目次
part23(182~184)
同スレ177
>仕事中、モニーちゃんの空想してたら何故かモニーちゃんのトレーナーが高飛車な漢女っていう概念が生まれてしまったんだ。
「こらっ! もう、この子ったら! またサボったりなんかして!」
「げッ!? なんでここが分かったんすかトレーナー!?」
「オホホホッ、私がトレーナーとして何年あなたみたいな子の相手をしてると思ってるの? このくらい朝飯前もいいところよ!」
「……それにしては身だしなみが崩れてるように見えますけど~?」
「おだまりッ!! 余計なことに気まわさなくていいの!!」
「ったく……。お友達のイチちゃんはあんなに健気に頑張ってるのにあなたときたら……。」
「──別にいいじゃないっすか。無駄なんだし」
「……なんですって?」
「だってそうでしょ? どんなに頑張ったって本物に勝てるようになるわけじゃないのに」
「イチもそう。憧れのあのポッと出の怪物に近づこうと努力したって”それ”になれるわけないのに」
「路傍の石ころはどんなに頑張ってもダイヤモンドにはなれないんすよ」
「──確かにそうね」
「あなたの言うように石は天地がひっくり返っても宝石には到底なれないわ」
「眩いくらい輝いて人目を引いてやまない宝石にはね」
「──でもね」
「いいこと? 宝石も最初から美しくはないのよ?」
「宝石だって最初は見てくれの悪い原石なのよ?」
「……なんすか? あたしらも本物よろしく桁外れた才能があるとでも?」
「さてね、それはわからないわ。少なくともオグリキャップみたいな才能は早々得られるものじゃないってことは確かね」
「それも人に100人──いや、1万人に一人でもいたら奇跡じゃないかしら」
「あなたに限らずほとんどのウマ娘はあなたの言う路傍の石なのかもしれないわね」
「……なら、やっぱり頑張ったって結局無駄、って痛ァっ!」
「おだまり!! 結論づけるのが早すぎるってのよアンタは!!」
「けれどもね、その石だって激流に耐え身を削り磨くことによって玉石のようになることができるのよ」
「ダイヤの輝きには劣るとも、原石に勝るほどの淡い輝きをもった思わず人の目を引いてやまない存在にね」
「さて、あなたはどっちを選ぶのかしら? 今まで通り路傍の石ころでいるの? それとも──」
「磨き上げた玉石になって人々を魅了するの?」
「──っ、はあ……。吐いた唾、飲んだら承知しないから」
「うふふ、トーゼンよ!!」
「さっ! 気合い入れて磨き上げるわよー!! アンタもアタシも芯のある乙女に不可能はない!!」
「──男のくせに、乙女って」
「うるっさい!!」
part24(133~135)
「ただいまー」
「おかえりなさい! 今日もお疲れ様ー」
「なんだグリ帰ってたの?」
「うん! レースも近いから今日は簡単な調整だけ」
「いいな~、アタシも早くレース走りたいんだけど」
「アハハ、でもベリちゃんのトレーナーさんがベリちゃんはじっくり仕上げていったほうが活躍できるって言ってくれたんでしょ?」
「そうだけどさー……。でも、だからってジュニア級を飛ばしてクラシック方面って結構ヤキモキするんだもん。早く活躍して注目されたいのに」
「そうじゃないと”あの人”に見てもらえないもん」
「──それってもしかして」
「そう!! 他でもないオグリ先輩よ! オグリ先輩!!」
「やっと、憧れの先輩と同じ学園に入って触れ合えるチャンスが来たのよ! だったら早いうちから目立ってオグリ先輩に意識してもらいたいってのに~」
「ベリちゃん、ずっと夢だったもんね。オグリ先輩に褒めてもらいたいって」
「うん、なのに……。それなのに、いっつも”あの先輩”ばっかり隣にいてさー」
「……レスアンカーワン先輩?」
「そうよ!! あの”オグリギャル”先輩。ちょっと料理が上手くてオグリ先輩の胃袋つかんだからってさ」
「ぐぐぐぐ、ずるいわよ」
「あ、あははは……。ずっと一緒にいるもんね~」
(でも、レスアンカーワン──イチ先輩も、そんなに悪い人じゃないんだけどなぁ。トレーニングの時、色々お話聞いてくれたし……)
(──何より、私の走りを何度か見て苦手なところ指摘して、おまけに自分の経験から改善点を教えてくれるんだもん)
(やっぱり、どこか只者じゃないような気がするんだけどなあ)
「決めた!!!」
「ひゅい!!?」
「私、レスアンカーワン先輩に宣戦布告するわ!!」
「えっ、えっ?!」
「そして、オグリ先輩の前で勝つ!!」
「勝ってオグリ先輩にふさわしいのは私ってことを証明するのよ!」
「ええええ!!?」
「やってやるわよー!!」
「だ、大丈夫かなあ……?」
part24 嘘を吐くときはご計画的に
4月。桜があちらこちらでちらほらと花開いている様子が見受けられるようになった今日この頃。
トレセン学園でも道沿いの桜が開花し新入生達を祝うかの如く花吹雪を降らせていた。
そんなある日――というより本日4月1日。私はオグリから呼び出しを受けていた。
場所はお馴染みの中庭。
暖かい日差しが木の葉の合間をすり抜けて木漏れ日となって降り注ぐ。
とはいえ、まだ肌寒さも覚える朝方だ。三寒四温というやつだろうか。
時折、吹き抜ける風の冷たさに身を竦めてしまう。こんなことなら上着を一枚羽織ってくるべきだったか。そんな後悔も頭に浮かぶが後に遅いというべきだ。
中庭の大樹の元で待ち合わせ。それもこんな季節に。人によっては何かと勘違いしてしまいそうなシチュエーションだが、私には今日呼び出された要件についておおよその検討がついていた。
4月1日、この日に行われるイベント。
――エイプリルフール。今日1日だけは自由に嘘をついても許される日だ。
全く誰が最初に考え出したのだろうか酷いイベントだとは思わなくもない。
嘘をつかれても笑って許しましょうなどと、とんでもないことじゃないか。
みんなその気になって必死で嘘をついてはいるが、自由には責任が伴うということを忘れている気がしてならない。
そして、そのことに思いが至らなかった者には当然報いも与えられるということも。
というのも、何を隠そうその報いを受けた者が私だ。
あれは去年の4月のことだったか。
ちょうどあの日も今日みたいな天気だったな。
◇
あの時、私はまだオグリに対していい印象を抱いてはいなかった。
今でこそ、親友のような――側から見てればそれ以上に見られるらしいが――付き合いをしているがあの当時はむしろその逆、強い敵対心を抱いていたのを覚えている。
いわゆる『地方から来たぽっと出の癖に』と思っていた頃だった。
どうにかこの気に入らないやつに一泡吹かせてやりたい。そう思い続けあれこれと謀略を巡らせてはいるものの何一つ上手くいった試しがなかった。それどころか、そんな私の思いとは裏腹にオグリに感謝される結果ばかりでオグリに>ギャフンと言わせるどころか妙に懐かれてしまう。
