漢中争奪戦



[おもな登場人物]
蜀 劉備(りゅうび)・張飛(ちょうひ)・馬超(ばちょう)
  呉蘭(ごらん)・法正(ほうせい)
  諸葛亮(しょかつりょう)
魏 曹操(そうそう)・曹洪(そうこう)・夏侯淵(かこうえん)
  張コウ[合β](ちょうこう)・曹休(そうきゅう)

[おもな地名]
 漢中(かんちゅう)・下弁(かべん)・陽平関(ようへいかん)
 固山(こざん)

217年
蜀(しょく)を211年に征した劉備(りゅうび)は遂に宿敵・
曹操(曹操)が有する魏(ぎ)との戦いに挑むことになります。
その侵攻を決定づけたのは参謀法正(ほうせい)の進言でした。
進言理由は
  • 現時点で参謀諸葛亮(しょかつりょう)の策により魏と呉(ご)
 を戦わせることに成功し、魏の主力は呉との境界線にある点。
  • 魏は今、後継者争いにより団結力に欠ける点。
  • 疫病が流行って魏の政治情勢が不安定な点。
を指摘し漢中(かんちゅう)を責めるには絶好の好機であると
いうのです。

かくして劉備は諸葛亮(しょかつりょう)に蜀の守りを任せて
法正・張飛(ちょうひ)・馬超(ばちょう)・呉蘭(ごらん)など
と共に漢中に大軍を持って向かいます。

しかしすぐに曹操のもとに蜀軍が攻め入ったことが報告されます。
曹操も漢中を守る夏侯淵(かこうえん)と張コウを支援すべく
曹洪(そうこう)を派遣。曹洪に五万の軍をあたえます。

すでに周辺を制圧しつつあった蜀軍でしたがまだ漢中を取るまでには
いたっていませんでした。劉備は陽平関(ようへいかん)、
張飛は固山(こざん)、馬超と呉蘭は下弁(かべん)を攻略します。

 曹洪は予想以上にすばやく北方より前線に到着します。
それに応じて張飛が軍を動かします。両軍はすぐに遭遇します。
しかし“張飛軍は陽動であるので下弁の急襲を優先するよう”勧める
参軍曹休(そうきゅう)の提案を受け入れ曹洪は張飛と戦わずして、
一路、下弁(かべん)へ向かいます。
 その途中で曹洪は呉蘭の少数部隊に遭遇してこれを打ち破ります。
これで勢いにのり下弁の名将馬超もさすがの大軍と勢いににはかな
わずと判断して敗走、張飛も孤立し退却を余儀なくされます。
退却の一行は劉備がいる陽平関へ終結し、この地で踏ん張り陽平関を
守り抜きます。
 陽平関は漢中のすぐ隣であり、漢中への北部からの支援を遮断する
ことに成功します。
 そして2年後の“定軍山の戦い”へと進んでいくこととなるのです。

219年
 217年に緒戦に敗れたものの何とか踏ん張って漢中(かんちゅう)
の喉元である陽平関(ようへいかん)をとった劉備(りゅうび)軍
は、219年再び漢中に向けて侵攻を開始します。

 劉備は法正(ほうせい)を軍師に漢水の上流を渡って移動し、定
軍山(ていぐんざん)の麓に陣を敷きます。漢中を守るのは張コウ
[合β](ちょうこう)と夏侯淵(かこうえん)です。
 高地に陣取った老将黄中(こうちゅう)を出撃させ黄中の武力
と法正の策略をもって魏の大将夏侯淵(かこうえん)を誘き寄せて
討ち取ります。そしてその勢いのまま漢中の本拠地南鄭(なんてい)
を占領してしまいます。

 曹操(そうそう)は漢中奪還のため自ら兵を率いて長安(ちょう
あん)を出発し、山脈を横断する難所をとおり漢中を見下ろせる盆
地に陣を敷きます。
 劉備軍は劉備・張飛(ちょうひ)・趙雲(ちょううん)・黄忠、
参謀の諸葛亮(しょかつりょう)・法正といった主力がいましたが
あえて持久戦を選びました。

 両軍の対峙は半年以上に及び難所を通ってきた曹操軍は補給に
苦 しみました。
 進退窮まった曹操は“鶏肋[ケイロク](とりがらの意味)“とい
い、それを聞いた書記官の楊修(ようしゅう)は“とりがらを食べ
ようとしても肉はなく捨てるには惜しいが結局は捨てるもの”、
つまり“撤退”であると謎解きします。
その言葉のとおり、最終的に曹操は漢中奪還をあきらめ帰還します。

 こうして漢中を征した劉備は二年前に“魏王”になった曹操に対
抗して”漢中王”の位についたのです。221年4月のことでした。
劉備はこの時、最大の領土を所有しついに天下三分のひとつの位
置を完全に占めるに至ります。蜀(劉備軍)にとってこの時、一番
充実した人材と国力であったといえるでしょう。
最終更新:2011年01月27日 18:56