harukaze_lab @ ウィキ
獅子王旗の下に
最終更新:
harukaze_lab
-
view
獅子王旗の下に
山本周五郎
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)東阿《とうあ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)五|呎《フィート》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)※[#感嘆符二つ、1-8-75]
-------------------------------------------------------
[#3字下げ]東阿の老虎[#「東阿の老虎」は中見出し]
「エチオピア! エチオピア!」
果然、一九三五年の世界視聴は、挙げて東阿《とうあ》の一王国に集まった。
阿弗利加《あふりか》大陸における最古の国、唯一の独立王国、輝かしき歴史に飾られたる聖地、酷熱の砂漠と清涼なる山地と恵まれたる幾多の産物、宝庫のごとき楽園エチオピア! この夢のごとき浄土は今、白人種の暴虐なる侵略の足下に累卵の危き運命に直面しつつある。
「エチオピア敗れんか?」
ああ、もしエチオピア敗れんか? それは単に一黒人王国の滅亡のみに止《とどま》らず、ひいては有色人種全般におよぼすべき大なる問題がかかっているのだ。幾百千年にわたる白人種の飽《あ》くなき侵略と横暴、貪欲野獣のごとき足下に蹂躙《じゅうりん》されてきた有色人種は、この一戦をこそ挙《こぞ》って白色人種に対抗する聖十字軍となすべきではないか? ――。
「エチオピアを救え、白人の魔手より我等の楽土を奪還せよ!」
熱烈なる声は、ついに世界各所の有色人種間に火のごとく湧上《わきあが》った。――嗚呼《ああ》、銘記すべし一九三五年の秋を※[#感嘆符二つ、1-8-75]
世界がエチオピア問題で狂気のごとく騒いでいる時、即ち昭和十年九月はじめのことである。エチオピアの首都アジス・アベバの、王宮の門前を二人の日本人が歩いていた。
一人は四十五六こなる髯男で、佐伯勇造《さえきゆうぞう》という鉱山家だ。エチオピアへ渡ってきてからもう十五年余りにもなるが、今では南方アバヤ湖畔で金剛石《ダイヤモンド》鉱山を大きく経営している。――そのつれは背丈こそ五|呎《フィート》にあまる逞しい体つきだが、まだ十八歳にしかならぬ少年だ。佐伯勇造の甥に当る佐伯|哲一《てついち》と云《い》って、俊敏な偉才を認められた結果、東京新聞のエチオピア事変観戦記者として遥々《はるばる》やってきたものである。
二人は王宮の外苑に添って迂回し、英国領事館の旗を左に見ながら、美しいユーカリ樹林の前庭をもった、とある邸宅の門内へはいっていった。
「カデロ将軍はおいでになるか」
勇造は玄関へ迎えた侍僕にいった。
「こちらはアバヤの佐伯勇造という者だ」
「おいでになります」寺僕は挙手の礼をして、「貴方《あなた》のおいでを先程からお待ちになって居られます。どうぞお通りください」
そういって、応接間へ案内した。その部屋は白堊《はくあ》塗りのがっちりした洋間で、チョオク材の頑丈な調度のほかには別に飾りとてもなかったが、正面に石膏造りの台があって、その上に獅子毛で飾られた兜《かぶと》が一領、厳しく安置されているのがいかにも武人の客間らしい奥床《おくゆか》しさを見せていた。
「あれを見ろ、哲一」勇造が兜を指していった。「あれはハイル・シラシエ・カデロが、メネリック王から賜《たま》わった御愛用の兜だ、――あの獅子の鬣毛《たてがみ》で飾られてあるのが王の御物《ぎょぶつ》の証拠だ」
「ではカデロ将軍は余程の英雄とみえますね」
「無論だとも」勇造は大きく頷《うなず》いた。
四十年以前、伊太利《イタリー》軍がエチオピア征服をめざして侵入してきた時、アドワを死守して華々しく戦いついに十万の伊太利《イタリー》精兵を国外へ敗走せしめた――あの有名なアドワ戦の随一の殊勲者だ。当時まだ三十そこそこの若者だったがメネリック王はその勇猛を嘆賞して南方ラジョ地方の総督に任じ、愛用の兜を賜ったのだ」
「そうすると、将軍はもう余程の老人なんですね」
「七十幾つだろうな、しかしカデロ家は王族の中でも最も古い家柄で、将軍自身はいまでも国民たちから『カデロの猛虎』と綽名《あだな》されて、慈父のごとく慕われているのだ――今度の事変では西部国境の総帥として、伊太利《イタリー》軍の脅威の的になっているよ」
話しているところへ、
「将軍がおみえになります」
と侍臣の一人が知らせにきた。
[#3字下げ]聖地マグダラ[#「聖地マグダラ」は中見出し]
カデロ将軍が入ってきた。
褐色の逞しい顔いちめんに、銀のような白髯《はくぜん》が埋めている。鋭い眼つきて鼻が大きく軍服の肩が若者のように張っている、――佐伯勇造がうやうやしく敬礼するのに答えながら、将軍はつかつかと哲一少年の前へ進寄《すすみよ》った。
「君だね。佐伯哲一君というのは」
「さようでございます、閣下」
「よくきてくれた。儂《わし》がカデロじゃ、――君は何歳になるか」
「十八歳でございます、閣下」
「良い年じゃな、十八歳といえば儂《わし》が父のシラシエに従ってマグダラの戦《たたかい》に初陣をした年だ。君はマグダラの戦を知って居るか」
「存じて居ります」
五十年前、エチオピアは和蘭《オランダ》と戦って敗れ、マグダラの聖地を奪われている。それ以来現在でも聖地マグダラはほとんど和蘭《オランダ》の権力下におかれてあるのだった。
「さあ椅子《いす》にかけるがよい」将軍は哲一少年に椅子をすすめ、自分もどっかりと坐った。
「今度の戦争に、日本が多大の好意を寄せて呉《く》れていることは我々エチオピア人にとって最も大きな喜びである、――哲一君、君は東京新聞の観戦記者としてこられたと聞くが、単に一新聞記者として終始するつもりか?」
「お言葉でございますが」哲一少年はにっこり笑って答えた。「お言葉でございますが、閣下、それは改めてお答え申すに及ばぬことだと存じます」
「あははははは、そうか」将軍は白髯をゆるがせて哄笑した。「いや、そう聞けば分った。我々は日本に対して心からの信仰をもっている、将来は日本を師範として国運発展を計ろうと覚悟しているくらいじゃ、――当地に滞在中はどんな便宜でも喜んでお役に立とう」
「――閣下」哲一少年は静かに顔をあげた。
「早速ですが、私の疑問を一つ解いて頂き度《た》いと存じます」
「儂《わし》にできることなら……」
「伊太利《イタリー》軍の侵略の目的は何処《どこ》にあるのでございますか、――?」この一言はひどく将軍を驚かせたらしいカデロ総督はきらりと眸子《ひとみ》を光らせて、昵《じっ》と少年の面《おもて》を覓《みつ》めていたが、
「それは……新聞の伝えるとおり、伊太利《イタリー》がエチオピアを属領にして、大植民地を経営せんとする野心に外《ほか》ならぬではないか」
「それは、表向きのことです!」哲一はずばりといった。
「閣下は、伊太利《イタリー》が和蘭《オランダ》政府との間に、ある秘密交渉を進めている事実を御承知でございますか――?」
「何? 何じゃと※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「伊太利《イタリー》の望んでいるのは、聖地マグダラでございます、閣下!」最後の言葉はカデロ将軍を仰天させた。将軍は椅子から跳上《とびあが》り、まるで仇敵をでも見るように鋭く少年の眼を見戍《みまも》っていたが、……やがて振返《ふりかえ》ると、
「佐伯君、ちょっと座を外して下さい」といった。佐伯勇造は気遣わしそうになにかいおうとしたが、将軍が手をあげて制したので謹んで、次の間の方へ退いていった。
「哲一君、君はいま伊太利《イタリー》の望んでいるのは聖地マグダラだと云った、聖地マグダラ――五十年前に和蘭《オランダ》の権力下に移されたエチオピアの聖地……伊太利《イタリー》はいまそれを自分の手に握ろうとしている、値民地経営に名を籍《か》りてマグダラを横奪《とこどり》しようとしている、この事実を君は知っているというのか?」
「そればかりではありません、伊太利《イタリー》は先週のはじめから、和蘭《オランダ》政府との間にマグダラ譲渡の交渉を進めて居ります、償金は五億万リラだそうです」哲一少年はきっと声を正した。
「閣下、私の疑問を解いて下さい。伊太利《イタリー》はなんのためにマグダラを欲しがっているのですか、巨額の軍事費を費《ついや》し、世界の視聴を驚かし、更《さら》に五億万リラという償金を支払ってまでなんの必要があって、マグダラを手に入れようとしているのですか?」
「儂《わし》も知りたいのだ、哲一君! 儂《わし》もそれが知りたいのだ。嗚呼《ああ》――何故《なにゆえ》に伊太利《イタリー》はマグダラがほしいか?」将軍は懊悩《おうのう》して部屋の中を歩きまわった。
「これには大秘密が匿《かく》されている、世界を驚倒せしむるに足る一大秘密があるに違いない。それだけは朧気《おぼろげ》ながら私《わし》にも分っている」
「聞かせて頂けませんか?」
「――よろしい、いおう。よく聞き給え、今から十年ほど以前、エチオピア王宮の宝庫から或る文書が盗出《ぬすみだ》された事実がある、犯人は伊太利《イタリー》人の商務官だ!」
「その文書には何が書いてあったのですか」
「アビシニア王史の一冊で、元始セミチック族の文字で書かれてあるため、それまで誰にも判断することができなかった、――秘密はその文書の中に匿《かく》されているのだ」
「では、最早それを見ることはできぬわけですね?」
「いや、カデロ家に写しが伝わっておる」
「それは本当ですか?」
「儂《わし》の領地ラジョの城中に秘蔵してある、これは儂《わし》だけしか知らぬことだがしかし事ここに及んでは、その写《うつし》も役に立つまい……」
「それどころか、充分役に立ちますよ」
哲一少年は断呼《だんこ》としていった。
「閣下、我々は早速|伊太利《イタリー》と和蘭《オランダ》政府との、マグダラ譲渡交渉を中止させましょう。元々マグダラは和蘭《オランダ》へ権益を貸したものですから、譲渡するに当ってはエチオピアの承認が必要です、我々は断呼として譲渡を拒絶し、――同時に伊太利《イタリー》侵入軍の手から聖地を護るべきです」
「――君は、我々に力を藉《か》してくれるか、エチオピアの国難に乗出《のりだ》して呉れるというのか、哲一君……?」哲一少年は黙って椅子から起《た》ち、将軍の方へ手を差伸《さしのば》ばした。
「――うん?」
カデロ将軍は莞爾《かんじ》と笑って、強く強くその手を握った。
「君のような豪毅俊敏、果断な少年に会うのは初めてじゃ――感謝する」
「お役に立ち度いと思います、閣下」
二人は眼を見合せながら、からからと笑った。――とその刹那だった。
「あ! 危い※[#感嘆符二つ、1-8-75]」と叫んで、突然哲一少年が、ばっ[#「ばっ」に傍点]と将軍の体を突飛《つきと》ばした。
「なにをする?」将軍が驚いて叫ぶ、同時に窓|硝子《ガラス》が砕けて、びゅっ! と将軍の耳をかすめ飛ぶ弾丸、がん[#「がん」に傍点]※[#感嘆符二つ、1-8-75] と窓外に鋭い銃声が聞えた。
[#3字下げ]謎の刺客[#「謎の刺客」は中見出し]
窓の外からふいの狙撃に、危《あわ》や! という一刹那、哲一少年の咄嗟《とっさ》の気転から実に一髪の差で死をまぬかれたカデロ将軍が、
「うぬ……曲者《くせもの》め!」と喚いて立直《たちなお》った時には、早くも哲一が身を翻《ひるが》えして外へとび出していた。
外廊へ出てみると、今しも迫持《せりもち》柱の蔭から一人の男が逃げだしていくところである、哲一は跳躍して追迫《おいせま》ると、――相手が振返って拳銃《ピストル》を構える、その手を逆に捻上《ねじあ》げながら片手で相手の顎を押えて力かぎり、土塀へ叩きつけた。
「ぐっ!」と呻《うめ》いて蹴上《けあ》げてくる足、さっとかわして捻上げた腕を右へまわすや、
「えーい」掛声《かけごえ》と共に烈《はげ》しく引落《ひきおと》す、のめるところをのしかかって馬乗りに押えつけた。――そこへカデロ将軍を先に叔父の勇造やカデロ家の侍臣たちが駈けつけてきて、うむをいわさず怪漢を捕縛した。
「君のお蔭で命拾いをしたよ、哲一君」将軍は大きな手でがっしりと哲一の手を握りながらいった。
「なんという機敏な行動だろう、例《たと》えどんな場合にもせよ東阿の老虎といわれるこのカデロを、咄嗟に突飛ばすことのできた者は君が初めてじゃ、弾丸は儂《わし》の耳をかすめたが、もう一瞬君の突飛ばすのが遅かったら儂《わし》は頭骸骨のまん中で鉛の御馳走を喰っていたじゃろう」
「お褒めを頂くほどのことではございません、閣下――危機に面して常に果敢であれ、というのが日本人の精神です」
「その事実を眼前に見ることができたのは仕合せじゃ」
将軍は頼母《たのも》しげに何度も哲一の手を強く振った。それから怪漢を邸内へつれ戻ると、すぐ取調《とりしら》べにかかった。刺客は若い兵士で、一見南方土人であることが分る、細い眼の口髭の濃い男であった。
「お前はどこの者だ、名はなんというか」
「ハラベル生れです、名前はカズーと申します」
「兵役にあるのか?」
「――いえ、水牛を飼っております」
「嘘をつくな※[#感嘆符二つ、1-8-75]」将軍はどしんと卓子《テーブル》を叩いた。「貴様の上衣《うわぎ》の衿には軍団章を剥がした痕がある、しかもまだ剥がしたばかりじゃないか、――どの軍団に属していた?」
「申上《もうしあ》げられません」
「云えなければ云うには及ばぬ、正規兵の所属を知るくらいの事は簡単じゃ、――お前はいまこのカデロを暗殺しようとしたが、なんのために殺そうとしたのか、誰かに命ぜられたのか、それとも自分の考えでやったか?」
「閣下を暗殺しようなどと考えたことはありません、拳銃《ピストル》を弄《いじ》っていたら……つい指が滑ったのです」
「そんな言訳《いいわけ》が通ると思うか」
「事実です」怪漢カズーは昂然と嘯《うそぶ》いた。――将軍はしばらく相手の眼を見詰めていたが、やがて椅子から起つと大股に進寄ってカズーの胸を片手にひっ掴んだ。
「貴様は、カデロが東阿の老虎といわれている意味を知っているか。先帝メネリック大王でさえ――カデロを怒らせるな、と仰せられたことがある、知っているだろうな?」
「――はい」カズーの顔色がさっと蒼白《あおざ》めた。
「売国奴め※[#感嘆符二つ、1-8-75]」カデロ将軍は再び呶鳴《どな》った、「貴様の体に流れているのは、我が光栄あるエチオピア人の聖なる血だぞ。貴様はその血を汚した、この大国難に際して全国民が祖国のために生命《いのち》を投出《なげだ》す時、貴様は同朋の一人たるハイル・シラシエ・カデロを暗殺しようとした、――それでも貴様は恥じないのか、貴様の体には血も魂もないのか※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「――閣下」カズーは突然そこへ跪《ひざまず》いた。
「申上げます、申上げます閣下」
「云え、貴様の汚《けがれ》を洗うにはまだ遅くはない」
「私は、私はシェラダの……」男はそう云いかけたまま、不意にぴくん[#「ぴくん」に傍点]と身を顫《ふる》わせると、かっ! と喉を鳴らせたが前のめりに倒れた。――一同は茫然として見戍る……とカズーの白服の背中へばっと血が滲みだしてきた。
[#3字下げ]秘密の鍵[#「秘密の鍵」は中見出し]
「あっ――」といって哲一が駈寄《かけよ》った、カズーを抱起《だきおこ》してみると、背中から心臓部へ弾丸《たま》が貫通している。
「狙撃されたのです閣下」
「しかし、なんの音も聞えなかったではないか」
哲一は窓へとんでいった。撃ったのは精巧な空気銃だ、さっきカズーの狙撃した窓|硝子《ガラス》の破目からやったのに違いない――哲一は脱兎のように外廊へとび出そうとする。とたんに、一人の老将軍が四五名の部下を従え扉口《とぐち》から悠然と入ってきた。
「おお、老カデロ在宅じゃな」
「やあこれは珍客」カデロ将軍はすばやく侍臣に命じてカズーの死骸を運び去らせながら、客を広間の方へ案内していった。
哲一は後に残って外廊へ出ると、狙撃したと思われる窓の外を調べた、すると外廊の下の地面に、きらきら光る小さな金具の落ちているのを発見した。
「さっきは慥《たしか》になかったぞ、と、するとカズーを撃った奴が落した物に違いない」拾いあげてみると楕円形の金|渡金《メッキ》をしたもので、「旗を持っている獅子」が浮彫《うきぼ》りになっている、それはエチオピア王家の紋章で、王族だけが持つことのできる品であった。
「カズーが秘密を明しそうになったので、あの窓から射殺した奴がある――そしてその男は、獅子王旗の紋章のついた品を持つことのできる身分に違いない。してみるとこれは簡単に解決のできる事件ではないぞ」哲一は金具をポケットに入れながら呟《つぶや》いた、すると丁度《ちょうど》その時、侍臣の一人が急ぎ足にやってきて、将軍が呼んでいると伝えた。
「ああ、ちょっと君」哲一は侍臣に振返って、「いま来た客人はどう云う身分の人ですか」
「はい、あれはシェラダの豪族で有名なマジ将軍と云われます、カデロ閣下とは古くからの御親友でいらっしゃいます」
「シェラダ……?」哲一は首を傾げた、さっきカズーが死の直前に「シェラダ」という言葉をもらした。どういう意味でいったかは、当人が死んだ今となっては分らないけれど、とに角《かく》なにか関係がなくてはならぬ。
「よし、眼をつけてやろう」哲一は心に頷きながら、侍臣に導かれて広間へ入っていった。――広間では卓子《テーブル》をはさんで両将軍が大声に話をしていたが、哲一の入ってくるのを見るとカデロ将軍がにこにこ笑いながら、
「こっちへき給え哲一君、ここにいるのは儂《わし》の旧友でシェラダの城主マジ将軍だ――これがいま話した佐伯哲一少年じゃ」
「お眼にかかれて光栄に存じます閣下」
「いや、儂《わし》こそ日本の若いお友達を得て光栄じゃ、いまカデロから聞いたが、暗殺者の手から彼を救った君の奇智と勇気には、実に敬服しましたぞ、どうかこの後《のち》とも我々の力になって貰いたい」
「恐縮に存じます――」拝揖《おじぎ》をしながら、哲一が見ると……マジ将軍の佩剣《はいけん》の柄頭が脱《と》れている。
「閣下……」と哲一が進んで、ポケットからさっき拾った金具を取出しながら云った。
「失礼でございますが、剣の柄頭をお落しになりはしませんでしょうか」
「柄頭? はて――」マジ将軍は自分の佩剣へ振返ったが、
「おおこれは、いつ脱《はず》れたかしら」
「この品ではございませんでしょうか」
哲一は相手がどんな顔をするかと鋭く見詰めながら、例の金具を差出した。マジ将軍は哲一の眼つきには気もつかぬ様子で、
「やあ有難《ありがと》う、これに違いない――そら、ぴったり嵌《はま》ったよ」
「貴公も佩剣の柄頭を落すようでは、よほど老耄《ろうもう》したとみえるのう、ははははは」マジ将軍か金具を嵌めるのを見ながら、カデロは愉快そうに腹をゆすって笑った。――それから哲一の方へ振返って、
「ときに、マジ将軍は明日当地を出発しマグダラへいかれるが、君も伴《つ》れていって貰ってはどうかな」
「ぜひお願い致します」哲一は熱心に答えた。「しかし……マジ閣下のマグダラ入りは、なにか特別な御任務でもあるのではありませんか?」
「それは機密じゃ」マジ将軍はそういって立上った。「一緒にいくなら明朝十時までに儂《わし》の邸《やしき》までくるがいい、君のためにできるだけの便宜を計ることにしよう」
「どうぞお願い致します、閣下」哲一は叮重《ていちょう》に拝揖《おじぎ》をした。
[#3字下げ]豹の娘[#「豹の娘」は中見出し]
その日から数えて三日めの夜。
アジス・アベバを出発したマジ将軍の一行は、サハルの山嶽地方を強行して青《ブルウ》ナイルの岸に出で、デブラ・マルコスの渓谷を望む牧地に野営した。――佐伯哲一はこの三日間、絶えずマジ将軍の身辺に注意して、どんな些細《ささい》なことにも眼を放さなかったが、別にこれといって怪《あやし》むべき様子は見当らなかった。
夜営の簡素な夕食の後、哲一が日記をつけていると、突然マジ将軍がやってきた。
「どうだね哲一君、馴れぬ旅路でさぞ疲れたことだろう。これから青《ブルウ》ナイルの岸を散歩しようと思うのだが、よかったら一緒にこんかい――?」
「お供を致しましょう」哲一は日記帳を閉じて立上った。
夜営|天幕《テント》を出て、野麝香草《のじゃこうそう》やえにしだ[#「えにしだ」に傍点]の強く匂う牧地の傾斜面を下りて行くと、やがて道は広々とした河原へ出た。夕月が東の空にかかって、微風もない澄んだ空気は快く花の香にしめっている。
「見給え、あれがナイル河だ。ツアナ湖より流れマグダラの水を合して涎々《えんえん》五千|哩《マイル》の地をうるおし、埃及《エジプト》カイロから地中海へ注ぐナイル河だ、我等祖先の興亡三千年……その血を吸い、その肉を晒《さら》し、幾多の悲劇と喜劇とを、この河は冷然と見戍ってきたのだ」マジ将軍の声は感慨に顫えている。――東方|阿弗利加《アフリカ》の歴史はナイル河を中心に発展している、それは哲一少年も知っているところであった。そして今、現代東阿の情勢も、このナイル水源地方をはさんで幾多の危機が相せめいでいるのだ。
二人は水際まで下りていった、――するとその時、二百メートルほど河上で大きな水音がした。
「何でしょう、今の音は……?」
「水を呑みにきた野獣でも墜《お》ちたのだろう」
将軍がそういった時、
「――助けて……」と叫ぶ土語が聞えた。
「誰か人が墜ちたらしいですね」哲一はそういって、声のする方へ走りだした。みると岸からずっと離れた、流れの烈しいところを一人の少女が押流《おしなが》されていくところだった。
「いま助けてやる、待ってい給え」
哲一は叫ぶなり水の中へとびこんだ。
水はひどく冷たいうえに、流れは思いのほか早かった、服も靴も脱ぐ暇のなかった哲一は、強い流れに押しやられて危く中流へ捲込《まきこ》まれようとしたが、懸命に少女の側へ泳ぎついた。
「噛り着いてはいけないぞ。手を出して、そうだ。上を向いて頭を水につけて、よし、そら元気を出すのだ」左手を少女の背へ下からまわし、相手の体を浮かすようにしながら、岸へ向って泳ぎだそうとした時である、突然、
シュッ! と何かが飛んできて、右手の水を打ったと思うと、たーん! と云う銃声が渓谷に木魂《こだま》して聞えた。
「や……?」と思って振返ると、今――そこにいたマジ将軍の姿が見えない、そればかりでなく岸の水楊《みずやなぎ》の茂みに誰か隠れている。たーん! 再び銃声。
「しまった!」呻く哲一の鼻先へ、シュッ! と弾丸《たま》が飛んできて飛沫をあげた。動作を縛られている水の中だ、このままではすぐに射殺されてしまう。
「苦しいけれど我慢をおし」と云うと、哲一はいきなり少女を抱えたまま水中へ潜った。
少女を放してしまえば危地を脱するのは容易《たやす》い、しかし溺れかかっている者を見放して、自分だけ助かろうというような卑怯な気持にはどうしてもなれなかった。――強い流れを利用してしばらく水中を潜った後、息をつくために水面へ浮ぶ、とたんに又しても銃声、
たーん! たんたん※[#感嘆符二つ、1-8-75] 続けさまに四五発、哲一の前後左右で飛沫をあげた。危険! 哲一は息をつくまもなく再び水中へ潜る――こんなことを二三度|繰返《くりかえ》しているうちに、ようやく距離が遠くなって銃声もと絶《だ》えた。
「もう大丈夫だぞ、確《しっか》りするんだ」
「――ええ」
「そら、元気をだして」
励《はげま》しながら、やっとの思いで岸につく、少女を助けあげると、河原の草地へきて哲一はばったりと倒れてしまった。――少女はさすがに蛮地で育っただけ、直《ただち》に元気を取戻して哲一少年の側へよって、
「いま力のつく食物《たべもの》を持ってきますから、しばらくここで待っていて下さい」というと、身軽に林の中へ走《はしり》こんでいった。哲一はその声を夢のように聞きながら、いつか気を失ってしまったのである。
[#3字下げ]跟ける![#「跟ける!」は中見出し]
「さあ、これを召上《めしあが》れ」少女の声に呼覚《よびさま》されて、哲一が我にかえってみると、側には火が焚いてあった。
「死にかかっている病人もこれを食べれば治るといわれている木実《このみ》ですわ、すこし臭いかもしれませんけど召上って下さい」
「ありがとう」哲一は半身を起して、少女の手から栗のような形の果実を受取って、食べた。初めは少し青臭いような気がしたが舌に溶ける蜜のような甘さは、そのまま浸込《しみこ》んで血になるかと思われるほど美味《うま》かった。
「なんという果実ですか」
「私たちはスバルと申しています」三つばかり続けざまに喰べて、ふと振返った哲一は思わず、
「あっ!」と叫んで跳上った。「豹が……」
すぐ背中のところに、若い二歳ばかりの牡豹が蹲《うずく》まっているのだ。少女は慌てて、
「ああ大丈夫ですわ、これは私のお友達なのです、すっかり馴れていますから決して危険はございませんの」
「貴女《あなた》のお友達……豹が?」
「ええ」少女は頷きながら豹の頭を撫でた。すると豹は、まるで飼主《かいぬし》に愛される仔猫のように、ごろごろ喉を鳴らしながら、少女の腰のあたりへ頭をすりつけすりつけした。
「私はアデラと申します。生れはこの谷合《たにあい》のアンコベ村ですが、早くから孤児《みなしご》になったので、今ではこの豹のドラと淋しく暮していますの――村の人たちは、私のことを豹の娘と申していますわ」
「豹の娘……なる程あなたに似あった名だ」
「そうお思いになって?」
「貴女《あなた》の体つきや眼つきには、どことなく近寄りにくいところがありますよ」哲一がそう云った時、少女アデラの眼が本当に豹のようにきらきらと光った。
身心の力が恢復《かいふく》してくると、哲一はこれからどうすべきかを考えなければならなかった。少女を助けるために水中へとびこんだのを、岸から狙撃したのは何者であろうか――? マジ将軍の姿がふいに見えなくなったのは何故《なぜ》であろうか――?
