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奇縁無双
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奇縁無双
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)来栖《くるす》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)山|葡萄《ぶどう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#8字下げ]
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[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
来栖《くるす》伊兵衛は無愛想な男である。
飯田藩、堀大和守譜代の家臣で、三百石の近習番を勤め、父はすでに亡く、母に妹の二瀬と城下荒町に住んでいる。――そこには儒者太宰春台の生家の跡があって、春台が幼時手ずから植えたという松が残っていた。伊兵衛は少年の頃から剛毅不屈の学者春台の事蹟を聴き、また朝夕この「太宰の松」を親しく見ながら育ったので、生《き》一本で変屈なところは幾らかその影響があったのかも知れない。
六尺に余る身の丈で、いつも髭《ひげ》の剃痕《そりあと》の青々とした腮《あご》をもっている、大切な事には口数を惜しまないが、朝暮晴雨の挨拶や世間話などには敢えて応酬しようとしない、それでも別に反感を持たれることもなく、
――あれが来栖の好いところさ。
という風に見られているのは、それだけ備わった人徳があるからであろう。
安永二年六月はじめの事だった。
雨あがりの松川で半日魚釣りに興じた伊兵衛が、家へ帰ろうとして町はずれの畷道《なわてみち》にさしかかった時、うしろから馬を煽《あお》って来た者が凄じい勢で伊兵衛を追抜いた。
泥濘《ぬかるみ》の道で、避けるひまもなく、したたかに泥を浴びた伊兵衛は、
「――下郎、待て!」
と絶叫した。
下郎という声が耳にはいったか、相手が手綱《たづな》を絞りながら停るのを、伊兵衛が追いついてみると若い娘だった、――生絹《すずし》の筒袖に馬乗り袴《ばかま》で黒髪を背に垂れ、額つきの端麗な、熟《う》れた山|葡萄《ぶどう》の実のように艶々《つやつや》と黒く美しい眸子《ひとみ》を持った、十八九の乙女である。
「下りろ、おまえは馬をやる[#「やる」に傍点]法を知らないのか」
伊兵衛は魚籠《びく》と竿を持替えながら、
「武士を追越すときには会釈をすべきだぞ、殊にこのような泥濘を駆けるには注意しなければならぬ。こんなに泥を浴びせながら詫びもせずに行くということがあるか」
「そのようなことそち[#「そち」に傍点]などから教えを受けようか」
乙女の美しい眸子が怒った。
「武士なら多少は武道の心得もあろう、他人《ひと》に乗馬の作法を教えるより、自分ではね[#「はね」に傍点]汲《くみ》を避ける工夫をするがよい、――みは城の万じゃ、過言であろうぞ」
「黙れ下郎!」
伊兵衛は叫びながら手を伸ばした。
あっ[#「あっ」に傍点]というまもなく、馬上の乙女は鞍《くら》から引下ろされ、葩《はなびら》のような頬に発止《はっし》と高く伊兵衛の平手が鳴っていた、思わず腕をあげて避けようとするところを、ぐいと引寄せてもう一つ、強くはないが音は高かった。
「――この痴者《しれもの》が」
伊兵衛は睨《ね》めつけながら、
「ひとに泥を浴びせて詫びもせぬ許りか、姫君の名を偸《ぬす》み申すとは赦し難きやつだ、おまえは下賤者《げせんもの》で知るまいが、御身分のあるお方が供も伴《つ》れず、このような城外をお独りで歩かれると思うか、――まして一国一城の姫君となれば礼儀作法もよく御存じだ、おまえのような無法なことをあそばす筈はない、――無礼討ちにすべきだが今度だけは見遁《みのが》してやる、再びこのようなことをすると斬捨てるぞ」
息をつくひまも与えずそれだけ云うと、伊兵衛は乙女を押しやって、
「拙者は来栖伊兵衛という者だ、覚えて置け」
そう云い捨てて立去った。
畷道を左へ折れてしまったので、それから乙女がどうしたか知らなかったが、伊兵衛の唇には微《かす》かな笑いが刻まれていた。
――あれがじゃじゃ[#「じゃじゃ」に傍点]馬どのか。
そう思ったのである。
飯田城主、堀大和守|親長《ちかなが》の五女に万姫というのがある、この飯田で生れた側室の女《むすめ》で、男まさりの気性と、とびぬけて美しい縹緻《きりょう》をもっている。……親長には四男七女の子があったが、この万姫に対する愛情は格別で、側を離すのが惜しさに、家臣へ嫁入らせようと考えているほどである、こうした父の愛情は、男まさりの姫を更に我儘なものにさせた。
薙刀《なぎなた》と小太刀《こだち》にはすぐれた腕があるし、乗馬は殊に抜群だった、それで遠乗などに出ると、供をうしろに追い捨てては勝手なところを駆け廻ってはらはらさせる、或時などは神坂《かみさ》峠を越えて美濃の国境までも行き、深夜になってみつけられたことさえもあった。
――しようのないじゃじゃ[#「じゃじゃ」に傍点]馬どの。
という陰口が弘まったのはその頃からのことである。
伊兵衛はまだ万姫を知らなかった。
奥と表との差別は厳重であるが、この狭い城下にいてこれだけ暴れ廻る美しい人を知らぬ者はあるまい、しかも近習番を勤めながらついにこれまで知らなかったのだから、如何にも伊兵衛の気質をよく表わしている。――けれど、馬上の乙女が自ら「城の万じゃ」と名乗ったとき、むろんすぐにそうと感付いたのである。感付きながら敢て姫の頬を打ったのだ。
勝気な姫はどうするであろうか、伊兵衛の覚悟の出来ていることは云うまでもない。
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
その翌日の夜。
来栖家の晩餐《ばんさん》には吉沢幾四郎が客として列《つら》なった。幾四郎は槍奉行の子で伊兵衛とは幼少の頃からの友であり、まだ正式に話はないが妹の二瀬とはいつか結婚するものに定《きま》っているような間柄であった。
「今日は面白いことがありましたよ」
幾四郎は食後の茶を啜《すす》りながら、
「曽根源三郎を知っていますね、あいつが到頭じゃじゃ[#「じゃじゃ」に傍点]馬どのに捉ってしたたかやられたそうです、横|鬢《びん》に大きな瘤《こぶ》をだして来ていましたよ」
「まあ曽根さまもですの」
二瀬は呆れたように眼を瞠《みは》った。
「でも曽根さまはたいそう剣術が御自慢だと伺っていましたのに」
「なに自慢するほどの腕ではありません。河野でさえ敵《かな》わなかったのですから、曽根がやられるのは当然です」
「――なんの話だ、それは」
珍しく伊兵衛が口を挿《はさ》んだ。
ふだんなら耳にもとめぬところだったろうが、じゃじゃ[#「じゃじゃ」に傍点]馬どのと聞いて興を唆《そそ》られたらしい。幾四郎の方はまた、改めてなんだと訊かれたのに驚いた。
「曽根が姫君に打据えられた話さ」
「――何処で」
「御屋形《おやかた》の庭でだ、姫君の御屋形へ召される者もあるし、また外でいきなり相手を申付かることもある、みんな隠しているが段々分って来たのさ」
「訳の分らぬ話ではないか」
伊兵衛は眼をあげて、
「全体その御屋形へ召されるとか相手を申付かるというのはなんのことだ」
「驚いたな、貴公はなにも知らないのか」
「知らないから訊いている」
「もう半月もまえからの評判だぞ」
幾四郎もしかし精《くわ》しい事は知らなかった。
なんでも半月ほどまえから、城中の若侍たちが次々と万姫の屋形に呼ばれ、或いはまた野外へ連出されたうえ薙刀、木太刀《きだち》の相手を命ぜられ、さんざんな負け方をしているのだというのである、――それも姫の独断でやっているのではなくて、主君親長侯も承知のうえらしいということだった。
「堅く他言を禁じられているそうで、誰と誰が本当にやられたのか分らないが霜田市之丞、河野金弥、橋本啓之助、それに曽根と、この四人がやられたのは慥《たし》かだ」
「――追従者《ついしょうもの》が揃っているな」
