目次
Part37
『吾輩は猫である。名前はキンギョ。』(>>133)
吾輩は猫である。名前はまだない――というのは今は昔のこと。現在は主人からキンギョと名前を賜った。
親兄弟はいない――いや、吾輩がこうしてこの世にいる以上、“いた”とする方が正しいか。何せこの世に生を受け母の懐中より表に出でようやく目が開いた頃、周囲に誰もいなかったのだ。
見捨てられたか忘れ去られたか、はたまた何処ぞで命を落としたか。いずれにせよ遂に母は我が前に姿を見せることはなく、吾輩は生まれて早々ひとりぼっちにされたわけである。
今となっては近くもあり遠くもある過去の出来事である。はて、あれはいつ頃のことであったやら。じめりとした暑さの残る秋口のことだったか、ヒヤリと背筋を冷やす冬口のことだったか。
まあ、何はともあれ右も左も分からず猫の生き方なぞ知りもしなかったあの時に生まれたての吾輩でも唯一わかっていたことは“このままでは死んでしまう”という極めて残酷な事実だった。
さらに不幸なことに吾輩の身は硬い地面の上に打ち捨てられており、その地面のなんと冷たいことよ。まごまごしておれば吾輩の体温を情け容赦なく奪い去っていくことは明白。
必死の思いで身体全体で叫ぶようにニャーニャーと鳴いてみせたものの母親はその姿を一向に見せず。
四半刻は鳴いてみせたが結果は変わらず。遂にはその体力を使い果たすと疲れ果てて身を横たえた。
この世に生まれ落ち、物心がついてまもなくその命を失う。なんとあっけない一生か。あまりに不条理ではないか。
そう我が身を儚むと同時にこの世の無情な摂理を恨んでみるがどれだけ毒を吐こうと腹は膨れぬし身は暖まらぬ。あまりにも馬鹿馬鹿しくなったのでせめて消耗を抑えようと身を丸めたときだった。
ふと、辺りが暗くなる。
いくらなんでも日没には早すぎる。そう思って眼を開けてみれば吾輩を見下ろすものがひとつ。
巨木のように澄み切った青空に向かって聳え立っているようでその下半分は二つに分かれていた。天辺には黒くツヤツヤした毛が滝の如く落ち、二つの何かがぴこぴこと忙しなく動いていた。オマケに箒のような毛が真ん中辺りから生えておりこちらもまた右へ左へ忙しなく揺れていた。
これは一体何者ぞ? 産まれて初めて見る自分以外の動くものを注意深く観察していれば自然目があった。そこでようやく目の前のこの動く巨木何某が生き物であることに気がついた――それが所謂ウマ娘と知るのはも少し後のことだが。
まあ、何にせよようやく自分以外の存在に出会えた吾輩はそれはもう在らん限りの声を振り絞って鳴きに鳴いた。
どうにかこのウマ娘に自らを助けてもらい、あわよくばその後も養ってもらえれば幸いだったからだ。
そうしてニャーニャーと鳴いていれば、このウマ娘自らの毛皮に前脚を潜り込ませると何やら板を取り出してこれまた器用に前脚で弄くり回しはじめた。
興味が板に移ったと見た吾輩はこれは不味いと一層声を上げた。あの板に気を取られているうちにこっちのことを忘れられては堪らない。こちらにとっては死活問題なのである。
だが、そんな生存努力は虚しく空振る。黒毛のウマ娘はこちらに一瞥くれたかと思えばすぐに踵を返して去っていく。小さくなる背中に向かって必死に呼びかけても一切こちらを顧みる素振りも見せずそのまま見えなくなってしまった。
─続─
再び寒空の下ひとりぼっちになった吾輩はこのまま鳴いても腹が減るばかり、仕方がないので丸っこくなって耐え凌ぐことにした。
吹くは北風。鳴るは我が腹の虫。接する地面は容赦なく熱を奪い取っていく。寒さに震える体で必死に腹の虫を抑え込んでいれば再び辺りが暗くなる。
目だけ動かして周囲を見ればつい先ほど見たばかりの二本足。戻ってきてくれたかと喜色満面に体を起こし見上げてみればさっきあったところに顔はなかった。も少しだけ顔を見上げてようやく目と目があった。
違う。さっきのウマ娘と別のやつだ。先程のやつと比べても遥かにその図体が大きい。おまけに体の凹凸がはっきりしている。さらにおまけに毛の色が全く違う。今度は栗毛だ。
前足を口に当てて身じろぎ一つせずじっとこちらを見つめてくる瞳。
