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五月雨日記
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五月雨日記
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)爺《じい》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)若|旦那《だんな》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#5字下げ]
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[#5字下げ]一[#「一」は中見出し]
「爺《じい》……なにを考えている」
「別になにも、考えてはおりませぬ」
「紀州へ帰りたいのだろう」
伊兵衛《いへえ》は、餌《えさ》を替えた鉤《はり》を遠く投げ、竿《さお》を足許《あしもと》の土堤《どて》へ突き刺しながら云《い》った。
大井川から分流して、静浜の海へ注ぐ大須《おおす》川は、五月雨あけで水嵩《みずかさ》が増し、ふだんは裸になっている磧《かわら》をすっかり浸して、堤の根までひたひたと漣《さざなみ》を寄せていた。月に二度だけの好きな夜釣りに、いつもなら、主人より自分の方で夢中になる筈《はず》の弥助《やすけ》が、なんとなくとぼんとして、気の浮かぬ様子だった。
「さようでござります」
弥助はややしばらくして云った「……お国表のことを考えますると、矢も楯も堪《たま》らず帰りたくなりまする。もう五年になりまするで」
「だから爺は帰るがいいのだ」
「若|旦那《だんな》さま」
弥助は、非難するように主人を見た、伊兵衛は、その端正な横顔を提燈《ちょうちん》の光に染めさせたまま、黙って自分の竿さきを見まもっていた。
伊兵衛には、老僕の気持が、よく分っていた。
弥助は、伊兵衛を幼少の頃から、自分の手で育てたようなものである。伊兵衛は、紀伊徳川家の郡奉行《こおりぶぎょう》、中根吉郎兵衛《なかねきちろうべえ》の長男に生れたが、剣法の才分に恵まれて、十九歳の時すでに、紀伊藩中五剣の一に数えられたくらいであった。
早くから彼は、生涯を剣の求道に捧《ささ》げようと決心していたが、父は自分の跡目を継がせるために、どうしても許さなかった。それでついに彼は家を出奔し、修行の旅に出たのである、……弥助は一緒についてきた。いかに諭《さと》しても帰らなかった。伊兵衛を背に負って守をする時代から、ほとんど側を離れたことのない老僕は、若主人の落着く先を見届けぬかぎり、骨になってもついてゆくと云った。
伊兵衛の遍歴は、四年続いた。そして去年、この駿州《すんしゅう》田中まで来て病気に罹《かか》り、困窮しているところを城番本多家の老職、介川外記《すけがわげき》に救われた。それが縁で外記に懇望され、家中の士に教授するため、道場を持ったのである。……外記はいずれ主家へ正式に師範として推挙すると約束してくれたが、老僕弥助は不平であった。
――紀伊へ帰れば、郡奉行の御子息だ。困窮を救ってもらった礼は、帰国してからでも充分にできる。
なんのために、四万石の城番などへ仕官するのか。口には出さないが、彼はそう思っている。……伊兵衛は、それをよく知っていた。
「妙な噂《うわさ》があるのを、御存じでござりますか」
忘れた時分に、弥助がぽつんと云った。
「……どんな噂だ」
「若旦那さまと、介川さまのお嬢さまとのあいだに、許嫁《いいなずけ》の約束ができたとか」
伊兵衛は、黙っていた。かなりながいこと黙っていたが、やがて空を振仰ぐと、
「ああ、すばらしい星だな」
まるで、つかぬことを呟《つぶや》いた。
そのとき、三十間ほどの上手《かみて》で、なにか川の中へ落ちたらしいかなり大きな水音がした。周囲は見渡すかぎりの水田で、べた一面にけろけろとやかましく蛙《かえる》が鳴いていたが、それでもその水音は、二人をぎょっとさせたほど高く聞えた。
――なんだろう。
一緒に振返って耳を澄ますと「がぶっ」という、人の喉《のど》で水の鳴る音が聞えた。
「人です、人が落ちたので……」
弥助が反射的に云った。伊兵衛は、とっさに帯を解きながら、
「灯を見せろ」
と立上った。
弥助が提燈を取って、川の上へぐっと差伸ばした。伊兵衛は、くるっと裸になり、両耳へ唾《つば》を塗りながら、水面を睨《にら》んだ。……すると間もなく、黒い波のなかを、魚が跳ねるように、ぱしっと水を打ちながら、流れてきたものがある、一瞬にして沈んだが、
「あ、あそこに……」
と弥助が指差すより早く、伊兵衛の躰《からだ》は、飛沫《ひまつ》をあげながら、水の中へ跳込んでいた。
伊兵衛は、ぽかっと頭を出した。弥助は提燈を差伸ばしながら、流れについて下った。いちど水面に頭を出した伊兵衛は、すぐまた鳰《かいつぶり》のように潜った。……堤の上をさがってゆく弥助の足が震えた。
「若旦那さま、もうお止《や》めなされまし」
たまりかねて叫んだとき、思ったよりは下の方で水音がし、ひゅうと息を吐くのが、水面を伝って聞えた。
「若旦那さま!」
「こっちだ。……手を貸せ」
弥助がはせつけると、伊兵衛が誰かを抱いて、汀《みぎわ》へあがってくるところだった。弥助はがくがくと戦《おのの》く足を踏みしめながら、その方へ下りていった。
伊兵衛が救いあげたのは、若い女であった。
弥助がそっと、部屋へ入ってきた。伊兵衛は、寝衣《ねまき》になって、のべてある床の上にぽつねんと坐《すわ》っていた。
「……落着いた様子か」
「もう大丈夫のようでござります」
「どこの者だ」
「それが分りませんので」
弥助は坐りながら「なにを訊《たず》ねても物を申しません。まるで蓋《ふた》をした栄螺《さざえ》でござります。よほどこみいった事情があるのでございましょうが、……それよりも若旦那さま、あの娘は身重でござりますぞ」
「やはり、そうか」
「それも爺の眼に狂いがなければ、もう産み月だと思われまする。どうもこれは、厄介なことになるのではござりますまいか」
「まあ明日のことにして、寝よう」
伊兵衛は、横になりながら、
「……爺は隣の部屋に寝て、注意していてくれ。思い詰めている様子だから、また過《あやまち》でもあってはならぬ」
「とんだ夜釣りでござりました」
弥助は、苦笑しながら去っていった、……そして向うでそっと襖《ふすま》を明ける音がしたと思うとたん、だだと烈《はげ》しい物音が起り、
「あ、危い、なにをする、危い!」
と動顛《どうてん》した弥助の声を縫って、
「お放しください、放して」
女のつきつめた叫び声が聞えた。
伊兵衛は、すぐに走っていった。隣の部屋から射《さ》しこむ行燈《あんどん》の光の下に、脇差《わきざし》を持った女の腕を、弥助が懸命に押えているところだった。……伊兵衛は弥助を押し退け、脇差を奪って女を突放した。女は畳の上へ俯伏《うつぶ》せに倒れて、わっと泣きだした。
「馬鹿《ばか》なことをする」
弥助を去らせて、女の側へ坐りながら、伊兵衛は静かな口調で云った。
「ここで間違いを起したら、拙者に迷惑がかかるくらいのことは、分る筈ではないか。あまり勝手なことをされては困る。……いったい、どうしてこんな不所存なことをしたのだ」
「……申訳ございません」