周囲からも、ある者からは微笑ましく見守られ、ある者からは冷やかし混じりの生暖かい視線を送られ、酷い時は媚を売っているように見えたのか冷笑と軽蔑の眼差しを送られるなどもう散々。
そんな私につけられたあだ名が『オグリギャル』という不名誉なものだ。
どうかしなければ。そう躍起になっていた頃。
そんな時、迎えた4月1日のエイプリルフール。
今日を逃す手はない。
今日という今日こそ、とびっきりの嘘でも吐いてあの芦毛の馬鹿をギャフンと言わせてやる。
そう息巻いていた私は、いつものように中庭で私のお弁当を頬張るオグリに向かって言った。
「ねえ、オグリ」
「ほえ?」
おかずの最後の一口を口に入れながら怪訝そうな面持ちでこちらを見るオグリ。
こちらに視線を向けながらも美味しそうに咀嚼することをやめようとはしない。
「言いたいことがあるの」
「――ングッ、なんだ?」
「あのね?」
口の中のものをすっかり飲み込んで私の言葉を待つオグリに私はたっぷりと間をとってから言ってやった。
「私、あなたのことが大っ嫌い」
言ってやった。
さあ、言ってやったわよ。
さて、どんな反応を見せてくれるのかしら。
せいぜい慌てふためいてその情けない姿を見せてくれるといいわ。
そんな意地の悪いことを思いながらほくそ笑んでいると。
――カシャン。
甲高い音が中庭に響いた。
視線の先には地面に落ちたお弁当箱と箸。
視線を上げてみるとそこには――下唇を噛みながらじわじわと目に涙を溜めていくオグリの姿が。
「――っ!」
「え、ちょ、オグリ!?」
こちらの声も聞かずにその場から走り出したオグリ。
「ちょ、ちょっと待ってよオグリ!?」
私は慌てて弁当箱を拾ってオグリの後を追った。
しまった。まさかこんな反応が返ってくるとは思わなかった。
「ちょっと待ちなさいよオグリー!」
「イチに嫌われたぁー!」
「嘘! 嘘なの! 今日、エイプリルフール――」
「もうお終いだー!」
「話を聞けえ!」
こうして、学園内を爆走していくオグリと激しい追いかけっこを繰り広げる羽目になった私はその後どうにかオグリの誤解を解き、話を聞いて駆けつけたタマ先輩とイナリ先輩にこっぴどく叱られ、挙げ句の果てにはオグリと仲良く生徒会に呼び出されてエアグルーヴ先輩から説教をもらうなど散々な目にあったとさ。
◇
「今にして思えば酷い目にあったものね……」
誰もいない中庭でふとそんなことを呟く。
因果応報とはよく言ったものだ。
しみじみとそんなことを思っていれば背後から「イチ」と聞き慣れた声がする。
「すまない、待たせてしまったか?」
噂をすれば何とやら。
ベンチの背もたれ越しに振り返ってみればオグリが申し訳なさそうな表情でそこに立っていた。
「ううん、今来たところ」
お決まりのセリフを言ってやれば「そうか。ならよかった」とすっかり表情を明るくするオグリ。こういうセリフを素直に受け取るところがまあこいつの可愛いところでもある。
そのまま私の隣に腰を下ろすと深呼吸をひとつして、やがて意を決したかのように「イチ」と真剣な面持ちで私を呼んだ。
「なあに?」
「その、今日は言いたいことがあるんだ」
そらきた。
予想していた通りの展開。
おおかた去年のお返しというやつだろう。
私は”さあ、どこからでも掛かってきなさい”と姿勢を正して身構える。
そうしてオグリの嘘を吐くのを待とうとし――。
「今日はエイプリルフールだな」
盛大に前のめりにずっこける。
「イチ!?」
慌てるオグリ。
間一髪、ベンチに手をついて転倒するのをこらえる私。
いや、いやいやいや、フツー言うか?
仮にも嘘を吐こうとしてるんでしょ?
オグリのやることに困惑していれば「大丈夫かイチ!?」と心配そうにこちらを伺ってくる。
「大丈夫、なんでもないから……」
どうにか体制を立て直して着崩れを正す。
いや待て。あくまで今日がエイプリルフールと言っただけだ。まだ話題を振っただけかもしれない。
改めて姿勢を正して未だ慌てふためいているオグリに向き直る。
「イチ、本当に大丈夫――」
「大丈夫! なんでもないです!! それで?」
「あ、ああ、ならいいんだ。それでな――」
ひとつ深呼吸をおいてオグリは言った。
「だから、私も今からイチに嘘を吐こうと思う」
再び私はずっこけた。
おまけに今度はベンチからも落ちた。
「イチィッ!?」
悲鳴に近い声を上げてオグリが駆け寄ってくる。
「どうしたんだイチ!? やっぱり何かあったのか!?」
「大丈夫、大丈夫だから……」
痛む体を起こしながらオグリの手を借りて立ち上がる。
いや、なんでさ!
なんでわざわざ嘘を吐くって宣言するの!
まじめか!
馬鹿か!
馬鹿まじめか!
一通り心のなかでツッコミを入れたあと深呼吸をする。
よし、いくらか落ち着いた。
「それで?」
「へ?」
気が抜けたような声を上げて怪訝そうな表情をしているオグリ。目が点になるってこういうことか。
「どんな嘘を吐いてくれるのかしら?」
ここまで来るといっそ清々しいくらいに開き直れた。
覚悟ができたとも言える。
もう、どんな嘘をつかれても耐えられそうだ。
まあ、嘘と宣言されてる時点で覚悟もなにもあったもんじゃないが。
「聞かせてよ」
知らず知らずに圧を発していたのだろうかオグリはいくらか見をすくめながら叱られる子供のような表情でこっちを見ている。
大丈夫よオグリ。怒ってないから。ええ本当に怒ってませんとも。
散々情けない姿をさらされたけどこっちは平気よ。
――しょうもない嘘ついたら承知しない!
やがておずおずと「じゃ、じゃあ言うぞ?」と心細そうにオグリが言う。
――さあ来い!
今度こそ身構えてオグリの嘘に備える。
沈黙する二人。
木々の間を風が吹き抜けていく音。
学生たちのふざけ合う声。
トレーニングに勤しむ子たちの掛け声。
チャイムの音が高らかに鳴り響いて――。
「って、早く言いなさいよ!!」
とうとう我慢できずに叫んでしまった。
「いや、どんだけ貯めんのよ! そんなに重要なことでもないでしょ!? さっと言いなさいよ、さっと! なんでどっかのクイズ番組みたいな事やってんのよ私たちは!」
そんなヤキモチした気持ちを一息に吐き出すと、オグリは「い、いやあのな?」といかにも申し訳無さそうにしながら奥歯に物が挟まったように言う。
「何よ!? はっきり言いなさいよ!」
「わ、分かった」
くだらないことだったら承知しないんだから。
「実は――」
そして私はその一言に思わず目を剥いた。
「嘘を吐くというのが嘘なんだ」
一瞬の空白。
じゃあ何か?
私、一人で勝手にやきもきして、勝手にずっこけて、盛大に勘違いして、滑稽な一人芝居をしていたのか?
つまりは、だ。
――オグリに一杯食わされた。
ひとつ息を吐いて軽く笑いながら天を仰ぐ。
「い、イチ?」
「悔しいいいいいぃーーー!
