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与之助の花
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与之助の花
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)肚《はら》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)見|戍《まも》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#8字下げ]
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[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
肚《はら》をきめている筈なのに、いざその箱を眼の前に見ると、さすがに爪先《つまさき》から氷のような戦慄《せんりつ》が這いのぼって来るのを感じた。
――早くしなければ見つかる。
背中に白刃を突きつけられている気持ちだった。手を伸ばしてその箱を掴《つか》んだ。五寸角に、長さ三尺足らずであるが、豪奢な螺鈿《らでん》のひどく持重りのするものだった。……与之助は両手で持ってそっと床へおろすと、朱色の打紐を手早く解き、中から長さ二尺ばかりの筒型の品物を取出して、傍においてある手燭《てしょく》の光でつくづくと見た。
――たしかにこれだ。
たしかに目的の品である。
与之助は痙攣《ひきつ》ったように頷いた。そして持ってきた風呂敷包みを解くと、その中からよく似た筒型の品を取出して箱へ納め、元のように打紐を結んで棚へあげた、――仕事は終って箱から出した方を風呂敷に包み、衿《えり》をはだけてふところから背へ縛りつけ、手燭を吹き消すと、静かに二階から下りていった。
時は享保二年三月下旬、処は越前の国大野、土井甲斐守利知四万石の居城、亀山城本丸にある金庫の中の出来事であった。
与之助は宝庫を出、音のしないように戸前を閉め、ほっと太息をついたとたん、
「うまいことをやったな、折田」
という声がして、闇の中からすっと出て来た者があった、与之助はいきなり水を浴びせられたように、あっと云ってとび退いた。
「……だ、誰だ」
「そんなに愕《おどろ》くことはないよ、己だ」
「木下、貴公……か」
「いかにも丈右衛門だ、おい」
相手は闇の中で、にっと白い歯を見せた。
「御勘定奉行の御二男が、御宝庫へ忍び込むというのは大胆不敵だぞ、ちょいと耳うちをして呉れれば、貴公などが無理をせんでもこの丈右衛門が手を貸してやったのに」
「木下……貴公は、思い違いをしている、拙者は悪心でやったのではない、是は」
「いいよいいよ分っている、あの螺鈿の箱は長いことお手付かずだ、御重宝かも知れんがああやって徒《いたず》らに埃《ほこり》に埋めておくより、取出して今日の役に立てる方が理屈にかなっている、そうだろう……己は黙ってる、案外これで口は固い男だからな」
ふふふという低い笑い声が、与之助には骨を刺すもののように聞えた。
木下丈右衛門は、徒士《かち》組でも行状の悪いので評判の男だった。彼に見込まれたら骨まで舐《しゃぶ》られる。悪いところをみつかった。そう思うと、反射的に父のこと兄のことが頭へうかんだ……勘定奉行を勤める謹直一方の父、弟思いで、孝心の篤《あつ》い兄、……若し丈右衛門の口からこのことが世間へ洩《も》れたら、父や兄はどうなるだろう。
――生かしてはおけぬ。
咄嗟《とっさ》に心を決めた与之助は、
「よし、それでは相談をしよう、木下」
と呼びかけながら、闇の中で間合を縮めた。
「拙者は悪心でしたことではない、時が来ればそれは貴公にも分って貰えることだ、それまで黙っていてくれるか。え……どうだ木下、黙っていて呉れるなら」
「おっと、おっと危い!」
与之助の右手が大剣の柄《つか》へかかるより疾《はや》く丈右衛門は身軽に二三間とび退いていた。
「その手は喰わんぞ、ここでばっさりやられるほど初心な相手じゃあねえ、折田……もういちど云うが己は黙ってるが、例の方は承知だろうな」
「例の方とは……」
「白っぱくれちゃあいけねえ、是だけの大仕事に眼をつぶらせて、まさか独り占めという法はねえだろう。……明日行くからな、一杯呑めるだけ頼むぜ」
くるりと無頼漢の正音《しょうね》を出した。
「十両だ。いいな、十両だぜ」
そう云って、低く鼻で笑うと、彼は消えるように闇の彼方へ去って行った。
――十両、十両か。
与之助はほっと息をついた。
――五十金、百金とでも云うかと思った。十金ぐらいのことなら自分の持ち金の中からでも出せる。
――慾にからむ奴は、慾さえ満足させてやればどうにかなる、――三十日か五十日、そのあいだ黙らせておけばいいのだ。
そう考えると却って気が楽になった。与之助はそっと宿直の詰所へ戻って行った。
「是で終いです」
与之助はごくっと唾液をのみながら云った。
「もう頂戴には出ません、是で終いですからどうか都合して下さい」
「この前もそう云ってたじゃないか」
信蔵は弟の眼を頬に感じながら、さっきから頑強に庭を見ていた、――四月(新暦五月)の庭に伸びるさかりの草木で、いっぱいに烈しい陽を浴びた若葉が、むせるような緑を盛り上げている。
「……与之助」
信蔵は眼動かさずに云った。
「お前病気の届けをして、この十日あまり登城せぬというが本当か」
「はぁ、――工合が悪かったものですから」
「こんなことを云うのは厭なんだが」
と信蔵は思い切ったような口調で、
「おまえ此の頃まるで人間が変ったな、……この家にいると気鬱だと云って、川端の下屋敷へ移ったのは三月だった、それから間もなく金をせびり出した、数えて見たらひと月あまりのうちに百金を越している、金を惜しむ訳じゃない、叱るんでもない、心配なんだ、若い者はついした誘惑にも身を誤る、それが拙者は心配なんだ」
「申訳ありません、兄上。……けれどわたくしだって武士です、無意味に身を誤るようなことは決して致しませんから」
「じゃあ話して呉れ、いったいどうしてそんなに金が要るんだ、なんに遣うんだ」
そう云って初めて振返った兄の眼から、与之助は苦しそうに面を伏せた。信蔵は、暫《しばら》く弟の着白い顔を見|戍《まも》っていたが、
「与之助、おまえ此頃、木下丈右衛門と往来しているそうだな。……どうしてあんな男と交合うようになったんだ、あの男が世間からどんな眼で見られているか知らぬ筈はなかろう、いったい木下とどんな関係があるんだ」
「兄上、お願いです」
与之助は両手を突いて哀訴するように云った。
「お願いですから、なにも訊《き》かないで二十金お貸し下さい、もうこんど限りお願いは致しません、どうしても入用なのです、理由はいつか兄上にもお分りになる時がまいります。それまでどうかなにもお訊きにならないで、こんどだけ二十金御用立下さい、この通りお願いです」
「……そうか、……やっぱり、云えないのか」
信蔵は弟から眼を外《そ》らすと、立って静かに部屋から出て行ったが、間もなく金を白紙に包んで戻って来た。
「では二十金」
そっと弟の前へ差出して、
「是限りという約束だぞ」
「……忝《かたじけ》のうございます」