伊兵衛は苦々しげに云った。
「曽根や橋本はしようがないが、河野と霜田はもう少し心得のあるやつだと思った」
「追従者とも云えないだろうが」
幾四郎は執成すように、
「なにしろ主君の姫で、いずれにしても婦人のことだからな、如何に武術の試合とは云え思切って打込むことも出来ないだろうし」
「それなら初めから相手にならぬがよい」
「そう出来ればいいが」
「出来るさ、出来ないのは追従の心があるからだ、――己《おれ》なら……」
と云いかけて、伊兵衛はふと[#「ふと」に傍点]自分の右の掌《てのひら》を見た。
昨日、葩のような頬の上に快い音をたてた平手打の触感が、掌の皮膚にまざまざしく甦《よみがえ》って来たのである。
「貴公なら?」
「――どっちにしても」
と伊兵衛は眼を外向けながら云った。
「拙者なら追従者にはならぬ」
幾四郎は二瀬と眼を見交わした、二人の眼は同じように微笑していた。
――本当に伊兵衛ならどうするだろう。
と云うように。
伊兵衛はそのまま座談のなかまから離れてしまった、幾四郎から聞いた話はなかなか頭を去らなかった。
主君大和守が万姫を溺愛していることは知らぬ者はない、一生側を離したくないために、江戸屋敷へも移さず国許に置くほどだから、大抵の我儘は笑って許されて来た。しかし乙女の身で少しばかり武芸の心得があるからといって、家中の武士に立合わせたり、慰み半分の相手をさせたりするというのは度の過ぎたことだ。
それを許す主君の気持が、果してただ溺愛の結果であるか、それともなにか他に理由があるのか。
伊兵衛はもう一度、自分の右の掌を見やった。
[#8字下げ]三[#「三」は中見出し]
烈しい雷雨があって、梅雨《つゆ》は快くあがった。
何事もなく四五日経った。
畷道の事があって以来、伊兵衛は今にもなにか御沙汰があるかと、登城する度《たび》に待っていたが、或日のこと召されて御前へ伺候すると、大和守の側に万姫がいた。
――さては愈々きた[#「きた」に傍点]か。
そう思ったが、そ知らぬ顔で平伏した。
「これが来栖伊兵衛だ」
親長は姫の方へ云った。
「なにか訊ねたいことがあるなら声をかけてやるがよい……伊兵衛、万姫じゃ」
「――は」
伊兵衛は平伏したきりだった。
姫は澄んだ眸子で眤《じっ》と伊兵衛を見下ろしていたが、やがて冷やかな声で、
「来栖伊兵衛とはそなた[#「そなた」に傍点]か」
と云った。
「許します、面《おもて》をおあげ」
「――はは」
「面をおあげ」
伊兵衛は静かに顔をあげた。その真正面へ怒れる眸子が矢のように刺さった。
「そなた[#「そなた」に傍点]の顔は何処かでいちど見たように思われるが、そなた[#「そなた」に傍点]は万に見覚えはありませぬか……」
「恐れながら」
伊兵衛は平然として、
「式日の折など末座より拝しましたのみにて、お直にお目通り仕りまするは今日が初めて、お言葉恐入り奉りまする」
「ではよく万の顔を見てお置き!」
姫の声は微かに震えを帯びていた。
「是からのち領内いずれで会うやも知れませぬ、そのとき見忘れのないよう、万の顔をよく見て覚えてお置き」
「――恐入り奉りまする」
「よく見ましたか」
「――は」
「もう見忘れはしますまいね」
きゅっ[#「きゅっ」に傍点]とひき結んだ唇、怒りの光を帯びて一層美しく輝く眸子、上気してぱっと赤みのさした匂うような頬、……伊兵衛は臆せぬ眼でひた[#「ひた」に傍点]と見上げながら思わず、
――お美しいな。
と胸のなかで呟《つぶや》いた。
御前を退ってからまず思ったのは、これは考えていたより面倒なことになるぞということだった。姫は畷道の出来事を親長に告げていないらしい、告げれば自分が叱られると思ったのか、
――否《いや》そうではあるまい。
恐らくは父の力を借りずに、自分の手で復讐をする積りなのであろう、その前提として顔を見知らせ、今度は万姫という存在でのっぴきさせず押える考えに違いない。
――あのお美しさの、何処にあんな烈しい気性があるのか。
と思い、また同時に、
――油断はならぬぞ。
と伊兵衛は珍しく緊張した。
人の心ほど微妙なものはない、日頃の伊兵衛は不屈そのものの武士気質で豪放にまで出処進退を割切っていたのが、今度はどうやらそれが危くなって来たらしい。自分が正しいと信ずる限り、どんなに困難な状態が起ろうとびくともしなかった心構えが、妙に落着きのない不安を感じだしたのである。
なぜだろう!
相手が主君の姫だからか?
復讐が怖くなったのか?
どうもそんな単純なものではないようだ、本当の理由《わけ》は別のところにあるらしい、ただ生れて初めて経験する感情なので自分では全く気付かないのである、……ではその原因はなにか?
伊兵衛が緊張し始めたにもかかわらず、それから更に数日が経って、梅雨あけの日々は次第に暑さを加えて来た。
伊兵衛は泳ぎが好きで、夏になると天竜川へ出掛けて行くのが毎年の例である。城下町から南へ一里ほど下ると、殆ど人の来ない藤ヶ淵という泳ぎ場があった、――着物を脱ぐ場所から少し下ると両岸の断崖が高く、奇巌|峭立《しょうりつ》して相迫り、碧玉《へきぎょく》のように澄んだ水が淵をなして、流れも緩く、猿の声でも聞くほかは全く塵境《じんきょう》の外にある幽邃《ゆうすい》なところだ。伊兵衛はもう数年このかた、そこを殆ど自分独りの泳ぎ場のようにしていた。
その日も朝から暑かった。
藤ヶ淵へやって来た伊兵衛は、衣服大小を束ねて岩蔭へ置き、静かに流れのなかへ身をひたすと、そのまま瀬に乗って淵の方まで泳ぎ下った。
大きな岩角を曲って、淵へ出たとたんのことだった、かつて自分より他に人の来たことがない淵の水面に、四五人の者が泳いでいるのとばったり顔を見合せた。
――おや?
と思って眼をあげたとたん、伊兵衛は我知らずあっ[#「あっ」に傍点]と叫びそうになった。
泳いでいるのは女であった。
[#8字下げ]四[#「四」は中見出し]
碧玉色の水に透《す》いて、白いなめらかな肩が、かたく匂やかにふくらんだ胸が、すんなりと伸びた腕が、まるで妖しい魚のように放恣《ほうし》な姿で躍《おど》っている。
伊兵衛が危く叫びそうになったと同じ時。
乙女たちもそれと気付いて、
「あ、あれ」
「人が」
と嬌声をあげた。
しかもその乙女たちの中から、屹《きっ》とこっちへ振返った一人の眼は、伊兵衛の全身を痺《しび》れるように刺貫いた。余りに意外な人、
――万姫!
伊兵衛はそう感ずるより疾《はや》く身を翻《ひるがえ》して水中に潜《もぐ》った。
水に潜りながら伊兵衛は事情を知った。
謀《はか》られたのである、万姫はここが伊兵衛の泳ぎ場であることを知り、ひそかに侍女たちと先に来ていたのだ、そして裸形の乙女たちのなかへ伊兵衛を取籠めようとしたのだ。
思切った仕方である。
同時に辛辣極まる方法だ。――もし取って押えられたとしたら、……姫君の泳ぎ場を裸で犯したことになる。
伊兵衛は息の続く限り潜った。
しかしその淵を三十間も下ると川は滝のような早瀬になる、流れは乱立する岩を噛んで引裂け、飛沫をあげながら矢のように奔騰する、うっかりそこへ巻込まれたら命はない。……伊兵衛は辛くもその寸前で川中の巨岩に身を支えた。
振返ったがさすがに乙女たちの姿は見えなかった。
ようやくはっと息をついたが、これからどうしたらよいかはた[#「はた」に傍点]と当惑した。この急流を泳いでのぼることは不可能である、岸を伝って行くとしても淵には姫たちが待構えているだろう。では帰るまで待つか。
「――いかに」
思わず伊兵衛は呟いた。
「着物がある、殊に依ると姫はあれを持って行くかも知れない。そうすると裸で帰らなくてはならぬ。否それだけじゃないぞ、……先刻《さっき》はそれ[#「それ」に傍点]と見咎められぬうちに水へ潜ったから、泳ぎ場を犯した証拠を危く残さずに済んだが、あの衣服大小を取られたらおしまいだ」
伊兵衛は即座に岸へ泳ぎ着いた。
屏風《びょうぶ》のように聳立《しょうりつ》した断崖《きりぎし》である、しかしこっちは懸命だった、岩の裂目や、藤蔓《ふじづる》などを手掛りにして登り始めた。高さは八十尺を越していたであろう、風|蝕《む》している岩は脆《もろ》くて、掛けた手や足の力で何度も欠落ちた、そのたびに伊兵衛の体はぐらりと墜ちかかり、もう駄目かと胆を冷した。
