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寝ぼけ署長10最後の挨拶
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寝ぼけ署長
最後の挨拶
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)噂《うわさ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)品|蒐集《しゅうしゅう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#「目+旬」、第3水準1-88-80]
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[#6字下げ]一[#「一」は中見出し]
「おいあの噂《うわさ》は本当か」毎朝新聞の青野庄助が帽子をひっ掴《つか》んで、とび込んで来るなりこう喚《わめ》きました。彼の耐《こら》え性《しょ》のないのに飽き飽きします、「本当かどうかって訊《き》いているんだ、嘘《うそ》だろう、ええ嘘なんだろう」
「誰か他の人間に訊いて呉《く》れ、僕はなんにも知らないよ」私はこう答えて書類をめくりました、「元来こんな事は君の社の県庁詰のお先ったりのほうがよく知ってる筈《はず》なんだ」
「だから飛んで来たんじゃないか、然《しか》し、――」彼はじっと私の顔を見たようです、「そうか、わかったよ、君のその不景気な面を見れば慥《たし》かめるまでもねえや、だが原因はなんだ」
「誰か他の人間に訊けと云ってるじゃない」私は中《ちゅう》っ肚《ぱら》でペンを抛《ほう》りだしながらどなりました、「あの噂は本当ですか、嘘でしょう、本当に本当だとすると原因はなんですか、どんな理由なんでしょう、たくさんだ、朝から三十人も四十人も押掛けて来て、同じことを根掘り葉掘り訊きやがる、へん、今になって本当も嘘も原因も理由もあるもんか、うっちゃっといて呉れ」
「ふうん、――すると愈《いよ》いよ十日の菖蒲《あやめ》か」青野はこう狼狽《うろた》えたことを云いました、「だがおれは指を銜《くわ》えちゃあいないぜ、三面にでかでかと書いて輿論《よろん》を煽《あお》ってやる」
「赴任して来た時のようにかい、居眠り署長だの狸《たぬき》だの無能だのってな」私は、なお意地わるくこう云ったものです、「寝呆《ねぼ》け署長《しょちょう》という綽名《あだな》はたしか毎朝新聞で付けた筈《はず》だっけ、我われはずいぶん親切な待遇をしたものさ」
「なんとでも云え、おれは敢《あ》えて市民のために、――」
青野はこう云いかけて窓へ駆け寄りました。署の表のほうから非常に大勢の喚き叫ぶ声が聞えて来たので、いって見ますと正門の外はいっぱいの群衆で、紙のぼりや大きな白張《しらは》りの提灯《ちょうちん》や番傘やばかでかい万燈や、古風にも蓆旗《むしろばた》まで担《かつ》ぎだしている騒ぎです、これらの物には様ざまの文字と書体で「祈五道署長留任」とか「署長を我等に還せ」とか「断乎《だんこ》転任反対」とか「署長なくして市民あらず」とか「県内務部の無能人事を打倒せよ」とか中には片仮名で「ショチョウサマ、ワタシタチヲミステナイデクダサイ」などという胸の痛むようなものもありました、詰りこれがいつか申上げた、署長の留任を望む蓆旗さわぎだった訳で、金花町や富屋町の貧民街の者が主となり、署へ押しかけた時は千人ちかい人数になっていました。そうです、我が寝ぼけ署長が本庁へ転任と定《きま》ったのはほんの五日ばかり前でしょう、だからもちろんまだ辞令が出た訳でもなし、こうして社会部記者の青野でさえ真偽を慥かめに駆けつけるくらいなのにどこからどう聞き伝えたものか出勤するともう待っている者があったし、後から後からやって来た、転任の真否や原因や理由を諄《くど》くど訊かれる始末で、少々うんざりしていたところなんですが、その群衆の素朴な熱情にはやっぱり心をうたれずにはいられませんでした。
「嬉しい風景だなあおい」青野は煙にでも噎《む》せたような声で云いました、「惜しまれる署長も署長だけれど、こんなに純粋な信頼と愛情も珍しいぜ、――親爺《おやじ》はなにをしているんだ」
「午前ちゅうは帰らないよ、県庁だ」
紙のぼりや万燈や蓆旗を振り振り、声いっぱい喚いたり叫んだりしている群衆を眺《なが》めながら、私はふと自分もその群の中にはいって署長よゆかないで下さいと叫んでいるような錯覚におそわれたものでした。
関口久美子が渡辺老人に伴《つ》れられて来たのはそれから間もなくのことです。――群衆は主任が玄関へ出て挨拶をすると、代表者を出して留任嘆願の連名帳を差出し、それから市街を派手に行進して県庁へまわり、更に公園で市民大会を催したそうです。こうして騒ぎがひと鎮《しず》まりし、青野も去って(彼は示威行列を写真記事にするのだと張切ってましたが)やれやれと机に向って間もなくでした、ぜひ署長にというので会うと、渡辺老人と久美子なんです、「署長は午前中は帰りません、私でよかったら用件を聞きましょう」こう云いますと、久美子は考えようともせずに、「ではお帰りになるまで待たせて頂きます」と躯《からだ》を固くして動く容子《ようす》がない、仕方がないので私は彼等を椅子に掛けさせました。渡辺老人、久美子、こんな風に云うのは実は私が二人を知っているからなんです。それはこれまで度《たび》たび申上げた貧民街めぐりですね、一週間に一度は欠かしたことのない署長の貧民街訪問、そのとき知り合ったものなんですが、渡辺老人は象牙《ぞうげ》職人、久美子の父は時計師で、金花町一丁目の相長屋に住んでいました。署長はこの二人が特にお気に入りとみえ、ゆくと必ずどちらかの家で話し込むのが定りで、しぜん私も顔なじみになっていた訳です。
「署長さんはどうしても転任ということになるんですかなあ」渡辺老人がふと溜息《ためいき》をつきながら云いました、「お上《かみ》の事だとするとどうも仕方のない事なんでしょうが、やっぱり世の中は雨降り風間、そういった感じのものですなあ」
[#6字下げ]二[#「二」は中見出し]
渡辺老人の言葉はなんてもない平凡なものですが、私はふと署長が最もこころよく受取るのはこういう表現ではないかと考えました。あの大群衆の留任運動も感動なしには眺められないでしょうが、蓆旗とか紙のぼりとか万燈とか、それにああいう激越な文句を書き立て騒がしく押廻す。こういう派手な遣方《やりかた》は、署長のなによりも嫌うことなんです。――世の中はやっぱり雨降り風間ですな、はっきりした意味はないながら一種の淡い哀愁の匂いのある、こんな別れの言葉こそ署長にはいちばん相応《ふさ》わしい、私は独《ひと》りでそんな考えに耽《ふけ》っていました。
署長は十二時ちょっと前に帰りました。沈んだ苦にがしい顔をしているのは恐らくあの仰々しい示威騒ぎを見たせいでしょう、入って来て私の部屋に老人と久美子のいるのをみつけると、更に眉をしかめ、黙って署長室へ入ってゆきました。後から付いていって食事を訊きますと、「県庁で済ませて来たから要らない、それから今日誰にも会わせないで呉れ」と云います、私は二人が二時間も待っていたこと、久美子の容子でみるとなにか深い事情がありそうだということを告げました。
「どんな事情にしろ、署長としてはもうなにも聞く訳にはいかないんだ」こう云って疲れたように椅子の背へぐたりと凭《もた》れ、「なにしろこの椅子へ掛けるのも三日きりなんだから」
「三日ですって、――そんなに早くですか」
私がこう眼を瞠《みは》ったとき、そこへ来て聞いてでもいたのでしょうか、扉を明けて渡辺老人が現われ、「関口さんが殺されましてな」と低い声で云いながら入って来ました。低いさらっとしたその調子が、「殺された」という意味を逆に強く感じさせ、署長もちょっと虚を衝《つ》かれたかたちで、老人を側にある椅子へ招きました。
「関口さんが、どうしたんですって」
「殺された」渡辺老人は袂《たもと》から煙草を取出しながら、「――らしい、と云いたいんですが事実そうあって呉れればめでたいですがな、どうにも色いろの事が揃《そろ》い過ぎているもんですから」
「それなら私の処へなど持って来ないでどうしてすぐ届け出なかったんです」
「そこにも訳があるんでして、と云うのはですな、――犯人、もし、実際に間違いがあったとしてですな、その犯人と思われるのが、貴方《あなた》も御存じの亀三郎のような具合で、然《しか》もいちおうその証拠のようなものがあるもんですから、それでこれだけはなんとしても署長さんのお力を借りるところだ、こう思ってまいったのですがな」
「お午食《ひる》がまだでしょう」署長は、身を起こして、「よかったらなにか取りますから喰《た》べながら聞きましょう、久美子さんも一緒にどうです」
「そうですな、あの子は朝も喰べなかったようですから」老人はそこでふと笑いました、「――ちょっと肩身の狭い話だが、それでは頂きましょうか」
「肩身が狭いとは、それはまたどうしてです」
「世間でよく云うじゃありませんか、警察の飯を食うって」
この辺に署長とこの人たちの親しさが表われている訳ですが、久美子も喰べると云い、私は二人の食事を命じに立ちました。――ここで簡単に関口親子を紹介しましょう、彼女の父は泰三という名です、名古屋の大きな時計工場の技術部で育ち、腕を認められてスイッツルへ修業にやられ、五年の積りがもう一年もう一年という希望で十年に及んだ、それは彼に或る野心があったからですが、帰って来ると会社の事情がすっかり変っていた、後援支持して呉れた幹部は退陣し、新しい機構と組織で見違えるような発展ぶりです、彼が十年スイッツルで修業して来たことなどは問題にならず、与えられた席もひどいものでした。どんなに失望したことでしょう、彼は世界第一流の時計を作る理想を持って帰ったのです、ウォルサムをもロンジンをも凌《しの》ぐ第一流の時計、――然し会社はまったく違った方向へ発展していた。廉価、廉価、そして大量生産です。それでも会社への義理だと思って、彼は十年そこで働き、退職するとすぐこの市へ引込んでしまった。二三招かれたそうですが、いずれも廉価な大量生産です、彼は工場という機構に見切りをつけ、金花町の裏長屋で時計の修繕を始めました。そしてその傍《かたわ》ら、材料を買って来て自分の腕いっぱいの時計を作るのです、そして自分に満足する物が仕上ると、東京のM・・時計店へ持っていって売りました、その店では初め相手にしなかっ、たが、美術品|蒐集《しゅうしゅう》で有名な英国帰りの兼松伯爵がみつけて買い、「これは日本ロンジンだ」と折紙を付けたそうだ、それからは出来しだい云い値で引取るようになったのです。然し一種の芸術欲で作るんですから、一年に二つ仕上れば、精々、一つも出来ない年さえあるので、値も高いし名も売れていながら、相変らず当人は裏長屋の貧乏ぐらしでした。――まだ会社にいるうち結婚した妻君は十二三年まえに死に、肉親といっては娘の久美子ひとりなんですが、その娘も去年から女学校を出ると、すぐ市の販売組合に勤めそ貧しい家計を助けている、概略こういった状態でした。