与之助は兄の顔を見ることが出来なかった、金包みをふところに入れると、挨拶してすぐに立った……力の無い、そのくせになにか追われているような挙動であった。
「与之助、庭を見て行かないか」
信蔵は明るい声で呼び止めながら立った。
「おまえの好きな花が咲き出したぞ」
「はあ……わたくしのすきな花……」
「苧環《おだまき》だよ、如何にもおまえのすきそうな花だと云って由紀がよく丹精したから、今年はみごとに咲き出しているぞ」
「……そうですか」
「二三本|剪《き》って行ったらいい」
そう云いながら兄弟は庭へ出て行った。
二人が近づいて行ったとき芍薬《しゃくやく》畑に、一人の美しい娘が草抜きをしていた。……折田家の遠縁に当る孤児で、七年ほど前から此家に引取られている。名は由紀、年は十八で、とびぬけた美貌というのではないが、少し憂いのある眉つきと、つぶらな、黒い木実のような眼許に、形容しようのない魅力がある。……兄弟の父折田|税所《さいしょ》は、いずれ長男信蔵の嫁にするものと早くから定めていた。
「由紀、……与之助がきたよ」
信蔵がそう声をかけると、娘は吃驚《びっくり》したように身を起して振返った。……強い日光にさしつけられて、ずっと上気した顔に、健康な匂うような羞《はじら》いの花が咲いた。
「まあ、ようこそ」
「苧環《おだまき》を剪って行くと云うんだ、咲いてるのがあるかしらん」
「ええ、咲いておりますわ」
由紀は芍薬畑の脇の方へ振返った。
「今年はたいへん色が濃うございますの、お剪りになるのでしたら、わたくし鋏を持ってまいりますわ」
「いや折ればいいだろう」
「折り悪うございますから、すぐ持ってまいります」
由紀は会釈して家の方へ小走りに去った。
与之助はじっと苧環の花をみつめていた。指を触れれば濃い紫がそのまま指に付きそうな花だった。……けれど葉のなりも他の草とは違ってどこか寂しげな、云って見れば、うら若い尼僧が憂いに沈んでいるというようなあわれ深い花であった。
「与之助、拙者はなあ」
信蔵はぽつんと云った。
「おまえと由紀とを一緒にして、早く分家させる日が来ればと思っているんだぞ」
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
「兄上、それは兄上」
「まあ聞け、拙者には分っている」
信蔵は花を見下ろしたまま続けた。
「おまえが由紀をどう思っているか、疾《と》うからこの兄には分っていた。だから、いいか由紀のことは心配するな。……父上のお考えがどうあろうと、兄がいる以上は大丈夫だ、いいか、そんなことで気を腐らせる必要は、ちっともないぞ」
「兄上は、……兄上はそんな風に……」
与之助は眉のあたりを蒼くした。そして何か抗弁するように兄を見たが、それ以上なにも云うことが出来なかった。
……由紀が鋏を持って戻って来た。
剪花を手に、屋敷を出る与之助を、信蔵は門前まで送って出た。
「与之助、工合が直ったら登場する方がいいな」
「はあ、そうします」
「父上に知れるといけないからな」
「二三日したら、出仕しようと思います」
そう云って、与之助は逃げるように兄の前から去ろうとしたが、ふと振返って、
「兄上、まだ江戸から便りがないでしょうか」
と訊いた。
「江戸から便り?」
「御宝物お貸し下げの再願いです」
「あれか。……うん」
信蔵は首を振った、「あれはやっぱり諦めた方がいいな、御宝物の中でも大切な品だ、再願いでお許しが出るものなら、去年のお願いのときお許しが出る筈だ。あれはもう諦めた方がいいと思う」
「そうでしょうか。……では」
ありありと失望の色をうかべて、白く乾いた日盛りの道を、与之助は足早に歩き出した。
胸も頭も、兄の愛情で溢れるようだった。十二歳の時母親を喪って、父はただ厳格一|途《ず》の人だった。幼い時分から体が弱く、武芸よりも学問の方が好きな彼は、
――武士の子に似ぬ柔弱者。
といつも父から叱られてばかりいた……。
それを庇《かば》ってくれるのは兄だった。父の振上げた拳《こぶし》を、幾たび兄の腕の下で避けたことであろう。父には許されぬ書物を、幾たび兄に買って貰っただろう。当時まだ高価でもあり、寧ろ稀覯《きこう》でさえもあった蘭書を、遠く大阪から長崎まで手を伸ばして求めて貰ったこともあった。
どんな無理を云っても、曽て眉をひそめた兄の顔を見たことがなかった。母親でもこんなに寛大ではあるまい、そう思うことがしばしばだった。
――それが今日、初めて、二十金という無心に眉をひそめた。
――当然だ、当然だ、いくら兄だって。
与之助は兄の声音を思い出して、歯を喰いしばりながら心のなかで叫んだ。
――いくら良い兄上だって、
追い風が、道の上に灰色の埃《ほこり》を捲《ま》いて走った。……初夏の太陽は、眩《まばゆ》いばかりに烈しく照っている、与之助は夢中で歩いて行った。すると城下町を出はずれて間もなく、
「おい、ここだここだ」
と大声で呼びながら、右手の雑木林の中から木下丈右衛門がとびだして来た。
「ひどく待たせたじゃないか、まる一刻になるぜ、若しかしたら高飛びをしたんじゃないかと思ったくらいだ」
「するかも知れない」
「冗談じゃあねえ」
並んで歩きながら、丈右衛門がにっと白い歯を見せて肩を振った。
「おめえにそんなことが出来るか、若しそんなふざけた考えが起ったら、父御と兄御のことを思い出すがいい、……己がいちぶ始終を訴え出たときのことをさ」
「そうすれば貴公の罪も明白になる」
「むろんのことさ、九百石御勘定奉行の一族が道伴れなら、己はいつでも無頼なこの首を進呈するよ」
与之助はふところから金包を出すと、突きつけるように相手に渡して云った。
「さあ約束の金だ、然し断っておくが是が最後だぞ、もうあとは御免だぞ」
「いいとも、だいぶ己も恩借にあずかったからな」
「きっとだな、念を押したぞ」
「まあそうむきになるな、是だけあれば当分は温和《おとな》しくしているよ、じゃあ孰《いず》れまた――」
ひょいと肩を振り、にっと笑って丈右衛門は引返して行った。
与之助は追われるように下屋敷へ帰った。
三月のあの夜から間もなく、彼は父や兄の許を去って、真名川畔にある下屋敷に住んでいた。……そこは渓流に臨んだ断崖の上で、別墅《べっしょ》造りの質素な構えだが、広い庭のはずれはそのまま渓谷に向ってひらき、屋敷周りは松と櫟《くぬぎ》の林で、一里彼方に城下町があるとは思えぬほど閑寂な山荘であった。
「お帰りなされませ、お疲れでございましょう」
留守番の藤吉老夫婦が出迎えるのに、与之助は軽く頷いただけで奥へ入った。
母屋の廊下を鍵なりに曲ると、曽て母の病間に建てた離れがあった。仕切りの杉には、「入室を禁ず」と書いた紙が貼ってある。それを明けて入ると、中は八畳の部屋で、東と南に窓があるのだが、どちらも厳重に雨戸が閉してあるので、部屋の中は一寸先も見えぬ闇だった。
××××
蝋燭の火がぽっと光暈《こううん》を放っていた。
部屋の中央に幅三尺、長さ十尺ほどの台がある。蝋燭はその一端に立っている。その蝋燭の火と相対して、枠に入れた鏡玉が二個、おのおの四寸ほどの間隔で立ててある。だから蝋燭の光は、二つの鏡玉を透して、一方の端にある立板に、光の輪を射しつけていた。……是は最も原始的な、鏡玉の焦点距離を計る方法と思われるが、果して与之助はなにをしているのだろう?