「身一つならまた別だが、おなかにあるものまで殺すとは、無慈悲な仕方だ。どうしてこんなことをするのか、訳を話してごらんなさい。……家はどこです、どんな仔細《しさい》があるのだ」
女は答えなかった。痛々しく、背が波打っている。噎《むせ》びあげる声は、まるで命を搾《しぼ》るもののように悲痛だった。
「縁あってこうして助けたからには、できることなら、拙者が力になろう。この世でできたことならこの世で解決がつく筈だ、どんな仔細か話してごらんなさい」
「……どうぞ、なにも、お訊ねくださいますな、わたくしが……」
女は涙に噎びながら云った「……わたくしが愚かだったのです。訳はただそれだけでございます。自分の過を、自分で始末したいと、存じたのでございます」
「死ぬことで始末がつきますか」
「…………」
「自分が死ぬのはともかく、おなかの子を殺す権利は貴女《あなた》にはあるまい。子供は神のもの、国のものだ、貴女にはその子を生み、育てる義務はあっても、殺す権利はない」
「でも、……この子は、……生まれない方が、仕合せでございますもの」
女はそう云って、再び泣いた。
子を殺すことも、また母親の大きな愛情の一つである。それが正当であるかどうかは別として、子供の仕合せを願う母の愛は、その仕合せが絶望だとみれば、愛情のゆえに子を殺すことができる。……この女は、いま自分のことよりも、生れてくる子の不仕合せを思って、死のうと決心したのだ。伊兵衛には、その気持がよく感じられた。
「死んではいけない」
彼は静かに云った「……どんな過でも、この世で取り返しのつかぬことはない。人間はみな弱点を持っている。誰にも過失はある、幾度も過を犯し、幾十度も愚かな失敗をして、そのたびに少しずつ、本当に生きることを知るのだ。……それが人間の、持って生れた運命なのだ」
「…………」
「もう仔細も訊《き》かないし、できるだけの世話はして差上げる。だから決して馬鹿なことをしてはいけない、……分りましたか」
「……はい」
女は、消え入るような声で云った。しかし……すぐその後で、俯伏したまま急に身を捻《ひね》ったかと思うと、噎びあげる声の下から苦しげに呻《うめ》きだした。
――いけない。
しばらく見ていた伊兵衛は、その呻き声の原因に思当って慌《あわ》てた。そしてすぐに立っていって、弥助を呼んだ。
「……どうなされました」
「なんだか苦しそうだ、産れるのではないかと思う、医者を呼んできてくれ」
「取揚げ婆《ばばあ》でござりましょう」
弥助は提燈を取りながら「……よろしゅうござります。そうすぐ産れもいたしますまいが、とにかく呼んでまいります」
「急いでくれ、もしもの事があると困る」
「全く、……大変な夜釣りでございましたな」
弥助は、裏口から出ていった。
[#5字下げ]二[#「二」は中見出し]
「中根さま、……中根さま」
木戸を明けて、そう呼びながら、武家風の娘が一人庭へ入ってきた。
初夏のよく晴れた朝の光に、庭の青葉が染めたような濃緑の影を落している。娘は背丈のすらりと高い、研いだような肌の、眼の覚めるような美貌《びぼう》をもっていた。どこやら陶物《すえもの》のような冷たさはあるにしても、その美しさは、人の眼を瞠《みは》らすに充分である、……本多家の老職、介川外記の娘なぎさ[#「なぎさ」に傍点]であった。
「中根さま……」
縁先まで近寄ったとき、庭の横手から、伊兵衛が顔を拭きながら現われた。
「やあこれは、……失礼いたしました」
「お早うございます」
「いま顔を洗っていたところです」
「昨夜のお夜釣りは如何《いかが》でございました。沢山お釣りあそばしまして」
「なに一尾も釣らずじまいでした」
「まあ、それではさぞ父が残念がりましょう。今度は鮎《あゆ》が釣れるだろうと申して、楽しみにしておりましたわ」
「どうも魚がだんだん利巧になりましてね」
伊兵衛は笑いながら、ちらと奥の方へ眼をやった。上れと云《い》うかと思ったが云わず、いつもと違って妙に取付き悪い気配が見える。……なぎさ[#「なぎさ」に傍点]は抱えていた包を差出しながら、
「手作りで美味《おいし》くはございませんけれど、お口汚しに、笹餅《ささもち》を少し持ってまいりました。ほんのお口汚しでございますの」
「それはどうも、いつも頂くばかりで……」
伊兵衛は受取った包を持って、座敷へ上っていったが、間もなく袱紗《ふくさ》だけ畳んで戻ってきた。……そしてやはり上れとは云わずに、
「結構なものを有難うございました。いずれお重はお返しに参上いたします。……お独りでいらしったのですか」
「あまり綺麗《きれい》な朝だったものですから……」
「そうですね、実に、……よく晴れました」
なぎさ[#「なぎさ」に傍点]は、ちらと男の眼を見た。
伊兵衛はふと思いついたように、庭隅の方へ行って、苧環《おだまき》の花を三四本折ってきた。鮮かな紫色の花が、眼にしみるようだった。
「途中のお慰みです」
そう云って差出すのを、なぎさ[#「なぎさ」に傍点]は帰れという意味だと悟りながら受取った。……微《かす》かではあるが、彼女の眉《まゆ》にちらと怒りの影がさした。
伊兵衛は、取って付けたような挨拶《あいさつ》をしながら、なぎさ[#「なぎさ」に傍点]を木戸の外まで見送って、戻るとすぐ、奥の部屋へ入っていった。……そこでは弥助が、女に粥《かゆ》を喰べさせているところだった。女の側には、赭《あか》い顔をした小さな嬰児《えいじ》がちんまりと眠っていた。
「やあ、よく眠っているな」
伊兵衛は中腰になって覗《のぞ》きながら、
「……柔かそうな髪毛だ、艶々《つやつや》と黒くて、いまに美しく髪が結えるぞ。……もう乳はやったのですか」
「いいえ、産れてから十二|刻《とき》は乳をやらぬものだそうですから」
「それでは、おなかが空くだろうに」
云いながら、伊兵衛が、つと手を伸ばすと、
「若旦那さま、いけませんぞ」
と弥助が急いで制した「……まだ搗《つ》きたての餅《もち》のようなものでござります。むやみに触って、怪我《けが》でもさせてはなりません」
「なに、触りはしないよ。顎《あご》へ夜具がかかっているから……」
そっと夜具を押える振りをして、伊兵衛は嬰児の顎をちょっと摘《つま》んだ。ちまちまとして、そのくせもういっぱし形のととのった可愛《かわい》い顎であった。
喰べ終った物を片付けて、弥助が去ると、伊兵衛はそこへ坐りながら、
「こうして赤子の顔を見たら、もう心も落着いたであろう。それでとにかく、知らせるところがあったら、一応は知らせておく方がいいと思うが」
「……はい」
「親御たちも案じていよう、子の父にも黙っている訳にはいくまい」
女は黙っていた。黙って眼を閉じていたが、やがて呟くような声で云った。
「……勝手なことを、申上げてもよろしゅうございましょうか」
「なんでも遠慮なく」
「……わたくしが、死のうと決心いたしましたのは、この子を誰にも知られたくなかったからでございますの、……この子は、わたくし独りの子でございます。……どこへも知らせてやる処《ところ》はございません。誰にも知られたくはございませんの」
「父になる人を庇《かば》っているのですね。これが表沙汰《おもてざた》になっては、当人のために不都合だというのですね」
「わたくし、……強くなりますわ」
女はしばらく黙っていた後、低くはあるが、力の籠《こも》った調子で云った。