この日、私は学園で一番大きな声を上げた。
『天衣無縫とハーモニカ』{part25(23~)}
「ふう……」
吹き抜ける風が頬を撫で髪をなびかせる。
屋上から見える景色はそう変わらない。
青々と生い茂る街路樹。どこか遊びに出かける話でもしてるのだろうか甲高い声で笑いながら寮へと向かう生徒。ジャージに着替えトレーニング場へと駆けていく生徒。
見慣れた光景。
しばらくその光景を眺めながら深く息を吐く。
自分の中に溜まった淀んだ何かを吐き出すように。
そして、吐いた息と同じくらいの量の空気を吸い込む。
自身の内側を洗い流すように。
それを何度か繰り返してようやく落ち着く。
まっさらな自分になったような気持ちだ。
空っぽになった。
そして、右手に握るそれを口元へ持ち上げる。
祖母からもらったハーモニカ。
流石にいくらか小さなサビは目立つがそれでも大事にしてきた宝物。
吹き口に口をつけ、目を閉じて息を吹き込む。
祖母との思い出の曲。
『故郷』
遠い故郷を思い出すこの曲を。
別に兎を追ったことも小鮒を釣ったこともない私だが、不思議とこの曲を吹けばそんな情景が浮かんでくる。
祖母や両親の手伝いをした畑仕事。
夢中で駆けた原っぱ。
走ればどこまでも行けるように感じた道。
距離にしてみれば数時間も掛からない場所のはずなのに、どうしてこうも遠くかけ離れたものに感じるのだろうか。
妙な郷愁に後ろ髪を引かれながらもその曲を拭き終える。
再び風が屋上を吹き抜けていく。
吹く前の捺さくれだった気持ちがすっかり落ち着き、爽やかな心地よさに包まれる。
――よし、大丈夫だ自分はまだやれる。
余韻に浸りつつ、そろそろ戻ろうかとハーモニカを仕舞おうとした時だった。
私の背後から、ぱち、ぱち、ぱち、と乾いた打音が連なって聞こえてきた。
驚いて音の方へと振り返ってみるが扉は閉じたまま、誰もいない。
――いや違う。上だ。
さらに視線をあげるとペントハウスの屋根の縁に腰を駆けて拍手をしているウマ娘が一人。
「Bravo! いい演奏だったよ」
逆光で姿は確認し辛かったが、頭に乗ったその特徴的な帽子で誰だかすぐにわかった。
白地のシルクハットに緑のリボン。そしてハットにつけられた“CB”のアクセサリー。
ウマ娘なら――それもトゥインクルレースを走る者ならその名を知らないはずがない。
驚きに身を固めさせたまま私の口からその名がこぼれた。
「ミスターシービー先輩」
「やっほー」
――“史上三人目の三冠馬”、その人だ。
「いや~、せっかく天気もいいから昼寝でもしようかなって思ってたら、あまりにいい音がなってたからつい聞き入っちゃったよ」
そう言うや否や、先輩は身を乗り出す。
「よっ――」
そしてそのままペントハウスの屋根から飛び降り――。
「――っと」
――きれいに地面に着地してみせた。
「す、すいません……。お邪魔してしまったんじゃ……」
「ん? ううん、いいよ別に。お昼寝はまた今度にするよ」
そう言いながら目の前の先輩は軽く伸びをすると何かに気がついたように繁々とこちらを見つめてきた。
「ん~?」
「あ、あの……、何か?」
そう聞いてみるものの先輩は依然として唸りながら私を見つめるのをやめない。なんとも居心地の悪い時間が続く。
やがて、ぽんっ、と先輩は何かを思い出したように手を打つ。
「やっぱりそうだ! 君、たしか――」
そのまま人差し指を私の顔へと向けて言う。
「オグリギャルちゃんだ!」
瞬間、私の口の中が苦々しさでいっぱいになる。
こんなところまで広まっていたか……。
思わず目眩を覚え頭に手を当てる私。
そんな姿を見たせいか、先輩は「あれ?」っと素っ頓狂な声を上げていた。
「……もしかして違ってた?」
「いえ、ある意味ではあってますけど……」
別に私はその呼び方を許容したわけじゃないのにどうしてこうも広まってしまったんだ。たしかにオグリに対して並々ならない思いを抱いているのは事実なんだけどさあ。だからって、オグリギャルはないでしょオグリギャルは。
誰が呼んだか知らないが、そんな不名誉なあだ名をつけられていい加減辟易している私をよそに、先輩は「なんだ、当たっててよかった」などと胸を撫で下ろしていた。
「君のことは一応知ってるんだよね。今話題のオグリキャップとよく一緒にいるからさ。ルドルフやマルゼンとの会話の中にもよく出てくるし」
「そ、そうですか……」
――ん? 今、とんでもないこと言わなかったか、この人? 会長とマルゼンスキー先輩が話してた? 私のことを?
時間差でじわじわと焦燥感が湧き上がってきて思わず聞き返そうとして私が顔を上げれば――。
「あの! それってどういう――」
「まっ、そんな話はいいや。それよりもさ!」
身を乗り出した先輩の顔が目の前、それも超至近距離。
「うひゃあっ!?」
驚きのあまり身体をのけぞらせて倒れ込みそうになる。
「おっと!」
だが、既の所で先輩が私の腕を掴んで引っ張ってくれたお蔭で尻餅を免れた。
「ごめんごめん。驚かせちゃったかな」
そう謝りながら先輩は私の体を起こしてくれる。
「あ、ありがとうございます」
慌てて着崩れを直しながら、今さっきの光景を思い出す。
整った顔立ち、長い睫毛、澄み切った海を思わせるエメラルドグリーンの瞳。どこを取っても一流の美貌とはこういうものなのかと思わず感心してしまう。
実力のみならず見てくれも十二分に与えられている先輩を眺めながらようやく落ち着いた心がまたさざめき始める。
何が天は二物を与えずだ。二物どころか3つも4つも与えているじゃないか。こっちは何を取っても満足に得られていないのに。
そんな重く粘ついたコールタールのような嫉妬の感情を無理くり押さえつけている私にキラキラと眩いほど目を期待に輝かせながら先輩は言った。
「ねえ、他にはないの?」
「は?」
「だから他に引ける曲はないの?」
「いや、あの……。あるにはありますけど……」
「いいね! 聞かせてよ!」
そう言うや先輩は屋上の縁に腰をおろして目を閉じ、すっかり静聴の姿勢を取っていた。
気づかれないようにため息を小さく吐く。噂には聞いてたけど本当に自由人だなこの人。
――いや、自由を通り越して無法で無茶苦茶だ。仮にも初対面の相手なのに。
でも、すっかり聴く姿勢に入ってる以上、満足してもらわないと開放して貰えそうにない。私はもう一度気づかれないように今度は大きくため息を吐くと、半ばやけくそ気味にハーモニカを口に当てた。
『主よ人の望みよ喜びよ』
幼い頃、地元のクリスマス会で披露するために祖母と練習していた曲だ。
まるで、腕をゆっくりとそれも大きく振り回しているかのような。もしくは、振り子が大きく右に左に揺れているかのようなメロディーがとても気に入っていた。
両親や祖母にかっこいいところ見せたい一心で夢中になって練習していたあの頃を思い出す。
思い出してみれば、何かやりたいことがあったら無我夢中になってそれに向かっていくようなそんな子供だったなと妙な気恥ずかしさも込み上げてくるがそれ以上に胸が暖かくなるのを感じていた。
一通り拭き終えると再び先輩から「お〜!」という歓声と拍手が送られた。
――少し興が乗ってきた。
すっかり調子に乗せられた私はすかさず次の曲を吹き始めた。
『Moanin‘』
ジャズではすっかりお馴染みの曲。
小学生の頃、ハーモニカが得意だと知った音楽科の先生が教えてくれた曲だ。
本来なら先生のピアノの伴奏ありきの曲だからハーモニカだけではちょっと物足りなくなるけど、この曲を吹いている間だけは昔父と見た映画に登場したジャズ演奏者の気分になれる。