彼はいまその台の前で、丸い筒型のものを削っていた。――身の周りには幾つもの手桶や、木屑や、金属板などが取り散らしてあり、彼自身も躯《からだ》中いろいろな削り屑にまみれていた。
「……もうひと息だ、もうひと息だ」
自分を唆《けしか》けるように呟きながら、夢中で仕事を続けていた与之助は、突然……手を休めて顔を上げた。
生色のない顔色、尖った頬骨、白い唇、そしてただ一つそこだけに全生命を凝結しているような双眸《そうぼう》。彼はその眼で宙を睨《にら》みながら、なにかを聞きとろうとするように、暫く耳をすましていたが、不意に座を立って、部屋から出て行った。
外は今日もすばらしい天気だった。
暗がりから廊下へ出ると、庭いっぱいに照っている日光の反射で、与之助は思わず、両眼へ手をやった。……それを見つけたのであろう。庭の向うから遠慮ぶかく近寄ってきた者があった。……由紀であった。
「由紀さんだな、なにか用ですか」
眩《まぶ》しそうに眼を細めながら、与之助は咎《とが》めるような口調で云った。
「先日は失礼いたしました」
由紀は面を伏せたまま会釈して、
「信蔵さまのお申付けで、わたくし今日から此方のお手伝いをしにまいりました」
「兄上が、兄上が行けと云ったのですか」
「はい、お躯の工合がすっかりよくなるまで、よくお世話をするようにと、それから、……あの若しかして」
と娘はやはり面を伏せたまま云った。
「もしかして、きてはいけないと仰有っても兄の申付けだと云って、戻ってはならぬと、固いお申付けでございました」
「それは困ります」
与之助は苦しそうに云った。
「ここには藤吉夫婦がいるし、少しも身の周りの不自由はない、却って人が多い方が迷惑です。……怒らないで下さい、拙者は静かな処にいたいんだ、貴方に限らず、誰にも側にいて貰いたくはないんです」
「よく分っております」
由紀は消え入るような声だった。
「でも私、決してお邪魔はいたしません、なるべくお眼につかない処に居りますから」
「――由紀さん!」
与之助はふとつき上げるような声で呼びかけたが、すぐにその火のような調子を噛《か》み殺して、
「ちょっと庭を歩きましょう」
そう云って彼は庭下駄をはいた。
前庭を左へ百歩ほどゆくと、少し爪先さがりになっていて、そとから雑草の茂っている先は断崖だった。……三本、古い松が枝をさし伸ばしている。与之助はその木蔭に入って佇《ただず》んだ。
……断崖の高さは七十尺もあろう、下を覗《のぞ》けば真名川の深淵が青黒く瀞《とろ》をなしている。
「由紀さん、貴女はどうして兄上が、……貴女をここへよこしたのか、その訳を知っていますか」
娘は与之助から少し離れて立ち、深くうなだれたまま、答えようとはしなかった。
「兄上は、由紀さんと拙者を一緒にしようと思っているんだ」
「与之助さま」
「いや云わせてくれ、いつかははっきりさせなくてはならぬことだ、由紀さん、兄上はそう思っているんだ、兄上は疾うから、拙者が由紀さんを想っているものと考えていた、それでずいぶん色々と心を遣って呉れるんだ。……嬉しい、その気持ちはどんなに感謝しても足りない位嬉しい、けれど兄上は思い違いをしている」
与之助はなにかをのみこむように、ぐっと喉をならした。……それから、ひどく舌重げに続けた。
「兄上は思い違いをしているんだ、拙者は……貴女を、……想ってなどはいない。……想ったことさえも、ないんです。それよりも寧ろ貴女が誰をその心に秘めているか、……拙者にははっきりと分っている」
由紀はいつか両手で面を蔽《おお》っていた。……時鳥《ほととぎす》が一羽、渓谷に鋭い鳴き声を反響させつつ、対岸の山の森をかすめとんだ。
「由紀さん、父上は貴女と兄上を夫婦にすると定めている。いいか、それが本当なんだ、貴女のために、……みんなのために、それが一番仕合せな落着だ、分っているね、貴女はただ、兄だけを確《しっか》りと守っていればいい、兄上だけを、――分りますか」
「……与之助さま」
××××
由紀はくくと、円い肩を震わせながら、むせびあげた。
そのとき、急ぎ足に近づいて来る人の足音が聞えた。与之助が振返ってみると、藤吉が木下丈右衛門を案内してきたのであった。……与之助はすばやく、
「由紀さん、家へ入っていなさい」
と囁《ささや》いて、此方から歩み寄っていった。
「閑静なお住居ですな」
丈右衛門は、藤吉と由紀が家の方へ去るのを見送りながら、白々しい声を張り上げで云った。
「こういう場所にのんびりと暮していられる貴殿はお仕合せだ、実にいい、命が延びるようですなあ、はははは」
「なんの用だ、もう会わぬ約束ではないか」
「そのつもりだったがねえ」
丈右衛門は二人だけになったのを認めると急にいつもの不敵な冷笑をうかべて、
「実際そのつもりだったがね」
「もう御免だ、貴公には百金以上も遣ってある、なんと云おうがもう一文も出さぬからそう思ってくれ」
「で、ござるかな」
丈右衛門はぐっと落着いた声で云った。
「いや御尤も、そのお怒りは重々恐れ入る、だが今日まいったのは、貴公から金を無心しようというためではない」
「……無心ではない、そんならなんのために」
「実はな、拙者もだんだんと身がつまって来た、このまま呆《ぼん》やりしていると、支配役に掴《つかま》って仕置になるか、悪くすると獄門を喰うかも知れぬという有様だ、……そこで愈々《いよいよ》どこかへ退国する覚悟だが、なにより先立つものは金だ、それも今までのように、十両や二十両の端金ではどうにも成らぬ、少くとも百か二百、まとまらぬことにはしようがない」
「それで、それでどうしようと云うのだ」
「詰りそれでだ」
丈右衛門はにっと笑った。
「貴公に頼んだところで、断わられるのは分りきったことだし、万一まあ肯《き》いて呉れたところで、高々十両か二十両、それよりいっそ貴公の御尊父に会って」
「木下、なにを申す、なにを!」
「冗談じゃないぞ、己は本気で云ってるんだ、御尊父なら、まさか百や二百の金で、勘定奉行の名誉と家名を捨てはなさるまい、もし否とでも云われたら仕方がない、己もどうせ身の詰りだから訴えて出る」
丈右衛門の顔は、今まで見たことのない残忍な、悪の表情にひきつっていた。
「ここへ来たのは、それを一応お断りするためだ、分ったかい。……こう断ったからには、もう用はない。帰るからな」
そう云うと共に、彼は平然と踵《きびす》を返して去っていった。
――脅《おどか》しだ、脅しに定っている。
与之助はそう呟いたが、然し去って行く丈右衛門の肩つきには、太々《ふてぶて》しい決意が表われていた。……やりかねない、そして若し本当に父に会ったとしたら、父があの事を知ったとしたら。
「おい待て、木下、待て」
与之助はつきとばされたように走り出した。
丈右衛門は木戸脇の松林のところで、振り返って待っていた。
走せつけた与之助は、息を喘《あえ》がせながら云った。
「父に会う必要はない、その金は拙者が拵えよう」
「貴公に都合の出来る高じゃないぞ」
「明晩きてくれ、母が死ぬ時拙者に遣してくれた金が二百両ある、それを持って来ておく、貴公が……本当にその金で退国するなら、拙者も二百両出す」
「間違いあるまいな!」
ぎろっと睨みあげる眼を、与之助は燃えるような眸で見返しながら答えた。
「間違いない、明晩七時だ」
「よし、明日の晩七時、……その時金がなかったら、本邸へ出掛けるからそのつもりでいろ」
きめつけるように云って、丈右衛門は大股に立去った。
