち去る。
胸がチクリと痛むのをこらえながら。
そんなことには気が付かずに後輩と談笑を楽しむオグリ。
ふと、いつもお弁当を作ってきてくれるイチが最近忙してお弁当を作ってもらうのが申し訳ないと漏らしてしまう。
すると、後輩は身を乗り出して食い気味に「なら、代わりに自分が用意します」と嬉々として申し出る。
それはさすがに双方に申し訳ないと断るオグリ。
しかし、後輩は食い下がり「なら、せめてレスアンカーワン先輩が無事レースを終えるまでで構わない」と提案する。
今までイチに抱いていた罪悪感からそれを了承してしまうオグリ。
飛び上がるように喜ぶ後輩。
その姿を微笑ましく見守るオグリだが、それが波乱の始まりだったとはこのときはまだ気が付かなかった。
翌朝、イチは顔面を蒼白にさせられる。
他でもないオグリから「もうお弁当は作らなくてもいい」と告げられたから。
エイジセレモニーは不審に思っていた。
普段とは明らかに様子のおかしいイチ。
なにをしていても上の空。
それだけじゃない。
何かにつけてふとした時に涙ぐむような仕草を見せてくる。
思わずモニーは尋ねてみた。
「どうかしたの?」と。
最初こそ「なんでもない」と平気そうに振る舞っていたが、何度も尋ねているうちに遂に観念したのかポツリポツリとわけを話し始めるイチ。
曰く、オグリキャップに「もうお弁当は作らなくてもいい」と言われたそうだ。
思わず頭と心が瞬間的に沸騰する。
なんだそれは。
イチがオグリにどんな気持ちでお弁当を作っているのかモニーはもちろん知っていた。
毎日、無理して起きなくてもいい時間に目を覚まし健気に下ごしらえを苦にせず作っている。
それが最初こそ別の意味で作っていただろうが、今は違う。
ただひたむきにオグリのために作っていたというのにそれを──。
なにも言わずに立ち上がるモニー。
不安そうに呼びかけるイチの声など耳に入っていない。
玄関の扉の前まで行くと顔を見せずにイチに言う。
「ちょっと言ってくる」
イチの返事を待たずにモニーは扉を開けた。
行き先は唯一つ。
芦毛のアイツのもとへ。
その一方でタマモクロスをある異変に気がついていた。
他ならぬ、レスアンカーワンのことである。
昼休みにカファテリアで会ったときなど、会話自体は成り立っているものの何となくぎこちなさを感じた。
まるで歯車を空回りさせながら無理やり動力としているかのように。
気のせいか顔色が悪いような気もするし、どこか思い詰めたような表情をしたいたようにも見える。
思わず同席していたイナリワンやスーパークリークと顔を見合わせてしまったほどだ。
何かあったな。
そう思わずにはいられない。
ただ、「聞いていい話だろうか?」という懸念がタマモクロスに二の足を踏ませてしまった。
結局、理由を知ることもできず今に至るというわけだ。
目の前で明日の準備に勤しむオグリキャップならなにか知っているだろうか。
しかし、本人を差し置いて第三者に話を聞くのもどうだろう。
聞くべきか、否か。
自らのベッドの上でうんうん唸っていると扉をノックする音が転がってきた。
「はーい」と声を上げながら扉を開けるとそこにはタマモがよく知る人物、後輩のエイジセレモニーが立っていた。
ただし、いつもと雰囲気がまるきり違っていた。
そう、まるで討ち入りに来たかと言わんばかりに隠そうともしない威圧感。
その威圧感に面食らっていると、モニーはタマモの脇をすり抜けて無言のまま部屋の中へと入ってくる。
同じように面食らっているオグリの前までたどり着くと重々しくその口を開いた。
「イチに何を言ったの?」
すっかり気圧されたオグリが言葉にならない声を上げつつもかろうじて言う。
「いったい何のことだ?」
それが引き金だった。
目を吊り上げ、耳を引き絞り、途方もない怒声が部屋中に響き渡る。
「とぼけんな!!」
オグリとタマモの体が飛び上がる。
これはただ事じゃない。
ことここに至ってもまだ戸惑うオグリ。
思わずタマモが間に割って入る。
「落ち着けモニちゃん!! 流石に近所迷惑や! な!? 一旦落ち着こう!」
そう言って必死になだめようとするが一向に引き下がらないモニー。
その視線はタマモなど眼中になく、オグリから決して逸れることがなかった。
当のオグリは不安、戸惑い、恐れといった感情がぐちゃぐちゃになったものが表面に浮かび上がっていた。
緊迫する部屋内。
異変に気がついたのか周囲が騒がしくなってくる。
扉の開く音もちらほらと聞こえた。
どうにかこの場を収めなければ。
意を決したタマモは喉を大きく鳴らしてモニーに聞く。
「いったい何があったんや?」
重々しい沈黙がしばし続いたあとやがてモニーの口が開く。
タマモが聞かされたのはただ一言。
──オグリがイチにもうお弁当はいらないって言った。
──イチに作ってもらう必要がないから。
一瞬の空白。
しかし、次の瞬間にはタマモの頭に電流が走った。
すべて繋がったのだ。
ゆらりとオグリの方へ向き直るタマモ。
戸惑いを一層強くしているオグリに言う。
「オグリ、正座」
言われるがままにおずおずと正座をするオグリ。
身を縮こませるオグリを見下ろしながら続けて言い放った。
「説明してもらおか」
凍てつくような二つの視線がオグリを貫いていた。
夜も更けた栗東寮。
その一角で緊張が走る。
ある者は巻き込まれないよう扉を閉め、ある者は固唾を呑んで”それ”を見つめ、またある者は”万が一”が起こっては困るので寮長に知らせにいった。
