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霜夜の火
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霜夜の火
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)遽《あわ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)故|長門守吉就《ながとのかみよしなり》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から2字上げ]
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申上げますという遽《あわ》ただしい声に、侍女が立っていって襖《ふすま》を開けると、物々しく身拵《みごしら》えをした奥家老が息を喘《あえ》がせていた。
「さきほど言上いたしました近火の勢《いきおい》はげしく、隣り屋敷より御館《おやかた》の塀に燃え移り、もはや防ぎ難くあいみえまする。御後室さまには即刻お立退《たちの》き下さるようお願い申上げまする」少しも猶予《ゆうよ》はなりかねるからと云って奥家老は去った。
此処《ここ》は麻布日ヶ窪にある毛利家の下屋敷で、後室というのは故|長門守吉就《ながとのかみよしなり》の夫人をさす。良人《おっと》亡《な》きあと、この下屋敷に籠《こも》り、念仏|看経《かんきん》におこないすましていた夫人は、深夜にわかに迫った近火の騒ぎに、疾《と》く寝所を出て、亡き良人の位牌《いはい》を守るかのように仏間に端坐《たんざ》していた。
「ああ聞きました」侍女が戻って来ると、夫人はしずかに頷《うなず》いて云った、「わが身のことはよいから下々《しもじも》の女たち、老人子供、病人などあらばその者たちをさきに立退かせるよう、その手配をなさい」
「仰《おお》せはかたじけのうございますが、御後室さまがお移りあそばしませんでは……」
「この部屋へ火が掛かったら移ります。火事ぐらいに軽々しく立騒いでは故長門守さまのおん名にもかかわります。わが身は武士の妻、身ひとつの始末は自分でしますから、下々の者をまず立退かせるがよい、お立ち」
凜《りん》とした夫人の態度は動かすことができなかった。侍女の言葉は表へも伝えられた、――夫人がおとどまりあそばす、さらば火は防がなければならぬ。侍たちも端下《はした》も下郎も奮然と起《た》った、「御後室さまはさいごまでおとどまりあそばすぞ」飽くまで防げという決意が人々を「防火」の一点に集注した。
かくて毛利家下屋敷は火から救われた。元禄十二年十二月の霜《しも》冰《こお》る一夜のことであった。
[#地から2字上げ](「写真週報」昭和十九年九月二十日号)
底本:「怒らぬ慶之助」新潮社
1999(平成11)年9月1日発行
2006(平成18)年4月10日八刷
底本の親本:「写真週報」
1944(昭和19)年9月20日号
初出:「写真週報」
1944(昭和19)年9月20日号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)遽《あわ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)故|長門守吉就《ながとのかみよしなり》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から2字上げ]
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申上げますという遽《あわ》ただしい声に、侍女が立っていって襖《ふすま》を開けると、物々しく身拵《みごしら》えをした奥家老が息を喘《あえ》がせていた。
「さきほど言上いたしました近火の勢《いきおい》はげしく、隣り屋敷より御館《おやかた》の塀に燃え移り、もはや防ぎ難くあいみえまする。御後室さまには即刻お立退《たちの》き下さるようお願い申上げまする」少しも猶予《ゆうよ》はなりかねるからと云って奥家老は去った。
此処《ここ》は麻布日ヶ窪にある毛利家の下屋敷で、後室というのは故|長門守吉就《ながとのかみよしなり》の夫人をさす。良人《おっと》亡《な》きあと、この下屋敷に籠《こも》り、念仏|看経《かんきん》におこないすましていた夫人は、深夜にわかに迫った近火の騒ぎに、疾《と》く寝所を出て、亡き良人の位牌《いはい》を守るかのように仏間に端坐《たんざ》していた。
「ああ聞きました」侍女が戻って来ると、夫人はしずかに頷《うなず》いて云った、「わが身のことはよいから下々《しもじも》の女たち、老人子供、病人などあらばその者たちをさきに立退かせるよう、その手配をなさい」
「仰《おお》せはかたじけのうございますが、御後室さまがお移りあそばしませんでは……」
「この部屋へ火が掛かったら移ります。火事ぐらいに軽々しく立騒いでは故長門守さまのおん名にもかかわります。わが身は武士の妻、身ひとつの始末は自分でしますから、下々の者をまず立退かせるがよい、お立ち」
凜《りん》とした夫人の態度は動かすことができなかった。侍女の言葉は表へも伝えられた、――夫人がおとどまりあそばす、さらば火は防がなければならぬ。侍たちも端下《はした》も下郎も奮然と起《た》った、「御後室さまはさいごまでおとどまりあそばすぞ」飽くまで防げという決意が人々を「防火」の一点に集注した。
かくて毛利家下屋敷は火から救われた。元禄十二年十二月の霜《しも》冰《こお》る一夜のことであった。
[#地から2字上げ](「写真週報」昭和十九年九月二十日号)
底本:「怒らぬ慶之助」新潮社
1999(平成11)年9月1日発行
2006(平成18)年4月10日八刷
底本の親本:「写真週報」
1944(昭和19)年9月20日号
初出:「写真週報」
1944(昭和19)年9月20日号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