それを見送ってから、与之助はすぐ離れへとんで帰ったが、それっきり、部屋に籠ったまま出て来なかった。
昼も夕も、食事を運ばせ、杉戸の口で受取って、部屋の中で独りすませた。
……由紀は客間に寝ていたが、夜中ずっと離れの部屋でこつこつと、なにか仕事をしているらしい物音が、続いているのを聞いた。
[#8字下げ]三[#「三」は中見出し]
下城して来た信蔵は、出迎えの中に由紀が居るのを見て驚いた。
「どうしたのだ、帰って来たのか」
「はい……」
由紀は信蔵から大剣を受取って、一緒に居間の方へ行きながら、
「お届け物を申付かりましたので、爺と一緒にちょっと戻ってまいりました」
「届け物だと!」
「はい、お手紙も附いてございます」
なんだろう、信蔵は着換えをする間、色々と考えたが、分らなかった。……支度を直して部屋へ入ると、由紀は床の間から、大きな包を重そうに運び下ろして来た。
「是でございます」
「いや拙者があけよう」
信蔵は野を乗り出してその包を解いた。
出て来たのは袱紗《ふくさ》に包んだ筒型の物と、四角い桐の箱である。……先ず桐の箱の蓋をとってみると、中には黒檀《こくたん》の台に作りつけた妙な機械が入っていた。長さ一尺足らずで、二つの筒を嵌込《はめこ》み、上から覗くようになっている。
「――はて、なんだろう」
「お手紙を御覧あそばしては?」
「そうだ手紙があったんだね」
信蔵は由紀から手紙を受取ると、封を切って披《ひら》いた。……それには次のようなことが書いてあった。
兄上は顕微鏡というものを御存じですか。……天正年間、スペインの宣教師が織田信長に二つの贈物をしています。一つは望遠鏡で「七十五里を一望す」と記してあり、別の一つは顕微鏡と云って「芥子《けし》粒も卵の如く見える」と記してあります。……望遠鏡の方は今日まで伝来し、お家の御家宝にも二個ありますが、「顕微鏡」の方は現存している話は知りません、わたくしは兄上に買っていただいた蘭書で顕微鏡のことを読み、この二年ほどはどうかして自分の手で作ってみたいと苦心しました。――そして要るほどの材料は集めたのですが、最も大切な「鏡玉」の点で行き詰ったのです。そのために一年ほどやせる苦しみをしました、結局、御宝庫にある望遠鏡を拝借し、その鏡玉で像を結ぶ距離(焦点距離)を実地に験《ため》してみる他に方法がないと定めました。
そこで私は御宝物の望遠鏡をお貸し下げ下さるよう、願い出ましたが、御存知のように許されませんでした。……然し兄上、御宝物が如何に尊くとも、お庫の塵に埋めておくだけでは意味をなしません。若し是を参考にして、新しく顕微鏡という物が出来るとしたらどうでしょう。……わたくしは決心しました。そして、
「由紀、灯を入れて呉れ」
信蔵は文字の重大さに驚いてぱっと手紙を伏せながら去った。……そして、由紀が行燈に火を入れて来ると、
「此処はいいから暫く向うへ行っていてくれ」
そう云って由紀を遠ざけた。手紙の文句は更に驚くべき文字で埋まっていた。
即ち、決心した与之助は宿直番に当った夜御宝庫に忍び入り、望遠鏡の一つを盗み出して来たという。そしてそれを解体して鏡玉を取出し、その焦点距離を計りつつ、遂に顕微鏡を作ることが出来た、詰り……いま届けた箱の中の物がそれだ、と書いてあった。
「そうか、そんな仕事をしていたのか」信蔵は人間の熱意の底知れぬ力に、寧ろ圧倒されながら、弟の作った顕微鏡を見やった。――手紙は更に続けている。
――然し兄上、御宝物を取り出すとき、わたくしは不覚にも木下丈右衛門にみつかってしまいました。どうして兄上から金をおねだり申したかは、是でおわかりと存じます。然しわたくしは到頭望みを果しました。ことに顕微鏡の使い方を書いておきますから、どうか兄上の手で殿へ献上して下さい。……望遠鏡も一緒に包みましたから、御宝庫へお返し下さるよう御願い申上げます。
読み終った信蔵はすぐに袱紗包を解いてみた、果して中から御宝物の望遠鏡が出て来た。
――思い切ったことを!
信蔵は幾つもの意味で歎息をもらしながら呟いた。……御宝庫へ忍び込んで、宝物を持ち出すなどということは軽からぬ罪である。その罪を承知で彼はやった、顕微鏡というものを作るために、宝庫の中で埃に埋れている物を役立てた。そして彼は立派に顕微鏡を作り上げたのだ。
――然し犯した罪は消えぬ。
与之助の為しとげたことがどんなに立派であろうとも、それで犯した罪が消えた訳ではない。それは本人がいちばんよく知っている筈だ。……然も木下丈右衛門という者に、今日まで絶えず脅迫されていたという。……では与之助はいまどんな風に自分を処置しようとしているか。そう考えて来たとき、信蔵は思わず、
「いかん!」と叫びながら立った。
××××
「由紀……袴《はかま》を持って来て呉れ」
「はい」由紀が来た。信蔵は袴を着けながら、
「与之助はこの手紙の外になにか云っていなかったか、様子になにか変ったことはなかったか」
「はい、……別に変った様子もないと存じましたけれど」
「藤吉の爺はすぐ帰ったのか」
「まだ此方におります。帰りが夜道になっては危いから、明日戻って来いと仰有いましたので……」
「そうか」信蔵は唇を噛んだ。
届け物のためなら藤吉一人でいい筈だ、二人を出して泊って来いというのは、今宵のうちに身の始末をしようという考えに違いない、……信蔵は馬を煽《あお》って下屋敷へと向った。
――与之助、待って呉れ、死んではいかんぞ、己がどんなことをしても罪にならぬように計ってやる、死んではいかんぞ!
下屋敷に着いた信蔵は、馬をつなぐ間ももどかしく、すぐに裏に廻って庭へ入った。声をかけては却って悪い、そう思いながら、母屋の方へ庭を横切ろうとしたとき、……右手の庭のはずれの断崖の方にぽつんと提灯の火があるのを見つけた。
「与之助、そこにいるのは与之助か」
叫びながら走って行った。すると庭はずれの松の根方に、提灯が一つ置いてあるきりで、人の姿は何処にもない。
「与之助! 与之助!」信蔵は声をはり上げて叫んだ。
そのとき、すぐ右手の叢《くさむら》でなにか動く気配がした。……はっとして行ってみると、まず血の匂いが鼻をつき誰か倒れているのが見えた、それは与之助であった。
「あっ、おまえ、……与之助」信蔵は悲鳴のように叫びながら抱き起した。……与之助はまだ意識があった。
「己だ、信蔵だぞ、分るか与之助」
「……兄上」
信蔵の叫ぶ声に、与之助は力無く頷いてみせながら、舌重げに辛うじて云った。
「兄上、……御安心願います、丈右衛門は、わたくしが討止めました」
「なに、木下を斬ったというのか」
「死体は、その断崖から、河へ投入れました、……ですから、折田の家名に瑾《きず》のつかぬよう、後をお願いいたします」
「心得た、然しこうしなくても方法はあったのだ、おまえ、はやまったぞ!」
「否え、これが、これがわたくしにとって、いちばん良い方法なんです。ただ、どうか家名に瑾のつかぬよう、始末して下さい。……父上に御迷惑のかからぬよう……たのみます」
「分った、それは兄が必ず引受けるぞ」
「それから由紀さんのことだ」与之助は苦しそうに息をついて云った。
「兄上は、由紀さんの気持ちを知らない、……由紀さんは、兄上を想っているんです……」
「馬鹿な、なにを云うんだ、与之助」
「本当です。……あの人は兄上を想っているんだ、……あの人を仕合せにしてあげて下さい、わたしはあの人を想っていなかった。……そんなことは考えもしなかった。兄上、これが与之助の最後のお願いです。あの人を仕合せにして上げて下さい」
