長坂坡の戦い



おもな登場人物]

 曹操(そうそう)   
 劉備(りゅうび)  張飛(ちょうひ) 趙雲(ちょううん) 諸葛亮(しょかつりょう)

[おもな地名]

 長坂(ちょうはん) 江陵(こうりょう) 襄陽(じょうよう) 夏口(かこう)

[勢力]

 劉備 VS 曹操


[位置関係]

         ・宛
       ・新野
     ・樊城
     ・襄陽

   ・長坂        ・夏口
      ・江陵 [戦争前の勢力関係]

            曹操

      劉備

    劉表(劉ソウ)          孫権
             (劉キ)


[解説]   劉備軍は負け戦ながら、張飛と趙雲が名声を高めた戦い



208年8月1月

官渡(かんと)の戦いから八年後、曹操(そうそう)は八万の軍を持って荊州(けいしゅう)攻略を開始します。
曹操は北方を平定後、南征のために許(きょ)の都に玄武池をつくり、水軍を訓練し準備を整えていました。

その頃、荊州は長官の劉表(りゅうひょう)が亡くなり劉ソウ(りゅうそう)が後を継いだばかりのタイミングでした。

官渡の戦いの後、劉表の元に身を寄せていた劉備(りゅうび)は曹操との前線に近い新野(しんや)の城を任されていました。
すでにこの頃、劉備は「脾肉の嘆(ひにくのたん)」を脱して、「臥龍(がりょう)」と呼ばれる天才的人物である諸葛亮(しょかつりょう)を参謀(軍師)として、有名な”三顧の礼(さんこのれい)”によって
招いていました。

以前、曹操を殺そうとしたことがある劉備は曹操に危険視され付け狙われていました。
この戦いの前に、曹操は劉備の軍事力強化を危惧し
夏侯惇(かこうとん)に新野攻めを命じ、諸葛孔明の初采配で見事に撃退されています。

諸葛亮は曹操は必ず再起を図って自ら攻めて来ると考え、劉備に荊州を乗っ取るよう助言しますが
劉備は納得しませんでした。

後継者”劉ソウ”は長男”劉キ”を差し置いて後を継いだいきさつがありました。
劉キは親劉備派の人物でした。
その劉ソウは器量が小さく、曹操の降伏勧告に戦わずして降伏します。

劉備は劉ソウが降伏したことを知らず気づいた頃には曹操軍が迫り孤立した状態となっていました。
そうとも知らない劉備は、曹操の進撃が始まると一時撤退をきめ、荊州の都・襄陽(じょうよう) に戻ろうと近くの樊城(はんじょう)まで退却 します。しかし、すでに曹操への降伏を決めた劉ソウは襄陽入城を拒否。しかたなく、劉備軍一行は江陵(こうりょう)まで退却することを選びます。
また、江夏の劉キと落ち合う算段でもありました。

急ぐ必要のある退却でしたが劉備を慕い従う人民が付き従ったため、移動がままならない状況が続きます。 一説には避難民は実に10万近くいたとも言われています。

曹操は襄陽入城したあと、劉備軍を急襲するため5,000の精鋭騎馬隊を編成します。

劉備は人民を見捨てることはできず
先に舟に乗せて関羽とともに避難させるという通常では考えられない行動に出ます。
関羽とはあとで江陵で落ち合う手筈としました。
大将が先に逃げずに人民を優先するところが劉備の人徳の為せる所でしょうか?

遂に“長坂”という場所で曹操軍が劉備軍に追いつきます。

しんがり(退却軍の最後尾)は張飛が努めており僅か20騎あまりしかいません。
張飛は、長坂橋を通るとき橋をきり落とし周辺の林をその20騎あまりに走らせて砂塵を上げさせ
大軍が潜んでいるようにみせます。
かつ、本人は橋の前に立ち曹操軍を一喝しひとりで曹操軍を引き止めるという大活躍を遂げます。

また趙雲が逃げる途中で行方不明となった劉備夫人(甘夫人)とその子(劉禅)を一騎で曹操の大軍の中から救い出すという快挙をあげたのもこの時です。
同時に夏侯恩(かこうおん)を切り曹操の名刀”青コウ”も手に入れます。

劉備軍は江陵への退却は曹操に知られていると、江陵行きをあきらめ劉キのいる江夏(こうか)・夏口(かこう)方面へ向けて逃げることにしました。

劉備軍はちょうど先回りしていた関羽の水軍と合流、そして劉キからの援軍1万と合流する事に成功します。

曹操は劉備を追うことを諦め防備を固められると攻略困難になる江陵の占領に向かい、これを攻略しました。

こうして劉備軍は負け戦ながら各将の活躍と連携もありなんとか逃げ切ることに成功します。

しかし曹操の遠征が終わるわけはありません。

この後、三国志最大の戦いである赤壁の戦いに突入することになっていくのです。
最終更新:2011年01月27日 18:54