「……人間は過を繰返しながら、そのたびにだんだんと、本当に生きる道を悟ってゆく、……昨夜のお言葉が、なによりの力になりました。もう弱い心は起しませんわ。わたくし、自分の過の取返しをいたします。この子を立派に育ててまいります。……もし肥立ちますまで、誰にも知られずこのお部屋に置いて頂けましたら、それですぐお暇《いとま》をいたします」
恋の過失か、結婚の失敗か。
恐らく秘めた恋の過失であろう。子ができて、男の心が去って、死を求めた。世間には多過ぎるほど有触れた例だ、……けれど彼女はいま絶望から立戻って強く生きようとしている。過の責任を自分独りで負い、自分の力で過失の罪を取返そうとしている。子を持ったことがその力と勇気とを与えたのだ。伊兵衛は女の眼の光を美しいと思った。
「これからどうなされます」
居間へ戻ると、弥助が待兼ねたように云った。
「……今日は稽古《けいこ》休みゆえよろしゅうござりますが、明日から門人衆がみえるのに、この狭い家のなかで、もし赤子の泣き声でも聞えましたら」
「いや、稽古は当分休むよ」
「そんな御勝手はいけません」
「どうして、別に本多家から扶持《ふち》を貰《もら》っているわけではなし、介川どのにそう申せば、半月や一月休んでも差支えはないさ」
「それはまあ、そうかも知れませんが」
老僕は、不承知の様子だった「しかし、御門人がみえませんでも、世間の耳は早うござりますからな。知れぬうちに、よそへ移す方がよろしいかと存じます」
「いずれにしても肥立つまでは面倒をみてやる。……この家を頼りにしているのだから、そんな無情なことを申してはならん」
弥助はひょいと、肩をすくめた。そして白髪頭を振りながら、独り言のように呟《つぶや》いた。
「爺は、紀州に帰りとうござりますわい」
伊兵衛は、聞えぬ振りをしていた。
午《ひる》の食事をしてから、伊兵衛は本町の介川家を訪れた。……外記は長男の伊織《いおり》と、碁を打っているところだった。伊織は二十五歳になる中小姓で、やはり伊兵衛のもとへ稽古に通ってくるが、妹のなぎさ[#「なぎさ」に傍点]に似て、色白の、どこか女性的な感じのする美男であった。
「いま父を追詰めているところです」
伊織は、媚《こ》びるような眼で笑いながら「……十局勝負で、全勝したら京見物にやってもらえる約束なんですが、どうやら物にしましたよ」
「なに、こっちはこれから勝つのだ」
外記は、子に甘い親の独特な調子で、
「京見物は、まだ二三年先だと覚悟するがよい。ひとつ中根氏の検分で、真の腕を見せてくれようか」
「父上の真の腕も久しいものだ。こうまいりましょう」
伊兵衛は半刻ほど見ていたが、やがてしばらく稽古を休むからと云い残して辞去した。……なぎさ[#「なぎさ」に傍点]はついに顔を見せなかった。
――怒っているのだな。
伊兵衛は、ちょっと淋《さび》しかった。
一月ほどまえに、外記がなぎさ[#「なぎさ」に傍点]との縁談を持出したとき、伊兵衛は貰ってもいいと思った。外記には、困窮を救われた恩があるし、なぎさ[#「なぎさ」に傍点]は美しく、気質も凜《りん》として怜悧《れいり》である。家柄もお互いに程々のところで、まず似合いの縁組と云うべきだ。正式なはなしは仕官が実現してからという外記の希望で、伊兵衛はまだ弥助にも話してなかったが、それ以来は、なぎさ[#「なぎさ」に傍点]を見ることが、ひそかな温かい感動のひとつになっていたのである。
――しかし、話せば分ることだ。
眉のあたりに怒りを見せていた、朝の別れの表情を思い浮かべながら、伊兵衛はまっすぐに家へ帰った。
順調に日がたった。
七夜には、伊兵衛が名付け親になって「みどり」と名をつけ、赤飯を祝った。女は肥立ちもよく、乳も多かった。……ぐんぐん健康を取戻して、一日毎に肌も冴《さ》え、血色が甦《よみがえ》ってきた。名は小夜《さよ》、年は二十というだけで、氏も素性も知れなかったし、縹緻《きりょう》もとびぬけて美しい方ではないが、愛情に濡《ぬ》れたような眼許《めもと》や、薄墨で刷《は》いたような生毛《うぶげ》の眉、ものを云うとき、ちょっと左へ歪《ゆが》める癖のある唇つきなど、いかにも心の温かさを思わせる、上品なおっとりとした魅力をもっていた。
――誰か知らぬが、馬鹿な奴だ。
伊兵衛は、つくづくと小夜を見ながら思った。……これだけの姿と、これだけの心を、いちどは子を生《な》すまでに愛しながら捨去るとは。
「わたくし、こんな恰好《かっこう》で」
ともすると自分を瞶《みつ》めている伊兵衛の眼に気付いて、小夜は羞《はずか》しそうに頬を染めた。
「さぞお眼障《めざわ》りでございましょう」
「いやそんなことはない、顔色もすっかり良くなったし、あの時にくらべると見違えるほど美しくなった」
「そうありたいと存じますわ」
小夜は嬉《うれ》しさを、正直に見せて云った「……これまではわたくし、自分を不縹緻《ぶきりょう》だと思っておりました。他人より劣っていると思いました。けれど、これからは美しくなろうと存じますの。誰よりも利巧に、強く、正しくなろうと存じますの、……この子のために」
振返って嬰児の顔を見た眼は、もはやどんなものにも犯されない美しさと力とに輝いていた。伊兵衛は感動しながら、それを見まもっていた。
[#5字下げ]三[#「三」は中見出し]
二十日ほどたったある日。
伊兵衛は、外記に呼ばれて、介川家を訪ねた。そして客間に、外記と相対したとき、ただちに呼ばれた用件が、なんであるか分った。……外記は不機嫌な表情で、伊兵衛から眼を外らしながら、単刀直入に切出した。
「簡単に申上げるが、かねてお約束してあった主家へ御推挙のことは、一時|諦《あきら》めて頂くことにしたから、御承知を願いたい」
「……なにか、不都合でもございましたか」
「理由は、申さぬ方がよいであろう。ついてはなぎさ[#「なぎさ」に傍点]とのあいだにも、なにやら口約束がしてあったようだが、これも破約にしたいと思うから、そのつもりで」
「お言葉はよく分りました」
伊兵衛は静かに「……お耳に入ったことがなんであるか、拙者にも大体は察しがつきます。もしお許し願えるなら、仔細《しさい》申開きをしたいと存じますが」
「もうその必要はあるまい」
外記は冷やかに云った「……小夜は当家の小間使いであった。貴公が見えてから間もなく暇を取ったが、城下外の大須村に、身重で囲われていたことも、二十日まえに子を産んだことも、こちらにはすっかり分っておる」
「小夜が御当家に……」
伊兵衛は、愕然《がくぜん》とした。
小夜が、この家の召使いだったという。それでは、……なにを訊《き》いても頑として答えなかったのは、自分がこの家へ出入りしていたのを見知っていたためではあるまいか。自分がこの家の知己であるために、話すことのできぬ立場になったのではあるまいか。……伊兵衛の頭には、光のように閃《ひら》めくものがあった。
「仰《おお》せの趣、よく分りました」
伊兵衛は、しかし温和《おとな》しく頭を下げた、
「……いずれ申上げることもございますが、今宵はこれで失礼|仕《つかまつ》ります」
「もう会う要はないと思う、訪ねてもらわぬ方がよいな」
「いずれにしましても、改めて……」
逆わずに、伊兵衛は立った。
門を出て、塀沿いに十間ほど歩くと、待っていたなぎさ[#「なぎさ」に傍点]がすっと前へ出てきた。……宵月の光を浴びた顔は、怒りと疑いをつきまぜて、日頃の美しさに凄艶《せいえん》を加えていた。
「中根さま、御弁明を伺いたいと存じます」
「貴女《あなた》も御存じなのですか」
