もう恐るるな、灼熱の太陽を、怒り厳しき冬の嵐を。
―――ウィリアム・シェイクスピア『シンベリン』
おはよう、こんにちは、さようなら、おやすみなさい。
目覚めは陽光とベッドの匂い、昼はオリーブの緑と枝がしなる様と風があり、夕日は山並みを燃やし、柔らかなベッドと温かい家がある。
ピレネーの山並みと草花の香り、摘みたてのレモンが鼻をくすぐり、鳥と虫は天と地を気楽に生きている。素敵な素敵な、素晴らしき世界。
たとえそれが試験管の中の夢幻であったとしても、その夢幻は他でもない自分のもの。それは他の、誰のものでもないものだ。
懐かしい記憶を思い起こして自分の感情を悪戯に擽りながら、ヴァージニアはバルデスの持ってきた書類に署名した。
目覚めは陽光とベッドの匂い、昼はオリーブの緑と枝がしなる様と風があり、夕日は山並みを燃やし、柔らかなベッドと温かい家がある。
ピレネーの山並みと草花の香り、摘みたてのレモンが鼻をくすぐり、鳥と虫は天と地を気楽に生きている。素敵な素敵な、素晴らしき世界。
たとえそれが試験管の中の夢幻であったとしても、その夢幻は他でもない自分のもの。それは他の、誰のものでもないものだ。
懐かしい記憶を思い起こして自分の感情を悪戯に擽りながら、ヴァージニアはバルデスの持ってきた書類に署名した。
「部隊運用管理は変わらずあなたに任せるわ、バルデス。お願いね?」
「多忙は慣れています。実働に関する現場指揮はスキャットバックが上手くやるでしょうから、問題ありません」
「彼のことは信頼してるのね」
「能力はある男です。手元に置いておいて損はありません」
「うんうん、時間が取れたら一人一人と会ってみたいものね」
オフィステーブルの表面をそっと指先で撫でながらヴァージニアが言うと、バルデスは唇をへの字に曲げる。
「今のは、ご冗談と受け取っておきましょう」
「あら、結構本気で言ってみたのだけれど。そう蔑ろにされちゃうと悲しいわね」
「失礼ながら直言をすると―――」
すぅっと深く息を吸いながら、バルデスは上司に対して眉をひそめ、ぐっと顎を引いて目を細めた。
「―――私は、あなたほど強気ではいられない。そのような些事でルシエンテスに付け入る隙を作りたくないのだ」
目の前に立つ男の言葉に、ヴァージニアは微笑む。
笑っている場合ではないというのは、アーキバスに所属していて内部事情に興味がある者なら、誰だって知りえるはずだ。
アーキバス本社と先進開発局の政治対立は、惑星封鎖機構から一部C兵器技術の開示があったことから始まっている。それまでの生体CPU化技術と無人機体技術が向上し、先進開発局とファクトリーの技術的な向上心と好奇心、そして野心をも目覚めさせた。先進開発局はそのコア理論への揺り戻しな姿勢から脱却し、今やルシエンテスに率いられた一勢力として動き始めている。
そうした存在に対処するために、ヴァージニアもバルデスを介して懲罰部隊という手駒を保持しているのだ。ルシエンテスがUNAC部隊を有しているのと同じように。
そんな情勢の真っただ中の、その中心に居るにも拘らず、ヴァージニアは変わらずに微笑んでいる。
笑っている場合ではないというのは、アーキバスに所属していて内部事情に興味がある者なら、誰だって知りえるはずだ。
アーキバス本社と先進開発局の政治対立は、惑星封鎖機構から一部C兵器技術の開示があったことから始まっている。それまでの生体CPU化技術と無人機体技術が向上し、先進開発局とファクトリーの技術的な向上心と好奇心、そして野心をも目覚めさせた。先進開発局はそのコア理論への揺り戻しな姿勢から脱却し、今やルシエンテスに率いられた一勢力として動き始めている。
そうした存在に対処するために、ヴァージニアもバルデスを介して懲罰部隊という手駒を保持しているのだ。ルシエンテスがUNAC部隊を有しているのと同じように。
そんな情勢の真っただ中の、その中心に居るにも拘らず、ヴァージニアは変わらずに微笑んでいる。
「ありがとう、バルデス。私、そういう直言大好きよ」
「直言はしかるべき時になされるべきであり、常用されるべきではない。仕込みの短刀は隠されてこそ意味と衝撃を持つものだ」
「そうかもしれないわね。ああ、虚飾に塗れた上辺を虚しいと思っても大事にする、そんなあなたも大好きよ」
「それも、ご冗談と受け取っておきます」
「あらあら。まったくつれないのね、冗談なんかじゃないのに」
「それこそ、ご冗談でしょう」
肩をすくめ、バルデスは署名された書類を手に取り、そのまま背を向けてオフィスから出て行った。