「もし、マジが僕を殺そうとしたのだとすると、カデロ邸でカズーを射殺したのも彼だ。僕がこの佩剣の柄頭を拾ってやったので、彼は僕がなにかを知っていると思い、ここで暗殺して自分の犯罪を闇から闇へ葬る積《つも》りだったに違いない……しかし、彼はカデロ将軍の最も親しい旧友だというではないか、そうだとするとカデロを暗殺させる理由が分らない」
事件はひどく複雑だ。あれ程カデロに信頼されていたマジ将軍が、もし仮にカデロを暗殺させようとした張本人であるとすると、先《ま》ずその理由を探しださねばならぬ。
「よし、僕はその理由をみつけだすぞ、――どう考えてもマジが怪《あやし》い。彼が聖地マグダラへいくのも、その裏に何か秘密があるかも知れぬではないか」哲一は独りうち頷いた――これからひそかにマジ将軍一行の後を跟《つ》けて、秘密の鍵を掴んでやろう――! と。
「貴方《あなた》はどこへいらっしゃいますの?」
「マグダラへいこうと思う」哲一は服を脱いで焚火《たきび》に乾かしながら答えた、「実はここまで或人と一緒にきたんだけれど、その人は僕のいくのを好まぬらしい。さっき水の中にいた時鉄砲を射ったでしょう、あれがその伴《つ》れの一味なんだ」
「まあ……僧いことをする人ねえ」アデラは歯を剥出《むきだ》して怒った、「もし私がその男をみつけたら、このドラを唆《け》しかけて喰殺《くいころ》させてやるわ」
豹のドラは主人の怒《いかり》の声を聞くと、にわかに背筋の毛を逆立て、牙を剥出して低く呻った。ドラはまるで人間のようにすばやく、アデラの怒りや喜びを覚るらしい。
やがて濡れた服も乾いたので、哲一は手早くそれを着ると、少女の方へ手を差出して別れを告げた。
「まあ、もういらっしゃるの?」
「大事な用を控えているから、今夜のうちにつれの者に追いつかなければならないんだ、これでお別れにしよう」
「厭《いや》ですわ」アデラは決然と立上った、「私も御一緒にまいります。いえ! あんな卑怯な狙撃をするような仲間へ、一人で貴方《あなた》をやることはできません、貴方《あなた》のために生命を救って頂いたのですから、今度は私が貴方《あなた》をお護りする番です、どうか一緒に伴《つ》れていって下さい」
「だが」「いえ、なんとおっしゃっても参ります、ドラ! おいで。これからこの方もお前の御主人になったのだよ、この方に危害を加えるような奴があったら、構わず噛殺《かみころ》しておやり、分ったろうね※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
豹のドラは、まるで分ったとでもいうように、ひと声低く咆えると、ぴったり哲一の方へ体をすりつけてきた。
[#3字下げ]騎兵[#「騎兵」は中見出し]
「とにかくマジ将軍の天幕《テント》を見てくる」
佐伯哲一は立上った。
「あのまま山地をいくか、それとも青《ブルウ》ナイルを舟でのぼるか、その様子によってこっちも策をたてなければならぬ」
「あたしもご一緒に」
「いや、君はここに待っているんだ、もし監視兵にでもみつかったらうるさい。どこへも行かずにここでじっ[#「じっ」に傍点]としてい給え」
「はい、それでは待っています」
アデラは温和《おとな》しく頷いた。哲一は近くの叢林の中から手ごろの棘棒《とげぼう》を折取《おりと》って、武器代りに右手へ持つと、河添《かわぞい》の礫道《いしころみち》を上の方へ進んでいった。
マジ将軍がもし叛逆者であるならば、邪魔者の佐伯哲一を殺したと思って安心し、必ずなにか策動をし始めるに相違ない――そこを充分につきとめようというのだ。
牧地かかるすこし手前のところで、哲一は哨兵の立っているのを発見した。
「丁度いいぞ、彼奴《あいつ》から武器を借用するとしよう」
哲一は独り頷くと、闇の中を忍び足に近寄っていったが、棘棒なんかでは充分に活躍ができない、哨兵の腰にある拳銃《ピストル》を奪いとってやろうと思ったのである。しかしもう一歩で跳びかかろうとした時、戛々《かつかつ》と馬蹄の音が近づいてきた。
「しまった、発見されたか?」と身をすくめて叢《くさむら》の中に隠れる、同時に哨兵が銃を構えて
「止れ!」と叫んだ、走ってきた相手は馬を停めて、
「マジ将軍へ使者だ」
「合言葉は――?」
「獅子の爪」
「よろしいお通りなさい。将軍は中央の天幕《テント》にいらっしゃいます」
馬上の男はさっと走りぬけていった、――叢の中から見ると、青色に金筋の入った欧羅巴《ヨーロッパ》風の騎兵であった。
「しめた、密使だぞ」哲一は思わず膝を打った。
深夜この山中で欧羅巴《ヨーロッパ》人の密使と会う、それも言葉つきでみるとたしかにイタリー騎兵だ、マジ将軍こそいよいよ怪しむべしである――哲一はそろそろ叢から這い出した。
哨兵は銃を肩にして往ったりきたりしている。哲一は二三度それをやり過しておいていきなり背後からとびかかった。
「あっ」驚いて叫ぼうとするのを、頸へ右手をまわして満身の力で絞めあげながら、ぐいっと横ざまに引倒した。
「そらっ!」みごとにしめおとす、素早く帯皮《バンド》を拳銃のケースごと外して腰へしめる、落ちていた銃を執《と》って立上った。――ほとんど同時に、天幕《テント》の方からさっきの騎兵が戻ってきた。
「止れ」哲一が叫んだ。
「誰だ、どこへいくか」
「マジ将軍への使者だ」
「合言葉は」
「獅子の爪」
「――下りろ!」
騎兵は意外な言葉に驚いたらしい、哲一は銃をあげて相手の胸を狙い、カチリと安全錠を外しながら、
「下りろ。服従せぬと射つぞ」
「……ま、待て」騎兵は慌てて馬から下りた。
「馬を曳《ひ》いて先へ歩け、右の道を河原へ出るんだ、声をあげると射殺するぞ」
「き、君は……誰だ」
「余計なことを訊《き》くな、歩け!」
騎兵は黙々として進んだ――途中で二三度脱走しようとしたが、結局哲一のために機先を制されて、一時間ほど後にはアデラの焚火している処へ帰ってきた。
「まあ、無事だったわね。哲一」アデラは狂喜しながら駈寄ってきたが、騎兵を見つけて訝《いぶか》しそうに、
「これ誰なの――」
「イタリイ軍の密使だ、マジ将軍へ使者にきた帰りを捉えたのさ」
「イタリイ騎兵……?」
そう呟くと、ふいにアデラの眼がきらりと光り、唇がぴくぴく痙《つ》りあがって、野獣のように歯を剥出しながら、
「白い悪魔め、私たちのお国を喰う鬼め!」と叫んでとびかかった。
[#3字下げ]陰謀の糸[#「陰謀の糸」は中見出し]
「いけない、アデラ! お待ち」哲一はやっとの事でアデラを引離した、豹のドラも牙を剥出して、今にも騎兵にとびかかろうとしている。
「アデラ、大事な捕虜を殺しでもしたらどうする、ドラを止めなさい」
「――ドラ、いいんだよお待ち」アデラは口惜《くや》しそうに豹をなだめながら、焚火の側へ坐って鋭く捕虜を睨みつけた。哲一は騎兵の体から武器を取棄てると、
「前へ出給え」と命じた。
「君はマジ将軍から密書を託されているはずだ、まずそれをこっちへ貰おう」
「そんな物は……」
「無駄な隠しだては止《よ》しにしろ、君を殺したって取らずにはおかんぞ、出せ!」
騎兵は諦めて、上衣《うわぎ》の内隠しから一通の書状を取出した。哲一はそれを、受取《うけと》ると、アデラに拳銃をわたして、
「逃げようとしたら射て」と監視を頼み、手早く書状の封をきった。中は達者な英語で、
[#ここから2字下げ]
余は三日の後マグダラに入る、東部戦線の情報は良好、ムロッグの叛乱は確実なり――カミロ将軍とはマグダラに於て会見すべし、[#地から1字上げ]ハイル・シラシエ・マジ
ビアズレイ・バリラ閣下
[#ここで字下げ終わり]
「や! 相手はバリラか」
哲一は仰天した。ビアズレイ・バリラといえば、伊太利《イタリー》陸軍の勇将として、またエマヌエル三世|近衛《このえ》の精鋭を統率する国民的英雄として有名な人物である。――そのバリラ将軍がいつのまにかこのエチオピア奥地へ潜入して、マジ将軍と秘策を弄しているのだ。
「これはすばらしい発見だぞ、マグダラ乗込みは急ぐ必要なし、ここでひとつビアズレイ・バリラ将軍と会見してやろう」哲一はにっこり笑って振返った。
「バリラ将軍はどこに駐屯していられるか、いい給え」
「存じません」
「君は頭が悪いな、隠しても無駄だということが、まだ分らないのか。いい給え!」
「――気、気分が悪いのです」
「どうしたと?」
「なにか、飲む物を下さい」
見ると騎兵は額にぐっしょり汗をかいている、哲一は振返ってアデラに水を汲んできてやれといおうとした――刹那! 騎兵は突然その隙を見てひらりと馬へとび乗った。
「あ! うぬ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
哲一は見るより、横っ跳びにとんで、鞍へ縋《すが》りつくと同時にアデラが拳銃の引金を引いた。
「だーん※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
闇を劈《つんざ》く火花。騎兵は心臓部を射抜かれてどう[#「どう」に傍点]と転げ落ちる、哲一は狂奔する馬をようやく取鎮めながら戻ってきた。
「馬鹿な奴だ!」
即死した騎兵を見やりながら哲一は苦笑をもらした。
「しかし、どうせ生かしてはおけぬ奴だったから、自分の方で銃殺される機会をつくってくれたのは手数が省けてよかった」
「これでお国の仇《あだ》を一人やっつけたわ」
アデラはそういったが、さすがに顔色が変り、拳銃を握った手は微《かす》かに顫えていた。
「――これから、どうするの、哲一」
「この手紙にあるバリラ将軍と会見するんだ、勿論僕は日本新聞の従軍記者としてさ」
「何処《どこ》にいるか分ってる――?」
「僕には分らないが、なにこの馬が知っているさ」
哲一はそういって、主を失った馬の平首をやさしく叩いてやった。
マジ将軍は三日のうちにマグダラへいく、そしてそこでカミロ将軍と会うということが分っている。――だから、その方の探査は後にして、哲一はバリラ将軍に会見しようというのだ。果していかなる計画をいだいての事か? 陰謀の絲《いと》を手繰って哲一は出発した。
馬は哲一とアデラを乗せて、だく足で西へ走りだした。そして夜明け前一時間、ソラノの浅瀬を渡ってブルエの高原へ出た。
東の空は濃い薔薇色に染められ、東南の微風が草林をそよがせて吹きはじめた。豹のドラは草の中をまるで風のように音もなく馬に添って走っていたが――高原へ入って八|哩《マイル》ほどもきたころふいに耳を立て、アデラの方を気遣わしげに見やりながら、低い声で警告するように呻りはじめた。
「哲一、気をつけて頂戴」
「なにを?」
「ドラが何か知らせています、人が近くにいる様子だわ」
[#3字下げ]会見記[#「会見記」は中見出し]
「じゃあこの辺で下りよう」哲一はそういって馬を止め、アデラを援《たす》けながら下りた。
それは実に良い時であった。というのは二人が馬から下りた時、右手の高地の上へイタリイ陸軍の正服《せいふく》を着た士官が三名の兵を連れて巡視に現われたのである。
「伏して、アデラ、動いちゃいけない」
「あいつ、イタリイ人ね!」
「黙って!」
アデラは口惜《くや》しそうに歯を噛鳴らせながら草の中へ跼《かが》んだ、イタリイ兵達はこっちに気づかぬ様子で、そのまま高地の上を去っていく――哲一は、ふところからマジ将軍の書状を取出し、馬の鞍へ落ちないように挿しこむと、平手で馬の尻を強く叩いた。
「そら、行け――」馬は大きくはねあがると、いま去っていくイタリイ兵の方へ向って、疾風のように走っていった。
「どうするの?」
「なに、あの密使が帰らないと奴等はマジ将軍の方へ問合《といあわ》せをするに違いない、だから密書を持たせてやったのさ、使者がいなくても密書が届きさえすれば、マジ将軍へ問合せを出す気遣いはない――あ、奴等は馬を捉えたぞ」
見ると、なるほどいま巡視していた士官たちが、走り過ぎようとする馬を捕えて曳いて行くところだった。
「さて、僕らは廻り道をしよう」
哲一はアデラを促して右手、高地の方へエニシダの茂みを伝いながら登っていった。
高地の上へ出ると、二|粁《キロ》ばかり西にブルエの市街が見えた。百|呎《フィート》も百五十|呎《フィート》も伸びたユーカリ樹林のあいだに、灰色の壁をもった会堂や、土民の家屋が並んでいる。――そして市街の東部の草原には、明《あきら》かに伊太利《イタリー》軍の野営|天幕《テント》と思われるものが、点々と散開しているのが見えた。
「ははあ、まさに二軍団近くの人数だな」哲一は呟いた。
「アスマラから南下した軍があると聞いたが、さてはここまで潜行してきていたのか――国際通信によるとツアナ湖はまだ安全だということだが、これでみると国際通信などがいかに出鱈目なものかということが分る」
「哲一、あそこに哨兵がいるわよ」
「承知だ――君はここで帰り給え……いや黙って、彼奴《あいつ》は僕らをみつけたよ」
百メートルほど先にいた哨兵が、この時つかつかと此方《こっち》へ進んできた。
「アデラ、おまえ今夜あの市の会堂の門までやっておいで。夜中の十二時だ――そこで会おう、いいかい」
「分ったわ、大丈夫」
「じゃあ左様《さよう》なら」云っているところへ、哨兵がきた。
「君らはそこで何をしているか?」
「僕は道に迷って、いまこの土人娘に案内して貰ってきたところだ。ひと晩中歩きつづけてひどく喉が渇いているんだが水はないか」
人を喰った態度に、哨兵の方がちょっと毒気をぬかれ、黙って水筒を差出した――その隙にアデラは立去っていった。
「あまり飲んでくれるな、この地獄のような土地では水は葡萄酒《ぶどうしゅ》よりも大事だからな」
「ありがとうこれで生返《いきかえ》ったよ」哲一は無邪気そうな髯面の哨兵を見上げながら「ところでどうだね、戦地の感想は、いつ此方《こっち》へきたのかい君は」
「戦地の感想は良くないな、水が不足だしおまけに蚊がひどい、まるで蚊と水と戦っているみたいだ――おい、ごまかしちゃいかん、君は何者だ、何のために」
「そう慌てなくともよろしい、僕は日本から来た新聞社の従軍記者で、バリラ将軍に会見のお許しを得ているんだ」
「――従軍記者?」哨兵は眼を刹いた「なんて、その新聞記者てえ人類は耳が早いんだろう、どうして飛龍軍団がここへきたことを知ったんだ」
うっかり口を滑らせた「飛龍軍団」――さてこそ精鋭なる近代科学兵団として名のある飛龍軍団がここにきていたのか? 哲一は心の中で快哉を叫んだ。
「とにかく、将軍の営舎へ案内し給え」
「本当に会見のお許しが出ているのかい?」
「本当だとも、いけば分るよ」
哨兵は困った様子で暫《しばら》く眼をしばしばさせていたが、やがて振返って、
「あの天幕《てんと》の向うに白い平屋《バンガロー》があるだろう、あそこが閣下の営舎だ」と教えた。
哲一は気の好《い》い哨兵に別れて、大股に丘を下っていった。
[#3字下げ]虚々実々[#「虚々実々」は中見出し]
「ビアズレイ・バリラ閣下に御面会を願いたいと存じます」哲一がそういって、従軍|徽章《きしょう》と名刺を差出した時、営兵司令はまるで眼玉がとび出しそうな顔をした、――飛龍軍団がブルエへ侵出したのは極秘の行動で、伊太利《イタリー》軍の中でも知っているのは首脳部だけであったから、外国従軍記者がとびこんできたのは実に青天の霹靂《へきれき》であったに違いない。
横っとびに引込んでいった営兵司令はまもなく引返してきて、
「お会いなさるそうだ此方《こちら》へ」と哲一を応接間へ案内した――しばらく待つまに香りの高い珈琲《コーヒー》やバタ麺麭《パン》が接待に出た。
「ははあ、御機嫌とりだな」にやりとしながら、麺麭《パン》を食べ珈琲《コーヒー》をすすっていると間もなく正服を着た六|呎《フィート》ゆたかの巨《おお》きなバリラ将軍が入って来た。
「やあよく来たな」ひどく愛想がいい。
「いや立たなくともいい、そのままで、そのままでいやどうも君たちの素早いのには驚くよ。どうしてここが分ったかね」
「ビアズレイ・バリラの駐在地が分らぬようでは新聞記者は勤《つとま》りませんです閣下」
「おだててはいかん、――ところで、すっかり知れているのかね、それともまだ君だけしか知らんのか」
「僕だけでしょうな、恐らく」
「そいつは大手柄だ」「まず賞金ものでしょうか」
「その賞金を儂《わし》が出そうじゃないか、どうだね。さ、佐伯哲一君というね君は、どうだ賞金をこっちであげよう」
「買収ですか」
「ブルエ侵入は秘密行動で、いま情報を発表されては軍事上困るんだ、ひどく困るんだ。従軍記者の二人や三人暗殺しても、これは秘密を要するんだよ」
「暗殺なすったらどうです」哲一はにやりとした。
「僕一人ぐらいなら暗殺もへちまもない、一発ずどんとやればおしまいです――ねえ閣下、おやりになりませんか」
「君は冗談だと思うのかね?」将軍の眉がぴくりと動いた。と、哲一はすっくと立上るや上衣《うわぎ》の釦《ボタン》を外して、さっと両方へひろげ純白のシャツを将軍の前へさし出した。
「さあどうぞ」
「――――」
「日本では、冗談に人を暗殺するなどということは申しません、また暗殺されるくらいのことを怖れてこんな奥地へ従軍記者としてやってくる馬鹿者もおりません。さあひとつ思切《おもいき》ってやってみませんか」
「――まあ、まあいい、まあいいよ君」将軍は狼狽しながら制した「まあ上衣《うわぎ》を着給え。儂《わし》のいい過しだ、坐り給え」
「やれやれ、僕はバリラ将軍とはもすこし肝玉の太い人かと思ったら……」そういって、哲一は肩をすくめた。――いかにも人を見下げた態度である。しかし将軍はそれにさえ怒る気配がなかった。
「でも、僕を暗殺なさらないでいいことをしましたよ閣下」
「とは又――何故《なぜ》?」
「僕はブルエへ入る前にアジス・アベバから本社へ電報を打ってあったんです、三日内に帰らなかったらバリラ軍団で暗殺されたものと思ってくれと――あはははは」
バリラ将軍は手帛《ハンケチ》で額の汗を拭いた。
「さあ、もうこれで仲直りをしましょう閣下」
「仲直り――?」哲一は将軍の手を握った。
「そうです、僕は従軍記者ですから、閣下の戦略を妨害するような通信はいたしません」
「ほ、本当か?」「日本人は嘘はいいません」
「ありがたい、大いに助かった」将軍は固く哲一の手を握って、「それさえ承知してくれるならどんな便宜でも計ろう。ところでしばらくここに滞在するかね」
「左様、先ず――」云いかけた時、室《へや》の扉《と》が明《あ》いて、一人の将校が現われた。
「申上げます」「なんじゃ――」
「唯今《ただいま》マジ将軍から……」
「しッ」バリラは叱咤した「馬鹿者!」
「は!」「よし、いま行く――」
将校は蒼白な顔をして去った――哲一はすかさず、立上ろうとする、バリラに向って、
「いまマジ将軍とか云われましたが、あれはハイル・シラシエ・マジのことですか」
「ば、馬鹿な、君そんな」
「いや、失礼しました、僕はまたマジが叛乱を企んでいるという噂を聞いていたものですから、閣下と連絡をとりにきたのかと思ったのです」
「そんなことはないよ、ちょっと失敬」将軍は慌てて出ていった、――哲一はマジ将軍からの使者と聞いたので、さては昨夜の騎兵射殺のことがばれたなと思った。
「――とすると、油断はならぬぞ」頷いて、そっと椅子から立つと足音を忍ばせて廊下へ出た――右の方ではげしい人声がする、壁伝えに近寄ると――窪房《アルユーブ》に将軍と黒人が立って話している。