それだけ云うのが精いっぱいの努力だった。云い終ると共に、与之助の躯は、兄の手からすべり落ちて、草の上に倒れた、提灯の光が哀しく死顔を照らしている、そしてその死顔のすぐ傍に苧環の花が一輪、叢の中から弔うように覗いていた。……信蔵はその花が眼についたとき、我慢の緒もきれて、両手で面を蔽いながら咽《むせ》びあげた。
「そうか、……おまえはそんな苦しみも持っていたのか、知らなかった、己は知らなかった」
肺腑《はいふ》を絞るような声が、夜の闇をかなしく震わせた。……苧環の花の紫は、与之助の魂をかき抱くように叢の中で音もなく揺れていた。
底本:「修道小説集」実業之日本社
1972(昭和47)年10月15日 初版発行
1979(昭和54)年2月15日 新装第七刷発行(通算11版)
底本の親本:「譚海」
1941(昭和16)年5月号
初出:「譚海」
1941(昭和16)年5月号
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山本周五郎
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[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
肚《はら》をきめている筈なのに、いざその箱を眼の前に見ると、さすがに爪先《つまさき》から氷のような戦慄《せんりつ》が這いのぼって来るのを感じた。
――早くしなければ見つかる。
背中に白刃を突きつけられている気持ちだった。手を伸ばしてその箱を掴《つか》んだ。五寸角に、長さ三尺足らずであるが、豪奢な螺鈿《らでん》のひどく持重りのするものだった。……与之助は両手で持ってそっと床へおろすと、朱色の打紐を手早く解き、中から長さ二尺ばかりの筒型の品物を取出して、傍においてある手燭《てしょく》の光でつくづくと見た。
――たしかにこれだ。
たしかに目的の品である。
与之助は痙攣《ひきつ》ったように頷いた。そして持ってきた風呂敷包みを解くと、その中からよく似た筒型の品を取出して箱へ納め、元のように打紐を結んで棚へあげた、――仕事は終って箱から出した方を風呂敷に包み、衿《えり》をはだけてふところから背へ縛りつけ、手燭を吹き消すと、静かに二階から下りていった。
時は享保二年三月下旬、処は越前の国大野、土井甲斐守利知四万石の居城、亀山城本丸にある金庫の中の出来事であった。
与之助は宝庫を出、音のしないように戸前を閉め、ほっと太息をついたとたん、
「うまいことをやったな、折田」
という声がして、闇の中からすっと出て来た者があった、与之助はいきなり水を浴びせられたように、あっと云ってとび退いた。
「……だ、誰だ」
「そんなに愕《おどろ》くことはないよ、己だ」
「木下、貴公……か」
「いかにも丈右衛門だ、おい」
相手は闇の中で、にっと白い歯を見せた。
「御勘定奉行の御二男が、御宝庫へ忍び込むというのは大胆不敵だぞ、ちょいと耳うちをして呉れれば、貴公などが無理をせんでもこの丈右衛門が手を貸してやったのに」
「木下……貴公は、思い違いをしている、拙者は悪心でやったのではない、是は」
「いいよいいよ分っている、あの螺鈿の箱は長いことお手付かずだ、御重宝かも知れんがああやって徒《いたず》らに埃《ほこり》に埋めておくより、取出して今日の役に立てる方が理屈にかなっている、そうだろう……己は黙ってる、案外これで口は固い男だからな」
ふふふという低い笑い声が、与之助には骨を刺すもののように聞えた。
木下丈右衛門は、徒士《かち》組でも行状の悪いので評判の男だった。彼に見込まれたら骨まで舐《しゃぶ》られる。悪いところをみつかった。そう思うと、反射的に父のこと兄のことが頭へうかんだ……勘定奉行を勤める謹直一方の父、弟思いで、孝心の篤《あつ》い兄、……若し丈右衛門の口からこのことが世間へ洩《も》れたら、父や兄はどうなるだろう。
――生かしてはおけぬ。
咄嗟《とっさ》に心を決めた与之助は、
「よし、それでは相談をしよう、木下」
と呼びかけながら、闇の中で間合を縮めた。
「拙者は悪心でしたことではない、時が来ればそれは貴公にも分って貰えることだ、それまで黙っていてくれるか。え……どうだ木下、黙っていて呉れるなら」
「おっと、おっと危い!」
与之助の右手が大剣の柄《つか》へかかるより疾《はや》く丈右衛門は身軽に二三間とび退いていた。
「その手は喰わんぞ、ここでばっさりやられるほど初心な相手じゃあねえ、折田……もういちど云うが己は黙ってるが、例の方は承知だろうな」
「例の方とは……」
「白っぱくれちゃあいけねえ、是だけの大仕事に眼をつぶらせて、まさか独り占めという法はねえだろう。……明日行くからな、一杯呑めるだけ頼むぜ」
くるりと無頼漢の正音《しょうね》を出した。
「十両だ。いいな、十両だぜ」
そう云って、低く鼻で笑うと、彼は消えるように闇の彼方へ去って行った。
――十両、十両か。
与之助はほっと息をついた。
――五十金、百金とでも云うかと思った。十金ぐらいのことなら自分の持ち金の中からでも出せる。
――慾にからむ奴は、慾さえ満足させてやればどうにかなる、――三十日か五十日、そのあいだ黙らせておけばいいのだ。
そう考えると却って気が楽になった。与之助はそっと宿直の詰所へ戻って行った。
「是で終いです」
与之助はごくっと唾液をのみながら云った。
「もう頂戴には出ません、是で終いですからどうか都合して下さい」
「この前もそう云ってたじゃないか」
信蔵は弟の眼を頬に感じながら、さっきから頑強に庭を見ていた、――四月(新暦五月)の庭に伸びるさかりの草木で、いっぱいに烈しい陽を浴びた若葉が、むせるような緑を盛り上げている。
「……与之助」
信蔵は眼動かさずに云った。
「お前病気の届けをして、この十日あまり登城せぬというが本当か」
「はぁ、――工合が悪かったものですから」
「こんなことを云うのは厭なんだが」
と信蔵は思い切ったような口調で、
「おまえ此の頃まるで人間が変ったな、……この家にいると気鬱だと云って、川端の下屋敷へ移ったのは三月だった、それから間もなく金をせびり出した、数えて見たらひと月あまりのうちに百金を越している、金を惜しむ訳じゃない、叱るんでもない、心配なんだ、若い者はついした誘惑にも身を誤る、それが拙者は心配なんだ」
「申訳ありません、兄上。……けれどわたくしだって武士です、無意味に身を誤るようなことは決して致しませんから」
「じゃあ話して呉れ、いったいどうしてそんなに金が要るんだ、なんに遣うんだ」
そう云って初めて振返った兄の眼から、与之助は苦しそうに面を伏せた。信蔵は、暫《しばら》く弟の着白い顔を見|戍《まも》っていたが、
「与之助、おまえ此頃、木下丈右衛門と往来しているそうだな。……どうしてあんな男と交合うようになったんだ、あの男が世間からどんな眼で見られているか知らぬ筈はなかろう、いったい木下とどんな関係があるんだ」
「兄上、お願いです」
与之助は両手を突いて哀訴するように云った。
「お願いですから、なにも訊《き》かないで二十金お貸し下さい、もうこんど限りお願いは致しません、どうしても入用なのです、理由はいつか兄上にもお分りになる時がまいります。それまでどうかなにもお訊きにならないで、こんどだけ二十金御用立下さい、この通りお願いです」
「……そうか、……やっぱり、云えないのか」
信蔵は弟から眼を外《そ》らすと、立って静かに部屋から出て行ったが、間もなく金を白紙に包んで戻って来た。