ヴァージニアは椅子の背もたれにぐっと体重を預けつつ、閉じていく扉に向かって微笑みながら口添える。
ヴァージニアは椅子の背もたれにぐっと体重を預けつつ、閉じていく扉に向かって微笑みながら口添える。
「冗談じゃないわ、私のウォルシンガム」
オフィステーブルの上に置かれた時計が鳴る。
次の予定がヴァージニアにはあった。
次の予定がヴァージニアにはあった。
昼の時間帯、大抵の人間が食事を取りに行く中、今日のヴァージニアは自室に客人を呼んで楽しい時間を過ごす。
ヴァージニアの予想通り、籠一杯の御菓子とワンホールのチーズケーキ、陶磁器のカップとソーサー、それと瓶入りの蜂蜜を見た瞬間のジュスマイヤーの顔は見ものだった。
しばらくその顔を眺めていたい感情がないではなかったが、ヴァージニアはすぐに二つのカップにレモンティーを注いで蜂蜜を垂らし、それを匙でかき混ぜる。茶は温かい方が美味い。
ヴァージニアの予想通り、籠一杯の御菓子とワンホールのチーズケーキ、陶磁器のカップとソーサー、それと瓶入りの蜂蜜を見た瞬間のジュスマイヤーの顔は見ものだった。
しばらくその顔を眺めていたい感情がないではなかったが、ヴァージニアはすぐに二つのカップにレモンティーを注いで蜂蜜を垂らし、それを匙でかき混ぜる。茶は温かい方が美味い。
「なんだか来るたびに持て成しが豪華になってない? あとで請求書送ってきても知らん顔して燃やすわよ?」
「実はうちの部隊には便利な妖精さんみたいな人がいてね。その人はペイロード管理と重心調整のプロなんですって」
「……バーンズのこと言ってるんならマジで笑えないわ。あのキャラで有能とかウザ過ぎるでしょ」
ダルそうな顔をしつつジュスマイヤーは用意された席に座り、とりあえず籠の中の御菓子を鷲掴みにしてソーサーの周りに散らした。
キラキラと金色に光る包み、袋越しにもシナモンの香りが漂うスティック状の菓子、色とりどりの焼き菓子が入った小包。
どれもこれもルビコンでは通常見ることすら叶わない代物だ。こうした嗜好品は星外企業由来のものだと相場が決まっている。
武器兵器に続いてこんなものまで持ち込んでくるなんて大したものだ、とジュスマイヤーが小包を開けて水色の焼き菓子―――マカロンを一つ口に入れると、まあ腹立たしいことに美味い。
気味の悪い色付けがされているのに口の中に広がる感触は柔らかく、サクッとしていながらもしっとりとした味わいを感じるものだ。実に腹立たしい。
キラキラと金色に光る包み、袋越しにもシナモンの香りが漂うスティック状の菓子、色とりどりの焼き菓子が入った小包。
どれもこれもルビコンでは通常見ることすら叶わない代物だ。こうした嗜好品は星外企業由来のものだと相場が決まっている。
武器兵器に続いてこんなものまで持ち込んでくるなんて大したものだ、とジュスマイヤーが小包を開けて水色の焼き菓子―――マカロンを一つ口に入れると、まあ腹立たしいことに美味い。
気味の悪い色付けがされているのに口の中に広がる感触は柔らかく、サクッとしていながらもしっとりとした味わいを感じるものだ。実に腹立たしい。
「面白くて良い人なのよ、彼」
そんなジュスマイヤーの表情の変化を見て取れるヴァージニアは、レモンティーの香りを楽しみながらにこやかに言った。
ジュスマイヤーはマカロンを二つ三つを食べつつ、思った。
三枚目なキャラと見た目をした自称便利な男が本当に便利な男であることが、なぜここまでイラっとするのだろうか。
とりあえず、腹立たしくイラっとしたのでジュスマイヤーは口の中のものを飲み込み、残りをレモンティーで流し込む。
―――これも美味いのだ。悔しいことに。
ジュスマイヤーはマカロンを二つ三つを食べつつ、思った。
三枚目なキャラと見た目をした自称便利な男が本当に便利な男であることが、なぜここまでイラっとするのだろうか。
とりあえず、腹立たしくイラっとしたのでジュスマイヤーは口の中のものを飲み込み、残りをレモンティーで流し込む。
―――これも美味いのだ。悔しいことに。
「面白くて良い人でも肌身を重ねるくらい親密になれるかは別なの。ヴァージニアには分からないわよね、ヴァージニアなんだもの」
鼻を鳴らしながらそう言ってやっても、ヴァージニアは嫌そうな顔をしない。むしろ、楽しそうに微笑む。
余裕たっぷりと言うか、自信満々だ。懐が深いというレベルではない。底が見えない。優し気で、怒らず威圧せず、いつも静かに笑っている。
余裕たっぷりと言うか、自信満々だ。懐が深いというレベルではない。底が見えない。優し気で、怒らず威圧せず、いつも静かに笑っている。
