「町が揺れているね」
自身が元凶の一端を担っている事を棚に上げて、少年のような少女は言った。
どちらの形容も正しい。
今やこのマジシャンは男女の区別等無意味な領域に到達しているから。
山越風夏。
はじまりの六凶の中ですら異端と侮蔑されるその魂の銘は
ハリー・フーディーニ。
"脱出"の起源を覚醒させ、九生の果てまで世界に蔓延る事を選択した陽気な愚者の名前だ。
風夏は不安を抱えて揺れる町を楽しげな顔で笑覧しながら目的地へ向かっていた。
向かっている先はあるライブハウス。
自他共に認める自由奔放な彼女にも、決戦前に大将の下へ顔を出す位の義理は存在するらしい。
「午前零時の決戦、絆と非情の絡み合うダンスマカブル。いや実に楽しみだ、これで盛り上がらない訳がない!」
「随分とご機嫌だね。我ながら節操が無さ過ぎてちょっと呆れるな」
「私は君ほど擦れてないんだよ、少なくとも今はね。
そっちが主目的って訳じゃなかったけど、ジャックの参戦が確約されたのは最高だ。こうなると他の連中の介入にも期待出来る」
山越風夏は非情なるデュラハンに肩入れする事を決めている。
刀凶聯合の赤騎士を排除するという大義名分あっての選択だったが、やはりどうもシリアスには生きられない質らしい。
遠足の前日のような高揚感を隠そうともせず肩を揺らして歩くタキシード姿の少女というのは少々異様な光景だった。
相応に通行人の目を引いていたが、羞恥心等ステージに立ったその日からずっと無縁だ。
逆に手を振り返してやる余裕すら見せる主を他所に、隣を歩く少年が呟く。
「柩の準備が必要だな。小道具じゃなく本来の用途で」
「違いない。いつの時代も人死には戦争の花だからねぇ」
その言動は他の狂人に比べると平凡に見える。
彼らを知った人間がこのマジシャン達を見たなら、此奴らとは上手く付き合えるのではと思っても仕方ない。
されどこれは元から魂の構造が捩れている、ある意味では六凶の中で最も正常からかけ離れた生物だ。
只でさえ劇物同然の精神性に垂らされた一滴の狂気は、当然のように化学反応を引き起こした。
狂い過ぎて一周回ってまともに見えているだけ。
それが山越風夏、三世のフーディーニの真実である。
マジシャンが言う"種も仕掛けもありません"程信用に値しない物はないのだ。
「ところで、算段はあるのかい」
「ないよ? 当たり前じゃないか」
「…だろうね。言うと思ったよ」
ハリーは我ながらこの無鉄砲さに辟易した。
若いというか青いというか。
自分にもこんな時期があったのだと思うと恥ずかしくなってくる。
「適度に狩魔達のサポートをしながら、悪国側に嫌がらせして…。
それと並行して"本命"の方も進める感じかな。まずは人材探しだね」
風夏の本命とは聖杯戦争の破綻である。
つい先刻、彼女が到達した最悪の回答。
この世界に穴を開け、前提条件を破壊する。
死の国から逃げ出すよりも難しい、神の箱庭からの"脱出"だ。
「やるからには役者も拘りたい。私の眼鏡に適う子が居るといいんだけど」
未知の結末を見た
オルフィレウスは、そしてあの白い少女はどんな顔をしてくれるだろうか。
考えただけで心が躍る。
無粋な舞台装置の破壊なんて義務めいた労働より余程モチベが出るのは当然だった。
「デュラハンの仲間達じゃ駄目なのかい?」
「狩魔にそんな提案したら殺されちゃうよ。ゲンジ君は祓葉にお熱だし、
華村悠灯はきっとそれどころじゃない。
あ、サーヴァントを失った
悪国征蹂郎は悪くないかもね。彼って結構ガッツの人だから。候補が見つからなかったら声くらい掛けてみようかな」
浮き浮きしながら話す言葉に不安の色はない。
それは彼女が、これから始まる戦いの勝敗を全く疑っていない事の証だ。
酔狂な享楽主義の中に潜んだ不動の傲慢。
山越風夏もまた狂っている、その根拠がこうして示される。
「まぁ、そこら辺は始まってから考えようか。
その為にも狩魔のプランを聞いておきたいし、彼らが出発しちゃう前にサクッと――」
揺るがない不敵で常に己が存在を誇示する。
その精神性は六凶の象徴で同時に病痾だ。
拭い去る事の出来ない悪癖。
特に、この脱出王はそれが顕著だった。
だからこそ――
「…拙いね」
「ああ」
隠れ潜む気のない兎を、空の狩人は見逃さない。
風夏の足が止まった。
ハリーもだ。
同じ魂を持つ二人なのだから、其処に一秒の差もありはしない。
「見つかったみたいだ」
呟くのと、誰かの悲鳴を聞くのとは同時だった。
間に聳える建造物を事もなく貫いて迫る剛弓の一射。
狼吼の女神の暴力が、運命さえ躱すマジシャン達を遂に射程へ収めた。
◆ ◆ ◆
「お? 何だい、思ったより可愛らしいのが出て来たね。
もっと憎たらしいツラした奴を想像してたんだけどな」
完全な不意討ちである上に、女神の矢は初速で音を超える。
サーヴァントでさえ反応困難な速度とシチュエーション。
だと言うのに風夏とハリーはどちらもひらりと躱した。
遊び抜き、殺すつもりで撃ち込まれたにも関わらずだ。
その事実に憤慨するでもなく、寧ろ愉悦を湛えながら女神
スカディは姿を現す。
脇の傷からは今も血が滴っているが、堪えている様子は全くなかった。
それどころか不覚の証明である筈の血糊さえ彼女の美貌を彩る化粧品のように見えるのが恐ろしい。
凄惨な美で君臨する女神の前に立つのは猫の耳を生やした少年。
九生の果て。
遠未来のハリー・フーディーニである。
「参ったな。こういうシチュエーション、実はあまり得意じゃないんだが…」
ルー・マク・エスリンと戦わされた時にも思ったが、風夏は意外と人使いが荒い。
現に今も、ハリーを放り出してさっさとスカディの前から逃げ去ってしまった。
我が身可愛さで逃げた訳でないのは解っている。
いや…だからこそ質が悪いと言うべきか。
「くっはは! そうかいそうかい。素性は知らないが同情するよ。えらい難物を引いちまったようだね、アンタ」
「君に同情されてもな。マスターから聞いてる感じ、君の所も大概だろ」
「否定はしないが、アタシはあのくらい毒のある男の方が好きだよ。お高く止まった狡辛い野郎よりかはよっぽど良い」
「流石は音に聞く狩猟の女神。悪食なようで何よりだ」
腹の探り合いは必要ない。
スカディ側は勿論の事、ハリーだってそうだ。
蛇杖堂寂句、
ノクト・サムスタンプ、
ホムンクルス36号。
現時点で山越風夏は前回のマスター達の大半と顔を合わせている。
