劉邦

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&font(#6495ED){登録日}:2018/04/28 Sat 09:00:00 &font(#6495ED){更新日}:&update(format=Y/m/d D H:i:s) &new3(time=24,show=NEW!,color=red) &font(#6495ED){所要時間}:約 35 分で読めます ---- &link_anchor(メニュー){▽}タグ一覧 &tags() ---- &font(b,#006400){劉邦}とは、漢帝国の初代皇帝である。 諡号は高皇帝、廟号は太祖……なのだが、一般には「&font(b,#006400){高祖}」と呼ばれることが多い。 字は「季」。 **【出生】 沛県は豊邑の出身。 史記によると、父親は「太公」、母親は「劉媼」。 劉邦は三男で、長兄に「伯(伯は字。本名不明)」、次兄に「喜(字は仲)」、弟に「交(字は游)」がいる。 ……さてさっそくだが、この短い記述、かなり問題を孕んでいる。 なにせ、両親のくだりを直訳すると『父親は「じいさん」、母親は「劉ばあさん」とよばれていました』となる。&font(l){桃太郎かなんかか。} しかも「劉」の姓が父親でなく母親に付いているのがミソで、一般には「『劉家の嫁の婆さん』で、姓も名も不明なんだ」と弁明されるが、むしろ直訳すると「劉姓は母方のもので、劉邦は&font(b,#006400){母親が不倫して産んだ子供だ}」と読み取れてしまう。 おまけに史記には「&bold(){劉媼の上に龍が乗っていた。ゆえに劉媼は劉邦(龍の子)を産んだ}」というエピソードが載っているが、&font(#a25768){余りにも生々しすぎるこの描写}は「[[間夫が乗っていた>寝取られ]]のを美談化したもの」「美談化されていた劉邦誕生エピソードを、役人として裏まで知っていた司馬遷がぶっちゃけたもの」と見られている。 もちろん劉邦の家族は全員劉姓を名乗っている。同姓同士の結婚は中国では忌避されるので、太公が劉姓であるのなら、劉媼は劉姓ではないと考えられる(上述した「劉媼」は「劉家の嫁の婆さん」という説はこのこと)。 ……が、のちに劉邦は滅ぼした[[項羽]]の一族に劉姓を賜っている((「漢の時代、項姓で生きていくのは辛いだろう」という温情溢れる、真っ当な理由ではある。)) 、つまり他人の姓を変えることを頓着しないので、ひょっとしたら&bold(){同じ理屈で一族も劉姓に変えさせたのかもしれない}。 また、劉邦の早死にした長兄は「字が伯」とだけ伝わり名前が不明だが、この伯という字は「長男」という意味しかない。 次兄・劉喜の字「仲」は「次男」、劉邦の「季」も「末っ子」という意味である((同時代の彭越も字は「仲」一字である。))。 両親の姓名や兄弟の字、その他諸々あわせて、劉邦の実家は良くも悪くも中国の一般的な庶民の家だったのだ。 ちなみに劉邦は家族のほとんどと折り合いが悪く、後述の理由で父太公や長兄の嫁からは特に嫌われていた。 この辺りの不仲は後々まで尾を引き、父と早世した長兄の遺族に対しては皇帝になってからも嫌っていた((皇帝になっても長男の遺児にはなかなか爵位を与えようとしなかった。父親の度重なる口添えでようやく爵位を与えたが称号で思い切りあてこすっている。その父親も宴会で笑い者にしている。次兄やその子供に対する厚遇とは正反対であった。))。 **【青年期】 若いころのエピソードは、史記ではなぜか断片的に記されており、前後関係が良く分からない。 劉邦は漢帝国の偉大な開祖ということで、その出生は漢帝国の内部でかなり脚色・美化されていたと思われるが、「史記」は&font(l){著者の司馬遷に漢の武帝への恨みがあったこともあり}そうした美化をかなり排除している。 さて、若いころの劉邦というのは、良く言えば「&font(b,#006400){侠客の親分}」、悪く言えば「&font(b,#006400){チンピラ}」。 家業を嫌い正業に励まず、酒と女に溺れて遊び歩く、というある種の&font(b,#006400){穀潰し、無頼漢}であった。父や兄嫁から嫌われたのはこれが原因である。まあ当然といえば当然か。 しかし一方では気っ風のいい&font(b,#006400){親分肌}でもあり、若いころから幼なじみの樊噲や盧綰をはじめとする多くの人間をまとめていた。 酒屋に行けば代金を払わずいつもツケにしていたが、劉邦が来店すると仲間たちも客として来るため、結局店の売り上げは数倍になったという。 そうした人望から話が進んだのか、沛の東の泗水の亭長(警察署長のようなもの)を務めたことがある。 そこでも仕事に励まず、逆に無頼と組んで遊び呆けた。 が、沛の役人にも劉邦のシンパがいて、特に有能で人望もあった&font(b,#3399cc){蕭何}と&font(b,#0095d9){曹参}がフォローしたために、劉邦はなんとか役人生活を過ごすことができた。当時はその蕭何や曹真たちからの評価も高くはなかったようだが、やはり人望からだろうか。 一度傷害罪を犯したが((劉邦が戯れながら剣を抜いて夏侯嬰を追いかけ夏侯嬰は笑いながら逃げながらじゃれあっていた所、偶然傷つけてしまい夏侯嬰は血まみれになってしまう。劉邦はビビって逃走。念のために書くが、この時点で二人共良い年をした大人同士である。))、傷つけられた当人である&font(b,#0095d9){夏侯嬰}が黙秘。しかも、それを別人が告発したところ、夏候嬰はそれを否定。それが偽証の罪に問われて鞭打ちの刑を受けながらも庇い通したという。 呂雉(後の&bold(){呂后})を娶ったのもこの時期で、県令の友人である富豪にハッタリをかまして気に入られたという婚活エピソードが残る。 ……が、劉邦は呂雉に家の農事をやらせて、更生しなかったらしい。 つまり相変わらず侠客をやっていたのである。 ある時、秦国の都・咸陽に労役で赴いたことがある。 しかし史記では、なぜ劉邦が労役についていたのか記されていない。 後のように、労役刑を科されて派遣された人夫たちを率いて咸陽に入り、そのまま監督役になったと思われる……&font(l){が、「不正役人」or「働かない入り婿」という理由で労役刑と相成った可能性もなくはない}。 この咸陽時代、劉邦は視察に出ていた&bold(){[[始皇帝]]}を遠目に見物した。この時劉邦は&font(b,#006400){「嗟乎、大丈夫当如此也」}――&font(b,#006400){「ああ、立派な男とはあのように成らなくてはいけないな!」}と頷き、発奮して真人間になったという((この発言は項羽が同じく始皇帝の行列を見た際に言ったとされる「奴に取って代わってやる!」と比較され、両者の性格の違いを表すとされる。))。 つまり若いころの劉邦は、まじめに勤めをこなす優等生ではなくむしろダメ人間寄りであったが、上は蕭何や曹参のような&font(b,#3399cc){勤勉な役人}から、下は&font(b,#eb6101){樊噲}・&bold(){盧綰}・&bold(){夏候嬰}のような&font(b,#3399cc){庶民・アングラ人間}まで、&font(b,#006400){多種多様かつ幅広い人間たちを、一つの集団にまとめてリーダーとしてふるまえる人間だった}のだ。 大学で言うなら、勉強は不得意であるがサークルやゼミでやたらと目立ち、行事となると引っ張っていくタイプだろうか。しかもエリートから落第寸前学生まで全員に好かれるタイプ。 実際かなり目立つほうだったらしく、様々なホラのほかに役人として被る冠を自作するなど、リーダーとしての&font(b,#006400){見栄え、男伊達}をかなり重視する性格だった。 はっきりとはしないが、後々の劉邦が披露する&font(b,#006400){人間を使うことのスキル}は、この頃から萌芽が芽生えていたといえるだろう。 **【決起、流浪、そして躍進】 始皇帝が死に、二世皇帝の座に&font(b,#8c7042){胡亥}が付くと、天下は内外から&font(b,#8c7042){急速に乱れ始めた}。 そんなときに劉邦は胡亥が増やした工事により、人夫たちを率いて咸陽に連れていくよう命じられる。 劉邦にとっては二度目の咸陽行きだが、その頃には規律も統率も乱れに乱れ、脱走者が続出。 劉邦自身も今回の咸陽行きに未来はないと判断し、浴びるように酒を飲んだ後に残った人夫らを逃し、&font(b,#006400){行くあてのない十数人を束ねるとさっさと遁走し、沼地に潜伏した}。 規模としても行動としても大変小規模だが、実質は&font(b,#006400){これが劉邦の決起だった}といえる((この頃、秦朝を象徴する白蛇を斬ったとか、頭上に帝王の雲があるので居場所がすぐわかったとかの逸話がある。が、後者は劉邦自身も嫌悪感を見せたとあるように、司馬遷もこうした逸話を眉唾モノとして書いている。))。 &bold(){[[陳勝]]}と呉広が&font(b,#d2691e){本格的に反乱を起こす}と、昔の領土を取り返そうとする旧六国の残党や、この機に旗揚げしようとする野心家が刺激されて次々と決起。 秦帝国の派遣した役人も、始皇帝というタガがなくなったことで不正・汚職に励み、ついには自立を図るようになった。 劉邦の故郷・沛の県令も、役人や兵たちを率いて決起しようとした。 しかし、その役人や住民の間にはすでに&font(b,#3399cc){劉邦シンパ}が根を張っており、彼らは県令を殺すと外にいた劉邦を迎え入れ擁立。 これにより、劉邦は「&font(b,#006400){沛公}」を名乗った((劉邦は口先だけでは「自分では維持できない。他の人を選んだほうが良い」と言ったが、これは中国の野心家が必ず口にする常套句で、三回断るまでがテンプレである。奉戴した長老たちと蕭何・曹参らがすぐに人数を集めたことなどを考えると、最初から乗っ取りを画策していた可能性が高い。))。 しかし自立した「沛公」劉邦は、さっそく故郷である豊邑を復興した魏国に奪われてしまう((どうも豊邑では劉邦を嫌う一派もかなりいたらしい。まあ上記の通りのことをやっていたので…))。 その間に陳勝は秦の名将・&font(b,#333399){章邯}に破れて&font(b,#d2691e){戦死}。自力で旧六国と張り合えない劉邦は、とりあえず陳勝残党のもとへと向かった。 この陳勝残党と接触する途上、劉邦はたまたま&font(b,#f39800){張良}の一団と接触。張良を幕下(名目は騎兵隊長)に迎え、彼の抱えていた兵たちも自軍に組み込んでいる。 この張良一味の吸収を初めとして、劉邦は&font(#006400){転戦しながら兵を吸収}していき、徐々に、しかし確実に&font(b,#006400){強大な勢力へと成長していった}。 やがて反秦連合の主導権は、楚の「懐王」を擁立して陳勝残党を滅ぼした&font(b,#954e2a){項梁}・&bold(){[[項羽]]}に握られた。 劉邦もこの時期に項梁に合流。旧韓国の出身である張良の出自を利用して「韓国の復興」という名目で項梁の支援を引き出し、一度魏国に奪われていた沛県の豊邑を奪回。 一方で張良には旧韓王族の韓成を擁立させ、旧韓国領を攻略させた。 なお、張良は封建制や旧韓国の復興にはハッキリ反対しており、韓王成は実質劉邦の同盟勢力、というより別働隊として扱われている。 かくして、この時期の劉邦は沛県と韓国の二つにまたがる大勢力の主として、&font(b,#006400){反秦連合のなかでも重きをなす存在となっていく}。 この後、劉邦は城陽・濮陽・定陶・雍丘・陳留と転戦していくが、これらは項羽と肩を並べての作戦であり、この時期すでに項梁・項羽に次ぐ名声と実力を獲得していた。 **【秦国滅亡】 しかしその陳留攻略の間に、肝心要の項梁が章邯に敗れてまさかの戦死。 それにともない、項梁の傀儡だったはずの&bold(){懐王}が主導権を奪い取るべく画策しだした。 章邯討伐・趙国救援軍を編成するに当たって、&font(b,#7058a3){宋義}を総帥に任命して項羽をその副将にし、章邯を破ればそのまま函谷関から関中に入り、秦の首都・咸陽を攻めるよう命令。 一方、劉邦には離散していた陳勝や項梁などの残党を吸収しつつ、宋義・項羽の別働隊として咸陽を攻略するよう命令した。 さらに諸将の前で&bold(){「関中に一番乗りした者を関中王とする」}と布告した。 かくして出陣した劉邦は、陳勝・項梁の残党に加えて、途上の旧六国系の兵、さらには敵である秦国の軍隊さえ吸収して、&font(b,#006400){急速に勢力を拡張}。そのまま関中盆地の南の玄関である武関に攻め込んだ。 余談だが、のちに韓信や&bold(){黥布}と共に活躍する&font(b,#cc6600){彭越}と顔を会わせたのもこの途上である。 この頃、咸陽では趙高が「[[馬鹿]]」騒ぎを起こしつつ二世皇帝胡亥を暗殺。 さらには迫り来る劉邦に密使を送り、内応を手引きするから関中を半分わけにして統治しよう、と言い出した。 しかし劉邦は「&font(#006400){おまえはなにを言っているんだ}」と黙殺。まあ趙高はこの直後、三世皇帝と言うべき秦王子嬰にブチ殺されるので関係ないが。 趙高がそんなくだらんことをしている間に、劉邦は&font(b,#006400){武関を突破}。関中に入り、&font(b,#006400){咸陽の東に進出した}。 趙高暗殺には成功したものの、すでに打つ手など無くなっていた秦王子嬰は、即位から三十五日で劉邦に降伏。 &font(b,#333399){西周時代に起源を発する秦国は、ここに滅亡した。} **【項羽との対立】 しかし秦朝を倒したからといって、即ち明るく平和な時代が訪れるわけではない。 「秦朝を倒す」という一番の大手柄を奪われた&font(b,#ff3333){項羽}が、殺意も剥き出しに驀進していた。 のちに劉邦自らも証明するのだが、功績を立てすぎた臣というのは君主にとって危険な存在となる。その作戦能力や動員力、兵たちからの信望は、そのままクーデターのための「戦力」となりうるのだ。 まして劉邦は、項羽直系の部下ではなく同僚、ある意味で同盟者に近い。対立はもはや必然であった。 このとき、劉邦軍団は二つの行動をとった。 一つは旧秦国の住民への人気取りである。そのために、まずは&font(#3399cc){住民たちへの法律を撤廃・簡略化}させて喜ばせた。いわゆる『&font(b,#3399cc){法は三章のみ}』である。((言うまでもないが、天下が定まってからはそんなことは言っておられず、もとの法治国家となっている。)) もう一つは項羽たちへの配慮だった。項羽たちに好き勝手な略奪をさせて「勝者の実感を味わってもらう」ためにも、宮殿や民家からの略奪を厳禁した((ただし一部の記述では、劉邦配下の略奪が起きたことが記されている。まあ何十万といた劉邦軍全部を監視する余裕はなかっただろう。))。もちろん、住民への人気取りの効用もある。 ただし、始皇帝が大陸を統治するに当たって収蔵し活用した&font(b,#333399){公文書・帳簿・地図などのさまざまな行政資料}だけは、&font(b,#3399cc){蕭何が必死になって運び出した}。 &font(b,#ff0000){このことが、のちの世界帝国・漢帝国の発展に大いに影響することになる。} 余談だが、この時劉邦は&font(b,#006400){「宮殿に入る!!皇帝のベッドでハーレムする!!!」}と暴走。 &font(b,#f39800){「それヤッたらなにもかもお終いでしょうが!!」}と追いかけてきた張良と樊噲から諫言のち引きずり出されていた。&font(l){劉邦ェ……}((これに限らずなのだが、劉邦は基本的に性欲に弱い男である。)) またこの頃の劉邦は、項羽と戦う気力も軍事力もないくせに函谷関を閉じて(一応)盟主である項羽を阻み、かえって刺激してしまったり、司馬の曹無傷が項羽に内通する隙を作ったりと、行動に一貫性や落ち着きが見られなかった。 