幾度も休み、何回も息をついて、しかし、遂に断崖の上へ登ることが出来た。
上は道である。
伊兵衛は裸のまま走りだした。
真昼の陽は眩しく照りつけている、田の草とりに行くらしい、三人伴れの農夫が通りかかったが、吃驚《びっくり》して押合いへし[#「へし」に傍点]合い畦《あぜ》道へ逃込んだ。――そして、天狗でも見つけたように仰天した眼を剥出しながら走り去る伊兵衛の姿を見送っていた。
更にふた[#「ふた」に傍点]組の農夫に会った。
その次に会ったのは目附方の若侍であった、これも驚いたらしい、笠をあげながら、
「来栖氏ではございませんか」
と呆れて声をかけた、
「この日中その姿はどうなすったのです」
「鍛錬《たんれん》だ、体の鍛錬だ」
伊兵衛は走りながら答えた。
「これが来栖流の体の鍛え方だ、人間の体はこうして鍛えるのだ、しかし秘法だから必ず他言は無用だぞ」
「――――」
若侍はあっけ[#「あっけ」に傍点]にとられて見送った。
ようやく元の場所へ馳《か》けつけてみると、衣服大小は岩蔭にそのまま在った。――しかしそれはほんの危い刹那だったのである、流れるような全身の汗を拭くいとまもなく、伊兵衛が大急ぎで着物を着、袴をつけ大小を腰に差込んでいるとき、……岩を越して姫と侍女の一行が現われた。
藤ヶ淵で待つうち、伊兵衛の戻って来るのが遅いので、姫の方でもそれと気付き、急いで此処へ馳けつけたのであろう、――伊兵衛をみつけたとたん姫は、
――しまった。
という表情を見せた。
「あ、これは姫君」
伊兵衛は、さも意外なという様子で、両手を、膝に当てながら頭を垂れた。
「来栖伊兵衛ですね」
「は、伊兵衛にございます」
そう云って静かに面をあげ、
「この暑中、斯様な場所へお運びは、水泳ぎなど遊ばしまするのか、伊兵衛めも以前はよくここへ浴びに参りましたが、深い淵で危のうござりますゆえ、この節は足踏みも致しません、姫君にも若しお水浴びなど遊ばしますなら、よくよく御注意のほど」
「伊兵衛、これをとらす」
姫は侍女の手から白布を取って、伊兵衛の手に投与えながら云った。
「髪から体まで汗が流れています、それで拭いてお帰り」
「――は」
「裸で馳けた姿はさぞ立派だったろうね」
侍女たちがぷっと失笑《ふきだ》した。
[#8字下げ]五[#「五」は中見出し]
「兄上さま、吉沢さまが見えました」
「己に用なのか」
「はいお二人きりで何か……」
朝食のあと、非番なので居間に引籠ってずっと書見をしていた伊兵衛は、そう云われて机の前から向直った。
「じゃあここへ通せ」
縁先の簾《すだれ》を下ろして妹が去ると、吉沢幾四郎が入って来た。――伊兵衛の癖で、相手が坐るより早く、
「なんだ、なにか急用でもあるか」
「順番が廻って来たよ」
幾四郎の微笑は硬張っていた。
「――順番?」
「例の姫のお相手だ、まさかと思っていたら到頭この己に当ってしまった」
「どういうのだ」
「――今日、三時《やつはん》に将監原《しょうげんばら》へ来いとある」
「――将監原へか?」
「他聞を憚《はばか》るのでお屋形へ召される他はいつも人眼に遠い場所が選ばれるのだ」
「それで、貴公どうする」
幾四郎は再び硬《こわ》い微笑を見せながら、
「少くとも貴公の云う追従者にはならぬ」
「――――」
「しかしお相手はするよ、存分にお相手をする、そして拙者で限《きり》をつける積りだ、無論」
といって幾四郎は腹へ横に手を引いた。
「覚悟はしている」
「――――」
「そこで頼みだ」
幾四郎は膝を正して、
「拙者は以前から、二瀬どのを妻に申受けたいと思っていた、今でもその心に変りはない、しかしこんな事になってみると、それが果せるかどうか分らなくなった、……順序を外したことで叱られるかも知れないが、せめてもの心遣りにここで別盃を酌《く》ませて貰いたいと思う」
「その言葉は、己の待っていた」
伊兵衛は低い声で云った。
「恐らく二瀬も待っていただろう、母も無論のことだ。……いいとも、内祝言の意味も籠めて小酒宴をやろう」
「承知して呉れるか、忝《かたじけ》ない、――だが、お二人には堅く内証だぞ」
伊兵衛は机上の鈴を振った。
丁度もう午《ひる》に近かった、すぐに客間へ支度が出来て、主客に妹と母を交えた小酒宴が始まった。
幾四郎は余り酒を嗜《たしな》まなかった。――しかし、将監原の事があるために酒も碌々呑めなかったと云われるのは恥辱だから、伊兵衛の勤めるままにいつか深酒をしてしまった。
「もういかん、これでしまおう」
「なにまだいい、この一本を空けよう」
「いや、それでは立てなくなる」
「寝ればいいさ」
伊兵衛は暗示するように、
「ひと眠りして、神《しん》も体もすっきりと酔から醒《さ》めたら出掛けるんだ、時は充分ある」
「そうか、時は充分あるか」
幾四郎は高く笑って盃を出した。
それから間もなく、幾四郎は遂にそこへ酔倒れてしまった。――事情を知らない母と妹は伊兵衛の強《し》い方をはらはら[#「はらはら」に傍点]しながら見ていたが、幾四郎が倒れてしまうと呆れて、
「まあおまえ、こんなにお酔わせ申してどうするのです、不断から余り召上らないのを知っておいでの癖に」
「兄上さまは今日は少し変ですわ」
「なにいいんだ、内証にして置けと頼まれたから云わなかったがな、――実は」
伊兵衛は声をひそめ、
「幾四郎め今日は二瀬に申込みをしに来たんだ」
「――まあ!」
「その祝いだよ」
「――まあ!」
二瀬はさっ[#「さっ」に傍点]と頬を染めた。
「ははははは」
伊兵衛は珍しく笑って、
「だから酔潰れるまで呑んだのさ。二瀬、おまえ介抱してやれ、そして眼が覚めたらこう云うんだ、――将監原は伊兵衛が引受けた、だからその後を頼むと」
「それはなんのことですの?」
「云えば分る。母上、ちょっと出て参ります」
そう云って伊兵衛は立ち上った。
藤ヶ淵の日から幾日、――伊兵衛はこういう機会の来るのを待っていたのだ。あの日の思切った仕方から考えると、姫の我儘はどんなところまでゆくか分らない。
――鉄は熱いうちに打て。
禍の根は花咲かぬうちに断つべきだ、伊兵衛は馬を曳出して唯一人家を出た。
[#8字下げ]六[#「六」は中見出し]
万姫は五人の侍女と共に、城下を北へ馬を駆っていた。
すると、時又郷にかかる少し手前のところで、卒然とうしろから馬蹄の音が近づいて来て、一騎の武士が侍女たちの馬のあいだを馳け抜けると、先頭を駆っていた姫に迫って、その尻へ発止と鞭《むち》をくれた。
あっ[#「あっ」に傍点]と云う間もなかった。
不意に鞭をくった姫の乗馬は、いきなり矢のような勢で奔《はし》りだす。
「――誰じゃ、なにを」
と姫が驚いて手綱を絞ろうとするところへ、またも追迫りながら一鞭、更に一鞭。
云うまでもなく伊兵衛だ。
姫の馬は狂奔した。――侍女たちの叫声は忽ち後へひき離された、伊兵衛は少しの隙もなく、追迫っては打ち、追迫っては打ち、遮二無二山地の方へ追立てて行く。
姫はどうかしてその鞭からのがれようとしたが、必至を賭けた伊兵衛には敵することが出来ず、しまいには鞍から振落されまいとする努力で精いっぱいになった。
二頭の馬は蒙々たる土煙のなかを、狂ったように疾駆し続けた。
どこをどう走ったか、どのくらいの時間そうしていたのか、姫はなかば夢中だった、続けざまの早馳けではあるし、いつか道は嶮しくなっていたし、揉みに揉まれた体はくたくたに疲れて、乾きつきそうな喉と共に激しい眩暈《めまい》さえ感じ始めた。
「――お下りなさい」
そう云われて気がつくと、馬は急勾配の岩道の下に停っていた。
姫は振返って初めて伊兵衛を見た。
「おまえは……来栖」
「お下りなさい!」
伊兵衛は叱りつけるように叫んだ。
姫の唇がきゅっ[#「きゅっ」に傍点]と歪んだ、そして疲れきった体のなかから、ありたけの怒りをひき出そうと試みるらしい、しかしもうその力はなかった。
「下りたら歩くのです、さあ」
「…………」
「歩けないのですか」
姫は黙って歩きだした。
伊兵衛は二頭の馬を曳きながら、その後から大股に跟《つ》いて行った。――道は尖った岩のごつごつした坂である、左右はびっしりと枝を交えた檜《ひのき》の森で、まだ昼だというのに梟《ふくろう》の声がしていた。足がふらふらする、体は、濡れた布切のように力がない、……それを見られまいとして、姫は歯をくいしばりながら登った。