「あらあら、手厳しいわ。でもそうね、たしかに私は肉体関係と親密さの繋がりがよく分からないかもしれないわね」
「女王陛下におかれましては、たとえ性的知識と経験が豊富でもそのまんまな気がいたしますわよ。ホント、子どもの御守を押し付けられたベビーシッターの気持ちとか考えてみたら」
「でもベビーシッターは子供の御守をするのがお仕事よね」
「つい数か月前まで銃向けあってたとこの女にそれ頼む感性が分かんないっての」
「冷静に考えれば分かるはずよ。だって、あなたはあの子も私も殺せないでしょ?」
「………あんたら二人ってマジで腹立つわね」
「あとバルデスとヘイレンだとあの子には不足だもの。私も立場で縛りが多いし、何よりあの子は厳密にはウチの会社のものじゃないしね」
そう言いながらヴァージニアはテーブルナイフでチーズケーキを切り分けていき、皿にそれを乗せてジュスマイヤーの前に置いた。
黄色い飾り気のないケーキの一切れにフォークを通して、その欠片を口に運ぶと、しっとりとした感触と味わいがジュスマイヤーの口に残った。
黄色い飾り気のないケーキの一切れにフォークを通して、その欠片を口に運ぶと、しっとりとした感触と味わいがジュスマイヤーの口に残った。
「だからあなたなのよ、ジュスマイヤー。あの子の、イレヴンの調子はどう?」
「狼の檻に恐竜の幼体を置いておいて、その恐竜の調子はどうって聞くのヤバいわよ。相変わらずよ、鼻が利いて勘も良くて、考えてないのにどこが上座か理解してますって感じ」
「調子が良さそうで何よりだわ。―――でもそうね、イレヴンが恐竜なら私はなんなのか、ちょっと興味あるわね」
「あなたはライオンよ。じっと座ってこっちを見てるやつ」
「良いわね、ライオン。勇敢さや権力の象徴よ」
「獅子に見つめられる狼の気持ちにもなってみなさいよ。ったく」
「大丈夫よ。私は狼の毛皮に懸賞金なんて掛けないから」
ふふふ、と上機嫌そうに笑うヴァージニアを努めて無視して、ジュスマイヤーは目の前のケーキと御菓子と茶を楽しむ。
いくら皮肉を言っても食ってかかってもこの女帝は自分の座った玉座から降りないのは、もう分かっている。そこもイレヴンと似ている点だ。出て行け、どっかへ行けと言ったところで、この二人はこちらをじっと見つめて言うに決まっている。私が嫌ならお前が出て行けばいい、だとかなんとか。
とはいえ、ヴァージニアはイレヴンよりも経験と知識がある。見透かされているのは腹立たしいが、ヴァージニアはその上で人間との触れ合いを、人間的な機微を楽しんでいる節がある。それはともすればポアンカレ気味な能天気さにも見えるが、彼女はそうした性善説なものは信じていない。人間讃歌を信じている。ジュスマイヤーにとって非常にムカつくことに、ヴァージニアは人間を愛しているのだ。
じゃれたがるライオンを前にしても美味いものは美味い。甘いものは甘い。食べて飲むのを挟みながらジュスマイヤーはヴァージニアと他愛のない皮肉の応酬を繰り返す。
あんまりにもそれが続くので、食べることに集中したくなったジュスマイヤーは楽しそうな顔のヴァージニアに言った。
いくら皮肉を言っても食ってかかってもこの女帝は自分の座った玉座から降りないのは、もう分かっている。そこもイレヴンと似ている点だ。出て行け、どっかへ行けと言ったところで、この二人はこちらをじっと見つめて言うに決まっている。私が嫌ならお前が出て行けばいい、だとかなんとか。
とはいえ、ヴァージニアはイレヴンよりも経験と知識がある。見透かされているのは腹立たしいが、ヴァージニアはその上で人間との触れ合いを、人間的な機微を楽しんでいる節がある。それはともすればポアンカレ気味な能天気さにも見えるが、彼女はそうした性善説なものは信じていない。人間讃歌を信じている。ジュスマイヤーにとって非常にムカつくことに、ヴァージニアは人間を愛しているのだ。
じゃれたがるライオンを前にしても美味いものは美味い。甘いものは甘い。食べて飲むのを挟みながらジュスマイヤーはヴァージニアと他愛のない皮肉の応酬を繰り返す。
あんまりにもそれが続くので、食べることに集中したくなったジュスマイヤーは楽しそうな顔のヴァージニアに言った。
「今日のアンタ、なんか饒舌じゃない?」
「そうでしょ? この後、ルシエンテスと打ち合わせがあるの」
「あぁ………」
それを聞いた瞬間だけ、さすがにジュスマイヤーもヴァージニアに同情した。
本当に同情できているのかなど、分かるはずもなかったが。
本当に同情できているのかなど、分かるはずもなかったが。
投稿者 | 狛犬えるす |