悪く言うと「お上りさん」の劉邦である。空前の大帝国の首都を目の前にして、舞い上がって混乱してしまったのだろうか((それでも部下から諌められれば素直に耳を傾け、きちんと従っていた。この「諫言を聞き入れる度量」と「部下への信頼」は後に非常に強力な武器となる。))。 そうこうしている間に項羽が到着。劉邦の将来性を危惧していた謀臣の&font(b,#808080){范増}が、劉邦の殲滅を進言していた。 しかし項羽の叔父の&bold(){項伯}が、むかし張良のもとで世話になっていた恩義から劉邦を弁護。 劉邦の&font(b,#006400){歴史に残る一生懸命の命乞い}もあいまって、劉邦は辛うじて虎口を脱した。 『&bold(){鴻門の会}』である。 そして咸陽に入った項羽は劉邦たちの見立て通りに&font(b,#ff3333){破壊と暴行と略奪の限りを尽くす}と、自ら「覇王」として、活躍した&font(b,#ff3333){武将たちを「王」に封じた}。西周以来の封建システムによって、新しい王朝を開いたのである。&font(l){本人的には。} 劉邦も同様に「&font(b,#006400){漢中王}」に封ぜられた。かつて懐王が誓った約束に従えば旧秦国領の「関中王」になるべきだったが、土地が豊穣で防備にも優れる関中に入れたくなかった項羽は劉邦を当時僻地だった漢中に「左遷」させたのだった((なお、これが「左遷」の故事である。))。 これ以降、劉邦は&font(b,#006400){「漢王」}と名乗る。後の漢帝国の名称もここから始まるのであった。 &font(l){[[四百年後>三国志]]に[[漢中王を名乗った子孫>劉備]]によって[[御者の子孫>曹操]]が[[胸をぶち抜かれる>蒼天航路]]のはまた別の話。} **【楚漢戦争】 しかし項羽の封建体制は西周のそれに比べて粗雑であり、&font(b,#ff3333){彼の封建国家はあっという間に崩壊した}。具体的な話は項羽の項目を参照。 そして、劉邦も&font(b,#006400){項羽打倒のために挙兵}。 まずは四方が山脈に囲まれて防備に優れる上に、地味豊穣な関中を本拠地とするべく&font(b,#006400){北上}。 関中一帯を守るのは、かつて秦国の将軍として活躍した名将・&font(b,#333399){章邯}含む「三秦」だったが、彼らは項羽に降伏した直後に、率いていた数十万の兵士を項羽に皆殺しにされていた。 関中の住民たちは、自分たちの子弟を駆り出しながらむざむざ皆殺しにさせた章邯((正確には章邯が率いたのは「驪山陵で労役に服していた囚人たち」であって、関中の人民ではない。が、何度か援軍が出されているので、その兵源が関中の子弟だったのだろう。))たちも、関中で乱暴狼籍の限りを尽くした項羽も嫌っており、逆に恩徳を施した劉邦の帰還を待望していた。 そのため、住民たちは劉邦の進出をサポート。逆に、あらゆる面でサボタージュや抵抗を受けた章邯は、名将としての素質や経験を何一つ活かせないまま敗退。そのまま孤立し、天下の流れから離れたところで寂しい最期を迎えた。((三秦の残る司馬欣・董翳は降伏。)) こうして&font(b,#006400){盤石な本拠地を得た劉邦}は、&font(b,#3399cc){関中の統治と後方支援を蕭何に任せる}と軍を率いて項羽に抵抗。楚漢戦争の幕が上がった。 しかし項羽は、戦場においては&font(b,#ff3333){圧倒的な強さ}を誇っており、その猛攻を前に劉邦は&font(b,#006400){幾度と無く敗退を続けた}。 五十六万の大軍で首都まで落としながら壊滅したり、子供を捨てて逃げようとしたり、親父や嫁を捕えられたり、餓死しかけたり、部下を生け贄にして逃げたり、&font(b,#33ff66){韓信}から兵を強奪したり、果ては項羽自らの矢を食らって死線をさまよったりと、ほとんど&font(b,#006400){連敗}のような体たらくだった。 だが、どれだけ敗れても劉邦の本拠地・関中は無傷であり、敗北のたびに&font(b,#3399cc){蕭何が将兵と糧秣を補充してくれた}ために、劉邦は[[何度でも蘇ることができた>ムスカ]])。 さらに、劉邦が抜擢した&font(b,#33ff66){韓信}たち別働隊が項羽の&font(b,#33ff66){勢力を切り崩し}、同盟を組んだ&font(b,#cc6600){彭越}などが項羽の&font(b,#cc6600){後方を攪乱}。 張良や陳平といった謀臣たちの謀略も加わり、項羽の勢力をありとあらゆる面で消耗させていった。 そして、ついに垓下の地で&font(b,#006400){項羽を包囲し、軍勢を大破}。 脱出した項羽を、その逃亡先の烏江で追いつめ、&font(b,#ff3333){壮絶な自殺}に追い込んだ。 &font(b,#006400){最大の強敵を滅ぼした}劉邦は、残る&font(b,#006400){抵抗勢力も併合}して、ついに漢の皇帝となった。 &font(b,#ff0000){統一王朝「漢帝国」ができあがったのである。} **【危うい治世】 しかし、天下を取ってそのまま平和になるというのは幻想である。 天下人が一人だけであることで世界が平和になるなら、胡亥の天下は乱れないし、項羽は滅びなかっただろうし、晋朝は[[あんなこと>五胡十六国時代]]にはならない。 劉邦が皇帝になったからといって、漢がすぐさま安定したわけではなかった。 劉邦が皇帝に即位した直後、群臣たちが輪になって話し合っているのを劉邦は見た。 あとで劉邦は張良に&font(#006400){「あいつら、なにをヒソヒソしてるんだろうな」}と訊くと、張良は&font(b,#f39800){「そりゃあ謀反の企みでしょう。決まっています」}とバッサリ答えた。 &font(b,#006400){「ええっ!?せっかく天下が治まったのになんで!?」} &font(b,#f39800){「そんなこと関係ないでしょう。彼らは働いた分の報酬が貰えるかどうか不安なんです。いやそれどころか、陛下がケチって臣下たちを粛清しにかかると疑っているのです」} &font(b,#006400){「ソソソ、ソンナコト考エテ[[ナイアルヨ>ないアル修羅(北斗の拳)]]……」}(震え) &font(b,#f39800){「[[あるのかないのかどっちなんだ>ケンシロウ(北斗の拳)]]……まあとにかく処置はせねばいけません」} というわけで、劉邦と張良は臣下たちの反乱を防ぐべく様々な手を打つことになる。 昔、劉邦を裏切ったが出戻った雍歯を真っ先に諸侯に封じて、臣下たちを「粛清するつもりはない」と安心させる一方、群臣の会議で「天下取りで一番の功績者は誰か」を論じるなどして牽制。 このとき劉邦は&font(b,#006400){「帷幄のなかで謀を巡らすには}&font(b,#f39800){張良}&font(b,#006400){が、兵站を確保して糧道を巡らすことでは}&font(b,#3399cc){蕭何}&font(b,#006400){が、百万の軍を率いて戦うことには}&font(b,#33ff66){韓信}&font(b,#006400){が、それぞれ最高の天才であった」}として、この三人を「建国の三傑」とした。 また、後日には蕭何には兵站確保や行政の功績のみならず、一族から多くの人数を戦場に送り出したことを以って&font(b,#3399cc){軍事の功績もある}として、&font(b,#006400){「建国第一の功労者」}と評している。 逆に言うと、蕭何でさえ報奨の食邑は一万戸であり、&font(b,#006400){「蕭何ほどの功績もない連中が、やたら高望みをするな」}という意図もあったであろう。 そうして時間稼ぎと不満の沈静化を図る一方、功臣たちへの報奨として、領土を与える「封建」を開始。 真っ先に「三傑」の一人&font(b,#33ff66){韓信}を、戦時中に任命した「&font(b,#33ff66){斉王}」の座から「&font(b,#33ff66){楚王}」に移して、即日赴任させた。 これは、項羽の出身地であり残党も多い楚地を治めるのは、楚の出身で事情にも詳しい韓信が適任であることと、項羽によって殺された楚の義帝(懐王)の跡を継がせるという口実があった。 さらに、韓信と同じく劉邦の別働隊として項羽を破った&font(b,#cc6600){彭越}を「&font(b,#cc6600){梁王}((「梁」とはこの場合旧魏国のこと。魏国は戦国後期に首都を「大梁」に移したため国号を「梁」とも呼ばれた。))」に、項羽の降将で活躍した&bold(){黥布}を「&bold(){淮南王}」にした。 彭越に梁(魏)の地を与えたのは、項羽戦で彼が活躍したのがその辺りだったからだ。 黥布を淮南王としたのは、淮南の都が彼が項羽に「九江王」に封じられたときの都「六」だったからで、戦功を持って彼に旧領を回復させたのである。 そのほか、&bold(){韓王信}((張良が擁立した韓王成が項羽に殺された後、張良が立て直した韓王。やはり「韓信」と呼ばれるが、楚王韓信とは別人。))を正式に韓王したのを筆頭として、活躍した武将を各々冊封した。 一方、張良や蕭何、曹参や樊噲を筆頭とする側近たちも、それぞれ「列侯」に封じられた。彼らの場合は封建領主ではなく、漢朝政府の大臣・官僚として迎えられたのである。 そして、洛陽を引き払って旧秦都・咸陽に遷都して長安と名を変えた劉邦は、さらに新政府の体制固めに着手。 &font(b,#3399cc){丞相に任命した蕭何}を中心として、張良や旧秦の賢人・召平らの知恵を駆りつつ懸命に漢帝国を軌道に乗せようとした。 ……と、こう書くといかにも明るい未来が開けたかに見える。 しかし、いつの時代でも権力とは魔物であり、政治は権謀術数の舞台である。 たとえ政府を作ったところで、それだけで平和が訪れるわけはない。 &bold(){体制を固めるためには、体制を乱す存在を排除しなければならないのだ。} 劉邦は天下を取ったが、軍人としての能力はそう高くはない。当然韓信には及ぶべくもない。 蕭何のような行政能力や兵士の動員力もない。政治感覚でも張良には及ばない。 さらに、その出自から見ても自前の政治力はそう大きいものではない。 つまり、例えば後代の&bold(){ [[曹操]]}や&bold(){ [[司馬懿]]}のような「軍事力もあり、領土もあり、実績もある軍閥将軍」が本気で劉邦に抵抗し、王朝乗っ取りを画策すれば、劉邦はひとたまりもない――ということだ。 さらに、もともと臣下は「君主の為に」仕えるわけではない。この君主に付いて戦えば、勝利して大きな見返りが来るはずだと思って従うのだ。つまり「自分のために」仕えるのである。 しかも利害というものは常に増幅していく。主君が下す恩賞は、たいていの場合、臣下にとっては「少なすぎる。おれたちの活躍からすると、もっと多くていいはずだ」という思いに至る((もちろん、主君にとっては「何を高望みしやがる、お前の功績ではこれでも多いぐらいだ」となる。))。 しかも封建制――功臣に領土を「褒賞」として分配する方法だと、その褒賞がそのまま軍事力、政治力、経済力となり、「もっと多くぶん取ろう」「国ごとぶん取ろう」と考えたときに、強力な「戦力」となる。 項羽の覇権があっという間に滅んだのは、まさにそれが原因である。 もちろん、君主の側とて皆の傀儡になるために帝王になるわけではない。 ましてや、乗っ取られるために王になるわけではない。自分の王朝を息子に継がせ、末長く残したいと願うからこそ、王になるのだ。 歴史上、建国の功臣で粛清される者((南宋の岳飛、明の李善長・胡惟庸など。))や、逆に主君を逐う者((隋の文帝楊堅、北宋の太祖趙匡胤など。))が少なくないのは、こうした君主と臣下の避けがたい相克が原因であった。 &bold(){[[始皇帝]]}や&bold(){[[光武帝>劉秀]]}のように粛清しなかった例もあるが、彼らの場合は比較的初期から自前の政治力を確立していて強力な臣下を恐れる必要が無く、また功臣への褒賞もあえて少なくしていたために、争う必要性が無かったためである。 しかし劉邦には、始皇帝や光武帝ほどの政治力もない。 後漢の献帝は曹操一族に国を奪われ、曹魏は司馬懿一族に乗っ取られた。 では、劉邦にとっての曹操、司馬懿はだれだったろうか。「軍事力もあり、領土もあり、実績もある軍閥将軍」は。 **【韓信、彭越、黥布】 実は、すでにそうした「功臣」たちへの粛清の準備は始まっていた。 なによりも最大の脅威であったのは&font(b,#33ff66){「百万の軍を率いては並ぶもの無し」「国士無双」}と謳われ劉邦もそれを認めていた&font(b,#33ff66){韓信}である。その韓信を、斉王から楚王に転封させたのが、&font(b,#006400){すでに第一手であった}。 韓信の「斉王」としての王号や領土は、彼が旧斉領と旧趙領((正確には、趙王の座は部下になった張耳に譲った。張耳はその二年後に急逝する。))、旧燕領((項羽封建の燕王臧荼を降伏させ、そのまま燕王にしている。))を平定して得たものだ。彭越が自分の活動した土地を与えられたことからすると、韓信はそのまま斉王になるべきだったろう。 しかしそうすると、韓信は&font(b,#33ff66){絶大な領土と兵権を自在に振るい}、まさに献帝にとっての曹操のような存在として、&font(b,#33ff66){劉邦に圧迫を掛けるだろう}。 だからこそ、劉邦は項羽を倒して皇帝に即位した直後に、韓信を楚王に転封し、斉王として培ってきた&font(b,#006400){領土と兵権を彼から切り放した}。楚地も広大ではあるが、移されたばかりの韓信は掌握に時間がかかる。 しかもその北に&font(b,#cc6600){「梁王」彭越}が、東に&bold(){「淮南王」黥布}が置かれたことで、韓信・彭越・黥布は&font(b,#006400){互いに牽制しあうかたちとなった}。 その翌年には、「謀反の企てあり」という密告により、韓信は捕縛されてしまう。いや、もはや密告が正しいかどうかの問題ではなかった。 それでもこのときは楚王の位を剥奪して「淮陰侯」とすることで命だけは繋いだ((このことから、史書では韓信は主に「淮陰侯」と呼ばれる。なお、史記における「韓信列伝」は上述した韓王信のことで、こっちの韓信の記録は「淮陰侯列伝」にある。))が、この淮陰侯とは兵権も領土もない「列侯」である。 同じく列侯になった張良や蕭何は漢朝の枢密に参画しているが、すでに「敵」となっている韓信がそっちに引き上げられるわけが無い。 実質は長安にての[[軟禁であった>アムロ・レイ]]。 韓信はついに劉邦への&font(b,#33ff66){本格的な謀反}を考えた。鉅鹿に赴任する友人を唆して反乱を起こさせ、劉邦が討伐軍を率いて出払った隙に長安を制圧しようとしたのである。 しかし、監視下にあってそんな計画が通るほど世間は、いや権謀術数の政治の世界は甘くない。 劉邦は韓信の見立て通り主力軍を率いて討伐に向かい、韓信は予定通りクーデターを画策したものの、留守を司る蕭何と張良、それに呂后は韓信の動きをすでに察知していた。 結局、韓信は子供騙しのような手((鉅鹿の反乱が「早期に鎮圧された」とウソの伝令を走らせ、真に受けた韓信が意気消沈したところに「祝賀会を開くから参加してね」と手紙を出す。そして出てきたところを捕らえて斬った。))に引っかかって捕縛され、&font(b,#ff0000){斬首}。 さらに、韓信が唆した鉅鹿の反乱を平定した劉邦は、その帰路に&font(b,#cc6600){「梁王」彭越をも}&font(b,#ff0000){処断}。 残る「淮南王」&bold(){黥布}は「次は己の番」と悟り、&bold(){先手を打って決起}。 さすがに項羽軍団の生き残りであり、しかも項羽の兵法の継承者でもある黥布は強く、楚漢戦争時代に活躍した「荊王」劉賈を討ち取り、&bold(){劉邦に矢を命中させる}など奮戦したが、ついに力尽きて&font(b,ff0000){殺された}。 