[#6字下げ]三[#「三」は中見出し]
「一昨々日の夕方のことですがな」食事が終ってから渡辺老が話しだしました、「久美子さんが勤めから帰ってみると戸が閉っていた、出かけるにしても戸閉めをするなんてことはないんで、気になったもんだから隣りの松岡さんに訊《き》いたんですな、すると午《ひる》まえに亀三郎君が来て、なにか話していたが一緒に出ていったとこう云うんです、それでまあ家へ入ったんですが、そこらにだいぶ物が散らばっているんですな戸納《とだな》も明いているし、仕事台のまわりも乱暴なことになっている、それを片付けて夕飯の支度をして待った、が、帰らない、八時が九時になり十時を打っても帰るけしきがない、段だん心配になるもんですから、念のために亀三郎君の処《ところ》へいってみると、これがなんと、――ぐでんぐでんに酔って、独《ひと》りで唄《うた》なんぞをうたっていた訳です」
「亀三郎君が酒をねえ」署長は首を捻《ひね》りました、「――それで、どうしました」
「お父さんはと訊くと、しどろもどろな口で東京のM・・へ出来た時計を持っていった、こういう返辞なんですな、おかしい、関口さんは御存じのように半年まえから署長さんの時計を作っていた、一世一代の名作を差上げるんだと、たいへんな意気込みで、それこそ精根を注いでやっていた、そんなM・・なぞへ持ってゆく品はない筈《はず》なんだ、が、然しなにか用事でもあったのかとその晩は帰り、翌《あく》る日《ひ》、出勤するとき東京のM・・時計店へ電報を打ったんですな」
「あんまり心配だったものですから」久美子が眼を伏せたまま云いました、「これまで黙って東京へゆくなんてことは決してなかったものですから」
「すると昨日の午過ぎのことですが」老人は煙草に火を点《つ》けながら、「占い師の権藤さん、御存じでしょう亀三郎君の隣りの、あの権藤さんの神さんが裏の掃溜《はきだめ》の掃除をしていると、大家で飼っているゴリですな、あの犬が隣りの家の縁の下からなにか銜《くわ》え出して来てふざけている、どうも着物らしいので取ってみると羽折《はおり》なんでして、それも関口さんがいつも着ていて見覚えのある物なんですな、妙なことがあると思っているとゴリのやつ、喜び勇んでまた緑の下へとび込んでゆく訳です」
権藤の妻君は人を呼んだ。そして捜してみると、亀三郎の台所の床から関口の着物と兵子帯《へこおび》が出て来たのです。そこで初めて渡辺老人が呼ばれました。――亀三郎は尾崎という姓で、印判屋をしている三十二三の独身者です。昼は長屋のひと間で認印だの三文判を彫り、夜は露店へ出るのですが、ごく温和《おとな》しい性質なのに博奕《ばくち》が好きで、いちど手を出すと本当の素っ裸になるまで止《よ》さない、二三ども拘留をくっていること、そのために毎《いつ》も貧乏で妻君も持てないでいる、だが当人はひどくあっさりと「この癖の直らないうちは女房は貰えません、泣きをみせるに定《きま》ってるんですから」などと達観したことを云っています、「博奕の面白いのは負けがこんで来たときにあるんでさあ、勝ちたい量見のあるうちは博奕の醍醐味《だいごみ》はわかりませんや」こんな風な話をする他《ほか》は、ふだんごく黙り屋の好人物でした。
「呼ばれていったが私にも考えがつかない」渡辺老は独特の調子で続けました、「その時はまだなんにも聞いていなかったし、亀三郎君は朝から留守でして、まあ関口さんで縁側にでも拡《ひろ》げてあったのを銜え込んだものなんでしょう、こんな風に云っていたんですがそこへ東京のM・・時計店から電報が来たので私が預かりました、三時半くらいでしたかな、久美子さんが帰って来る、話を聞く、電報をあけてみると『こちらへは来ない』というはっきりした返事なんでした」
縁の下から出た着物や帯や羽折、前日からの関口の失踪《しっそう》、それに絡《から》む亀三郎の行動、これらを組合せてみて、渡辺老人もこれは尋常の事ではないという気がし始めた。――とにかく亀三郎に精《くわ》しい事情を聞かなければならない、またそう云っているうちに関口が帰らないものでもないから、今夜ひと晩待ってみようということになり、寂しいだろうからと、渡辺老の妻君が久美子の処へ泊りにいった。老人は一時頃まで起きていたそうですが、亀三郎は朝になって、まだ暗いうちにひどく酔っぱらって帰ってまた、渡辺老はその声で起き、すぐにでかけていって関口のことを訊いたんです。亀三郎は泥酔していて、訳もなく「狐に化かされた」だの「いっぱい食った」だの「あの野郎は悪党だ」などと喚《わめ》く許《ばか》りです。それから水を飲ませたり寝かせたり、一時間あまり介抱して少し醒《さ》めかげんになったところで訊き直すと、前日いっしょに関口と出たが、公園の石段の処で誰かに関口が呼止められ、話し込む容子だから自分はそこで別れた、こんなことを云う。
「東京へいったという話は嘘か、こう訊きますと、そんなことは云った覚えがない、もし云ったとすれば酔っていてでたらめだ、そういうだけで結局わけがわからないんですな」
「縁の下から出た物のことを聞いたかね」
「いやそのことは黙ってました、関口さんの問題だから署長さんが力になって下さるだろう、こちらにはこちらの調べ方があると思いましてな、余計なことは訊かずに出て来たんですが」
[#6字下げ]四[#「四」は中見出し]
私たちは車で金花町へでかけました。――殺されたという事実こそないが、前後の事情を総合するとそういう疑いが起こるのも無理ではない、署長はふだん亀三郎にも好意を持っていたので、どんなにか心を痛めたでしょう、車の中じゅうずっと沈んだ顔で考え込んでいました。
「わあい署長さんだ、みんな来い署長さんだ」
車が金花町へとまって我われが下りると、まず浴びせられたのがこの歓声でした。なにしろ蓆旗《むしろばた》で留任運動をやっているさいちゅうです。普通でも姿を見れば純朴な敬愛の情を示さずにいない連中が、温和しくしている筈はありません、叫び声に応じてわっと人が集まって来ました。赤児を背負った神さん、老人、娘、若者、子供たち、「署長さんこの町にいて下せえ」「何処《どこ》へもゆかねえで下さい」「転任なんか御免ですぞ」「お願《ねげ》えだぞ」「頼みますそ署長さん」みんな真剣なんです。どの顔にも心から署長に呼びかけ、署長の同情に縋《すが》ろうとする思いが、哀《かな》しいほどじかに表われていました。私たちは自動車を小盾《ごたて》に、暫く立往生のかたちでしたが、やがて署長が大きな声で「皆さん」と云いだしました。
「皆さんがもし私を好いて呉れるなら、どうか私を困らせないで下さい、私に好意を寄せて呉れるなら、私に栄転と出世の機会を与えて下さい、私も官界の人間である以上それだけの出世がしたい、地方都市の警察署長で終るのが私の理想ではありません」ああ云いも云ったりです。集まっている人たち、縋《すが》りつくように署長を見上げていた人たちの顔に、どんな変化が現われたかは御想像に任せましょう、署長は更に声を励まして、「私はいま本庁へ呼ばれているのです、もし運命が幸いすればやがて警視総監になる希望もある、――どうか私にこの機会を掴《つか》ませて下さい、この機会を逃がすような邪魔をしないで下さい、お願いします」
云い終った署長はずんずん歩きだした。今まで密集して動かなかった人垣が、こんどはたやすく道を開いて私たちを通します、私には到底かれらの顔を見ることができませんでした。単純で素朴な人たち、信じている者の言葉は善《よ》し悪《あ》しに拘《かかわ》らずすなおに受取る人たち、――どんな失望、どんな落胆をかれらは味わったことでしょうか。が、私たちは関口の住居へ着きました。
部屋は上《あが》り端《はな》の四|帖《じょう》と奥の六帖だけです、署長はまず久美子に向って、初めの日ちらかっていたように、物とその位置を出来るだけ元のかたちに置くよう命じました。それから上ったのですが、上り端に穿《は》き古した足袋《たび》が片方と破れた新聞紙、小さな鑿《のみ》と鑢《やすり》など、また六帖との間の障子が三尺ほど明いており、敷居の上に久美子の腰紐《こしひも》が落ちている、――六帖のほうは隅に重ねてある座蒲団《ざぶとん》が散らばり、戸納が明け放しで、中が乱暴に掻《か》きまわしてあったそうです。裏に面した障子際に檜材《ひのきざい》のがっちりした仕事台が据えられて、その右手の壁に沿って、高さ四尺に長さ六尺ばかりの抽出付《ひきだしつ》きの棚が在る、これは修繕を頼まれた各種の時計や、その部分材料や器具類を整理して置くもので、そのときも二段めの棚に、懐中時計だけ十三個、きちんと一列に並べてありました。仕事台の周囲の散らかりようには久美子も困った容子《ようす》ですが、「大体のところでいいよ」と、署長も余りこだわりませんでした。これらの状態を見ると、ごく初心の空巣覘《あきすねら》いが慌《あわ》ててひっ掻きまわしていった、ざっとそんな風なものなんです。
「お父さんが私のために作っていて呉れた時計を知りませんか」署長はこう訊きました。
「はいそれは」久美子はこう云って、仕事台に付いている抽出の一つを明け、「――いつも此処《ここ》へ入れて置くんですけれど、……もう出来上るからって一週間ほど前にも、……ああございませんわ、ございません」
「他に納《しま》う処はないんだね、ない、――ふん」署長は棚に並べてある十三個の時計を眺めながら、「貴女《あなた》の物やお父さんの物で、他《ほか》になにか無いものはないかね」
其の他にはなにも紛失した物はなかった。そうすると、亀三郎の家の縁の下から出た着物は、関口泰三が着て出たものだということになる。――これらの条件から推すと、犯人は関口を誘い出し、どこかで殺害して(死躰の弁別のできないように着物を脱《と》って)家へ引返し、署長に贈るために仕上げてあった時計を奪って逃げた。こういう説明が成立ちます。――署長はそのときもまだ例の棚に並べてある時計を見ていましたが、亀三郎が渡辺老に伴れて来られたので、ようやくそこを離れながら、「そこに並んでいる時計の時間を書いていて呉れ」と私に命じました。