二人とも無言だった。
道は無限のように続いている、いつか森をぬけて疎《まば》らな雑木林の斜面へ出た、そのとき初めて、もう夕暮に近いことが分った。
――こんな時刻なのだ。
姫は思わず振返った。しかし伊兵衛は怒った顔のまま情《すげ》なく外向いてしまった。
こうして更に二時間《いっとき》は登ったであろうか、黄昏《たそがれ》がすっかり四辺《あたり》を閉ざして、足下の見分けるつかなくなった頃、二人は凄じく切立った絶壁の上へ出た。
伊兵衛は馬を木へ繋いで、
「こっちへ来るのです」
と姫を絶壁の端の方へ押しやった、姫はぶるっ[#「ぶるっ」に傍点]と身を震わせながら叫んだ。
「おまえ、万をどうする積りなの!」
「怖いのですか」
伊兵衛は冷やかに云った。
「私がここから突落すとでも思っているのですか、――そんな事はしませんから御安心なさって宜しい、さあここを下りるのです」
「厭です、もう沢山です」
「云う通りになさい! でないと……」
伊兵衛は姫の手を掴んだ。
その強い力は、姫の体中へ火のようなものを伝えた。――姫は眼を伏せて、伊兵衛のする通りに絶壁の裂目を下りた。
直立六十丈に余る断崖の上に自然の洞窟があった。そこは昔隣国の侵略に備えるための哨兵《しょうへい》を置いた場所で、昼なら伊那谷を一望の下に見渡せるところである、――伊兵衛は姫と共に裂目を伝ってその洞窟の中へはいった。
「お坐りなさい、立っていても仕様がありませんから」
「――万は城へ帰ります」
「お坐りなさい! でないと……」
「でないと、どうするの」
伊兵衛は右手を見せた。
「いつかの畷道《なわてみち》のことを忘れましたか、伊兵衛の平手は遠慮をしませんよ」
「…………」
姫は身を離して坐った。
伊兵衛はそれっきり黙ってしまった。そのまま時が経って行った。
四辺は漆のような闇になった、夜は更けてゆくらしい、ほんの時たま、それもごく遠い谷間の方から妙な獣の咆声が聞えて来る。
「――狼だな」
伊兵衛が無言のように低く呟いた。
「そう云えばもう狼が仔を産む時分だ、……飢えきっているぞ」
[#8字下げ]七[#「七」は中見出し]
「そんな――そんな脅しにはのらないから」
姫は外向いたまま云った。
伊兵衛は答えなかった、そして再び耳の塞《ふさ》がるような沈黙が襲いかかった。
暫くすると狼の声が急に近くなって聞えた。三声ほど咆えて消えたが、姫の体は自分でも気付かぬ力でじりっと伊兵衛の方へ寄った。すると伊兵衛は急に立上って洞窟の口へ出て行った。
――どうするのだろう。
姫はその方へ眼をやった。
闇の中のことで分らないが、伊兵衛は裂目を攀《よじ》登ってゆくらしい、暫くばらばらと岩の崩落ちる音がしていたが、やがてそれも止み、伊兵衛の立去って行く跫音が聞えた。
――行ってしまうのかしら。
姫は思わず身を起した。
伊兵衛の跫音が全く聞えなくなったとき、ながく引伸ばした狼の無気味な咆声が闇を伝って来た、それは谷に木魂《こだま》して、まるで幽鬼の哭《な》くような空しい反響を呼起した。
姫は恐怖が身を引裂くかと思った。
ここがどこかも知らない、一歩外は千|仞《じん》の絶壁だ、仔を産んで貪婪《どんらん》になっている狼、眼前《めのさき》一寸も見えぬ闇は、そのまま恐ろしい壁のようにのしかかって来る。
「――怖い!」
姫はつきとばされたように、いきなり立上りながら叫んだ。
「来てお呉れ伊兵衛、来て、怖い」
洞窟の壁に反響する自分の声が、更に恐怖と絶望の混乱に叩き込んだ。
「伊兵衛、万が悪かったから赦して、伊兵衛、来て、来てお呉れ、怖い――」
「…………」
なにか返辞がした。
ざざざと岩の崩れる音がして、伊兵衛がとび込んで来た。その体へ、姫は夢中でとびつき抱|縋《すが》った、見栄も羞いもなかった、主人と家来だということも、男と女だということさえも忘れて、伊兵衛の逞しい体へ狂おしく身をすり寄せながら、
「怖い、堪忍して、どこへも行かないで」
と泣きながら叫んだ。
「大丈夫です姫、なにも怖いことはありません、落着いて下さい」
「厭、厭、万を置いて行かないで、ここにいて、ここに一緒にいて」
「もうその必要はないのです、落着いて下さい、――上へお迎えの者が参って居りますから」
伊兵衛はそう云って姫を押離した。
姫は泣きじゃくりをしながら、訝《いぶか》るように伊兵衛の方を見た。――伊兵衛は静かな調子で云った。
「ここへ来る途中、ずっと道しるべ[#「しるべ」に傍点]を作って置いたのです、考えていたよりは少し来方が早かった、けれどもう私の望んでいたことは果されました、――どうかお城へお帰り下さい」
「…………」
「お別れする前にひと言申上げます、姫君はいま悪かったと仰せられました、どうぞそれを忘れずに、これからは家中の者を慰み者に遊ばさぬよう、武士は主君の御馬前に死ぬべきものです、姫君のお慰み道具ではございません……お分り下さいましたか」
「分りました」
姫は咽《むせ》びながら云った。
「でも伊兵衛は知らないのです、万は、誰をも慰み道具にはしませんわ。父上さまが婿にと選んで下すった者を、自分で試してみただけなんです」
「……!」
「でも、それが女の身に不嗜《ふたしなみ》だとお云いなら慎みます、もう二度とはしません」
伊兵衛は愕然と頭を垂れた。
婿選み! 婿選みであったのか? 親長侯が婿にと選んだ者を、姫は自ら、果して自分の一生を托すに足る人物かどうか試みたのだという、だから他言を禁じたのだ。――その法が並外れていたことは事実だが、決して慰み相手にしたのではなかったのである。
「――伊兵衛、そこか」
裂目の上から幾四郎の声がした。伊兵衛は無言で姫をその方へ導いて行った。
××××
「不届きな奴、言語道断な奴だ」
親長は怒声をあげて叫んだ。
「日頃の寵《ちょう》に慢じ、家来の分際をもって姫を拐《さら》い、山の洞穴へ押寵めにするなどとは無道極まる、出て参ったらあの伊兵衛めどうするか」
「父上さま、違います」
万姫は激しく頭を振って、
「それは違いますの」
「なにが違う、彼奴は見下げ果てた」
「いいえ、いいえ、万のいうことをお聞き下さいまし、伊兵衛のお蔭で万は色々なことを知りました、悪かったのは万です」
「なんだと」
「僅かばかり武芸の真似ごとが出来るのを鼻にかけて、これまで家中の者に迷惑をかけたのは愚かでございました、万はゆうべ一夜で本当の自分が分ったのでございます」
「――余には分らんぞ」
「父上さま、来栖へ嫁にやって下さいまし……」
云いも終らず、姫は両袖に面を埋めながら俯向いてしまった。
十九年の今日まで、姫の体にこんな娘らしい表情の現われたのは初めてである、つい昨日まで親長は、
――これが男子であったら。
と幾度口惜しく思ったことであろう。
それほど姫は男勝りであった、髪飾りや化粧も、その烈しい気性を柔げることは出来なかった。それがいま耳まで染めながら面を袖に包んで嬌羞に身も消えぬかの姿を見せている……親長は低く呻いた。
「そうか、――そうか」
そして急に振返って、
「誰ぞあるか、すぐに馬で伊兵衛を呼びに参れ、急ぐぞ」
「――は」
「あいつめ、早まって腹など切ろうも知れぬ、余の前へ来るまで過《あやま》ちのなきよう、厳しく警護して参るのだ、急ぐぞ」
近侍の者が走って行く気配を聞きすました親長は、姫の肩へ手をかけて、
「――万、祝言はいつが望みじゃ」
「わたくし、そう思いますの」
姫は袖のなかから云った。
「伊兵衛は多分、承知してくれないでしょうと」
「ばかなことを云え、無理押付けでは理窟をこねるだろうが、こっちには退引《のっぴき》させぬ急所が押えてあるのだ」
「それがございまして?」
「伊兵衛は万と二人きりで、人里離れた洞穴の中に一夜を過したではないか」
「まあ――」
姫は思わず面をあげた。
「どうだ」
親長は肥えた体を反《そ》らして笑った。
「これだけで充分だろう、心配する必要はないから行って寝《やす》むがよい、余はこれから伊兵衛めと。談判じゃ、あいつの驚く顔はさぞみものであろうよ」
姫の唇にもようやく微笑がうかんだ。――朝の光が今日の暑さを告げ顔に輝き始めた。
底本:「浪漫小説集」実業之日本社
1972(昭和47)年12月10日 初版発行
1979(昭和54)年2月15日 新装第七刷発行(通算10版)
底本の親本:「婦人倶楽部」