さらに、これらに前後して劉邦は、燕王&bold(){臧荼}((項羽が冊封した燕王。のち韓信に降伏。))や&bold(){韓王信}((一旦「代王」に代えてから始末しようとしたが、匈奴に逃げられている。))、趙王&bold(){張敖}((張耳の息子。なお、彼のみは劉邦の娘を娶ったために降格で済んだ。))など&font(b,#006400){数々の外様諸侯を潰していった}。 どの件も「謀反の密告」「反乱の発生」を口実としており、もはや画一化された「手口」とさえいえた。 もっとも、当時の漢王朝の政治基盤がまだ不確定であった時期、広い領土と戦力を備えた封建諸侯は、王朝の安定のためにも除かなければならない存在ではあった。 もしも彼らを除かなかったとしたなら、おそらく漢朝に背いたであろう。 いや、そもそも政治の世界で、君主は臣下が背かないことを期待するのではなく、臣下が背けないような体制を作らなければならないのだ。 **【蕭何、張良、樊噲】 さらに、外部の強大な臣下をあらかた平定した劉邦は、今度は内部における権臣の排除に乗り出した。 その兆候は韓信たちの生前からあった。 韓信が鉅鹿郡主を唆して反乱させ、自らも長安で決起しようとしたが、見抜いた蕭何に鎮圧されたときのことである。 この時、劉邦は蕭何に食禄の加増と&font(b,#006400){身辺警護の兵士をつけようとした}。 当然恩賞だと思われたが、実はその兵士は蕭何への&font(b,#006400){監視役}、そしていざという時の&font(b,#006400){暗殺役}として用意されたのである。 &font(b,#ff0000){兵権を握り軍事能力に長ける外部の諸侯}が脅威なら、&font(b,#3399cc){関中に人望があり政治手腕に長ける蕭何}も、同様に脅威だったのだ。 このとき蕭何はあえて私財から軍事費に足して、忠誠心を示したが、その後の黥布戦でも劉邦は蕭何の様子を探り続けた。 ついに蕭何は劉邦の疑いを切り抜けるために、&font(b,#3399cc){あえて「汚職」をして「告発される」ことで疑獄を受け、人民から慕われていない・さほどの政治力がない}――と劉邦の前で演じている。 もちろん、もし本当に蕭何が劉邦を蹴落として乗っ取るつもりだったのなら、彼にはいくらでもチャンスはあった。 それに、彼の人脈からすればそんな小さい汚職など、する必要もない。黙っていても銀貨が雪のように積もるのが蕭何の立場である。 劉邦もその辺はわかっていたようで、結局蕭何はすぐに釈放されたが、劉邦は少なくとも蕭何を恐れ始めたのだ。 張良も同様に疑われた。張良が擁立した韓王信を駆逐したのは、漢朝の首脳である張良が軍権を握る韓王信とつながることを警戒したためである。 それでも、蕭何や張良には警戒だけで済ませていたのだが((蕭何たちの行動も、主君を安心させ臣下の身を保つという意味ではむしろ当然の処世術である。))、劉邦が黥布戦で負傷し、死期を悟ったことで、彼の粛清プランは「&font(b,#006400){政治上の必要性}」から「&font(b,#006400){被害妄想}」へと発展してしまう。 黥布戦の翌年、臧荼の後任に燕王とした&bold(){盧綰}が「謀反の告発」を受けて、&font(b,#006400){反乱に追い込まれた}。 だがこの盧綰は韓信たち外様とは違い劉邦の幼なじみで、もとは漢朝の太尉(軍務大臣)だったように、明らかに漢朝側の人間である。 盧綰自身も謀反の気など全くなく、攻められても「陛下は病で血迷っただけで、回復すればすぐにわかって下さる」と楽観視していた。 しかし劉邦は容赦なく樊噲を指揮官として&font(b,#006400){討伐軍を派遣}。 しかもその出陣した樊噲にまで「謀反の告発」を受け、陳平を使わして&font(b,#006400){「樊噲の首を斬り、代わって討伐軍の指揮を執れ」}と命令した。 樊噲は様々な戦場で活躍した武勲赫々たる猛将であり、鴻門の会で窮地の劉邦を救うなどした側近であり、しかも呂后の妹を娶ったと言うことで劉邦とは義兄弟である。それを疑うのは((この頃は太子廃嫡を画策しており、劉邦は呂后を疎んでいた気配さえあったというのをさしひいても))異様でさえあった。 しかし、陳平は樊噲のもとに着きながらも、劉邦の命令を半ば無視して逮捕するだけで殺害せず、長安へ護送。その後盧綰を匈奴に追放して凱旋した。 実は陳平たちは劉邦がもう長くないと思っており、樊噲を殺す意味はないと見越していたのである。 果たして、その討伐軍が凱旋する前に、劉邦は呂后に後事を託して&bold(){没していた}。 **【死後】 劉邦が没したのちは、太子の劉盈が即位。これが恵帝である((劉邦は太子盈を嫌っており、廃嫡も検討していたが、群臣が必死に命がけで諫言し、更に劉盈が張良の助言を受けて長安の老賢者の輔弼を受けているのを見て諦めた。))。 さらに、劉邦の遺言通りに蕭何が、蕭何の死後は曹参が、恵帝を補佐して国政を担った。 曹参の死後はやはり劉邦の遺言通りに王陵と陳平が左右の丞相となったが、この頃から呂后が政権奪取に動き始め、恵帝の死後は呂一族が漢朝を乗っ取る形成となった。 が、呂后病死の直後に陳平・周勃などの劉邦以来の元勲たちがクーデターを起こして呂一族を殲滅。この陳平と周勃の活躍も、すべて&font(b,#006400){劉邦の遺言の通りであった}。 さらに見方を変えると、皇帝に優れた能力がなくても、いやそれどころか単なる傀儡であっても、優秀な臣下たちが王朝という組織を支えたということだ、 またこの「呂氏の乱」の間、天下はそれでも行政が上手く回り、人々は農業に励んで天下は太平であった。 皇帝の賢愚にかかわらず、法律と行政システムで国家が運営されていく形態が、劉邦死後も残り続けていたのだ。 そして続く&bold(){文帝}・&bold(){景帝}の時代には、そうした「賢君無くとも回る法治システム」がいよいよ完成し、前漢の全盛期を迎えるのである。 **【劉邦の政治スタンス】 [[陳勝]]や項梁、[[項羽]]は、戦国七雄時代や周代の封建制へと回帰しようとした。 しかし、それはかえって群雄の野心を刺激し、彼らの勢力から人を離れさせる結果となった。 すでに時代は移り変わり、[[始皇帝]]や韓非子、李斯、そして張良が説いたような、官僚を派遣して全国を統治する郡県制の時代になっていたのである。 現に、漢帝国は功臣たちを封じた異姓王国をことごとく粛清・解体。 さらには景帝の代になるが、劉邦の息子たちを封じた同姓王国さえも解体して、漢帝国は秦帝国のシステムを受け継ぐ形で中国を統治した。 この秦漢体制が、その後の統一王朝の基本的なモデルとなり、現在まで続いている。 では、劉邦本人は最初から、こうした知識・意識を持っていたのだろうか。 というと、答えは明確にノーだ。 ことは楚漢戦争、項羽と争っていたときのことである。 劉邦の幕下には&font(b,#7058a3){酈食其}(これで「れきいき」と読む)という儒者がいた。彼が&font(b,#7058a3){「旧六国の王族を、それぞれの王に立てれば、天下の人々はみな漢王さまの徳を喜び、陛下のもとに馳せ参じるでしょう。皆が力を合わせれば、項羽さえ降伏させることができます」}と説いた。 陳勝や項羽の組織が乱れたのはそうしたことをしたからである。しかし劉邦は&font(b,#006400){その意見を大いに喜び、それぞれの王に与える印璽まで作った}。 そのとき現れたのが&font(b,#f39800){張良}で、彼はこれに&font(b,#f39800){猛反発}。 劉邦には、殷の湯王や周の武王のような諸侯を制圧する実力や政治的な手腕、力量がまったく無いことを指摘した上で、 &font(b,#f39800){「六国出身者たちが劉邦さまに従うのは、功績を挙げて将来恩賞をもらうためです。項羽を倒してもいない現段階で六国を復活させたら、皆それぞれの故国に帰ってそっちで働くでしょう。だれが漢のために働きますか!} &font(b,#f39800){なにより、そうした六国が項羽のほうに回ったり、どっちつかずに転がるようになれば、あなたは誰と一緒に戦うのですか!」} と猛烈に批判((事実、陳勝がそうなっている。))。 これを聞いた劉邦は震え上がり、酈食其の進言を却下し、&font(b,#006400){用意していた印璽を破棄した}。 実のところ、張良のように封建制の限界と時代の変化を察知しているほうが、当時は少数派であった。 始皇帝時代の秦朝でさえ、丞相クラスの大臣が封建制に戻すよう訴えていたほどである。 しかしそれで陳勝の張楚が崩壊し、項羽の封建が瓦解したのだから、「凡人だからしょうがないね」といえる問題ではなかった。 しかも劉邦は異姓王国は粛清する一方で、その後釜に自分の息子たちを王として封じている。 しかし異姓王たちが背くことを恐れながら、なぜ同姓王が背かないと考えられるのか。血の繋がりは、謀反を起こさないほど強いものだろうか。当然ながらそんなわけはない((明の太祖・朱元璋は、臣下が軍権を持つことを恐れて優秀な臣下を虐殺し続けた一方、子供たちをことごとく王位に据えて軍権を握らせた。しかし太祖の死後、跡を継いだ孫の建文帝を、永楽帝(太祖の四子で建文帝の叔父)が駆逐して帝位を奪う結果となった。功臣の粛清のし過ぎで、建文帝の周辺には指揮官になれる者がほぼ残っていなかった。))。 結局、この劉邦が封じた息子たちは劉邦の死から四十年後、劉邦の孫である景帝の代に呉楚七国の乱を起こして、返り討ちにあい滅亡する。 かつて始皇帝の謀臣・李斯が封建制に反対した通り、「兄弟は一代で従兄弟、二代で又従兄弟となり、血は薄くなり、かえって争いの種を撒く」ことになったのだ((むしろ近い間柄の者に従わなくていはいけないことに反発を起こすことが多い。))。 もとより、&font(b,#006400){初期の漢朝が自前の政治力が不完全で、始皇帝のように全国の行政網を整備運用できなかった}というのが一番の理由ではあるが、劉邦が郡県制と封建制を並立させて生み出した「郡国制」は、郡県制への過渡期として消えていくことになった。 とこう書くと劉邦は政治的には凡人でしかなかったといえるが、しかし彼はちゃんと張良のいうことを&font(b,#006400){聞き}、合わない意見でも&font(b,#006400){理解でき}、政策を実現する蕭何を&font(b,#006400){支持し続けた}ということだ。 つまり劉邦は&font(#006400){やたらと我を張らずに臣下の建言を聞き}、かつ臣下の建言を&font(#006400){取捨選択して最善の形で実行できる}、&font(b,#006400){支えられるタイプの君主}としては&font(b,#ff0000){最も優良な人物だったといえる}。 生え抜きの蕭何や曹参、張良のみならず、陳平や韓信のように、項羽配下ではあまり活躍できなかったのに、劉邦のもとでは才能をフル活用できた人物も大勢いる。 むしろ、こうした人物は新参であるがために譜代の重臣に阻まれなかなか才覚を振るえないものだが、劉邦は時に韓信のような新参を、一足飛びに曹参ら譜代の上につけ、&font(b,#006400){存分に才能を開花せしめた}。 また、彼の部下には織物屋と葬儀屋の周勃、肉屋の樊噲、幼馴染の盧綰などのように、豊邑や沛県の庶民上がり、名声などとは縁遠い出身の者たちも多くいる。 劉邦の取り巻きは名が残る者たちだけでなく、もっと大勢いたはずである。その中から、見事に逸材たちを選り抜けた&font(b,#006400){「眼力」}と、それらをうまく使う&font(b,#006400){「人使い」}の能力は超人的だった。 それでいて、彼は臣下たちの傀儡だったわけでもない。 劉邦のような部下に支えられるタイプの君主は、時にその支える部下によって悲惨な目に遭うことも少なくない。 例えば、春秋の覇者として名高い&bold(){斉の桓公}が典型例であろう。 桓公本人はあまり聡明ではなかったが、大宰相・管仲を迎えて全権を委ねることで才覚を発揮させ、そのもとで「覇者」となった。 その委ねっぷりはもはや依存の域で、何を尋ねられても「仲父に聞け」としか言わなかったという話も伝わる((あんまり何にでも「仲父に聞け」としか言わないものだから、家臣から「君主とは楽でいいですね。なんでも管仲に任せてれば良いのですから」と言われると「仲父を得るまでは苦労したのだから、仲父を得てからは楽をしてもいいではないか」と答えたという。桓公は自らの意に反することでも管仲の言うことを聞き続けたが、これでは盲目的に従っていたといわれても仕方がない。))。 もちろんその結果、斉国は超大国となり桓公も覇者の名声を獲得したのだが、管仲は全権委任をいいことに己の振る舞いや格式を桓公のそれと同じものにするほどの威勢を張り、管仲一人で国家予算の半分を意のままにしたという。 管仲の場合はそれでもよく国を運営してくれたからよかった((実際、それで当時文句を言う人はいなかったという。))が、その管仲が死ぬと、桓公は三人の大臣((公子開方(衛国からの亡命貴族)・易牙(天才料理人)・豎刁(宦官)の三人の側近のことで、通称「三貴」。))に同じように全権委任したため、&bold(){病気で倒れた隙に部屋に監禁されてそのまま餓死し、腐ってウジが沸いても放置され、それが部屋を這い出してやっと埋葬される}という、無惨で悲惨な最期を迎えた。 桓公は君主として臣下の増長を止めるどころか認識も出来ず、予測してしかるべき災いに遭ったといえる((余談だが「韓非子」におけるこの辺の評価はもっと厳しい。曰く「桓公は君主として臣下の使い方も知らず、人を見る目もない。管仲も管仲で、桓公に臣下の使い方を教えずただ「三貴」を用いないことだけを説いた。政界で権力を狙う人間は数限りない。例え桓公が三貴を用いなくとも、桓公は人の使い方を知らないから、結局は災いに遭ったであろう。桓公は暗君で、桓公を導かなかった管仲も賢明とは言えない」。))。 しかし劉邦は、臣下によって殺される羽目にはついに至らなかった。 韓信や蕭何、張良ら多くの臣下たちを疑ったが、それはつまり&font(b,#006400){彼が傀儡になるつもりが無かっただけでなく、しっかりとした判断力と慎重さを併せ持った『支配者』だった}ことの何よりも証である。 むしろ、蕭何の実力と謀反の可能性を疑いながらも信じて用い続けたのは、人を使う人間として最善のあり方でさえある。 最晩年はいささか耄碌しているようではあるが、それでも己の死後、呂后が王朝乗っ取りを画策するであろうことを予期していた節がある(現に、呂后の政権乗っ取り計画を阻害したのは、彼が生前に後事を託した周勃であった)。 こうした彼の人使いの巧みさは政治・行政面のみならず、軍事面でも同様、むしろ顕著であった。 劉邦の軍人としての評価は低い。 もちろん項羽が敵というのは相手が悪すぎると言うべきである。 しかし他にも、代に移した韓王信を討伐したときにはまんまと逃げられ、自ら匈奴遠征に行った際には大敗した上に包囲されて危うく餓死しかけた。 このときは陳平の奇策で辛うじて匈奴王・&bold(){冒頓単于}の妻に渡りをつけて逃げ帰ったものの、このときの大敗で漢朝は匈奴の「弟」という立場に立ち、後の武帝の時代まで毎年の貢納を命じられてしまう。 そして最後の戦いとなった黥布戦では、項羽の兵法に則った黥布に大苦戦した挙げ句、矢の一撃を食らって後に致命傷となる傷まで負っている。 確かに秦朝を打倒し、韓信以下の名将を撃破しているが、そのほとんどは軍事力というよりは&font(b,#006400){政治で勝った}もので、戦術を駆使して鮮やかな勝利を収めるというタイプではない。 しかし張良や陳平や樊噲、韓信や彭越や黥布に代表される軍師・武将たちをうまく使い、&font(b,#006400){戦略レベルで勝ちを収めていく}ということに掛けては無類の上手さがあったと言っていい。勿論張良や陳平のサポートもあっただろうが。 