「時計の時間といいますと、なんです」
「その棚に十三個の懐中時計が並べてあるだろう、その一つ一つの針の指している時間を左から順にメモへ取るんだよ」
そして自分は亀三郎のほうへいって坐りました。私はなんのためともわからず、命ぜられたとおりメモを取りましたが、修繕を頼まれて棚に並べてある時計の、停止している指時表を作ってどうするのか、ちょっと馬鹿ばかしい感じで苦笑せずにはいられませんでした。
[#6字下げ]五[#「五」は中見出し]
「関口さんとでかけたのは、なにか用事があったのかい」
「へえ、なに、――」亀三郎は悄然《しょうぜん》と坐って臆病そうな眼を絶えずぱちぱちさせながら、衿首《えりくび》を撫《な》でたり膝《ひざ》を擦《こす》ったり、ひどくおちつかない容子でした、「なに用といえば用ですが、これといって別に、なんです、その」
「君が誘いだしたのかい」署長は例の眠ったそうな声になっています、「それとも関口さんのほうで一緒にゆこうと云ったのかい」
「あの日はあれです、私があれしたもんですから、関口さんがとにかく都合しよう」
「都合とは金のことなんだね」署長がとぼけた声をだしました、「君がまた悪い遊びをして不義理な借金ができた、そこで関口さんに相談したら都合してやろうと云う、そういう訳なんだね」
「借金じゃありません、私はばく、いえ遊びには決して借金をしないしきたりですから」恐ろしくむきな抗議でした、「どうかそんな風には考えないようにお願いします、とんでもない、借金だなんて、私がそんな人間にみえるでしょうか」
「それで一緒に出て、それからどうしたんだね、関口さんとどういう風に別れたのかね」
「詰りですね、それは渡辺さんにも云ったんですが、公園の、石段のところで」
「石段のところで、――」
「私は、私は知らない人なんですが、向うから来て、関口さんに声をかけたんです」
「洋服かね和服を着ていたかね」
「洋服のようでした、いや洋服です」亀三郎は手の甲で額を擦りました、びっしり汗が滲《にじ》み出ているのです、「洋服で茶、茶色の靴を穿《は》いていました」
「人相なんか覚えていないだろうな」
「ええちょっと見た許りなもんですから、でも、そうですね、髭《ひげ》があって、額が禿《は》げあがっていました、それからええと、そうですかなり肥《ふと》った恰幅《かっぷく》でしょう、眠ったそうな細い眼つきで、――」
「精《くわ》しいじゃないか、が、もういいよ」署長は肩を揺すって、「おれには君のでたらめを聞いている時間はないんだ、それに、でたらめというものはもう少しは面白くなくっちゃいけない、退屈だよ」
亀三郎はなにか云おうとしながら声が出ず膝の上でぶるぶる拳《こぶし》を震わしています、署長は渡辺老人の後ろから、関口泰三の例の着物だの帯だのを引き寄せて、「これを知っているかね」と、そこへ押しやりました。そのとたん彼は両手で喉《のど》を押え、「吐き気がするんですが」と云いながら突っ立ちました。後で考えるとこの辺はなかなかうまいもんでしたが、吐き気というのもまんざら嘘ではなかったんですね。署長の※[#「目+旬」、第3水準1-88-80]《めくばせ》で私が付いてゆきました、――戻って来ると蒼《あお》い顔に膏汗《あぶらあせ》を出して、「酒を呑《の》ませて下さい、宿酔《ふつかよい》で苦しくって、死にそうです」こう云うなりそこへ倒れて呻《うな》りだしました。
「渡辺さん済まないが」署長は立ちながら紙入を取って老人に渡し、「これで酒を買って来て呑ませてやって下さい、なにいいです、宿酔というやつは苦しいもんだそうですから――私はそのあいだに」こう云って頷《うなず》いてみせました。
亀三郎の住居の捜査、――そうです、署長は彼の住居へゆきました。このとき長屋の人たちはまだこの出来事をなにも知っていません、これは渡辺老人のゆき届いた気転だったのですが、そのお蔭でよけいな騒ぎの起こらなかったのはなによりだったんですが。――さて彼の家宅捜索は結局なにも得るところ無しでした、署長も余り期待してはいないとみえ、ごく簡単に見てまわっただけです、但し一つだけ、台所の床下から足袋《たび》が片方みつかりました。
「このくらいでよかろう」署長はこう云ってさっさと靴を穿《は》きます、「長屋の連中がへんに思うとうるさいから、――」
実際さっき表で署長の挨拶《あいさつ》を聞いてから、長屋の人たちは眼に見えて無関心になり、ただ毎《いつ》もの訪問の例で、親しい関口や渡辺老と話しているんだろうと思う容子でしたが、亀三郎が呼ばれたり署長が彼の家へ入ったりするので、幾らか疑いを持ったのでしょう、そろそろ路次へ立つ者がみえだしたのです。――私たちはさりげなく関口の家へ戻りましたが、土間へ入ったとたん、奥で「あっ」という叫び声と、どたどたと烈しい物音が起こりました、私は反射的に靴のまま跳《と》び上り、六|帖《じょう》へゆくと、渡辺老人が裏へとび下りるのが見え、そこにいた久美子が、「逃げました、そっちへ」と震えながら指さします、私もすぐ裏へとび出し、老人の姿をめあてに追駆けました。そこは裏側の長屋の背中合せになった三尺ほどの庇合《ひあわい》で、盥《たらい》だの掃溜《はきだめ》だの毀《こわ》れた乳母車《うばぐるま》などが乱雑に置いてあるので、おまけに先に逃げた亀三郎がそういう物を転《ころ》がしたり倒したりしたものですから、路次口まで出た時には彼の姿はどこにも見えず、どっちへ逃げたかもわかりませんでした。「まさかと思っていたもんですから」老人は恐縮そうに息を弾《はず》ませ、「なにしろ突然ぱっと、こう、貴方、――が、とにかく交番へでも」「もういいもういい」向うから署長がこう呼ぶので、私は老人を戻らせ、自分だけで表の派出所へゆき、手配の連絡を頼んでから引返したのでした。
[#6字下げ]六[#「六」は中見出し]
亀三郎は久美子の買って来た酒を冷のまま呑み、また気持が悪くなったと云って、横になるかと見たとたん跳《は》ね起き、非常なすばやさでとびだしたのだそうです。「なにすぐ捉《つか》まりますよ」署長はこう笑ってから、久美子に、「この頃せっついて時計を頼みに来た客はないか」と訊《き》きました。前に云ったとおり日本ロンジンなどという折紙が付いて以来、関口の作る時計は益《ます》ます評判が高く、M・・時計店を通じたり、なかには遠くから態《わさ》わざ来て、注文する者がだいぶ殖《ふ》えていたのです、ところが関口の作る数はよくいって年二個というところで、到底そんな注文には応じきれない、そのため時計商や好事家の中には金や物で釣ろうとしたり、悪どい策動をしたりする者が間々《まま》あったのです。
「わたくし昼間は勤めに出ますし」久美子は首を傾《かし》げながらこう答えました、「父もそういう話はしませんのでよくは存じませんけれど、県の秘書課長さんと台町の富田さん、この着二人から頼まれていたことは聞いていました、お二人とも二年越しで、富田さんのほうはずいぶん厳重に仰《おっ》しゃっていらしったようですけれど」
県の秘書課長は沢村六平といって、まだ四十にならない精力家であり、「切れる男」といわれる反面にとかくの評のある人物です。台町の富田勇三郎はあの「藤富紡績」の社長でしたが、行状の悪いのと酒乱とで、よく新聞の三面を賑《にぎ》わすといった人間でした。署長はやがて久美子を元気づけ、「死躰《したい》の発見されるまでは希望を持つこと、出て来た着物や羽折に傷がなく血痕《けっこん》なども無いのは、案外まだどこかに無事でいるかも知れないこと、警察では出来るだけ捜査に手を尽すから」こう云って、間もなく私たちは別れを告げました。
「亀三郎は手先に使われたんでしょうね」車へ乗ると私がすぐにこう訊きました。だって、そこには町の者たちが遠巻きに見ているのに、声をかける者がない許りか、寧《むし》ろ反感のある眼づき、冷たい表情、嘲《あざけ》るような薄笑いを示している、なんともばつの悪い空気なのですから、――単純な人たちよ。が勿論《もちろん》それは彼等が悪いのではありませんし、署長が彼等を愛するのもその単純さにあったといってよいでしょう。それにしても私はそのときのばつの悪さにはまいりました、「――あの男を使って、目的は時計だったんですね」
「さっきのメモがあるかい」署長は詰らないことを云うなという調子です、「ちょっとそれを読んでみて呉れ」
「メモって、――あああれですか」私はすっかり忘れていた手帳を出し、例の十三個の時計の指時表を披《ひら》きました。それは次のような表になります。
[#ここから3字下げ]
1時6分
3時4分
1時2分
2時5分
5時1分
1時10分
3時9分
3時8分
3時5分
1時7分
2時5分
1時7分
3時4分
[#ここで字下げ終わり]
「ふむ、――」署長は眼をつむって、「詰り一時から五時までなんだね、ふむ、――君はそれに不自然を感じないかね」
「別に感じませんね、修繕を頼まれた時計が棚へ並べてある、これがそれぞれの時間で停《とま》っている、それだけじゃないんですか」
「修繕する時計だから停っている、然し一つくらい動いていてもいいじゃないか、もう修繕して具合をみている時計が、少なくとも一つくらい有るほうが自然じゃないか」
「それはま然あし、――ちょっと」
「承知できないかね」署長はぐっと後ろへ凭《もた》れかかりました、「それならその時間はどうだ、停っているのはいいとして、十三の時計がぜんぶ一時から五時の間で停っている、それ以外の時間を指しているのが一つも無い、――こいつはどうだね、おれが気を惹《ひ》かれたのはその点なんだが、君にはこれも不自然には思えないかね」
「それは結局、詰りこの事件に、関係した意味でなんですか」
「おお大事にしたまえ」署長はゆっくりと頭を振りました、「君の節穴のような眼と、空壜《あきびん》のような頭を大事にしたまえ」
例の毒舌ですが、毎もの精彩を欠いているのが悲しいようで、私は相槌《あいづち》も打てず黙っていました。――署へ帰るとだいぶ訪問客が待っている、孰《いず》れも留任を求めたり慫慂《しょうよう》しに来た人たちでしたが、署長は面会を拒絶し、私にメモの写しを作れと命じて、自分はすぐ県庁へ電話を掛けました。私が例の指時表を作っていったとき、署長は沢村秘書課長を呼んで、「金花町の関口という時計師を御存じですか」こう訊いていました。