1939(昭和14)年9月号
初出:「婦人倶楽部」
1939(昭和14)年9月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)来栖《くるす》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)山|葡萄《ぶどう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#8字下げ]
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[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
来栖《くるす》伊兵衛は無愛想な男である。
飯田藩、堀大和守譜代の家臣で、三百石の近習番を勤め、父はすでに亡く、母に妹の二瀬と城下荒町に住んでいる。――そこには儒者太宰春台の生家の跡があって、春台が幼時手ずから植えたという松が残っていた。伊兵衛は少年の頃から剛毅不屈の学者春台の事蹟を聴き、また朝夕この「太宰の松」を親しく見ながら育ったので、生《き》一本で変屈なところは幾らかその影響があったのかも知れない。
六尺に余る身の丈で、いつも髭《ひげ》の剃痕《そりあと》の青々とした腮《あご》をもっている、大切な事には口数を惜しまないが、朝暮晴雨の挨拶や世間話などには敢えて応酬しようとしない、それでも別に反感を持たれることもなく、
――あれが来栖の好いところさ。
という風に見られているのは、それだけ備わった人徳があるからであろう。
安永二年六月はじめの事だった。
雨あがりの松川で半日魚釣りに興じた伊兵衛が、家へ帰ろうとして町はずれの畷道《なわてみち》にさしかかった時、うしろから馬を煽《あお》って来た者が凄じい勢で伊兵衛を追抜いた。
泥濘《ぬかるみ》の道で、避けるひまもなく、したたかに泥を浴びた伊兵衛は、
「――下郎、待て!」
と絶叫した。
下郎という声が耳にはいったか、相手が手綱《たづな》を絞りながら停るのを、伊兵衛が追いついてみると若い娘だった、――生絹《すずし》の筒袖に馬乗り袴《ばかま》で黒髪を背に垂れ、額つきの端麗な、熟《う》れた山|葡萄《ぶどう》の実のように艶々《つやつや》と黒く美しい眸子《ひとみ》を持った、十八九の乙女である。
「下りろ、おまえは馬をやる[#「やる」に傍点]法を知らないのか」
伊兵衛は魚籠《びく》と竿を持替えながら、
「武士を追越すときには会釈をすべきだぞ、殊にこのような泥濘を駆けるには注意しなければならぬ。こんなに泥を浴びせながら詫びもせずに行くということがあるか」
「そのようなことそち[#「そち」に傍点]などから教えを受けようか」
乙女の美しい眸子が怒った。
「武士なら多少は武道の心得もあろう、他人《ひと》に乗馬の作法を教えるより、自分ではね[#「はね」に傍点]汲《くみ》を避ける工夫をするがよい、――みは城の万じゃ、過言であろうぞ」
「黙れ下郎!」
伊兵衛は叫びながら手を伸ばした。
あっ[#「あっ」に傍点]というまもなく、馬上の乙女は鞍《くら》から引下ろされ、葩《はなびら》のような頬に発止《はっし》と高く伊兵衛の平手が鳴っていた、思わず腕をあげて避けようとするところを、ぐいと引寄せてもう一つ、強くはないが音は高かった。
「――この痴者《しれもの》が」
伊兵衛は睨《ね》めつけながら、
「ひとに泥を浴びせて詫びもせぬ許りか、姫君の名を偸《ぬす》み申すとは赦し難きやつだ、おまえは下賤者《げせんもの》で知るまいが、御身分のあるお方が供も伴《つ》れず、このような城外をお独りで歩かれると思うか、――まして一国一城の姫君となれば礼儀作法もよく御存じだ、おまえのような無法なことをあそばす筈はない、――無礼討ちにすべきだが今度だけは見遁《みのが》してやる、再びこのようなことをすると斬捨てるぞ」
息をつくひまも与えずそれだけ云うと、伊兵衛は乙女を押しやって、
「拙者は来栖伊兵衛という者だ、覚えて置け」
そう云い捨てて立去った。
畷道を左へ折れてしまったので、それから乙女がどうしたか知らなかったが、伊兵衛の唇には微《かす》かな笑いが刻まれていた。
――あれがじゃじゃ[#「じゃじゃ」に傍点]馬どのか。
そう思ったのである。
飯田城主、堀大和守|親長《ちかなが》の五女に万姫というのがある、この飯田で生れた側室の女《むすめ》で、男まさりの気性と、とびぬけて美しい縹緻《きりょう》をもっている。……親長には四男七女の子があったが、この万姫に対する愛情は格別で、側を離すのが惜しさに、家臣へ嫁入らせようと考えているほどである、こうした父の愛情は、男まさりの姫を更に我儘なものにさせた。
薙刀《なぎなた》と小太刀《こだち》にはすぐれた腕があるし、乗馬は殊に抜群だった、それで遠乗などに出ると、供をうしろに追い捨てては勝手なところを駆け廻ってはらはらさせる、或時などは神坂《かみさ》峠を越えて美濃の国境までも行き、深夜になってみつけられたことさえもあった。
――しようのないじゃじゃ[#「じゃじゃ」に傍点]馬どの。
という陰口が弘まったのはその頃からのことである。
伊兵衛はまだ万姫を知らなかった。
奥と表との差別は厳重であるが、この狭い城下にいてこれだけ暴れ廻る美しい人を知らぬ者はあるまい、しかも近習番を勤めながらついにこれまで知らなかったのだから、如何にも伊兵衛の気質をよく表わしている。――けれど、馬上の乙女が自ら「城の万じゃ」と名乗ったとき、むろんすぐにそうと感付いたのである。感付きながら敢て姫の頬を打ったのだ。
勝気な姫はどうするであろうか、伊兵衛の覚悟の出来ていることは云うまでもない。
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
その翌日の夜。
来栖家の晩餐《ばんさん》には吉沢幾四郎が客として列《つら》なった。幾四郎は槍奉行の子で伊兵衛とは幼少の頃からの友であり、まだ正式に話はないが妹の二瀬とはいつか結婚するものに定《きま》っているような間柄であった。
「今日は面白いことがありましたよ」
幾四郎は食後の茶を啜《すす》りながら、
「曽根源三郎を知っていますね、あいつが到頭じゃじゃ[#「じゃじゃ」に傍点]馬どのに捉ってしたたかやられたそうです、横|鬢《びん》に大きな瘤《こぶ》をだして来ていましたよ」
「まあ曽根さまもですの」
二瀬は呆れたように眼を瞠《みは》った。
「でも曽根さまはたいそう剣術が御自慢だと伺っていましたのに」
「なに自慢するほどの腕ではありません。河野でさえ敵《かな》わなかったのですから、曽根がやられるのは当然です」
「――なんの話だ、それは」
珍しく伊兵衛が口を挿《はさ》んだ。
ふだんなら耳にもとめぬところだったろうが、じゃじゃ[#「じゃじゃ」に傍点]馬どのと聞いて興を唆《そそ》られたらしい。幾四郎の方はまた、改めてなんだと訊かれたのに驚いた。
「曽根が姫君に打据えられた話さ」
「――何処で」
「御屋形《おやかた》の庭でだ、姫君の御屋形へ召される者もあるし、また外でいきなり相手を申付かることもある、みんな隠しているが段々分って来たのさ」
「訳の分らぬ話ではないか」
伊兵衛は眼をあげて、
「全体その御屋形へ召されるとか相手を申付かるというのはなんのことだ」
「驚いたな、貴公はなにも知らないのか」
「知らないから訊いている」
「もう半月もまえからの評判だぞ」
幾四郎もしかし精《くわ》しい事は知らなかった。
なんでも半月ほどまえから、城中の若侍たちが次々と万姫の屋形に呼ばれ、或いはまた野外へ連出されたうえ薙刀、木太刀《きだち》の相手を命ぜられ、さんざんな負け方をしているのだというのである、――それも姫の独断でやっているのではなくて、主君親長侯も承知のうえらしいということだった。
「堅く他言を禁じられているそうで、誰と誰が本当にやられたのか分らないが霜田市之丞、河野金弥、橋本啓之助、それに曽根と、この四人がやられたのは慥《たし》かだ」
「――追従者《ついしょうもの》が揃っているな」
伊兵衛は苦々しげに云った。
「曽根や橋本はしようがないが、河野と霜田はもう少し心得のあるやつだと思った」
「追従者とも云えないだろうが」
幾四郎は執成すように、