戦術レベルでは最強無敵の項羽が、ついに劉邦に敗れたのは、こうした戦略レベル・政略レベルの差で追い詰められたためでもあった。 戦略の天才であった韓信は、粛清直前に&font(b,#33ff66){「陛下は将軍としては平凡ですが、}&font(b,#006400){将の将としての強さ}&font(b,#33ff66){があります。これは天授の力というものです」}と答えた。これこそが劉邦のもっとも的確な評価であろう。 そして劉邦の場合、武将たちの軍事能力を活かすのも上手ければ、&font(b,#006400){それを殺すことも上手い}のだ。 いずれも粛清対象だった韓信たち三人を王に封じたとき、劉邦は三者を巧みに隣接させた。 このため、&font(b,#006400){彼らは相互に牽制しあい、連携もできず、各個に撃破されていった}。 これについて面白いコメントを残したのが、最後に反乱した&bold(){黥布}である。 彼は反乱する直前に&bold(){「劉邦はすでに老いぼれたし、俺が恐れていた韓信と彭越も死んだ。もう俺を阻める奴はいねえ!」}と豪語した。 これこそ、黥布が彭越・韓信と&bold(){三竦みになって謀反ができなかった}という証拠であり、劉邦の真骨頂だろう。 劉邦は、&font(b,#006400){韓信・黥布・彭越らの力を団結させて項羽を倒し、韓信・黥布・彭越らの力を分散させて彼らを倒した}。 部下の能力をフルに生かして使うのみならず、巧みに均衡させて殺すことまで、劉邦は&font(b,#006400){あらゆる意味で人使いがうまかった}のだ。 その「統率力」「政治力」が、劉邦に欠ける戦術的軍事力を補ってあまりあったとも言えるだろう。 韓信は劉邦の強さを「将の将としての強さ」と評したが、彼の真骨頂は「王の王としての強さ」だったのかもしれない。 **【儒教と劉邦】 劉邦は儒者が嫌いだった。 この毛嫌いっぷりは徹底しており、&font(b,#808080){叔孫通}という儒者の前では口も利かなかった、その理由が儒者の服装が目障りだったからだ、と言う逸話が残る。((ちなみにそれを知った叔孫通は儒者の服をやめてその服を着るようになったので劉邦は喜んだという。)) ところが、その叔孫通が、劉邦に儒家の価値を教えることになった。 叔孫通はもと秦朝に仕えていた儒者で、かつ儒者たちのリーダーのような立場にあった((つまり彼の存在こそが、始皇帝の儒教弾圧が無かった証左でもある。))。 二世皇帝胡亥の暴走時期にはおべっかを言いながら逃げ延び、項梁、懐王、項羽と次々主君を代え、 劉邦が五十六万の諸侯連合を率いて、項羽の首都・彭城を落とした(そして三万の項羽軍に粉砕された)時に、劉邦に寝返っている。 劉邦配下でも儒者たちの領袖であり、劉邦にだれを推挙するのかさえ思いのままだったと言う。 さて、劉邦は天下を取ったはいいものの、本人は平凡な農民上がりで、戦場で活躍した政権の中心メンバーも素性を辿れば平民、ゴロツキ、犯罪者上がりなどが大勢いた。 その上彼らは「昔なじみ」であり、劉邦の氏素性も、項羽に追い回されていた姿までよく知っているため、急に「大漢帝国の皇帝陛下」になったからといって尊敬も遠慮もなかった。 宮中であろうと酒を飲んではクダを巻き、怒鳴りあっては剣を抜いて柱に斬りつけるといった有り様で、王朝の権威など糞食らえな[[スゴイ=シツレイがまかり通るマッポーめいた>ニンジャスレイヤー]]状況だった。 こういう状況で、叔孫通は劉邦の前に進み出る。 &font(b,#808080){「儒教は天下を取るには役に立ちませんが、守成の本領があります。儒者の培ってきた儀礼を用いれば、朝廷の秩序を定め礼儀作法を正すことができます」} &font(b,#006400){「うるせえ。俺ァ儒教だとか礼儀作法だとかは大ぇッ嫌えなんだ。仰々しくって難しいばっかりだしよウ、面倒臭くてかなわんぜ」} &font(b,#808080){「では、陛下は臣下たちの姿がよろしいものとお思いでしょうか?」} &font(b,#006400){「ぐッ……そいつはまあ、良くねえ……なんとかしてエがよゥ……」} &font(b,#808080){「お・ま・か・せ・ください! 典礼や儀式は固定化するものではなく、時代の変化にあわせて改善するものです。仰々しさや面倒さを取り除く工夫をすればよろしいのです。それは可能です」} &font(b,#006400){「ホントかぁ? そういって、何も知らねえと思って俺たちを騙そうってエんじゃねえだろうな」} &font(b,#808080){「すでに秦朝の時代から、過剰な装飾を排除しつつ荘厳である『秦儀』を開発しております。それに魯国の古典を参照すれば、きっと陛下もご満足いただけると思います」} &font(b,#006400){「よくわからんが、まあやってみろ。分かりやすくてちゃんと俺たちにも出来るモノにしろよ?」} というわけで、叔孫通は配下の儒者たちや魯国から招聘した学者たちを動員。 すでに知り尽くしている秦儀を手直しして、新しく儀典を作り直した((この時動員に応じない儒者が2人いた。彼らは「あなたは主君をコロコロ変えそれぞれに媚び諂い高い地位を得ている。今はまだ戦いが終わったばかりで死者も葬られていない。なのに本来王者が百年徳を積まなければならない礼楽を興そうとする。あなたの行いは古の道に合致しない。私達を汚さないでくれ!」と言った。それを聞いた叔孫通は「時勢を知らぬ田舎儒者だな」と笑ったという。))。 そして叔孫通につけられた儀仗役人や監察たちが入念にリハーサル。 折しも、新築した長楽宮の落成式と正月(十月)の大朝賀の式典が重なっていた。 そこで、叔孫通一派はその大式典を主宰。 旗幟や車騎、直立不動の儀仗兵が整然と立ち並ぶなかを、王侯・将軍・武関が西側へ、宰相・大臣・文官が西側へと粛々と進み、整列。 姿勢を崩したり、作法に背くものがあれば、監察官が静かに退去させる。 鬼門の宴会となっても、荒れ暮れ者の将軍たちさえ誰一人乱暴狼籍を犯さず、進み出れば皇帝陛下を畏れ敬った。 こうした姿に劉邦は大満足。 &font(b,#006400){「朕は今日まで、皇帝とはかくも尊く、玉座とはかくも座り心地が良いものだとは知らなんだ。雲の上に座っておるかのようじゃ」} と&font(b,#006400){別人のように喜び}、叔孫通を&font(b,#808080){太常、式部卿}に任命、後には&font(b,#808080){太子傅}((太子の教育係で、実権を握る職種ではないが臣下としてはトップクラスの栄誉。))まで命じるようになる。彼が推挙した儒者たちも取り立てられた。 &font(b,#808080){この時から、儒教は漢王朝に受け入れられたということである}。主に礼儀作法の方面で…… **【劉邦と司馬遷】 『史記』を製作した司馬遷は、漢帝国の官僚として成長したが、敗戦した将軍を弁護したという罪ともいえない罪で、強引に武帝によって[[去勢させられた>宦官]]。 司馬遷はその屈辱や怒りを『史記』完成のための熱意に昇華させ、「二十四史の第一」にして「最高傑作」といわれる史書を造り出すことになった。 もちろん司馬遷とて、完全な公正無私なる鉄人ではない。ある程度は好悪による修正や偏向はあった。 しかし他の史書はもっとひどいレベルでそうした偏向が入っており、それらに比べればはるかにマシなのだ。 さてその司馬遷だが、史記完成までの経緯が経緯だけに、漢帝国を絶対視したり、はびこる美談をそのまま受け入れることはできなかった。 むしろ「武帝や皇室への恨み」さえ根底にあったと言われるほどである。 そして劉邦も、ある意味で司馬遷によって被害を食った、と言える。 と言うのも、冒頭に示した通り「劉邦は父親の種ではない」とほのめかされたり、項羽や匈奴にボロクソに負けたり、耄碌して猜疑心を暴走させたり、と言った数々の情けない描写が、やたら克明に描かれている。 これは実際、なかなか書けないことだ。例えば、晋の祖・[[司馬懿]]は三国志に本紀や列伝が立てられていないが、これは晋の役人である陳寿が「恐れ多い」と言う理由と「不都合なことは書けない」と言う理由から、あえて書かなかったし、そもそも書けなかったのである。何が「非礼」とされるかわかったものではないのだ。 しかし司馬遷は、自らの所属する前漢帝国の開祖である劉邦を、はばかることなく執筆している。 しかも劉邦は、漢帝国では&font(b,#006400){絶対神聖視}されていた「&font(b,#006400){太祖高皇帝}」である。当然、漢帝国の広報では「鴻恩無量の神君」として描かれていた。 劉邦にとってはそっちの姿で残るほうが名誉だったはずである。 しかし、陳勝の瑞兆を「トリック」と切り捨て、過秦論のような始皇帝批評を「秦始皇本紀」で覆した司馬遷は、偉大なる開祖として崇め奉られていたはずの「太祖高皇帝」劉邦の実像を、見事に白日のもとに曝したのであった。 司馬遷本人はこうした数々の記述を施した『史記』を、「世に出せば確実に焚書される」と役人らしい知識から封印し、孫の代まで公表させなかったということである。 といっても、そうした数々の不徳や放言、実情全てを噛みしめても、劉邦が&font(b,#006400){類稀なる人使いの達人}であり、前後合わせて&font(b,#006400){四百年の命脈を保った王朝の開祖}として、充分&font(b,#006400){偉大な人物}であることは全く変わりがない。 むしろ、公正に見てもあれだけ立派な大皇帝だったということであろう。 **【創作界における劉邦】 項羽に比べると&font(l){小物臭くて陰険}パッとしないためか、やや地味な印象がある。 というか、圧倒的な人気を誇る項羽に比べると、&font(b,#006400){はっきり言って不人気}。 司馬遼太郎の「項羽と劉邦」のように「他人を受け入れる器」「希有な徳の持ち主」と描かれるようなこともあるが、こういうタイプのキャラクター描写は[[下手をすると主体性がなくなるために扱いづらい>劉備]]。 しかも、実際の劉邦は韓信たち重臣を利用したあとは粛清するので、「仁徳の君主」などと&font(b,#006400){簡単にくくれるような軽い人間ではない}。それがいっそう劉邦の描き難さを助長している。 おまけに司馬遼太郎の「項羽と劉邦」と言うタイトルが広まりすぎた結果、劉邦を扱った中国製映画やドラマがことごとく「項羽と劉邦」と邦訳され、劉邦がいっつも項羽の後ろに付けられるという事態になっている。 本宮ひろ志の「赤龍王」でも、項羽はどんどんハンサム顔になって描写もカッコよくなっていくのに、劉邦は小悪党の頭目顔になって行く始末。後半は描写もあまり良くない。 と言うより華々しい最期を遂げた項羽に対して、劉邦側は功臣を粛清したことが文字で書かれるだけどあまりにも扱いに差がある。 京劇などの文学方面においても、人気では項羽に大きく後れを取っている。 そもそも劉邦の正妻である&bold(){呂雉}は&bold(){「中国三大悪女」}に数えられるほどの悪名高い女傑であり、&font(b,#006400){どう考えてもメロドラマのヒーロー・ヒロインにはしにくい}。 ドロドロの昼ドラにするにはアリかもしれないが……いやいや、この場合は呂后がラスボスになる未来しか見えない…… また呂雉のことを抜きにしても、項羽は未だに日本の授業で「四面楚歌」が頻出という歴史を考えると、はっきり言って生半可なドラマでは太刀打ちしようがない。こっちには虞美人とのロマンスまであるし… こういうところも劉邦の不人気(ただしあくまで項羽に比べて)に一役買っているだろう。 コーエー三国志シリーズでは隠しキャラで登場。 魅力値が設定されている場合は&font(b,#006400){[[劉備]]をもしのぎ、最高値の100を叩き出す}。 しかしそのほかの能力は軒並み低く、&bold(){ほとんど劣化劉備}と言ったところ。魅力パラが廃止されているタイトルだと本当に超えるところが全く無い。 ただでさえ劉備自体が平凡な器用貧乏だと言うのに、その劣化版だと言うのだから目も当てられない。こんなところでも項羽と格差が…… それもこれも、&font(b,#006400){「人の使い方が上手い」と言う劉邦最大の長所}が、他ならぬ&font(b,#ff0000){プレイヤーの存在によって打ち消されてしまっている}からだろう。%%つまり劉邦最大の敵はプレイヤーだったんだよ!%% 嗟乎、追記・修正はまさにかくあるべし。 #include(テンプレ2) #right(){この項目が面白かったなら……\ポチッと/ #vote3(time=600,7) } #include(テンプレ3) #openclose(show=▷ コメント欄){ #areaedit() - 楚漢戦争の詳細は項羽が詳しいのと、あまり長いと読みにくいので省略しましたが……ご指導いただければ幸いです。 -- 作成者 (2018-04-28 09:02:41) - 確かこの韓進のエピソードが、故事『校兎死して走狗煮らる(兎を狩りつくせば、用済みになった猟犬は食べられる)』のもとになったんだよね。確か、ある文章では、ある人が韓進に、『このままじゃ劉邦に粛清されるから反乱しましょう』と薦めたけど、韓進は劉邦に義理立てしてこれを却下したんだとか。 -- 名無しさん (2018-04-28 09:48:13) - いくら政権安定のためとはいえ、功臣をそこまで粛清しすぎたら誰でも疑心暗鬼になって政情不安になっちゃうわ。彭越なんかは逆らうつもりはなかったっぽいし。 -- 名無しさん (2018-04-28 10:17:36) - この人項羽以外には勝ちまくってんのに弱い言われているのはよっぽど項羽のインパクトが強いんだろうな -- 名無しさん (2018-04-28 12:37:32) - 「狡兎死して走狗煮らる」は韓信ではなく、春秋戦国の呉国の太宰嚭(ひ)が、呉国を滅ぼそうとした越王勾践の大夫・文種に宛てた手紙が始まり。しかもこれは「敵国を滅ぼせば臣下は粛清されるから、越国は呉国を滅ぼしてはならない」という意味。韓信の場合はもう手遅れ。 -- 名無しさん (2018-04-28 18:43:56) - あとこの発言は太宰嚭ではなく范蠡とする説もある。 -- 名無しさん (2018-04-28 19:06:01) - ↑2 あれ、そうだったのか。てっきり、韓信の末路についての言葉かと思ってた。偉そうにひけらかしてしまってハズカシィ(*ノノ)教えてくれてサンクス。 -- 名無しさん (2018-04-28 19:15:31) - ↑5 そこの所は子孫の光武帝は厳しくはあったけど無茶苦茶はしていないね。 -- 名無しさん (2018-04-28 19:54:16) - 項羽と劉邦で好きになった。 -- 名無しさん (2018-04-29 15:41:45) - 赤龍王(本宮ひろ志) 若き獅子たち、史記(横山光輝) 劉邦(高橋のぼる)龍帥の翼(川原正敏) どの劉邦もクセがあっていい -- 名無しさん (2018-04-29 15:57:55) - 「あたしあんな「放っておけないわー」だけで 帝国作った奴知ってるわ」 -- 名無しさん (2018-04-30 18:02:16) - 相変わらず素晴らしい記事GJ。次は韓信かな?wikt…さておき戦国策見てると「耳に痛い意見言ってくれる人大事にしろや」「見た目だけいい奴は捨てろ」と何度も言っているのでそれがいかに大切かわかるな -- 名無しさん (2018-05-01 13:43:53) - 横山版の漫画は項羽倒したところで即終わっちゃったけど、劉邦が韓信疑ってたり「あっこれヤバいな…」ってなる描写はちょくちょくあるんだよね… -- 名無しさん (2018-05-01 16:18:42) - じゃあちょっと編集します -- 名無しさん (2018-05-23 13:11:20) - 編集終了しました -- 名無しさん (2018-05-23 15:10:04) #comment #areaedit(end) }