そして先刻、蛇杖堂から聞かされた残り二人の現状に纏わる情報を以って情報網は完成した。
それを参照すれば目前の巨女の素性も容易く透ける。
女神のアーチャー。真名をスカディ。
"嚇眼の悪鬼"
赤坂亜切に仕える最恐の狩人。
「実は直近で用事が控えていてね。一応聞いてみるけど、見逃してくれたりするかい?」
「そりゃ大変だ。アタシも心苦しいよ、待ち惚けを食う何処かの誰かに同情しちまうや」
真紅の唇が好戦的に歪む。
狩人と言うよりはケダモノの笑みだ。
話の通じる相手の顔ではない。
「……ま、だろうね。期待はしてなかったよ」
ハリーは嘆息する。
こうなると食い下がるだけ無駄、逆に疲労を増やすだけ。
よって穏便な未来を空想するのは諦めて、大人しくダンスの誘いを受ける事にした。
「『棺からの脱出(ナインライブズコフィン)』」
彼の九回の生を象徴する九つの棺。
釘で厳重に閉ざされた棺が七つ、ハリー・フーディーニの背後に並ぶ。
次起こる事の予測が付かない光景にスカディはへぇと唸った。
「繰り返すが、予定がつっかえてるんだ」
並んだ棺の右から三番目。
その蓋が、錆びた蝶番のような音を鳴らして開く。
釘はするりと抜けて地面に転がった。
からんという音が聞こえたかどうかのタイミングで、スカディは気付く。
「手短に終わらさせて貰う」
既に攻撃は始まっている、と。
棺の中から溢れ出したのは赤い血潮の濁流だった。
決壊したダム宛らの勢いで押し寄せるそれは盛んに湯気を立てている。
只の血ではない。沸騰状態まで熱された、血の池地獄の鉄砲水。
ハリー・フーディーニは死後の国に精通していて、その上猫というのは手癖が悪い。
命あるものが必ず辿り着く結末、その更に一つ先。
冥界とも、或いは地獄とも称される領域から持ち帰った戦利品。
それが、英霊ハリー・フーディーニの商売道具だ。
「ほう、ヘルヘイム――フウェルゲルミルの泉か。懐かしいね、温泉代わりにはなったっけな」
「ヘルはヘルでも仏教徒の地獄だよ。似て非なる物だ」
「ふーん。ま、どっちだろうと同じ事さ」
人体等瞬きの内に骨まで黒焦げにするだろう贖罪の血水。
それを前にしてもスカディは動かなかった。
女神の巨体が赤き激流に呑まれていく。
過酷極まる地獄の裁きを受けているにも関わらず、大地を踏み締めたその両足は微塵程も揺るがない。
「で? えらい格好付けてたが、まさか頼みの綱がこのぬるま湯ってオチはないよな」
風変わりなシャワーでも浴びたように前髪をかき上げ、滴る血の滴を退けながら。
言ったスカディの口調には有無を言わせない威圧感が宿っていた。
彼女が攻撃に移っていないのは只の気紛れだ。
興が冷めればすぐにでもその暴威は目の前のマジシャンを蹂躙すると解る。
「まさか」
然しハリーも動じない。
「せっかちは悪癖だよ、雪靴のお嬢さん」
「…! おぉ……!?」
言葉通り、事態は次の瞬間に動いた。
透明度が零に等しい血の池地獄。
その氾濫は物を隠すにはうってつけである。
激流に潜ませていた冥府の鎖が、スカディの全身を絡め取ったのだ。
嘗て死の神を戒めたシーシュポスの鎖。
引き千切ってやろうと力を込めるスカディだが、試みが実を結ぶ気配はない。
「啜れ、カマソッソの眷属よ」
呼び出したのはミクトランの蝙蝠。
死者の全身を切り刻んで血を啜るカマソッソの眷属だ。
身動き取れない所にこれをけしかけ、世にも悍ましい踊り食いの刑に処す。
先刻、
神寂祓葉に対し用いたのと同じやり口だ。
人を驚かすが生業のマジシャンが、その発想力を加害の為に用いればどうなるか。
命題の答えが此処にある。美しい女神の体を以ってそれを体現せんとする。
が。
「おいおい子猫ちゃんよ。ちょっと思い上がりが過ぎるんじゃないかい」
シーシュポスの鎖は確かに強靭無比。
されどその攻略法は既にルー・マク・エスリンが示している。
スカディは自分の手首へ繋がった鎖を物ともせず、拘束されたまま弓を構えた。
戒めて来る以上の剛力を用意出来るのなら、あらゆる縛鎖は存在の意義を失う。
「獣の分際で誰に鎖繋いでやがる。猫の仕事は媚びる事だろうがよォッ!」
一喝に合わせて放たれた、放たせてしまった穿弓。
不遜にも狩人の血肉を求めた命知らずな蝙蝠達が次々に弾け飛んでいく。
必中なのは当然として、一矢一矢に込もる威力が狂っていた。
着弾した蝙蝠は勿論の事、その近くに居た個体までもが拉げ捻れて血袋と化す。
矢とは穿ち貫く物。
そんな常識を崩壊させる兵器めいた火力を実現させながら、とうとうスカディの進軍が始まった。
「…今日はこんなのばっかりか」
ハリーの嘆息には哀愁が滲む。
ルー・マク・エスリン、神寂祓葉。
そしてこのスカディ。
都市有数の怪物達と次々戦わされている状況は確かに哀れだったが、忘れるなかれ。
ハリー・フーディーニは此処まで只の一度も手傷を負っていない。
お世辞にも強力とは言い難い二流の霊基で、九生のフーディーニは主人から科される無理難題をこなし続けている。
針山地獄の剣刃を取り出してスカディを迎撃しつつ、蝙蝠の群れを補充してけしかけ。
シーシュポスの鎖を更に伸ばし、身動ぎ一つ出来ない次元まで拘束を強めんと試みる。
棺に収めた道具を状況に合わせて取り出すという性質上、ハリーが戦闘に費やす労力は極端に小さい。
目前の敵に合った"死後"を釣瓶撃ちのように叩き付けるだけの仕事なのだから、その分手数には事欠かないし余力も残せる。
それどころか戦いが長引けば長引く程にこれらが増えていく。敵手との差は歴然に開いていく。
針山と蝙蝠、そして鎖。
三種の死後に囲まれたスカディを見ればそれがよく解る。
ハリーは剣を握らない。
接近して技を競い合う事もしない。
だから傷を負うリスクに乏しく、何なら撤退だっていつでも簡単に出来る。
一方でハリーの敵は、彼が出して来る傾向も性質もバラバラの冥界道具にどんどん囲い込まれていくのだ。
「猫の仕事は媚びる事、か。確かにそれも一理あるかもしれないが、ぼくは違うと思ってるよ」
次の棺が開く。
中から飛び出したのは、一匹の犬であった。
但し馴染み深いそれとは何もかも違い過ぎる。
その犬は、大型トラックよりも巨大な体躯を持っていた。
その犬には、首が三つあった。
口から炎を吐きながら。
耳を劈く声をあげて咎人へ襲い掛かる姿は、嗚呼まさに。
「猫の仕事は振り回す事だ。気紛れに皆を翻弄して、疲れ切った奴等を横目に眠りこけるのさ」
地獄の番犬・ケルベロス!
