夷陵の戦い



[おもな登場人物]
蜀 劉備(りゅうび)・関羽(かんう)
諸葛亮(しょかつりょう)・趙雲(ちょううん)
   劉封(りゅうほう)・張飛(ちょうひ)
   張達(ちょうたつ)・范彊(はんきょう)
   黄忠(こうちゅう)

魏 曹操(そうそう)・献帝(けんてい)
曹丕(そうひ)・于禁(うきん)

呉 孫権(そんけん)・呂蒙(りょもう)
   孫桓(そんかん)・朱然(しゅぜん)
   韓当(かんとう)・周泰(しゅうたい)
   潘璋(はんしょう)・諸葛瑾(しょかつきん)
   凌統(りょうとう)・甘寧(かんねい)

[おもな地名]
 荊州(けいしゅう)

[勢力]
 魏(ぎ) 呉(ご) 蜀(しょく)

[蜀漢五虎将]
 関羽・張飛・趙雲・黄忠・馬超

219年12月

 魏・呉・蜀 三国の境にあたる荊州(けいしゅう)は
まさに当時、一触即発の火薬庫でした。
 それまで日の出の勢いであった劉備(りゅうび)擁す
る蜀の名将関羽(かんう)が魏・呉の秘密同盟により
挟撃されて壮絶な最後をとげます。
それにより蜀は荊州の大半を呉に占領されてしまいます。
ちなみにこの関羽自滅のもとを作った呉の名将
呂蒙(りょもう)は関羽亡き後すぐに病死します。
このことは関羽の祟りともいわれました。

その後、義兄弟関羽をなくした劉備が弔い合戦として
呉討伐に出撃するまでなんと3年もの月日を必要とします。

その理由としては
220年に劉備の最大のライバルである
魏王 曹操(そうそう)が66歳で病のためなくなり、
その後を継いだ息子の曹丕(そうひ)が
曹操が傀儡として利用してきた後漢の皇帝である
献帝(けんてい)を廃して魏を建国したのです。

このことで劉備は自称漢の血筋を引くものとして
約半年後の221年に魏に対抗するとともにし大義名分の立場
から漢の復興を名目に、昭烈帝となり蜀を建国します。

やっと状況もおちついた222年
劉備は呉討伐に出撃することになります。

出撃するに当たって
諸葛亮(しょかつりょう)や趙雲(ちょううん)は
”敵は魏であって呉ではない”
”魏を倒せば呉はおのずと降伏する”と説得しますが
話が関羽の事となると仁徳の人劉備も話を聞かず
開戦を決定してしまいます。
この直前にも義理の子であり次期後継者とも目された
劉封(りゅうほう)を関羽への援軍をださなかったことで
処刑しています。
兄弟の死で少し劉備の行動がおかしくなっていました。

もうひとりの義兄弟 張飛(ちょうひ)も
弔い合戦への参戦の準備をしていましたが、
兄を失った怒りもあり、また日ごろから部下に厳しい面も
でて、部下に無理難題を与えていました。それに耐えかね
た部下の張達(ちょうたつ)と范彊(はんきょう)は
このままでは自分たちが殺されてしまうと張飛を
暗殺してしまいます。張飛の首を手土産に、張達と范彊は
呉に亡命します。

出撃前に三国時代で一二を争う豪傑張飛の死は
劉備にショックを与えるとともに蜀軍の
軍事力低下という最悪の結果を招きました。

それでも劉備の決意はかわらず出陣します。
そのとき、劉備軍は4万もの大軍でした。

それをきいた呉の孫権(そんけん)は諸葛亮の兄である
諸葛瑾(しょかつきん)を和睦の使者としておくります。
呉は”領土返還”と”魏への共同攻撃”という提案を出します
が怒りの劉備は全く聞き入れせんでした。

それを聞いた孫権は魏の曹丕に対し使者を送ります。
”魏の捕虜”于禁(うきん)”返還”と”呉が魏への臣下になる”
という条件を持って同盟(?)を結びます。
 この臣下になるというのは当然あくまでも一時的な呉の
作戦でした。
 臣下になるということは屈辱的ではありますがこれで
呉は魏からの攻撃を防ぐことができました。
後々の憂いをたち蜀に全力であたることができました。

しかし、緒戦では孫桓(そんかん)・朱然(しゅぜん)軍が
劉備軍にやぶれます。

韓当(かんとう)・周泰(しゅうたい)・潘璋(はんしょう)
凌統(りょうとう)・甘寧(かんねい)というほぼ主力を
だしますが名将甘寧・潘璋は打たれます。

蜀も五虎将の一人黄忠(こうちゅう)が戦死するという結果と
なりますが戦況的には劉備はこの時一番の勢いがあり連戦連勝
でした。

222年2月

呉は荊州の太守であった陸遜(りくそん)を大都督(最高司令官)
として蜀に当たらせます。

蜀では参謀の馬良(ばりょう)が適当な勝利で引き上げることを
提案し、また、参謀の黄権(こうけん)が
”長江を下って攻めるのは簡単だが退却時には川を上るのも困難
で、また陸地は切り立った山が多くこちらも容易な場所ではない
ので主力が移動せず後ろに配置すべきである”
という旨の内容で諫めますが、劉備はそれを聞かず自ら主力を前
に押し出して侵攻しました。

それにたいして陸遜は最初に守りを固めて蜀軍の疲れを待つ戦法
をとります。血気にはやる韓当(かんとう)や周泰(しゅうたい)
などは打って出ることを主張しますがそれを許可しませんでした。

この間に劉備は補給路を確保するため陣をながく配置し敵地深く
入り込んでいました。

戦いは長江を境に両軍相対して半年以上という長期戦になります。

先に動いたのはやはり劉備でした。
呉軍を誘い出すため平地に少ない兵を置き伏兵を谷に隠すという
策です。しかし、この作戦は陸遜に読まれ失敗します。
劉備は谷川に近い山中の木陰に陣を移します。

そこでついに陸遜が動きます。
が、しかしここに来て呉の将兵たちは攻撃をしぶりました。
”長期戦で蜀側も守りを固めていて攻めるのは不利”という理由
からです。
陸遜は、”蜀の兵の疲れ”と”作戦の失敗による士気の低下”を
あげて将兵を説得し攻撃に出ます。

しかし、序盤は呉の将兵の言ったように敗れてしまいました。
そこですかさず陸遜は火攻めに作戦を変更します。
これが大成功しました。劉備軍は陸遜の火攻めにあい大敗を喫し
ます。

陸遜の読みが当ったことと劉備軍が森に布陣していたことで火の
周りがはやまったこと、そして陣を長くしていたことで混乱した
ことで、一気に敗退してしまったのです。

蜀の将兵の沙摩柯(しゃまか)・馮習(ふうしゅう)・
張南(ちょうなん)・傅トウ(ふとう)は討ち死にし、
その他将兵も投降。黄権は進退窮まり魏に逃げ込み投降します。

劉備はなんとか前線の白帝城に逃げ込みます。

そののち呉はそれ以上の深追いはせず蜀とまた同盟を結びます。

劉備はそのまま病に伏してしまい失意のうちに白帝城で
臨終を迎え、諸葛亮(しょかつりょう)をよびよせ後のことを
託します。劉備63歳。

三国志の主役の一人が波乱の生涯を終えました。
最終更新:2011年01月27日 18:56