成都制圧戦



[主な登場人物]
劉備(リュウビ)諸葛亮(ショカツリョウ)ホウ統(ホウトウ)
劉璋(リュウショウ)張飛(チョウヒ)趙雲(チョウウン)

[主な地形]
益州(エキシュウ)
211年
 赤壁の戦いに勝利した劉備・孫権軍は一時曹操に支配
された荊州へ進出します。ちなみに荊州は8郡で構成さ
れていました。
 孫権軍の周瑜が江陵攻略に時間をかけている間に劉備
軍は荊州南部4郡を平定して領土とします。
結果、荊州は魏が北方2郡、呉が江陵・江夏の2郡、劉
備は4郡という状態となります。

 劉備は劉?を”荊州牧”にしますが、彼の死去に伴い
自らが”荊州牧”となります。
 荊州は孫権より借用していることとなっていた劉備は
孫権の不信を買います。しかし劉備自身が呉へ訪問して
孫権の妹の孫尚香との縁談話をまとめるなどの過程によ
り一時的に両者は和解します。呉への荊州返還条件が益
州占領ということで同意したことで、これにより呉から
益州攻略の承認を得た形となりました。
 また、強硬派の呉の周瑜が若くしてなくなり、劉備に
よる益州進出計画は一歩前進することとなります。

 これに加えて劉備の益州平定へ後押しする事柄が多く
発生します。
 益州(劉璋)が漢中(張魯)との仲が悪くなっており、
それに加えて曹操の漢中討伐で動揺した劉璋が、劉備を
頼り援助を依頼することになります。これにより劉備は
益州への進出の機会を得ます。
 またこの時期、益州を支配する劉璋は器量がなく密か
に劉備を迎えようと望む人々がいました。
 その急先鋒の張松・法正が劉備との交渉役となります。
二人は劉璋には内緒で劉備に益州の情報を提供します。
 また益州進出前に諸葛亮と並び賞される名軍師ホウ統
を迎え入れることにも成功します。

 劉備は諸葛亮以下主力の武将を残しホウ統ともに張魯
討伐を名目に益州進出に向かいます。
 益州に向かった劉備軍を劉璋は自らフ城で手厚く出迎
えます。ホウ統・法正はこの機会に劉璋を討つことを提
案しますが、仁徳の人劉備にそれはできませんでした。

 劉備は漢中には向かわず葭萌にとどまります。ここで
次にホウ統は3つの策を提案します。
 1.すぐに成都に攻め込む上計
 2.敵将楊懐・高沛の兵を取り込み成都に攻め込む中計
 3.荊州と連絡をとりながら機会を伺う下計
劉備は中計をとることを決断します。

 折しもそんな時、魏が呉へ攻め入ったという情報が入
ります。
 劉備は劉璋に孫権への援軍を理由に、兵の増員と補給
の増給を要求しますが受け入れられず、また同時期に張
松の内通が密告され斬首にされてしまったこともあり、
劉璋は”不義・不誠実”であるという口実をもって、成
都に向けて楊懐・高沛を襲撃してフ城を占領します。
 続いてラク城も包囲します。しかしラク城では劉璋の
子劉循が激しく抵抗し、攻略には実になんと二年もの歳
月をかけることとなってしまいます。
 この攻防の間に軍師ホウ統が流れ矢にあたり命を落と
すという大事件もおきます。

 ラク城を落とし、あとは本拠地成都を残すのみとなり
援軍として諸葛亮・張飛・趙雲が南から成都に向かい南
北から挟み撃ちにする作戦を実行します。
 益州の大半を占領し214年夏、劉備軍は成都を包囲し
ます。当然、劉備軍はラク城戦のような長期戦を考えて
いたことでしょう。
 しかし数十日の篭城戦の末、これ以上将兵の命を無駄
にできないと考えた劉璋は”成都”を開城します。

 こうして長い戦いの末に劉備は蜀を得て、三国のうち
の一国を領することとなるのでした。
最終更新:2011年01月27日 18:55