伊兵衛は会釈《えしゃく》をしながら笑った「……御存じなら仕方がないが、まるで誤解ですよ。お父上も貴女も誤解しておいでです」
「では小夜の産んだ子はどなたの子です。どうして貴方《あなた》が世話をしていらっしゃるのです」
「その事情は一口には申せません。実を云うと拙者はまだなにも知らないのです。あの女は不仕合せで、死のうとさえしました。貴女にもお分りであろう、女というものは与えられる愛情によって仕合せにも不幸にもなるものだ、誤った愛情がどれほど残酷に女を罰するか、あの女はそれを命がけで味わったのです。もし拙者が救わなかったら、あの女はとうに死んでいたことでしょう」
「小夜が仕合せか不幸か、わたくしの知ったことではございません。……わたくしは、貴方のはっきりした御弁明が伺いたいのです。小夜と貴方とが、なんの関《かかわ》りもないということは信じましょう、では……産れた子の父親は誰です。事情もよくお分りにならないのに、どうして今日まで世間に内密で、お世話をなすっていたんです」
伊兵衛は、ほとんど感歎《かんたん》しながら、なぎさ[#「なぎさ」に傍点]の舌鋒《ぜっぽう》を聞いていた。みんなもっともな言葉である。正に条理の通った無駄のない詰問《きつもん》だ、……しかし、なんと冷たい言葉であろう。なんと鮮かに割り切った感情であろう。伊兵衛は聞いている僅《わず》かなあいだに、さばさばと彼女から切抜けることができた。
「弁明はしないことにしましょう」
彼は微笑さえしながら云《い》った「……したところで分っては頂けまいから。しかし一言だけ申上げておきます。小夜が囲われていたという大須村を、もっとよくお調べになると、まだまだ意外なものがみつかるかも知れませんよ」
「それはどういう意味ですの」
「貴女の解釈に任せます、失礼」
伊兵衛は、月に反《そむ》いて歩きだした。
武家町を出端《ではな》れたところまできたとき、伊兵衛はふっと背後にものの気配を感じた、それは極めて微《かす》かな予感に似たもので、危険に対する敏感性を練磨している者だけが感じられる、漠然とした感覚に過ぎない、……伊兵衛は即座に、なにが来ようとしているかを判断することができた。それでわざと歩調を緩め、右手へ廻った月を眺めながら、歩いていった。
東海道の藤枝宿へ通じる道が、月を浴びて白々と延びていた。町家をぬけると左が田、右手が諏訪《すわ》の森になっている。背後から追ってきた影は、そこで急速に間を縮めた。
襲いかかった相手は、三人だった。
無言のまま斬《き》りつけ、無言のまま受けた。烈《はげ》しい掛け声と地を蹴《け》る音と、四本の白刃の光が、凄《すさま》じく月光の下に跳《おど》った。……しかしほとんど十秒とたたぬ間に、二人を峰打ちに打伏せ、伊兵衛は若い一人を森の中へと追詰めていた。
「やはり貴様だったか」
伊兵衛は冷笑しながら云った「……黙っていれば分らずに済んだかも知れないのに、自分の罪を他人になすろうとして、かえって馬脚を露《あら》わした。あれが貴様の家の召使いだということは、拙者は知らなかったのだぞ。小夜も決して洩《も》らしはしなかったのだ、伊織の馬鹿《ばか》め!」
相手は、肩で息をしていた。青眼《せいがん》につけている剣の半ばから先が、月光を映しながら、ぶるぶる震えていた。
「小夜は、貴様を愛したことを恥じている。子供も自分独りの子だと云っている。貴様が黙っている限り、小夜は死んでも、貴様のことなどは口にしなかったろう。だが……貴様は卑劣な奴《やつ》だ、小夜を捨て、その罪を他人にきせようとし、大須村を調べろと云うのを聞いて、拙者が事実を知っているものと思い、助太刀を頼んで斬ろうとまでした。……人間の風上にも置けぬ奴だ。武士なら斬ってこい、……さあ斬ってくるんだ」
相手は、自ら死地に突込むように、躰《からだ》ごと叩《たた》きつけてきた。そして伊兵衛に外ずされると烈しくのめって、木根に躓《つまず》きながら二三間先へ転倒した。……それでもう起上ることもできず、顔を地に伏せたまま喘《あえ》いでいた。
「よく聞いて置け、伊織」
伊兵衛は、側へ寄って云った「……本来なら斬るところだが、命は助けてやる。それから小夜のことも、他言はせぬ。外記どのには恩になっているし、あの人は善人だ、外記どのに歎《なげ》きをみせたくないから黙っていてやる、……少しでも恥を知ったら、人間らしい生き方をしろ、しかし断って置くが、小夜はもう戻らんぞ」
伊兵衛は、静かに刀を納めた。
家へ帰った彼は、出迎えた弥助を見るといきなり、……紀州へ帰るぞと云った。老僕は眼を剥《む》きながら、唖然《あぜん》としていた。
「本当だよ、これから出立だ」
「なにを、……なにを仰有《おっしゃ》るやら」
「ながいこと、紀州紀州と歌に唄《うた》っていたな、今度こそ、本当に帰るんだ。しかも妻と子を伴《つ》れての帰国だぞ、爺《じい》!」
「若|旦那《だんな》さま!」
「大きな声をするな、これはまだ内証だ」
伊兵衛は笑って云った「……とにかく、少し仔細があって、今宵のうちに、躰《からだ》だけでも田中を立退かなければならん、行って駕《かご》を呼んできてくれ」
「いまのいまのお話は」
弥助は吃《ども》り吃り云った「まさか、小夜どののことではござりますまいな」
「そうだったら不服か」
弥助は、白髪頭を振って、ひょいと肩をすくめた、そしてどうにも仕様がないと云うように、ぶつぶつと口のなかで呟《つぶや》いた。
「全く、……とんだ夜釣りでござりました」
そして、町の方へ出ていった。
伊兵衛は、小夜の部屋へ入った。……小夜は、いまの言葉を聞いたものとみえ、夜具の中から濡れたような眼をいっぱいに瞠《みひら》いたまま、入ってくる伊兵衛の顔を見まもった。
「少し無理かも知れないが、起きて支度をしてもらわなければならない。そしてもしそうする気があるのなら、この子と一緒に紀州へ行ってもらいたいのだ」
「わたくし……」
「なにも云わなくていい。子は神が授けたものだ。御国の宝とさえ云う、どんな子も、仕合せに育つ権利を持っている、本当に子を仕合せに育てる者が、子の親だ、……伊兵衛は、みどり[#「みどり」に傍点]の父親になる」
吸着くように、伊兵衛を見上げていた小夜の眼から、湯のような熱い泪《なみだ》が溢《あふ》れ落ちた。
「いいか」
伊兵衛は、力を籠《こ》めて云った「……小夜は今までに誰も愛したことはないのだ。空に描いた自分の愛情を愛しただけだ。なにもかも新しく、なにもかもこれから始まるのだ。……一緒に紀州へ行こう、厭《いや》か?」
小夜の喉《のど》を、嗚咽《おえつ》がつきあげた。伊兵衛は、そっと小夜の手を握った、……柔かな、温かい手であった。そして、握られた手の中で、少しずつ指に力を入れながら、小夜は泊に噎《むせ》ぶ声で云った。
「わたくし、……美しくなりますわ……」
「そうだ、美しくなるんだ。今でも美しいが、もっと美しく、もっと強く、……二人で新しく始めよう」
小夜は笑おうとした、それでかえってわっと泣きだしてしまった。……伊兵衛は、高邁《こうまい》な音楽でも聴くときのような歓《よろこ》びに充《み》ちた気持で、その泣き声を聞いていた。
[#地から2字上げ](『島原伝来記』昭和十七年刊収録)
底本:「艶書」新潮文庫、新潮社
1983(昭和58)年10月15日 発行
2009(平成21)年10月15日 二十八刷発行
底本の親本:「島原伝来記」
1942(昭和17)年刊収録
初出:「島原伝来記」
1942(昭和17)年刊収録