落ち着いた雰囲気のジャズバー。すっかり大人な空気のその場でステージに立ち、自由気ままにサックスを吹き鳴らす主人公。
ハーモニカでは少し烏滸がましいかなとも思うけど、でもこの曲を吹いている間はあの主人公になった気がして楽しくなる。
多少熱が入った演奏を終え、一人余韻に浸っているとまたまた先輩から「Blavo!」という歓声とスタンディングオベーションが惜しみなく送られた。
「いやー、すごいね君! 何でも吹けるじゃん!」
「何でもな無理ですよ。ただ、自分の練習した曲が吹けてるだけです」
そう謙遜してみせるが実際のところは満更でもなかった。
久しぶりに自分のことを誰かに認めてもらえて嬉しかったから。
自分の得意なことで誰かに強く注目を受けるのってこんなに満たされるものだったんだ。
すっかり落ち着いたと思っていた胸の内では、今度は昂揚感に似た別の何かで沸きだっていた。
あの三冠ウマ娘を感動させることができたんだ。
そんな事実にすっかり舞い上がっている私に先輩が言う。
「ねね、私にも吹かせてよ」
「えっ?」
「演奏してくれたお礼に私からも一曲聴かせたいんだ。ね、いいでしょ?」
「いやでも……」
そうたじろぐものの先輩は尚も「お願い」と手のひらを合わせてくる。
低く唸り声を上げながらいくらかの躊躇逡巡。
そして、とうとう根負けしてしまう私。「わかりました」とスカートのポケットからハンカチを取り出して手に持ったハーモニカの吹き口を軽く拭って先輩へと渡す。
「やった!」
そう歓喜の声を上げて素早く、しかし両手で丁寧にハーモニカを受け取り小躍りでもしそうな調子で喜ぶ先輩。
――ほんと、自由な先輩だな。
まるで『ウキウキ』というオノマトペが目に見えるようだ。張り切る先輩を見てそんな感想を持ってしまう。ハーモニカ1つでそこまで喜ばれるとなんだか面映ゆい。
思わず頬を掻いて誤魔化していると、ふとあることが思い浮かんだ。あれ、これっていわゆる――間接キスになるのでは。
そこまで思考がたどり着いた瞬間、ボッとコンロに火が点くような錯覚とともに顔が熱くなった。
「ちょ、ちょっとま――」
慌てて静止しようと思ったがもう遅い。先輩はハーモニカに口をつけると息を吹き込んだ。
――どこか牧歌的な曲調。それでいてどこか郷愁を感じさせる。
屋上にいるはずなのにどこかのどかな田舎の風景を幻視してしまう。
どこまでも続くあぜ道。その脇には広く耕された畑。一面に緑の絨毯。青々とした空にポッカリと浮かぶいくつもの白い雲。
頬や髪をやさしく撫でる風がどこか遠くの土地の香りを連れてきてくれる。
そんな開放的な風景の中で悠々と己の好きなままに吹き鳴らす先輩が眩しくて。
すごい。まるで一枚の名画だ。
どこまでも自由。何者にも縛られない。
そんなありのままの自分を表現しているような。
そんな気がした。
『カントリーロード』
有名アニメ制作スタジオで作られたアニメ映画の主題歌だ。
歌のテーマは郷愁と決別。
とある田舎道を見て故郷につながっている気がするという歌詞から始まって、郷愁に駆られ帰りたいと一度は思うが最後には帰れないと背を向けて故郷に分かれを告げる。
そんな歌だった気がする。
楽しげに吹き鳴らす先輩。それとは裏腹に私の心は再び薄暗く雲がかかっていく。
歌に言われている気がした。
――お前はまだ逃げ帰る時じゃないだろう。
そんな風に。
やがて、先輩は演奏を終えた。
私は拍手を持ってそれを称える。
二人が余韻に浸る中、また風が吹き木々の葉をこする音だけが聞こえる。
「この曲ってさ」
不意に先輩が口を開いた。
「故郷に別れを告げて、前に進む曲なの知ってる?」
「はい、知ってます」
「そっか。まっ、そりゃそうか。有名だもんね」
ケラケラと笑う先輩。
「でもさ――」
そう言って私の顔を覗き込む先輩。
「それって、この国だけの歌詞なんだよね」
「えっ?」
「本来の歌詞は遠く離れた故郷を懐かしむ曲――故郷に帰りたいという強い気持ちを感じさせる曲、なんだってさ」
先輩はハーモニカをくるくると小さく回して弄ぶ。その姿はまるでステージの上でタクトを振るう指揮者のようだった。
「思えばずいぶん遠くまで来たもんだ。思い出すのはまるで描かれたみたいに空に薄黒くくすんだ山々、炭坑の街並み、淡いウイスキーの味わい。カーラジオを聴いて、そんな思い出の景色に思いを馳せれば目に涙を浮かべてしまう。そして、彼は車を走らせながら思う。昨日にでも故郷に帰るべきだったんだ――そんな感じの歌詞なんだって」
まるで舞台役者のように歌詞を朗々と歌う先輩。その姿は本当に楽しげで、いっそ清々しいほどの自由を感じた。
――今の私とはまるで正反対に。
「私はこっちの歌詞のほうが好きなんだ。いいじゃない、無理に訣別なんかしなくてもさ。だってそうでしょ? >帰りたいって思ったんだったら帰ればいいんだよ。だって、そっちのほうが――」
くるりくるりと回されていたハーモニカが私へと突き出される。
「自分が何を大切にしてたのか思い出せるから」
先輩のその一言を聞いて私は動くことが出来なかった。
何故かはわからないけど、まるで心のうちを覗かれてるような気がしてならなかった。
そして、先輩はなんの脈絡もなく言った。
「結果、あまり良くないんでしょ」
「……はい」
思わず私の視線が足元へと向かう。
図星だった。正直のところ、ここ最近の私の成績はあまり芳しくない。
トレーナーがつき、デビュー戦で負けこそしたものの未勝利戦で勝ち上がることができたし、そのままトントン拍子で2勝クラスには上がることができた。
しかし、それだけだ。
その後はレースの良し悪しに限らず負け続き。やっと追いつくことが出来たモニーはさらに勝ち上がって再び差をつけられてしまった。
そして、言うまでもないがいつも一緒にいるオグリは重賞レースで結果を残し続けている。
それ以外の人たちもまた右に同じだ。
まるで、私だけが置いてけぼりをくらったように思えてならなかった。
みんなに追いつくために、せめて少しでも差を埋めようと藻掻けば藻掻くほどその差が開いていくばかりだ。
そんなどうしようもない現実を嫌というほど見せつけられたせいか、あれほど楽しかったレースが最近ではただただ苦行に思えてしまっていた。
すっかり気持ちが沈んでしまった私の頭に、ぽんっと、暖かいものが乗せられた。
それが先輩の手だと気づくのに少し時間を要した。
視線を上げてみれば優しく微笑む先輩の姿が目に映る。
「気持ちは分かるよ、多分だけどね」
慰めとは違う気持ちを感じる言葉だった。そのせいか不思議と私の心にすっと受け止めることが出来た。私の頭を優しく撫でながら「けどね?」と先輩は言葉を続ける。
「それで焦っちゃうとさ、自分がなんのために走ってたのか、何がきっかけで走ってたのか、その大事なものを忘れちゃうんだよね」
――大事な物、か。そういえば私の大事な物って何だったっけ。自分は何で走ろうと思ったんだっけ。
勝利に焦るあまりどこかに落としてしまったそれに思いを馳せていると先輩は撫でる手を止めて私の頭から離し、私の目を覗き込むように見る。
「だからさ、一旦一歩下がってみて一息入れて後ろを振り返ってみることも大切だと思うんだよね、私は」
そして、「できれば来た道を戻ってみて、ね?」と付け足すと私の胸元に人差し指を立てて言う。
「君はもっと自由でいいんだよ」
そう言って指を下げ、今度は私のハーモニカを差し出してくる。