不徳な亡者を貪り食う冥府神の飼い犬が、苦境のスカディへの駄目押しとして棺を飛び出し駆け出した!
「君は見事に"脱出"出来るかな。お手並み拝見だ、お嬢さん」
こうなるとスカディの状況は本当に地獄じみている。
体は鎖で雁字搦めにされ、足元は灼熱の血の池が満たし。
針山の剣刃が迫る中、空からやって来る悪食な蝙蝠達にも注意しなければならず。
挙句の果てには英霊でさえ手を焼くタルタロスの猛犬。
ハリー・フーディーニは脱出狂い。
あらゆる苦難は"彼ら"にとって、その性を満たす晩餐となる。
我々なら出来るぞ、我々ならやれるぞ、さぁ抜け出してみせろ。
脱出を極めたい余り、自分用の地獄を形成する自傷行為に九生腐心した生粋の破綻者。
その行き着く果てたる九番目が造る檻は当然のように悪逆無道の難攻不落。
外道の檻に閉じ込められた女神の美貌は哀れ恐怖と絶望に歪む――
「"脱出"? 何だいアンタ、アタシを檻に入れた気になってたのかよ」
――事はなく、響いたのは愉快さを隠そうともしない声だった。
ハリーの眉が動く。
常に老人のような諦観を湛えた彼の顔に浮かんだ、確かな驚きの感情。
「だとしたらアンタはやっぱり媚びるが仕事の猫さんだ。世を知らないにも程がある」
スカディを頭から貪らんと飛び掛かったケルベロス。
その巨体が、次の瞬間もんどり打って吹き飛んだ。
折れた牙が、飛び出した眼球が、空中に散っていくのが見える。
誰が信じられるだろうか。
獰猛で強靭な地獄の番犬を襲った災難の正体が、武器ですらない只の拳であったなどと。
ケルベロスを殴り飛ばしたスカディは臆する事なく剣刃犇めく針山地獄に踵を下ろす。
硝子の割れるような音がした。
女神に足蹴にされた針山が、霜柱のように砕け散った音だ。
「アタシを閉じ込めたいんなら――」
首に噛み付こうとした蝙蝠を逆に噛み返す。
ぐぢゃりと上下の歯で潰し、咀嚼し。
生焼けの肉料理のようになったそれを吐き出して。
怖気立つような血塗れの美貌で、女神は猫に言う。
「――せめてこの三倍は持って来るんだね」
地獄が反転する。
囚えたのではなく、囚われていたのだと理解が追い付いた。
理屈で生きるマジシャンらしからぬ行動と解った上で、反射的に煉獄の炎を引き出し放つ。
だが止まらない。
止められない。
「すぅ――お お お お お お ォ ォ ッ !!」
息を吸い込んだスカディが吼えた。
威嚇ではなく迎撃行動としてのシャウト。
猛烈な勢いで吐き出された空気が立ちはだかる炎を吹き散らす。
これで良し。
進軍は問題なく続行される。
「莫迦か君は…!」
「くっははははは! 褒め言葉にしか聞こえないねぇ!」
マジシャンである筈の己が、気付けば猛獣使いの真似事を強いられている。
ハリーの口からもう溜息は出なかった。
数多の難業を攻略し尽くした最高峰の脱出狂をして、全神経を注がなければ死ぬと直感したのだ。
自らが狩られる側である事を悟った獣は、押しなべて生存本能を活性化させる物だから。
「さぁさお返しだよ。踊って見せなァ!」
矢が女神の手元から解き放たれる。
耐久に悖るハリーでは一撃の被弾すら許されまい。
全身を駆け巡る危機感。
それが、枯れて尚逃れられない脱出狂の性を喚起する。
「――――」
「やっぱり本領は逃げ足か! 良いよ受けて立とう、兎狩りなんていつ振りだろうねェ!」
ハリーが刻むステップは実に奇妙だった。
目を瞠る軽やかさはない。
巧みな、超次元的な避け方をする訳でもない。
寧ろやっている事自体はごくありふれた、普通の域を出ない物だ。
なのにどういう訳だか、"当たらない"。
降り注ぐ矢のどれ一つ、その稚拙な足取りを捉えられない。
それだけならば矢避けの加護にでも助けられているのだと邪推も出来よう。
だが、矢の着弾に伴い生じる衝撃波。
冥界の蝙蝠を次々と蹴散らした破壊の力場。
これさえ回避しているのは、一体全体どういう訳か。
雨霰のように押し寄せては吹き荒ぶ致命の矢。
二本の腕で成されているとは思えない超高密度の弾幕の中には人独り分の隙間も見て取れない。
だとしてもハリーの動きに淀みはなかった。
完璧な回避を積み重ねながら、一瞬の隙を見てバック宙で致死圏を抜ける。
こうなれば後は只逃げるだけ、退くだけ。
万事それで罷り通るかに思われたが…、
“困ったな、ちょっと強すぎる”
どうも逃げられそうにない。
と言うより、逃がしてくれそうにない。
逃げを専門とする者だからこそ解る。
スカディの双眸と放つ殺気は、相手を地の果てまででも追い掛けてやると告げていた。
それに――理由はもう一つ。
“視線を感じる。散漫と見られている内は解らなかったけど、監視装置の類かな。
此処を退いて風夏を回収した所で、これがある限り当分は追跡されてしまう……か。どうにも分が悪いね”
ハリーの推測は当たっている。
正確には監視装置ではなく、目だ。
嘗てスカディが傲慢な神々から奪い返し、天へと奉じさせた父スィアチの両目。
ハリーが考える通りの監視索敵機能と、獲物の急所を暴く統制装置の役目を一手に担う第一宝具である。
言うなれば一度見つかった時点で既に駄目。
彼らはもう、スィアチに目を凝らされてしまった。
手品の小細工等、巨人の天眼は児戯のように見破ってみせるだろう。
如何に箱から抜けるのが上手くても、抜け出した先で捕まってしまえば元も子もない。