「なにしろ主君の姫で、いずれにしても婦人のことだからな、如何に武術の試合とは云え思切って打込むことも出来ないだろうし」
「それなら初めから相手にならぬがよい」
「そう出来ればいいが」
「出来るさ、出来ないのは追従の心があるからだ、――己《おれ》なら……」
と云いかけて、伊兵衛はふと[#「ふと」に傍点]自分の右の掌《てのひら》を見た。
昨日、葩のような頬の上に快い音をたてた平手打の触感が、掌の皮膚にまざまざしく甦《よみがえ》って来たのである。
「貴公なら?」
「――どっちにしても」
と伊兵衛は眼を外向けながら云った。
「拙者なら追従者にはならぬ」
幾四郎は二瀬と眼を見交わした、二人の眼は同じように微笑していた。
――本当に伊兵衛ならどうするだろう。
と云うように。
伊兵衛はそのまま座談のなかまから離れてしまった、幾四郎から聞いた話はなかなか頭を去らなかった。
主君大和守が万姫を溺愛していることは知らぬ者はない、一生側を離したくないために、江戸屋敷へも移さず国許に置くほどだから、大抵の我儘は笑って許されて来た。しかし乙女の身で少しばかり武芸の心得があるからといって、家中の武士に立合わせたり、慰み半分の相手をさせたりするというのは度の過ぎたことだ。
それを許す主君の気持が、果してただ溺愛の結果であるか、それともなにか他に理由があるのか。
伊兵衛はもう一度、自分の右の掌を見やった。
[#8字下げ]三[#「三」は中見出し]
烈しい雷雨があって、梅雨《つゆ》は快くあがった。
何事もなく四五日経った。
畷道の事があって以来、伊兵衛は今にもなにか御沙汰があるかと、登城する度《たび》に待っていたが、或日のこと召されて御前へ伺候すると、大和守の側に万姫がいた。
――さては愈々きた[#「きた」に傍点]か。
そう思ったが、そ知らぬ顔で平伏した。
「これが来栖伊兵衛だ」
親長は姫の方へ云った。
「なにか訊ねたいことがあるなら声をかけてやるがよい……伊兵衛、万姫じゃ」
「――は」
伊兵衛は平伏したきりだった。
姫は澄んだ眸子で眤《じっ》と伊兵衛を見下ろしていたが、やがて冷やかな声で、
「来栖伊兵衛とはそなた[#「そなた」に傍点]か」
と云った。
「許します、面《おもて》をおあげ」
「――はは」
「面をおあげ」
伊兵衛は静かに顔をあげた。その真正面へ怒れる眸子が矢のように刺さった。
「そなた[#「そなた」に傍点]の顔は何処かでいちど見たように思われるが、そなた[#「そなた」に傍点]は万に見覚えはありませぬか……」
「恐れながら」
伊兵衛は平然として、
「式日の折など末座より拝しましたのみにて、お直にお目通り仕りまするは今日が初めて、お言葉恐入り奉りまする」
「ではよく万の顔を見てお置き!」
姫の声は微かに震えを帯びていた。
「是からのち領内いずれで会うやも知れませぬ、そのとき見忘れのないよう、万の顔をよく見て覚えてお置き」
「――恐入り奉りまする」
「よく見ましたか」
「――は」
「もう見忘れはしますまいね」
きゅっ[#「きゅっ」に傍点]とひき結んだ唇、怒りの光を帯びて一層美しく輝く眸子、上気してぱっと赤みのさした匂うような頬、……伊兵衛は臆せぬ眼でひた[#「ひた」に傍点]と見上げながら思わず、
――お美しいな。
と胸のなかで呟《つぶや》いた。
御前を退ってからまず思ったのは、これは考えていたより面倒なことになるぞということだった。姫は畷道の出来事を親長に告げていないらしい、告げれば自分が叱られると思ったのか、
――否《いや》そうではあるまい。
恐らくは父の力を借りずに、自分の手で復讐をする積りなのであろう、その前提として顔を見知らせ、今度は万姫という存在でのっぴきさせず押える考えに違いない。
――あのお美しさの、何処にあんな烈しい気性があるのか。
と思い、また同時に、
――油断はならぬぞ。
と伊兵衛は珍しく緊張した。
人の心ほど微妙なものはない、日頃の伊兵衛は不屈そのものの武士気質で豪放にまで出処進退を割切っていたのが、今度はどうやらそれが危くなって来たらしい。自分が正しいと信ずる限り、どんなに困難な状態が起ろうとびくともしなかった心構えが、妙に落着きのない不安を感じだしたのである。
なぜだろう!
相手が主君の姫だからか?
復讐が怖くなったのか?
どうもそんな単純なものではないようだ、本当の理由《わけ》は別のところにあるらしい、ただ生れて初めて経験する感情なので自分では全く気付かないのである、……ではその原因はなにか?
伊兵衛が緊張し始めたにもかかわらず、それから更に数日が経って、梅雨あけの日々は次第に暑さを加えて来た。
伊兵衛は泳ぎが好きで、夏になると天竜川へ出掛けて行くのが毎年の例である。城下町から南へ一里ほど下ると、殆ど人の来ない藤ヶ淵という泳ぎ場があった、――着物を脱ぐ場所から少し下ると両岸の断崖が高く、奇巌|峭立《しょうりつ》して相迫り、碧玉《へきぎょく》のように澄んだ水が淵をなして、流れも緩く、猿の声でも聞くほかは全く塵境《じんきょう》の外にある幽邃《ゆうすい》なところだ。伊兵衛はもう数年このかた、そこを殆ど自分独りの泳ぎ場のようにしていた。
その日も朝から暑かった。
藤ヶ淵へやって来た伊兵衛は、衣服大小を束ねて岩蔭へ置き、静かに流れのなかへ身をひたすと、そのまま瀬に乗って淵の方まで泳ぎ下った。
大きな岩角を曲って、淵へ出たとたんのことだった、かつて自分より他に人の来たことがない淵の水面に、四五人の者が泳いでいるのとばったり顔を見合せた。
――おや?
と思って眼をあげたとたん、伊兵衛は我知らずあっ[#「あっ」に傍点]と叫びそうになった。
泳いでいるのは女であった。
[#8字下げ]四[#「四」は中見出し]
碧玉色の水に透《す》いて、白いなめらかな肩が、かたく匂やかにふくらんだ胸が、すんなりと伸びた腕が、まるで妖しい魚のように放恣《ほうし》な姿で躍《おど》っている。
伊兵衛が危く叫びそうになったと同じ時。
乙女たちもそれと気付いて、
「あ、あれ」
「人が」
と嬌声をあげた。
しかもその乙女たちの中から、屹《きっ》とこっちへ振返った一人の眼は、伊兵衛の全身を痺《しび》れるように刺貫いた。余りに意外な人、
――万姫!
伊兵衛はそう感ずるより疾《はや》く身を翻《ひるがえ》して水中に潜《もぐ》った。
水に潜りながら伊兵衛は事情を知った。
謀《はか》られたのである、万姫はここが伊兵衛の泳ぎ場であることを知り、ひそかに侍女たちと先に来ていたのだ、そして裸形の乙女たちのなかへ伊兵衛を取籠めようとしたのだ。
思切った仕方である。
同時に辛辣極まる方法だ。――もし取って押えられたとしたら、……姫君の泳ぎ場を裸で犯したことになる。
伊兵衛は息の続く限り潜った。
しかしその淵を三十間も下ると川は滝のような早瀬になる、流れは乱立する岩を噛んで引裂け、飛沫をあげながら矢のように奔騰する、うっかりそこへ巻込まれたら命はない。……伊兵衛は辛くもその寸前で川中の巨岩に身を支えた。
振返ったがさすがに乙女たちの姿は見えなかった。
ようやくはっと息をついたが、これからどうしたらよいかはた[#「はた」に傍点]と当惑した。この急流を泳いでのぼることは不可能である、岸を伝って行くとしても淵には姫たちが待構えているだろう。では帰るまで待つか。
「――いかに」
思わず伊兵衛は呟いた。
「着物がある、殊に依ると姫はあれを持って行くかも知れない。そうすると裸で帰らなくてはならぬ。否それだけじゃないぞ、……先刻《さっき》はそれ[#「それ」に傍点]と見咎められぬうちに水へ潜ったから、泳ぎ場を犯した証拠を危く残さずに済んだが、あの衣服大小を取られたらおしまいだ」
伊兵衛は即座に岸へ泳ぎ着いた。
屏風《びょうぶ》のように聳立《しょうりつ》した断崖《きりぎし》である、しかしこっちは懸命だった、岩の裂目や、藤蔓《ふじづる》などを手掛りにして登り始めた。高さは八十尺を越していたであろう、風|蝕《む》している岩は脆《もろ》くて、掛けた手や足の力で何度も欠落ちた、そのたびに伊兵衛の体はぐらりと墜ちかかり、もう駄目かと胆を冷した。
幾度も休み、何回も息をついて、しかし、遂に断崖の上へ登ることが出来た。
上は道である。
伊兵衛は裸のまま走りだした。