「――で、閣下の密使が射殺されているのを今朝、発見したのです」
「誰が射殺したんじゃ、わからぬか」
「それが、ひとつ妙なことがあるんです」
いいかけて黒人が、あっ[#「あっ」に傍点]! と叫びながら指さした――哲一を発見したのだ。その黒人こそマジ将軍の侍臣で、哲一とは顔見知りの男であった。
[#3字下げ]危地[#「危地」は中見出し]
「あッ」哲一《てついち》の姿をみつけた刹那、黒人使者はさっと顔色を変えて立竦《たちすく》んだ。
「どうしたんじゃ?」
バリラ将軍は訝《いぶか》しそうに使者と哲一との顔を見比べた。
哲一はしまった[#「しまった」に傍点]! と思ったが最早どうにもならぬ。しかし「どうにもならぬ」と気づいたときには持前の大胆な態度にかわっていた。そして大股に進み出ながら、
「やあ、君はハイル・シラシエ・マジの侍臣ユウカ君じゃないか」と云《い》った。
「ば、ばかな?」バリラ将軍が慌てて打消《うちけ》した。
「ばかな事をいう、マジの侍臣がここへくる訳がないじゃないか。これはその……あれだなあ君――あの、ブルエの州役人だ」
「そ、そうです」黒人使者も逆に狼狽していった。
「私はここの州の役人で、ハハガルという者です」
「やあ、それは失礼、僕はまたてっきりマジ将軍の侍臣かと思った。よく似ているんですよ。実にユウカにそっくりだ」
「黒人はみな似たり寄ったりさ」そういいながらバリラ将軍は黒人使者を促して居間の方へ急ぎ去った。
しすましたりと元の応接室へ帰ったが、さて考えてみると、第一歩は危く免れたがまだ危険は去ってはいない――。黒人使者は哲一を発見したのだ。
「待てよ、ユウカが驚いたのには二つの理由がある、奴は殺したはずの哲一が生きているのを見て驚いた、それから哲一がここにいたので、マジとバリラの密契を嗅ぎつけられたと直感して驚いた。この二つだ……勿論、あいつはバリラにそれを話す」
バリラから送った伝令騎兵を殺したのが哲一だということはすぐに分るであろうし、そして密書を読んだことも判明するに違いない、とすると――恐らくバリラは哲一を生かしておかぬとみなければならぬ。
「こいつは厄介な事になったぞ」哲一は思わず呻《うめ》いた。
なんとか無事に身をのがれる法はあるまいか。哲一は立上って扉口《とぐち》を覗いた――しかし、意外にも廊下には既に早く二人の番兵が、銃剣を手にして見張りに立っていた。
「くそっ、もう看視を始めたな」
ぴしっ[#「ぴしっ」に傍点]と指を鳴らせて引返《ひきかえ》した。
彼等は警戒を始めた、なにか非常手段を考えぬと彼等の手に落ちるのは時間の問題だ。哲一はさすがに苛立ちながら窓へよって外を見た、窓から見える内庭にも、剣の光る銃を肩にして二人の衛兵が看視に立っている――畜生、と思って引返そうとしたとき、ふと眼についたのは窓のすぐ外にある伝書鳩の鳩舎であった。伝書鳩――?
「まあ落着《おちつ》け、なにか有りそうだ……」
哲一はそう呟《つぶや》きながらしばらく思案していたが、何事か思いついたらしく、こっこり笑って頷くと――内庭にいる衛兵の動作をじっと見戍《みまも》っていた。看視兵は時折ちらと窓の方を見やりながら往《い》ったりきたりしている。哲一はじっとその歩数を計っていたが、やがて……衛兵がむきを変えた刹那、
「今だ」とばかり半身を窓から乗出《のりだ》して、鳩舎の扉《と》を明《あ》ける。同時に一羽の鳩を掴み出して後を閉め、さっと体を元へ戻した。これがほんの五秒ほどの間のことであった。
「これで用意はできた、あとはひと芝居うつばかりさ」
哲一がにやりと笑いながら、鳩の頭をやさしく撫でているとこへ、扉《と》が明いて誰か入ってくる――哲一が振返《ふりかえ》るとバリラ将軍だ。
「やあ……」といった哲一、なにを思ったか窓へいってさっと鳩を放した。
「な、何をする!」バリラ将軍は叫びながら窓へ走寄《はしりよ》って右手に拳銃を執直《とりなお》しながら、今しも舞上っていく鳩をめがけて。
だん! だん! だん※[#感嘆符二つ、1-8-75]
続けさまに射った。しかしそれは却《かえ》って鳩を追いあげるようなものだった。放されるが否や拳銃をあびせられたので、伝書鳩はすっかり驚き、必死に羽叩《はばた》きをしながら、石礫《つぶて》のように虚空へ舞上《まいあが》り、そのまま雲の彼方《かなた》へと飛び去ってしまった。
[#3字下げ]肚と肚[#「肚と肚」は中見出し]
「佐伯君、君は軍規を犯したぞ」
バリラ将軍は怒りに顫《ふる》えながら大股に詰寄《つめよ》った。
「戦時の通信は司令部の検閲を受けるのが規則だ、従軍記者の君がそれを知らぬはずはあるまい、返辞を聞こう」
「返辞は簡単です、僕は従軍記者として自分の生命を護ったのですよ、閣下」
「君の生命を――?」
「閣下は僕を檻禁《かんきん》し、今夜にも銃殺するつもりだったでしょう」
「そんな、そんな馬鹿なことが……」
「ざっくばらんにいきましょう、貴方《あなた》はいまマジの使者ユウカに僕が何者であるかを聞かれた、貴方《あなた》はマジ将軍との密謀が曝露《ばくろ》するのを怖れて僕を人知れず銃殺する決心をなすった――それくらいのことが分らぬと思いますか」
バリラは鋭い哲一の言葉にぐっと詰ったが、急に態度を変えて、
「そこで……左様、もし君のいう通りだとしたらどうするかね」
「改めて御相談です。閣下は僕を即座にも暗殺なさることができる、ところが僕の方にも一枚|切札《きりふだ》があるんです」
「マジとの密契かね?」
「それもありますね。しかしそんなことは僕の生命の代償にはなりません」
「外にもあるというのか」
「お聞きになりたいでしょうな……?」哲一は落着きはらって微笑した、バリラ将軍は肩をゆりあげて大股に壁の方へ歩いて行ったが、すぐに引返して来た。
「話し給え、君の切札は何だ?」
「マグダラ問題ですよ」バリラ将軍はびくっとした。
「な、なんとか……いったな君は……」
「改めて申上《もうしあ》げましょうか、伊太利《イタリー》のエチオピア遠征の真の目的、世界的の大陰謀、和蘭陀《オランダ》との秘密契約、恐るべき仮面――マグダラの接収問題です」
バリラ将軍は吃驚箱《びっくりばこ》の中のジャックのようにとび上った。よろめいた。瀕死の人のように喘いだ、幸いうしろに椅子《いす》があったので、将軍はそれに捉《つかま》って危く身を支えたが、そうでなかったら、殆《ほとん》ど倒れてしまうところだった。
「君は……君は……」
「左様、僕はいまの鳩にその仔細を書きしるして送りました、あの鳩は某地にいる通信員の手に入るでしょう、そして一週間のうちに僕が帰らなかったら、国際通信を通じて世界中の新聞紙に発表されます」
「いかん、そんなことはできん」
「しかし今となっては、閣下の力でそれを止めることは不可能です」
勝負は決した。大胆不敵な哲一の芝居はみごとに功を奏した。バリラ将軍は手帛《ハンカチ》を出して額の汗を拭きながら檻の中の虎のように、部屋の中をせかせかと歩き廻っていたが、やがて哲一の前に立止って「では一週間のうちに君が無事で帰れば、その秘密は保たれるというのだな?」
「繰返《くりかえ》して申すとおり日本人は決して嘘をつきません、閣下!」
「よし、それでは君の安全を、保証しよう、だが条件がつく――二十四時間以内に当地を退去して貰いたい」
「承知しました」
「それから、マグダラ問題は半ヶ年のあいだ秘密を守ってくれるよう」
「半ヶ年ですな?」哲一はにやりと笑った。
このまま退去してもブルエにきた収穫は充分あった。即ちビアズレイ・バリラの率ゆる飛龍軍団が、各国従軍記者の眼をくらましてブルエに侵入している事実、またハイル・シラシエ・マジと密契を交している事実が分ったからだ。しかし――哲一にはもう一つ知りたいことができた。
それは「マグダラ問題」と切出したときのバリラ将軍の驚きかたである。元来マグダラ接収の問題は伊太利《イタリー》と和蘭陀《オランダ》との秘密交渉であって、二三の重要な人たち以外には知るはずのない事件なのだ。さればこそバリラ将軍は倒れるほど驚いたのであるが、驚くところをみるとバリラは知っている。
知っているばかりではない。彼とマジ将軍とが密使を以《もっ》て交換した文書には明《あきら》かにマグダラの文字があった――とすると、或《あるい》はバリラこそマグダラ接収の責任者であるかも知れぬ。
新聞記者の鋭い頭で、早くも哲一は斯《か》く洞察した。
「これは迂闊《うかつ》に退去できぬぞ、なんとかしてマグダラ問題の策源を突止《つきと》めてやろう、立退くのはそれからのことだ」哲一はひそかに決心した。
[#3字下げ]不敵の策へ[#「不敵の策へ」は中見出し]
その日午後一時、バリラ将軍は二人の衛兵をつけて哲一を送り出した。
「ボノ村の哨戒線まで護衛していけ、途中どんなことがあっても自由行動を許してはならんぞ、それからスラ峠を越すまで望遠鏡で看視するように」
バリラの命令は厳重だった。
哲一は出発した。ボノ村までおよそ五|粁《キロ》ばかりある。そのあいだ――森蔭、低地、丘上、あらゆる好位置に、飛龍軍団の屯営が散在しているのを見た。
「これは驚いた、戦時編成としても大掛りに過ぎる、ことに依《よ》ると飛龍軍団ばかりじゃないぞ――或は……」
或はこの方面に本当の主力を集中しているのではないか? 哲一の眼は油断なく観察を続けた。
ボノ村に着いたのは日没前一時間であった。哲一は哨戒司令部で一応身本検査をされたうえ、
「では向うに見えるのがスラ峠だ、真直《まっすぐ》にあの峠を越し給え」と司令官に言渡《いいわた》された。
哨戒線には狙撃兵が並び、望遠鏡が道のうえに据えられたのは一歩でも戻ったら射殺しようという威嚇である。哲一はその物々しい有様《ありさま》を見てにやにやしながら、
「どうも叮嚀《ていねい》なお見送りでありがとう。じゃあ諸君、またお眼にかかりましょう」と不敵な挨拶をして歩きだした。
日没は迫っていた、しかしスラ峠へ向う道は草原の中の広い坦道《たんどう》で、身を遮る木蔭もない、仕方なく哲一は真直に進んだ。
スラ峠の上まできた時、日が暮れて夕闇がたち始めた。
「さて、これからどうしよう」
哲一は足の疲れを休めるために、道傍の草に腰を下した。
「深夜十二時にはブルエの教会堂の前でアデラと会う約束がある。これから歩きづめに歩いても十二時までに帰るのは骨だ、おまけに厳重な哨戒線突破という仕事がある」
どうしようかと思いまどっていた時、道を蹶立《けた》ってくる蹄《ひづめ》の音が聞えた、哲一はさっと立上って音のする方を見やった――碧色の軍服を着けた士官と、従卒らしいのが、馬を煽《あお》ってやってくる――
「や、和蘭陀《オランダ》騎兵だぞ」そう見てとった時、哲一の頭にはマグダラ問題の密使だな! という考が閃《ひらめ》いた。
「機会《チャンス》だ!」呟くと共に道へとび出した。
砂塵をあげて疾駆してきた二騎は、突然|行手《ゆくて》に人影があらわれたので、思わず馬足をゆるめる。哲一は高く手をあげながら、
「止れ」と伊太利《イタリー》語で叫んだ。
「何処《どこ》へ行くか?」
「バリラ閣下へ急使です」先頭にいた士官が近寄ってきて答えた。
「何処からきたか」
「ガロラシュ将軍の使者です」
「合言葉は?」
「獅子の爪」
ははあ此方《こっち》も「獅子の爪」か、と思った哲一、儼《げん》として命じた。
「下り給え!」
「え――? なんですって※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「この頃スパィが多いので一応身体検査をするんだ、早く!」
士官は馬を下りた。
「こっちへき給え」哲一は士官を伴って傍のエニシダの茂みへ入った。従卒は道の上で待っている。
「君の名は――?」
「少尉ベニトリ」
「よし、徽章《きしょう》を見せ給え」
少尉は上衣《うわぎ》の裏をかえそうとした。刹那、哲一は右手の拳を力任せに、がん[#「がん」に傍点]と少尉の顎へ叩きつけた。
「あっ」よろめくところを左手の拳で胃腑の上へ猛烈なストレート、そらっ!
「ぐう」ベニトリ少尉は低く呻いたまま前跼《まえかが》みにのめって気絶した、哲一はすばやく少尉の軍服を脱がせて着込み、剣を帯《つ》け拳銃を釣ってから、
「おーい、従卒!」と呼《さけ》んだ。
道の上に馬を預ていた従卒が声を聞きつけて馬を下りエニシダの茂みを分けてくるところを、
「此方《こっち》だ!」と呼止《よびと》め、振返るところへ、
「そら!」とばかり素早いパンチ、む! とよろめくのを踏込《ふみこ》んで衿を取ると、捻じ倒しながらみごとに絞めおとした。
[#3字下げ]深夜の出来事[#「深夜の出来事」は中見出し]
少尉と従卒を厳重に縛りあげ、エニシダの茂みの奥へ引摺っていった哲一は、少尉の上衣《うわぎ》の中から密書を取出《とりだ》して披《ひら》いた――夕闇は濃くなっていたが月が耀《かがや》きはじめていた。密書は伊太利《イタリー》語で、
[#ここから2字下げ]
余は十七日にマグダラへ着く予定なり、それまでにタト湖を占領され度《た》し、マジ将軍の身辺、注意を要す
[#地から1字上げ]ガロラシュ
ビアズレイ・バリラ閣下
[#ここで字下げ終わり]
「ははあ」哲一は冷笑した。
「十七日にマグダラで二人が会見するんだな。よし、それでは悪戯《いたずら》をしてやろう」
哲一は着ている少尉の上衣《うわぎ》から万年筆を抜取って、十七日というのを二十七日に書直《かきなお》した。
「これで両将軍の会見はお流れだ――しかしマジ将軍の身辺に注意しろとは可の事だろう、マジは彼等の共謀者ではないか」
暫《しばら》く考えたが、哲一にはその理由が分らなかった。
「まあいい、兎《と》に角《かく》これで堂々とブルエへ戻れるぞ」
哲一は少尉の乗馬へ乗った。
夕月の道を疾駆すること半|粁《キロ》――哨戒線ま近へ来ると、哲一は帽子を眉深《まぶか》に冠《かぶ》り、右手はいつでも拳銃《ピストル》へ行く用意をしたまま、馬をゆるめて司令部の前にかかった。
「止れ」二人の番兵が銃を擬して叫んだ。
「何処《どこ》へいくか」
「バリラ閣下へ急使です」
「何処《どこ》からきたか」
「ガロラシュ将軍の使者です」
「待って居れ」番兵の一人が司令部へ走っていった。司令部ではバリラ将軍へ電話をかけたらしい、間もなく若い士官が馬に乗ってきた。
「ガロラシュ閣下のお使者ですか」
「そうです」
「御案内申します」
哲一は困った、案内役がついている以上、どうしても本営へ行かねばならぬ。バリラに会えば正体を発見されるのは分りきっているのだ。弱ったなと――思ったが、今更《いまさら》どうにもならなかった。
「御苦労さまです」そう答えて駒を並べた。
馬は前後して駈けだした。本営へ着くまえに何とかして相手をまか[#「まか」に傍点]なければならぬ、哲一はあれかこれかと策をめぐらせたが、途中には軍団の屯営や哨兵がいるのでどうにも手を出す機会がなかった。
「だいぶ多数の軍隊ですな」哲一が振返って訊《き》いた。
「そうです」
相手は馬を並べながら自慢そうに、
「この辺に屯営しているのはソラノ砲兵師団です。右手の低地にはヴァンダー将軍の戦車隊の精鋭がいます。カルゾー飛行連隊も、近衛《このえ》龍騎兵師団も揃っています」
「すばらしい勢力ですな」哲一は内心の驚きを隠しながら、
「それでは総攻撃の準蒲は出来ているのですね――いったい何日《いつ》始めるのですか」
「さあ、それは……」
さすがにそこまでは云わなかった。
しかし哲一には事情が判明した。伊太利《イタリー》軍はたくみに世界の視線を東部戦線、北部戦線へ集めながら、実は密々裡に主力を西部へ集結し、一挙にタナ湖からマグダラまで占領しようとしているのである。
「やあ、本営の灯が見えますよ」
若い士官がそういって指さした。なる程、ブルエの市街の灯がちらちらと見え始めている、哲一は、
「あれですか……」
と云ったが、不意に馬を止めた。
「どうしました」
「ひどく腹が痛み始めて――」
哲一は馬を止めた。
「もうすぐ本営ですが」
「どうも我慢が出来ません、なにしろ営舎を出るときから痛んでいましたので。すみませんがちょっと休ませて頂きます」
「それは弱りましたな」
哲一は馬から下りて、窪地の叢《くさむら》の中へ跼《かが》みこんだ。若い士官も気遣わしそうに馬を下りようとする――と、その時であった。二人の来た方から戞々《かつかつ》と馬蹄の音が迫ってきたと思うと大声に、
「そこにいるのはマーカス少尉か」
と叫ぶ声がした。
「そうだ、誰だ」
「一緒にいる使者を逃がすな、そ奴《いつ》はスパイだぞ!」
「なに――?」
「ガロラシュ将軍の使者二名はスラ峠で縛られていた。そ奴《いつ》がやった仕事だ逃すな」
砂塵をあげて四五人の騎兵が殺到した。ああ、早くも事は露顕した――哲一は叢のなかで思わず「しまった」と叫んだ。
[#3字下げ]捕虜[#「捕虜」は中見出し]
「その叢へ入った」マーカス少尉が夢中で叫んだ、駈けつけてきた四名の伊太利《イタリー》士官は、言下に馬首をかえして、「それ!」とばかり馬を乗入れた。
哲一は奮然、右手に拳銃を抜取《ぬきと》って立ち、どっと叢を蹴立ってくる先頭の一人を狙って射った――が、意外にも、
カチリ! と撃鉄の音がした許《ばか》りである。
「しまった」ガロラシュ将軍の密使から奪ってきたまま検《しら》べずにいたが、拳銃《ピストル》には弾丸が装填してなかったのだ。くそっ! とばかり拳銃《ピストル》を捨てて洋剣《サーベル》を抜いた。しかし――その時すでに馬を乗入れてきた士官たちは、拳銃《ピストル》をつきつけながらぐるりと哲一を取囲《とりかこ》んで、
「剣を捨てろ!」と喚きたてた。「命令に反《そむ》くと容赦なく射殺《うちころ》」すぞ!」
絶体絶命である、哲一は下手にもがいても無駄だとみたから、潔く洋剣《サーベル》を投出《なげだ》して、どうでもしろと云わんばかりにむんずと腕組をした。
「よし、神妙だ」マーカス少尉が馬を寄せてきて、「さあ此方《こっち》へこい、我々の先へ立って歩くんだ逃げようとでもすればすぐ射つぞ」
「何処《どこ》へいくんだ?」
「君の会いたがっていたビアズレイ・バリラ閣下の本営さ、なに歩いたってすぐだ――さあ行け!」
哲一は観念して歩きだした。道は真直にブルエの市街へ入った。哲一の左右に二騎、背後に三騎いずれも拳銃《ピストル》を擬して護衛する、さすがの哲一も最早どう逃れる術《すべ》もなかった。と――市街の四辻にある大教会堂の前にさしかかった時であった。会堂の円柱の蔭のところから、突然、
「あ! 哲一――」と叫ぶ声がしたのである。
哲一はぎょっとした。そこには深夜十二時に会おうとかねて約束したとおり豹の頸を抱えながら土人娘のアデラが身をひそめていたのである。
「アデラ、来てはいけない!」哲一は土人語で叫んだ、「隠れていろ、動くと射殺されるぞ」
「なにを喚くんだ」マーカス少尉が慌てて哲一を制した。彼には土語が分らなかったので、言葉の意味は通じなかったが、附近にいる仲間と合図を交しているとでも思ったのだろう。
「黙れ、黙らぬと射つぞ」と拳銃《ピストル》を差向《さしむ》けた。哲一は素早く会堂の方を見やったが、幸いアデラは哲一の云いつけどおり、円柱の蔭に身をひそめたので、士官たちには発見されずに済んだ。ほっとしたが、同時に妙案を思いついて、
「あとを跟《つ》けてこい」ともう一言大声に叫んだ。刹那!