"前回"気の向くままに全方位を苛つかせ続けた酔狂者の奇術師。
女神スカディというサーヴァントは、まさしく彼らを捕らえる上での一つの答えだった。
そして。
「ご覧よ、今夜は星がよく見える。狩りをするにも酒を飲むにも、澄んだ星空の下が一番と決まってる」
天の眼で逃げ道を押さえたその上で。
女神スカディは、悠々と狩りを遂行する。
手足に鎖を巻き付けたまま、それを物ともせずに進軍し続ける巨女。
その体躯が一歩毎に大きくなって見えるのは果たして気の所為だろうか。
いいや違う。実際に大きくなっている。
彼女に追われる獲物の認識の中では、確かにそうなっている。
「今宵はきっと良い夜になる。長い事狩人やってるとね、狩場に立っただけで何となく解るのさ」
ハリーは考えた。
はて、今は何月だったか。
答えは五月。春が終わり初夏が来て、俄に暖かくなり出す頃。
なのに今、彼の背筋は真冬の雪原に立たされたように冷え切っていた。
生体機能としてではなく、魂の内側から這い上がって来るような凍え。
曰く人は、この耐え難い悪寒を戦慄と呼ぶ。
「その証拠に、早速こうして上物と巡り会えたんだ。嬉しくて、ちょっと景気付けがしたくなった」
不敵であるべきマジシャンの心胆をさえ寒からしめる圧倒的な破滅の気配。
ハリーの認識上では、スカディの背丈は倍を超えて三倍、四倍以上にまで至っている。
荒唐無稽な程の巨大化は、つまりそれだけ彼(えもの)が迫る狩人を畏れている事の証左。幻像だ。
「アタシはね、アツいのが好きだよ」
冬司る雪靴の女神。
でありながら、彼女は込み上げるその熱を歓迎する。
北欧に神は数あれど、彼女程熱のままに生きた者は居ない。
関わった全ての神にトラウマを刻み込んだ圧倒的暴力。
神代を終わらせた"白い巨人"にも通ずる物のある、絶対の進軍者だ。
「で、そんなアタシは今まさにアツくなってる。この意味が解るかい、子猫ちゃん」
「…さっぱりだね。答えを聞かせてくれるかい?」
「今度はアンタが地獄(ヘルヘイム)を見るって事さ」
嘗ては怒り。
されど今は高揚の儘に。
「天に坐す父上様よ、今日もアタシに教えておくれ。
体が熱くて堪らないんだ。こいつをアタシは、何処の誰に向けたらいい?」
天の星が娘の求めに応える。
「――"お前か"」
スィアチの娘は幾つになっても気儘なじゃじゃ馬。
故に一度火が点いたなら、彼女を止められる者は三千世界の何処にも無し。
狩人の眼光が改めて、逃げる子猫の姿を認めた。
「――『夜天輝く巨人の瞳(スリング・スィアチ)』ッ!」
かくて恐怖は顕現する。
全ての獲物にとっての悪夢。
只一匹の猫を射殺す為に、赫怒の巨人が立ち上がった。
拙い、と思った。
心底から死を感じた。
幾度の死を経験し、其処からも逃げ遂せた男が狼狽さえした。
シーシュポスの鎖が嘗てない勢いで放出される。
それは猛る巨人を今度こそ縛り無力化するべく迸り、女神の肌へと触れたが。
「邪魔だ」
次の瞬間、悲鳴のような音色を奏でて崩壊した。
これを皮切りに、今まで辛うじてスカディを束縛出来ていた鎖達も一箇所また一箇所と砕け散っていく。
純粋な怪力の前に敗北する冥界の獄(タルタロス)。
ハリー・フーディーニを襲う悪夢の本当の始まりはこの時だったと言っていい。
「なんて、出鱈目な……ッ」
スカディは特別な行動などしていない。
只歩いているだけだ。
人が偶にする気分転換の散歩。
それのスケールを巨人サイズに拡張しただけ。
なのにその一歩一歩が、ハリーが打つ全ての仕掛けを粉砕する。
地獄の辛苦が踏み潰され。
冥府の生物が小蠅でも払うように撲殺される。
この世の全てに有無を言わせない歩みは宛ら、凹凸な地面を均すよう。
「逃げてもいいよ。逃がさないけどね」
女神スカディの第一宝具――『夜天輝く巨人の瞳』。
索敵と統制を一挙に兼ねる、天に昇った父親の双眸。
但し其処には"平時は"という補足を付記するべきだ。
有事。娘の昂りが頂点に達したその時、天の双眼は姿そのままに形を変える。
「猫如きがこのアタシに首輪付けようとしやがったんだ。罰としてその耳引きちぎって、暖炉で干し肉にでもしてやるよ」
サーヴァントの十八番。
生前成した逸話の再現。
スカディの場合は、神々を震え上がらせた激怒の進撃。
見る者全てに格別の恐怖と戦慄を。
そして進撃する巨人には格段の情熱を。
共に約束しながら成し遂げる至高の狩り。
種も仕掛けも介在する余地のない、何処までも純粋な"強さ"という理不尽が具現する。
「さぁ行くよ。何時もみたいに避けてみな」
地で惑う猫を見下ろす、父神の双眸。
口角を好戦の形に吊り上げながら、娘神は矢を番える。
装填された矢の数は、あろう事かたったの一本きり。
取るに足らない。
気を張る必要もない。
先のような弾幕射撃ならいざ知らず、単発の矢などたとえ光速だろうが軽々避けられる。
ハリーの経験はそう告げている。
だがその生存本能は、けたたましいまでの警鐘をあげて迫る危機に叫喚していた。
“駄目だ、これは”
マジシャンの誇りを目の前の現実が超えて来る。
“これを放たせてはいけない”
九度の生涯の中で、間違いなく一番であろう緊張。
“放たせてしまったら、その時ぼくは”
神の恐ろしさを九生の先で初めて知る。
靴底で地を蹴り、逃避の為に全神経を研ぎ澄ます。
“ぼくは――逃げ切れるのか?”