まあ、この際なんでもいい。天が与え給うた二度目の好機だ。吾輩は再び枯れんばかりにニャーニャーと声を上げた。腹が空くのもお構いなしにだ。
そうして鳴き続けて三分が過ぎた頃、ようやく目の前のウマ娘は鞭に打たれたかのように体を身震いさせると踵を返して扉の奥へと引っ込んでしまった。
まただめか。せっかくの好機だったというのに。再びすり抜けていった幸運を未練がましく見つめるように閉じた扉を眺めていれば、なんとその扉が開かれた。
アーメン。ハレルヤ。天は私を見捨ててはいなかったのだ。しかも、出てきたのはさっきの栗毛のウマ娘だ。この機を逃してはならぬ。今度こそ。
吾輩はそう意気込むとしゃがれた声で生存努力を再開した。
吾輩がもはやニャーニャーですらない雑音に近い鳴き声を上げている間、栗毛のウマ娘は何やら茶色い板を敷いたかと思えばその上に我輩を置いた。
おお、この板はいいものだ。あれほど熱を奪い去っていた地面とはぜんぜん違う。随分温いではないか。さらに手厚いことに何やら布を被せてくれた。これもいい。猛威を振るっていた北風を防いでくれるだけでなくこれもまた随分と温い。まるで極楽だ。
唐突に与えられた極楽を堪能していると栗毛のウマ娘はさっきのウマ娘同様どこからか板を取り出して何やら忙しなく指を動かしていた。
そして、ひとしきり何かすると満足したのか立ち上がって吾輩に背を向けて歩き出した。てっきりこのまま養ってもらえると思っていた吾輩にとっては驚天動地、寝耳に水。とんだ肩透かしを食らったものだ。こうはしておれんと泡食って呼び止めようとしたが不幸なことに声が出ない。散々叫んだつけがこんなところで来てしまった。
かすれる声をなんとかしようと藻掻くうちにどんどん遠のく背中。そして、とうとう見えなくなってしまうのだった。
─続─
ああ、またしてもすり抜けていく我が天祐。運命の女神の何と非情なことよ。一度ならず二度も好機を逃した吾輩の心はすっかり折れてしまった。それはもう見事にポッキリとだ。天は吾輩を見捨てたもうた。その事実を悟った瞬間、ふっと全身から力が抜け去り身体を起こすこともままならなくなった。
声も出ない。身体も動かせない。もはや出来ることといえばジッと最期を待つことだけ。如何に布と板で寒さを凌げても腹の減りまでは凌げぬ。
あゝなんと惨めな我が一生かな。ならばせめて最期は静かに迎えようではないか。吾輩は自然降りてくるままに瞼を閉じた。
一面の闇。あれだけ騒がしく吹いていた北風も今ではどこか懐かしい。
そうして時間の流れすら曖昧になってきた時だ。ふわっと身体が持ち上がるように感じたのは。
ああ、ついに来たか。なるほど確かに天へ昇るというのは極楽だ。これほど温もりに包まれながら逝けるのだから。さて、天へ導いてくれる者は一体どんな姿をしているのだろう。冥土の土産がてらこの目で確かめてやろう。覚束ぬ仕草で瞼をわずかにこじ開けると最後に目に映ったのは風に靡くように揺れる実に見事な灰の髪であった。陽の光に照らされてまるで白銀のカーテンだ。
ああ、最期に良きものが見れたわ。吾輩は意識を手放した。
─続─
Part45
1つ目(>>70)
まだ暗い早朝の道を自転車が進んでいく。空はまだ黒のような青のような、はたまた紫のような。そんな複雑な色だった。
周囲に人はいない。まるで世界に自分たちしかいないようだ。そんな早い時間に自転車を漕ぐ。
「重くないですか? タマ先輩」
後ろからモニちゃんがそう声をかけてきた。自分より小さいうちの腰に手を回して精一杯抱きついて。触れ合う背中からじんわりとモニちゃんの温もりが伝わってくる。
傾斜のきつい坂道。おまけに二人乗り。自分がウマ娘とは言え少ししんどい。それ以上に現在進行系で悲鳴をあげているこのオンボロが壊れやしないか気が気じゃない。
それでも情けないところを見せたくなくて、「なあに大丈夫や」と明るく笑い飛ばした。
「そうは言っても二人乗りなんてやったことないでしょ?」
うちの頭に顎を乗っけながらモニちゃんが聞く。モニちゃんの言う通り自転車の二人乗りなんて今日が初めてや。普段は正直走ったほうが早いし確実だから。