「黙れー※[#感嘆符二つ、1-8-75]」といってマーカス少尉が拳銃《ピストル》を一発ダン[#「ダン」に傍点]と放った。頬をすれすれに掠《かす》め飛ぶ弾丸――哲一はにやり笑って振返ると、
「おい君マーカス少尉、なにもそんなに脅かすことはないよ、いまのは僕の欠伸《あくび》さ」といって平然と歩き続けた。
暫くいくと、向うから十二三人の士官が馬をとばしてやってくるのと会ったマーカス少尉が声をかけると、馬足をゆるめて近寄ってきたのはバリラ将軍であった。
「やあマーカス少尉、いま哨戒部から電話があった、スパイは――?」
「ここにおります」
「こ奴か」バリラ将軍は馬から下りて、つかつかと歩み寄ったが、哲一の冠っていた軍帽をいきなりぱっとはね飛ばすや、
「おお、やっ張《ぱ》り……君だったか」
「お説の通りです閣下」哲一は傲然と胸を張った。バリラ将軍は忿怒《ふんど》のあまり大地を踏みたてた。将軍の長靴で拍車が音高く鳴った。
「お説の通りだって? くそっ[#「くそっ」に傍点]、君はよくもこのバリラを阿呆《あほう》にしたな、伝書鳩を通信員に放ったなどと子供|騙《だま》しのような嘘をつきおって、――あの伝書鳩はわが軍のもの[#「もの」に傍点]で、さっき鳩舎へ帰ってきたぞ」
「あっはははははは」哲一は腹を抱えて笑いだした、「帰って来ましたかあの鳩が、それで、ようやく僕の奇計《トリック》が分ったという訳ですね、いやどうもあはははは」
「此奴《こやつ》を曳《ひ》け、銃殺だ!」バリラ将軍は喉も裂けよと呶鳴《どな》りたてた。
[#3字下げ]マジの手で銃殺[#「マジの手で銃殺」は中見出し]
本営へつくと同時に、深夜にもかかわらず直《ただち》に哲一は軍法会議へまわされた。――哲一は、新聞記者の身分証明もあるし、また従軍徽章も持っていたから、例《たと》えスパイと断定されても銃殺ときまるまでは五日や一週間はかかるものと高《たか》を括《くく》っていた。しかし会議は厳酷に行われ、意外にも夜明け前に銃殺を執行すべしということに決定した。
「この軍法会議は不当だ!」哲一はさすがに昂奮して叫んだ、「僕は一新聞記者に過ぎない、スラ峠でガロラシュ将軍の密使を襲い、再びブルエへ戻ってきたのは、戦況を観察せんがためであって、これは新聞記者として多少のやり過ぎという外に意味はないはずである――なに[#「なに」に傍点]を以てスパイと決めるのであるか伺いたい」
「何をつべこべいうか」バリラ将軍が喚きたてた、「軍の秘密行動を探ろうとする奴は、新聞記者であろうと従軍武官であろうと、スパイと認めて処刑するのが軍の規律だ――檻房《かんぼう》へ曳いていけ」
「無法だ、そんな馬鹿な理窟《りくつ》が……」
「おい、何をぐずぐずしているか、早く檻房へ伴《つ》れていけ、夜明け前に銃殺だ――執行官は――」とバリラ将軍が室内を見廻した時、表に面した扉《ドア》が明いて大きな声が響いた。
「その執行は私が引受けよう」
会議に列していた将官たちは、不意の声に驚いて扉《ドア》の方を見た。哲一も思わず振返ったが――実に意外な人物を発見した。
「あっ、ハイル・シラシエ・マジ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」と眼を瞠《みは》った。バリラ将軍はそれと見るより議長席からとんで下り、急いでマジ将軍の手を握りながら、
「やあ、ようこそマジ将軍、今夜おいでになるとは思いませんでした」
「しかし、きていいことをしましたわい」マジはっかつかと哲一の前へ進みよってくると、さも憎さげに肩を小突いて、
「こら小僧、貴様は青《ブルウ》ナイルでまんまと儂《わし》の手から逃れ居ったが、今度はどうやら運命のどたん場らしいのう――どうじゃ」
「国賊!」哲一はたった一言、火のような一言を叩きつけたきり顔を外向《そむ》けた。
「はっはっは、それが貴様の最期の科白《せりふ》か、のう――バリラさん、此奴《こやつ》には儂《わし》も恨みがある、銃殺するなら儂《わし》に任せてくれんか」
「結構ですな」バリラは心中しめたと思った。自軍の手で銃殺するのはいいが、新聞記者のこと故もしこれが世に知れでもすると問題になる、だから秘密のうちに処刑しようと思ったのだが――マジ将軍の手に任せてしまえば責任が免れる、早くもそう考えて、
「それではお任せいたしましょう、だが刑は夜明け前に執行して頂きたいのです」
「なに即刻やってしまおう」マジは簡単にいってのけた。
「こんな小僧にまごつかれては迷惑じゃ、これから儂《わし》の陣営へ伴《つ》れていって銃殺し、屍体《したい》は獅子《ライオン》にでも食わせてやるさ」
「どうぞお好きなように」バリラはお世辞たらたらである、マジ将軍は従者の方へ振返って、
「この小僧を縛れ!」と命じた。
言下に二人の屈竟《くっきょう》な土人がよってきて、うむをいわせず哲一をぐるぐる巻に縛りあげた。事ここに至っては抗《さから》っても最早無駄である。哲一は黙ってするままに任せていた。
「では処刑がすんだら会いましょうわい」
「お待ちして居ります。ハイル・シラシエ」
「そいつを引摺ってこい」
マジ将軍は従者に命じておいて、大股に外へ出ていった。
哲一は外に出ると、一頭の痩馬の背に乗せられた。先頭にマジ、従者十四五名が前後左右を取囲んで伊太利《イタリー》軍の本営を出る――丘へ登って、西へ西へと道を急いだ。
哲一は馬上に瞑目したまま自分の運命を考えていた。マジはどこで銃殺を決行するだろう。陣営と云ったが彼はこの附近に軍を進めているのであろうか――あの「東阿の老虎」とレわれたカデロ将軍はどうしているか? ……
「停れ!」マジの叫びが聞えた。眼を明いて見ると大きなユウカリ樹林の中である、遠方此方《おちこち》の樹間《このま》に篝火《かがりび》がちらちらと揺れているのが見える。
「そいつを下せ、眼隠しをしろ」
哲一は馬から引摺り下された。
「僕は日本男子だ、眼隠しなどは要《い》らん。このまま銃殺しろ」哲一は叫んだが、従者の一人は縛られて身動きのならぬ哲一を押えつけて、しっかりと両眼を縛ってしまった。
「よしあの樹の下へつれて行け」
[#3字下げ]驚くべき事業[#「驚くべき事業」は中見出し]
哲一は樹の幹に背をつけて佇立《ていりつ》した。
「右へ散れ、銃を執れ――」マジの声が聞えた。
もう最期である、男らしく死のう! 哲一は両手を組み胸を張った、海波万里故国を遠く距《はな》るる東阿の一隅に、佐伯《さえき》哲一はいま従容《しょうよう》として死につくのだ。
さあ射て! と銃声を待ったが、マジの命令はなかなか発せられぬ。どうしたのかと訝っていると、誰か此方《こっち》へ歩いてきて――ぽんと哲一の肩を叩いた。
「佐伯君、もう眼隠しはいらんぞ」
といいながら、哲一の眼隠しを脱《と》った者がある。
「はははは驚いたかね、儂《わし》じゃよ」
「え――?」夢心地で見ると、意外も意外、そこには東阿の老虎ハイル・シラシエ・カデロが立っていた。
「や! カデロ閣下※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「如何《いか》にも儂《わし》じゃ」
「これは、どうした訳ですか」と見廻すと、向うにマジ将軍が立っている、哲一は土人の一人が縄を切放してくれる間も、もどかしげに、
「ああ彼処《あすこ》にマジがいる、叛逆者、国賊、伊太利《イタリー》軍への内通者マジがいます閣下」
「まあ落着け佐伯君」
「いえ、彼は閣下の生命《いのち》を狙いました。青《ブルウ》ナイルでは僕を射殺しようとしました。またビアズレイ・バリラとのあいだに密計を企てた事実を現に僕がつきとめています」
「みんな計略じゃ」
カデロ将軍の言葉は雷のように強かった。
「え? 計略、計略――?」
「そうじゃ、マジは敵軍に内通すると見せて、実は伊大利《イタリー》軍の中央へ軍を侵入させ、時機を見て逆に伊軍の中央で蜂起する必死の計略をたてたのだ」
「そ、それは本当ですか?」
「――証拠を見せようかの」マジ将軍が大股によってきていった、「さあ此方《こっち》へきてごらん」
哲一はまだ半信半疑であったが、いわれるままにマジ将軍についていった。力デロも一緒に密林の中へ入る――暫くいくと、一本の巨《おお》きな樟樹《くすのき》があって、梯子《はしご》がかかっている、それを登ると上には木を組んだ頑丈な望楼が出来ていた。マジ将軍はその上に立つと右手で柱の一部を押しながら、
「彼方《あっち》を見給え」と伊太利《イタリー》軍の陣営の方を指さした。哲一が見ていると、待つほどもなく闇の彼方《かなた》に、ぽつりと灯《ともしび》が見えた。
「三度動くぞ」マジがいいながら、柱の一部を三度押すと向うの灯《ともしび》が三度動いた。
「分ったろう、彼処《あそこ》に儂《わし》の軍勢が二万人いるんだ、合図さえすれば、一部は火薬庫、飛行機格納庫に火を放ち、一部は騎馬部隊の馬を全滅させ、一部は本営を襲撃するんだ、そこへカデロの指揮する五万の精鋭が突撃して一挙に粉砕しようという訳さ……」
「しかも儂《わし》の軍勢はすでに揃っているよ」側からカデロ将軍がそういって、哲一の肩を叩き、右手の渓谷を指さし示した。見ると密林地帯の西、デブラ・マルコユの渓谷にかけてちらちらと無数の篝火がまたたいている、仔細に見れば篝火にうつって馳駆《しく》する馬、武器を執る兵たちの姿が活気満々としているではないか。
「マジ閣下」哲一は思わず低頭した。
「どうかお許し下さい、国賊などと申上げた言葉を潔く取消します」
「いや詫びるには及ばんよ、君が罵れば罵るだけ、バリラの奴は儂《わし》を信用したのだ。これで儂《わし》とカデロの計画もいよいよ完成した、あと一時間すれば総攻撃を開始する運びになっている――その時に君にもひと働き頼むぞ」
「ええ? ではもうやるのですか」
「一時間経つと伊太利《イタリー》軍の火薬庫が爆発する、それが総攻撃開始の合図だ」
「ああ知らなかった」哲一は呻いた。
計りも計ったり。世界の新聞紙は、エチオピアの領主が伊太利《イタリー》軍へ降伏したことを度々《たびたび》報道している。現に東部戦線でも二人の老将軍が五万の兵と共に伊軍に投降したことを報じている。しかしそれは表面のことなのだ――その事実は如何? その事実は? 驚くべし彼等は独特の戦法を以て敵に降《くだ》り、その軍を敵地の中央に停屯せしめて、一朝時期到るや蹶起《けっき》敵軍の中央|攪乱《かくらん》という驚くべき策戦《さくせん》に出るのだ。伊軍……果してこの密謀を知るや否や、一時間の後に迫ったブルエの奇襲戦こそその成否を決する試金石であろう。
「哲一……哲一は何処《どこ》――?」
突然、樹の下で呼ぶ声がした。
「あ、アデラだ」
聞くより早く哲一は梯子をかけ下りた。
[#3字下げ]獅子王旗の下に[#「獅子王旗の下に」は中見出し]
樹の下には土人娘のアデラが、豹を伴《つ》れて息せきながら立っていた。
「おおアデラか」
「まあ哲一、生きていたのね」アデラは狂喜して哲一に縋《すが》りついた。豹のドラも懐しそうに、哲一の体へ身をすりつけるのであった。
「どうして助かったの、私もう哲一に会えないかと思って泣きながらきたのよ」
「もう大丈夫だよ、実に意外なことになったんだ。お聞きアデラ――おまえの祖国エチオピアは救われるんだ」
「なんですって、本当? それは」
「今こそみんな打明《うちあ》けてあげる」哲一は元気いっぱいに話した、「伊太利《イタリー》がエチオピアを攻めるのは、本当はマグダラが欲しいんだ。おまえも知っている通りマグダラは古くからエチオピアの聖地といわれていただろう。その意味はね、彼処《あそこ》には二千年以前に発見されたダイアモンド鉱山があるんだ、おまけに無尽蔵といわれる石油鉱もある、それを手に入れようとして伊太利《イタリー》軍が侵入してきたんだよ――そして一方では、いま租借権を持っている和蘭陀《オランダ》と譲渡契約を進めていたのだ。しかし伊太利《イタリー》はこれを他の国に知られるのを嫌って、東部と北部の戦線をひろげ、世界の視聴を其方《そちら》へ集めておいて、事実は一挙にマグダラを攻取《せめと》るべく、ブルエにその大主力を集結しているんだ」
「では彼処《あそこ》にいたあの沢山《たくさん》な軍隊がそれなのね?」
「そうだ。しかし、此方《こっち》はすでにその裏をかいている、もう一時間もすれば……」と云いかけた時、頭上からカデロ将軍の叫ぶ声が聞えた。
「佐伯君、時間を繰上げたぞ」
「え? どうかしたんですか」
「いま本営から灯火信号があった。時機よし、というんだ。やるから見ておれ」
「アデラ、彼方《あっち》を見るんだ」
哲一が急いでアデラに方向を示した時、伊太利《イタリー》軍の陣地に当ってバーッ! こ凄《すさま》じく大きな火柱が、天に届くかとばかり立昇る、同時に地軸も裂けよと、
ずずずずん※[#感嘆符二つ、1-8-75] 大爆音が空気を劈《つんざ》いて聞えた。
「あっ※[#感嘆符二つ、1-8-75] やったぞ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
「なに、なに哲一※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「伊太利《イタリー》軍の中央に侵入したマジ将軍の兵が蜂起したんだ、あれは火薬庫の爆発だ」
「まあ、万歳※[#感嘆符二つ、1-8-75]」アデラが思わず双手をあげて叫んだ。
その時つづいて起る爆発、だーん、だーん、だーん※[#感嘆符二つ、1-8-75] 飛散《とびち》る火花、火柱、三ヶ所の飛行機格納庫が爆破されたのである。同時に望楼の樹上高く、
ターン! と赤く狼火《のろし》が打あがった。マルコユの渓谷をゆるがして、どーっとあがる潮《うしお》のような鬨声《ときのこえ》、狼火《のろし》を見て渓谷に待機していたカデロ将軍の軍勢が進撃を始めたのだ。
[#ここから2字下げ]
進め獅子王旗の下に
祖国を狙う豺狼《さいろう》
悪鬼魔族の輩を撃滅せよ
[#ここで字下げ終わり]
烈々火のごとき進軍歌が起った。見よ、渓谷を馳《は》せ登ってくるエチオピアの精鋭、白馬を駆って突進する勇敢なる騎兵部隊を。
「さあ、出発だぞ佐伯君!」望楼から下りて来たカデロ、マジ両将軍は、部下に馬を曳かせてひらりとまたがった。哲一も与えられた馬に乗る、
「私も行くわ」とアデラが、いうより早く哲一の鞍の前壺へとび乗った。
「進め!」マジ将軍が大きく手を振った。言下に密林をゆるがして幕下の勇士一千が、馬首を揃えて現われる――その先頭に、若きマジの息子が、獅子王旗を捧げて進んだ。
見渡せば――伊太利《イタリー》軍の陣営は焔々《えんえん》たる火に焼かれて、恐ろしい混乱に陥っている。そのまま唯中《ただなか》へ向って、獅子王旗を高くなびかせつつ、エチオピアの精兵は猛然と突撃を開始した。
ああ見よ、雌伏一年のエチオピア軍は、遂《つい》に起《た》って伊軍主力を撃破せんとする、見よ、見よ、火薬庫を爆破され、飛行機を失い、馬匹《ばひつ》を喪《うしな》った伊太利《イタリー》軍は、混乱の虚を衝《つ》かれたところへ、逸《はや》りに逸ったカデロ軍の猛襲にひと堪《たま》りもなく潰走を始めた。
凱歌はあがった、獅子王旗は今、伊軍本営の跡に高く高くなびいている――凱歌、凱歌、天地をどよもす凱歌。遂に伊軍はブルエを放棄したのである。
ブルエの敗戦が伊太利《イタリー》軍にいかなる衝撃を与えたかは、その後|伊太利《イタリー》軍が頓《とみ》に侵入をしなくなったことて分るだろう。ビアズレイ・バリラは本国へ召還され、代ってマッジ大将が赴任した。しかし、いずれの戦線も、今は早《はや》戦気を失って、唯これ戦線を守るに必死である。
「どうだね佐伯君」ブルエ大会戦から一月後。首都アジス・アベバの邸《やしき》で、カデロ将軍と哲一が話していた。
「ブルエは愉快だったのう」
「全くですあれで伊太利《イタリー》は骨身にこたえたでしょう――それから今朝の新聞でみると、国際連盟ではいよいよ伊太利《イタリー》に石油断交をすることに決定したそうですよ」
「はっははは、ムッソリニ先生、ブルエの敗戦といい経済封鎖と云い、さぞあの大きな口をひん曲げて渋い面をしとるじゃろう」
「もう伊・エ戦争もこれでけりでしょう」
哲一はそういって大きく肩を揺《ゆす》りあげた。庭先ではあのアデラが、豹のドラを相手にのどかに遊んでいる――空は晴れて一点の雲もない。
底本:「山本周五郎探偵小説全集 第六巻 軍事探偵小説」作品社
2008(平成20)年3月15日第1刷発行
底本の親本:「少年少女譚海」
1935(昭和10)年12月~1936(昭和11)年4月
初出:「少年少女譚海」
1935(昭和10)年12月~1936(昭和11)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「阿弗利加」に対するルビの「あふりか」と「アフリカ」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)東阿《とうあ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)五|呎《フィート》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)※[#感嘆符二つ、1-8-75]
-------------------------------------------------------
[#3字下げ]東阿の老虎[#「東阿の老虎」は中見出し]
「エチオピア! エチオピア!」
果然、一九三五年の世界視聴は、挙げて東阿《とうあ》の一王国に集まった。
阿弗利加《あふりか》大陸における最古の国、唯一の独立王国、輝かしき歴史に飾られたる聖地、酷熱の砂漠と清涼なる山地と恵まれたる幾多の産物、宝庫のごとき楽園エチオピア! この夢のごとき浄土は今、白人種の暴虐なる侵略の足下に累卵の危き運命に直面しつつある。
「エチオピア敗れんか?」
ああ、もしエチオピア敗れんか? それは単に一黒人王国の滅亡のみに止《とどま》らず、ひいては有色人種全般におよぼすべき大なる問題がかかっているのだ。幾百千年にわたる白人種の飽《あ》くなき侵略と横暴、貪欲野獣のごとき足下に蹂躙《じゅうりん》されてきた有色人種は、この一戦をこそ挙《こぞ》って白色人種に対抗する聖十字軍となすべきではないか? ――。
「エチオピアを救え、白人の魔手より我等の楽土を奪還せよ!」
熱烈なる声は、ついに世界各所の有色人種間に火のごとく湧上《わきあが》った。――嗚呼《ああ》、銘記すべし一九三五年の秋を※[#感嘆符二つ、1-8-75]
世界がエチオピア問題で狂気のごとく騒いでいる時、即ち昭和十年九月はじめのことである。エチオピアの首都アジス・アベバの、王宮の門前を二人の日本人が歩いていた。
一人は四十五六こなる髯男で、佐伯勇造《さえきゆうぞう》という鉱山家だ。エチオピアへ渡ってきてからもう十五年余りにもなるが、今では南方アバヤ湖畔で金剛石《ダイヤモンド》鉱山を大きく経営している。――そのつれは背丈こそ五|呎《フィート》にあまる逞しい体つきだが、まだ十八歳にしかならぬ少年だ。佐伯勇造の甥に当る佐伯|哲一《てついち》と云《い》って、俊敏な偉才を認められた結果、東京新聞のエチオピア事変観戦記者として遥々《はるばる》やってきたものである。
二人は王宮の外苑に添って迂回し、英国領事館の旗を左に見ながら、美しいユーカリ樹林の前庭をもった、とある邸宅の門内へはいっていった。
「カデロ将軍はおいでになるか」
勇造は玄関へ迎えた侍僕にいった。
「こちらはアバヤの佐伯勇造という者だ」
「おいでになります」寺僕は挙手の礼をして、「貴方《あなた》のおいでを先程からお待ちになって居られます。どうぞお通りください」
そういって、応接間へ案内した。その部屋は白堊《はくあ》塗りのがっちりした洋間で、チョオク材の頑丈な調度のほかには別に飾りとてもなかったが、正面に石膏造りの台があって、その上に獅子毛で飾られた兜《かぶと》が一領、厳しく安置されているのがいかにも武人の客間らしい奥床《おくゆか》しさを見せていた。
「あれを見ろ、哲一」勇造が兜を指していった。「あれはハイル・シラシエ・カデロが、メネリック王から賜《たま》わった御愛用の兜だ、――あの獅子の鬣毛《たてがみ》で飾られてあるのが王の御物《ぎょぶつ》の証拠だ」
「ではカデロ将軍は余程の英雄とみえますね」
「無論だとも」勇造は大きく頷《うなず》いた。
四十年以前、伊太利《イタリー》軍がエチオピア征服をめざして侵入してきた時、アドワを死守して華々しく戦いついに十万の伊太利《イタリー》精兵を国外へ敗走せしめた――あの有名なアドワ戦の随一の殊勲者だ。当時まだ三十そこそこの若者だったがメネリック王はその勇猛を嘆賞して南方ラジョ地方の総督に任じ、愛用の兜を賜ったのだ」
「そうすると、将軍はもう余程の老人なんですね」
「七十幾つだろうな、しかしカデロ家は王族の中でも最も古い家柄で、将軍自身はいまでも国民たちから『カデロの猛虎』と綽名《あだな》されて、慈父のごとく慕われているのだ――今度の事変では西部国境の総帥として、伊太利《イタリー》軍の脅威の的になっているよ」
話しているところへ、
「将軍がおみえになります」
と侍臣の一人が知らせにきた。
[#3字下げ]聖地マグダラ[#「聖地マグダラ」は中見出し]
カデロ将軍が入ってきた。