ふいにその行為がまるでバトンを手渡されたように感じるのはなぜだろうか。
差し出されるがままにそのハーモニカを受け取ると「だから――あんまり肩に力を入れすぎないようにね?」と先輩は爽やかに笑ってみせ「それじゃね!」と私の肩を叩いて去っていく。
私の脇を通り過ぎて扉を通っていく先輩。
その後ろ姿を私は扉が閉まってからもしばらくのあいだ見つめていた。
【sideモニー1】 part23(168~170)
「はあ……」
何度目かのため息が出る。
いや、出そうと思って出しているんじゃないんだ。自然と出てしまうそれを抑え込む術を持っていないんだ。
そうして視線の先に自らのスマホを捉えながらどこかの誰かさんに対して言い訳をする。
ベッドの上で右へ左へ転がる。
傍から見ればなんとも喧しい光景だろうが、同室のイチはそんな様子を気にする素振りも見せずに机に向かっていた。
耳には可愛らしいイヤホンがはまっている。完全に自分の世界へのめり込んでいるイチには外界の様子など一向に入ってこないのだろう。
――まあ、だからこそこうして私は遠慮なしに悶ていられるのだが。
「はあ……」
元の位置に戻るや眺めるスマホの画面にはメッセージアプリが起動されていた。それもタマ先輩とのチャット画面だ。
チャット内には数日前のやり取りを最後にメッセージが途絶えている。
別に喧嘩したとかそういうのではなく、ただ単純に私が送るのを遠慮している。
というのも、今タマ先輩は久しぶりに実家へ帰省していた。ここ最近、広報活動やら後輩指導、学園行事の手伝いなど様々な仕事で忙しそうにしていたが、ようやくまとまった休みが取れたからだ。
レースを引退してからもこうして忙しそうに活動しているのは羨ましさ半分、その忙しさに気後れ半分といったとこだろうか。いくらお給料が出るからといってこうも忙殺されては腰が引けてならない――まあ、やっとこさオープン入りレベルの私が悩むのはおこがしいかもしれないが。
とにかく、そんなわけで私は自分からメッセージを送るのは控えている。せっかくの帰省なんだから、家族水入らずで団欒の時を過ごしてほしいという後輩からのささやかな気遣いだ。
――そのはずだったんだけどなあ、昨日までは。
タマ先輩が実家に帰ってから早数日、いい加減禁断症状が出てきていた。
連日のようにしていた楽しいひととき。もはや、日課ともなっていたやり取り。それをしなくなってからというもの、いい加減フラストレーションが溜まって限界だった。
もちろん、最初は容易く耐えられてはいたのだ。だけど、何か楽しいことを思いついた時、面白いものを見た時、人には言えない相談をしたい時、決まって話していたのはタマ先輩だ。
その肝心のタマ先輩がいないのだ。風船だって空気を吐き出す穴がなければ膨らんでいくばかり。いよいよ持って私の胸の内だって爆発寸前だ。
そうしてベッドの上に仰向けに寝転びながら持ち上げたスマホの画面を睨みつけていた私は、やがて意を決したように先輩に向けてメッセージを送ろうとした――が、それは遅々として捗らなかった。
『お疲れ様です。実家は楽しめてますか?』
――いや、固すぎるだろ。なんだこの保護者とビジネスメールの合わせ技。
『やっほー、先輩! 久々の里帰り楽しんでますー?』
――ないわー。正直、ないわー。そもそも私そんなキャラじゃないし。
『はあい♡ センパーイ♡』
――いや誰だよ!? キャラ崩壊ってレベルじゃないだろ!? 酒でも入ってんのか!? こんなん送ったら病院に叩き込まれるわ!
ああでもないこうでもないと少し書いては消し、また少し書いてはまた消してと一歩進んで一歩下がるを繰り返す。
そんなこんなで結局送った文というのが『今何してます?』という何とも味気ないものだった。
――うわ……、なんて色気も面白みもない文章。
バックスペースキーに指を浮かし書き直そうか悩んだが、いくら悩んだところで他にいい文が思いつかないことに気がつく。こんなことならもう少し国語の勉強をしておくべきだったかなといくらかズレた後悔を頭に浮かべながらため息をついた私は、わずかばかり逡巡した後、送信を押した。
空白の時間が流れる。時間の流れが目に見えるんじゃないかってくらいゆっくりと。5分、10分と経っただけなのに体感では1時間も2時間も経ったような錯覚に陥った。普段ならなんてことない時間だ。何か別のことでもして返信が返ってくるまで暇つぶしてればそれで済む。
だけど、この日は違った。この日だけはそれができなかった。溜まりに溜まった鬱憤が――理性という名の巨大なダムが決壊した。
堰を切られた感情の濁流が誰に聞こえるわけでもないのに轟音と共に押し寄せてきて私を飲み込んだ。
『今忙しかったですか?』
『こっちは寂しくて大変です』
『先輩と会わないと調子狂ってしょうがないですよ』
『早く先輩と会いたいです』
『先輩とお話ししたくて堪らないですよー』
『先輩が帰ってくる日が待ち遠しい』
『早く帰ってきてください先輩』
矢継ぎ早にメッセージを送ってようやく波が引いてくる。スマホを握る手を傍に倒すともう片方の手で目を覆う。そして深く息を吸い込んだ。
――やっちゃった〜……。
思わず呻き声が漏れる。寂しさが募りに募った結果こんなことしてしまうなんて。こんな面倒くさい彼女ムーブかますなんてどうかしてる。そう後悔してみせるものの後の祭りもいいところ。何度か深呼吸して息を整えて恐る恐るスマホの画面を覗き込む。
スマホの画面には当然自身の恥極まる失態の山々が――。
「うにゃあああああああ!」
「あーもう! うっさい!!」
頭を抱えて羞恥の悲鳴を上げてみせれば流石に無視も限界に達したのか隣からイチの怒声が飛んできた。
「もうさっきから何をしてんのよアンタは」
イヤホンを耳から外し、体をこちらに向けるイチ。
「だって〜」
「だってじゃない! まったく……。タマ先輩がいなくて寂しいのはわかるけど、少しは我慢しなさいよ」
「そうは言うけどさあ……。もう5日だよ? 5日」
「たった5日じゃないの。なんてことないじゃない」
「たったじゃないし。5日も先輩と話せないって結構辛いんだけど」
「んな大袈裟な」
「よく言うわよ。イチだってオグリがいなかった時寂しかったくせに」
「ごあいにく様。私はあいつがいなくても別に平気だし。今のアンタみたいにみっともないとこは見せないわよ」
イチはそう得意げな表情で言ってのけるが私は知っている。オグリが長期で不在の際、私に劣らないくらい調子を崩していたことを。
「……イチだって人のこと言えないくせに」
「は?」
「夜な夜なオグリに電話かけてたくせに」
「は!? え!? なんで!?」
目に見えて狼狽するイチ。しかし、私は追撃の手を緩めることはしなかった。
「私が寝たと思い込んでオグリに電話かけてたじゃん。寂しかったんでしょ? オグリがいなくて」
「あああああ、アンタ狸寝入りしてたわねぇ!?」
顔を青くしたり赤くしたりしながら叫ぶ。狼狽のあまり勢いよく立ち上がった際、倒れた椅子のことを気にかける素振りもなかった。
「違うから! あれはその……寂しかったとかそんなんじゃなくて、あいつがちゃんと広報の仕事できてるか心配だっただけで――」
イチが必死に言い訳をしていた時だった。私の手に握られていたスマホが小刻みに震える。
「来たッ!」
「聞けえ!」
それまで暗く曇天模様だった私の心内はあっという間に晴れ間を見せ、速攻でロックを解除するやすぐにアプリを起動して確認する。