まして、今日のモニちゃんは大荷物を抱えている。普段とはあまりに違う重さのせいで自転車を平行に保つのも正直きつい。
それでも、やっぱり格好つけたいから努めて明るく言った。
「心配すんなやウマ娘の馬力なら二人乗ってても平気やで」
後ろを見る余裕はない。カッコつけてるならなおさらだ。大粒の汗かいてひいこら言ってる情けないところなんてモニちゃんに見せたくない。
そうこうしていれば坂の終わりが目に見えてきた。
坂を登りきって一息吐いていると次第に目の前が明るくなってくる。闇夜の空に白い光と住んだ青が混じりだした。
「見てみぃ。きれいなお天道様や」
地平線の先からじわりじわりと顔を出す太陽。その間二人とも言葉を無くしていた。ただ黙って日が登るのを見つめていた。
腰に回された手に力がこもる。そして、モニちゃんの顔がうちの頭を離れたかと思えば背中に押し付けられた。
背中がかすかに温かな湿りを帯びた。
◇
駅についた。モニちゃんはお札を券売機に突っ込んで切符を買っていた。うちは小銭をわずかに券売機に突っ込んで入場券。
その入場券をポケットの中で俯きがちに握りしめていた。改札に突っ込むのすら億劫になりながら。
そうこうしていればモニちゃんが切符を改札に入れて通り抜けようとする――が、肩から下げた大荷物が引っかかってつんのめった。
「ぐえっ」なんて情けない悲鳴を聞いて思わず吹き出しながら、うちは荷物をどかしてやる。
「ほれ、また引っかかってんで?」
誂うように言ってやればモニちゃんは「もー、なんでこんなに引っかかるかな~?」と恥ずかしさをごまかすようにカバンに文句を言ってすぐに前を向く。恥ずかしさに赤面した自分の顔を見られたくないんだろう。
そんな可愛い仕草にまた吹き出してしまう。
「んなもん、そんなに図体でかいからやろ。色々詰め込みすぎやねん」
「女の子には色々荷物があるんです!」
ぷりぷりと拗ねたような声をあげてずんずんと先を行くモニちゃん。うちは頬を一つかいてそのあとを追った。
◇
駅のホームにたどり着いてうちらは黙ったままだった。二人並んで前を向いて電車が来るのを待っていた。
隣のモニちゃんの顔を見る気にはなれなかった。なんというか見てしまったら引き返さなくなる気がして。
スピーカーから音楽が鳴る。遠くを見れば小さく朧気だった電車が大きくなってくる。
ガタンガタンッ。
線路を叩く音が何度か聞こえたあと電車が駅に停まった。
息を吐き出すような音が聞こえたあと電車のドアが騒々しく開かれた。
「ほなな」
前を向いたまま言う。
「はい、それじゃ」
モニちゃんも。たぶん、前を向いたまま電車に乗っていった。
電車に乗ったあとこっちに向き直るモニちゃん。一つ大きく息を吸い込んでモニちゃんが「また――また会いに行きますから」と言った。
「――おう。元気でな」
駅のスピーカーからけたたましくベルの音が鳴り響く。電車が出るのを知らせる。
「はい」
応えるモニちゃん。扉が閉まる際、彼女の目尻が光っていたのは気のせいだろうか。
再び電車がため息を吐く。そして再び賑やかに線路を叩きながら駅を出ていく。
電車が離れるさなかわずかに彼女の顔が見えた。
――見えた瞬間、気がついたらうちは走り出していた。理由もわからずに。
◇
階段を勢いよく駆け下りて。券売機に阻まれながらも、ポケットに突っ込んでいた入場券をためらいなく突っ込んで突破して。
来るとき乗ってきた自転車を置き去りにして。
走った。走った。躓いて。転んで。それでも走った。
離れていく電車を追いかけた。
窓に映るモニちゃんを追いかけた。
それでも電車は離れていく。うちの限界なんざ知ったこっちゃないと言わんばかりに。
窓からこっちを見つめるモニちゃん。その姿も次第に小さくなっていく。
走るのが限界になった頃、うちは立ち止まりながらも腕を大きく振った。少しでもモニちゃんに見えるように。
「モニちゃあああああんッ!!」
ありったけの声で叫んだ。
「またな!! 必ずまた会おなああああ!!」
モニちゃんに聞こえるように。
「約束やでえええええッ!!」
小さくなっていく電車に向かっていつまでもいつまでも大音声で手を振り続けた。