褐色の逞しい顔いちめんに、銀のような白髯《はくぜん》が埋めている。鋭い眼つきて鼻が大きく軍服の肩が若者のように張っている、――佐伯勇造がうやうやしく敬礼するのに答えながら、将軍はつかつかと哲一少年の前へ進寄《すすみよ》った。
「君だね。佐伯哲一君というのは」
「さようでございます、閣下」
「よくきてくれた。儂《わし》がカデロじゃ、――君は何歳になるか」
「十八歳でございます、閣下」
「良い年じゃな、十八歳といえば儂《わし》が父のシラシエに従ってマグダラの戦《たたかい》に初陣をした年だ。君はマグダラの戦を知って居るか」
「存じて居ります」
五十年前、エチオピアは和蘭《オランダ》と戦って敗れ、マグダラの聖地を奪われている。それ以来現在でも聖地マグダラはほとんど和蘭《オランダ》の権力下におかれてあるのだった。
「さあ椅子《いす》にかけるがよい」将軍は哲一少年に椅子をすすめ、自分もどっかりと坐った。
「今度の戦争に、日本が多大の好意を寄せて呉《く》れていることは我々エチオピア人にとって最も大きな喜びである、――哲一君、君は東京新聞の観戦記者としてこられたと聞くが、単に一新聞記者として終始するつもりか?」
「お言葉でございますが」哲一少年はにっこり笑って答えた。「お言葉でございますが、閣下、それは改めてお答え申すに及ばぬことだと存じます」
「あははははは、そうか」将軍は白髯をゆるがせて哄笑した。「いや、そう聞けば分った。我々は日本に対して心からの信仰をもっている、将来は日本を師範として国運発展を計ろうと覚悟しているくらいじゃ、――当地に滞在中はどんな便宜でも喜んでお役に立とう」
「――閣下」哲一少年は静かに顔をあげた。
「早速ですが、私の疑問を一つ解いて頂き度《た》いと存じます」
「儂《わし》にできることなら……」
「伊太利《イタリー》軍の侵略の目的は何処《どこ》にあるのでございますか、――?」この一言はひどく将軍を驚かせたらしいカデロ総督はきらりと眸子《ひとみ》を光らせて、昵《じっ》と少年の面《おもて》を覓《みつ》めていたが、
「それは……新聞の伝えるとおり、伊太利《イタリー》がエチオピアを属領にして、大植民地を経営せんとする野心に外《ほか》ならぬではないか」
「それは、表向きのことです!」哲一はずばりといった。
「閣下は、伊太利《イタリー》が和蘭《オランダ》政府との間に、ある秘密交渉を進めている事実を御承知でございますか――?」
「何? 何じゃと※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「伊太利《イタリー》の望んでいるのは、聖地マグダラでございます、閣下!」最後の言葉はカデロ将軍を仰天させた。将軍は椅子から跳上《とびあが》り、まるで仇敵をでも見るように鋭く少年の眼を見戍《みまも》っていたが、……やがて振返《ふりかえ》ると、
「佐伯君、ちょっと座を外して下さい」といった。佐伯勇造は気遣わしそうになにかいおうとしたが、将軍が手をあげて制したので謹んで、次の間の方へ退いていった。
「哲一君、君はいま伊太利《イタリー》の望んでいるのは聖地マグダラだと云った、聖地マグダラ――五十年前に和蘭《オランダ》の権力下に移されたエチオピアの聖地……伊太利《イタリー》はいまそれを自分の手に握ろうとしている、値民地経営に名を籍《か》りてマグダラを横奪《とこどり》しようとしている、この事実を君は知っているというのか?」
「そればかりではありません、伊太利《イタリー》は先週のはじめから、和蘭《オランダ》政府との間にマグダラ譲渡の交渉を進めて居ります、償金は五億万リラだそうです」哲一少年はきっと声を正した。
「閣下、私の疑問を解いて下さい。伊太利《イタリー》はなんのためにマグダラを欲しがっているのですか、巨額の軍事費を費《ついや》し、世界の視聴を驚かし、更《さら》に五億万リラという償金を支払ってまでなんの必要があって、マグダラを手に入れようとしているのですか?」
「儂《わし》も知りたいのだ、哲一君! 儂《わし》もそれが知りたいのだ。嗚呼《ああ》――何故《なにゆえ》に伊太利《イタリー》はマグダラがほしいか?」将軍は懊悩《おうのう》して部屋の中を歩きまわった。
「これには大秘密が匿《かく》されている、世界を驚倒せしむるに足る一大秘密があるに違いない。それだけは朧気《おぼろげ》ながら私《わし》にも分っている」
「聞かせて頂けませんか?」
「――よろしい、いおう。よく聞き給え、今から十年ほど以前、エチオピア王宮の宝庫から或る文書が盗出《ぬすみだ》された事実がある、犯人は伊太利《イタリー》人の商務官だ!」
「その文書には何が書いてあったのですか」
「アビシニア王史の一冊で、元始セミチック族の文字で書かれてあるため、それまで誰にも判断することができなかった、――秘密はその文書の中に匿《かく》されているのだ」
「では、最早それを見ることはできぬわけですね?」
「いや、カデロ家に写しが伝わっておる」
「それは本当ですか?」
「儂《わし》の領地ラジョの城中に秘蔵してある、これは儂《わし》だけしか知らぬことだがしかし事ここに及んでは、その写《うつし》も役に立つまい……」
「それどころか、充分役に立ちますよ」
哲一少年は断呼《だんこ》としていった。
「閣下、我々は早速|伊太利《イタリー》と和蘭《オランダ》政府との、マグダラ譲渡交渉を中止させましょう。元々マグダラは和蘭《オランダ》へ権益を貸したものですから、譲渡するに当ってはエチオピアの承認が必要です、我々は断呼として譲渡を拒絶し、――同時に伊太利《イタリー》侵入軍の手から聖地を護るべきです」
「――君は、我々に力を藉《か》してくれるか、エチオピアの国難に乗出《のりだ》して呉れるというのか、哲一君……?」哲一少年は黙って椅子から起《た》ち、将軍の方へ手を差伸《さしのば》ばした。
「――うん?」
カデロ将軍は莞爾《かんじ》と笑って、強く強くその手を握った。
「君のような豪毅俊敏、果断な少年に会うのは初めてじゃ――感謝する」
「お役に立ち度いと思います、閣下」
二人は眼を見合せながら、からからと笑った。――とその刹那だった。
「あ! 危い※[#感嘆符二つ、1-8-75]」と叫んで、突然哲一少年が、ばっ[#「ばっ」に傍点]と将軍の体を突飛《つきと》ばした。
「なにをする?」将軍が驚いて叫ぶ、同時に窓|硝子《ガラス》が砕けて、びゅっ! と将軍の耳をかすめ飛ぶ弾丸、がん[#「がん」に傍点]※[#感嘆符二つ、1-8-75] と窓外に鋭い銃声が聞えた。
[#3字下げ]謎の刺客[#「謎の刺客」は中見出し]
窓の外からふいの狙撃に、危《あわ》や! という一刹那、哲一少年の咄嗟《とっさ》の気転から実に一髪の差で死をまぬかれたカデロ将軍が、
「うぬ……曲者《くせもの》め!」と喚いて立直《たちなお》った時には、早くも哲一が身を翻《ひるが》えして外へとび出していた。
外廊へ出てみると、今しも迫持《せりもち》柱の蔭から一人の男が逃げだしていくところである、哲一は跳躍して追迫《おいせま》ると、――相手が振返って拳銃《ピストル》を構える、その手を逆に捻上《ねじあ》げながら片手で相手の顎を押えて力かぎり、土塀へ叩きつけた。
「ぐっ!」と呻《うめ》いて蹴上《けあ》げてくる足、さっとかわして捻上げた腕を右へまわすや、
「えーい」掛声《かけごえ》と共に烈《はげ》しく引落《ひきおと》す、のめるところをのしかかって馬乗りに押えつけた。――そこへカデロ将軍を先に叔父の勇造やカデロ家の侍臣たちが駈けつけてきて、うむをいわさず怪漢を捕縛した。
「君のお蔭で命拾いをしたよ、哲一君」将軍は大きな手でがっしりと哲一の手を握りながらいった。
「なんという機敏な行動だろう、例《たと》えどんな場合にもせよ東阿の老虎といわれるこのカデロを、咄嗟に突飛ばすことのできた者は君が初めてじゃ、弾丸は儂《わし》の耳をかすめたが、もう一瞬君の突飛ばすのが遅かったら儂《わし》は頭骸骨のまん中で鉛の御馳走を喰っていたじゃろう」
「お褒めを頂くほどのことではございません、閣下――危機に面して常に果敢であれ、というのが日本人の精神です」
「その事実を眼前に見ることができたのは仕合せじゃ」
将軍は頼母《たのも》しげに何度も哲一の手を強く振った。それから怪漢を邸内へつれ戻ると、すぐ取調《とりしら》べにかかった。刺客は若い兵士で、一見南方土人であることが分る、細い眼の口髭の濃い男であった。
「お前はどこの者だ、名はなんというか」
「ハラベル生れです、名前はカズーと申します」
「兵役にあるのか?」
「――いえ、水牛を飼っております」
「嘘をつくな※[#感嘆符二つ、1-8-75]」将軍はどしんと卓子《テーブル》を叩いた。「貴様の上衣《うわぎ》の衿には軍団章を剥がした痕がある、しかもまだ剥がしたばかりじゃないか、――どの軍団に属していた?」
「申上《もうしあ》げられません」
「云えなければ云うには及ばぬ、正規兵の所属を知るくらいの事は簡単じゃ、――お前はいまこのカデロを暗殺しようとしたが、なんのために殺そうとしたのか、誰かに命ぜられたのか、それとも自分の考えでやったか?」
「閣下を暗殺しようなどと考えたことはありません、拳銃《ピストル》を弄《いじ》っていたら……つい指が滑ったのです」
「そんな言訳《いいわけ》が通ると思うか」
「事実です」怪漢カズーは昂然と嘯《うそぶ》いた。――将軍はしばらく相手の眼を見詰めていたが、やがて椅子から起つと大股に進寄ってカズーの胸を片手にひっ掴んだ。
「貴様は、カデロが東阿の老虎といわれている意味を知っているか。先帝メネリック大王でさえ――カデロを怒らせるな、と仰せられたことがある、知っているだろうな?」
「――はい」カズーの顔色がさっと蒼白《あおざ》めた。
「売国奴め※[#感嘆符二つ、1-8-75]」カデロ将軍は再び呶鳴《どな》った、「貴様の体に流れているのは、我が光栄あるエチオピア人の聖なる血だぞ。貴様はその血を汚した、この大国難に際して全国民が祖国のために生命《いのち》を投出《なげだ》す時、貴様は同朋の一人たるハイル・シラシエ・カデロを暗殺しようとした、――それでも貴様は恥じないのか、貴様の体には血も魂もないのか※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「――閣下」カズーは突然そこへ跪《ひざまず》いた。
「申上げます、申上げます閣下」
「云え、貴様の汚《けがれ》を洗うにはまだ遅くはない」
「私は、私はシェラダの……」男はそう云いかけたまま、不意にぴくん[#「ぴくん」に傍点]と身を顫《ふる》わせると、かっ! と喉を鳴らせたが前のめりに倒れた。――一同は茫然として見戍る……とカズーの白服の背中へばっと血が滲みだしてきた。
[#3字下げ]秘密の鍵[#「秘密の鍵」は中見出し]
「あっ――」といって哲一が駈寄《かけよ》った、カズーを抱起《だきおこ》してみると、背中から心臓部へ弾丸《たま》が貫通している。
「狙撃されたのです閣下」
「しかし、なんの音も聞えなかったではないか」
哲一は窓へとんでいった。撃ったのは精巧な空気銃だ、さっきカズーの狙撃した窓|硝子《ガラス》の破目からやったのに違いない――哲一は脱兎のように外廊へとび出そうとする。とたんに、一人の老将軍が四五名の部下を従え扉口《とぐち》から悠然と入ってきた。
「おお、老カデロ在宅じゃな」
「やあこれは珍客」カデロ将軍はすばやく侍臣に命じてカズーの死骸を運び去らせながら、客を広間の方へ案内していった。
哲一は後に残って外廊へ出ると、狙撃したと思われる窓の外を調べた、すると外廊の下の地面に、きらきら光る小さな金具の落ちているのを発見した。
「さっきは慥《たしか》になかったぞ、と、するとカズーを撃った奴が落した物に違いない」拾いあげてみると楕円形の金|渡金《メッキ》をしたもので、「旗を持っている獅子」が浮彫《うきぼ》りになっている、それはエチオピア王家の紋章で、王族だけが持つことのできる品であった。
「カズーが秘密を明しそうになったので、あの窓から射殺した奴がある――そしてその男は、獅子王旗の紋章のついた品を持つことのできる身分に違いない。してみるとこれは簡単に解決のできる事件ではないぞ」哲一は金具をポケットに入れながら呟《つぶや》いた、すると丁度《ちょうど》その時、侍臣の一人が急ぎ足にやってきて、将軍が呼んでいると伝えた。
「ああ、ちょっと君」哲一は侍臣に振返って、「いま来た客人はどう云う身分の人ですか」
「はい、あれはシェラダの豪族で有名なマジ将軍と云われます、カデロ閣下とは古くからの御親友でいらっしゃいます」
「シェラダ……?」哲一は首を傾げた、さっきカズーが死の直前に「シェラダ」という言葉をもらした。どういう意味でいったかは、当人が死んだ今となっては分らないけれど、とに角《かく》なにか関係がなくてはならぬ。
「よし、眼をつけてやろう」哲一は心に頷きながら、侍臣に導かれて広間へ入っていった。――広間では卓子《テーブル》をはさんで両将軍が大声に話をしていたが、哲一の入ってくるのを見るとカデロ将軍がにこにこ笑いながら、
「こっちへき給え哲一君、ここにいるのは儂《わし》の旧友でシェラダの城主マジ将軍だ――これがいま話した佐伯哲一少年じゃ」
「お眼にかかれて光栄に存じます閣下」
「いや、儂《わし》こそ日本の若いお友達を得て光栄じゃ、いまカデロから聞いたが、暗殺者の手から彼を救った君の奇智と勇気には、実に敬服しましたぞ、どうかこの後《のち》とも我々の力になって貰いたい」
「恐縮に存じます――」拝揖《おじぎ》をしながら、哲一が見ると……マジ将軍の佩剣《はいけん》の柄頭が脱《と》れている。
「閣下……」と哲一が進んで、ポケットからさっき拾った金具を取出しながら云った。
「失礼でございますが、剣の柄頭をお落しになりはしませんでしょうか」
「柄頭? はて――」マジ将軍は自分の佩剣へ振返ったが、
「おおこれは、いつ脱《はず》れたかしら」
「この品ではございませんでしょうか」
哲一は相手がどんな顔をするかと鋭く見詰めながら、例の金具を差出した。マジ将軍は哲一の眼つきには気もつかぬ様子で、
「やあ有難《ありがと》う、これに違いない――そら、ぴったり嵌《はま》ったよ」
「貴公も佩剣の柄頭を落すようでは、よほど老耄《ろうもう》したとみえるのう、ははははは」マジ将軍か金具を嵌めるのを見ながら、カデロは愉快そうに腹をゆすって笑った。――それから哲一の方へ振返って、
「ときに、マジ将軍は明日当地を出発しマグダラへいかれるが、君も伴《つ》れていって貰ってはどうかな」
「ぜひお願い致します」哲一は熱心に答えた。「しかし……マジ閣下のマグダラ入りは、なにか特別な御任務でもあるのではありませんか?」
「それは機密じゃ」マジ将軍はそういって立上った。「一緒にいくなら明朝十時までに儂《わし》の邸《やしき》までくるがいい、君のためにできるだけの便宜を計ることにしよう」
「どうぞお願い致します、閣下」哲一は叮重《ていちょう》に拝揖《おじぎ》をした。
[#3字下げ]豹の娘[#「豹の娘」は中見出し]
その日から数えて三日めの夜。
アジス・アベバを出発したマジ将軍の一行は、サハルの山嶽地方を強行して青《ブルウ》ナイルの岸に出で、デブラ・マルコスの渓谷を望む牧地に野営した。――佐伯哲一はこの三日間、絶えずマジ将軍の身辺に注意して、どんな些細《ささい》なことにも眼を放さなかったが、別にこれといって怪《あやし》むべき様子は見当らなかった。
夜営の簡素な夕食の後、哲一が日記をつけていると、突然マジ将軍がやってきた。
「どうだね哲一君、馴れぬ旅路でさぞ疲れたことだろう。これから青《ブルウ》ナイルの岸を散歩しようと思うのだが、よかったら一緒にこんかい――?」
「お供を致しましょう」哲一は日記帳を閉じて立上った。
夜営|天幕《テント》を出て、野麝香草《のじゃこうそう》やえにしだ[#「えにしだ」に傍点]の強く匂う牧地の傾斜面を下りて行くと、やがて道は広々とした河原へ出た。夕月が東の空にかかって、微風もない澄んだ空気は快く花の香にしめっている。
「見給え、あれがナイル河だ。ツアナ湖より流れマグダラの水を合して涎々《えんえん》五千|哩《マイル》の地をうるおし、埃及《エジプト》カイロから地中海へ注ぐナイル河だ、我等祖先の興亡三千年……その血を吸い、その肉を晒《さら》し、幾多の悲劇と喜劇とを、この河は冷然と見戍ってきたのだ」マジ将軍の声は感慨に顫えている。――東方|阿弗利加《アフリカ》の歴史はナイル河を中心に発展している、それは哲一少年も知っているところであった。そして今、現代東阿の情勢も、このナイル水源地方をはさんで幾多の危機が相せめいでいるのだ。
二人は水際まで下りていった、――するとその時、二百メートルほど河上で大きな水音がした。
「何でしょう、今の音は……?」
「水を呑みにきた野獣でも墜《お》ちたのだろう」
将軍がそういった時、
「――助けて……」と叫ぶ土語が聞えた。
「誰か人が墜ちたらしいですね」哲一はそういって、声のする方へ走りだした。みると岸からずっと離れた、流れの烈しいところを一人の少女が押流《おしなが》されていくところだった。
「いま助けてやる、待ってい給え」
哲一は叫ぶなり水の中へとびこんだ。
水はひどく冷たいうえに、流れは思いのほか早かった、服も靴も脱ぐ暇のなかった哲一は、強い流れに押しやられて危く中流へ捲込《まきこ》まれようとしたが、懸命に少女の側へ泳ぎついた。
「噛り着いてはいけないぞ。手を出して、そうだ。上を向いて頭を水につけて、よし、そら元気を出すのだ」左手を少女の背へ下からまわし、相手の体を浮かすようにしながら、岸へ向って泳ぎだそうとした時である、突然、
シュッ! と何かが飛んできて、右手の水を打ったと思うと、たーん! と云う銃声が渓谷に木魂《こだま》して聞えた。
「や……?」と思って振返ると、今――そこにいたマジ将軍の姿が見えない、そればかりでなく岸の水楊《みずやなぎ》の茂みに誰か隠れている。たーん! 再び銃声。
「しまった!」呻く哲一の鼻先へ、シュッ! と弾丸《たま》が飛んできて飛沫をあげた。動作を縛られている水の中だ、このままではすぐに射殺されてしまう。
「苦しいけれど我慢をおし」と云うと、哲一はいきなり少女を抱えたまま水中へ潜った。
少女を放してしまえば危地を脱するのは容易《たやす》い、しかし溺れかかっている者を見放して、自分だけ助かろうというような卑怯な気持にはどうしてもなれなかった。――強い流れを利用してしばらく水中を潜った後、息をつくために水面へ浮ぶ、とたんに又しても銃声、
たーん! たんたん※[#感嘆符二つ、1-8-75] 続けさまに四五発、哲一の前後左右で飛沫をあげた。危険! 哲一は息をつくまもなく再び水中へ潜る――こんなことを二三度|繰返《くりかえ》しているうちに、ようやく距離が遠くなって銃声もと絶《だ》えた。
「もう大丈夫だぞ、確《しっか》りするんだ」
「――ええ」
「そら、元気をだして」
励《はげま》しながら、やっとの思いで岸につく、少女を助けあげると、河原の草地へきて哲一はばったりと倒れてしまった。――少女はさすがに蛮地で育っただけ、直《ただち》に元気を取戻して哲一少年の側へよって、
「いま力のつく食物《たべもの》を持ってきますから、しばらくここで待っていて下さい」というと、身軽に林の中へ走《はしり》こんでいった。哲一はその声を夢のように聞きながら、いつか気を失ってしまったのである。
[#3字下げ]跟ける![#「跟ける!」は中見出し]
「さあ、これを召上《めしあが》れ」少女の声に呼覚《よびさま》されて、哲一が我にかえってみると、側には火が焚いてあった。
「死にかかっている病人もこれを食べれば治るといわれている木実《このみ》ですわ、すこし臭いかもしれませんけど召上って下さい」
「ありがとう」哲一は半身を起して、少女の手から栗のような形の果実を受取って、食べた。初めは少し青臭いような気がしたが舌に溶ける蜜のような甘さは、そのまま浸込《しみこ》んで血になるかと思われるほど美味《うま》かった。
「なんという果実ですか」
「私たちはスバルと申しています」三つばかり続けざまに喰べて、ふと振返った哲一は思わず、
「あっ!」と叫んで跳上った。「豹が……」
すぐ背中のところに、若い二歳ばかりの牡豹が蹲《うずく》まっているのだ。少女は慌てて、
「ああ大丈夫ですわ、これは私のお友達なのです、すっかり馴れていますから決して危険はございませんの」
「貴女《あなた》のお友達……豹が?」
「ええ」少女は頷きながら豹の頭を撫でた。すると豹は、まるで飼主《かいぬし》に愛される仔猫のように、ごろごろ喉を鳴らしながら、少女の腰のあたりへ頭をすりつけすりつけした。
「私はアデラと申します。生れはこの谷合《たにあい》のアンコベ村ですが、早くから孤児《みなしご》になったので、今ではこの豹のドラと淋しく暮していますの――村の人たちは、私のことを豹の娘と申していますわ」
「豹の娘……なる程あなたに似あった名だ」
「そうお思いになって?」
「貴女《あなた》の体つきや眼つきには、どことなく近寄りにくいところがありますよ」哲一がそう云った時、少女アデラの眼が本当に豹のようにきらきらと光った。
身心の力が恢復《かいふく》してくると、哲一はこれからどうすべきかを考えなければならなかった。少女を助けるために水中へとびこんだのを、岸から狙撃したのは何者であろうか――? マジ将軍の姿がふいに見えなくなったのは何故《なぜ》であろうか――?