「では二十金」
そっと弟の前へ差出して、
「是限りという約束だぞ」
「……忝《かたじけ》のうございます」
与之助は兄の顔を見ることが出来なかった、金包みをふところに入れると、挨拶してすぐに立った……力の無い、そのくせになにか追われているような挙動であった。
「与之助、庭を見て行かないか」
信蔵は明るい声で呼び止めながら立った。
「おまえの好きな花が咲き出したぞ」
「はあ……わたくしのすきな花……」
「苧環《おだまき》だよ、如何にもおまえのすきそうな花だと云って由紀がよく丹精したから、今年はみごとに咲き出しているぞ」
「……そうですか」
「二三本|剪《き》って行ったらいい」
そう云いながら兄弟は庭へ出て行った。
二人が近づいて行ったとき芍薬《しゃくやく》畑に、一人の美しい娘が草抜きをしていた。……折田家の遠縁に当る孤児で、七年ほど前から此家に引取られている。名は由紀、年は十八で、とびぬけた美貌というのではないが、少し憂いのある眉つきと、つぶらな、黒い木実のような眼許に、形容しようのない魅力がある。……兄弟の父折田|税所《さいしょ》は、いずれ長男信蔵の嫁にするものと早くから定めていた。
「由紀、……与之助がきたよ」
信蔵がそう声をかけると、娘は吃驚《びっくり》したように身を起して振返った。……強い日光にさしつけられて、ずっと上気した顔に、健康な匂うような羞《はじら》いの花が咲いた。
「まあ、ようこそ」
「苧環《おだまき》を剪って行くと云うんだ、咲いてるのがあるかしらん」
「ええ、咲いておりますわ」
由紀は芍薬畑の脇の方へ振返った。
「今年はたいへん色が濃うございますの、お剪りになるのでしたら、わたくし鋏を持ってまいりますわ」
「いや折ればいいだろう」
「折り悪うございますから、すぐ持ってまいります」
由紀は会釈して家の方へ小走りに去った。
与之助はじっと苧環の花をみつめていた。指を触れれば濃い紫がそのまま指に付きそうな花だった。……けれど葉のなりも他の草とは違ってどこか寂しげな、云って見れば、うら若い尼僧が憂いに沈んでいるというようなあわれ深い花であった。
「与之助、拙者はなあ」
信蔵はぽつんと云った。
「おまえと由紀とを一緒にして、早く分家させる日が来ればと思っているんだぞ」
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
「兄上、それは兄上」
「まあ聞け、拙者には分っている」
信蔵は花を見下ろしたまま続けた。
「おまえが由紀をどう思っているか、疾《と》うからこの兄には分っていた。だから、いいか由紀のことは心配するな。……父上のお考えがどうあろうと、兄がいる以上は大丈夫だ、いいか、そんなことで気を腐らせる必要は、ちっともないぞ」
「兄上は、……兄上はそんな風に……」
与之助は眉のあたりを蒼くした。そして何か抗弁するように兄を見たが、それ以上なにも云うことが出来なかった。
……由紀が鋏を持って戻って来た。
剪花を手に、屋敷を出る与之助を、信蔵は門前まで送って出た。
「与之助、工合が直ったら登場する方がいいな」
「はあ、そうします」
「父上に知れるといけないからな」
「二三日したら、出仕しようと思います」
そう云って、与之助は逃げるように兄の前から去ろうとしたが、ふと振返って、
「兄上、まだ江戸から便りがないでしょうか」
と訊いた。
「江戸から便り?」
「御宝物お貸し下げの再願いです」
「あれか。……うん」
信蔵は首を振った、「あれはやっぱり諦めた方がいいな、御宝物の中でも大切な品だ、再願いでお許しが出るものなら、去年のお願いのときお許しが出る筈だ。あれはもう諦めた方がいいと思う」
「そうでしょうか。……では」
ありありと失望の色をうかべて、白く乾いた日盛りの道を、与之助は足早に歩き出した。
胸も頭も、兄の愛情で溢れるようだった。十二歳の時母親を喪って、父はただ厳格一|途《ず》の人だった。幼い時分から体が弱く、武芸よりも学問の方が好きな彼は、
――武士の子に似ぬ柔弱者。
といつも父から叱られてばかりいた……。
それを庇《かば》ってくれるのは兄だった。父の振上げた拳《こぶし》を、幾たび兄の腕の下で避けたことであろう。父には許されぬ書物を、幾たび兄に買って貰っただろう。当時まだ高価でもあり、寧ろ稀覯《きこう》でさえもあった蘭書を、遠く大阪から長崎まで手を伸ばして求めて貰ったこともあった。
どんな無理を云っても、曽て眉をひそめた兄の顔を見たことがなかった。母親でもこんなに寛大ではあるまい、そう思うことがしばしばだった。
――それが今日、初めて、二十金という無心に眉をひそめた。
――当然だ、当然だ、いくら兄だって。
与之助は兄の声音を思い出して、歯を喰いしばりながら心のなかで叫んだ。
――いくら良い兄上だって、
追い風が、道の上に灰色の埃《ほこり》を捲《ま》いて走った。……初夏の太陽は、眩《まばゆ》いばかりに烈しく照っている、与之助は夢中で歩いて行った。すると城下町を出はずれて間もなく、
「おい、ここだここだ」
と大声で呼びながら、右手の雑木林の中から木下丈右衛門がとびだして来た。
「ひどく待たせたじゃないか、まる一刻になるぜ、若しかしたら高飛びをしたんじゃないかと思ったくらいだ」
「するかも知れない」
「冗談じゃあねえ」
並んで歩きながら、丈右衛門がにっと白い歯を見せて肩を振った。
「おめえにそんなことが出来るか、若しそんなふざけた考えが起ったら、父御と兄御のことを思い出すがいい、……己がいちぶ始終を訴え出たときのことをさ」
「そうすれば貴公の罪も明白になる」
「むろんのことさ、九百石御勘定奉行の一族が道伴れなら、己はいつでも無頼なこの首を進呈するよ」
与之助はふところから金包を出すと、突きつけるように相手に渡して云った。
「さあ約束の金だ、然し断っておくが是が最後だぞ、もうあとは御免だぞ」
「いいとも、だいぶ己も恩借にあずかったからな」
「きっとだな、念を押したぞ」
「まあそうむきになるな、是だけあれば当分は温和《おとな》しくしているよ、じゃあ孰《いず》れまた――」
ひょいと肩を振り、にっと笑って丈右衛門は引返して行った。
与之助は追われるように下屋敷へ帰った。
三月のあの夜から間もなく、彼は父や兄の許を去って、真名川畔にある下屋敷に住んでいた。……そこは渓流に臨んだ断崖の上で、別墅《べっしょ》造りの質素な構えだが、広い庭のはずれはそのまま渓谷に向ってひらき、屋敷周りは松と櫟《くぬぎ》の林で、一里彼方に城下町があるとは思えぬほど閑寂な山荘であった。
「お帰りなされませ、お疲れでございましょう」
留守番の藤吉老夫婦が出迎えるのに、与之助は軽く頷いただけで奥へ入った。
母屋の廊下を鍵なりに曲ると、曽て母の病間に建てた離れがあった。仕切りの杉には、「入室を禁ず」と書いた紙が貼ってある。それを明けて入ると、中は八畳の部屋で、東と南に窓があるのだが、どちらも厳重に雨戸が閉してあるので、部屋の中は一寸先も見えぬ闇だった。
××××
蝋燭の火がぽっと光暈《こううん》を放っていた。
部屋の中央に幅三尺、長さ十尺ほどの台がある。蝋燭はその一端に立っている。その蝋燭の火と相対して、枠に入れた鏡玉が二個、おのおの四寸ほどの間隔で立ててある。だから蝋燭の光は、二つの鏡玉を透して、一方の端にある立板に、光の輪を射しつけていた。……是は最も原始的な、鏡玉の焦点距離を計る方法と思われるが、果して与之助はなにをしているのだろう?