&font(#6495ED){登録日}:2018/04/28 Sat 09:00:00 &font(#6495ED){更新日}:&update(format=Y/m/d D H:i:s) &new3(time=24,show=NEW!,color=red) &font(#6495ED){所要時間}:約 35 分で読めます ---- &link_anchor(メニュー){▽}タグ一覧 &tags() ---- &font(b,#006400){劉邦}とは、漢帝国の初代皇帝である。 諡号は高皇帝、廟号は太祖……なのだが、一般には「&font(b,#006400){高祖}」と呼ばれることが多い。 字は「季」。 **【出生】 沛県は豊邑の出身。 史記によると、父親は「太公」、母親は「劉媼」。 劉邦は三男で、長兄に「伯(伯は字。本名不明)」、次兄に「喜(字は仲)」、弟に「交(字は游)」がいる。 ……さてさっそくだが、この短い記述、かなり問題を孕んでいる。 なにせ、両親のくだりを直訳すると『父親は「じいさん」、母親は「劉ばあさん」とよばれていました』となる。&font(l){桃太郎かなんかか。} しかも「劉」の姓が父親でなく母親に付いているのがミソで、一般には「『劉家の嫁の婆さん』で、姓も名も不明なんだ」と弁明されるが、むしろ直訳すると「劉姓は母方のもので、劉邦は&font(b,#006400){母親が不倫して産んだ子供だ}」と読み取れてしまう。 おまけに史記には「&bold(){劉媼の上に龍が乗っていた。ゆえに劉媼は劉邦(龍の子)を産んだ}」というエピソードが載っているが、&font(#a25768){余りにも生々しすぎるこの描写}は「[[間夫が乗っていた>寝取られ]]のを美談化したもの」「美談化されていた劉邦誕生エピソードを、役人として裏まで知っていた司馬遷がぶっちゃけたもの」と見られている。 もちろん劉邦の家族は全員劉姓を名乗っている。同姓同士の結婚は中国では忌避されるので、太公が劉姓であるのなら、劉媼は劉姓ではないと考えられる(上述した「劉媼」は「劉家の嫁の婆さん」という説はこのこと)。 ……が、のちに劉邦は滅ぼした[[項羽]]の一族に劉姓を賜っている((「漢の時代、項姓で生きていくのは辛いだろう」という温情溢れる、真っ当な理由ではある。)) 、つまり他人の姓を変えることを頓着しないので、ひょっとしたら&bold(){同じ理屈で一族も劉姓に変えさせたのかもしれない}。 また、劉邦の早死にした長兄は「字が伯」とだけ伝わり名前が不明だが、この伯という字は「長男」という意味しかない。 次兄・劉喜の字「仲」は「次男」、劉邦の「季」も「末っ子」という意味である((同時代の彭越も字は「仲」一字である。))。 両親の姓名や兄弟の字、その他諸々あわせて、劉邦の実家は良くも悪くも中国の一般的な庶民の家だったのだ。 ちなみに劉邦は家族のほとんどと折り合いが悪く、後述の理由で父太公や長兄の嫁からは特に嫌われていた。 この辺りの不仲は後々まで尾を引き、父と早世した長兄の遺族に対しては皇帝になってからも嫌っていた((皇帝になっても長男の遺児にはなかなか爵位を与えようとしなかった。父親の度重なる口添えでようやく爵位を与えたが称号で思い切りあてこすっている。その父親も宴会で笑い者にしている。次兄やその子供に対する厚遇とは正反対であった。))。 **【青年期】 若いころのエピソードは、史記ではなぜか断片的に記されており、前後関係が良く分からない。 劉邦は漢帝国の偉大な開祖ということで、その出生は漢帝国の内部でかなり脚色・美化されていたと思われるが、「史記」は&font(l){著者の司馬遷に漢の武帝への恨みがあったこともあり}そうした美化をかなり排除している。 さて、若いころの劉邦というのは、良く言えば「&font(b,#006400){侠客の親分}」、悪く言えば「&font(b,#006400){チンピラ}」。 家業を嫌い正業に励まず、酒と女に溺れて遊び歩く、というある種の&font(b,#006400){穀潰し、無頼漢}であった。父や兄嫁から嫌われたのはこれが原因である。まあ当然といえば当然か。 しかし一方では気っ風のいい&font(b,#006400){親分肌}でもあり、若いころから幼なじみの樊噲や盧綰をはじめとする多くの人間をまとめていた。 酒屋に行けば代金を払わずいつもツケにしていたが、劉邦が来店すると仲間たちも客として来るため、結局店の売り上げは数倍になったという。 そうした人望から話が進んだのか、沛の東の泗水の亭長(警察署長のようなもの)を務めたことがある。 そこでも仕事に励まず、逆に無頼と組んで遊び呆けた。 が、沛の役人にも劉邦のシンパがいて、特に有能で人望もあった&font(b,#3399cc){蕭何}と&font(b,#0095d9){曹参}がフォローしたために、劉邦はなんとか役人生活を過ごすことができた。当時はその蕭何や曹真たちからの評価も高くはなかったようだが、やはり人望からだろうか。 一度傷害罪を犯したが((劉邦が戯れながら剣を抜いて夏侯嬰を追いかけ夏侯嬰は笑いながら逃げながらじゃれあっていた所、偶然傷つけてしまい夏侯嬰は血まみれになってしまう。劉邦はビビって逃走。念のために書くが、この時点で二人共良い年をした大人同士である。))、傷つけられた当人である&font(b,#0095d9){夏侯嬰}が黙秘。しかも、それを別人が告発したところ、夏候嬰はそれを否定。それが偽証の罪に問われて鞭打ちの刑を受けながらも庇い通したという。 呂雉(後の&bold(){呂后})を娶ったのもこの時期で、県令の友人である富豪にハッタリをかまして気に入られたという婚活エピソードが残る。 ……が、劉邦は呂雉に家の農事をやらせて、更生しなかったらしい。 つまり相変わらず侠客をやっていたのである。 ある時、秦国の都・咸陽に労役で赴いたことがある。 しかし史記では、なぜ劉邦が労役についていたのか記されていない。 後のように、労役刑を科されて派遣された人夫たちを率いて咸陽に入り、そのまま監督役になったと思われる……&font(l){が、「不正役人」or「働かない入り婿」という理由で労役刑と相成った可能性もなくはない}。 この咸陽時代、劉邦は視察に出ていた&bold(){[[始皇帝]]}を遠目に見物した。この時劉邦は&font(b,#006400){「嗟乎、大丈夫当如此也」}――&font(b,#006400){「ああ、立派な男とはあのように成らなくてはいけないな!」}と頷き、発奮して真人間になったという((この発言は項羽が同じく始皇帝の行列を見た際に言ったとされる「奴に取って代わってやる!」と比較され、両者の性格の違いを表すとされる。))。 つまり若いころの劉邦は、まじめに勤めをこなす優等生ではなくむしろダメ人間寄りであったが、上は蕭何や曹参のような&font(b,#3399cc){勤勉な役人}から、下は&font(b,#eb6101){樊噲}・&bold(){盧綰}・&bold(){夏候嬰}のような&font(b,#3399cc){庶民・アングラ人間}まで、&font(b,#006400){多種多様かつ幅広い人間たちを、一つの集団にまとめてリーダーとしてふるまえる人間だった}のだ。 大学で言うなら、勉強は不得意であるがサークルやゼミでやたらと目立ち、行事となると引っ張っていくタイプだろうか。しかもエリートから落第寸前学生まで全員に好かれるタイプ。 実際かなり目立つほうだったらしく、様々なホラのほかに役人として被る冠を自作するなど、リーダーとしての&font(b,#006400){見栄え、男伊達}をかなり重視する性格だった。 はっきりとはしないが、後々の劉邦が披露する&font(b,#006400){人間を使うことのスキル}は、この頃から萌芽が芽生えていたといえるだろう。 **【決起、流浪、そして躍進】 始皇帝が死に、二世皇帝の座に&font(b,#8c7042){胡亥}が付くと、天下は内外から&font(b,#8c7042){急速に乱れ始めた}。 そんなときに劉邦は胡亥が増やした工事により、人夫たちを率いて咸陽に連れていくよう命じられる。 劉邦にとっては二度目の咸陽行きだが、その頃には規律も統率も乱れに乱れ、脱走者が続出。 劉邦自身も今回の咸陽行きに未来はないと判断し、浴びるように酒を飲んだ後に残った人夫らを逃し、&font(b,#006400){行くあてのない十数人を束ねるとさっさと遁走し、沼地に潜伏した}。 規模としても行動としても大変小規模だが、実質は&font(b,#006400){これが劉邦の決起だった}といえる((この頃、秦朝を象徴する白蛇を斬ったとか、頭上に帝王の雲があるので居場所がすぐわかったとかの逸話がある。が、後者は劉邦自身も嫌悪感を見せたとあるように、司馬遷もこうした逸話を眉唾モノとして書いている。))。 &bold(){[[陳勝]]}と呉広が&font(b,#d2691e){本格的に反乱を起こす}と、昔の領土を取り返そうとする旧六国の残党や、この機に旗揚げしようとする野心家が刺激されて次々と決起。 秦帝国の派遣した役人も、始皇帝というタガがなくなったことで不正・汚職に励み、ついには自立を図るようになった。 劉邦の故郷・沛の県令も、役人や兵たちを率いて決起しようとした。 しかし、その役人や住民の間にはすでに&font(b,#3399cc){劉邦シンパ}が根を張っており、彼らは県令を殺すと外にいた劉邦を迎え入れ擁立。 これにより、劉邦は「&font(b,#006400){沛公}」を名乗った((劉邦は口先だけでは「自分では維持できない。他の人を選んだほうが良い」と言ったが、これは中国の野心家が必ず口にする常套句で、三回断るまでがテンプレである。奉戴した長老たちと蕭何・曹参らがすぐに人数を集めたことなどを考えると、最初から乗っ取りを画策していた可能性が高い。))。 しかし自立した「沛公」劉邦は、さっそく故郷である豊邑を復興した魏国に奪われてしまう((どうも豊邑では劉邦を嫌う一派もかなりいたらしい。まあ上記の通りのことをやっていたので…))。 その間に陳勝は秦の名将・&font(b,#333399){章邯}に破れて&font(b,#d2691e){戦死}。自力で旧六国と張り合えない劉邦は、とりあえず陳勝残党のもとへと向かった。 この陳勝残党と接触する途上、劉邦はたまたま&font(b,#f39800){張良}の一団と接触。張良を幕下(名目は騎兵隊長)に迎え、彼の抱えていた兵たちも自軍に組み込んでいる。 この張良一味の吸収を初めとして、劉邦は&font(#006400){転戦しながら兵を吸収}していき、徐々に、しかし確実に&font(b,#006400){強大な勢力へと成長していった}。 やがて反秦連合の主導権は、楚の「懐王」を擁立して陳勝残党を滅ぼした&font(b,#954e2a){項梁}・&bold(){[[項羽]]}に握られた。 劉邦もこの時期に項梁に合流。旧韓国の出身である張良の出自を利用して「韓国の復興」という名目で項梁の支援を引き出し、一度魏国に奪われていた沛県の豊邑を奪回。 一方で張良には旧韓王族の韓成を擁立させ、旧韓国領を攻略させた。 なお、張良は封建制や旧韓国の復興にはハッキリ反対しており、韓王成は実質劉邦の同盟勢力、というより別働隊として扱われている。 かくして、この時期の劉邦は沛県と韓国の二つにまたがる大勢力の主として、&font(b,#006400){反秦連合のなかでも重きをなす存在となっていく}。 この後、劉邦は城陽・濮陽・定陶・雍丘・陳留と転戦していくが、これらは項羽と肩を並べての作戦であり、この時期すでに項梁・項羽に次ぐ名声と実力を獲得していた。 **【秦国滅亡】 しかしその陳留攻略の間に、肝心要の項梁が章邯に敗れてまさかの戦死。 それにともない、項梁の傀儡だったはずの&bold(){懐王}が主導権を奪い取るべく画策しだした。 章邯討伐・趙国救援軍を編成するに当たって、&font(b,#7058a3){宋義}を総帥に任命して項羽をその副将にし、章邯を破ればそのまま函谷関から関中に入り、秦の首都・咸陽を攻めるよう命令。 一方、劉邦には離散していた陳勝や項梁などの残党を吸収しつつ、宋義・項羽の別働隊として咸陽を攻略するよう命令した。 さらに諸将の前で&bold(){「関中に一番乗りした者を関中王とする」}と布告した。 かくして出陣した劉邦は、陳勝・項梁の残党に加えて、途上の旧六国系の兵、さらには敵である秦国の軍隊さえ吸収して、&font(b,#006400){急速に勢力を拡張}。そのまま関中盆地の南の玄関である武関に攻め込んだ。 余談だが、のちに韓信や&bold(){黥布}と共に活躍する&font(b,#cc6600){彭越}と顔を会わせたのもこの途上である。 この頃、咸陽では趙高が「[[馬鹿]]」騒ぎを起こしつつ二世皇帝胡亥を暗殺。 さらには迫り来る劉邦に密使を送り、内応を手引きするから関中を半分わけにして統治しよう、と言い出した。 しかし劉邦は「&font(#006400){おまえはなにを言っているんだ}」と黙殺。まあ趙高はこの直後、三世皇帝と言うべき秦王子嬰にブチ殺されるので関係ないが。 趙高がそんなくだらんことをしている間に、劉邦は&font(b,#006400){武関を突破}。関中に入り、&font(b,#006400){咸陽の東に進出した}。 趙高暗殺には成功したものの、すでに打つ手など無くなっていた秦王子嬰は、即位から三十五日で劉邦に降伏。 &font(b,#333399){西周時代に起源を発する秦国は、ここに滅亡した。} **【項羽との対立】 しかし秦朝を倒したからといって、即ち明るく平和な時代が訪れるわけではない。 「秦朝を倒す」という一番の大手柄を奪われた&font(b,#ff3333){項羽}が、殺意も剥き出しに驀進していた。 のちに劉邦自らも証明するのだが、功績を立てすぎた臣というのは君主にとって危険な存在となる。その作戦能力や動員力、兵たちからの信望は、そのままクーデターのための「戦力」となりうるのだ。 まして劉邦は、項羽直系の部下ではなく同僚、ある意味で同盟者に近い。対立はもはや必然であった。 このとき、劉邦軍団は二つの行動をとった。 一つは旧秦国の住民への人気取りである。そのために、まずは&font(#3399cc){住民たちへの法律を撤廃・簡略化}させて喜ばせた。いわゆる『&font(b,#3399cc){法は三章のみ}』である。((言うまでもないが、天下が定まってからはそんなことは言っておられず、もとの法治国家となっている。)) もう一つは項羽たちへの配慮だった。項羽たちに好き勝手な略奪をさせて「勝者の実感を味わってもらう」ためにも、宮殿や民家からの略奪を厳禁した((ただし一部の記述では、劉邦配下の略奪が起きたことが記されている。まあ何十万といた劉邦軍全部を監視する余裕はなかっただろう。))。もちろん、住民への人気取りの効用もある。 ただし、始皇帝が大陸を統治するに当たって収蔵し活用した&font(b,#333399){公文書・帳簿・地図などのさまざまな行政資料}だけは、&font(b,#3399cc){蕭何が必死になって運び出した}。 &font(b,#ff0000){このことが、のちの世界帝国・漢帝国の発展に大いに影響することになる。} 余談だが、この時劉邦は&font(b,#006400){「宮殿に入る!!皇帝のベッドでハーレムする!!!」}と暴走。 &font(b,#f39800){「それヤッたらなにもかもお終いでしょうが!!」}と追いかけてきた張良と樊噲から諫言のち引きずり出されていた。&font(l){劉邦ェ……}((これに限らずなのだが、劉邦は基本的に性欲に弱い男である。)) またこの頃の劉邦は、項羽と戦う気力も軍事力もないくせに函谷関を閉じて(一応)盟主である項羽を阻み、かえって刺激してしまったり、司馬の曹無傷が項羽に内通する隙を作ったりと、行動に一貫性や落ち着きが見られなかった。 悪く言うと「お上りさん」の劉邦である。空前の大帝国の首都を目の前にして、舞い上がって混乱してしまったのだろうか((それでも部下から諌められれば素直に耳を傾け、きちんと従っていた。