絶望にしか聞こえない自問。
が、こんな時でも魂の病痾は抜けないらしい。
少なくともスカディにはそれが解った。
ハリーの浮かべた顔を見てしまったから、この状況でつい吹き出してしまう。
「何だいアンタ。さっきまで悟ったみたいな澄まし顔してた癖に」
感情に乏しい幼顔。
見ようによっては老人のようにも見える諦観と辟易の相。
その口元が、期待するように緩んでいるのを。
確かに、スカディは見た。
「死が迫って来た途端――随分と楽しそうじゃないのさ」
刹那、破滅が解き放たれる。
『夜天輝く巨人の瞳』の真髄は只この一瞬に。
感情とはこの世で最も強大なエネルギーで。
それを素に進撃した巨人が放つ一矢は、まさに究極と言っていい破壊を秘める。
敵の霊核に向けて放たれるその矢に"技"はない。
スカディの技量を考えれば稚拙も良い所の射撃だが。
されど其処には、先のとは比べ物にならない程純然たる感情が宿っている。
殺意。必ず殺すという強い意思。
一念鬼神に通ずと人は言うが、ならば神がそれに倣った結果起こる事象は尋常の域には到底収まらない。
敢えて全ての"技"を排して衝動の儘打ち込むからこそ、巨人の激昂は遍く敵を捻じ伏せるのだ。
無駄多く、技なく、理屈なく。
故にこの世の何事よりも絶対的。
あらゆる利口を贅肉として削ぎ落とすからこそ、この矢は狩猟の真理に届く。
理屈で常識を騙すが生業の奇術師からすれば、その在り方はまさに対極。
そして、天敵。
「――――!」
ハリーが何かを叫んだ。
言葉だったかもしれないし、断末魔だったかもしれない。
何にせよその朧気な音が女神の耳に届く事はなかった。
矢が着弾し、隕石でも落ちたのかと見紛うような衝撃と轟音を響かせたからだ。
粉塵が巻き上げられ、大地が無惨に捲れ上がった"爆心地"の姿が晒される。
「ふう。景気付けとしちゃこんなもんかね」
風に揺れる髪を片手で抑えながらスカディは漸く弓を下ろした。
「アギリから聞いちゃいたが、まさか主従揃って此処までの逃げ上手とは。
とはいえ相手が悪かったね。アタシは狩人だ……逃げる獲物は追わずに居られない性分なのさ」
巧みな逃げ、窮地からの脱出。
それを見せ付けられる程に狩人の性は昂る。
どれだけ弾を使っても必ず躱し、煽るように躍って見せる獣。
狩りを生業にする者にとっては極上以外の何物でもない。
その点やはり、スカディはハリー・フーディーニにとって天敵だったのだ。
彼が見せる全ての逃げ、全ての技は彼女の興を掻き立てる肴になってしまう。
彼はスカディの逆鱗に触れた。
怒りとは違う形で、雪靴の女神の真髄を呼び起こしてしまった。
ハリーの落ち度は其処だけ。
詰まる所は相手が悪かった、悪過ぎた。
脱出を極め尽くしたからこそ待ち受けていた彼専用の地獄の門。
哀れな子猫は露と散り、最早肉片も残っていないだろう。
「…耳で燻製でも拵えようと思ったんだけどねぇ。昂ると加減出来ないのは悪い癖だな」
スカディは己の短腹に苦笑しながら、一応検分くらいはしておくかと足を前に出した。
「――うお」
その矢先。
頬を掠める弾丸の熱に、女神は声を漏らした。
「……、」
伝い落ちるルビー色の雫。
擬似的な地獄巡りの中でさえ流れなかったスカディの血。
それが今、たかが一発の銃弾によって流された事実。
彼女自身でさえ信じ難いと思う流血を指で掬いながら。
スカディは土煙の向こうに立つ痩せぎすの影を見つめていた。
「こんなのばっかりか、はこっちのセリフだよ。今日は妙な英霊によく会うもんだ」
猫耳の少年、ではなく。
軍服姿の老人が立っている。
右手には煙の昇る突撃銃。
「なぁお爺ちゃん。アンタからさっきのガキと同じ匂いがするんだが、アンタらどういう関係だい?」
スラッグ弾の薬莢を排出しながら、彼は辟易の表情でスカディを見た。
「――ヴァルハラか?」
「はい?」
「ヴァルハラの手の者だな貴様。ヴェラチュールの小僧め、そんなにも吾輩にしてやられた事が悔しいか」
「いや、あの…。話聞いてる? もしもーし」
「惚けおってこの吾輩の目は騙せんぞ。ワルキューレでは手が足りぬと踏んで巨人族に声を掛けるとはな。
良い度胸だ、ならば何度でも袖にしてやろう。吾輩はエインヘリヤルになぞ決して戻らん」
「……」
「貴様らと来たら口を開けば吾輩を英雄だ何だと褒めそやすがな、第四次大戦で吾輩が立てた武勲は全て敵前逃亡の副産物だ。
殺し殺されの戦場が嫌で逃げ回り続けて、漸く床の上で死ねたと思えばあのような地獄に案内された吾輩の身にもなってみろ。
帰らぬぞ、戻らぬぞ。石に齧り付いてでも断固として拒否するぞ。解ったら疾く荷物を纏めて帰れ小娘。吾輩は忙しいのだ」
「ダメだボケてるわこの爺ちゃん」
支離滅裂な言動にスカディは眉間を押さえる。
全く以って不可解な状況だった。
消えた猫耳のサーヴァント。
それと入れ替わりで現れた、この痴呆の入った軍服老人。
されどスカディの佇まいに油断は皆無だ。
たとえ姿が変わろうと狩人の鼻は誤魔化せない。
先程指摘した通り、"猫耳"と"老人"は完全に同じ匂いを放っていた。
つまり同一人物の可能性が非常に高い。
だが逆に言えば其処以外は何もかも違う。
骨格は勿論の事、霊基も恐らく全くの別物だ。
極めつけに今しがたの発言。
老人の発言は一から十まで支離滅裂だったが、中でも群を抜いて奇妙な単語が一つ混ざっているのを、スカディは聞き逃さなかった。
「第四次ってのは、"世界大戦"の話かな」
令和六年五月三日現在。
世界大戦は二度しか行われていない。
「だとすりゃアンタ――いつの時代の英霊なんだい?」
スカディの問いに老人は答えなかった。
返答の代わりに、その突撃銃を静かに向ける。
シーシュポスの鎖やミクトランの蝙蝠に比べれば実にありふれた武装だ。
だがこの時スカディは、"彼ら"との戦いが始まってから随一の重圧を感じていた。
「吾輩は行かねばならんのだ。吾輩の代で…たかだか五生でフーディーニを終わらせる訳には行かぬ」
向けられた黒い銃口。
それが冥府まで続くトンネルのように見える。