彼はいまその台の前で、丸い筒型のものを削っていた。――身の周りには幾つもの手桶や、木屑や、金属板などが取り散らしてあり、彼自身も躯《からだ》中いろいろな削り屑にまみれていた。
「……もうひと息だ、もうひと息だ」
自分を唆《けしか》けるように呟きながら、夢中で仕事を続けていた与之助は、突然……手を休めて顔を上げた。
生色のない顔色、尖った頬骨、白い唇、そしてただ一つそこだけに全生命を凝結しているような双眸《そうぼう》。彼はその眼で宙を睨《にら》みながら、なにかを聞きとろうとするように、暫く耳をすましていたが、不意に座を立って、部屋から出て行った。
外は今日もすばらしい天気だった。
暗がりから廊下へ出ると、庭いっぱいに照っている日光の反射で、与之助は思わず、両眼へ手をやった。……それを見つけたのであろう。庭の向うから遠慮ぶかく近寄ってきた者があった。……由紀であった。
「由紀さんだな、なにか用ですか」
眩《まぶ》しそうに眼を細めながら、与之助は咎《とが》めるような口調で云った。
「先日は失礼いたしました」
由紀は面を伏せたまま会釈して、
「信蔵さまのお申付けで、わたくし今日から此方のお手伝いをしにまいりました」
「兄上が、兄上が行けと云ったのですか」
「はい、お躯の工合がすっかりよくなるまで、よくお世話をするようにと、それから、……あの若しかして」
と娘はやはり面を伏せたまま云った。
「もしかして、きてはいけないと仰有っても兄の申付けだと云って、戻ってはならぬと、固いお申付けでございました」
「それは困ります」
与之助は苦しそうに云った。
「ここには藤吉夫婦がいるし、少しも身の周りの不自由はない、却って人が多い方が迷惑です。……怒らないで下さい、拙者は静かな処にいたいんだ、貴方に限らず、誰にも側にいて貰いたくはないんです」
「よく分っております」
由紀は消え入るような声だった。
「でも私、決してお邪魔はいたしません、なるべくお眼につかない処に居りますから」
「――由紀さん!」
与之助はふとつき上げるような声で呼びかけたが、すぐにその火のような調子を噛《か》み殺して、
「ちょっと庭を歩きましょう」
そう云って彼は庭下駄をはいた。
前庭を左へ百歩ほどゆくと、少し爪先さがりになっていて、そとから雑草の茂っている先は断崖だった。……三本、古い松が枝をさし伸ばしている。与之助はその木蔭に入って佇《ただず》んだ。
……断崖の高さは七十尺もあろう、下を覗《のぞ》けば真名川の深淵が青黒く瀞《とろ》をなしている。
「由紀さん、貴女はどうして兄上が、……貴女をここへよこしたのか、その訳を知っていますか」
娘は与之助から少し離れて立ち、深くうなだれたまま、答えようとはしなかった。
「兄上は、由紀さんと拙者を一緒にしようと思っているんだ」
「与之助さま」
「いや云わせてくれ、いつかははっきりさせなくてはならぬことだ、由紀さん、兄上はそう思っているんだ、兄上は疾うから、拙者が由紀さんを想っているものと考えていた、それでずいぶん色々と心を遣って呉れるんだ。……嬉しい、その気持ちはどんなに感謝しても足りない位嬉しい、けれど兄上は思い違いをしている」
与之助はなにかをのみこむように、ぐっと喉をならした。……それから、ひどく舌重げに続けた。
「兄上は思い違いをしているんだ、拙者は……貴女を、……想ってなどはいない。……想ったことさえも、ないんです。それよりも寧ろ貴女が誰をその心に秘めているか、……拙者にははっきりと分っている」
由紀はいつか両手で面を蔽《おお》っていた。……時鳥《ほととぎす》が一羽、渓谷に鋭い鳴き声を反響させつつ、対岸の山の森をかすめとんだ。
「由紀さん、父上は貴女と兄上を夫婦にすると定めている。いいか、それが本当なんだ、貴女のために、……みんなのために、それが一番仕合せな落着だ、分っているね、貴女はただ、兄だけを確《しっか》りと守っていればいい、兄上だけを、――分りますか」
「……与之助さま」
××××
由紀はくくと、円い肩を震わせながら、むせびあげた。
そのとき、急ぎ足に近づいて来る人の足音が聞えた。与之助が振返ってみると、藤吉が木下丈右衛門を案内してきたのであった。……与之助はすばやく、
「由紀さん、家へ入っていなさい」
と囁《ささや》いて、此方から歩み寄っていった。
「閑静なお住居ですな」
丈右衛門は、藤吉と由紀が家の方へ去るのを見送りながら、白々しい声を張り上げで云った。
「こういう場所にのんびりと暮していられる貴殿はお仕合せだ、実にいい、命が延びるようですなあ、はははは」
「なんの用だ、もう会わぬ約束ではないか」
「そのつもりだったがねえ」
丈右衛門は二人だけになったのを認めると急にいつもの不敵な冷笑をうかべて、
「実際そのつもりだったがね」
「もう御免だ、貴公には百金以上も遣ってある、なんと云おうがもう一文も出さぬからそう思ってくれ」
「で、ござるかな」
丈右衛門はぐっと落着いた声で云った。
「いや御尤も、そのお怒りは重々恐れ入る、だが今日まいったのは、貴公から金を無心しようというためではない」
「……無心ではない、そんならなんのために」
「実はな、拙者もだんだんと身がつまって来た、このまま呆《ぼん》やりしていると、支配役に掴《つかま》って仕置になるか、悪くすると獄門を喰うかも知れぬという有様だ、……そこで愈々《いよいよ》どこかへ退国する覚悟だが、なにより先立つものは金だ、それも今までのように、十両や二十両の端金ではどうにも成らぬ、少くとも百か二百、まとまらぬことにはしようがない」
「それで、それでどうしようと云うのだ」
「詰りそれでだ」
丈右衛門はにっと笑った。
「貴公に頼んだところで、断わられるのは分りきったことだし、万一まあ肯《き》いて呉れたところで、高々十両か二十両、それよりいっそ貴公の御尊父に会って」
「木下、なにを申す、なにを!」
「冗談じゃないぞ、己は本気で云ってるんだ、御尊父なら、まさか百や二百の金で、勘定奉行の名誉と家名を捨てはなさるまい、もし否とでも云われたら仕方がない、己もどうせ身の詰りだから訴えて出る」
丈右衛門の顔は、今まで見たことのない残忍な、悪の表情にひきつっていた。
「ここへ来たのは、それを一応お断りするためだ、分ったかい。……こう断ったからには、もう用はない。帰るからな」
そう云うと共に、彼は平然と踵《きびす》を返して去っていった。
――脅《おどか》しだ、脅しに定っている。
与之助はそう呟いたが、然し去って行く丈右衛門の肩つきには、太々《ふてぶて》しい決意が表われていた。……やりかねない、そして若し本当に父に会ったとしたら、父があの事を知ったとしたら。
「おい待て、木下、待て」
与之助はつきとばされたように走り出した。
丈右衛門は木戸脇の松林のところで、振り返って待っていた。
走せつけた与之助は、息を喘《あえ》がせながら云った。
「父に会う必要はない、その金は拙者が拵えよう」
「貴公に都合の出来る高じゃないぞ」
「明晩きてくれ、母が死ぬ時拙者に遣してくれた金が二百両ある、それを持って来ておく、貴公が……本当にその金で退国するなら、拙者も二百両出す」
「間違いあるまいな!」
ぎろっと睨みあげる眼を、与之助は燃えるような眸で見返しながら答えた。
「間違いない、明晩七時だ」
「よし、明日の晩七時、……その時金がなかったら、本邸へ出掛けるからそのつもりでいろ」
きめつけるように云って、丈右衛門は大股に立去った。
それを見送ってから、与之助はすぐ離れへとんで帰ったが、それっきり、部屋に籠ったまま出て来なかった。
昼も夕も、食事を運ばせ、杉戸の口で受取って、部屋の中で独りすませた。
……由紀は客間に寝ていたが、夜中ずっと離れの部屋でこつこつと、なにか仕事をしているらしい物音が、続いているのを聞いた。
[#8字下げ]三[#「三」は中見出し]
下城して来た信蔵は、出迎えの中に由紀が居るのを見て驚いた。
「どうしたのだ、帰って来たのか」
「はい……」
由紀は信蔵から大剣を受取って、一緒に居間の方へ行きながら、