この「諫言を聞き入れる度量」と「部下への信頼」は後に非常に強力な武器となる。))。 そうこうしている間に項羽が到着。劉邦の将来性を危惧していた謀臣の&font(b,#808080){范増}が、劉邦の殲滅を進言していた。 しかし項羽の叔父の&bold(){項伯}が、むかし張良のもとで世話になっていた恩義から劉邦を弁護。 劉邦の&font(b,#006400){歴史に残る一生懸命の命乞い}もあいまって、劉邦は辛うじて虎口を脱した。 『&bold(){鴻門の会}』である。 そして咸陽に入った項羽は劉邦たちの見立て通りに&font(b,#ff3333){破壊と暴行と略奪の限りを尽くす}と、自ら「覇王」として、活躍した&font(b,#ff3333){武将たちを「王」に封じた}。西周以来の封建システムによって、新しい王朝を開いたのである。&font(l){本人的には。} 劉邦も同様に「&font(b,#006400){漢中王}」に封ぜられた。かつて懐王が誓った約束に従えば旧秦国領の「関中王」になるべきだったが、土地が豊穣で防備にも優れる関中に入れたくなかった項羽は劉邦を当時僻地だった漢中に「左遷」させたのだった((なお、これが「左遷」の故事である。))。 これ以降、劉邦は&font(b,#006400){「漢王」}と名乗る。後の漢帝国の名称もここから始まるのであった。 &font(l){[[四百年後>三国志]]に[[漢中王を名乗った子孫>劉備]]によって[[御者の子孫>曹操]]が[[胸をぶち抜かれる>蒼天航路]]のはまた別の話。} **【楚漢戦争】 しかし項羽の封建体制は西周のそれに比べて粗雑であり、&font(b,#ff3333){彼の封建国家はあっという間に崩壊した}。具体的な話は項羽の項目を参照。 そして、劉邦も&font(b,#006400){項羽打倒のために挙兵}。 まずは四方が山脈に囲まれて防備に優れる上に、地味豊穣な関中を本拠地とするべく&font(b,#006400){北上}。 関中一帯を守るのは、かつて秦国の将軍として活躍した名将・&font(b,#333399){章邯}含む「三秦」だったが、彼らは項羽に降伏した直後に、率いていた数十万の兵士を項羽に皆殺しにされていた。 関中の住民たちは、自分たちの子弟を駆り出しながらむざむざ皆殺しにさせた章邯((正確には章邯が率いたのは「驪山陵で労役に服していた囚人たち」であって、関中の人民ではない。が、何度か援軍が出されているので、その兵源が関中の子弟だったのだろう。))たちも、関中で乱暴狼籍の限りを尽くした項羽も嫌っており、逆に恩徳を施した劉邦の帰還を待望していた。 そのため、住民たちは劉邦の進出をサポート。逆に、あらゆる面でサボタージュや抵抗を受けた章邯は、名将としての素質や経験を何一つ活かせないまま敗退。そのまま孤立し、天下の流れから離れたところで寂しい最期を迎えた。((三秦の残る司馬欣・董翳は降伏。)) こうして&font(b,#006400){盤石な本拠地を得た劉邦}は、&font(b,#3399cc){関中の統治と後方支援を蕭何に任せる}と軍を率いて項羽に抵抗。楚漢戦争の幕が上がった。 しかし項羽は、戦場においては&font(b,#ff3333){圧倒的な強さ}を誇っており、その猛攻を前に劉邦は&font(b,#006400){幾度と無く敗退を続けた}。 五十六万の大軍で首都まで落としながら壊滅したり、子供を捨てて逃げようとしたり、親父や嫁を捕えられたり、餓死しかけたり、部下を生け贄にして逃げたり、&font(b,#33ff66){韓信}から兵を強奪したり、果ては項羽自らの矢を食らって死線をさまよったりと、ほとんど&font(b,#006400){連敗}のような体たらくだった。 だが、どれだけ敗れても劉邦の本拠地・関中は無傷であり、敗北のたびに&font(b,#3399cc){蕭何が将兵と糧秣を補充してくれた}ために、劉邦は[[何度でも蘇ることができた>ムスカ]])。 さらに、劉邦が抜擢した&font(b,#33ff66){韓信}たち別働隊が項羽の&font(b,#33ff66){勢力を切り崩し}、同盟を組んだ&font(b,#cc6600){彭越}などが項羽の&font(b,#cc6600){後方を攪乱}。 張良や陳平といった謀臣たちの謀略も加わり、項羽の勢力をありとあらゆる面で消耗させていった。 そして、ついに垓下の地で&font(b,#006400){項羽を包囲し、軍勢を大破}。 脱出した項羽を、その逃亡先の烏江で追いつめ、&font(b,#ff3333){壮絶な自殺}に追い込んだ。 &font(b,#006400){最大の強敵を滅ぼした}劉邦は、残る&font(b,#006400){抵抗勢力も併合}して、ついに漢の皇帝となった。 &font(b,#ff0000){統一王朝「漢帝国」ができあがったのである。} **【危うい治世】 しかし、天下を取ってそのまま平和になるというのは幻想である。 天下人が一人だけであることで世界が平和になるなら、胡亥の天下は乱れないし、項羽は滅びなかっただろうし、晋朝は[[あんなこと>五胡十六国時代]]にはならない。 劉邦が皇帝になったからといって、漢がすぐさま安定したわけではなかった。 劉邦が皇帝に即位した直後、群臣たちが輪になって話し合っているのを劉邦は見た。 あとで劉邦は張良に&font(#006400){「あいつら、なにをヒソヒソしてるんだろうな」}と訊くと、張良は&font(b,#f39800){「そりゃあ謀反の企みでしょう。決まっています」}とバッサリ答えた。 &font(b,#006400){「ええっ!?せっかく天下が治まったのになんで!?」} &font(b,#f39800){「そんなこと関係ないでしょう。彼らは働いた分の報酬が貰えるかどうか不安なんです。いやそれどころか、陛下がケチって臣下たちを粛清しにかかると疑っているのです」} &font(b,#006400){「ソソソ、ソンナコト考エテ[[ナイアルヨ>ないアル修羅(北斗の拳)]]……」}(震え) &font(b,#f39800){「[[あるのかないのかどっちなんだ>ケンシロウ(北斗の拳)]]……まあとにかく処置はせねばいけません」} というわけで、劉邦と張良は臣下たちの反乱を防ぐべく様々な手を打つことになる。 昔、劉邦を裏切ったが出戻った雍歯を真っ先に諸侯に封じて、臣下たちを「粛清するつもりはない」と安心させる一方、群臣の会議で「天下取りで一番の功績者は誰か」を論じるなどして牽制。 このとき劉邦は&font(b,#006400){「帷幄のなかで謀を巡らすには}&font(b,#f39800){張良}&font(b,#006400){が、兵站を確保して糧道を巡らすことでは}&font(b,#3399cc){蕭何}&font(b,#006400){が、百万の軍を率いて戦うことには}&font(b,#33ff66){韓信}&font(b,#006400){が、それぞれ最高の天才であった」}として、この三人を「建国の三傑」とした。 また、後日には蕭何には兵站確保や行政の功績のみならず、一族から多くの人数を戦場に送り出したことを以って&font(b,#3399cc){軍事の功績もある}として、&font(b,#006400){「建国第一の功労者」}と評している。 逆に言うと、蕭何でさえ報奨の食邑は一万戸であり、&font(b,#006400){「蕭何ほどの功績もない連中が、やたら高望みをするな」}という意図もあったであろう。 そうして時間稼ぎと不満の沈静化を図る一方、功臣たちへの報奨として、領土を与える「封建」を開始。 真っ先に「三傑」の一人&font(b,#33ff66){韓信}を、戦時中に任命した「&font(b,#33ff66){斉王}」の座から「&font(b,#33ff66){楚王}」に移して、即日赴任させた。 これは、項羽の出身地であり残党も多い楚地を治めるのは、楚の出身で事情にも詳しい韓信が適任であることと、項羽によって殺された楚の義帝(懐王)の跡を継がせるという口実があった。 さらに、韓信と同じく劉邦の別働隊として項羽を破った&font(b,#cc6600){彭越}を「&font(b,#cc6600){梁王}((「梁」とはこの場合旧魏国のこと。魏国は戦国後期に首都を「大梁」に移したため国号を「梁」とも呼ばれた。))」に、項羽の降将で活躍した&bold(){黥布}を「&bold(){淮南王}」にした。 彭越に梁(魏)の地を与えたのは、項羽戦で彼が活躍したのがその辺りだったからだ。 黥布を淮南王としたのは、淮南の都が彼が項羽に「九江王」に封じられたときの都「六」だったからで、戦功を持って彼に旧領を回復させたのである。 そのほか、&bold(){韓王信}((張良が擁立した韓王成が項羽に殺された後、張良が立て直した韓王。やはり「韓信」と呼ばれるが、楚王韓信とは別人。))を正式に韓王したのを筆頭として、活躍した武将を各々冊封した。 一方、張良や蕭何、曹参や樊噲を筆頭とする側近たちも、それぞれ「列侯」に封じられた。彼らの場合は封建領主ではなく、漢朝政府の大臣・官僚として迎えられたのである。 そして、洛陽を引き払って旧秦都・咸陽に遷都して長安と名を変えた劉邦は、さらに新政府の体制固めに着手。 &font(b,#3399cc){丞相に任命した蕭何}を中心として、張良や旧秦の賢人・召平らの知恵を駆りつつ懸命に漢帝国を軌道に乗せようとした。 ……と、こう書くといかにも明るい未来が開けたかに見える。 しかし、いつの時代でも権力とは魔物であり、政治は権謀術数の舞台である。 たとえ政府を作ったところで、それだけで平和が訪れるわけはない。 &bold(){体制を固めるためには、体制を乱す存在を排除しなければならないのだ。} 劉邦は天下を取ったが、軍人としての能力はそう高くはない。当然韓信には及ぶべくもない。 蕭何のような行政能力や兵士の動員力もない。政治感覚でも張良には及ばない。 さらに、その出自から見ても自前の政治力はそう大きいものではない。 つまり、例えば後代の&bold(){ [[曹操]]}や&bold(){ [[司馬懿]]}のような「軍事力もあり、領土もあり、実績もある軍閥将軍」が本気で劉邦に抵抗し、王朝乗っ取りを画策すれば、劉邦はひとたまりもない――ということだ。 さらに、もともと臣下は「君主の為に」仕えるわけではない。この君主に付いて戦えば、勝利して大きな見返りが来るはずだと思って従うのだ。つまり「自分のために」仕えるのである。 しかも利害というものは常に増幅していく。主君が下す恩賞は、たいていの場合、臣下にとっては「少なすぎる。おれたちの活躍からすると、もっと多くていいはずだ」という思いに至る((もちろん、主君にとっては「何を高望みしやがる、お前の功績ではこれでも多いぐらいだ」となる。))。 しかも封建制――功臣に領土を「褒賞」として分配する方法だと、その褒賞がそのまま軍事力、政治力、経済力となり、「もっと多くぶん取ろう」「国ごとぶん取ろう」と考えたときに、強力な「戦力」となる。 項羽の覇権があっという間に滅んだのは、まさにそれが原因である。 もちろん、君主の側とて皆の傀儡になるために帝王になるわけではない。 ましてや、乗っ取られるために王になるわけではない。自分の王朝を息子に継がせ、末長く残したいと願うからこそ、王になるのだ。 歴史上、建国の功臣で粛清される者((南宋の岳飛、明の李善長・胡惟庸など。))や、逆に主君を逐う者((隋の文帝楊堅、北宋の太祖趙匡胤など。))が少なくないのは、こうした君主と臣下の避けがたい相克が原因であった。 &bold(){[[始皇帝]]}や&bold(){[[光武帝>劉秀]]}のように粛清しなかった例もあるが、彼らの場合は比較的初期から自前の政治力を確立していて強力な臣下を恐れる必要が無く、また功臣への褒賞もあえて少なくしていたために、争う必要性が無かったためである。 しかし劉邦には、始皇帝や光武帝ほどの政治力もない。 後漢の献帝は曹操一族に国を奪われ、曹魏は司馬懿一族に乗っ取られた。 では、劉邦にとっての曹操、司馬懿はだれだったろうか。「軍事力もあり、領土もあり、実績もある軍閥将軍」は。 **【韓信、彭越、黥布】 実は、すでにそうした「功臣」たちへの粛清の準備は始まっていた。 なによりも最大の脅威であったのは&font(b,#33ff66){「百万の軍を率いては並ぶもの無し」「国士無双」}と謳われ劉邦もそれを認めていた&font(b,#33ff66){韓信}である。その韓信を、斉王から楚王に転封させたのが、&font(b,#006400){すでに第一手であった}。 韓信の「斉王」としての王号や領土は、彼が旧斉領と旧趙領((正確には、趙王の座は部下になった張耳に譲った。張耳はその二年後に急逝する。))、旧燕領((項羽封建の燕王臧荼を降伏させ、そのまま燕王にしている。))を平定して得たものだ。彭越が自分の活動した土地を与えられたことからすると、韓信はそのまま斉王になるべきだったろう。 しかしそうすると、韓信は&font(b,#33ff66){絶大な領土と兵権を自在に振るい}、まさに献帝にとっての曹操のような存在として、&font(b,#33ff66){劉邦に圧迫を掛けるだろう}。 だからこそ、劉邦は項羽を倒して皇帝に即位した直後に、韓信を楚王に転封し、斉王として培ってきた&font(b,#006400){領土と兵権を彼から切り放した}。楚地も広大ではあるが、移されたばかりの韓信は掌握に時間がかかる。 しかもその北に&font(b,#cc6600){「梁王」彭越}が、東に&bold(){「淮南王」黥布}が置かれたことで、韓信・彭越・黥布は&font(b,#006400){互いに牽制しあうかたちとなった}。 その翌年には、「謀反の企てあり」という密告により、韓信は捕縛されてしまう。いや、もはや密告が正しいかどうかの問題ではなかった。 それでもこのときは楚王の位を剥奪して「淮陰侯」とすることで命だけは繋いだ((このことから、史書では韓信は主に「淮陰侯」と呼ばれる。なお、史記における「韓信列伝」は上述した韓王信のことで、こっちの韓信の記録は「淮陰侯列伝」にある。))が、この淮陰侯とは兵権も領土もない「列侯」である。 同じく列侯になった張良や蕭何は漢朝の枢密に参画しているが、すでに「敵」となっている韓信がそっちに引き上げられるわけが無い。 実質は長安にての[[軟禁であった>アムロ・レイ]]。 韓信はついに劉邦への&font(b,#33ff66){本格的な謀反}を考えた。鉅鹿に赴任する友人を唆して反乱を起こさせ、劉邦が討伐軍を率いて出払った隙に長安を制圧しようとしたのである。 しかし、監視下にあってそんな計画が通るほど世間は、いや権謀術数の政治の世界は甘くない。 劉邦は韓信の見立て通り主力軍を率いて討伐に向かい、韓信は予定通りクーデターを画策したものの、留守を司る蕭何と張良、それに呂后は韓信の動きをすでに察知していた。 結局、韓信は子供騙しのような手((鉅鹿の反乱が「早期に鎮圧された」とウソの伝令を走らせ、真に受けた韓信が意気消沈したところに「祝賀会を開くから参加してね」と手紙を出す。そして出てきたところを捕らえて斬った。))に引っかかって捕縛され、&font(b,#ff0000){斬首}。 さらに、韓信が唆した鉅鹿の反乱を平定した劉邦は、その帰路に&font(b,#cc6600){「梁王」彭越をも}&font(b,#ff0000){処断}。 残る「淮南王」&bold(){黥布}は「次は己の番」と悟り、&bold(){先手を打って決起}。 さすがに項羽軍団の生き残りであり、しかも項羽の兵法の継承者でもある黥布は強く、楚漢戦争時代に活躍した「荊王」劉賈を討ち取り、&bold(){劉邦に矢を命中させる}など奮戦したが、ついに力尽きて&font(b,ff0000){殺された}。 さらに、これらに前後して劉邦は、燕王&bold(){臧荼}((項羽が冊封した燕王。のち韓信に降伏。))