「もし、マジが僕を殺そうとしたのだとすると、カデロ邸でカズーを射殺したのも彼だ。僕がこの佩剣の柄頭を拾ってやったので、彼は僕がなにかを知っていると思い、ここで暗殺して自分の犯罪を闇から闇へ葬る積《つも》りだったに違いない……しかし、彼はカデロ将軍の最も親しい旧友だというではないか、そうだとするとカデロを暗殺させる理由が分らない」
事件はひどく複雑だ。あれ程カデロに信頼されていたマジ将軍が、もし仮にカデロを暗殺させようとした張本人であるとすると、先《ま》ずその理由を探しださねばならぬ。
「よし、僕はその理由をみつけだすぞ、――どう考えてもマジが怪《あやし》い。彼が聖地マグダラへいくのも、その裏に何か秘密があるかも知れぬではないか」哲一は独りうち頷いた――これからひそかにマジ将軍一行の後を跟《つ》けて、秘密の鍵を掴んでやろう――! と。
「貴方《あなた》はどこへいらっしゃいますの?」
「マグダラへいこうと思う」哲一は服を脱いで焚火《たきび》に乾かしながら答えた、「実はここまで或人と一緒にきたんだけれど、その人は僕のいくのを好まぬらしい。さっき水の中にいた時鉄砲を射ったでしょう、あれがその伴《つ》れの一味なんだ」
「まあ……僧いことをする人ねえ」アデラは歯を剥出《むきだ》して怒った、「もし私がその男をみつけたら、このドラを唆《け》しかけて喰殺《くいころ》させてやるわ」
豹のドラは主人の怒《いかり》の声を聞くと、にわかに背筋の毛を逆立て、牙を剥出して低く呻った。ドラはまるで人間のようにすばやく、アデラの怒りや喜びを覚るらしい。
やがて濡れた服も乾いたので、哲一は手早くそれを着ると、少女の方へ手を差出して別れを告げた。
「まあ、もういらっしゃるの?」
「大事な用を控えているから、今夜のうちにつれの者に追いつかなければならないんだ、これでお別れにしよう」
「厭《いや》ですわ」アデラは決然と立上った、「私も御一緒にまいります。いえ! あんな卑怯な狙撃をするような仲間へ、一人で貴方《あなた》をやることはできません、貴方《あなた》のために生命を救って頂いたのですから、今度は私が貴方《あなた》をお護りする番です、どうか一緒に伴《つ》れていって下さい」
「だが」「いえ、なんとおっしゃっても参ります、ドラ! おいで。これからこの方もお前の御主人になったのだよ、この方に危害を加えるような奴があったら、構わず噛殺《かみころ》しておやり、分ったろうね※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
豹のドラは、まるで分ったとでもいうように、ひと声低く咆えると、ぴったり哲一の方へ体をすりつけてきた。
[#3字下げ]騎兵[#「騎兵」は中見出し]
「とにかくマジ将軍の天幕《テント》を見てくる」
佐伯哲一は立上った。
「あのまま山地をいくか、それとも青《ブルウ》ナイルを舟でのぼるか、その様子によってこっちも策をたてなければならぬ」
「あたしもご一緒に」
「いや、君はここに待っているんだ、もし監視兵にでもみつかったらうるさい。どこへも行かずにここでじっ[#「じっ」に傍点]としてい給え」
「はい、それでは待っています」
アデラは温和《おとな》しく頷いた。哲一は近くの叢林の中から手ごろの棘棒《とげぼう》を折取《おりと》って、武器代りに右手へ持つと、河添《かわぞい》の礫道《いしころみち》を上の方へ進んでいった。
マジ将軍がもし叛逆者であるならば、邪魔者の佐伯哲一を殺したと思って安心し、必ずなにか策動をし始めるに相違ない――そこを充分につきとめようというのだ。
牧地かかるすこし手前のところで、哲一は哨兵の立っているのを発見した。
「丁度いいぞ、彼奴《あいつ》から武器を借用するとしよう」
哲一は独り頷くと、闇の中を忍び足に近寄っていったが、棘棒なんかでは充分に活躍ができない、哨兵の腰にある拳銃《ピストル》を奪いとってやろうと思ったのである。しかしもう一歩で跳びかかろうとした時、戛々《かつかつ》と馬蹄の音が近づいてきた。
「しまった、発見されたか?」と身をすくめて叢《くさむら》の中に隠れる、同時に哨兵が銃を構えて
「止れ!」と叫んだ、走ってきた相手は馬を停めて、
「マジ将軍へ使者だ」
「合言葉は――?」
「獅子の爪」
「よろしいお通りなさい。将軍は中央の天幕《テント》にいらっしゃいます」
馬上の男はさっと走りぬけていった、――叢の中から見ると、青色に金筋の入った欧羅巴《ヨーロッパ》風の騎兵であった。
「しめた、密使だぞ」哲一は思わず膝を打った。
深夜この山中で欧羅巴《ヨーロッパ》人の密使と会う、それも言葉つきでみるとたしかにイタリー騎兵だ、マジ将軍こそいよいよ怪しむべしである――哲一はそろそろ叢から這い出した。
哨兵は銃を肩にして往ったりきたりしている。哲一は二三度それをやり過しておいていきなり背後からとびかかった。
「あっ」驚いて叫ぼうとするのを、頸へ右手をまわして満身の力で絞めあげながら、ぐいっと横ざまに引倒した。
「そらっ!」みごとにしめおとす、素早く帯皮《バンド》を拳銃のケースごと外して腰へしめる、落ちていた銃を執《と》って立上った。――ほとんど同時に、天幕《テント》の方からさっきの騎兵が戻ってきた。
「止れ」哲一が叫んだ。
「誰だ、どこへいくか」
「マジ将軍への使者だ」
「合言葉は」
「獅子の爪」
「――下りろ!」
騎兵は意外な言葉に驚いたらしい、哲一は銃をあげて相手の胸を狙い、カチリと安全錠を外しながら、
「下りろ。服従せぬと射つぞ」
「……ま、待て」騎兵は慌てて馬から下りた。
「馬を曳《ひ》いて先へ歩け、右の道を河原へ出るんだ、声をあげると射殺するぞ」
「き、君は……誰だ」
「余計なことを訊《き》くな、歩け!」
騎兵は黙々として進んだ――途中で二三度脱走しようとしたが、結局哲一のために機先を制されて、一時間ほど後にはアデラの焚火している処へ帰ってきた。
「まあ、無事だったわね。哲一」アデラは狂喜しながら駈寄ってきたが、騎兵を見つけて訝《いぶか》しそうに、
「これ誰なの――」
「イタリイ軍の密使だ、マジ将軍へ使者にきた帰りを捉えたのさ」
「イタリイ騎兵……?」
そう呟くと、ふいにアデラの眼がきらりと光り、唇がぴくぴく痙《つ》りあがって、野獣のように歯を剥出しながら、
「白い悪魔め、私たちのお国を喰う鬼め!」と叫んでとびかかった。
[#3字下げ]陰謀の糸[#「陰謀の糸」は中見出し]
「いけない、アデラ! お待ち」哲一はやっとの事でアデラを引離した、豹のドラも牙を剥出して、今にも騎兵にとびかかろうとしている。
「アデラ、大事な捕虜を殺しでもしたらどうする、ドラを止めなさい」
「――ドラ、いいんだよお待ち」アデラは口惜《くや》しそうに豹をなだめながら、焚火の側へ坐って鋭く捕虜を睨みつけた。哲一は騎兵の体から武器を取棄てると、
「前へ出給え」と命じた。
「君はマジ将軍から密書を託されているはずだ、まずそれをこっちへ貰おう」
「そんな物は……」
「無駄な隠しだては止《よ》しにしろ、君を殺したって取らずにはおかんぞ、出せ!」
騎兵は諦めて、上衣《うわぎ》の内隠しから一通の書状を取出した。哲一はそれを、受取《うけと》ると、アデラに拳銃をわたして、
「逃げようとしたら射て」と監視を頼み、手早く書状の封をきった。中は達者な英語で、
[#ここから2字下げ]
余は三日の後マグダラに入る、東部戦線の情報は良好、ムロッグの叛乱は確実なり――カミロ将軍とはマグダラに於て会見すべし、[#地から1字上げ]ハイル・シラシエ・マジ
ビアズレイ・バリラ閣下
[#ここで字下げ終わり]
「や! 相手はバリラか」
哲一は仰天した。ビアズレイ・バリラといえば、伊太利《イタリー》陸軍の勇将として、またエマヌエル三世|近衛《このえ》の精鋭を統率する国民的英雄として有名な人物である。――そのバリラ将軍がいつのまにかこのエチオピア奥地へ潜入して、マジ将軍と秘策を弄しているのだ。
「これはすばらしい発見だぞ、マグダラ乗込みは急ぐ必要なし、ここでひとつビアズレイ・バリラ将軍と会見してやろう」哲一はにっこり笑って振返った。
「バリラ将軍はどこに駐屯していられるか、いい給え」
「存じません」
「君は頭が悪いな、隠しても無駄だということが、まだ分らないのか。いい給え!」
「――気、気分が悪いのです」
「どうしたと?」
「なにか、飲む物を下さい」
見ると騎兵は額にぐっしょり汗をかいている、哲一は振返ってアデラに水を汲んできてやれといおうとした――刹那! 騎兵は突然その隙を見てひらりと馬へとび乗った。
「あ! うぬ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
哲一は見るより、横っ跳びにとんで、鞍へ縋《すが》りつくと同時にアデラが拳銃の引金を引いた。
「だーん※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
闇を劈《つんざ》く火花。騎兵は心臓部を射抜かれてどう[#「どう」に傍点]と転げ落ちる、哲一は狂奔する馬をようやく取鎮めながら戻ってきた。
「馬鹿な奴だ!」
即死した騎兵を見やりながら哲一は苦笑をもらした。
「しかし、どうせ生かしてはおけぬ奴だったから、自分の方で銃殺される機会をつくってくれたのは手数が省けてよかった」
「これでお国の仇《あだ》を一人やっつけたわ」
アデラはそういったが、さすがに顔色が変り、拳銃を握った手は微《かす》かに顫えていた。
「――これから、どうするの、哲一」
「この手紙にあるバリラ将軍と会見するんだ、勿論僕は日本新聞の従軍記者としてさ」
「何処《どこ》にいるか分ってる――?」
「僕には分らないが、なにこの馬が知っているさ」
哲一はそういって、主を失った馬の平首をやさしく叩いてやった。
マジ将軍は三日のうちにマグダラへいく、そしてそこでカミロ将軍と会うということが分っている。――だから、その方の探査は後にして、哲一はバリラ将軍に会見しようというのだ。果していかなる計画をいだいての事か? 陰謀の絲《いと》を手繰って哲一は出発した。
馬は哲一とアデラを乗せて、だく足で西へ走りだした。そして夜明け前一時間、ソラノの浅瀬を渡ってブルエの高原へ出た。
東の空は濃い薔薇色に染められ、東南の微風が草林をそよがせて吹きはじめた。豹のドラは草の中をまるで風のように音もなく馬に添って走っていたが――高原へ入って八|哩《マイル》ほどもきたころふいに耳を立て、アデラの方を気遣わしげに見やりながら、低い声で警告するように呻りはじめた。
「哲一、気をつけて頂戴」
「なにを?」
「ドラが何か知らせています、人が近くにいる様子だわ」
[#3字下げ]会見記[#「会見記」は中見出し]
「じゃあこの辺で下りよう」哲一はそういって馬を止め、アデラを援《たす》けながら下りた。
それは実に良い時であった。というのは二人が馬から下りた時、右手の高地の上へイタリイ陸軍の正服《せいふく》を着た士官が三名の兵を連れて巡視に現われたのである。
「伏して、アデラ、動いちゃいけない」
「あいつ、イタリイ人ね!」
「黙って!」
アデラは口惜《くや》しそうに歯を噛鳴らせながら草の中へ跼《かが》んだ、イタリイ兵達はこっちに気づかぬ様子で、そのまま高地の上を去っていく――哲一は、ふところからマジ将軍の書状を取出し、馬の鞍へ落ちないように挿しこむと、平手で馬の尻を強く叩いた。
「そら、行け――」馬は大きくはねあがると、いま去っていくイタリイ兵の方へ向って、疾風のように走っていった。
「どうするの?」
「なに、あの密使が帰らないと奴等はマジ将軍の方へ問合《といあわ》せをするに違いない、だから密書を持たせてやったのさ、使者がいなくても密書が届きさえすれば、マジ将軍へ問合せを出す気遣いはない――あ、奴等は馬を捉えたぞ」
見ると、なるほどいま巡視していた士官たちが、走り過ぎようとする馬を捕えて曳いて行くところだった。
「さて、僕らは廻り道をしよう」
哲一はアデラを促して右手、高地の方へエニシダの茂みを伝いながら登っていった。
高地の上へ出ると、二|粁《キロ》ばかり西にブルエの市街が見えた。百|呎《フィート》も百五十|呎《フィート》も伸びたユーカリ樹林のあいだに、灰色の壁をもった会堂や、土民の家屋が並んでいる。――そして市街の東部の草原には、明《あきら》かに伊太利《イタリー》軍の野営|天幕《テント》と思われるものが、点々と散開しているのが見えた。
「ははあ、まさに二軍団近くの人数だな」哲一は呟いた。
「アスマラから南下した軍があると聞いたが、さてはここまで潜行してきていたのか――国際通信によるとツアナ湖はまだ安全だということだが、これでみると国際通信などがいかに出鱈目なものかということが分る」
「哲一、あそこに哨兵がいるわよ」
「承知だ――君はここで帰り給え……いや黙って、彼奴《あいつ》は僕らをみつけたよ」
百メートルほど先にいた哨兵が、この時つかつかと此方《こっち》へ進んできた。
「アデラ、おまえ今夜あの市の会堂の門までやっておいで。夜中の十二時だ――そこで会おう、いいかい」
「分ったわ、大丈夫」
「じゃあ左様《さよう》なら」云っているところへ、哨兵がきた。
「君らはそこで何をしているか?」
「僕は道に迷って、いまこの土人娘に案内して貰ってきたところだ。ひと晩中歩きつづけてひどく喉が渇いているんだが水はないか」
人を喰った態度に、哨兵の方がちょっと毒気をぬかれ、黙って水筒を差出した――その隙にアデラは立去っていった。
「あまり飲んでくれるな、この地獄のような土地では水は葡萄酒《ぶどうしゅ》よりも大事だからな」
「ありがとうこれで生返《いきかえ》ったよ」哲一は無邪気そうな髯面の哨兵を見上げながら「ところでどうだね、戦地の感想は、いつ此方《こっち》へきたのかい君は」
「戦地の感想は良くないな、水が不足だしおまけに蚊がひどい、まるで蚊と水と戦っているみたいだ――おい、ごまかしちゃいかん、君は何者だ、何のために」
「そう慌てなくともよろしい、僕は日本から来た新聞社の従軍記者で、バリラ将軍に会見のお許しを得ているんだ」
「――従軍記者?」哨兵は眼を刹いた「なんて、その新聞記者てえ人類は耳が早いんだろう、どうして飛龍軍団がここへきたことを知ったんだ」
うっかり口を滑らせた「飛龍軍団」――さてこそ精鋭なる近代科学兵団として名のある飛龍軍団がここにきていたのか? 哲一は心の中で快哉を叫んだ。
「とにかく、将軍の営舎へ案内し給え」
「本当に会見のお許しが出ているのかい?」
「本当だとも、いけば分るよ」
哨兵は困った様子で暫《しばら》く眼をしばしばさせていたが、やがて振返って、
「あの天幕《てんと》の向うに白い平屋《バンガロー》があるだろう、あそこが閣下の営舎だ」と教えた。
哲一は気の好《い》い哨兵に別れて、大股に丘を下っていった。
[#3字下げ]虚々実々[#「虚々実々」は中見出し]
「ビアズレイ・バリラ閣下に御面会を願いたいと存じます」哲一がそういって、従軍|徽章《きしょう》と名刺を差出した時、営兵司令はまるで眼玉がとび出しそうな顔をした、――飛龍軍団がブルエへ侵出したのは極秘の行動で、伊太利《イタリー》軍の中でも知っているのは首脳部だけであったから、外国従軍記者がとびこんできたのは実に青天の霹靂《へきれき》であったに違いない。
横っとびに引込んでいった営兵司令はまもなく引返してきて、
「お会いなさるそうだ此方《こちら》へ」と哲一を応接間へ案内した――しばらく待つまに香りの高い珈琲《コーヒー》やバタ麺麭《パン》が接待に出た。
「ははあ、御機嫌とりだな」にやりとしながら、麺麭《パン》を食べ珈琲《コーヒー》をすすっていると間もなく正服を着た六|呎《フィート》ゆたかの巨《おお》きなバリラ将軍が入って来た。
「やあよく来たな」ひどく愛想がいい。
「いや立たなくともいい、そのままで、そのままでいやどうも君たちの素早いのには驚くよ。どうしてここが分ったかね」
「ビアズレイ・バリラの駐在地が分らぬようでは新聞記者は勤《つとま》りませんです閣下」
「おだててはいかん、――ところで、すっかり知れているのかね、それともまだ君だけしか知らんのか」
「僕だけでしょうな、恐らく」
「そいつは大手柄だ」「まず賞金ものでしょうか」
「その賞金を儂《わし》が出そうじゃないか、どうだね。さ、佐伯哲一君というね君は、どうだ賞金をこっちであげよう」
「買収ですか」
「ブルエ侵入は秘密行動で、いま情報を発表されては軍事上困るんだ、ひどく困るんだ。従軍記者の二人や三人暗殺しても、これは秘密を要するんだよ」
「暗殺なすったらどうです」哲一はにやりとした。
「僕一人ぐらいなら暗殺もへちまもない、一発ずどんとやればおしまいです――ねえ閣下、おやりになりませんか」
「君は冗談だと思うのかね?」将軍の眉がぴくりと動いた。と、哲一はすっくと立上るや上衣《うわぎ》の釦《ボタン》を外して、さっと両方へひろげ純白のシャツを将軍の前へさし出した。
「さあどうぞ」
「――――」
「日本では、冗談に人を暗殺するなどということは申しません、また暗殺されるくらいのことを怖れてこんな奥地へ従軍記者としてやってくる馬鹿者もおりません。さあひとつ思切《おもいき》ってやってみませんか」
「――まあ、まあいい、まあいいよ君」将軍は狼狽しながら制した「まあ上衣《うわぎ》を着給え。儂《わし》のいい過しだ、坐り給え」
「やれやれ、僕はバリラ将軍とはもすこし肝玉の太い人かと思ったら……」そういって、哲一は肩をすくめた。――いかにも人を見下げた態度である。しかし将軍はそれにさえ怒る気配がなかった。
「でも、僕を暗殺なさらないでいいことをしましたよ閣下」
「とは又――何故《なぜ》?」
「僕はブルエへ入る前にアジス・アベバから本社へ電報を打ってあったんです、三日内に帰らなかったらバリラ軍団で暗殺されたものと思ってくれと――あはははは」
バリラ将軍は手帛《ハンケチ》で額の汗を拭いた。
「さあ、もうこれで仲直りをしましょう閣下」
「仲直り――?」哲一は将軍の手を握った。
「そうです、僕は従軍記者ですから、閣下の戦略を妨害するような通信はいたしません」
「ほ、本当か?」「日本人は嘘はいいません」
「ありがたい、大いに助かった」将軍は固く哲一の手を握って、「それさえ承知してくれるならどんな便宜でも計ろう。ところでしばらくここに滞在するかね」
「左様、先ず――」云いかけた時、室《へや》の扉《と》が明《あ》いて、一人の将校が現われた。
「申上げます」「なんじゃ――」
「唯今《ただいま》マジ将軍から……」
「しッ」バリラは叱咤した「馬鹿者!」
「は!」「よし、いま行く――」
将校は蒼白な顔をして去った――哲一はすかさず、立上ろうとする、バリラに向って、
「いまマジ将軍とか云われましたが、あれはハイル・シラシエ・マジのことですか」
「ば、馬鹿な、君そんな」
「いや、失礼しました、僕はまたマジが叛乱を企んでいるという噂を聞いていたものですから、閣下と連絡をとりにきたのかと思ったのです」
「そんなことはないよ、ちょっと失敬」将軍は慌てて出ていった、――哲一はマジ将軍からの使者と聞いたので、さては昨夜の騎兵射殺のことがばれたなと思った。
「――とすると、油断はならぬぞ」頷いて、そっと椅子から立つと足音を忍ばせて廊下へ出た――右の方ではげしい人声がする、壁伝えに近寄ると――窪房《アルユーブ》に将軍と黒人が立って話している。