※表題は底本では、「五月雨《さみだれ》日記」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)爺《じい》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)若|旦那《だんな》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#5字下げ]
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[#5字下げ]一[#「一」は中見出し]
「爺《じい》……なにを考えている」
「別になにも、考えてはおりませぬ」
「紀州へ帰りたいのだろう」
伊兵衛《いへえ》は、餌《えさ》を替えた鉤《はり》を遠く投げ、竿《さお》を足許《あしもと》の土堤《どて》へ突き刺しながら云《い》った。
大井川から分流して、静浜の海へ注ぐ大須《おおす》川は、五月雨あけで水嵩《みずかさ》が増し、ふだんは裸になっている磧《かわら》をすっかり浸して、堤の根までひたひたと漣《さざなみ》を寄せていた。月に二度だけの好きな夜釣りに、いつもなら、主人より自分の方で夢中になる筈《はず》の弥助《やすけ》が、なんとなくとぼんとして、気の浮かぬ様子だった。
「さようでござります」
弥助はややしばらくして云った「……お国表のことを考えますると、矢も楯も堪《たま》らず帰りたくなりまする。もう五年になりまするで」
「だから爺は帰るがいいのだ」
「若|旦那《だんな》さま」
弥助は、非難するように主人を見た、伊兵衛は、その端正な横顔を提燈《ちょうちん》の光に染めさせたまま、黙って自分の竿さきを見まもっていた。
伊兵衛には、老僕の気持が、よく分っていた。
弥助は、伊兵衛を幼少の頃から、自分の手で育てたようなものである。伊兵衛は、紀伊徳川家の郡奉行《こおりぶぎょう》、中根吉郎兵衛《なかねきちろうべえ》の長男に生れたが、剣法の才分に恵まれて、十九歳の時すでに、紀伊藩中五剣の一に数えられたくらいであった。
早くから彼は、生涯を剣の求道に捧《ささ》げようと決心していたが、父は自分の跡目を継がせるために、どうしても許さなかった。それでついに彼は家を出奔し、修行の旅に出たのである、……弥助は一緒についてきた。いかに諭《さと》しても帰らなかった。伊兵衛を背に負って守をする時代から、ほとんど側を離れたことのない老僕は、若主人の落着く先を見届けぬかぎり、骨になってもついてゆくと云った。
伊兵衛の遍歴は、四年続いた。そして去年、この駿州《すんしゅう》田中まで来て病気に罹《かか》り、困窮しているところを城番本多家の老職、介川外記《すけがわげき》に救われた。それが縁で外記に懇望され、家中の士に教授するため、道場を持ったのである。……外記はいずれ主家へ正式に師範として推挙すると約束してくれたが、老僕弥助は不平であった。
――紀伊へ帰れば、郡奉行の御子息だ。困窮を救ってもらった礼は、帰国してからでも充分にできる。
なんのために、四万石の城番などへ仕官するのか。口には出さないが、彼はそう思っている。……伊兵衛は、それをよく知っていた。
「妙な噂《うわさ》があるのを、御存じでござりますか」
忘れた時分に、弥助がぽつんと云った。
「……どんな噂だ」
「若旦那さまと、介川さまのお嬢さまとのあいだに、許嫁《いいなずけ》の約束ができたとか」
伊兵衛は、黙っていた。かなりながいこと黙っていたが、やがて空を振仰ぐと、
「ああ、すばらしい星だな」
まるで、つかぬことを呟《つぶや》いた。
そのとき、三十間ほどの上手《かみて》で、なにか川の中へ落ちたらしいかなり大きな水音がした。周囲は見渡すかぎりの水田で、べた一面にけろけろとやかましく蛙《かえる》が鳴いていたが、それでもその水音は、二人をぎょっとさせたほど高く聞えた。
――なんだろう。
一緒に振返って耳を澄ますと「がぶっ」という、人の喉《のど》で水の鳴る音が聞えた。
「人です、人が落ちたので……」
弥助が反射的に云った。伊兵衛は、とっさに帯を解きながら、
「灯を見せろ」
と立上った。
弥助が提燈を取って、川の上へぐっと差伸ばした。伊兵衛は、くるっと裸になり、両耳へ唾《つば》を塗りながら、水面を睨《にら》んだ。……すると間もなく、黒い波のなかを、魚が跳ねるように、ぱしっと水を打ちながら、流れてきたものがある、一瞬にして沈んだが、
「あ、あそこに……」
と弥助が指差すより早く、伊兵衛の躰《からだ》は、飛沫《ひまつ》をあげながら、水の中へ跳込んでいた。
伊兵衛は、ぽかっと頭を出した。弥助は提燈を差伸ばしながら、流れについて下った。いちど水面に頭を出した伊兵衛は、すぐまた鳰《かいつぶり》のように潜った。……堤の上をさがってゆく弥助の足が震えた。
「若旦那さま、もうお止《や》めなされまし」
たまりかねて叫んだとき、思ったよりは下の方で水音がし、ひゅうと息を吐くのが、水面を伝って聞えた。
「若旦那さま!」
「こっちだ。……手を貸せ」
弥助がはせつけると、伊兵衛が誰かを抱いて、汀《みぎわ》へあがってくるところだった。弥助はがくがくと戦《おのの》く足を踏みしめながら、その方へ下りていった。
伊兵衛が救いあげたのは、若い女であった。
弥助がそっと、部屋へ入ってきた。伊兵衛は、寝衣《ねまき》になって、のべてある床の上にぽつねんと坐《すわ》っていた。
「……落着いた様子か」
「もう大丈夫のようでござります」
「どこの者だ」
「それが分りませんので」
弥助は坐りながら「なにを訊《たず》ねても物を申しません。まるで蓋《ふた》をした栄螺《さざえ》でござります。よほどこみいった事情があるのでございましょうが、……それよりも若旦那さま、あの娘は身重でござりますぞ」
「やはり、そうか」
「それも爺の眼に狂いがなければ、もう産み月だと思われまする。どうもこれは、厄介なことになるのではござりますまいか」
「まあ明日のことにして、寝よう」
伊兵衛は、横になりながら、
「……爺は隣の部屋に寝て、注意していてくれ。思い詰めている様子だから、また過《あやまち》でもあってはならぬ」
「とんだ夜釣りでござりました」
弥助は、苦笑しながら去っていった、……そして向うでそっと襖《ふすま》を明ける音がしたと思うとたん、だだと烈《はげ》しい物音が起り、
「あ、危い、なにをする、危い!」
と動顛《どうてん》した弥助の声を縫って、
「お放しください、放して」
女のつきつめた叫び声が聞えた。
伊兵衛は、すぐに走っていった。隣の部屋から射《さ》しこむ行燈《あんどん》の光の下に、脇差《わきざし》を持った女の腕を、弥助が懸命に押えているところだった。……伊兵衛は弥助を押し退け、脇差を奪って女を突放した。女は畳の上へ俯伏《うつぶ》せに倒れて、わっと泣きだした。
「馬鹿《ばか》なことをする」
弥助を去らせて、女の側へ坐りながら、伊兵衛は静かな口調で云った。
「ここで間違いを起したら、拙者に迷惑がかかるくらいのことは、分る筈ではないか。あまり勝手なことをされては困る。……いったい、どうしてこんな不所存なことをしたのだ」
「……申訳ございません」
「身一つならまた別だが、おなかにあるものまで殺すとは、無慈悲な仕方だ。どうしてこんなことをするのか、訳を話してごらんなさい。……家はどこです、どんな仔細《しさい》があるのだ」