そして、返信の内容を見たとき――私は思わず固まった。
「……? どうかしたの?」
不審に思ったのかイチが側までやってきて私のスマホを覗き込み、同じように固まった。
スマホの画面にはタマ先輩が気に入って使っているラインのスタンプが2つ並んでいる。トラのキャラクターが関西弁で物を言っているスタンプだ。
別にそれ自体に問題があったわけじゃない。むしろその内容にこそ問題があった。
まず1つ目、目をぎゅっと閉じながら自分の胸に強く両手を押し付けているトラ。その脇に書かれた文章。
『めっちゃ好きやねん!』
そして2つ目、同じように目をぎゅっと閉じながら全力で叫ぶトラの顔面のみ。
『君に会いタイガー!』
まるで今のこの状況を意図して作られたように思えるそのスタンプを見て頭の中が真っ白になる二人。
現在、午後10時。消灯時間になった頃だろうか。私の顔面は真っ赤に染まっていた。
ダウナーグリちゃん part26(66~68)
「グリイイイイイイィィィィッ!! 頼むから出てきてくれええええぇぇ!!」
「もうレースが始まっちまうぞ! 早く出てこい!!」
「やだああああ!!」
「やだ、じゃねええええぇ!!」
「頼むって!? いやほんとに頼むって!? もう時間がないんだよ!? いったい何が嫌なんだよ」
「他人の視線怖いぃ……」
「いや今この期に及んでそれか!?」
「ちょっと! まだ出て来ないの!? もうパドックの時間迫ってるのに!」
「おお、ベリコースか! ちょうどいいときに来た! お前からも言ってやってくれ! グリのやつファンの視線にビビっちまって出てきやしないんだ!」
「ハアッ!? なにそれ!?」
「ちょっとグリ! 早く出てきなさいよ!」
「む~り~!!」
「無理じゃないわよ!! この! いいから開けなさいよっ!!」
「やー!!」
「んな、駄々っ子みたいなことすんなや!!」
『ワアアアアアァァ!!』
「げ!? やべえ、パドック入場時間か!?」
「ちょっと!? 本格的にやばいじゃない!! アンタなんとかしなさいよ!!」
「わかってるっての!! でも、なんとかしろったって――」
「そうだ!!」
「グリイイイイイィ! ここから出てくれたらお前の大好きなチョコやるぞ!!」
「……チョコ?」
「ああ! マシュマロやクッキーもたっぷりだ!!」
「マシュマロ! クッキー!!」
「おう! 我慢してた分たっぷりだ!」
「たっぷり……」
「ちょ、あんた何言って――」
「いいから任せろ!」
「それにもしレースに勝ったら……」
「……レースに勝ったら?」
「本番が近いから我慢してた駅前の人気ドーナツ店で食べ放題だ! もちろん俺の奢りだ!!」
「!!!」
「いや、そんな子供だましで出てくるわけ――」
「がんばりゅ」
「出てくんのかいぃ!!!」
【Sideタマモ1】 part26(116~)
「な、なんちゅうことをしてしもうたんや、うちは……」
居間にひとり立ち尽くしていたタマモクロスは、スマホの画面を前にして震え声を漏らした。画面を凝視するその表情は絵に描いたように青ざめており、スマホを握る手も小刻みに震えていた。壁にかかった年季の入った壁掛け時計が10時を告げる。普段なら喧しさを覚えるその音も今はどこか遠くのもののように小さく聞こえた。
その日、タマモクロスは大阪の実家にいた。久しぶりの帰省ということもあって姉弟達の面倒を見たり、両親の家事を手伝ったりと一家団欒の時を過ごしていた。
――そう、さっきまでは。
◇
事の発端はほんの数分前に遡る。夕食を済ませ食器の片付けも済んだ後のひと時、机の上に置いてあったスマホ震えた。手に取って確認してみれば後輩からのメッセージだった。
『今何してます?』
思わず口元が綻んだ。今ではお馴染みとなったモニーとのやり取り。最初こそレースの相談やトレーニングのアドバイス程度のものだったのに今では些細な雑談もこなすようになっていてタマモにとっても毎晩の密かな楽しみとなっていた。
正面にいなくてもモニーがどんな表情をしながらこれを送ってきたか目に浮かぶ。おおかた、寂しくて堪らなくなったのだろう。整った眉毛を八の字にしながら萎れているモニーが容易に想像できた。
くつくつと喉の奥で音を立てながら笑みを溢していれば、手元のスマホがまた震えた。それも何度も。
怒涛の勢いで送られてくるメッセージ。次から次へと下から上へ流されていく。
『今忙しかったですか?』
『こっちは寂しくて大変です』
『先輩と会わないと調子狂ってしょうがないですよ』
『早く先輩と会いたいです』
『先輩とお話ししたくて堪らないですよー』
『先輩が帰ってくる日が待ち遠しい』
チャット欄に幾重にも重なったモニーのメッセージを見て頬をかく。よほど寂しかったのだろう。
しばらくして、ようやくスマホの震えが止まった。ひとしきり打ち込んで満足したのだろうか。
画面をまじまじと見つめたあとタマモはスマホを片手に腕を組む。
――こりゃ大変なことや。注意して返信せんといらんとこ爆発しそうや。
そうして云々頭を悩ましているタマモの背に迫る2つの影。
「タマねえね、遊ぼー!」
「遊ぼー!!」
「どわあ!?」
背中に姉弟たちが飛びかかってきた。
育ち盛りの二人。まだタマモよりもわずかに小さいとはいえ二人分の重さはかなりのもの。タマモ危うく潰されそうになったがどうにか体勢を崩さないように耐える。
「ごめんなあ、いま姉ちゃん忙しいねん。少し待っとってくれや」
そう背中の二人にお願いをすれば、二人はタマモの肩越しにスマホ画面を見つけると、今度は「あー、モニーの姉ちゃんとお話しとるー!」と騒ぎたてた。
「うちもモニーの姉ちゃんとお話する!」
「うちも! うちも!」
「ちょちょちょい!? やめーや! こら!」
タマモの静止も聞かず肩越しにスマホへ手を伸ばす二人。慌ててスマホを遠ざけようとするがすでに遅く、二人の手は画面へと届きあらぬ操作をしてしまう。
二人にもみくちゃにされながら必死に遠ざけているところ、居間の襖が開かれた。
「風呂湧いたでー。冷めんうちにはよ入りー」
母の知らせを聞いて「はーい」と風呂場に向かって駆け出していくおチビ達。嵐が過ぎ去りどうにか一心地つくタマモの背に向かって「あんたも入っちゃいな」と母が言う。
「あー、うちはまだええ」
「なんや? どしたん? いつもならおチビ達の面倒見るって一緒に入るのに」
「いやな? ちと急ぎで返さなあかんメールがあんねん」
「ふーん、それって学校のやつか?」
「ん? ま、まあそんなとこや」
「ほーん、なら仕方ないな。それ済んだらあんたもはよ入りや。じゃないと、風呂冷めちゃうで」
「あいよ。おおきにな! お母ちゃん」
襖が閉められると大きく息を吐いた。やっとメッセージに集中できる。
眉間を軽くもみながら再びどう返すか少し思案した後、スマホの画面へ目を向けて――そして、タマモは身を固まらせた。
送った覚えのないスタンプ。それも2つも。
『めっちゃ好きやねん!』
『君に会いタイガー!』
いっそバカバカしいくらいダダ甘に好意を伝えるそれがチャット欄を占拠していた。
◇
そして現在に至る。
目の前の画面を見つめながらタマモは考える。
なにが起こったのか一切把握できない。なにがどうしてこうなった。
空白になった後、やってきたのはこれ以上にない焦燥だった。
一瞬にして全身に嫌な汗がこみ上げてくる気がした。それもとびきりに冷たいやつだ。
――なにが、なにが起こったんや。何でこんな小っ恥ずかしいスタンプが送られてるんや。なんで、どうして!?