「――で、閣下の密使が射殺されているのを今朝、発見したのです」
「誰が射殺したんじゃ、わからぬか」
「それが、ひとつ妙なことがあるんです」
いいかけて黒人が、あっ[#「あっ」に傍点]! と叫びながら指さした――哲一を発見したのだ。その黒人こそマジ将軍の侍臣で、哲一とは顔見知りの男であった。
[#3字下げ]危地[#「危地」は中見出し]
「あッ」哲一《てついち》の姿をみつけた刹那、黒人使者はさっと顔色を変えて立竦《たちすく》んだ。
「どうしたんじゃ?」
バリラ将軍は訝《いぶか》しそうに使者と哲一との顔を見比べた。
哲一はしまった[#「しまった」に傍点]! と思ったが最早どうにもならぬ。しかし「どうにもならぬ」と気づいたときには持前の大胆な態度にかわっていた。そして大股に進み出ながら、
「やあ、君はハイル・シラシエ・マジの侍臣ユウカ君じゃないか」と云《い》った。
「ば、ばかな?」バリラ将軍が慌てて打消《うちけ》した。
「ばかな事をいう、マジの侍臣がここへくる訳がないじゃないか。これはその……あれだなあ君――あの、ブルエの州役人だ」
「そ、そうです」黒人使者も逆に狼狽していった。
「私はここの州の役人で、ハハガルという者です」
「やあ、それは失礼、僕はまたてっきりマジ将軍の侍臣かと思った。よく似ているんですよ。実にユウカにそっくりだ」
「黒人はみな似たり寄ったりさ」そういいながらバリラ将軍は黒人使者を促して居間の方へ急ぎ去った。
しすましたりと元の応接室へ帰ったが、さて考えてみると、第一歩は危く免れたがまだ危険は去ってはいない――。黒人使者は哲一を発見したのだ。
「待てよ、ユウカが驚いたのには二つの理由がある、奴は殺したはずの哲一が生きているのを見て驚いた、それから哲一がここにいたので、マジとバリラの密契を嗅ぎつけられたと直感して驚いた。この二つだ……勿論、あいつはバリラにそれを話す」
バリラから送った伝令騎兵を殺したのが哲一だということはすぐに分るであろうし、そして密書を読んだことも判明するに違いない、とすると――恐らくバリラは哲一を生かしておかぬとみなければならぬ。
「こいつは厄介な事になったぞ」哲一は思わず呻《うめ》いた。
なんとか無事に身をのがれる法はあるまいか。哲一は立上って扉口《とぐち》を覗いた――しかし、意外にも廊下には既に早く二人の番兵が、銃剣を手にして見張りに立っていた。
「くそっ、もう看視を始めたな」
ぴしっ[#「ぴしっ」に傍点]と指を鳴らせて引返《ひきかえ》した。
彼等は警戒を始めた、なにか非常手段を考えぬと彼等の手に落ちるのは時間の問題だ。哲一はさすがに苛立ちながら窓へよって外を見た、窓から見える内庭にも、剣の光る銃を肩にして二人の衛兵が看視に立っている――畜生、と思って引返そうとしたとき、ふと眼についたのは窓のすぐ外にある伝書鳩の鳩舎であった。伝書鳩――?
「まあ落着《おちつ》け、なにか有りそうだ……」
哲一はそう呟《つぶや》きながらしばらく思案していたが、何事か思いついたらしく、こっこり笑って頷くと――内庭にいる衛兵の動作をじっと見戍《みまも》っていた。看視兵は時折ちらと窓の方を見やりながら往《い》ったりきたりしている。哲一はじっとその歩数を計っていたが、やがて……衛兵がむきを変えた刹那、
「今だ」とばかり半身を窓から乗出《のりだ》して、鳩舎の扉《と》を明《あ》ける。同時に一羽の鳩を掴み出して後を閉め、さっと体を元へ戻した。これがほんの五秒ほどの間のことであった。
「これで用意はできた、あとはひと芝居うつばかりさ」
哲一がにやりと笑いながら、鳩の頭をやさしく撫でているとこへ、扉《と》が明いて誰か入ってくる――哲一が振返《ふりかえ》るとバリラ将軍だ。
「やあ……」といった哲一、なにを思ったか窓へいってさっと鳩を放した。
「な、何をする!」バリラ将軍は叫びながら窓へ走寄《はしりよ》って右手に拳銃を執直《とりなお》しながら、今しも舞上っていく鳩をめがけて。
だん! だん! だん※[#感嘆符二つ、1-8-75]
続けさまに射った。しかしそれは却《かえ》って鳩を追いあげるようなものだった。放されるが否や拳銃をあびせられたので、伝書鳩はすっかり驚き、必死に羽叩《はばた》きをしながら、石礫《つぶて》のように虚空へ舞上《まいあが》り、そのまま雲の彼方《かなた》へと飛び去ってしまった。
[#3字下げ]肚と肚[#「肚と肚」は中見出し]
「佐伯君、君は軍規を犯したぞ」
バリラ将軍は怒りに顫《ふる》えながら大股に詰寄《つめよ》った。
「戦時の通信は司令部の検閲を受けるのが規則だ、従軍記者の君がそれを知らぬはずはあるまい、返辞を聞こう」
「返辞は簡単です、僕は従軍記者として自分の生命を護ったのですよ、閣下」
「君の生命を――?」
「閣下は僕を檻禁《かんきん》し、今夜にも銃殺するつもりだったでしょう」
「そんな、そんな馬鹿なことが……」
「ざっくばらんにいきましょう、貴方《あなた》はいまマジの使者ユウカに僕が何者であるかを聞かれた、貴方《あなた》はマジ将軍との密謀が曝露《ばくろ》するのを怖れて僕を人知れず銃殺する決心をなすった――それくらいのことが分らぬと思いますか」
バリラは鋭い哲一の言葉にぐっと詰ったが、急に態度を変えて、
「そこで……左様、もし君のいう通りだとしたらどうするかね」
「改めて御相談です。閣下は僕を即座にも暗殺なさることができる、ところが僕の方にも一枚|切札《きりふだ》があるんです」
「マジとの密契かね?」
「それもありますね。しかしそんなことは僕の生命の代償にはなりません」
「外にもあるというのか」
「お聞きになりたいでしょうな……?」哲一は落着きはらって微笑した、バリラ将軍は肩をゆりあげて大股に壁の方へ歩いて行ったが、すぐに引返して来た。
「話し給え、君の切札は何だ?」
「マグダラ問題ですよ」バリラ将軍はびくっとした。
「な、なんとか……いったな君は……」
「改めて申上《もうしあ》げましょうか、伊太利《イタリー》のエチオピア遠征の真の目的、世界的の大陰謀、和蘭陀《オランダ》との秘密契約、恐るべき仮面――マグダラの接収問題です」
バリラ将軍は吃驚箱《びっくりばこ》の中のジャックのようにとび上った。よろめいた。瀕死の人のように喘いだ、幸いうしろに椅子《いす》があったので、将軍はそれに捉《つかま》って危く身を支えたが、そうでなかったら、殆《ほとん》ど倒れてしまうところだった。
「君は……君は……」
「左様、僕はいまの鳩にその仔細を書きしるして送りました、あの鳩は某地にいる通信員の手に入るでしょう、そして一週間のうちに僕が帰らなかったら、国際通信を通じて世界中の新聞紙に発表されます」
「いかん、そんなことはできん」
「しかし今となっては、閣下の力でそれを止めることは不可能です」
勝負は決した。大胆不敵な哲一の芝居はみごとに功を奏した。バリラ将軍は手帛《ハンカチ》を出して額の汗を拭きながら檻の中の虎のように、部屋の中をせかせかと歩き廻っていたが、やがて哲一の前に立止って「では一週間のうちに君が無事で帰れば、その秘密は保たれるというのだな?」
「繰返《くりかえ》して申すとおり日本人は決して嘘をつきません、閣下!」
「よし、それでは君の安全を、保証しよう、だが条件がつく――二十四時間以内に当地を退去して貰いたい」
「承知しました」
「それから、マグダラ問題は半ヶ年のあいだ秘密を守ってくれるよう」
「半ヶ年ですな?」哲一はにやりと笑った。
このまま退去してもブルエにきた収穫は充分あった。即ちビアズレイ・バリラの率ゆる飛龍軍団が、各国従軍記者の眼をくらましてブルエに侵入している事実、またハイル・シラシエ・マジと密契を交している事実が分ったからだ。しかし――哲一にはもう一つ知りたいことができた。
それは「マグダラ問題」と切出したときのバリラ将軍の驚きかたである。元来マグダラ接収の問題は伊太利《イタリー》と和蘭陀《オランダ》との秘密交渉であって、二三の重要な人たち以外には知るはずのない事件なのだ。さればこそバリラ将軍は倒れるほど驚いたのであるが、驚くところをみるとバリラは知っている。
知っているばかりではない。彼とマジ将軍とが密使を以《もっ》て交換した文書には明《あきら》かにマグダラの文字があった――とすると、或《あるい》はバリラこそマグダラ接収の責任者であるかも知れぬ。
新聞記者の鋭い頭で、早くも哲一は斯《か》く洞察した。
「これは迂闊《うかつ》に退去できぬぞ、なんとかしてマグダラ問題の策源を突止《つきと》めてやろう、立退くのはそれからのことだ」哲一はひそかに決心した。
[#3字下げ]不敵の策へ[#「不敵の策へ」は中見出し]
その日午後一時、バリラ将軍は二人の衛兵をつけて哲一を送り出した。
「ボノ村の哨戒線まで護衛していけ、途中どんなことがあっても自由行動を許してはならんぞ、それからスラ峠を越すまで望遠鏡で看視するように」
バリラの命令は厳重だった。
哲一は出発した。ボノ村までおよそ五|粁《キロ》ばかりある。そのあいだ――森蔭、低地、丘上、あらゆる好位置に、飛龍軍団の屯営が散在しているのを見た。
「これは驚いた、戦時編成としても大掛りに過ぎる、ことに依《よ》ると飛龍軍団ばかりじゃないぞ――或は……」
或はこの方面に本当の主力を集中しているのではないか? 哲一の眼は油断なく観察を続けた。
ボノ村に着いたのは日没前一時間であった。哲一は哨戒司令部で一応身本検査をされたうえ、
「では向うに見えるのがスラ峠だ、真直《まっすぐ》にあの峠を越し給え」と司令官に言渡《いいわた》された。
哨戒線には狙撃兵が並び、望遠鏡が道のうえに据えられたのは一歩でも戻ったら射殺しようという威嚇である。哲一はその物々しい有様《ありさま》を見てにやにやしながら、
「どうも叮嚀《ていねい》なお見送りでありがとう。じゃあ諸君、またお眼にかかりましょう」と不敵な挨拶をして歩きだした。
日没は迫っていた、しかしスラ峠へ向う道は草原の中の広い坦道《たんどう》で、身を遮る木蔭もない、仕方なく哲一は真直に進んだ。
スラ峠の上まできた時、日が暮れて夕闇がたち始めた。
「さて、これからどうしよう」
哲一は足の疲れを休めるために、道傍の草に腰を下した。
「深夜十二時にはブルエの教会堂の前でアデラと会う約束がある。これから歩きづめに歩いても十二時までに帰るのは骨だ、おまけに厳重な哨戒線突破という仕事がある」
どうしようかと思いまどっていた時、道を蹶立《けた》ってくる蹄《ひづめ》の音が聞えた、哲一はさっと立上って音のする方を見やった――碧色の軍服を着けた士官と、従卒らしいのが、馬を煽《あお》ってやってくる――
「や、和蘭陀《オランダ》騎兵だぞ」そう見てとった時、哲一の頭にはマグダラ問題の密使だな! という考が閃《ひらめ》いた。
「機会《チャンス》だ!」呟くと共に道へとび出した。
砂塵をあげて疾駆してきた二騎は、突然|行手《ゆくて》に人影があらわれたので、思わず馬足をゆるめる。哲一は高く手をあげながら、
「止れ」と伊太利《イタリー》語で叫んだ。
「何処《どこ》へ行くか?」
「バリラ閣下へ急使です」先頭にいた士官が近寄ってきて答えた。
「何処からきたか」
「ガロラシュ将軍の使者です」
「合言葉は?」
「獅子の爪」
ははあ此方《こっち》も「獅子の爪」か、と思った哲一、儼《げん》として命じた。
「下り給え!」
「え――? なんですって※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「この頃スパィが多いので一応身体検査をするんだ、早く!」
士官は馬を下りた。
「こっちへき給え」哲一は士官を伴って傍のエニシダの茂みへ入った。従卒は道の上で待っている。
「君の名は――?」
「少尉ベニトリ」
「よし、徽章《きしょう》を見せ給え」
少尉は上衣《うわぎ》の裏をかえそうとした。刹那、哲一は右手の拳を力任せに、がん[#「がん」に傍点]と少尉の顎へ叩きつけた。
「あっ」よろめくところを左手の拳で胃腑の上へ猛烈なストレート、そらっ!
「ぐう」ベニトリ少尉は低く呻いたまま前跼《まえかが》みにのめって気絶した、哲一はすばやく少尉の軍服を脱がせて着込み、剣を帯《つ》け拳銃を釣ってから、
「おーい、従卒!」と呼《さけ》んだ。
道の上に馬を預ていた従卒が声を聞きつけて馬を下りエニシダの茂みを分けてくるところを、
「此方《こっち》だ!」と呼止《よびと》め、振返るところへ、
「そら!」とばかり素早いパンチ、む! とよろめくのを踏込《ふみこ》んで衿を取ると、捻じ倒しながらみごとに絞めおとした。
[#3字下げ]深夜の出来事[#「深夜の出来事」は中見出し]
少尉と従卒を厳重に縛りあげ、エニシダの茂みの奥へ引摺っていった哲一は、少尉の上衣《うわぎ》の中から密書を取出《とりだ》して披《ひら》いた――夕闇は濃くなっていたが月が耀《かがや》きはじめていた。密書は伊太利《イタリー》語で、
[#ここから2字下げ]
余は十七日にマグダラへ着く予定なり、それまでにタト湖を占領され度《た》し、マジ将軍の身辺、注意を要す
[#地から1字上げ]ガロラシュ
ビアズレイ・バリラ閣下
[#ここで字下げ終わり]
「ははあ」哲一は冷笑した。
「十七日にマグダラで二人が会見するんだな。よし、それでは悪戯《いたずら》をしてやろう」
哲一は着ている少尉の上衣《うわぎ》から万年筆を抜取って、十七日というのを二十七日に書直《かきなお》した。
「これで両将軍の会見はお流れだ――しかしマジ将軍の身辺に注意しろとは可の事だろう、マジは彼等の共謀者ではないか」
暫《しばら》く考えたが、哲一にはその理由が分らなかった。
「まあいい、兎《と》に角《かく》これで堂々とブルエへ戻れるぞ」
哲一は少尉の乗馬へ乗った。
夕月の道を疾駆すること半|粁《キロ》――哨戒線ま近へ来ると、哲一は帽子を眉深《まぶか》に冠《かぶ》り、右手はいつでも拳銃《ピストル》へ行く用意をしたまま、馬をゆるめて司令部の前にかかった。
「止れ」二人の番兵が銃を擬して叫んだ。
「何処《どこ》へいくか」
「バリラ閣下へ急使です」
「何処《どこ》からきたか」
「ガロラシュ将軍の使者です」
「待って居れ」番兵の一人が司令部へ走っていった。司令部ではバリラ将軍へ電話をかけたらしい、間もなく若い士官が馬に乗ってきた。
「ガロラシュ閣下のお使者ですか」
「そうです」
「御案内申します」
哲一は困った、案内役がついている以上、どうしても本営へ行かねばならぬ。バリラに会えば正体を発見されるのは分りきっているのだ。弱ったなと――思ったが、今更《いまさら》どうにもならなかった。
「御苦労さまです」そう答えて駒を並べた。
馬は前後して駈けだした。本営へ着くまえに何とかして相手をまか[#「まか」に傍点]なければならぬ、哲一はあれかこれかと策をめぐらせたが、途中には軍団の屯営や哨兵がいるのでどうにも手を出す機会がなかった。
「だいぶ多数の軍隊ですな」哲一が振返って訊《き》いた。
「そうです」
相手は馬を並べながら自慢そうに、
「この辺に屯営しているのはソラノ砲兵師団です。右手の低地にはヴァンダー将軍の戦車隊の精鋭がいます。カルゾー飛行連隊も、近衛《このえ》龍騎兵師団も揃っています」
「すばらしい勢力ですな」哲一は内心の驚きを隠しながら、
「それでは総攻撃の準蒲は出来ているのですね――いったい何日《いつ》始めるのですか」
「さあ、それは……」
さすがにそこまでは云わなかった。
しかし哲一には事情が判明した。伊太利《イタリー》軍はたくみに世界の視線を東部戦線、北部戦線へ集めながら、実は密々裡に主力を西部へ集結し、一挙にタナ湖からマグダラまで占領しようとしているのである。
「やあ、本営の灯が見えますよ」
若い士官がそういって指さした。なる程、ブルエの市街の灯がちらちらと見え始めている、哲一は、
「あれですか……」
と云ったが、不意に馬を止めた。
「どうしました」
「ひどく腹が痛み始めて――」
哲一は馬を止めた。
「もうすぐ本営ですが」
「どうも我慢が出来ません、なにしろ営舎を出るときから痛んでいましたので。すみませんがちょっと休ませて頂きます」
「それは弱りましたな」
哲一は馬から下りて、窪地の叢《くさむら》の中へ跼《かが》みこんだ。若い士官も気遣わしそうに馬を下りようとする――と、その時であった。二人の来た方から戞々《かつかつ》と馬蹄の音が迫ってきたと思うと大声に、
「そこにいるのはマーカス少尉か」
と叫ぶ声がした。
「そうだ、誰だ」
「一緒にいる使者を逃がすな、そ奴《いつ》はスパイだぞ!」
「なに――?」
「ガロラシュ将軍の使者二名はスラ峠で縛られていた。そ奴《いつ》がやった仕事だ逃すな」
砂塵をあげて四五人の騎兵が殺到した。ああ、早くも事は露顕した――哲一は叢のなかで思わず「しまった」と叫んだ。
[#3字下げ]捕虜[#「捕虜」は中見出し]
「その叢へ入った」マーカス少尉が夢中で叫んだ、駈けつけてきた四名の伊太利《イタリー》士官は、言下に馬首をかえして、「それ!」とばかり馬を乗入れた。
哲一は奮然、右手に拳銃を抜取《ぬきと》って立ち、どっと叢を蹴立ってくる先頭の一人を狙って射った――が、意外にも、
カチリ! と撃鉄の音がした許《ばか》りである。
「しまった」ガロラシュ将軍の密使から奪ってきたまま検《しら》べずにいたが、拳銃《ピストル》には弾丸が装填してなかったのだ。くそっ! とばかり拳銃《ピストル》を捨てて洋剣《サーベル》を抜いた。しかし――その時すでに馬を乗入れてきた士官たちは、拳銃《ピストル》をつきつけながらぐるりと哲一を取囲《とりかこ》んで、
「剣を捨てろ!」と喚きたてた。「命令に反《そむ》くと容赦なく射殺《うちころ》」すぞ!」
絶体絶命である、哲一は下手にもがいても無駄だとみたから、潔く洋剣《サーベル》を投出《なげだ》して、どうでもしろと云わんばかりにむんずと腕組をした。
「よし、神妙だ」マーカス少尉が馬を寄せてきて、「さあ此方《こっち》へこい、我々の先へ立って歩くんだ逃げようとでもすればすぐ射つぞ」
「何処《どこ》へいくんだ?」
「君の会いたがっていたビアズレイ・バリラ閣下の本営さ、なに歩いたってすぐだ――さあ行け!」
哲一は観念して歩きだした。道は真直にブルエの市街へ入った。哲一の左右に二騎、背後に三騎いずれも拳銃《ピストル》を擬して護衛する、さすがの哲一も最早どう逃れる術《すべ》もなかった。と――市街の四辻にある大教会堂の前にさしかかった時であった。会堂の円柱の蔭のところから、突然、
「あ! 哲一――」と叫ぶ声がしたのである。
哲一はぎょっとした。そこには深夜十二時に会おうとかねて約束したとおり豹の頸を抱えながら土人娘のアデラが身をひそめていたのである。
「アデラ、来てはいけない!」哲一は土人語で叫んだ、「隠れていろ、動くと射殺されるぞ」
「なにを喚くんだ」マーカス少尉が慌てて哲一を制した。彼には土語が分らなかったので、言葉の意味は通じなかったが、附近にいる仲間と合図を交しているとでも思ったのだろう。
「黙れ、黙らぬと射つぞ」と拳銃《ピストル》を差向《さしむ》けた。哲一は素早く会堂の方を見やったが、幸いアデラは哲一の云いつけどおり、円柱の蔭に身をひそめたので、士官たちには発見されずに済んだ。ほっとしたが、同時に妙案を思いついて、
「あとを跟《つ》けてこい」ともう一言大声に叫んだ。刹那!