女は答えなかった。痛々しく、背が波打っている。噎《むせ》びあげる声は、まるで命を搾《しぼ》るもののように悲痛だった。
「縁あってこうして助けたからには、できることなら、拙者が力になろう。この世でできたことならこの世で解決がつく筈だ、どんな仔細か話してごらんなさい」
「……どうぞ、なにも、お訊ねくださいますな、わたくしが……」
女は涙に噎びながら云った「……わたくしが愚かだったのです。訳はただそれだけでございます。自分の過を、自分で始末したいと、存じたのでございます」
「死ぬことで始末がつきますか」
「…………」
「自分が死ぬのはともかく、おなかの子を殺す権利は貴女《あなた》にはあるまい。子供は神のもの、国のものだ、貴女にはその子を生み、育てる義務はあっても、殺す権利はない」
「でも、……この子は、……生まれない方が、仕合せでございますもの」
女はそう云って、再び泣いた。
子を殺すことも、また母親の大きな愛情の一つである。それが正当であるかどうかは別として、子供の仕合せを願う母の愛は、その仕合せが絶望だとみれば、愛情のゆえに子を殺すことができる。……この女は、いま自分のことよりも、生れてくる子の不仕合せを思って、死のうと決心したのだ。伊兵衛には、その気持がよく感じられた。
「死んではいけない」
彼は静かに云った「……どんな過でも、この世で取り返しのつかぬことはない。人間はみな弱点を持っている。誰にも過失はある、幾度も過を犯し、幾十度も愚かな失敗をして、そのたびに少しずつ、本当に生きることを知るのだ。……それが人間の、持って生れた運命なのだ」
「…………」
「もう仔細も訊《き》かないし、できるだけの世話はして差上げる。だから決して馬鹿なことをしてはいけない、……分りましたか」
「……はい」
女は、消え入るような声で云った。しかし……すぐその後で、俯伏したまま急に身を捻《ひね》ったかと思うと、噎びあげる声の下から苦しげに呻《うめ》きだした。
――いけない。
しばらく見ていた伊兵衛は、その呻き声の原因に思当って慌《あわ》てた。そしてすぐに立っていって、弥助を呼んだ。
「……どうなされました」
「なんだか苦しそうだ、産れるのではないかと思う、医者を呼んできてくれ」
「取揚げ婆《ばばあ》でござりましょう」
弥助は提燈を取りながら「……よろしゅうござります。そうすぐ産れもいたしますまいが、とにかく呼んでまいります」
「急いでくれ、もしもの事があると困る」
「全く、……大変な夜釣りでございましたな」
弥助は、裏口から出ていった。
[#5字下げ]二[#「二」は中見出し]
「中根さま、……中根さま」
木戸を明けて、そう呼びながら、武家風の娘が一人庭へ入ってきた。
初夏のよく晴れた朝の光に、庭の青葉が染めたような濃緑の影を落している。娘は背丈のすらりと高い、研いだような肌の、眼の覚めるような美貌《びぼう》をもっていた。どこやら陶物《すえもの》のような冷たさはあるにしても、その美しさは、人の眼を瞠《みは》らすに充分である、……本多家の老職、介川外記の娘なぎさ[#「なぎさ」に傍点]であった。
「中根さま……」
縁先まで近寄ったとき、庭の横手から、伊兵衛が顔を拭きながら現われた。
「やあこれは、……失礼いたしました」
「お早うございます」
「いま顔を洗っていたところです」
「昨夜のお夜釣りは如何《いかが》でございました。沢山お釣りあそばしまして」
「なに一尾も釣らずじまいでした」
「まあ、それではさぞ父が残念がりましょう。今度は鮎《あゆ》が釣れるだろうと申して、楽しみにしておりましたわ」
「どうも魚がだんだん利巧になりましてね」
伊兵衛は笑いながら、ちらと奥の方へ眼をやった。上れと云《い》うかと思ったが云わず、いつもと違って妙に取付き悪い気配が見える。……なぎさ[#「なぎさ」に傍点]は抱えていた包を差出しながら、
「手作りで美味《おいし》くはございませんけれど、お口汚しに、笹餅《ささもち》を少し持ってまいりました。ほんのお口汚しでございますの」
「それはどうも、いつも頂くばかりで……」
伊兵衛は受取った包を持って、座敷へ上っていったが、間もなく袱紗《ふくさ》だけ畳んで戻ってきた。……そしてやはり上れとは云わずに、
「結構なものを有難うございました。いずれお重はお返しに参上いたします。……お独りでいらしったのですか」
「あまり綺麗《きれい》な朝だったものですから……」
「そうですね、実に、……よく晴れました」
なぎさ[#「なぎさ」に傍点]は、ちらと男の眼を見た。
伊兵衛はふと思いついたように、庭隅の方へ行って、苧環《おだまき》の花を三四本折ってきた。鮮かな紫色の花が、眼にしみるようだった。
「途中のお慰みです」
そう云って差出すのを、なぎさ[#「なぎさ」に傍点]は帰れという意味だと悟りながら受取った。……微《かす》かではあるが、彼女の眉《まゆ》にちらと怒りの影がさした。
伊兵衛は、取って付けたような挨拶《あいさつ》をしながら、なぎさ[#「なぎさ」に傍点]を木戸の外まで見送って、戻るとすぐ、奥の部屋へ入っていった。……そこでは弥助が、女に粥《かゆ》を喰べさせているところだった。女の側には、赭《あか》い顔をした小さな嬰児《えいじ》がちんまりと眠っていた。
「やあ、よく眠っているな」
伊兵衛は中腰になって覗《のぞ》きながら、
「……柔かそうな髪毛だ、艶々《つやつや》と黒くて、いまに美しく髪が結えるぞ。……もう乳はやったのですか」
「いいえ、産れてから十二|刻《とき》は乳をやらぬものだそうですから」
「それでは、おなかが空くだろうに」
云いながら、伊兵衛が、つと手を伸ばすと、
「若旦那さま、いけませんぞ」
と弥助が急いで制した「……まだ搗《つ》きたての餅《もち》のようなものでござります。むやみに触って、怪我《けが》でもさせてはなりません」
「なに、触りはしないよ。顎《あご》へ夜具がかかっているから……」
そっと夜具を押える振りをして、伊兵衛は嬰児の顎をちょっと摘《つま》んだ。ちまちまとして、そのくせもういっぱし形のととのった可愛《かわい》い顎であった。
喰べ終った物を片付けて、弥助が去ると、伊兵衛はそこへ坐りながら、
「こうして赤子の顔を見たら、もう心も落着いたであろう。それでとにかく、知らせるところがあったら、一応は知らせておく方がいいと思うが」
「……はい」
「親御たちも案じていよう、子の父にも黙っている訳にはいくまい」
女は黙っていた。黙って眼を閉じていたが、やがて呟くような声で云った。
「……勝手なことを、申上げてもよろしゅうございましょうか」
「なんでも遠慮なく」
「……わたくしが、死のうと決心いたしましたのは、この子を誰にも知られたくなかったからでございますの、……この子は、わたくし独りの子でございます。……どこへも知らせてやる処《ところ》はございません。誰にも知られたくはございませんの」
「父になる人を庇《かば》っているのですね。これが表沙汰《おもてざた》になっては、当人のために不都合だというのですね」
「わたくし、……強くなりますわ」
女はしばらく黙っていた後、低くはあるが、力の籠《こも》った調子で云った。
「……人間は過を繰返しながら、そのたびにだんだんと、本当に生きる道を悟ってゆく、……昨夜のお言葉が、なによりの力になりました。もう弱い心は起しませんわ。わたくし、自分の過の取返しをいたします。この子を立派に育ててまいります。……もし肥立ちますまで、誰にも知られずこのお部屋に置いて頂けましたら、それですぐお暇《いとま》をいたします」