真昼の陽は眩しく照りつけている、田の草とりに行くらしい、三人伴れの農夫が通りかかったが、吃驚《びっくり》して押合いへし[#「へし」に傍点]合い畦《あぜ》道へ逃込んだ。――そして、天狗でも見つけたように仰天した眼を剥出しながら走り去る伊兵衛の姿を見送っていた。
更にふた[#「ふた」に傍点]組の農夫に会った。
その次に会ったのは目附方の若侍であった、これも驚いたらしい、笠をあげながら、
「来栖氏ではございませんか」
と呆れて声をかけた、
「この日中その姿はどうなすったのです」
「鍛錬《たんれん》だ、体の鍛錬だ」
伊兵衛は走りながら答えた。
「これが来栖流の体の鍛え方だ、人間の体はこうして鍛えるのだ、しかし秘法だから必ず他言は無用だぞ」
「――――」
若侍はあっけ[#「あっけ」に傍点]にとられて見送った。
ようやく元の場所へ馳《か》けつけてみると、衣服大小は岩蔭にそのまま在った。――しかしそれはほんの危い刹那だったのである、流れるような全身の汗を拭くいとまもなく、伊兵衛が大急ぎで着物を着、袴をつけ大小を腰に差込んでいるとき、……岩を越して姫と侍女の一行が現われた。
藤ヶ淵で待つうち、伊兵衛の戻って来るのが遅いので、姫の方でもそれと気付き、急いで此処へ馳けつけたのであろう、――伊兵衛をみつけたとたん姫は、
――しまった。
という表情を見せた。
「あ、これは姫君」
伊兵衛は、さも意外なという様子で、両手を、膝に当てながら頭を垂れた。
「来栖伊兵衛ですね」
「は、伊兵衛にございます」
そう云って静かに面をあげ、
「この暑中、斯様な場所へお運びは、水泳ぎなど遊ばしまするのか、伊兵衛めも以前はよくここへ浴びに参りましたが、深い淵で危のうござりますゆえ、この節は足踏みも致しません、姫君にも若しお水浴びなど遊ばしますなら、よくよく御注意のほど」
「伊兵衛、これをとらす」
姫は侍女の手から白布を取って、伊兵衛の手に投与えながら云った。
「髪から体まで汗が流れています、それで拭いてお帰り」
「――は」
「裸で馳けた姿はさぞ立派だったろうね」
侍女たちがぷっと失笑《ふきだ》した。
[#8字下げ]五[#「五」は中見出し]
「兄上さま、吉沢さまが見えました」
「己に用なのか」
「はいお二人きりで何か……」
朝食のあと、非番なので居間に引籠ってずっと書見をしていた伊兵衛は、そう云われて机の前から向直った。
「じゃあここへ通せ」
縁先の簾《すだれ》を下ろして妹が去ると、吉沢幾四郎が入って来た。――伊兵衛の癖で、相手が坐るより早く、
「なんだ、なにか急用でもあるか」
「順番が廻って来たよ」
幾四郎の微笑は硬張っていた。
「――順番?」
「例の姫のお相手だ、まさかと思っていたら到頭この己に当ってしまった」
「どういうのだ」
「――今日、三時《やつはん》に将監原《しょうげんばら》へ来いとある」
「――将監原へか?」
「他聞を憚《はばか》るのでお屋形へ召される他はいつも人眼に遠い場所が選ばれるのだ」
「それで、貴公どうする」
幾四郎は再び硬《こわ》い微笑を見せながら、
「少くとも貴公の云う追従者にはならぬ」
「――――」
「しかしお相手はするよ、存分にお相手をする、そして拙者で限《きり》をつける積りだ、無論」
といって幾四郎は腹へ横に手を引いた。
「覚悟はしている」
「――――」
「そこで頼みだ」
幾四郎は膝を正して、
「拙者は以前から、二瀬どのを妻に申受けたいと思っていた、今でもその心に変りはない、しかしこんな事になってみると、それが果せるかどうか分らなくなった、……順序を外したことで叱られるかも知れないが、せめてもの心遣りにここで別盃を酌《く》ませて貰いたいと思う」
「その言葉は、己の待っていた」
伊兵衛は低い声で云った。
「恐らく二瀬も待っていただろう、母も無論のことだ。……いいとも、内祝言の意味も籠めて小酒宴をやろう」
「承知して呉れるか、忝《かたじけ》ない、――だが、お二人には堅く内証だぞ」
伊兵衛は机上の鈴を振った。
丁度もう午《ひる》に近かった、すぐに客間へ支度が出来て、主客に妹と母を交えた小酒宴が始まった。
幾四郎は余り酒を嗜《たしな》まなかった。――しかし、将監原の事があるために酒も碌々呑めなかったと云われるのは恥辱だから、伊兵衛の勤めるままにいつか深酒をしてしまった。
「もういかん、これでしまおう」
「なにまだいい、この一本を空けよう」
「いや、それでは立てなくなる」
「寝ればいいさ」
伊兵衛は暗示するように、
「ひと眠りして、神《しん》も体もすっきりと酔から醒《さ》めたら出掛けるんだ、時は充分ある」
「そうか、時は充分あるか」
幾四郎は高く笑って盃を出した。
それから間もなく、幾四郎は遂にそこへ酔倒れてしまった。――事情を知らない母と妹は伊兵衛の強《し》い方をはらはら[#「はらはら」に傍点]しながら見ていたが、幾四郎が倒れてしまうと呆れて、
「まあおまえ、こんなにお酔わせ申してどうするのです、不断から余り召上らないのを知っておいでの癖に」
「兄上さまは今日は少し変ですわ」
「なにいいんだ、内証にして置けと頼まれたから云わなかったがな、――実は」
伊兵衛は声をひそめ、
「幾四郎め今日は二瀬に申込みをしに来たんだ」
「――まあ!」
「その祝いだよ」
「――まあ!」
二瀬はさっ[#「さっ」に傍点]と頬を染めた。
「ははははは」
伊兵衛は珍しく笑って、
「だから酔潰れるまで呑んだのさ。二瀬、おまえ介抱してやれ、そして眼が覚めたらこう云うんだ、――将監原は伊兵衛が引受けた、だからその後を頼むと」
「それはなんのことですの?」
「云えば分る。母上、ちょっと出て参ります」
そう云って伊兵衛は立ち上った。
藤ヶ淵の日から幾日、――伊兵衛はこういう機会の来るのを待っていたのだ。あの日の思切った仕方から考えると、姫の我儘はどんなところまでゆくか分らない。
――鉄は熱いうちに打て。
禍の根は花咲かぬうちに断つべきだ、伊兵衛は馬を曳出して唯一人家を出た。
[#8字下げ]六[#「六」は中見出し]
万姫は五人の侍女と共に、城下を北へ馬を駆っていた。
すると、時又郷にかかる少し手前のところで、卒然とうしろから馬蹄の音が近づいて来て、一騎の武士が侍女たちの馬のあいだを馳け抜けると、先頭を駆っていた姫に迫って、その尻へ発止と鞭《むち》をくれた。
あっ[#「あっ」に傍点]と云う間もなかった。
不意に鞭をくった姫の乗馬は、いきなり矢のような勢で奔《はし》りだす。
「――誰じゃ、なにを」
と姫が驚いて手綱を絞ろうとするところへ、またも追迫りながら一鞭、更に一鞭。
云うまでもなく伊兵衛だ。
姫の馬は狂奔した。――侍女たちの叫声は忽ち後へひき離された、伊兵衛は少しの隙もなく、追迫っては打ち、追迫っては打ち、遮二無二山地の方へ追立てて行く。
姫はどうかしてその鞭からのがれようとしたが、必至を賭けた伊兵衛には敵することが出来ず、しまいには鞍から振落されまいとする努力で精いっぱいになった。
二頭の馬は蒙々たる土煙のなかを、狂ったように疾駆し続けた。
どこをどう走ったか、どのくらいの時間そうしていたのか、姫はなかば夢中だった、続けざまの早馳けではあるし、いつか道は嶮しくなっていたし、揉みに揉まれた体はくたくたに疲れて、乾きつきそうな喉と共に激しい眩暈《めまい》さえ感じ始めた。
「――お下りなさい」
そう云われて気がつくと、馬は急勾配の岩道の下に停っていた。
姫は振返って初めて伊兵衛を見た。
「おまえは……来栖」
「お下りなさい!」
伊兵衛は叱りつけるように叫んだ。
姫の唇がきゅっ[#「きゅっ」に傍点]と歪んだ、そして疲れきった体のなかから、ありたけの怒りをひき出そうと試みるらしい、しかしもうその力はなかった。
「下りたら歩くのです、さあ」
「…………」
「歩けないのですか」
姫は黙って歩きだした。
伊兵衛は二頭の馬を曳きながら、その後から大股に跟《つ》いて行った。――道は尖った岩のごつごつした坂である、左右はびっしりと枝を交えた檜《ひのき》の森で、まだ昼だというのに梟《ふくろう》の声がしていた。足がふらふらする、体は、濡れた布切のように力がない、……それを見られまいとして、姫は歯をくいしばりながら登った。
二人とも無言だった。
道は無限のように続いている、いつか森をぬけて疎《まば》らな雑木林の斜面へ出た、そのとき初めて、もう夕暮に近いことが分った。
――こんな時刻なのだ。