「お届け物を申付かりましたので、爺と一緒にちょっと戻ってまいりました」
「届け物だと!」
「はい、お手紙も附いてございます」
なんだろう、信蔵は着換えをする間、色々と考えたが、分らなかった。……支度を直して部屋へ入ると、由紀は床の間から、大きな包を重そうに運び下ろして来た。
「是でございます」
「いや拙者があけよう」
信蔵は野を乗り出してその包を解いた。
出て来たのは袱紗《ふくさ》に包んだ筒型の物と、四角い桐の箱である。……先ず桐の箱の蓋をとってみると、中には黒檀《こくたん》の台に作りつけた妙な機械が入っていた。長さ一尺足らずで、二つの筒を嵌込《はめこ》み、上から覗くようになっている。
「――はて、なんだろう」
「お手紙を御覧あそばしては?」
「そうだ手紙があったんだね」
信蔵は由紀から手紙を受取ると、封を切って披《ひら》いた。……それには次のようなことが書いてあった。
兄上は顕微鏡というものを御存じですか。……天正年間、スペインの宣教師が織田信長に二つの贈物をしています。一つは望遠鏡で「七十五里を一望す」と記してあり、別の一つは顕微鏡と云って「芥子《けし》粒も卵の如く見える」と記してあります。……望遠鏡の方は今日まで伝来し、お家の御家宝にも二個ありますが、「顕微鏡」の方は現存している話は知りません、わたくしは兄上に買っていただいた蘭書で顕微鏡のことを読み、この二年ほどはどうかして自分の手で作ってみたいと苦心しました。――そして要るほどの材料は集めたのですが、最も大切な「鏡玉」の点で行き詰ったのです。そのために一年ほどやせる苦しみをしました、結局、御宝庫にある望遠鏡を拝借し、その鏡玉で像を結ぶ距離(焦点距離)を実地に験《ため》してみる他に方法がないと定めました。
そこで私は御宝物の望遠鏡をお貸し下げ下さるよう、願い出ましたが、御存知のように許されませんでした。……然し兄上、御宝物が如何に尊くとも、お庫の塵に埋めておくだけでは意味をなしません。若し是を参考にして、新しく顕微鏡という物が出来るとしたらどうでしょう。……わたくしは決心しました。そして、
「由紀、灯を入れて呉れ」
信蔵は文字の重大さに驚いてぱっと手紙を伏せながら去った。……そして、由紀が行燈に火を入れて来ると、
「此処はいいから暫く向うへ行っていてくれ」
そう云って由紀を遠ざけた。手紙の文句は更に驚くべき文字で埋まっていた。
即ち、決心した与之助は宿直番に当った夜御宝庫に忍び入り、望遠鏡の一つを盗み出して来たという。そしてそれを解体して鏡玉を取出し、その焦点距離を計りつつ、遂に顕微鏡を作ることが出来た、詰り……いま届けた箱の中の物がそれだ、と書いてあった。
「そうか、そんな仕事をしていたのか」信蔵は人間の熱意の底知れぬ力に、寧ろ圧倒されながら、弟の作った顕微鏡を見やった。――手紙は更に続けている。
――然し兄上、御宝物を取り出すとき、わたくしは不覚にも木下丈右衛門にみつかってしまいました。どうして兄上から金をおねだり申したかは、是でおわかりと存じます。然しわたくしは到頭望みを果しました。ことに顕微鏡の使い方を書いておきますから、どうか兄上の手で殿へ献上して下さい。……望遠鏡も一緒に包みましたから、御宝庫へお返し下さるよう御願い申上げます。
読み終った信蔵はすぐに袱紗包を解いてみた、果して中から御宝物の望遠鏡が出て来た。
――思い切ったことを!
信蔵は幾つもの意味で歎息をもらしながら呟いた。……御宝庫へ忍び込んで、宝物を持ち出すなどということは軽からぬ罪である。その罪を承知で彼はやった、顕微鏡というものを作るために、宝庫の中で埃に埋れている物を役立てた。そして彼は立派に顕微鏡を作り上げたのだ。
――然し犯した罪は消えぬ。
与之助の為しとげたことがどんなに立派であろうとも、それで犯した罪が消えた訳ではない。それは本人がいちばんよく知っている筈だ。……然も木下丈右衛門という者に、今日まで絶えず脅迫されていたという。……では与之助はいまどんな風に自分を処置しようとしているか。そう考えて来たとき、信蔵は思わず、
「いかん!」と叫びながら立った。
××××
「由紀……袴《はかま》を持って来て呉れ」
「はい」由紀が来た。信蔵は袴を着けながら、
「与之助はこの手紙の外になにか云っていなかったか、様子になにか変ったことはなかったか」
「はい、……別に変った様子もないと存じましたけれど」
「藤吉の爺はすぐ帰ったのか」
「まだ此方におります。帰りが夜道になっては危いから、明日戻って来いと仰有いましたので……」
「そうか」信蔵は唇を噛んだ。
届け物のためなら藤吉一人でいい筈だ、二人を出して泊って来いというのは、今宵のうちに身の始末をしようという考えに違いない、……信蔵は馬を煽《あお》って下屋敷へと向った。
――与之助、待って呉れ、死んではいかんぞ、己がどんなことをしても罪にならぬように計ってやる、死んではいかんぞ!
下屋敷に着いた信蔵は、馬をつなぐ間ももどかしく、すぐに裏に廻って庭へ入った。声をかけては却って悪い、そう思いながら、母屋の方へ庭を横切ろうとしたとき、……右手の庭のはずれの断崖の方にぽつんと提灯の火があるのを見つけた。
「与之助、そこにいるのは与之助か」
叫びながら走って行った。すると庭はずれの松の根方に、提灯が一つ置いてあるきりで、人の姿は何処にもない。
「与之助! 与之助!」信蔵は声をはり上げて叫んだ。
そのとき、すぐ右手の叢《くさむら》でなにか動く気配がした。……はっとして行ってみると、まず血の匂いが鼻をつき誰か倒れているのが見えた、それは与之助であった。
「あっ、おまえ、……与之助」信蔵は悲鳴のように叫びながら抱き起した。……与之助はまだ意識があった。
「己だ、信蔵だぞ、分るか与之助」
「……兄上」
信蔵の叫ぶ声に、与之助は力無く頷いてみせながら、舌重げに辛うじて云った。
「兄上、……御安心願います、丈右衛門は、わたくしが討止めました」
「なに、木下を斬ったというのか」
「死体は、その断崖から、河へ投入れました、……ですから、折田の家名に瑾《きず》のつかぬよう、後をお願いいたします」
「心得た、然しこうしなくても方法はあったのだ、おまえ、はやまったぞ!」
「否え、これが、これがわたくしにとって、いちばん良い方法なんです。ただ、どうか家名に瑾のつかぬよう、始末して下さい。……父上に御迷惑のかからぬよう……たのみます」
「分った、それは兄が必ず引受けるぞ」
「それから由紀さんのことだ」与之助は苦しそうに息をついて云った。
「兄上は、由紀さんの気持ちを知らない、……由紀さんは、兄上を想っているんです……」
「馬鹿な、なにを云うんだ、与之助」
「本当です。……あの人は兄上を想っているんだ、……あの人を仕合せにしてあげて下さい、わたしはあの人を想っていなかった。……そんなことは考えもしなかった。兄上、これが与之助の最後のお願いです。あの人を仕合せにして上げて下さい」
それだけ云うのが精いっぱいの努力だった。云い終ると共に、与之助の躯は、兄の手からすべり落ちて、草の上に倒れた、提灯の光が哀しく死顔を照らしている、そしてその死顔のすぐ傍に苧環の花が一輪、叢の中から弔うように覗いていた。……信蔵はその花が眼についたとき、我慢の緒もきれて、両手で面を蔽いながら咽《むせ》びあげた。
「そうか、……おまえはそんな苦しみも持っていたのか、知らなかった、己は知らなかった」
肺腑《はいふ》を絞るような声が、夜の闇をかなしく震わせた。……苧環の花の紫は、与之助の魂をかき抱くように叢の中で音もなく揺れていた。
底本:「修道小説集」実業之日本社
1972(昭和47)年10月15日 初版発行
1979(昭和54)年2月15日 新装第七刷発行(通算11版)
底本の親本:「譚海」
1941(昭和16)年5月号
初出:「譚海」
1941(昭和16)年5月号
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