恋の過失か、結婚の失敗か。
恐らく秘めた恋の過失であろう。子ができて、男の心が去って、死を求めた。世間には多過ぎるほど有触れた例だ、……けれど彼女はいま絶望から立戻って強く生きようとしている。過の責任を自分独りで負い、自分の力で過失の罪を取返そうとしている。子を持ったことがその力と勇気とを与えたのだ。伊兵衛は女の眼の光を美しいと思った。
「これからどうなされます」
居間へ戻ると、弥助が待兼ねたように云った。
「……今日は稽古《けいこ》休みゆえよろしゅうござりますが、明日から門人衆がみえるのに、この狭い家のなかで、もし赤子の泣き声でも聞えましたら」
「いや、稽古は当分休むよ」
「そんな御勝手はいけません」
「どうして、別に本多家から扶持《ふち》を貰《もら》っているわけではなし、介川どのにそう申せば、半月や一月休んでも差支えはないさ」
「それはまあ、そうかも知れませんが」
老僕は、不承知の様子だった「しかし、御門人がみえませんでも、世間の耳は早うござりますからな。知れぬうちに、よそへ移す方がよろしいかと存じます」
「いずれにしても肥立つまでは面倒をみてやる。……この家を頼りにしているのだから、そんな無情なことを申してはならん」
弥助はひょいと、肩をすくめた。そして白髪頭を振りながら、独り言のように呟《つぶや》いた。
「爺は、紀州に帰りとうござりますわい」
伊兵衛は、聞えぬ振りをしていた。
午《ひる》の食事をしてから、伊兵衛は本町の介川家を訪れた。……外記は長男の伊織《いおり》と、碁を打っているところだった。伊織は二十五歳になる中小姓で、やはり伊兵衛のもとへ稽古に通ってくるが、妹のなぎさ[#「なぎさ」に傍点]に似て、色白の、どこか女性的な感じのする美男であった。
「いま父を追詰めているところです」
伊織は、媚《こ》びるような眼で笑いながら「……十局勝負で、全勝したら京見物にやってもらえる約束なんですが、どうやら物にしましたよ」
「なに、こっちはこれから勝つのだ」
外記は、子に甘い親の独特な調子で、
「京見物は、まだ二三年先だと覚悟するがよい。ひとつ中根氏の検分で、真の腕を見せてくれようか」
「父上の真の腕も久しいものだ。こうまいりましょう」
伊兵衛は半刻ほど見ていたが、やがてしばらく稽古を休むからと云い残して辞去した。……なぎさ[#「なぎさ」に傍点]はついに顔を見せなかった。
――怒っているのだな。
伊兵衛は、ちょっと淋《さび》しかった。
一月ほどまえに、外記がなぎさ[#「なぎさ」に傍点]との縁談を持出したとき、伊兵衛は貰ってもいいと思った。外記には、困窮を救われた恩があるし、なぎさ[#「なぎさ」に傍点]は美しく、気質も凜《りん》として怜悧《れいり》である。家柄もお互いに程々のところで、まず似合いの縁組と云うべきだ。正式なはなしは仕官が実現してからという外記の希望で、伊兵衛はまだ弥助にも話してなかったが、それ以来は、なぎさ[#「なぎさ」に傍点]を見ることが、ひそかな温かい感動のひとつになっていたのである。
――しかし、話せば分ることだ。
眉のあたりに怒りを見せていた、朝の別れの表情を思い浮かべながら、伊兵衛はまっすぐに家へ帰った。
順調に日がたった。
七夜には、伊兵衛が名付け親になって「みどり」と名をつけ、赤飯を祝った。女は肥立ちもよく、乳も多かった。……ぐんぐん健康を取戻して、一日毎に肌も冴《さ》え、血色が甦《よみがえ》ってきた。名は小夜《さよ》、年は二十というだけで、氏も素性も知れなかったし、縹緻《きりょう》もとびぬけて美しい方ではないが、愛情に濡《ぬ》れたような眼許《めもと》や、薄墨で刷《は》いたような生毛《うぶげ》の眉、ものを云うとき、ちょっと左へ歪《ゆが》める癖のある唇つきなど、いかにも心の温かさを思わせる、上品なおっとりとした魅力をもっていた。
――誰か知らぬが、馬鹿な奴だ。
伊兵衛は、つくづくと小夜を見ながら思った。……これだけの姿と、これだけの心を、いちどは子を生《な》すまでに愛しながら捨去るとは。
「わたくし、こんな恰好《かっこう》で」
ともすると自分を瞶《みつ》めている伊兵衛の眼に気付いて、小夜は羞《はずか》しそうに頬を染めた。
「さぞお眼障《めざわ》りでございましょう」
「いやそんなことはない、顔色もすっかり良くなったし、あの時にくらべると見違えるほど美しくなった」
「そうありたいと存じますわ」
小夜は嬉《うれ》しさを、正直に見せて云った「……これまではわたくし、自分を不縹緻《ぶきりょう》だと思っておりました。他人より劣っていると思いました。けれど、これからは美しくなろうと存じますの。誰よりも利巧に、強く、正しくなろうと存じますの、……この子のために」
振返って嬰児の顔を見た眼は、もはやどんなものにも犯されない美しさと力とに輝いていた。伊兵衛は感動しながら、それを見まもっていた。
[#5字下げ]三[#「三」は中見出し]
二十日ほどたったある日。
伊兵衛は、外記に呼ばれて、介川家を訪ねた。そして客間に、外記と相対したとき、ただちに呼ばれた用件が、なんであるか分った。……外記は不機嫌な表情で、伊兵衛から眼を外らしながら、単刀直入に切出した。
「簡単に申上げるが、かねてお約束してあった主家へ御推挙のことは、一時|諦《あきら》めて頂くことにしたから、御承知を願いたい」
「……なにか、不都合でもございましたか」
「理由は、申さぬ方がよいであろう。ついてはなぎさ[#「なぎさ」に傍点]とのあいだにも、なにやら口約束がしてあったようだが、これも破約にしたいと思うから、そのつもりで」
「お言葉はよく分りました」
伊兵衛は静かに「……お耳に入ったことがなんであるか、拙者にも大体は察しがつきます。もしお許し願えるなら、仔細《しさい》申開きをしたいと存じますが」
「もうその必要はあるまい」
外記は冷やかに云った「……小夜は当家の小間使いであった。貴公が見えてから間もなく暇を取ったが、城下外の大須村に、身重で囲われていたことも、二十日まえに子を産んだことも、こちらにはすっかり分っておる」
「小夜が御当家に……」
伊兵衛は、愕然《がくぜん》とした。
小夜が、この家の召使いだったという。それでは、……なにを訊《き》いても頑として答えなかったのは、自分がこの家へ出入りしていたのを見知っていたためではあるまいか。自分がこの家の知己であるために、話すことのできぬ立場になったのではあるまいか。……伊兵衛の頭には、光のように閃《ひら》めくものがあった。
「仰《おお》せの趣、よく分りました」
伊兵衛は、しかし温和《おとな》しく頭を下げた、
「……いずれ申上げることもございますが、今宵はこれで失礼|仕《つかまつ》ります」
「もう会う要はないと思う、訪ねてもらわぬ方がよいな」
「いずれにしましても、改めて……」
逆わずに、伊兵衛は立った。
門を出て、塀沿いに十間ほど歩くと、待っていたなぎさ[#「なぎさ」に傍点]がすっと前へ出てきた。……宵月の光を浴びた顔は、怒りと疑いをつきまぜて、日頃の美しさに凄艶《せいえん》を加えていた。
「中根さま、御弁明を伺いたいと存じます」
「貴女《あなた》も御存じなのですか」
伊兵衛は会釈《えしゃく》をしながら笑った「……御存じなら仕方がないが、まるで誤解ですよ。お父上も貴女も誤解しておいでです」
「では小夜の産んだ子はどなたの子です。どうして貴方《あなた》が世話をしていらっしゃるのです」