「最近お会いになりましたか、はあ、五日の午後に、すると四日まえですね、はあ、その後はお会いにならんですな、ふむ、やあどうも」
電話を切った署長は、私から表を受取りながら、「台町のほうを当ってみて呉れ、念の為だからざっとでいいよ」と云います、私はすぐにでかけました。――然し富田氏は台町の邸宅にもいず、郊外の工場にも通町の本社にもいません、四日まえに台町の家を出たっきり、帰っても来ず所在も不明なのです。「また遊びまわってるんだわ、きっと」本社の受付にいた少女が、ませた口調でこう云ってました、「先月もこんなにして京都から和歌山のほうまで、二週間も車で乗りまわしていらしったんですの、社内では不在社長って綽名《あだな》が付いてますわ」私はこいつ叩《たた》いてみる値打があるぞと思いました。
[#6字下げ]七[#「七」は中見出し]
もういちど台町へ引返し、四日まえに出たときの精《くわ》しい容子と、自動車の番号を訊き、なお富田氏ゆきつけの料亭待合を二三あたってみました。すると「瓢屋《ひさごや》」という待合で一夜泊り、翌日の夕方に「お軽」という青柳町のほうの待合へ、見馴れない客を同伴して現われた、(それは関口泰三の失踪《しっそう》した日に当ります)五時頃に来て、芸妓も呼ばず二時間ばかり二人で酒を呑み、それからまた伴れ立って車で帰った、そこで氏の足取りはわからなくなっているのです。――同伴した客は和服の上に二重廻を着ていたとも云い、着ながしだったという女中もあって、人相や年恰好などもはっきりしないが、「見馴れない和服の客」というだけでも私には大収穫のように思えました。
「ああ御苦労、そのくらいでいいよ」署長はあっさり頷《うなず》いたきりです、「それから済まないが県庁へいって警察部長に報告して呉れないか、殺人または殺人予備と思われる事件で未発表のまま捜査をしている、大体の経過を説明してね、解決まで留任するからって、いいね」
「それは承知しましたが、富田氏のほうを自動車の番号で早く手配しないと」
「そっちはおれが引受ける、これは置《お》き土産《みやげ》におれ独《ひと》りで片付ける積りなんだ」
「お独りで、ですって?」私は署長の顔を眺めました、「ではもう、なにか……」
「時間だよ」こう云って署長は、ちょうど掛って来た電話に手を伸ばしました、「必要なのは時間だけさ、十三の時計、時間、――ああ何誰《どなた》ですか、さよう五道です」
私がでかけようとすると、署長は送話器の口を塞《ふさ》いで、「県庁が済んだら先に帰っていいよ」と私に呼びかけました。――まるではぐら[#「はぐら」に傍点]かされたような気持です、せっかくひと収穫つかんだと思うのに、署長はまるで耳もかさず、時間だとか十三の時計だとか、置き土産に独りで片付けるとか、なにもかも心得たようなことを云う、よしそんなら勝手になさいまし。私もこう思って、警察部長に報告すると、云われたとおり署へは戻らず、先に官舎へ帰ってしまいました。
翌日の各紙の朝刊は賑《にぎ》やかでした。五道署長の転任決定と、留任嘆願の示威運動、公園の市民大会など、みんな写真入りで派手に書きたててあります。毎朝と夕刊報知は社説に惜別の辞を掲げ、署長の功績を讃《たた》えたり感傷的な字句を列《つら》ねて繰り返し転任を惜しんだりしていました。然《しか》しその中で時事日報の三面に、「署長X氏その理想を語る」という例外の記事がありました、これは昨日の金花町の出来事を扱ったもので、「――X氏は従来よく栄職に恬淡《てんたん》なりと云われたが、氏の最も愛すると報ぜられた貧困者たちの、熱誠に満ちた涙ぐましき留任懇願に対し、自分の出世の邪魔をしないよう、これは警視総監にも成れる様なりと公言せりとは一驚の他《ほか》なし、俚諺《りげん》に曰《いわ》く――」こんな風な書きぶりです。単純なる者よ、私はこう呟《つぶや》いて抛《ほう》りだしました。――それから数日のわずらわしさにはうんざりしました。ひきもきらない留任懇請です。送別会をしたい、謝恩会をしたい、記念品を贈りたい、歓送会、別れの懇談会、そういう申込みが次ぎ次ぎと絶えないのです。勿論《もちろん》ぜんぶお断わりでした。県会や市会からのもお断わり、分署長連中のも同様、凡《およ》そ会と名の付くものは片っ端から謝絶です、それがみんな私の仕事なんですから、まったくいやはやでした。――然し初めの日から七日めに事件が起こりました。こんどは久美子の失踪です、やはり渡辺老人が知らせに来たのですが、「昨日から家へ帰らない」というのです。
「それが妙なんですが」老人は例の枯れた話しぶりで、「二三日まえから容子が変って、なんだかそわそわしておちつかない風なんでしたが、昨日の朝いつものとおり勤めに出たっきり帰らないんでして、――私は今朝はやく組合事務所へいって訊いてみたんです、すると昨日の午後あの子に電話が掛って来て、男の声だったそうですが、それから急に用が出来たからと云って、早退《はやび》けして帰ったと、こういうことなんですがな」
「いや、わかりました」署長はこう頷きながら眼をつむり、ぐっと椅子の背へ凭《もた》れて、「なにか二番手を打って来るとは思っていたんです、そしてその電話の男はですね、渡辺さんだから云いますがね、――亀三郎先生なんですよ」
「ははあ」老人は口をあけました、「だとしますと、その、あの子はそれを知らずに」
「いや知っていたでしょう、お父さんに会わせてやる、こんな風に云われたんだと思います、警察へ知らせたりするとお父さんの命はない、そんな威《おど》し文句《もんく》もあったかも知れませんな」
「が、――本当に亀三郎なんでしょうかな」
「知らない人間なら久美子君はゆきゃあしませんよ、あんな事件の後ですからね」署長はおちついたものでした、「とにかくめど[#「めど」に傍点]はついていますから心配しないで下さい、いずれ一網打尽にしておめにかけますよ」
[#6字下げ]八[#「八」は中見出し]
更に一週間経ちました。留任運動の騒ぎも鎮《しず》まり、毎朝が(青野の執筆でしょう)署長の扱った事件を、物語り風に連載している他は、どの新聞にも署長の記事は一行も載らなくなりました。またあれほど毎日のように訪《たず》ねて来た貧民街の人たちも、あの日の挨拶のためか、諦《あきら》めたものか、恐らく生活に追われてなんでしょう、殆んど影をみせなくなっていました。――十九日の午後のことです、署長がとつぜん「今夜ひとつ湯沼で飲むかね」と云いました。
「愈《いよ》いよお別れだから、いちど悠《ゆっ》くり将棋を指そうじゃないか、君にはだいぶ世話になったからな」
「だってそれは、そうすると関口親子のほうはどうなるんですか」
「時間、時間、時間だよ」署長は笑いもせずにこう云いました、「君はこの二週間、毎日のように関口の事件はどうなったどうなったとおれをうるさがらせた、おれが問題[#「問題」に傍点]は時間と十三の時計にあると云うのに、そっちは見ようともしないで気を揉《も》んでいる、――でもあの十三の指時表が君には不審じゃあないのかい」
「すると事件はすっかり解決しているんですね」
「解決は明日だ、そしてそれが五道三省の転任する日さ」署長はこう云って椅子を立ち、窓へいって静かに外を眺《なが》めました、「あの馬鹿ばかしい騒ぎも鎮まったからな、……」
本当にお別れだとすると青野だけでも呼んでやりたかった。それで「どうでしょう青野も」と頼んでみましたが、署長は黙って首を振ったきり相手になりません、そして退署時刻になると車を命じて、二人だけで湯沼へでかけたのです。湯沼は峠を二つ越した県境に近い谷間の温泉場です、宿屋も古ぼけた小さな家が三軒きりないし、狭い谷の奥で眺めもよくないため、今でも寂れてひっそりしたものですが、署長はその鄙《ひな》びたところがいいと云って、私を伴《つ》れて五六たびもいったでしょうか、松田屋というのがいつも定宿のようになっていました。
車が峠へかかると粉雪になりました、署長はお誂《あつら》え向きだと喜んでいますが、私は手帳を出して、例の十三の指時表と睨《にら》みっこです、なにかの暗示記号だということは署長の言葉でわかるのですが、さて一時六分から始まる十三列の数字を、どういう鍵《かぎ》で解いたらいいかとなると見当もつきません、――やがて車は松田屋へ着きました。
それでなくとも寂れた温泉宿は、殆んど客もなく森閑としていました。私たちはすぐさま湯に入って温たまり、寛《くつろ》いで酒を舐《な》めながら将棋盤に向いましたが、例の署長の長考が始まると、私は手帳の数字と格闘を続けたのです。――宿の裏にある小川のせせらぎ、筧《かけひ》の水音、そして絶えず雨戸にかかる粉雪のさらさらという囁《ささや》き、夜はしみいるような静かさに更《ふ》けてゆく。将棋盤に向って、考えているのか眠っているのかわからない、漠然《ばくぜん》とした所長の姿、ほの暗い電燈に照らされたその逞《たくま》しい顔にふと眼を惹《ひ》かれた私は、愈いよこの人とも別れるのだ、こう思ってにわかに胸苦しいほどの悲しいやるせない気持におそわれました。この一夜の思い出にはもっともっと語りたい事がたくさんあるのですが、残念ながら御想像に任せるとして話を進めましょう。
幾ら考えても暗号は解けず、夜が明けてひと風呂あびるとすぐまた数字と格闘を始めましたが、十時頃になってとうとう甲《かぶと》をぬぎました。署長は炬燵《こたつ》に入って、障子の硝子《ガラス》ごしに見える谷峡の雪景色、若木の杉林のすっかり綿帽子を冠《かぶ》ったのへ、なおさらさらと雪の降りしきるのを眺めていましたが、「一時から五時まで、――詰り一から五まで」と、もの憂そうに云いました。
「おれの頭にはすぐ五十音表がぴんときた、片仮名の五十音表がね、――時数が母音、分数《ふんすう》が子音、それで注意してみると分数はみな十以下だ、音表にぴったりじゃないか」
私は拳骨《げんこつ》で自分の頭を殴《なぐ》り、すぐに手帳へ五十音表を書きました。署長は知らん顔で窓の外を見ています、私は音表と十三列の数字を突合せながら、順々に次のような字を拾いだしたのです、一時はア列、六分はその六番目で「ハ」二番目の三時はウ列、四分はその四番目で「ツ」です、並べると「ハツカニオワルユヌマニマツ」こうなりました。
「そのとおりだよ」署長は炬燵の上の茶碗《ちゃわん》を取りながら、「もちろん関口がおれに宛《あ》てた伝言さ、亀三郎の家の床下から出た着物、さも家捜しをされたような家の中、それだけの条件を拵《こしら》えたが、十三個の時計でおれに伝言だけは遺《のこ》した、おれならみつけるだろうと信じてな」
