江東・呉の戦い



197年

 三国志の一国を担う孫一族の基盤を築く戦いです。

孫策は孫堅の子であり、孫権の兄でもあります。
父の孫堅が早くに死んだため孫策は17歳で後継ぎとなり
地盤も無く袁術のもとで数年を過ごします。

 袁術の元で数々の功を挙げていた孫策でしたが、
袁術は「一郡を授ける」という約束を反故にし続けました。
 孫策は袁術に見切りをつけ”劉ヨウ討伐”を志願し、
密かに袁術からの独立を企てます。
 当時、劉ヨウの領土には父 孫堅の墓があったため、
袁術も孫策の志願を了承し、”伝国の玉璽”をかたと
して差し出させる代わりに兵3000を与えます。

 孫策は親友の周瑜を伴い、呉の二張と呼ばれる賢者
”張昭・張絋”の2人らを連れて出兵します。

 孫策軍は連戦を重ね、湖熟・江東から曲阿に侵攻、
その後も留まることを知らず、呉郡・会稽をたちどころに
平定します。

孫策は平定した領土の民に食料を配り人心を
つかみます。人々は彼を”小覇王”とよび賞賛します。

孫策自身の武力もたかく、一騎打ちでは”于び””はん能”
という武将を討ち取ります。
また、勇名を馳せる”太史慈”とも引き分け配下とします。

ここに三国志を担う”呉”の基盤が形成された
重要な戦いは”劉ヨウ”の病死ということもあり
孫策の圧勝で幕を閉じます。

大活躍をした孫策でしたが、その後”謀反計画”にあい
26歳という若さで毒矢を撃たれ暗殺されてしまいます。

彼が生きていれば三国志の歴史もまた大きく変わっていた
ことでしょう
最終更新:2011年01月27日 18:54