「その事情は一口には申せません。実を云うと拙者はまだなにも知らないのです。あの女は不仕合せで、死のうとさえしました。貴女にもお分りであろう、女というものは与えられる愛情によって仕合せにも不幸にもなるものだ、誤った愛情がどれほど残酷に女を罰するか、あの女はそれを命がけで味わったのです。もし拙者が救わなかったら、あの女はとうに死んでいたことでしょう」
「小夜が仕合せか不幸か、わたくしの知ったことではございません。……わたくしは、貴方のはっきりした御弁明が伺いたいのです。小夜と貴方とが、なんの関《かかわ》りもないということは信じましょう、では……産れた子の父親は誰です。事情もよくお分りにならないのに、どうして今日まで世間に内密で、お世話をなすっていたんです」
伊兵衛は、ほとんど感歎《かんたん》しながら、なぎさ[#「なぎさ」に傍点]の舌鋒《ぜっぽう》を聞いていた。みんなもっともな言葉である。正に条理の通った無駄のない詰問《きつもん》だ、……しかし、なんと冷たい言葉であろう。なんと鮮かに割り切った感情であろう。伊兵衛は聞いている僅《わず》かなあいだに、さばさばと彼女から切抜けることができた。
「弁明はしないことにしましょう」
彼は微笑さえしながら云《い》った「……したところで分っては頂けまいから。しかし一言だけ申上げておきます。小夜が囲われていたという大須村を、もっとよくお調べになると、まだまだ意外なものがみつかるかも知れませんよ」
「それはどういう意味ですの」
「貴女の解釈に任せます、失礼」
伊兵衛は、月に反《そむ》いて歩きだした。
武家町を出端《ではな》れたところまできたとき、伊兵衛はふっと背後にものの気配を感じた、それは極めて微《かす》かな予感に似たもので、危険に対する敏感性を練磨している者だけが感じられる、漠然とした感覚に過ぎない、……伊兵衛は即座に、なにが来ようとしているかを判断することができた。それでわざと歩調を緩め、右手へ廻った月を眺めながら、歩いていった。
東海道の藤枝宿へ通じる道が、月を浴びて白々と延びていた。町家をぬけると左が田、右手が諏訪《すわ》の森になっている。背後から追ってきた影は、そこで急速に間を縮めた。
襲いかかった相手は、三人だった。
無言のまま斬《き》りつけ、無言のまま受けた。烈《はげ》しい掛け声と地を蹴《け》る音と、四本の白刃の光が、凄《すさま》じく月光の下に跳《おど》った。……しかしほとんど十秒とたたぬ間に、二人を峰打ちに打伏せ、伊兵衛は若い一人を森の中へと追詰めていた。
「やはり貴様だったか」
伊兵衛は冷笑しながら云った「……黙っていれば分らずに済んだかも知れないのに、自分の罪を他人になすろうとして、かえって馬脚を露《あら》わした。あれが貴様の家の召使いだということは、拙者は知らなかったのだぞ。小夜も決して洩《も》らしはしなかったのだ、伊織の馬鹿《ばか》め!」
相手は、肩で息をしていた。青眼《せいがん》につけている剣の半ばから先が、月光を映しながら、ぶるぶる震えていた。
「小夜は、貴様を愛したことを恥じている。子供も自分独りの子だと云っている。貴様が黙っている限り、小夜は死んでも、貴様のことなどは口にしなかったろう。だが……貴様は卑劣な奴《やつ》だ、小夜を捨て、その罪を他人にきせようとし、大須村を調べろと云うのを聞いて、拙者が事実を知っているものと思い、助太刀を頼んで斬ろうとまでした。……人間の風上にも置けぬ奴だ。武士なら斬ってこい、……さあ斬ってくるんだ」
相手は、自ら死地に突込むように、躰《からだ》ごと叩《たた》きつけてきた。そして伊兵衛に外ずされると烈しくのめって、木根に躓《つまず》きながら二三間先へ転倒した。……それでもう起上ることもできず、顔を地に伏せたまま喘《あえ》いでいた。
「よく聞いて置け、伊織」
伊兵衛は、側へ寄って云った「……本来なら斬るところだが、命は助けてやる。それから小夜のことも、他言はせぬ。外記どのには恩になっているし、あの人は善人だ、外記どのに歎《なげ》きをみせたくないから黙っていてやる、……少しでも恥を知ったら、人間らしい生き方をしろ、しかし断って置くが、小夜はもう戻らんぞ」
伊兵衛は、静かに刀を納めた。
家へ帰った彼は、出迎えた弥助を見るといきなり、……紀州へ帰るぞと云った。老僕は眼を剥《む》きながら、唖然《あぜん》としていた。
「本当だよ、これから出立だ」
「なにを、……なにを仰有《おっしゃ》るやら」
「ながいこと、紀州紀州と歌に唄《うた》っていたな、今度こそ、本当に帰るんだ。しかも妻と子を伴《つ》れての帰国だぞ、爺《じい》!」
「若|旦那《だんな》さま!」
「大きな声をするな、これはまだ内証だ」
伊兵衛は笑って云った「……とにかく、少し仔細があって、今宵のうちに、躰《からだ》だけでも田中を立退かなければならん、行って駕《かご》を呼んできてくれ」
「いまのいまのお話は」
弥助は吃《ども》り吃り云った「まさか、小夜どののことではござりますまいな」
「そうだったら不服か」
弥助は、白髪頭を振って、ひょいと肩をすくめた、そしてどうにも仕様がないと云うように、ぶつぶつと口のなかで呟《つぶや》いた。
「全く、……とんだ夜釣りでござりました」
そして、町の方へ出ていった。
伊兵衛は、小夜の部屋へ入った。……小夜は、いまの言葉を聞いたものとみえ、夜具の中から濡れたような眼をいっぱいに瞠《みひら》いたまま、入ってくる伊兵衛の顔を見まもった。
「少し無理かも知れないが、起きて支度をしてもらわなければならない。そしてもしそうする気があるのなら、この子と一緒に紀州へ行ってもらいたいのだ」
「わたくし……」
「なにも云わなくていい。子は神が授けたものだ。御国の宝とさえ云う、どんな子も、仕合せに育つ権利を持っている、本当に子を仕合せに育てる者が、子の親だ、……伊兵衛は、みどり[#「みどり」に傍点]の父親になる」
吸着くように、伊兵衛を見上げていた小夜の眼から、湯のような熱い泪《なみだ》が溢《あふ》れ落ちた。
「いいか」
伊兵衛は、力を籠《こ》めて云った「……小夜は今までに誰も愛したことはないのだ。空に描いた自分の愛情を愛しただけだ。なにもかも新しく、なにもかもこれから始まるのだ。……一緒に紀州へ行こう、厭《いや》か?」
小夜の喉《のど》を、嗚咽《おえつ》がつきあげた。伊兵衛は、そっと小夜の手を握った、……柔かな、温かい手であった。そして、握られた手の中で、少しずつ指に力を入れながら、小夜は泊に噎《むせ》ぶ声で云った。
「わたくし、……美しくなりますわ……」
「そうだ、美しくなるんだ。今でも美しいが、もっと美しく、もっと強く、……二人で新しく始めよう」
小夜は笑おうとした、それでかえってわっと泣きだしてしまった。……伊兵衛は、高邁《こうまい》な音楽でも聴くときのような歓《よろこ》びに充《み》ちた気持で、その泣き声を聞いていた。
[#地から2字上げ](『島原伝来記』昭和十七年刊収録)
底本:「艶書」新潮文庫、新潮社
1983(昭和58)年10月15日 発行
2009(平成21)年10月15日 二十八刷発行
底本の親本:「島原伝来記」
1942(昭和17)年刊収録
初出:「島原伝来記」
1942(昭和17)年刊収録
※表題は底本では、「五月雨《さみだれ》日記」となっています。
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