[おもな登場人物]
霊帝(れいてい) 少帝(しょうてい) 献帝(けんてい)
十常侍(じゅうじょうじ) 何進(かしん)
袁紹(えんしょう) 董卓(とうたく)
曹操(そうそう) 袁術(えんじゅつ) 孫堅(そんけん)・
公孫サン(こうそんさん) 劉備(りゅうび)
[おもな地名]
洛陽(らくよう) 長安(ちょうあん)
汜水関(しすいかん) 虎牢関(ころうかん)
[勢力]
董卓軍
反董卓連合
189年
黄巾の乱が平定されてのち、後漢の皇帝霊帝(れいてい)が亡くなると少帝(しょうてい) 14歳が即位します。
当時、権力は皇帝を補佐する宦官(かんがん)の集団(十常侍(じゅうじょうじ) )が力をにぎっていました。
少帝の外戚(親族)である何進(かしん)将軍は宦官誅殺の詔(みことのり)をだし、宦官たちの誅殺を計ろうとしますが失敗し、逆に何進は殺されます。しかし十常侍たちはすぐに何進の配下の袁紹(えんしょう)に誅殺されます。
この機に乗じて董卓(とうたく)が洛陽(らくよう)に入り少帝を廃して献帝(けんてい)を擁立、実権を握るに至るのです。まさに権力の奪い合いといった状況でした。また、権力を握った董卓は暴政を行い始めます。
190年
この董卓の横暴ぶりに対して曹操(そうそう)は董卓を打倒しようという檄文を全国の諸侯へおくります。この時曹操はまだ弱小勢力に過ぎませんでしたが、17もの有力な諸侯がこの檄文に応じて董卓を打倒すべく各地でたちあがります。
ここに、曹操の他、袁紹・袁術(えんじゅつ)・孫堅(そんけん)・公孫サン(こうそんさん)
そして公孫サンの末席には劉備(りゅうび)たちも参加することになります。
彼らは反董卓連合軍を結成し、大将(盟主)を袁紹と決めて戦いを挑みます。
三方向から洛陽へ迫り包囲します。 しかし董卓軍は強力なこともあり、曹操・孫堅以外はあまり積極的に戦いませんでした。
曹操が諸侯の協力を得れないま少数の兵で攻撃しますが徐栄(じょえい)に待ち伏せにあって惨敗してしまいます。
孫堅も徐栄に緒戦敗れながらも兵を立て直して董卓軍をやぶり、汜水関(しすいかん)では
董卓の将である名将華雄(かゆう)・胡軫(こしん)を討ち取ります。三国志演義では関羽が討ち取ったことになっています。
孫堅の進撃も仲間内の裏切りで中断を得なくなります。袁術が孫堅の躍進に危機を感じ兵糧の補給を断ったのです。袁術配下にあった孫堅は文句をいうのが精一杯。
そんな中、董卓は軍師李カクを派遣し、和睦を求めるものの孫堅は拒否し戦闘を継続します。
汜水関(しすいかん)・虎牢関(ころうかん)とやぶれ危機を感じた董卓は都を洛陽(らくよう)から長安(ちょうあん)に遷都するに至ります。その際、洛陽の金銀を奪い洛陽を焼き払うなどの悪逆の限りを尽くします。
191年
孫堅は董卓軍をやぶり、董卓は洛陽を放棄しついに洛陽を奪還することに成功します。
孫堅は、洛陽の修復に力を注ぎます。
そんな中、焼き払われた洛陽を修復していた孫堅は井戸から、皇帝の印である「玉璽」を発見するのでした。
洛陽を奪還したことで反董卓連合軍はいったん解散。董卓は長安で生き長らえます。
192年4月
最強でしられた董卓軍でしたが、程なくして董卓は外からではなく内部から崩壊していくこととなりました。
父子の誓いをした猛将 呂布(りょふ)に裏切られ殺されたのです。
三国志演義では、王允(おおいん)の計画で美女貂蝉(ちょうせん)が呂布と董卓のふたりを色仕掛けにより仲違いさせることで潰し合いを画策しました。
世に言う「連環の計」です。
悪逆の限りをつくし、あまりの人望のなさが董卓の命脈をたちました。
最終更新:2011年01月27日 18:53