姫は思わず振返った。しかし伊兵衛は怒った顔のまま情《すげ》なく外向いてしまった。
こうして更に二時間《いっとき》は登ったであろうか、黄昏《たそがれ》がすっかり四辺《あたり》を閉ざして、足下の見分けるつかなくなった頃、二人は凄じく切立った絶壁の上へ出た。
伊兵衛は馬を木へ繋いで、
「こっちへ来るのです」
と姫を絶壁の端の方へ押しやった、姫はぶるっ[#「ぶるっ」に傍点]と身を震わせながら叫んだ。
「おまえ、万をどうする積りなの!」
「怖いのですか」
伊兵衛は冷やかに云った。
「私がここから突落すとでも思っているのですか、――そんな事はしませんから御安心なさって宜しい、さあここを下りるのです」
「厭です、もう沢山です」
「云う通りになさい! でないと……」
伊兵衛は姫の手を掴んだ。
その強い力は、姫の体中へ火のようなものを伝えた。――姫は眼を伏せて、伊兵衛のする通りに絶壁の裂目を下りた。
直立六十丈に余る断崖の上に自然の洞窟があった。そこは昔隣国の侵略に備えるための哨兵《しょうへい》を置いた場所で、昼なら伊那谷を一望の下に見渡せるところである、――伊兵衛は姫と共に裂目を伝ってその洞窟の中へはいった。
「お坐りなさい、立っていても仕様がありませんから」
「――万は城へ帰ります」
「お坐りなさい! でないと……」
「でないと、どうするの」
伊兵衛は右手を見せた。
「いつかの畷道《なわてみち》のことを忘れましたか、伊兵衛の平手は遠慮をしませんよ」
「…………」
姫は身を離して坐った。
伊兵衛はそれっきり黙ってしまった。そのまま時が経って行った。
四辺は漆のような闇になった、夜は更けてゆくらしい、ほんの時たま、それもごく遠い谷間の方から妙な獣の咆声が聞えて来る。
「――狼だな」
伊兵衛が無言のように低く呟いた。
「そう云えばもう狼が仔を産む時分だ、……飢えきっているぞ」
[#8字下げ]七[#「七」は中見出し]
「そんな――そんな脅しにはのらないから」
姫は外向いたまま云った。
伊兵衛は答えなかった、そして再び耳の塞《ふさ》がるような沈黙が襲いかかった。
暫くすると狼の声が急に近くなって聞えた。三声ほど咆えて消えたが、姫の体は自分でも気付かぬ力でじりっと伊兵衛の方へ寄った。すると伊兵衛は急に立上って洞窟の口へ出て行った。
――どうするのだろう。
姫はその方へ眼をやった。
闇の中のことで分らないが、伊兵衛は裂目を攀《よじ》登ってゆくらしい、暫くばらばらと岩の崩落ちる音がしていたが、やがてそれも止み、伊兵衛の立去って行く跫音が聞えた。
――行ってしまうのかしら。
姫は思わず身を起した。
伊兵衛の跫音が全く聞えなくなったとき、ながく引伸ばした狼の無気味な咆声が闇を伝って来た、それは谷に木魂《こだま》して、まるで幽鬼の哭《な》くような空しい反響を呼起した。
姫は恐怖が身を引裂くかと思った。
ここがどこかも知らない、一歩外は千|仞《じん》の絶壁だ、仔を産んで貪婪《どんらん》になっている狼、眼前《めのさき》一寸も見えぬ闇は、そのまま恐ろしい壁のようにのしかかって来る。
「――怖い!」
姫はつきとばされたように、いきなり立上りながら叫んだ。
「来てお呉れ伊兵衛、来て、怖い」
洞窟の壁に反響する自分の声が、更に恐怖と絶望の混乱に叩き込んだ。
「伊兵衛、万が悪かったから赦して、伊兵衛、来て、来てお呉れ、怖い――」
「…………」
なにか返辞がした。
ざざざと岩の崩れる音がして、伊兵衛がとび込んで来た。その体へ、姫は夢中でとびつき抱|縋《すが》った、見栄も羞いもなかった、主人と家来だということも、男と女だということさえも忘れて、伊兵衛の逞しい体へ狂おしく身をすり寄せながら、
「怖い、堪忍して、どこへも行かないで」
と泣きながら叫んだ。
「大丈夫です姫、なにも怖いことはありません、落着いて下さい」
「厭、厭、万を置いて行かないで、ここにいて、ここに一緒にいて」
「もうその必要はないのです、落着いて下さい、――上へお迎えの者が参って居りますから」
伊兵衛はそう云って姫を押離した。
姫は泣きじゃくりをしながら、訝《いぶか》るように伊兵衛の方を見た。――伊兵衛は静かな調子で云った。
「ここへ来る途中、ずっと道しるべ[#「しるべ」に傍点]を作って置いたのです、考えていたよりは少し来方が早かった、けれどもう私の望んでいたことは果されました、――どうかお城へお帰り下さい」
「…………」
「お別れする前にひと言申上げます、姫君はいま悪かったと仰せられました、どうぞそれを忘れずに、これからは家中の者を慰み者に遊ばさぬよう、武士は主君の御馬前に死ぬべきものです、姫君のお慰み道具ではございません……お分り下さいましたか」
「分りました」
姫は咽《むせ》びながら云った。
「でも伊兵衛は知らないのです、万は、誰をも慰み道具にはしませんわ。父上さまが婿にと選んで下すった者を、自分で試してみただけなんです」
「……!」
「でも、それが女の身に不嗜《ふたしなみ》だとお云いなら慎みます、もう二度とはしません」
伊兵衛は愕然と頭を垂れた。
婿選み! 婿選みであったのか? 親長侯が婿にと選んだ者を、姫は自ら、果して自分の一生を托すに足る人物かどうか試みたのだという、だから他言を禁じたのだ。――その法が並外れていたことは事実だが、決して慰み相手にしたのではなかったのである。
「――伊兵衛、そこか」
裂目の上から幾四郎の声がした。伊兵衛は無言で姫をその方へ導いて行った。
××××
「不届きな奴、言語道断な奴だ」
親長は怒声をあげて叫んだ。
「日頃の寵《ちょう》に慢じ、家来の分際をもって姫を拐《さら》い、山の洞穴へ押寵めにするなどとは無道極まる、出て参ったらあの伊兵衛めどうするか」
「父上さま、違います」
万姫は激しく頭を振って、
「それは違いますの」
「なにが違う、彼奴は見下げ果てた」
「いいえ、いいえ、万のいうことをお聞き下さいまし、伊兵衛のお蔭で万は色々なことを知りました、悪かったのは万です」
「なんだと」
「僅かばかり武芸の真似ごとが出来るのを鼻にかけて、これまで家中の者に迷惑をかけたのは愚かでございました、万はゆうべ一夜で本当の自分が分ったのでございます」
「――余には分らんぞ」
「父上さま、来栖へ嫁にやって下さいまし……」
云いも終らず、姫は両袖に面を埋めながら俯向いてしまった。
十九年の今日まで、姫の体にこんな娘らしい表情の現われたのは初めてである、つい昨日まで親長は、
――これが男子であったら。
と幾度口惜しく思ったことであろう。
それほど姫は男勝りであった、髪飾りや化粧も、その烈しい気性を柔げることは出来なかった。それがいま耳まで染めながら面を袖に包んで嬌羞に身も消えぬかの姿を見せている……親長は低く呻いた。
「そうか、――そうか」
そして急に振返って、
「誰ぞあるか、すぐに馬で伊兵衛を呼びに参れ、急ぐぞ」
「――は」
「あいつめ、早まって腹など切ろうも知れぬ、余の前へ来るまで過《あやま》ちのなきよう、厳しく警護して参るのだ、急ぐぞ」
近侍の者が走って行く気配を聞きすました親長は、姫の肩へ手をかけて、
「――万、祝言はいつが望みじゃ」
「わたくし、そう思いますの」
姫は袖のなかから云った。
「伊兵衛は多分、承知してくれないでしょうと」
「ばかなことを云え、無理押付けでは理窟をこねるだろうが、こっちには退引《のっぴき》させぬ急所が押えてあるのだ」
「それがございまして?」
「伊兵衛は万と二人きりで、人里離れた洞穴の中に一夜を過したではないか」
「まあ――」
姫は思わず面をあげた。
「どうだ」
親長は肥えた体を反《そ》らして笑った。
「これだけで充分だろう、心配する必要はないから行って寝《やす》むがよい、余はこれから伊兵衛めと。談判じゃ、あいつの驚く顔はさぞみものであろうよ」
姫の唇にもようやく微笑がうかんだ。――朝の光が今日の暑さを告げ顔に輝き始めた。
底本:「浪漫小説集」実業之日本社
1972(昭和47)年12月10日 初版発行
1979(昭和54)年2月15日 新装第七刷発行(通算10版)
底本の親本:「婦人倶楽部」
1939(昭和14)年9月号
初出:「婦人倶楽部」
1939(昭和14)年9月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