や&bold(){韓王信}((一旦「代王」に代えてから始末しようとしたが、匈奴に逃げられている。))、趙王&bold(){張敖}((張耳の息子。なお、彼のみは劉邦の娘を娶ったために降格で済んだ。))など&font(b,#006400){数々の外様諸侯を潰していった}。 どの件も「謀反の密告」「反乱の発生」を口実としており、もはや画一化された「手口」とさえいえた。 もっとも、当時の漢王朝の政治基盤がまだ不確定であった時期、広い領土と戦力を備えた封建諸侯は、王朝の安定のためにも除かなければならない存在ではあった。 もしも彼らを除かなかったとしたなら、おそらく漢朝に背いたであろう。 いや、そもそも政治の世界で、君主は臣下が背かないことを期待するのではなく、臣下が背けないような体制を作らなければならないのだ。 **【蕭何、張良、樊噲】 さらに、外部の強大な臣下をあらかた平定した劉邦は、今度は内部における権臣の排除に乗り出した。 その兆候は韓信たちの生前からあった。 韓信が鉅鹿郡主を唆して反乱させ、自らも長安で決起しようとしたが、見抜いた蕭何に鎮圧されたときのことである。 この時、劉邦は蕭何に食禄の加増と&font(b,#006400){身辺警護の兵士をつけようとした}。 当然恩賞だと思われたが、実はその兵士は蕭何への&font(b,#006400){監視役}、そしていざという時の&font(b,#006400){暗殺役}として用意されたのである。 &font(b,#ff0000){兵権を握り軍事能力に長ける外部の諸侯}が脅威なら、&font(b,#3399cc){関中に人望があり政治手腕に長ける蕭何}も、同様に脅威だったのだ。 このとき蕭何はあえて私財から軍事費に足して、忠誠心を示したが、その後の黥布戦でも劉邦は蕭何の様子を探り続けた。 ついに蕭何は劉邦の疑いを切り抜けるために、&font(b,#3399cc){あえて「汚職」をして「告発される」ことで疑獄を受け、人民から慕われていない・さほどの政治力がない}――と劉邦の前で演じている。 もちろん、もし本当に蕭何が劉邦を蹴落として乗っ取るつもりだったのなら、彼にはいくらでもチャンスはあった。 それに、彼の人脈からすればそんな小さい汚職など、する必要もない。黙っていても銀貨が雪のように積もるのが蕭何の立場である。 劉邦もその辺はわかっていたようで、結局蕭何はすぐに釈放されたが、劉邦は少なくとも蕭何を恐れ始めたのだ。 張良も同様に疑われた。張良が擁立した韓王信を駆逐したのは、漢朝の首脳である張良が軍権を握る韓王信とつながることを警戒したためである。 それでも、蕭何や張良には警戒だけで済ませていたのだが((蕭何たちの行動も、主君を安心させ臣下の身を保つという意味ではむしろ当然の処世術である。))、劉邦が黥布戦で負傷し、死期を悟ったことで、彼の粛清プランは「&font(b,#006400){政治上の必要性}」から「&font(b,#006400){被害妄想}」へと発展してしまう。 黥布戦の翌年、臧荼の後任に燕王とした&bold(){盧綰}が「謀反の告発」を受けて、&font(b,#006400){反乱に追い込まれた}。 だがこの盧綰は韓信たち外様とは違い劉邦の幼なじみで、もとは漢朝の太尉(軍務大臣)だったように、明らかに漢朝側の人間である。 盧綰自身も謀反の気など全くなく、攻められても「陛下は病で血迷っただけで、回復すればすぐにわかって下さる」と楽観視していた。 しかし劉邦は容赦なく樊噲を指揮官として&font(b,#006400){討伐軍を派遣}。 しかもその出陣した樊噲にまで「謀反の告発」を受け、陳平を使わして&font(b,#006400){「樊噲の首を斬り、代わって討伐軍の指揮を執れ」}と命令した。 樊噲は様々な戦場で活躍した武勲赫々たる猛将であり、鴻門の会で窮地の劉邦を救うなどした側近であり、しかも呂后の妹を娶ったと言うことで劉邦とは義兄弟である。それを疑うのは((この頃は太子廃嫡を画策しており、劉邦は呂后を疎んでいた気配さえあったというのをさしひいても))異様でさえあった。 しかし、陳平は樊噲のもとに着きながらも、劉邦の命令を半ば無視して逮捕するだけで殺害せず、長安へ護送。その後盧綰を匈奴に追放して凱旋した。 実は陳平たちは劉邦がもう長くないと思っており、樊噲を殺す意味はないと見越していたのである。 果たして、その討伐軍が凱旋する前に、劉邦は呂后に後事を託して&bold(){没していた}。 **【死後】 劉邦が没したのちは、太子の劉盈が即位。これが恵帝である((劉邦は太子盈を嫌っており、廃嫡も検討していたが、群臣が必死に命がけで諫言し、更に劉盈が張良の助言を受けて長安の老賢者の輔弼を受けているのを見て諦めた。))。 さらに、劉邦の遺言通りに蕭何が、蕭何の死後は曹参が、恵帝を補佐して国政を担った。 曹参の死後はやはり劉邦の遺言通りに王陵と陳平が左右の丞相となったが、この頃から呂后が政権奪取に動き始め、恵帝の死後は呂一族が漢朝を乗っ取る形成となった。 が、呂后病死の直後に陳平・周勃などの劉邦以来の元勲たちがクーデターを起こして呂一族を殲滅。この陳平と周勃の活躍も、すべて&font(b,#006400){劉邦の遺言の通りであった}。 さらに見方を変えると、皇帝に優れた能力がなくても、いやそれどころか単なる傀儡であっても、優秀な臣下たちが王朝という組織を支えたということだ、 またこの「呂氏の乱」の間、天下はそれでも行政が上手く回り、人々は農業に励んで天下は太平であった。 皇帝の賢愚にかかわらず、法律と行政システムで国家が運営されていく形態が、劉邦死後も残り続けていたのだ。 そして続く&bold(){文帝}・&bold(){景帝}の時代には、そうした「賢君無くとも回る法治システム」がいよいよ完成し、前漢の全盛期を迎えるのである。 **【劉邦の政治スタンス】 [[陳勝]]や項梁、[[項羽]]は、戦国七雄時代や周代の封建制へと回帰しようとした。 しかし、それはかえって群雄の野心を刺激し、彼らの勢力から人を離れさせる結果となった。 すでに時代は移り変わり、[[始皇帝]]や韓非子、李斯、そして張良が説いたような、官僚を派遣して全国を統治する郡県制の時代になっていたのである。 現に、漢帝国は功臣たちを封じた異姓王国をことごとく粛清・解体。 さらには景帝の代になるが、劉邦の息子たちを封じた同姓王国さえも解体して、漢帝国は秦帝国のシステムを受け継ぐ形で中国を統治した。 この秦漢体制が、その後の統一王朝の基本的なモデルとなり、現在まで続いている。 では、劉邦本人は最初から、こうした知識・意識を持っていたのだろうか。 というと、答えは明確にノーだ。 ことは楚漢戦争、項羽と争っていたときのことである。 劉邦の幕下には&font(b,#7058a3){酈食其}(これで「れきいき」と読む)という儒者がいた。彼が&font(b,#7058a3){「旧六国の王族を、それぞれの王に立てれば、天下の人々はみな漢王さまの徳を喜び、陛下のもとに馳せ参じるでしょう。皆が力を合わせれば、項羽さえ降伏させることができます」}と説いた。 陳勝や項羽の組織が乱れたのはそうしたことをしたからである。しかし劉邦は&font(b,#006400){その意見を大いに喜び、それぞれの王に与える印璽まで作った}。 そのとき現れたのが&font(b,#f39800){張良}で、彼はこれに&font(b,#f39800){猛反発}。 劉邦には、殷の湯王や周の武王のような諸侯を制圧する実力や政治的な手腕、力量がまったく無いことを指摘した上で、 &font(b,#f39800){「六国出身者たちが劉邦さまに従うのは、功績を挙げて将来恩賞をもらうためです。項羽を倒してもいない現段階で六国を復活させたら、皆それぞれの故国に帰ってそっちで働くでしょう。だれが漢のために働きますか!} &font(b,#f39800){なにより、そうした六国が項羽のほうに回ったり、どっちつかずに転がるようになれば、あなたは誰と一緒に戦うのですか!」} と猛烈に批判((事実、陳勝がそうなっている。))。 これを聞いた劉邦は震え上がり、酈食其の進言を却下し、&font(b,#006400){用意していた印璽を破棄した}。 実のところ、張良のように封建制の限界と時代の変化を察知しているほうが、当時は少数派であった。 始皇帝時代の秦朝でさえ、丞相クラスの大臣が封建制に戻すよう訴えていたほどである。 しかしそれで陳勝の張楚が崩壊し、項羽の封建が瓦解したのだから、「凡人だからしょうがないね」といえる問題ではなかった。 しかも劉邦は異姓王国は粛清する一方で、その後釜に自分の息子たちを王として封じている。 しかし異姓王たちが背くことを恐れながら、なぜ同姓王が背かないと考えられるのか。血の繋がりは、謀反を起こさないほど強いものだろうか。当然ながらそんなわけはない((明の太祖・朱元璋は、臣下が軍権を持つことを恐れて優秀な臣下を虐殺し続けた一方、子供たちをことごとく王位に据えて軍権を握らせた。しかし太祖の死後、跡を継いだ孫の建文帝を、永楽帝(太祖の四子で建文帝の叔父)が駆逐して帝位を奪う結果となった。功臣の粛清のし過ぎで、建文帝の周辺には指揮官になれる者がほぼ残っていなかった。))。 結局、この劉邦が封じた息子たちは劉邦の死から四十年後、劉邦の孫である景帝の代に呉楚七国の乱を起こして、返り討ちにあい滅亡する。 かつて始皇帝の謀臣・李斯が封建制に反対した通り、「兄弟は一代で従兄弟、二代で又従兄弟となり、血は薄くなり、かえって争いの種を撒く」ことになったのだ((むしろ近い間柄の者に従わなくていはいけないことに反発を起こすことが多い。))。 もとより、&font(b,#006400){初期の漢朝が自前の政治力が不完全で、始皇帝のように全国の行政網を整備運用できなかった}というのが一番の理由ではあるが、劉邦が郡県制と封建制を並立させて生み出した「郡国制」は、郡県制への過渡期として消えていくことになった。 とこう書くと劉邦は政治的には凡人でしかなかったといえるが、しかし彼はちゃんと張良のいうことを&font(b,#006400){聞き}、合わない意見でも&font(b,#006400){理解でき}、政策を実現する蕭何を&font(b,#006400){支持し続けた}ということだ。 つまり劉邦は&font(#006400){やたらと我を張らずに臣下の建言を聞き}、かつ臣下の建言を&font(#006400){取捨選択して最善の形で実行できる}、&font(b,#006400){支えられるタイプの君主}としては&font(b,#ff0000){最も優良な人物だったといえる}。 生え抜きの蕭何や曹参、張良のみならず、陳平や韓信のように、項羽配下ではあまり活躍できなかったのに、劉邦のもとでは才能をフル活用できた人物も大勢いる。 むしろ、こうした人物は新参であるがために譜代の重臣に阻まれなかなか才覚を振るえないものだが、劉邦は時に韓信のような新参を、一足飛びに曹参ら譜代の上につけ、&font(b,#006400){存分に才能を開花せしめた}。 また、彼の部下には織物屋と葬儀屋の周勃、肉屋の樊噲、幼馴染の盧綰などのように、豊邑や沛県の庶民上がり、名声などとは縁遠い出身の者たちも多くいる。 劉邦の取り巻きは名が残る者たちだけでなく、もっと大勢いたはずである。その中から、見事に逸材たちを選り抜けた&font(b,#006400){「眼力」}と、それらをうまく使う&font(b,#006400){「人使い」}の能力は超人的だった。 それでいて、彼は臣下たちの傀儡だったわけでもない。 劉邦のような部下に支えられるタイプの君主は、時にその支える部下によって悲惨な目に遭うことも少なくない。 例えば、春秋の覇者として名高い&bold(){斉の桓公}が典型例であろう。 桓公本人はあまり聡明ではなかったが、大宰相・管仲を迎えて全権を委ねることで才覚を発揮させ、そのもとで「覇者」となった。 その委ねっぷりはもはや依存の域で、何を尋ねられても「仲父に聞け」としか言わなかったという話も伝わる((あんまり何にでも「仲父に聞け」としか言わないものだから、家臣から「君主とは楽でいいですね。なんでも管仲に任せてれば良いのですから」と言われると「仲父を得るまでは苦労したのだから、仲父を得てからは楽をしてもいいではないか」と答えたという。桓公は自らの意に反することでも管仲の言うことを聞き続けたが、これでは盲目的に従っていたといわれても仕方がない。))。 もちろんその結果、斉国は超大国となり桓公も覇者の名声を獲得したのだが、管仲は全権委任をいいことに己の振る舞いや格式を桓公のそれと同じものにするほどの威勢を張り、管仲一人で国家予算の半分を意のままにしたという。 管仲の場合はそれでもよく国を運営してくれたからよかった((実際、それで当時文句を言う人はいなかったという。))が、その管仲が死ぬと、桓公は三人の大臣((公子開方(衛国からの亡命貴族)・易牙(天才料理人)・豎刁(宦官)の三人の側近のことで、通称「三貴」。))に同じように全権委任したため、&bold(){病気で倒れた隙に部屋に監禁されてそのまま餓死し、腐ってウジが沸いても放置され、それが部屋を這い出してやっと埋葬される}という、無惨で悲惨な最期を迎えた。 桓公は君主として臣下の増長を止めるどころか認識も出来ず、予測してしかるべき災いに遭ったといえる((余談だが「韓非子」におけるこの辺の評価はもっと厳しい。曰く「桓公は君主として臣下の使い方も知らず、人を見る目もない。管仲も管仲で、桓公に臣下の使い方を教えずただ「三貴」を用いないことだけを説いた。政界で権力を狙う人間は数限りない。例え桓公が三貴を用いなくとも、桓公は人の使い方を知らないから、結局は災いに遭ったであろう。桓公は暗君で、桓公を導かなかった管仲も賢明とは言えない」。))。 しかし劉邦は、臣下によって殺される羽目にはついに至らなかった。 韓信や蕭何、張良ら多くの臣下たちを疑ったが、それはつまり&font(b,#006400){彼が傀儡になるつもりが無かっただけでなく、しっかりとした判断力と慎重さを併せ持った『支配者』だった}ことの何よりも証である。 むしろ、蕭何の実力と謀反の可能性を疑いながらも信じて用い続けたのは、人を使う人間として最善のあり方でさえある。 最晩年はいささか耄碌しているようではあるが、それでも己の死後、呂后が王朝乗っ取りを画策するであろうことを予期していた節がある(現に、呂后の政権乗っ取り計画を阻害したのは、彼が生前に後事を託した周勃であった)。 こうした彼の人使いの巧みさは政治・行政面のみならず、軍事面でも同様、むしろ顕著であった。 劉邦の軍人としての評価は低い。 もちろん項羽が敵というのは相手が悪すぎると言うべきである。 しかし他にも、代に移した韓王信を討伐したときにはまんまと逃げられ、自ら匈奴遠征に行った際には大敗した上に包囲されて危うく餓死しかけた。 このときは陳平の奇策で辛うじて匈奴王・&bold(){冒頓単于}の妻に渡りをつけて逃げ帰ったものの、このときの大敗で漢朝は匈奴の「弟」という立場に立ち、後の武帝の時代まで毎年の貢納を命じられてしまう。 そして最後の戦いとなった黥布戦では、項羽の兵法に則った黥布に大苦戦した挙げ句、矢の一撃を食らって後に致命傷となる傷まで負っている。 確かに秦朝を打倒し、韓信以下の名将を撃破しているが、そのほとんどは軍事力というよりは&font(b,#006400){政治で勝った}もので、戦術を駆使して鮮やかな勝利を収めるというタイプではない。 しかし張良や陳平や樊噲、韓信や彭越や黥布に代表される軍師・武将たちをうまく使い、&font(b,#006400){戦略レベルで勝ちを収めていく}ということに掛けては無類の上手さがあったと言っていい。勿論張良や陳平のサポートもあっただろうが。 戦術レベルでは最強無敵の項羽が、ついに劉邦に敗れたのは、こうした戦略レベル・政略レベルの差で追い詰められたためでもあった。 戦略の天才であった韓信は、粛清直前に&font(b,#33ff66){「陛下は将軍としては平凡ですが、}&font(b,#006400){将の将としての強さ}&font(b,#33ff66){があります。