193年
徐州の下ヒで、”ケッ宣”と言う男が手勢数千を率い、
天子を称しました。この時、徐州牧となっていた陶謙は、
これに便乗して曹操の支配するエン州に攻め込みます。
曹操はすぐさま反撃し、逆に徐州の十余城を攻め落とし、
彭城で陶謙軍を破ります。
曹操軍の攻撃は凄まじく、この戦いで陶謙軍は数万人の死者を
出し、その為泗水の流れが止まったとまで言われています。
しかし、兵糧が乏しくなった曹操軍が兵を引き、
激戦はひとまず収まります。
翌年(194年)曹操は再び徐州に攻め込みます。
しかもほぼ全軍を挙げての総攻撃でした。
破竹の勢いの曹操がここまで徐州に拘ったのは、陶謙に対する
個人的な恨みだったといわれています。
実は董卓の兵乱の折、徐州に難を逃れた父の曹嵩が
陶謙に殺されていたのです。
その為、曹操軍は一般の住民に対しても大虐殺を繰り返します。
対して陶謙は曹豹と客将の劉備に迎え撃たせますが、曹操軍の
前にたちまち敗退してしまいます。
曹操は快進撃を続けますが、この時留守にしていた本拠地
エン州で緊急事態が発生します。
無二の盟友だった張バクが反乱を起こし、しかもあの呂布を迎
え入れたのでした。
足元をすくわれた曹操軍の動揺は大きく、曹操はすぐさま兵を
引き返します。
結局、この徐州平定戦で曹操が得たものは何も無く、この後エ
ン州を取り戻す為に、呂布と足掛け2年に渡って戦う事となり、
劉備は労せず徐州を譲り受けてしまいます。
この時の曹操については、後の歴史家も痛烈に批判しており、
曹操にとって苦い戦いだったには、間違い有りません。
最終更新:2011年01月27日 18:53