「じゃあ亀三郎は知っていたんですね」
「知らないのは久美子君だけだろう、いや、君もその一人だったな」署長はにやっと笑いました、「なにしろ石段の処《ところ》で会った奇怪な人物、亀三郎の一生懸命に描いてみせたのが、眼の前にいるこの寝ぼけ署長そのままだということさえ、君には気がつかなかったんだからな」
「然しいったい」私はまじめに坐り直しました、「いったいどうして関口は、こんな拵え事をしたんですか、なぜこんな面倒くさい」
「おれの転任日を今日まで延ばしたかったのさ、一世一代の積りで、おれのために作っていた日本ロンジン、それを仕上げておれに呉れたかったんだろう、伝言のオワルというのがその意味だよ」
「馬鹿ばかしいそんな事で、そんな詰らない事でこんな騒ぎを起こしたんですか」私は肚《はら》が立ってきました、「そしてそれを承知で、署長もそれを承知でこんな」
「おれにはおれで、時間が必要だったのさ」署長はこう云って、また窓外へ眼を移しました、「――留任運動の、あの気違いめいた大騒ぎ、ああいうから騒ぎと、おれがどんなに縁遠い人間か君は知っているだろう、……おれはあの市《まち》が好きだ、静かな、人情に篤《あつ》い、純朴な、あの市が大好きだ、色いろな人たちと近づきになり、短い期間だったが、一緒にこのむずかしい人生を生きた、別れるなら静かに別れたい、……なんとしてもあの気違《きちが》い沙汰《ざた》で送られたくはなかった、此処《ここ》へ来たときのように、誰にも知られずに、そっとおれは別れてゆきたいんだ、そっと、……それだけの時間がおれにも必要だったんだよ」
私は頭を垂れました。署長はふと立って障子を明け、暫く雪を見ていましたが、やがて詠《うた》うような調子で次のように呟《つぶや》きました。
「――※[#「广+龍」、第3水準1-94-86]居士《ほうこじ》、薬山《やくさん》を辞す、……山《さん》、十人の禅客に命じ、相送って門首に至らしむ、……居士、空中の雪を指して云わく、……好雪片片、別処に落ちず」
関口泰三が訪《たず》ねて来たのはそれから一時間ほど後でした。むろん日本ロンジンを持ってです。亀三郎も、渡辺老人も、そして久美子も恥ずかしそうに笑いながら、――わが寝ぼけ署長はその日の午後、どこかへ散歩にでもゆくような姿で、こっそりと独りこの市を去ってゆきました。好雪片片不[#レ]落別処。署長はいまどこにおちついていることでしょうか。
底本:「山本周五郎全集第四巻 寝ぼけ署長・火の杯」新潮社
1984(昭和59)年1月25日 発行
※表題は底本では、「最後の挨拶《あいさつ》」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
最後の挨拶
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)噂《うわさ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)品|蒐集《しゅうしゅう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#「目+旬」、第3水準1-88-80]
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[#6字下げ]一[#「一」は中見出し]
「おいあの噂《うわさ》は本当か」毎朝新聞の青野庄助が帽子をひっ掴《つか》んで、とび込んで来るなりこう喚《わめ》きました。彼の耐《こら》え性《しょ》のないのに飽き飽きします、「本当かどうかって訊《き》いているんだ、嘘《うそ》だろう、ええ嘘なんだろう」
「誰か他の人間に訊いて呉《く》れ、僕はなんにも知らないよ」私はこう答えて書類をめくりました、「元来こんな事は君の社の県庁詰のお先ったりのほうがよく知ってる筈《はず》なんだ」
「だから飛んで来たんじゃないか、然《しか》し、――」彼はじっと私の顔を見たようです、「そうか、わかったよ、君のその不景気な面を見れば慥《たし》かめるまでもねえや、だが原因はなんだ」
「誰か他の人間に訊けと云ってるじゃない」私は中《ちゅう》っ肚《ぱら》でペンを抛《ほう》りだしながらどなりました、「あの噂は本当ですか、嘘でしょう、本当に本当だとすると原因はなんですか、どんな理由なんでしょう、たくさんだ、朝から三十人も四十人も押掛けて来て、同じことを根掘り葉掘り訊きやがる、へん、今になって本当も嘘も原因も理由もあるもんか、うっちゃっといて呉れ」
「ふうん、――すると愈《いよ》いよ十日の菖蒲《あやめ》か」青野はこう狼狽《うろた》えたことを云いました、「だがおれは指を銜《くわ》えちゃあいないぜ、三面にでかでかと書いて輿論《よろん》を煽《あお》ってやる」
「赴任して来た時のようにかい、居眠り署長だの狸《たぬき》だの無能だのってな」私は、なお意地わるくこう云ったものです、「寝呆《ねぼ》け署長《しょちょう》という綽名《あだな》はたしか毎朝新聞で付けた筈《はず》だっけ、我われはずいぶん親切な待遇をしたものさ」
「なんとでも云え、おれは敢《あ》えて市民のために、――」
青野はこう云いかけて窓へ駆け寄りました。署の表のほうから非常に大勢の喚き叫ぶ声が聞えて来たので、いって見ますと正門の外はいっぱいの群衆で、紙のぼりや大きな白張《しらは》りの提灯《ちょうちん》や番傘やばかでかい万燈や、古風にも蓆旗《むしろばた》まで担《かつ》ぎだしている騒ぎです、これらの物には様ざまの文字と書体で「祈五道署長留任」とか「署長を我等に還せ」とか「断乎《だんこ》転任反対」とか「署長なくして市民あらず」とか「県内務部の無能人事を打倒せよ」とか中には片仮名で「ショチョウサマ、ワタシタチヲミステナイデクダサイ」などという胸の痛むようなものもありました、詰りこれがいつか申上げた、署長の留任を望む蓆旗さわぎだった訳で、金花町や富屋町の貧民街の者が主となり、署へ押しかけた時は千人ちかい人数になっていました。そうです、我が寝ぼけ署長が本庁へ転任と定《きま》ったのはほんの五日ばかり前でしょう、だからもちろんまだ辞令が出た訳でもなし、こうして社会部記者の青野でさえ真偽を慥かめに駆けつけるくらいなのにどこからどう聞き伝えたものか出勤するともう待っている者があったし、後から後からやって来た、転任の真否や原因や理由を諄《くど》くど訊かれる始末で、少々うんざりしていたところなんですが、その群衆の素朴な熱情にはやっぱり心をうたれずにはいられませんでした。
「嬉しい風景だなあおい」青野は煙にでも噎《む》せたような声で云いました、「惜しまれる署長も署長だけれど、こんなに純粋な信頼と愛情も珍しいぜ、――親爺《おやじ》はなにをしているんだ」
「午前ちゅうは帰らないよ、県庁だ」
紙のぼりや万燈や蓆旗を振り振り、声いっぱい喚いたり叫んだりしている群衆を眺《なが》めながら、私はふと自分もその群の中にはいって署長よゆかないで下さいと叫んでいるような錯覚におそわれたものでした。
関口久美子が渡辺老人に伴《つ》れられて来たのはそれから間もなくのことです。――群衆は主任が玄関へ出て挨拶をすると、代表者を出して留任嘆願の連名帳を差出し、それから市街を派手に行進して県庁へまわり、更に公園で市民大会を催したそうです。こうして騒ぎがひと鎮《しず》まりし、青野も去って(彼は示威行列を写真記事にするのだと張切ってましたが)やれやれと机に向って間もなくでした、ぜひ署長にというので会うと、渡辺老人と久美子なんです、「署長は午前中は帰りません、私でよかったら用件を聞きましょう」こう云いますと、久美子は考えようともせずに、「ではお帰りになるまで待たせて頂きます」と躯《からだ》を固くして動く容子《ようす》がない、仕方がないので私は彼等を椅子に掛けさせました。渡辺老人、久美子、こんな風に云うのは実は私が二人を知っているからなんです。それはこれまで度《たび》たび申上げた貧民街めぐりですね、一週間に一度は欠かしたことのない署長の貧民街訪問、そのとき知り合ったものなんですが、渡辺老人は象牙《ぞうげ》職人、久美子の父は時計師で、金花町一丁目の相長屋に住んでいました。署長はこの二人が特にお気に入りとみえ、ゆくと必ずどちらかの家で話し込むのが定りで、しぜん私も顔なじみになっていた訳です。
「署長さんはどうしても転任ということになるんですかなあ」渡辺老人がふと溜息《ためいき》をつきながら云いました、「お上《かみ》の事だとするとどうも仕方のない事なんでしょうが、やっぱり世の中は雨降り風間、そういった感じのものですなあ」
[#6字下げ]二[#「二」は中見出し]
渡辺老人の言葉はなんてもない平凡なものですが、私はふと署長が最もこころよく受取るのはこういう表現ではないかと考えました。あの大群衆の留任運動も感動なしには眺められないでしょうが、蓆旗とか紙のぼりとか万燈とか、それにああいう激越な文句を書き立て騒がしく押廻す。こういう派手な遣方《やりかた》は、署長のなによりも嫌うことなんです。――世の中はやっぱり雨降り風間ですな、はっきりした意味はないながら一種の淡い哀愁の匂いのある、こんな別れの言葉こそ署長にはいちばん相応《ふさ》わしい、私は独《ひと》りでそんな考えに耽《ふけ》っていました。
署長は十二時ちょっと前に帰りました。沈んだ苦にがしい顔をしているのは恐らくあの仰々しい示威騒ぎを見たせいでしょう、入って来て私の部屋に老人と久美子のいるのをみつけると、更に眉をしかめ、黙って署長室へ入ってゆきました。後から付いていって食事を訊きますと、「県庁で済ませて来たから要らない、それから今日誰にも会わせないで呉れ」と云います、私は二人が二時間も待っていたこと、久美子の容子でみるとなにか深い事情がありそうだということを告げました。
「どんな事情にしろ、署長としてはもうなにも聞く訳にはいかないんだ」こう云って疲れたように椅子の背へぐたりと凭《もた》れ、「なにしろこの椅子へ掛けるのも三日きりなんだから」
「三日ですって、――そんなに早くですか」
私がこう眼を瞠《みは》ったとき、そこへ来て聞いてでもいたのでしょうか、扉を明けて渡辺老人が現われ、「関口さんが殺されましてな」と低い声で云いながら入って来ました。低いさらっとしたその調子が、「殺された」という意味を逆に強く感じさせ、署長もちょっと虚を衝《つ》かれたかたちで、老人を側にある椅子へ招きました。
「関口さんが、どうしたんですって」