これは天授の力というものです」}と答えた。これこそが劉邦のもっとも的確な評価であろう。 そして劉邦の場合、武将たちの軍事能力を活かすのも上手ければ、&font(b,#006400){それを殺すことも上手い}のだ。 いずれも粛清対象だった韓信たち三人を王に封じたとき、劉邦は三者を巧みに隣接させた。 このため、&font(b,#006400){彼らは相互に牽制しあい、連携もできず、各個に撃破されていった}。 これについて面白いコメントを残したのが、最後に反乱した&bold(){黥布}である。 彼は反乱する直前に&bold(){「劉邦はすでに老いぼれたし、俺が恐れていた韓信と彭越も死んだ。もう俺を阻める奴はいねえ!」}と豪語した。 これこそ、黥布が彭越・韓信と&bold(){三竦みになって謀反ができなかった}という証拠であり、劉邦の真骨頂だろう。 劉邦は、&font(b,#006400){韓信・黥布・彭越らの力を団結させて項羽を倒し、韓信・黥布・彭越らの力を分散させて彼らを倒した}。 部下の能力をフルに生かして使うのみならず、巧みに均衡させて殺すことまで、劉邦は&font(b,#006400){あらゆる意味で人使いがうまかった}のだ。 その「統率力」「政治力」が、劉邦に欠ける戦術的軍事力を補ってあまりあったとも言えるだろう。 韓信は劉邦の強さを「将の将としての強さ」と評したが、彼の真骨頂は「王の王としての強さ」だったのかもしれない。 **【儒教と劉邦】 劉邦は儒者が嫌いだった。 この毛嫌いっぷりは徹底しており、&font(b,#808080){叔孫通}という儒者の前では口も利かなかった、その理由が儒者の服装が目障りだったからだ、と言う逸話が残る。((ちなみにそれを知った叔孫通は儒者の服をやめてその服を着るようになったので劉邦は喜んだという。)) ところが、その叔孫通が、劉邦に儒家の価値を教えることになった。 叔孫通はもと秦朝に仕えていた儒者で、かつ儒者たちのリーダーのような立場にあった((つまり彼の存在こそが、始皇帝の儒教弾圧が無かった証左でもある。))。 二世皇帝胡亥の暴走時期にはおべっかを言いながら逃げ延び、項梁、懐王、項羽と次々主君を代え、 劉邦が五十六万の諸侯連合を率いて、項羽の首都・彭城を落とした(そして三万の項羽軍に粉砕された)時に、劉邦に寝返っている。 劉邦配下でも儒者たちの領袖であり、劉邦にだれを推挙するのかさえ思いのままだったと言う。 さて、劉邦は天下を取ったはいいものの、本人は平凡な農民上がりで、戦場で活躍した政権の中心メンバーも素性を辿れば平民、ゴロツキ、犯罪者上がりなどが大勢いた。 その上彼らは「昔なじみ」であり、劉邦の氏素性も、項羽に追い回されていた姿までよく知っているため、急に「大漢帝国の皇帝陛下」になったからといって尊敬も遠慮もなかった。 宮中であろうと酒を飲んではクダを巻き、怒鳴りあっては剣を抜いて柱に斬りつけるといった有り様で、王朝の権威など糞食らえな[[スゴイ=シツレイがまかり通るマッポーめいた>ニンジャスレイヤー]]状況だった。 こういう状況で、叔孫通は劉邦の前に進み出る。 &font(b,#808080){「儒教は天下を取るには役に立ちませんが、守成の本領があります。儒者の培ってきた儀礼を用いれば、朝廷の秩序を定め礼儀作法を正すことができます」} &font(b,#006400){「うるせえ。俺ァ儒教だとか礼儀作法だとかは大ぇッ嫌えなんだ。仰々しくって難しいばっかりだしよウ、面倒臭くてかなわんぜ」} &font(b,#808080){「では、陛下は臣下たちの姿がよろしいものとお思いでしょうか?」} &font(b,#006400){「ぐッ……そいつはまあ、良くねえ……なんとかしてエがよゥ……」} &font(b,#808080){「お・ま・か・せ・ください! 典礼や儀式は固定化するものではなく、時代の変化にあわせて改善するものです。仰々しさや面倒さを取り除く工夫をすればよろしいのです。それは可能です」} &font(b,#006400){「ホントかぁ? そういって、何も知らねえと思って俺たちを騙そうってエんじゃねえだろうな」} &font(b,#808080){「すでに秦朝の時代から、過剰な装飾を排除しつつ荘厳である『秦儀』を開発しております。それに魯国の古典を参照すれば、きっと陛下もご満足いただけると思います」} &font(b,#006400){「よくわからんが、まあやってみろ。分かりやすくてちゃんと俺たちにも出来るモノにしろよ?」} というわけで、叔孫通は配下の儒者たちや魯国から招聘した学者たちを動員。 すでに知り尽くしている秦儀を手直しして、新しく儀典を作り直した((この時動員に応じない儒者が2人いた。彼らは「あなたは主君をコロコロ変えそれぞれに媚び諂い高い地位を得ている。今はまだ戦いが終わったばかりで死者も葬られていない。なのに本来王者が百年徳を積まなければならない礼楽を興そうとする。あなたの行いは古の道に合致しない。私達を汚さないでくれ!」と言った。それを聞いた叔孫通は「時勢を知らぬ田舎儒者だな」と笑ったという。))。 そして叔孫通につけられた儀仗役人や監察たちが入念にリハーサル。 折しも、新築した長楽宮の落成式と正月(十月)の大朝賀の式典が重なっていた。 そこで、叔孫通一派はその大式典を主宰。 旗幟や車騎、直立不動の儀仗兵が整然と立ち並ぶなかを、王侯・将軍・武関が西側へ、宰相・大臣・文官が西側へと粛々と進み、整列。 姿勢を崩したり、作法に背くものがあれば、監察官が静かに退去させる。 鬼門の宴会となっても、荒れ暮れ者の将軍たちさえ誰一人乱暴狼籍を犯さず、進み出れば皇帝陛下を畏れ敬った。 こうした姿に劉邦は大満足。 &font(b,#006400){「朕は今日まで、皇帝とはかくも尊く、玉座とはかくも座り心地が良いものだとは知らなんだ。雲の上に座っておるかのようじゃ」} と&font(b,#006400){別人のように喜び}、叔孫通を&font(b,#808080){太常、式部卿}に任命、後には&font(b,#808080){太子傅}((太子の教育係で、実権を握る職種ではないが臣下としてはトップクラスの栄誉。))まで命じるようになる。彼が推挙した儒者たちも取り立てられた。 &font(b,#808080){この時から、儒教は漢王朝に受け入れられたということである}。主に礼儀作法の方面で…… **【劉邦と司馬遷】 『史記』を製作した司馬遷は、漢帝国の官僚として成長したが、敗戦した将軍を弁護したという罪ともいえない罪で、強引に武帝によって[[去勢させられた>宦官]]。 司馬遷はその屈辱や怒りを『史記』完成のための熱意に昇華させ、「二十四史の第一」にして「最高傑作」といわれる史書を造り出すことになった。 もちろん司馬遷とて、完全な公正無私なる鉄人ではない。ある程度は好悪による修正や偏向はあった。 しかし他の史書はもっとひどいレベルでそうした偏向が入っており、それらに比べればはるかにマシなのだ。 さてその司馬遷だが、史記完成までの経緯が経緯だけに、漢帝国を絶対視したり、はびこる美談をそのまま受け入れることはできなかった。 むしろ「武帝や皇室への恨み」さえ根底にあったと言われるほどである。 そして劉邦も、ある意味で司馬遷によって被害を食った、と言える。 と言うのも、冒頭に示した通り「劉邦は父親の種ではない」とほのめかされたり、項羽や匈奴にボロクソに負けたり、耄碌して猜疑心を暴走させたり、と言った数々の情けない描写が、やたら克明に描かれている。 これは実際、なかなか書けないことだ。例えば、晋の祖・[[司馬懿]]は三国志に本紀や列伝が立てられていないが、これは晋の役人である陳寿が「恐れ多い」と言う理由と「不都合なことは書けない」と言う理由から、あえて書かなかったし、そもそも書けなかったのである。何が「非礼」とされるかわかったものではないのだ。 しかし司馬遷は、自らの所属する前漢帝国の開祖である劉邦を、はばかることなく執筆している。 しかも劉邦は、漢帝国では&font(b,#006400){絶対神聖視}されていた「&font(b,#006400){太祖高皇帝}」である。当然、漢帝国の広報では「鴻恩無量の神君」として描かれていた。 劉邦にとってはそっちの姿で残るほうが名誉だったはずである。 しかし、陳勝の瑞兆を「トリック」と切り捨て、過秦論のような始皇帝批評を「秦始皇本紀」で覆した司馬遷は、偉大なる開祖として崇め奉られていたはずの「太祖高皇帝」劉邦の実像を、見事に白日のもとに曝したのであった。 司馬遷本人はこうした数々の記述を施した『史記』を、「世に出せば確実に焚書される」と役人らしい知識から封印し、孫の代まで公表させなかったということである。 といっても、そうした数々の不徳や放言、実情全てを噛みしめても、劉邦が&font(b,#006400){類稀なる人使いの達人}であり、前後合わせて&font(b,#006400){四百年の命脈を保った王朝の開祖}として、充分&font(b,#006400){偉大な人物}であることは全く変わりがない。 むしろ、公正に見てもあれだけ立派な大皇帝だったということであろう。 **【創作界における劉邦】 項羽に比べると&font(l){小物臭くて陰険}パッとしないためか、やや地味な印象がある。 というか、圧倒的な人気を誇る項羽に比べると、&font(b,#006400){はっきり言って不人気}。 司馬遼太郎の「項羽と劉邦」のように「他人を受け入れる器」「希有な徳の持ち主」と描かれるようなこともあるが、こういうタイプのキャラクター描写は[[下手をすると主体性がなくなるために扱いづらい>劉備]]。 しかも、実際の劉邦は韓信たち重臣を利用したあとは粛清するので、「仁徳の君主」などと&font(b,#006400){簡単にくくれるような軽い人間ではない}。それがいっそう劉邦の描き難さを助長している。 おまけに司馬遼太郎の「項羽と劉邦」と言うタイトルが広まりすぎた結果、劉邦を扱った中国製映画やドラマがことごとく「項羽と劉邦」と邦訳され、劉邦がいっつも項羽の後ろに付けられるという事態になっている。 本宮ひろ志の「赤龍王」でも、項羽はどんどんハンサム顔になって描写もカッコよくなっていくのに、劉邦は小悪党の頭目顔になって行く始末。後半は描写もあまり良くない。 と言うより華々しい最期を遂げた項羽に対して、劉邦側は功臣を粛清したことが文字で書かれるだけどあまりにも扱いに差がある。 京劇などの文学方面においても、人気では項羽に大きく後れを取っている。 そもそも劉邦の正妻である&bold(){呂雉}は&bold(){「中国三大悪女」}に数えられるほどの悪名高い女傑であり、&font(b,#006400){どう考えてもメロドラマのヒーロー・ヒロインにはしにくい}。 ドロドロの昼ドラにするにはアリかもしれないが……いやいや、この場合は呂后がラスボスになる未来しか見えない…… また呂雉のことを抜きにしても、項羽は未だに日本の授業で「四面楚歌」が頻出という歴史を考えると、はっきり言って生半可なドラマでは太刀打ちしようがない。こっちには虞美人とのロマンスまであるし… こういうところも劉邦の不人気(ただしあくまで項羽に比べて)に一役買っているだろう。 コーエー三国志シリーズでは隠しキャラで登場。 魅力値が設定されている場合は&font(b,#006400){[[劉備]]をもしのぎ、最高値の100を叩き出す}。 しかしそのほかの能力は軒並み低く、&bold(){ほとんど劣化劉備}と言ったところ。魅力パラが廃止されているタイトルだと本当に超えるところが全く無い。 ただでさえ劉備自体が平凡な器用貧乏だと言うのに、その劣化版だと言うのだから目も当てられない。こんなところでも項羽と格差が…… それもこれも、&font(b,#006400){「人の使い方が上手い」と言う劉邦最大の長所}が、他ならぬ&font(b,#ff0000){プレイヤーの存在によって打ち消されてしまっている}からだろう。%%つまり劉邦最大の敵はプレイヤーだったんだよ!%% 嗟乎、追記・修正はまさにかくあるべし。 #include(テンプレ2) #right(){この項目が面白かったなら……\ポチッと/ #vote3(time=600,7) } #include(テンプレ3) #openclose(show=▷ コメント欄){ #areaedit() - 楚漢戦争の詳細は項羽が詳しいのと、あまり長いと読みにくいので省略しましたが……ご指導いただければ幸いです。 -- 作成者 (2018-04-28 09:02:41) - 確かこの韓進のエピソードが、故事『校兎死して走狗煮らる(兎を狩りつくせば、用済みになった猟犬は食べられる)』のもとになったんだよね。確か、ある文章では、ある人が韓進に、『このままじゃ劉邦に粛清されるから反乱しましょう』と薦めたけど、韓進は劉邦に義理立てしてこれを却下したんだとか。 -- 名無しさん (2018-04-28 09:48:13) - いくら政権安定のためとはいえ、功臣をそこまで粛清しすぎたら誰でも疑心暗鬼になって政情不安になっちゃうわ。彭越なんかは逆らうつもりはなかったっぽいし。 -- 名無しさん (2018-04-28 10:17:36) - この人項羽以外には勝ちまくってんのに弱い言われているのはよっぽど項羽のインパクトが強いんだろうな -- 名無しさん (2018-04-28 12:37:32) - 「狡兎死して走狗煮らる」は韓信ではなく、春秋戦国の呉国の太宰嚭(ひ)が、呉国を滅ぼそうとした越王勾践の大夫・文種に宛てた手紙が始まり。しかもこれは「敵国を滅ぼせば臣下は粛清されるから、越国は呉国を滅ぼしてはならない」という意味。韓信の場合はもう手遅れ。 -- 名無しさん (2018-04-28 18:43:56) - あとこの発言は太宰嚭ではなく范蠡とする説もある。 -- 名無しさん (2018-04-28 19:06:01) - ↑2 あれ、そうだったのか。てっきり、韓信の末路についての言葉かと思ってた。偉そうにひけらかしてしまってハズカシィ(*ノノ)教えてくれてサンクス。 -- 名無しさん (2018-04-28 19:15:31) - ↑5 そこの所は子孫の光武帝は厳しくはあったけど無茶苦茶はしていないね。 -- 名無しさん (2018-04-28 19:54:16) - 項羽と劉邦で好きになった。 -- 名無しさん (2018-04-29 15:41:45) - 赤龍王(本宮ひろ志) 若き獅子たち、史記(横山光輝) 劉邦(高橋のぼる)龍帥の翼(川原正敏) どの劉邦もクセがあっていい -- 名無しさん (2018-04-29 15:57:55) - 「あたしあんな「放っておけないわー」だけで 帝国作った奴知ってるわ」 -- 名無しさん (2018-04-30 18:02:16) - 相変わらず素晴らしい記事GJ。次は韓信かな?wikt…さておき戦国策見てると「耳に痛い意見言ってくれる人大事にしろや」「見た目だけいい奴は捨てろ」と何度も言っているのでそれがいかに大切かわかるな -- 名無しさん (2018-05-01 13:43:53) - 横山版の漫画は項羽倒したところで即終わっちゃったけど、劉邦が韓信疑ってたり「あっこれヤバいな…」ってなる描写はちょくちょくあるんだよね… -- 名無しさん (2018-05-01 16:18:42) - じゃあちょっと編集します -- 名無しさん (2018-05-23 13:11:20) - 編集終了しました -- 名無しさん (2018-05-23 15:10:04) - 更に追記。赤龍王とかもっと書き込みたいけど中学生時代に読んだきりだから思い出せん -- 名無しさん (2018-05-25 15:50:07) #comment #areaedit(end) }

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