死だ。死が其処にはある。
死の国の門が口を開けて誘っている。
「それを邪魔立てするというなら、吾輩は……」
気付けばスカディは笑っていた。
笑わずにいられるものかと誰にともなく言い訳する。
「――神であろうと殺してくれるぞ」
猫を追い回して入った暗い森の奥に、怪物が居た。
猫を狩るのも乙ではあるが、やはり強い獲物程唆らせてくれる物はない。
「いいね。やろうか」
弓を番える。
怪物は怯えない。
老いさらばえた鹿のように震える両足で大地を踏み締め。
時が止まったようにミクロ単位のブレもない右手でショットガンを構える。
「アンタ、名前は?」
「…神聖アーリア主義第三帝国陸軍所属……"ハリー・フーディーニ"………」
怪物戦線、継続。
九生は棺に戻り、代わりに起こされたのは最も人を殺めた狂乱の老兵。
心神喪失の逃亡者。
――第五生のハリー・フーディーニ。
◆ ◆ ◆
一方その頃。
もう片方の戦線も、勿論地獄の有様を呈していた。
炎が舞う。
爆発力さえ伴って弾けた紅蓮が少女の周りを囲い込む。
起爆剤を必要とせずに急燃焼を起こすそれがどれ程熱いのか等考えるまでもない。
一度でもこれに巻かれればヒトは決して生存出来ないだろう。
呼吸しただけで気道が焼け爛れる本物の焦熱地獄だ。
そんな嚇炎に包まれた少女が炭になるまで焼き尽くされる未来は最早確実。
そう見越されたが、然し。
炎の渦からタキシード姿の少女がくるりと躍り出る。
肌は愚か気取り尽くした衣服まで僅か程も焼けていない。
そこまではいい。そういう事もあるだろう。
だが煤さえ被っていないのは一体如何なる道理か。
解らないし、解ろうという気も起きない。
それが赤坂亜切の素直な感情だった。
ひと度戦い始めれば狂気の儘に燃え盛るが性の葬儀屋の顔は酷く冷めている。
退屈な映画でも見るような顔で少女のダンスを見つめていた。
其処にあるのは呆れと苛立ち。
相変わらずの目障りさを存分に発揮する怨敵も然る事ながら、未だにこの不愉快な生物一匹に手を拱いてしまう自分への不満もあった。
そんなアギリの心理を見抜いたように脱出王、三生のフーディーニは言う。
「アギリは相変わらずだね。舞台ってのはもっとワクワクしながら楽しむもんだよ?」
「相変わらずは君の方だろオカマ野郎。どうせなら玉じゃなくて頭去勢して来いよ」
「やだ下品。ほらあれやってもいいんだよ? お姉ちゃん力がー、妹力がーってお得意の奴」
ひらひら手を振って脱出王が言う。
次の瞬間、山越風夏の五体は爆炎の中に消えた。
攻撃の意思決定から現象の発生まで一秒を遠く下回る。
アギリは荒れ狂う炎の中に躊躇なく自ら飛び込んだ。
そうして、大火事の中で当たり前のように無傷で寛ぐマジシャンへ右手を伸ばす。
「糞に姉も妹もあるかよ」
「く、糞ぉッ!? 流石に言われた事ない悪口なんだけど!」
「あぁそう知らないようなら教えてやるよ。君の事好きな人間なんてこの世に一人も居ないからな」
魔眼の破損はアギリを真の魔人に変えた。
今の彼は己が肉体を火元にして燃え盛る炎の化身である。
であればこうして接近戦に持ち込む事も当然可能。
寧ろ対脱出王に限れば魔眼が壊れてくれた事は僥倖ですらあった。
見てから燃やすという葬儀屋のスタイルでは脱出王に猶予を与えてしまう。
視認し、収斂させ、発火を起こす。
不可能を可能にする驚異の奇術師にしてみれば欠伸が出る程長大なタイムラグだ。
その点今のアギリは工程の一と二をすっ飛ばして即発火に持ち込む事が出来る。
更に言うなら、このムカつくマジシャンを直接自分の手で触れて燃やせる点もアギリ的には高ポイントだった。
「はーあ。ジャックといい君といい、皆私にも心が有るって事をもうちょっと気にして欲しいね」
とはいえ、それでも彼女に当てるのは至難を極める。
原理等そもそも存在するのかさえ怪しい究極の脱出術は、こと避けるという事に限ればどんな宝具より高性能だ。
実際アギリは今、ほぼ顔を突き合わせるような間合いまで近付いて燃え続けているが、炎も振るう手足も彼女に掠りさえしていない。
死んで姿が変わっても脱出王の特性は健在。
いや、それどころか前以上に冴え渡っていると言って良かった。
“アーチャーの方も手こずってるな。前回のシャストルじゃないが、やっぱり碌でもない奴には相応の糞が寄り付くらしい”
その言葉がブーメランになっている自覚は勿論アギリにはない。
我も人、彼も人。狂人達はそんな高尚な倫理とは全く無縁だ。
「だけどアギリってさ、捻くれてる風に見えて実は結構素直だよね」
「…何が言いたい?」
「あれ、解らない? 現にほら、割と簡単に私と一対一になってくれたじゃないか」
不快感に眉間が歪む。
気付いたからだ。
狂人同士の1on1というこの状況は、他でもない脱出王の意図で組まれた物であると。
「あの場で話すには君のサーヴァントが邪魔でね。全くえらいの呼んでくれたもんだよ、見た所彼女、私の天敵だろ?」
「どうだかね」
「ランサーも草葉の陰で泣いてるよ。あんなに健気に君を人の道に引き戻そうと頑張ってたのに」
「そうだね、確かにあいつには気の毒な事をしたかもな。それで? 遺言は終わったかい、脱出王」
火力上昇。
巨大な火球と見紛う程の規模でアギリが殺意を燃やす。
「終わってないし遺言じゃないよ。折角会えたんだから、君にも教えてあげようと思ったんだ」
「教わる? ハッ、言うに事欠いて僕が君にか」
電柱やガードレールを溶かしながら炸裂した嚇炎の中から変わらず響く声。
アギリはその言い草に嘲笑を返すが、次の言葉を聞けば押し黙るしかなかった。
「祓葉が来るよ」
「…――おい」
燃え上がるような殺意とは違う。
低く凍て付いた静謐の殺意が迸る。
「君如きが気安くあの子の名前を口にするなよ。引き裂いて黒焼きにするぞ」
「嘘じゃないよ」
煽りだとすれば話題が悪過ぎた。
彼らの前でその名前を出す事は自殺行為にも等しい。
然し。
"脱出王"山越風夏もまた、彼と同じくその名に憑かれた狂人である。
「君達だって、何か察したからわざわざ新宿に来たんだろう?