「殺された」渡辺老人は袂《たもと》から煙草を取出しながら、「――らしい、と云いたいんですが事実そうあって呉れればめでたいですがな、どうにも色いろの事が揃《そろ》い過ぎているもんですから」
「それなら私の処へなど持って来ないでどうしてすぐ届け出なかったんです」
「そこにも訳があるんでして、と云うのはですな、――犯人、もし、実際に間違いがあったとしてですな、その犯人と思われるのが、貴方《あなた》も御存じの亀三郎のような具合で、然《しか》もいちおうその証拠のようなものがあるもんですから、それでこれだけはなんとしても署長さんのお力を借りるところだ、こう思ってまいったのですがな」
「お午食《ひる》がまだでしょう」署長は、身を起こして、「よかったらなにか取りますから喰《た》べながら聞きましょう、久美子さんも一緒にどうです」
「そうですな、あの子は朝も喰べなかったようですから」老人はそこでふと笑いました、「――ちょっと肩身の狭い話だが、それでは頂きましょうか」
「肩身が狭いとは、それはまたどうしてです」
「世間でよく云うじゃありませんか、警察の飯を食うって」
この辺に署長とこの人たちの親しさが表われている訳ですが、久美子も喰べると云い、私は二人の食事を命じに立ちました。――ここで簡単に関口親子を紹介しましょう、彼女の父は泰三という名です、名古屋の大きな時計工場の技術部で育ち、腕を認められてスイッツルへ修業にやられ、五年の積りがもう一年もう一年という希望で十年に及んだ、それは彼に或る野心があったからですが、帰って来ると会社の事情がすっかり変っていた、後援支持して呉れた幹部は退陣し、新しい機構と組織で見違えるような発展ぶりです、彼が十年スイッツルで修業して来たことなどは問題にならず、与えられた席もひどいものでした。どんなに失望したことでしょう、彼は世界第一流の時計を作る理想を持って帰ったのです、ウォルサムをもロンジンをも凌《しの》ぐ第一流の時計、――然し会社はまったく違った方向へ発展していた。廉価、廉価、そして大量生産です。それでも会社への義理だと思って、彼は十年そこで働き、退職するとすぐこの市へ引込んでしまった。二三招かれたそうですが、いずれも廉価な大量生産です、彼は工場という機構に見切りをつけ、金花町の裏長屋で時計の修繕を始めました。そしてその傍《かたわ》ら、材料を買って来て自分の腕いっぱいの時計を作るのです、そして自分に満足する物が仕上ると、東京のM・・時計店へ持っていって売りました、その店では初め相手にしなかっ、たが、美術品|蒐集《しゅうしゅう》で有名な英国帰りの兼松伯爵がみつけて買い、「これは日本ロンジンだ」と折紙を付けたそうだ、それからは出来しだい云い値で引取るようになったのです。然し一種の芸術欲で作るんですから、一年に二つ仕上れば、精々、一つも出来ない年さえあるので、値も高いし名も売れていながら、相変らず当人は裏長屋の貧乏ぐらしでした。――まだ会社にいるうち結婚した妻君は十二三年まえに死に、肉親といっては娘の久美子ひとりなんですが、その娘も去年から女学校を出ると、すぐ市の販売組合に勤めそ貧しい家計を助けている、概略こういった状態でした。
[#6字下げ]三[#「三」は中見出し]
「一昨々日の夕方のことですがな」食事が終ってから渡辺老が話しだしました、「久美子さんが勤めから帰ってみると戸が閉っていた、出かけるにしても戸閉めをするなんてことはないんで、気になったもんだから隣りの松岡さんに訊《き》いたんですな、すると午《ひる》まえに亀三郎君が来て、なにか話していたが一緒に出ていったとこう云うんです、それでまあ家へ入ったんですが、そこらにだいぶ物が散らばっているんですな戸納《とだな》も明いているし、仕事台のまわりも乱暴なことになっている、それを片付けて夕飯の支度をして待った、が、帰らない、八時が九時になり十時を打っても帰るけしきがない、段だん心配になるもんですから、念のために亀三郎君の処《ところ》へいってみると、これがなんと、――ぐでんぐでんに酔って、独《ひと》りで唄《うた》なんぞをうたっていた訳です」
「亀三郎君が酒をねえ」署長は首を捻《ひね》りました、「――それで、どうしました」
「お父さんはと訊くと、しどろもどろな口で東京のM・・へ出来た時計を持っていった、こういう返辞なんですな、おかしい、関口さんは御存じのように半年まえから署長さんの時計を作っていた、一世一代の名作を差上げるんだと、たいへんな意気込みで、それこそ精根を注いでやっていた、そんなM・・なぞへ持ってゆく品はない筈《はず》なんだ、が、然しなにか用事でもあったのかとその晩は帰り、翌《あく》る日《ひ》、出勤するとき東京のM・・時計店へ電報を打ったんですな」
「あんまり心配だったものですから」久美子が眼を伏せたまま云いました、「これまで黙って東京へゆくなんてことは決してなかったものですから」
「すると昨日の午過ぎのことですが」老人は煙草に火を点《つ》けながら、「占い師の権藤さん、御存じでしょう亀三郎君の隣りの、あの権藤さんの神さんが裏の掃溜《はきだめ》の掃除をしていると、大家で飼っているゴリですな、あの犬が隣りの家の縁の下からなにか銜《くわ》え出して来てふざけている、どうも着物らしいので取ってみると羽折《はおり》なんでして、それも関口さんがいつも着ていて見覚えのある物なんですな、妙なことがあると思っているとゴリのやつ、喜び勇んでまた緑の下へとび込んでゆく訳です」
権藤の妻君は人を呼んだ。そして捜してみると、亀三郎の台所の床から関口の着物と兵子帯《へこおび》が出て来たのです。そこで初めて渡辺老人が呼ばれました。――亀三郎は尾崎という姓で、印判屋をしている三十二三の独身者です。昼は長屋のひと間で認印だの三文判を彫り、夜は露店へ出るのですが、ごく温和《おとな》しい性質なのに博奕《ばくち》が好きで、いちど手を出すと本当の素っ裸になるまで止《よ》さない、二三ども拘留をくっていること、そのために毎《いつ》も貧乏で妻君も持てないでいる、だが当人はひどくあっさりと「この癖の直らないうちは女房は貰えません、泣きをみせるに定《きま》ってるんですから」などと達観したことを云っています、「博奕の面白いのは負けがこんで来たときにあるんでさあ、勝ちたい量見のあるうちは博奕の醍醐味《だいごみ》はわかりませんや」こんな風な話をする他《ほか》は、ふだんごく黙り屋の好人物でした。
「呼ばれていったが私にも考えがつかない」渡辺老は独特の調子で続けました、「その時はまだなんにも聞いていなかったし、亀三郎君は朝から留守でして、まあ関口さんで縁側にでも拡《ひろ》げてあったのを銜え込んだものなんでしょう、こんな風に云っていたんですがそこへ東京のM・・時計店から電報が来たので私が預かりました、三時半くらいでしたかな、久美子さんが帰って来る、話を聞く、電報をあけてみると『こちらへは来ない』というはっきりした返事なんでした」
縁の下から出た着物や帯や羽折、前日からの関口の失踪《しっそう》、それに絡《から》む亀三郎の行動、これらを組合せてみて、渡辺老人もこれは尋常の事ではないという気がし始めた。――とにかく亀三郎に精《くわ》しい事情を聞かなければならない、またそう云っているうちに関口が帰らないものでもないから、今夜ひと晩待ってみようということになり、寂しいだろうからと、渡辺老の妻君が久美子の処へ泊りにいった。老人は一時頃まで起きていたそうですが、亀三郎は朝になって、まだ暗いうちにひどく酔っぱらって帰ってまた、渡辺老はその声で起き、すぐにでかけていって関口のことを訊いたんです。亀三郎は泥酔していて、訳もなく「狐に化かされた」だの「いっぱい食った」だの「あの野郎は悪党だ」などと喚《わめ》く許《ばか》りです。それから水を飲ませたり寝かせたり、一時間あまり介抱して少し醒《さ》めかげんになったところで訊き直すと、前日いっしょに関口と出たが、公園の石段の処で誰かに関口が呼止められ、話し込む容子だから自分はそこで別れた、こんなことを云う。
「東京へいったという話は嘘か、こう訊きますと、そんなことは云った覚えがない、もし云ったとすれば酔っていてでたらめだ、そういうだけで結局わけがわからないんですな」
「縁の下から出た物のことを聞いたかね」
「いやそのことは黙ってました、関口さんの問題だから署長さんが力になって下さるだろう、こちらにはこちらの調べ方があると思いましてな、余計なことは訊かずに出て来たんですが」
[#6字下げ]四[#「四」は中見出し]
私たちは車で金花町へでかけました。――殺されたという事実こそないが、前後の事情を総合するとそういう疑いが起こるのも無理ではない、署長はふだん亀三郎にも好意を持っていたので、どんなにか心を痛めたでしょう、車の中じゅうずっと沈んだ顔で考え込んでいました。
「わあい署長さんだ、みんな来い署長さんだ」
車が金花町へとまって我われが下りると、まず浴びせられたのがこの歓声でした。なにしろ蓆旗《むしろばた》で留任運動をやっているさいちゅうです。普通でも姿を見れば純朴な敬愛の情を示さずにいない連中が、温和しくしている筈はありません、叫び声に応じてわっと人が集まって来ました。赤児を背負った神さん、老人、娘、若者、子供たち、「署長さんこの町にいて下せえ」「何処《どこ》へもゆかねえで下さい」「転任なんか御免ですぞ」「お願《ねげ》えだぞ」「頼みますそ署長さん」みんな真剣なんです。どの顔にも心から署長に呼びかけ、署長の同情に縋《すが》ろうとする思いが、哀《かな》しいほどじかに表われていました。私たちは自動車を小盾《ごたて》に、暫く立往生のかたちでしたが、やがて署長が大きな声で「皆さん」と云いだしました。
「皆さんがもし私を好いて呉れるなら、どうか私を困らせないで下さい、私に好意を寄せて呉れるなら、私に栄転と出世の機会を与えて下さい、私も官界の人間である以上それだけの出世がしたい、地方都市の警察署長で終るのが私の理想ではありません」ああ云いも云ったりです。集まっている人たち、縋《すが》りつくように署長を見上げていた人たちの顔に、どんな変化が現われたかは御想像に任せましょう、署長は更に声を励まして、「私はいま本庁へ呼ばれているのです、もし運命が幸いすればやがて警視総監になる希望もある、――どうか私にこの機会を掴《つか》ませて下さい、この機会を逃がすような邪魔をしないで下さい、お願いします」