「黙れー※[#感嘆符二つ、1-8-75]」といってマーカス少尉が拳銃《ピストル》を一発ダン[#「ダン」に傍点]と放った。頬をすれすれに掠《かす》め飛ぶ弾丸――哲一はにやり笑って振返ると、
「おい君マーカス少尉、なにもそんなに脅かすことはないよ、いまのは僕の欠伸《あくび》さ」といって平然と歩き続けた。
暫くいくと、向うから十二三人の士官が馬をとばしてやってくるのと会ったマーカス少尉が声をかけると、馬足をゆるめて近寄ってきたのはバリラ将軍であった。
「やあマーカス少尉、いま哨戒部から電話があった、スパイは――?」
「ここにおります」
「こ奴か」バリラ将軍は馬から下りて、つかつかと歩み寄ったが、哲一の冠っていた軍帽をいきなりぱっとはね飛ばすや、
「おお、やっ張《ぱ》り……君だったか」
「お説の通りです閣下」哲一は傲然と胸を張った。バリラ将軍は忿怒《ふんど》のあまり大地を踏みたてた。将軍の長靴で拍車が音高く鳴った。
「お説の通りだって? くそっ[#「くそっ」に傍点]、君はよくもこのバリラを阿呆《あほう》にしたな、伝書鳩を通信員に放ったなどと子供|騙《だま》しのような嘘をつきおって、――あの伝書鳩はわが軍のもの[#「もの」に傍点]で、さっき鳩舎へ帰ってきたぞ」
「あっはははははは」哲一は腹を抱えて笑いだした、「帰って来ましたかあの鳩が、それで、ようやく僕の奇計《トリック》が分ったという訳ですね、いやどうもあはははは」
「此奴《こやつ》を曳《ひ》け、銃殺だ!」バリラ将軍は喉も裂けよと呶鳴《どな》りたてた。
[#3字下げ]マジの手で銃殺[#「マジの手で銃殺」は中見出し]
本営へつくと同時に、深夜にもかかわらず直《ただち》に哲一は軍法会議へまわされた。――哲一は、新聞記者の身分証明もあるし、また従軍徽章も持っていたから、例《たと》えスパイと断定されても銃殺ときまるまでは五日や一週間はかかるものと高《たか》を括《くく》っていた。しかし会議は厳酷に行われ、意外にも夜明け前に銃殺を執行すべしということに決定した。
「この軍法会議は不当だ!」哲一はさすがに昂奮して叫んだ、「僕は一新聞記者に過ぎない、スラ峠でガロラシュ将軍の密使を襲い、再びブルエへ戻ってきたのは、戦況を観察せんがためであって、これは新聞記者として多少のやり過ぎという外に意味はないはずである――なに[#「なに」に傍点]を以てスパイと決めるのであるか伺いたい」
「何をつべこべいうか」バリラ将軍が喚きたてた、「軍の秘密行動を探ろうとする奴は、新聞記者であろうと従軍武官であろうと、スパイと認めて処刑するのが軍の規律だ――檻房《かんぼう》へ曳いていけ」
「無法だ、そんな馬鹿な理窟《りくつ》が……」
「おい、何をぐずぐずしているか、早く檻房へ伴《つ》れていけ、夜明け前に銃殺だ――執行官は――」とバリラ将軍が室内を見廻した時、表に面した扉《ドア》が明いて大きな声が響いた。
「その執行は私が引受けよう」
会議に列していた将官たちは、不意の声に驚いて扉《ドア》の方を見た。哲一も思わず振返ったが――実に意外な人物を発見した。
「あっ、ハイル・シラシエ・マジ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」と眼を瞠《みは》った。バリラ将軍はそれと見るより議長席からとんで下り、急いでマジ将軍の手を握りながら、
「やあ、ようこそマジ将軍、今夜おいでになるとは思いませんでした」
「しかし、きていいことをしましたわい」マジはっかつかと哲一の前へ進みよってくると、さも憎さげに肩を小突いて、
「こら小僧、貴様は青《ブルウ》ナイルでまんまと儂《わし》の手から逃れ居ったが、今度はどうやら運命のどたん場らしいのう――どうじゃ」
「国賊!」哲一はたった一言、火のような一言を叩きつけたきり顔を外向《そむ》けた。
「はっはっは、それが貴様の最期の科白《せりふ》か、のう――バリラさん、此奴《こやつ》には儂《わし》も恨みがある、銃殺するなら儂《わし》に任せてくれんか」
「結構ですな」バリラは心中しめたと思った。自軍の手で銃殺するのはいいが、新聞記者のこと故もしこれが世に知れでもすると問題になる、だから秘密のうちに処刑しようと思ったのだが――マジ将軍の手に任せてしまえば責任が免れる、早くもそう考えて、
「それではお任せいたしましょう、だが刑は夜明け前に執行して頂きたいのです」
「なに即刻やってしまおう」マジは簡単にいってのけた。
「こんな小僧にまごつかれては迷惑じゃ、これから儂《わし》の陣営へ伴《つ》れていって銃殺し、屍体《したい》は獅子《ライオン》にでも食わせてやるさ」
「どうぞお好きなように」バリラはお世辞たらたらである、マジ将軍は従者の方へ振返って、
「この小僧を縛れ!」と命じた。
言下に二人の屈竟《くっきょう》な土人がよってきて、うむをいわせず哲一をぐるぐる巻に縛りあげた。事ここに至っては抗《さから》っても最早無駄である。哲一は黙ってするままに任せていた。
「では処刑がすんだら会いましょうわい」
「お待ちして居ります。ハイル・シラシエ」
「そいつを引摺ってこい」
マジ将軍は従者に命じておいて、大股に外へ出ていった。
哲一は外に出ると、一頭の痩馬の背に乗せられた。先頭にマジ、従者十四五名が前後左右を取囲んで伊太利《イタリー》軍の本営を出る――丘へ登って、西へ西へと道を急いだ。
哲一は馬上に瞑目したまま自分の運命を考えていた。マジはどこで銃殺を決行するだろう。陣営と云ったが彼はこの附近に軍を進めているのであろうか――あの「東阿の老虎」とレわれたカデロ将軍はどうしているか? ……
「停れ!」マジの叫びが聞えた。眼を明いて見ると大きなユウカリ樹林の中である、遠方此方《おちこち》の樹間《このま》に篝火《かがりび》がちらちらと揺れているのが見える。
「そいつを下せ、眼隠しをしろ」
哲一は馬から引摺り下された。
「僕は日本男子だ、眼隠しなどは要《い》らん。このまま銃殺しろ」哲一は叫んだが、従者の一人は縛られて身動きのならぬ哲一を押えつけて、しっかりと両眼を縛ってしまった。
「よしあの樹の下へつれて行け」
[#3字下げ]驚くべき事業[#「驚くべき事業」は中見出し]
哲一は樹の幹に背をつけて佇立《ていりつ》した。
「右へ散れ、銃を執れ――」マジの声が聞えた。
もう最期である、男らしく死のう! 哲一は両手を組み胸を張った、海波万里故国を遠く距《はな》るる東阿の一隅に、佐伯《さえき》哲一はいま従容《しょうよう》として死につくのだ。
さあ射て! と銃声を待ったが、マジの命令はなかなか発せられぬ。どうしたのかと訝っていると、誰か此方《こっち》へ歩いてきて――ぽんと哲一の肩を叩いた。
「佐伯君、もう眼隠しはいらんぞ」
といいながら、哲一の眼隠しを脱《と》った者がある。
「はははは驚いたかね、儂《わし》じゃよ」
「え――?」夢心地で見ると、意外も意外、そこには東阿の老虎ハイル・シラシエ・カデロが立っていた。
「や! カデロ閣下※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「如何《いか》にも儂《わし》じゃ」
「これは、どうした訳ですか」と見廻すと、向うにマジ将軍が立っている、哲一は土人の一人が縄を切放してくれる間も、もどかしげに、
「ああ彼処《あすこ》にマジがいる、叛逆者、国賊、伊太利《イタリー》軍への内通者マジがいます閣下」
「まあ落着け佐伯君」
「いえ、彼は閣下の生命《いのち》を狙いました。青《ブルウ》ナイルでは僕を射殺しようとしました。またビアズレイ・バリラとのあいだに密計を企てた事実を現に僕がつきとめています」
「みんな計略じゃ」
カデロ将軍の言葉は雷のように強かった。
「え? 計略、計略――?」
「そうじゃ、マジは敵軍に内通すると見せて、実は伊大利《イタリー》軍の中央へ軍を侵入させ、時機を見て逆に伊軍の中央で蜂起する必死の計略をたてたのだ」
「そ、それは本当ですか?」
「――証拠を見せようかの」マジ将軍が大股によってきていった、「さあ此方《こっち》へきてごらん」
哲一はまだ半信半疑であったが、いわれるままにマジ将軍についていった。力デロも一緒に密林の中へ入る――暫くいくと、一本の巨《おお》きな樟樹《くすのき》があって、梯子《はしご》がかかっている、それを登ると上には木を組んだ頑丈な望楼が出来ていた。マジ将軍はその上に立つと右手で柱の一部を押しながら、
「彼方《あっち》を見給え」と伊太利《イタリー》軍の陣営の方を指さした。哲一が見ていると、待つほどもなく闇の彼方《かなた》に、ぽつりと灯《ともしび》が見えた。
「三度動くぞ」マジがいいながら、柱の一部を三度押すと向うの灯《ともしび》が三度動いた。
「分ったろう、彼処《あそこ》に儂《わし》の軍勢が二万人いるんだ、合図さえすれば、一部は火薬庫、飛行機格納庫に火を放ち、一部は騎馬部隊の馬を全滅させ、一部は本営を襲撃するんだ、そこへカデロの指揮する五万の精鋭が突撃して一挙に粉砕しようという訳さ……」
「しかも儂《わし》の軍勢はすでに揃っているよ」側からカデロ将軍がそういって、哲一の肩を叩き、右手の渓谷を指さし示した。見ると密林地帯の西、デブラ・マルコユの渓谷にかけてちらちらと無数の篝火がまたたいている、仔細に見れば篝火にうつって馳駆《しく》する馬、武器を執る兵たちの姿が活気満々としているではないか。
「マジ閣下」哲一は思わず低頭した。
「どうかお許し下さい、国賊などと申上げた言葉を潔く取消します」
「いや詫びるには及ばんよ、君が罵れば罵るだけ、バリラの奴は儂《わし》を信用したのだ。これで儂《わし》とカデロの計画もいよいよ完成した、あと一時間すれば総攻撃を開始する運びになっている――その時に君にもひと働き頼むぞ」
「ええ? ではもうやるのですか」
「一時間経つと伊太利《イタリー》軍の火薬庫が爆発する、それが総攻撃開始の合図だ」
「ああ知らなかった」哲一は呻いた。
計りも計ったり。世界の新聞紙は、エチオピアの領主が伊太利《イタリー》軍へ降伏したことを度々《たびたび》報道している。現に東部戦線でも二人の老将軍が五万の兵と共に伊軍に投降したことを報じている。しかしそれは表面のことなのだ――その事実は如何? その事実は? 驚くべし彼等は独特の戦法を以て敵に降《くだ》り、その軍を敵地の中央に停屯せしめて、一朝時期到るや蹶起《けっき》敵軍の中央|攪乱《かくらん》という驚くべき策戦《さくせん》に出るのだ。伊軍……果してこの密謀を知るや否や、一時間の後に迫ったブルエの奇襲戦こそその成否を決する試金石であろう。
「哲一……哲一は何処《どこ》――?」
突然、樹の下で呼ぶ声がした。
「あ、アデラだ」
聞くより早く哲一は梯子をかけ下りた。
[#3字下げ]獅子王旗の下に[#「獅子王旗の下に」は中見出し]
樹の下には土人娘のアデラが、豹を伴《つ》れて息せきながら立っていた。
「おおアデラか」
「まあ哲一、生きていたのね」アデラは狂喜して哲一に縋《すが》りついた。豹のドラも懐しそうに、哲一の体へ身をすりつけるのであった。
「どうして助かったの、私もう哲一に会えないかと思って泣きながらきたのよ」
「もう大丈夫だよ、実に意外なことになったんだ。お聞きアデラ――おまえの祖国エチオピアは救われるんだ」
「なんですって、本当? それは」
「今こそみんな打明《うちあ》けてあげる」哲一は元気いっぱいに話した、「伊太利《イタリー》がエチオピアを攻めるのは、本当はマグダラが欲しいんだ。おまえも知っている通りマグダラは古くからエチオピアの聖地といわれていただろう。その意味はね、彼処《あそこ》には二千年以前に発見されたダイアモンド鉱山があるんだ、おまけに無尽蔵といわれる石油鉱もある、それを手に入れようとして伊太利《イタリー》軍が侵入してきたんだよ――そして一方では、いま租借権を持っている和蘭陀《オランダ》と譲渡契約を進めていたのだ。しかし伊太利《イタリー》はこれを他の国に知られるのを嫌って、東部と北部の戦線をひろげ、世界の視聴を其方《そちら》へ集めておいて、事実は一挙にマグダラを攻取《せめと》るべく、ブルエにその大主力を集結しているんだ」
「では彼処《あそこ》にいたあの沢山《たくさん》な軍隊がそれなのね?」
「そうだ。しかし、此方《こっち》はすでにその裏をかいている、もう一時間もすれば……」と云いかけた時、頭上からカデロ将軍の叫ぶ声が聞えた。
「佐伯君、時間を繰上げたぞ」
「え? どうかしたんですか」
「いま本営から灯火信号があった。時機よし、というんだ。やるから見ておれ」
「アデラ、彼方《あっち》を見るんだ」
哲一が急いでアデラに方向を示した時、伊太利《イタリー》軍の陣地に当ってバーッ! こ凄《すさま》じく大きな火柱が、天に届くかとばかり立昇る、同時に地軸も裂けよと、
ずずずずん※[#感嘆符二つ、1-8-75] 大爆音が空気を劈《つんざ》いて聞えた。
「あっ※[#感嘆符二つ、1-8-75] やったぞ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
「なに、なに哲一※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「伊太利《イタリー》軍の中央に侵入したマジ将軍の兵が蜂起したんだ、あれは火薬庫の爆発だ」
「まあ、万歳※[#感嘆符二つ、1-8-75]」アデラが思わず双手をあげて叫んだ。
その時つづいて起る爆発、だーん、だーん、だーん※[#感嘆符二つ、1-8-75] 飛散《とびち》る火花、火柱、三ヶ所の飛行機格納庫が爆破されたのである。同時に望楼の樹上高く、
ターン! と赤く狼火《のろし》が打あがった。マルコユの渓谷をゆるがして、どーっとあがる潮《うしお》のような鬨声《ときのこえ》、狼火《のろし》を見て渓谷に待機していたカデロ将軍の軍勢が進撃を始めたのだ。
[#ここから2字下げ]
進め獅子王旗の下に
祖国を狙う豺狼《さいろう》
悪鬼魔族の輩を撃滅せよ
[#ここで字下げ終わり]
烈々火のごとき進軍歌が起った。見よ、渓谷を馳《は》せ登ってくるエチオピアの精鋭、白馬を駆って突進する勇敢なる騎兵部隊を。
「さあ、出発だぞ佐伯君!」望楼から下りて来たカデロ、マジ両将軍は、部下に馬を曳かせてひらりとまたがった。哲一も与えられた馬に乗る、
「私も行くわ」とアデラが、いうより早く哲一の鞍の前壺へとび乗った。
「進め!」マジ将軍が大きく手を振った。言下に密林をゆるがして幕下の勇士一千が、馬首を揃えて現われる――その先頭に、若きマジの息子が、獅子王旗を捧げて進んだ。
見渡せば――伊太利《イタリー》軍の陣営は焔々《えんえん》たる火に焼かれて、恐ろしい混乱に陥っている。そのまま唯中《ただなか》へ向って、獅子王旗を高くなびかせつつ、エチオピアの精兵は猛然と突撃を開始した。
ああ見よ、雌伏一年のエチオピア軍は、遂《つい》に起《た》って伊軍主力を撃破せんとする、見よ、見よ、火薬庫を爆破され、飛行機を失い、馬匹《ばひつ》を喪《うしな》った伊太利《イタリー》軍は、混乱の虚を衝《つ》かれたところへ、逸《はや》りに逸ったカデロ軍の猛襲にひと堪《たま》りもなく潰走を始めた。
凱歌はあがった、獅子王旗は今、伊軍本営の跡に高く高くなびいている――凱歌、凱歌、天地をどよもす凱歌。遂に伊軍はブルエを放棄したのである。
ブルエの敗戦が伊太利《イタリー》軍にいかなる衝撃を与えたかは、その後|伊太利《イタリー》軍が頓《とみ》に侵入をしなくなったことて分るだろう。ビアズレイ・バリラは本国へ召還され、代ってマッジ大将が赴任した。しかし、いずれの戦線も、今は早《はや》戦気を失って、唯これ戦線を守るに必死である。
「どうだね佐伯君」ブルエ大会戦から一月後。首都アジス・アベバの邸《やしき》で、カデロ将軍と哲一が話していた。
「ブルエは愉快だったのう」
「全くですあれで伊太利《イタリー》は骨身にこたえたでしょう――それから今朝の新聞でみると、国際連盟ではいよいよ伊太利《イタリー》に石油断交をすることに決定したそうですよ」
「はっははは、ムッソリニ先生、ブルエの敗戦といい経済封鎖と云い、さぞあの大きな口をひん曲げて渋い面をしとるじゃろう」
「もう伊・エ戦争もこれでけりでしょう」
哲一はそういって大きく肩を揺《ゆす》りあげた。庭先ではあのアデラが、豹のドラを相手にのどかに遊んでいる――空は晴れて一点の雲もない。
底本:「山本周五郎探偵小説全集 第六巻 軍事探偵小説」作品社
2008(平成20)年3月15日第1刷発行
底本の親本:「少年少女譚海」
1935(昭和10)年12月~1936(昭和11)年4月
初出:「少年少女譚海」
1935(昭和10)年12月~1936(昭和11)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「阿弗利加」に対するルビの「あふりか」と「アフリカ」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