それとも何か突き止めたとか。例えば"半グレ組織の抗争"とかね」
その読みは当たっていた。
アギリは嘗ての職業柄、ある程度裏社会の人脈を有している。
デュラハンと刀凶聯合…残忍で知られる二つの組織が揉めている話を仕入れるのは難しくなかった。
デュラハンは兎も角刀凶についてはその残忍さも然る事ながら、明らかに一介の半グレ組織が持てる筈のない重武装を所有していると聞く。
恐らく其処にはサーヴァントの介在がある。
であれば両組織の抗争は勢力争いの皮を被った英霊同士の戦いである可能性が高いと踏み、様子見も兼ねて遥々新宿まで足を運んだ訳だ。
「祓葉の性格は君も知ってるだろう。祭りの匂いに釣られない訳がない」
「君もお祭りの当事者って訳か、脱出王」
「御明察。私はデュラハンなんだけどね、刀凶さんちじゃあのノクトがケツモチをやってるらしい」
「そりゃまた莫迦な奴らだな。好んで時限爆弾を傍に置きたがるなんて」
「それは私も同感。でも悪国君のサーヴァントは凄いし酷いよ。私も全貌を知ってる訳じゃないが、奴は恐らく黙示録の赤騎士だ。レッドライダーって奴だね。六本木が核爆弾で吹っ飛んだのは聞いてるだろ?」
とはいえ流石に聖杯戦争絡みの情報は流通して来ない。
風夏が世間話感覚で言った悪国のサーヴァントの話も、アギリは初耳だった。
…これが本当なら確かにとんでもなくでかい祭りになる。
それこそ、神を呼ぶにはこれ以上ない規模の祭りに。
「君等だけかい? 交ざるのは」
「イリスとミロクは解らないけど、ジャックは多分来ると思うよ。他に質問は?」
はじまりの六人の過半数が集う戦争。
前回の規模にも劣らない大惨事となるだろう。
ともすれば超えて来る可能性だって十分にある。
少なくとも翌朝、この新宿の町並みが原型を留めている可能性は非常に低い。
それがアギリの見立てだった。
「いいよ、十分だ。そういう事なら僕も出る。というか出ない理由がない」
「だよね。君ならそう言ってくれると思ってたよ」
「君等クズ共に先を越されちゃ堪らない。お姉(妹)ちゃんの家族として、しっかり一番槍を切らせて貰わないとな」
言うアギリの声色にはあからさまな喜悦が混ざっている。
祓葉が来る、祓葉に会える。
それは彼にとって生き別れた家族との再会を意味する。
少なくとも彼の中でだけは、誰が何と言おうとそうなのだ。
「情報料は私達を見逃してくれるだけでいいよ。一応は仲間だからね、デュラハンに顔出しくらいはしておきたいんだ」
「心配しなくても今の話聞いてこれ以上君にかかずらおうって気は起きないよ。時間の無駄だ」
「助かる助かる。私も貴重な令呪を開演前に減らすのは嫌だったからさ」
アギリはあんなに燃え盛ってた炎をあっさり引っ込めた。
彼の感情が、もう脱出王に対し昂ぶっていない事の証だ。
祓葉という念願を前にして、他の事に割ける情熱等ない。
今は目前の怨敵を殺すよりも、早くスカディと合流して祭りの始まりに備えたい気で一杯だった。
相変わらず傷一つ、煤汚れ一つない風夏はアギリに手を振って踵を返す。
「またねアギリ。生き延びられたら、今の祓葉と遊んだ感想を聞かせてよ」
「考えとくよ。さよなら、ハリー・フーディーニ」
その背中に躊躇なく右手を向けて。
刹那、嚇炎の火炎放射を吐き掛ける。
惜しみなく火力を注ぎ込んでの一撃は、二人の対峙する路地を埋め尽くす勢いで広がっていった。
軈て炎が晴れた時。其処にもう少女の姿はない。
代わりに四隅が焦げた白紙が一枚、ひらひらと舞ってアギリの手元にやって来る。
『P.S.
君は必ず立ち去る私の背中を撃つだろう(然しそれは決して当たらないだろう)! :)』
…読んだ瞬間に握り潰した事は言うまでもない。
次は何が何でも絶対殺そうと心に誓った。
◆ ◆ ◆
巨人の矢が空爆のように降り注ぐ。
その中を老人は虚ろな足取りで進む。
当然のように矢は当たらない。
回避の意思すら見て取れないのに、全てが空を切る。
業を煮やしたスカディが突撃した。
スキー板を振り翳してのインファイト。
彼女のクラスはアーチャーだが、射手が接近戦を不得手とするなんて常識も巨人の身体能力は容易く捻じ伏せる。
セイバーやランサーのクラスと比較しても引けを取らないだろうパワーとスピード。
剛柔併せ持つ壮烈の暴風。
「ヴェラチュールの牝犬め、喧しいぞ」
老人が舌打ちをした。
足を止め、ショットガンを構える。
ダン!! という鋭い破裂音。
放たれたスラッグ弾は針の穴を通すようにスカディの暴乱の網目を掻い潜り、彼女の喉笛に駆けていく。
「牝犬って……まぁ間違いじゃないか。奴さんもよく嘆いてたしな、とんだケダモノを娶っちまったって」
懐かしむように言いながら、スカディは迫る凶弾を首を横に倒して回避。
たかが弾丸を避ける等凡そ彼女らしからぬ行動だが、それだけ老人の技巧が油断ならない物であるという事だ。
次弾を装填する隙を与えまいと至近距離から矢を放つ。
三射同時の拡散射撃を受けて、老人は漸く逃げ以外の行動を取った。
シーシュポスの鎖。
ハリー・フーディーニの最も愛用するそれを引き出し、撓らせて展開し即席の盾に用いたのだ。
「…冥界の鎖に番犬、仏教徒の地獄、南米の冥府、おまけにボケてるとはいえヴァルハラがどうこうって言動。
全く呆れたもんだ。本当に死の国から抜け出してくる奴があるかよ」
脱出王の真名はハリー・フーディーニ。
異常な生存能力を有する傾奇者の魔人。
其処まではアギリから聞いていたが、正直に言って想像を超えた奇天烈ぶりだった。
死の国から脱出しただけでは飽き足らず、輪廻転生を重ねて歴史に名を刻み続ける怪人。
未来の英霊という時点で特級のイレギュラーだというのに、自分自身の転生体を呼び出す等聞いた事もない。
素直に感心さえしているスカディだったが老人は意に介する事もなく。
何を思ったか鎖を蝸牛のヤドのように渦巻かせ、しかもそれを何層にも重ね出していた。
譫言のように何か呟きながら。
重ね造った鎖渦に銃口を合わせ、引き金を引く。
ボケも極まった無駄撃ちだ。
最初はスカディでさえそう思った。
然し次の瞬間、彼女は心からの驚愕に目を見開く事になった。
「――ッ! おいおい嘘だろう……!?」
放たれたスラッグ弾。
それが、鎖の渦をすり抜けていく。
超常的な現象等何も起きていない。
折り重なった鎖の層の中で唯一向こう側へ通じている空洞。
鎖の丸環で繋がった"孔"に弾丸を通しただけだ。
孔の中を通っていく中で弾は研磨され、削られ、鋭く鋭く変形する。
要は――研いでいるのだ。
弾を研ぎ、より殺傷能力に長けた魔弾に至らせようとしている!
“癪だが、防ぐしかないね…!”