云い終った署長はずんずん歩きだした。今まで密集して動かなかった人垣が、こんどはたやすく道を開いて私たちを通します、私には到底かれらの顔を見ることができませんでした。単純で素朴な人たち、信じている者の言葉は善《よ》し悪《あ》しに拘《かかわ》らずすなおに受取る人たち、――どんな失望、どんな落胆をかれらは味わったことでしょうか。が、私たちは関口の住居へ着きました。
部屋は上《あが》り端《はな》の四|帖《じょう》と奥の六帖だけです、署長はまず久美子に向って、初めの日ちらかっていたように、物とその位置を出来るだけ元のかたちに置くよう命じました。それから上ったのですが、上り端に穿《は》き古した足袋《たび》が片方と破れた新聞紙、小さな鑿《のみ》と鑢《やすり》など、また六帖との間の障子が三尺ほど明いており、敷居の上に久美子の腰紐《こしひも》が落ちている、――六帖のほうは隅に重ねてある座蒲団《ざぶとん》が散らばり、戸納が明け放しで、中が乱暴に掻《か》きまわしてあったそうです。裏に面した障子際に檜材《ひのきざい》のがっちりした仕事台が据えられて、その右手の壁に沿って、高さ四尺に長さ六尺ばかりの抽出付《ひきだしつ》きの棚が在る、これは修繕を頼まれた各種の時計や、その部分材料や器具類を整理して置くもので、そのときも二段めの棚に、懐中時計だけ十三個、きちんと一列に並べてありました。仕事台の周囲の散らかりようには久美子も困った容子《ようす》ですが、「大体のところでいいよ」と、署長も余りこだわりませんでした。これらの状態を見ると、ごく初心の空巣覘《あきすねら》いが慌《あわ》ててひっ掻きまわしていった、ざっとそんな風なものなんです。
「お父さんが私のために作っていて呉れた時計を知りませんか」署長はこう訊きました。
「はいそれは」久美子はこう云って、仕事台に付いている抽出の一つを明け、「――いつも此処《ここ》へ入れて置くんですけれど、……もう出来上るからって一週間ほど前にも、……ああございませんわ、ございません」
「他に納《しま》う処はないんだね、ない、――ふん」署長は棚に並べてある十三個の時計を眺めながら、「貴女《あなた》の物やお父さんの物で、他《ほか》になにか無いものはないかね」
其の他にはなにも紛失した物はなかった。そうすると、亀三郎の家の縁の下から出た着物は、関口泰三が着て出たものだということになる。――これらの条件から推すと、犯人は関口を誘い出し、どこかで殺害して(死躰の弁別のできないように着物を脱《と》って)家へ引返し、署長に贈るために仕上げてあった時計を奪って逃げた。こういう説明が成立ちます。――署長はそのときもまだ例の棚に並べてある時計を見ていましたが、亀三郎が渡辺老に伴れて来られたので、ようやくそこを離れながら、「そこに並んでいる時計の時間を書いていて呉れ」と私に命じました。
「時計の時間といいますと、なんです」
「その棚に十三個の懐中時計が並べてあるだろう、その一つ一つの針の指している時間を左から順にメモへ取るんだよ」
そして自分は亀三郎のほうへいって坐りました。私はなんのためともわからず、命ぜられたとおりメモを取りましたが、修繕を頼まれて棚に並べてある時計の、停止している指時表を作ってどうするのか、ちょっと馬鹿ばかしい感じで苦笑せずにはいられませんでした。
[#6字下げ]五[#「五」は中見出し]
「関口さんとでかけたのは、なにか用事があったのかい」
「へえ、なに、――」亀三郎は悄然《しょうぜん》と坐って臆病そうな眼を絶えずぱちぱちさせながら、衿首《えりくび》を撫《な》でたり膝《ひざ》を擦《こす》ったり、ひどくおちつかない容子でした、「なに用といえば用ですが、これといって別に、なんです、その」
「君が誘いだしたのかい」署長は例の眠ったそうな声になっています、「それとも関口さんのほうで一緒にゆこうと云ったのかい」
「あの日はあれです、私があれしたもんですから、関口さんがとにかく都合しよう」
「都合とは金のことなんだね」署長がとぼけた声をだしました、「君がまた悪い遊びをして不義理な借金ができた、そこで関口さんに相談したら都合してやろうと云う、そういう訳なんだね」
「借金じゃありません、私はばく、いえ遊びには決して借金をしないしきたりですから」恐ろしくむきな抗議でした、「どうかそんな風には考えないようにお願いします、とんでもない、借金だなんて、私がそんな人間にみえるでしょうか」
「それで一緒に出て、それからどうしたんだね、関口さんとどういう風に別れたのかね」
「詰りですね、それは渡辺さんにも云ったんですが、公園の、石段のところで」
「石段のところで、――」
「私は、私は知らない人なんですが、向うから来て、関口さんに声をかけたんです」
「洋服かね和服を着ていたかね」
「洋服のようでした、いや洋服です」亀三郎は手の甲で額を擦りました、びっしり汗が滲《にじ》み出ているのです、「洋服で茶、茶色の靴を穿《は》いていました」
「人相なんか覚えていないだろうな」
「ええちょっと見た許りなもんですから、でも、そうですね、髭《ひげ》があって、額が禿《は》げあがっていました、それからええと、そうですかなり肥《ふと》った恰幅《かっぷく》でしょう、眠ったそうな細い眼つきで、――」
「精《くわ》しいじゃないか、が、もういいよ」署長は肩を揺すって、「おれには君のでたらめを聞いている時間はないんだ、それに、でたらめというものはもう少しは面白くなくっちゃいけない、退屈だよ」
亀三郎はなにか云おうとしながら声が出ず膝の上でぶるぶる拳《こぶし》を震わしています、署長は渡辺老人の後ろから、関口泰三の例の着物だの帯だのを引き寄せて、「これを知っているかね」と、そこへ押しやりました。そのとたん彼は両手で喉《のど》を押え、「吐き気がするんですが」と云いながら突っ立ちました。後で考えるとこの辺はなかなかうまいもんでしたが、吐き気というのもまんざら嘘ではなかったんですね。署長の※[#「目+旬」、第3水準1-88-80]《めくばせ》で私が付いてゆきました、――戻って来ると蒼《あお》い顔に膏汗《あぶらあせ》を出して、「酒を呑《の》ませて下さい、宿酔《ふつかよい》で苦しくって、死にそうです」こう云うなりそこへ倒れて呻《うな》りだしました。
「渡辺さん済まないが」署長は立ちながら紙入を取って老人に渡し、「これで酒を買って来て呑ませてやって下さい、なにいいです、宿酔というやつは苦しいもんだそうですから――私はそのあいだに」こう云って頷《うなず》いてみせました。
亀三郎の住居の捜査、――そうです、署長は彼の住居へゆきました。このとき長屋の人たちはまだこの出来事をなにも知っていません、これは渡辺老人のゆき届いた気転だったのですが、そのお蔭でよけいな騒ぎの起こらなかったのはなによりだったんですが。――さて彼の家宅捜索は結局なにも得るところ無しでした、署長も余り期待してはいないとみえ、ごく簡単に見てまわっただけです、但し一つだけ、台所の床下から足袋《たび》が片方みつかりました。
「このくらいでよかろう」署長はこう云ってさっさと靴を穿《は》きます、「長屋の連中がへんに思うとうるさいから、――」
実際さっき表で署長の挨拶《あいさつ》を聞いてから、長屋の人たちは眼に見えて無関心になり、ただ毎《いつ》もの訪問の例で、親しい関口や渡辺老と話しているんだろうと思う容子でしたが、亀三郎が呼ばれたり署長が彼の家へ入ったりするので、幾らか疑いを持ったのでしょう、そろそろ路次へ立つ者がみえだしたのです。――私たちはさりげなく関口の家へ戻りましたが、土間へ入ったとたん、奥で「あっ」という叫び声と、どたどたと烈しい物音が起こりました、私は反射的に靴のまま跳《と》び上り、六|帖《じょう》へゆくと、渡辺老人が裏へとび下りるのが見え、そこにいた久美子が、「逃げました、そっちへ」と震えながら指さします、私もすぐ裏へとび出し、老人の姿をめあてに追駆けました。そこは裏側の長屋の背中合せになった三尺ほどの庇合《ひあわい》で、盥《たらい》だの掃溜《はきだめ》だの毀《こわ》れた乳母車《うばぐるま》などが乱雑に置いてあるので、おまけに先に逃げた亀三郎がそういう物を転《ころ》がしたり倒したりしたものですから、路次口まで出た時には彼の姿はどこにも見えず、どっちへ逃げたかもわかりませんでした。「まさかと思っていたもんですから」老人は恐縮そうに息を弾《はず》ませ、「なにしろ突然ぱっと、こう、貴方、――が、とにかく交番へでも」「もういいもういい」向うから署長がこう呼ぶので、私は老人を戻らせ、自分だけで表の派出所へゆき、手配の連絡を頼んでから引返したのでした。
[#6字下げ]六[#「六」は中見出し]
亀三郎は久美子の買って来た酒を冷のまま呑み、また気持が悪くなったと云って、横になるかと見たとたん跳《は》ね起き、非常なすばやさでとびだしたのだそうです。「なにすぐ捉《つか》まりますよ」署長はこう笑ってから、久美子に、「この頃せっついて時計を頼みに来た客はないか」と訊《き》きました。前に云ったとおり日本ロンジンなどという折紙が付いて以来、関口の作る時計は益《ます》ます評判が高く、M・・時計店を通じたり、なかには遠くから態《わさ》わざ来て、注文する者がだいぶ殖《ふ》えていたのです、ところが関口の作る数はよくいって年二個というところで、到底そんな注文には応じきれない、そのため時計商や好事家の中には金や物で釣ろうとしたり、悪どい策動をしたりする者が間々《まま》あったのです。
「わたくし昼間は勤めに出ますし」久美子は首を傾《かし》げながらこう答えました、「父もそういう話はしませんのでよくは存じませんけれど、県の秘書課長さんと台町の富田さん、この着二人から頼まれていたことは聞いていました、お二人とも二年越しで、富田さんのほうはずいぶん厳重に仰《おっ》しゃっていらしったようですけれど」
県の秘書課長は沢村六平といって、まだ四十にならない精力家であり、「切れる男」といわれる反面にとかくの評のある人物です。台町の富田勇三郎はあの「藤富紡績」の社長でしたが、行状の悪いのと酒乱とで、よく新聞の三面を賑《にぎ》わすといった人間でした。署長はやがて久美子を元気づけ、「死躰《したい》の発見されるまでは希望を持つこと、出て来た着物や羽折に傷がなく血痕《けっこん》なども無いのは、案外まだどこかに無事でいるかも知れないこと、警察では出来るだけ捜査に手を尽すから」こう云って、間もなく私たちは別れを告げました。