ぐるぐると思考が回転していると、ふと思い当たることが1つ。さっきのチビ達と一悶着あった時。あの時、チビ達の手が画面に触れられていた。
――あんときか!!
原因がわかったところでもう遅い。すでにメッセージは送られてしまっているのだ。
その事実に目を向けた時、ガクガクと音が鳴るほどに身が震えだした。
まずい。これは非常にまずい。慌てて弁解のメッセージをいくつも発信してみるが、すべて既読がつかない。
このままでは拉致があかない。そう考えたタマモは居間を飛び出して家族に聞かれることがないであろう家の外に急いで向かう。
外に飛び出しながら、アプリの通話ボタンを連打する。
そして、流れてくるコール音。
1回、2回と相手を呼び出してはいるが一向に出てくる素振りを見せない。終いには留守番電話サービスにつながる始末。
通話を切ると、再び通話ボタンを押して相手を呼び出す。
――頼む! ホンマお願いやから! 頼むから出てくれモニちゃん!!
まるで命乞いのような思いで何度も通話をかけるタマモ。
それを二度三度繰り返した時だった。
もうだめかと諦めたその時――ブツッという音と共に向こうのものと思われる環境音が耳に聞こえてきた。
そして、わずかな間もなく――。
「タマ先輩?」
――待ちに待った声が聞こえてきた。
【時には夢の中で昔の話を】 part27(88~93)
これは夢だ。そう確信できた。だって、私がもう一人眼の前にいるんだから。そして、もう一人は誰もが知るそして>――私がよく知る彼女だ。
「はあ……、わかりました。案内してあげます」
「ほ、本当か?」
「ええ、いいですよ。どうせまた道に迷ってここに戻ってくるんですから」
「――君は優しいんだな」
「はあ!? そ、そんなんじゃありません!」
こんなやり取りだったけな。決して素直になれなくて、あんな強がり言って。
「君名前は?」
「イチ、イチでいいです」
「ありがとうイチ」
「オグリ。オグリキャップだ。よろしく」
そう、この時からあの素っ頓狂なやり取りが始まったんだ。
あの時差し出された手を取ってから私達の物語は始まったんだ。
光が周囲を包んでいく。
そして、次々と場面が目まぐるしくその姿を変えていく。
「今度から私がお弁当作ってきてあげます」
「本当か!?」
それは初めてお弁当を作ってあげたあの日。
「イチ!! おめでとう!! かっこよかったぞ!」
「ああもう! 抱きつくな! みんなが見てるでしょうが!」
それは選抜レースでようやく勝ちを得た日。
「おまじないしてあげたんだからちゃんと勝ちなさいよ! タマ先輩との最後のレースなのに情けない走りをするつもりなの?」
「……ありがとうイチ。行ってくる。そして、必ず勝ってくる! 応援してくれたみんなのために! 私と走るタマのために! そして何より君のために!」
最初の有馬記念の日。
「お願いだから! もう、無理をしないでくれイチ……。このままじゃ君が壊れてしまう!」
「うるさい!! アンタに――勝ち続けられるアンタに私の何が分かるのよ!!」
「分からないよ! 私には君の辛さはたしかに分からない! でも、それでも君が走れなくなるのは嫌だ!!」
自暴自棄になった私を必死で止めようとしてくれた日。
「勝てた……。やっと……、やっと勝てたんだ……」
「イチ……、おめでとう……」
「ちょっと、なんでアンタが泣いてるのよ?」
「だって、だってぇ……」
「まったくもう……、しょうがないんだから……」
「そう言うイチだってないてるじゃないか~」
「うっさい!!」
「う~」
「――オグリ」
「ん? グスッ、なんだ?」
「――ありがとうね」
ようやく暗闇を抜けてOPウマ娘になれた日。
――そして。
「しっかりしなさいよ! あんたオグリキャップなのよ!?」
「行ってきなさい! そして思いっきり楽しんできなさい!」
「私の――私達のヒーロー!」
オグリの伝説の最後の日。
◇
ふと目を覚ます。なんだか懐かしい夢を見ていた気がする。
薄暗い部屋の中、枕元の目覚まし時計に目をやれば朝方の5時を指し示していた。
そろそろ起きないと。起きて朝食の準備をしなければ。
そう思って身を起こそうとするが、まるで金縛りにでもあったみたいに上半身が持ち上がらなかった。
不思議に思って自身の体に目をやって、思わずため息を吐いてしまう。
原因は一目瞭然だった。誰もがよく知る芦毛のヒーローが人の胴に抱きついていたんだから。
しかし困った。これでは準備にいけない。
そんなこっちの気持ちも知らずにヒーローさんは規則正しい寝息を立てながら幸せそうに眠っていた。
まったくもう。ホントにしょうがないんだから……。
そう胸の内で呆れながらも自然と口元を緩ませてしまう。
しばらくこの姿を眺めててもいいんだけどそうもいかない。どうにか起きてもらわないと一日が始まらないんだから。
「おーい、キャップ~?」
そう呼びかければ目を瞬せながらぼーっした様子で身を起こす。
「ん~……、イチ……?」
「おはよ」
会話を交わしたもののまだ眠気が冷めないのかぼんやりとこちらを見つめるオグリ。
そして、眠気に負けて倒れ込む。
――それも私の胸元に向かって。
突然のことで体を支えることもできず私はされるがままにベッドへ倒れ込む。
「ちょ、ちょっとキャップ!?」
私の抗議の声も虚しく、ヒーローさんは私の胸元に顔をうずめると再び規則正しい寝息を立てながら幸せそうに夢の中へと旅立っていった。
さて、困ったのは私の方だ。さっきよりもしっかりとホールドされた体。おまけに尻尾まで太ももに巻き付かれている。
「あの~、キャップさん? これじゃ朝ごはん作れないんだけどな~?」
私の声など聞こえる素振りも見せず絶えず寝息を立てる。
わずかにのぞかせたその横顔はとても幸せそうだった。
まったくもう。本当にしょうがないんだから。
再び大きくため息を吐く。今度は降参の意味も込めて。
今日はどうせ休みなんだからいいか。
そう自分を納得させると腰元に散らかった掛け布団をかぶる。