直撃すれば霊核まで貫通されかねない。
そう直感したスカディは屈辱さえ覚えながら防御に出た。
スキー板を構えて、自分のお株を奪う近距離射撃に対応する。
僅かという表現では足りない程短い猶予。
その中で彼女は出来る最善を尽くしたが……。
「――ッチ。やるじゃないのさ」
板面には風穴。
穴の向こうには血の色が見える。
穿った場所は脇腹だ。
蛇杖堂の天蠍との交戦で受けた不覚。
今も癒えないままの傷口に銃創を追加して穿り返した。
口から溢れた一筋の血を拭いながら、スカディは全力でスキー板を薙ぎ払う。
老人はたたらを踏むような動きで後ろに下がって避けた。
痴呆症特有の虚ろな目付きを泳がせながらも次弾を装填する動作には一切の無駄がない。
五生のフーディーニは職業軍人。
九生の中で最も、そのマジックを攻撃へ転用して生きた異端の脱出王。
彼の魂もまた脱出を希求し続けているが、彼はその為に流血を生む事を躊躇しない。
"果て"の猫が窮地で彼の棺を開けたのはそういう訳だ。
最も適役のハリーを出して命を繋ぎつつ、迫る死からの脱出の望みを懸けた。
「猫に伝えときな。ちょっと見直したってね」
スカディは言うなり板を背負ってしまう。
これ以上の交戦意思がない事を物語る行動だった。
「アンタらの逃げ足を攻め落としてみたい気はあるが、何やら獲物の群れが来るらしい。
少々惜しいが此処はお預けにしておくよ。そら、何処にでも逃げなボケ老人」
「………………」
シッシッ、と手で払う動作をすると。
老人は虚ろな目と足取りのまま、空に溶けるように霊体化した。
「やれやれ、今日は取り逃がしてばっかりだね。本番は此処からみたいだし、まぁ良いけどさ」
不満も露わに眉を顰めてスカディは言う。
アギリからの念話は既に伝わっていた。
直に町が揺れる。
血湧き肉躍り獲物群れなす、火祭りの時がやって来る。
つまり夜の本番という訳だ。
三度に渡って相手を取り逃している現状は腹立たしかったが、この情報に免じて良しとする。
「――退屈だったら承知しないよ。解ってんだろうねぇ、アギリ」
狩りを続けよう。
肉を射抜こう。
命を屠ろう。
猫も獣も人間も、神や化生さえ全てが彼女の獲物。
その手に弓と矢が握られている限り、この世の誰も雪山の摂理からは逃れられない。
【新宿区・信濃町/一日目・夜間】
【赤坂亜切】
[状態]:疲労(中)、魔力消費(中)、左手に肉腫が侵食(進行停止済、動作に支障あり)
[令呪]:残り三画
[装備]:『嚇炎の魔眼』
[道具]:魔眼殺しの眼鏡(模造品)
[所持金]:潤沢。殺し屋として働いた報酬がほぼ手つかずで残っている。
[思考・状況]
基本方針:優勝する。お姉(妹)ちゃんを手に入れる。
0:新宿の戦いに介入し、お姉(妹)ちゃんを待つ。
1:適当に参加者を間引きながらお姉(妹)ちゃんを探す。
2:日中はある程度力を抑え、夜間に本格的な狩りを実行する。
3:他の〈はじまりの六人〉を警戒しつつ、情報を集める。
4:〈蛇〉ねえ。
5:〈恒星の資格者〉? 寝言は寝て言えよ。
6:脱出王は次に会ったら必ず殺す。希彦に情報を流してやるか考え中
[備考]
※彼の所持する魔眼殺しの眼鏡は質の低い模造品であり、力を抑えるに十全な代物ではありません。
※
香篤井希彦の連絡先を入手しました。
【アーチャー(スカディ)】
[状態]:脇腹負傷(自分でちぎった+銃創が貫通)、蛇毒による激痛(行動に支障なし)
[装備]:イチイの大弓、スキー板。
[道具]:なし
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本方針:狩りを楽しむ。
0:夜の本番が来る。ワクワクするねぇ。
1:日中はある程度力を抑え、夜間に本格的な狩りを実行する。
2:マキナはかわいいね。生きて再会できたら、また話そうじゃないか。
3:ランサー(アンタレス)は――もっと育ったら遭いに行こうか。
4:変な英霊の多い聖杯戦争だこと。
[備考]
※ランサー(
ギルタブリル/天蠍アンタレス)の宝具を受けました。
強引に取り除きましたが、どの程度効いたかと彼女の真名に気付いたかどうかはおまかせします。
【
山越風夏(ハリー・フーディーニ)】
[状態]:健康、うきうき&はりきり
[令呪]:残り三画
[装備]:舞台衣装(レオタード)
[道具]:マジシャン道具
[所持金]:潤沢(使い切れない程のマジシャンとしての収入)
[思考・状況]
基本方針:聖杯戦争を楽しく盛り上げた上で〈脱出〉を成功させる
0:〈デュラハン〉の所に顔を出す。
1:他の主従に接触して聖杯戦争を加速させる。
2:世界に孔穿つ手段の模索。脱出させてあげる相手は、追々探ろう。人選は凝りたいね。
3:悪国征蹂郎のサーヴァントが排除されるまで〈デュラハン〉に加担。ただし指示は聞かないよ。
4:うんうん、いい感じに育ってるね。たのしみたのしみ!
5:レミュリンの選択と能力の芽生えに期待。
6:祓葉が相変わらずで何より。そうでなくっちゃね、ふふふ。
7:決戦では刀凶に嫌がらせしつつ脱出者の候補探しをしたい。
[備考]
準備の時間さえあれば、人払いの結界と同等の効果を、魔力を一切使わずに発揮できます。
〈世界の敵〉に目覚めました。この都市から人を脱出させる手段を探しています。
蛇杖堂寂句から赤坂亜切・
楪依里朱について彼が知る限りの情報を受け取りました。
【ライダー(ハリー・フーディーニ)】
[状態]:第五生のハリーと入れ替わり中
五生→健康
九生→疲労(大)
[装備]:九つの棺
[道具]:
[所持金]:潤沢(ハリーのものはハリーのもの、そうでしょう?)
[思考・状況]
基本方針:山越風夏の助手をしつつ、彼女の行先を観察する。
1:他の主従に接触して聖杯戦争を加速させる。
2:神寂祓葉は凄まじい。……なるほど、彼女(ぼく)がああなるわけだ。
[備考]
準備の時間さえあれば、人払いの結界と同等の効果を、魔力を一切使わずに発揮できます。
宝具『棺からの脱出』を使って第五生のハリー・フーディーニと入れ替わりました。
- 神聖アーリア主義第三帝国陸軍所属。第四次世界大戦を生き延びて大往生した老人。
- スラッグ弾専用のショットガンを使う。戦闘能力が高い。
- ヴァルハラの神々に追われている妄想を常に抱いており話が通じない。
前の話(時系列順)
次の話(時系列順)
最終更新:2025年05月28日 20:47