皆の視線が集まっているのはとある一室のその扉。
中からエイジセレモニーの怒声が聞こえたオグリキャップとタマモクロスの部屋だ。
怒声が聞こえてからは至って静かだが、周囲で様子を伺うものたちは中でなにか起こりそうなのではないか。
──もしくはもう何かが起こってしまったのではないか。
背筋にわずかに冷たいものを感じながらその扉を注視していた。
何事もありませんように。
そう強く祈りながら。
◇
そんな周囲の心配を一挙に集めている部屋内。
周囲の予想した通り、緊迫した空気が張り詰め今にも爆発するような光景が繰り広げられていた──かと思えばそんなことはなかった。
むしろその正反対、弛緩した光景があった。
かたや叱られた子供のように目尻に涙をためて項垂れるオグリキャップ。
その反対には、さっきまでのピリピリとした様子はどこへやら。
額に手を当てて天を仰ぐタマモクロスとこめかみを挟み込むように片手で顔を覆うエイジセレモニーの姿があった。
二人は交互に口を開く。
「えーと、つまりこういうことか? イチが大事なレースを控えているのにお弁当を無理して作ってもらうのは申し訳ない」
「だけど、朝のお弁当はすっかり自分の生活ルーティンに組み込まれてしまっており食べなければ午前中はひどい空腹感に苛まれて辛い、と」
「そんで、ちょうど良く後輩がイチがレースに集中している間だけでも自分がお弁当を作ると言ってくれたわけか」
「イチもトレーニングに集中できるし自分も空腹に困らなくなるとこれを了承した、と」
「で、イチちゃんに言った言葉が”あれ”か?」
一つ一つに頷くオグリ。
二人はなんとも言えない声を上げたあと、顔を見合わせ頷くと──。
「いや説明下手くそか!!」
声を揃えてオグリに突っ込んだ。
「あんたもーちょい言い方ってもんがあるやろ!」
「いや、オグリが口下手なのは重々知ってたけど……」
しかも一切の悪意なく善意でやってるから質が悪い。
互いのすれ違いが最悪のマリアージュを生み出してしまっていた。
「まさかそんなことになってるなんて思いもしなかったんだ……」
泣きべそかきながら落ち込むオグリ。
大きなため息を吐くタマモクロス。
「ならオグリ、やらなアカンことあるやろ?」
困った顔でキョトンとした様子を見せるオグリ。
穏やかな笑みを見せるモニーとタマモはオグリを優しく立たせると──。
「さっさと詫び入れて誤解を解いてこんかい!!」
萎れた背中に喝を入れるタマモとモニー。
弾かれたように慌てた様子で駆け出すオグリ。
靴を履くのも忘れてイチの元へと大急ぎで向かった。
そんなコミカルな背を眺める二人。
「ふー、どうなるかと思っとったけども……」
「妙な誤解でよかった……」
思わず胸を撫で下ろす二人。
不意にモニーが口を開く。
「……すいませんタマ先輩」
「んー?」
「あたし頭に血が上っちゃって。イチのあんな姿見たらつい……」
「ええって、ええって。気持ちは分からんでもないからな」
苦笑気味に手を振りながら、「気にしてない」と平気な素振りを見せるタマモ。
だが、「せやけど」とすぐに真面目な顔に戻って言葉を続ける。
「一個気になることがある」
「──話にあった後輩、ですか」
「せや」
強く頷くタマモ。
イチの代わりにお弁当を作ると言い始めた件の後輩。
いったい何者なのか。
「ちょっと調べなアカンな」
「ですね」
オグリが見えなくなったあとも走っていった方を眺める二人。
唐突に現れた後輩の正体を突き止めようと静かに決意を固める。
──不意にその背から聞き覚えのあるわざとらしい咳き込みが聞こえてくる。
思わず飛び上がる二人。
恐る恐る声の主の方へ振り返ってみれば。
「もうとっくに消灯時間も過ぎてるのに何をしているんですか二人とも?」
引きつった笑みをしながら腕を組んだフジキセキがそこに居た。
「お話、聞かせてくれるかい?」
今度は自分たちが正座をする羽目になったタマモとモニーなのだった。
part23(168~170)
「流石に誰もいないよね──て、キッチン明かりついてる!?」
「誰かいるの!? ってオグリ」
「むっ、なんだモニーか。何してるんだ?」
「それはこっちのセリフ」
「ん? その手に持ってるのって……」
「あ、いや、これはその……」
「ははーん、さてはイチにあげるチョコでしょ」
「う!?」
「もー、そんな照れなくてもいいのに~。そんな立派な入れ物まで用意しちゃってさ」
「ねね! 中見せてよ」
「いや!? あの、その」
「いいからいいから──って空!?」
「いや、実はその、イチにまずいチョコを渡すわけにはいかないからその……」
「味見してるうちに全部食べちゃったっと……?」
「ううぅ……」
「──はあ、で? 予備の材料は?」
「……味見で全部食べてしまったんだ……」
「……たくもうしょうがないんだからこの腹ペコ怪獣は」
「ほら、泣きべそかかないの」
「あたしの材料使う?」
「いいのか!?」
「今日だけは手伝ってあげる。イチのがっかりする顔なんて見てたら気が参っちゃうしね」
「──モニー」
「なーに?」
「本当にありがとう。やっぱり君はいい友人だ」
「うっ!?」
「!? どうかしたのか!?」
「なんでもない!!」
(なんて眩しい笑顔……。こういう屈託のない素直なところがイチに突き刺さったのかしらね)
「モニー?」
「ああ、もう!! なんでもないったら!! 時間もないんだしとっとと作るわよ!!」