「おやすみなさい。私のヒーローさん」
そう言って瞼を閉じ、心地よいぬくもりに身を任せるとオグリを追いかけるように夢の世界へと沈んでいった。
【Sideモニー2】part27(36~)
【Sideモニー2】
時は少し巻き戻る。
タマ先輩のスタンプに面喰らい顔を真っ赤にした私は、自室に居られなくなりイチの静止も聞かずに部屋を飛び出していた。火照った頭を少しでも冷やしたくて向かった先は寮に設置されているキッチンだ。今はとにかく冷えた水を飲みたい。そんな気分だった。
別に自室に飲み水がないわけじゃない。その気になればキンキンに冷えた水を飲むこともできた。でも、あんなことがあったばかりだ。あの空気の中、自室でイチと気まずい雰囲気の中で過ごそうとは思えなかった。というより、私の気持ち悪いくらいニヤけたその顔を見せたくなかったし、完熟トマトみたいに真っ赤に染まった顔を指摘されたくなかった。
まあ、そんなことはどうでもいいか。
そんなこんなで無事キッチンまで辿り着いた。当たり前のことだが、すでに消灯時間を過ぎていたためキッチン内は当然真っ暗。かろうじて調理台や冷蔵庫の輪郭がおぼろげに見える程度だ。
壁際に手を這わせてどうにか明かりのスイッチを見つける。パチリという音と共にキッチン内が明るく照らされる。
当たり前のことだがキッチン内はきれいだった。フジ寮長が手入れしてるのだから当然だろう。
私は冷蔵庫を開くと麦茶を取り出し、手にしていたグラスに注いだ。
グラスに口をつけて麦茶を喉に流し込む。キンキンに冷えた麦茶は私の体の内から火照った体を冷ましていってくれた。
一息にすべて飲み干して一心地つく。どうにか平静を取り戻すことができた。
――そんな時だった。
パジャマのポケットに仕舞っていたスマホが震えた。手に取って確認してみて、再び心臓の鼓動が早まった。
スマホの画面に表示されていたのは『タマ先輩』の文字。
胸が痛いくらいに高鳴る。せっかく気持ちを落ち着けたのにこれでは元の木阿弥だ。
落ち着け、お願いだから。出た方がいいの? いやでも、いま出たとして冷静に話せるの? そもそも何を話すの? さっきのスタンプの意味?
そんな考えが浮かんでは流れ、浮かんでは流れ。出ようか出まいか悩んでいるうちに着信が切れてしまった。
かけ直そうかと悩んでいると、またスマホが震える。
今度はすかさず通話ボタンを押した。自分でも驚くぐらいスマートに指が動いた。
「もしもし? タマ先輩ですか?」
そう恐る恐る尋ねてみれば、すぐにあの元気な声がスピーカーから聞こえてきた。
「もしもし!? モニちゃんか!?」
気持ちが上がる。口元が緩む。ああ、なんて自分は単純なのだろう。たった数日会えなかっただけなのに、声を聞いただけでこんなに舞い上がってしまうなんて。いけない、顔が緩むのを抑えられそうにない。きっと端から見たらみっともない姿をしているのだろう。
どうにか平静を装って答える。
「はい、そうですけど。何かご用ですか?」
「用っちゅうか、その……。今、話しても平気か?」
「え、ええ。構いませんけど……」
歯切れの悪い物言い。ずいぶんと慌てふためいた様子だ。まあ、思い当たることはあるんだけど。
そのことについて聞こうか聞くまいか、少し悩んだけれどやっぱり聞くことにした。
一つ相手に聞こえないよう深呼吸すると思い切って聞いてみた。
「あの、さっきのスタンプなんですけ――」
「ホンマごめん!」
「――ほえ?」
思わず間の抜けた声を上げてしまった。質問する暇もなく食い気味に突然謝られたんだ、そんな声も出る。
話が飲み込めないうちにタマ先輩は尚も続ける。
「さっきのは、その、ちゃうねん!」
「は、はい?」
「さっき送ったスタンプ、あれおチビたちが間違うて送ったもんやねん。そういう意図とかなくて、つまりその――あれはちょっとした事故や。ホンマ堪忍や!」
「は、はあ……?」
「せやから、あの、その……。さっきのは無かったことにしてくれへんやろか?」
スピーカー越しにでも分かるいかにも腰の引けた声。よっぽど申し訳ないと思っているのだろう。電話口の向こうで頭を深々と下げてるタマ先輩の姿が目に浮かんだ。
手が目頭へと伸びる。唸り声を抑え込むように目頭に手を当てて強く摘まむ。サーッと頭に上っていた血が下がっていくいう音が聞こえたような気がした。ここまで必死に弁解してるタマ先輩がなんだかいたたまれなくて。そして、ここまで全力で否定されたのがなんだか面白くなくて。さっきまであれだけ湧き上がっていた気持ちが萎んでいく。結局のところ全部こっちが勝手に舞い上がっていただけか。
今、胸を支配しているこれはなんだろうか。失望か、羞恥か、それとも安堵か。そんなどうしようもない絡まったなにかが胸を占めていく。
「……あの、モニちゃん?」
なかなか返事が帰ってこないのが心配になったのか電話口からタマ先輩の弱々しくこちらを伺う声が響く。
相手に聞こえないように大きくかつ短く息を吐き出す。気持ちは晴れないままだが少しはマシになった。
「別にいいですよ」
「ほ、ホンマか?」
「どうせ、そんなことじゃないかなって思ってましたし」
少し棘のある言い方になっちゃったかな。そんな心配も浮かんでくるくらいつっけんどんな物言いをしてしまったけど、タマ先輩は気づいた素振りも見せず「いや~、おおきになモニちゃん!」と胸を撫で下ろしていた。よっぽど焦っていたんだろうな。
タマ先輩がそんな反応を見せたせいだろうか。私の中である一つの感情が鎌首をもたげた。悪戯じみた悪い感情が。
「――でも、いいんですか? なかったことにしちゃって」
「へ?」
今度はタマ先輩が呆けた声を上げる。よし、ちゃんと聞いてくれてるな。
そして、私はとびっきりに感情を込めて悪戯っぽく言ってみせた。
「さっきのスタンプ……。私――」
――本気にしちゃってもいいんですよ。
夜もとっぷり更けた頃、キッチンで一人。
私は最高に悪い笑みを浮かべていた。