「亀三郎は手先に使われたんでしょうね」車へ乗ると私がすぐにこう訊きました。だって、そこには町の者たちが遠巻きに見ているのに、声をかける者がない許りか、寧《むし》ろ反感のある眼づき、冷たい表情、嘲《あざけ》るような薄笑いを示している、なんともばつの悪い空気なのですから、――単純な人たちよ。が勿論《もちろん》それは彼等が悪いのではありませんし、署長が彼等を愛するのもその単純さにあったといってよいでしょう。それにしても私はそのときのばつの悪さにはまいりました、「――あの男を使って、目的は時計だったんですね」
「さっきのメモがあるかい」署長は詰らないことを云うなという調子です、「ちょっとそれを読んでみて呉れ」
「メモって、――あああれですか」私はすっかり忘れていた手帳を出し、例の十三個の時計の指時表を披《ひら》きました。それは次のような表になります。
[#ここから3字下げ]
1時6分
3時4分
1時2分
2時5分
5時1分
1時10分
3時9分
3時8分
3時5分
1時7分
2時5分
1時7分
3時4分
[#ここで字下げ終わり]
「ふむ、――」署長は眼をつむって、「詰り一時から五時までなんだね、ふむ、――君はそれに不自然を感じないかね」
「別に感じませんね、修繕を頼まれた時計が棚へ並べてある、これがそれぞれの時間で停《とま》っている、それだけじゃないんですか」
「修繕する時計だから停っている、然し一つくらい動いていてもいいじゃないか、もう修繕して具合をみている時計が、少なくとも一つくらい有るほうが自然じゃないか」
「それはま然あし、――ちょっと」
「承知できないかね」署長はぐっと後ろへ凭《もた》れかかりました、「それならその時間はどうだ、停っているのはいいとして、十三の時計がぜんぶ一時から五時の間で停っている、それ以外の時間を指しているのが一つも無い、――こいつはどうだね、おれが気を惹《ひ》かれたのはその点なんだが、君にはこれも不自然には思えないかね」
「それは結局、詰りこの事件に、関係した意味でなんですか」
「おお大事にしたまえ」署長はゆっくりと頭を振りました、「君の節穴のような眼と、空壜《あきびん》のような頭を大事にしたまえ」
例の毒舌ですが、毎もの精彩を欠いているのが悲しいようで、私は相槌《あいづち》も打てず黙っていました。――署へ帰るとだいぶ訪問客が待っている、孰《いず》れも留任を求めたり慫慂《しょうよう》しに来た人たちでしたが、署長は面会を拒絶し、私にメモの写しを作れと命じて、自分はすぐ県庁へ電話を掛けました。私が例の指時表を作っていったとき、署長は沢村秘書課長を呼んで、「金花町の関口という時計師を御存じですか」こう訊いていました。
「最近お会いになりましたか、はあ、五日の午後に、すると四日まえですね、はあ、その後はお会いにならんですな、ふむ、やあどうも」
電話を切った署長は、私から表を受取りながら、「台町のほうを当ってみて呉れ、念の為だからざっとでいいよ」と云います、私はすぐにでかけました。――然し富田氏は台町の邸宅にもいず、郊外の工場にも通町の本社にもいません、四日まえに台町の家を出たっきり、帰っても来ず所在も不明なのです。「また遊びまわってるんだわ、きっと」本社の受付にいた少女が、ませた口調でこう云ってました、「先月もこんなにして京都から和歌山のほうまで、二週間も車で乗りまわしていらしったんですの、社内では不在社長って綽名《あだな》が付いてますわ」私はこいつ叩《たた》いてみる値打があるぞと思いました。
[#6字下げ]七[#「七」は中見出し]
もういちど台町へ引返し、四日まえに出たときの精《くわ》しい容子と、自動車の番号を訊き、なお富田氏ゆきつけの料亭待合を二三あたってみました。すると「瓢屋《ひさごや》」という待合で一夜泊り、翌日の夕方に「お軽」という青柳町のほうの待合へ、見馴れない客を同伴して現われた、(それは関口泰三の失踪《しっそう》した日に当ります)五時頃に来て、芸妓も呼ばず二時間ばかり二人で酒を呑み、それからまた伴れ立って車で帰った、そこで氏の足取りはわからなくなっているのです。――同伴した客は和服の上に二重廻を着ていたとも云い、着ながしだったという女中もあって、人相や年恰好などもはっきりしないが、「見馴れない和服の客」というだけでも私には大収穫のように思えました。
「ああ御苦労、そのくらいでいいよ」署長はあっさり頷《うなず》いたきりです、「それから済まないが県庁へいって警察部長に報告して呉れないか、殺人または殺人予備と思われる事件で未発表のまま捜査をしている、大体の経過を説明してね、解決まで留任するからって、いいね」
「それは承知しましたが、富田氏のほうを自動車の番号で早く手配しないと」
「そっちはおれが引受ける、これは置《お》き土産《みやげ》におれ独《ひと》りで片付ける積りなんだ」
「お独りで、ですって?」私は署長の顔を眺めました、「ではもう、なにか……」
「時間だよ」こう云って署長は、ちょうど掛って来た電話に手を伸ばしました、「必要なのは時間だけさ、十三の時計、時間、――ああ何誰《どなた》ですか、さよう五道です」
私がでかけようとすると、署長は送話器の口を塞《ふさ》いで、「県庁が済んだら先に帰っていいよ」と私に呼びかけました。――まるではぐら[#「はぐら」に傍点]かされたような気持です、せっかくひと収穫つかんだと思うのに、署長はまるで耳もかさず、時間だとか十三の時計だとか、置き土産に独りで片付けるとか、なにもかも心得たようなことを云う、よしそんなら勝手になさいまし。私もこう思って、警察部長に報告すると、云われたとおり署へは戻らず、先に官舎へ帰ってしまいました。
翌日の各紙の朝刊は賑《にぎ》やかでした。五道署長の転任決定と、留任嘆願の示威運動、公園の市民大会など、みんな写真入りで派手に書きたててあります。毎朝と夕刊報知は社説に惜別の辞を掲げ、署長の功績を讃《たた》えたり感傷的な字句を列《つら》ねて繰り返し転任を惜しんだりしていました。然《しか》しその中で時事日報の三面に、「署長X氏その理想を語る」という例外の記事がありました、これは昨日の金花町の出来事を扱ったもので、「――X氏は従来よく栄職に恬淡《てんたん》なりと云われたが、氏の最も愛すると報ぜられた貧困者たちの、熱誠に満ちた涙ぐましき留任懇願に対し、自分の出世の邪魔をしないよう、これは警視総監にも成れる様なりと公言せりとは一驚の他《ほか》なし、俚諺《りげん》に曰《いわ》く――」こんな風な書きぶりです。単純なる者よ、私はこう呟《つぶや》いて抛《ほう》りだしました。――それから数日のわずらわしさにはうんざりしました。ひきもきらない留任懇請です。送別会をしたい、謝恩会をしたい、記念品を贈りたい、歓送会、別れの懇談会、そういう申込みが次ぎ次ぎと絶えないのです。勿論《もちろん》ぜんぶお断わりでした。県会や市会からのもお断わり、分署長連中のも同様、凡《およ》そ会と名の付くものは片っ端から謝絶です、それがみんな私の仕事なんですから、まったくいやはやでした。――然し初めの日から七日めに事件が起こりました。こんどは久美子の失踪です、やはり渡辺老人が知らせに来たのですが、「昨日から家へ帰らない」というのです。
「それが妙なんですが」老人は例の枯れた話しぶりで、「二三日まえから容子が変って、なんだかそわそわしておちつかない風なんでしたが、昨日の朝いつものとおり勤めに出たっきり帰らないんでして、――私は今朝はやく組合事務所へいって訊いてみたんです、すると昨日の午後あの子に電話が掛って来て、男の声だったそうですが、それから急に用が出来たからと云って、早退《はやび》けして帰ったと、こういうことなんですがな」
「いや、わかりました」署長はこう頷きながら眼をつむり、ぐっと椅子の背へ凭《もた》れて、「なにか二番手を打って来るとは思っていたんです、そしてその電話の男はですね、渡辺さんだから云いますがね、――亀三郎先生なんですよ」
「ははあ」老人は口をあけました、「だとしますと、その、あの子はそれを知らずに」
「いや知っていたでしょう、お父さんに会わせてやる、こんな風に云われたんだと思います、警察へ知らせたりするとお父さんの命はない、そんな威《おど》し文句《もんく》もあったかも知れませんな」
「が、――本当に亀三郎なんでしょうかな」
「知らない人間なら久美子君はゆきゃあしませんよ、あんな事件の後ですからね」署長はおちついたものでした、「とにかくめど[#「めど」に傍点]はついていますから心配しないで下さい、いずれ一網打尽にしておめにかけますよ」
[#6字下げ]八[#「八」は中見出し]
更に一週間経ちました。留任運動の騒ぎも鎮《しず》まり、毎朝が(青野の執筆でしょう)署長の扱った事件を、物語り風に連載している他は、どの新聞にも署長の記事は一行も載らなくなりました。またあれほど毎日のように訪《たず》ねて来た貧民街の人たちも、あの日の挨拶のためか、諦《あきら》めたものか、恐らく生活に追われてなんでしょう、殆んど影をみせなくなっていました。――十九日の午後のことです、署長がとつぜん「今夜ひとつ湯沼で飲むかね」と云いました。
「愈《いよ》いよお別れだから、いちど悠《ゆっ》くり将棋を指そうじゃないか、君にはだいぶ世話になったからな」
「だってそれは、そうすると関口親子のほうはどうなるんですか」
「時間、時間、時間だよ」署長は笑いもせずにこう云いました、「君はこの二週間、毎日のように関口の事件はどうなったどうなったとおれをうるさがらせた、おれが問題[#「問題」に傍点]は時間と十三の時計にあると云うのに、そっちは見ようともしないで気を揉《も》んでいる、――でもあの十三の指時表が君には不審じゃあないのかい」
「すると事件はすっかり解決しているんですね」
「解決は明日だ、そしてそれが五道三省の転任する日さ」署長はこう云って椅子を立ち、窓へいって静かに外を眺《なが》めました、「あの馬鹿ばかしい騒ぎも鎮まったからな、……」
本当にお別れだとすると青野だけでも呼んでやりたかった。それで「どうでしょう青野も」と頼んでみましたが、署長は黙って首を振ったきり相手になりません、そして退署時刻になると車を命じて、二人だけで湯沼へでかけたのです。湯沼は峠を二つ越した県境に近い谷間の温泉場です、宿屋も古ぼけた小さな家が三軒きりないし、狭い谷の奥で眺めもよくないため、今でも寂れてひっそりしたものですが、署長はその鄙《ひな》びたところがいいと云って、私を伴《つ》れて五六たびもいったでしょうか、松田屋というのがいつも定宿のようになっていました。
車が峠へかかると粉雪になりました、署長はお誂《あつら》え向きだと喜んでいますが、私は手帳を出して、例の十三の指時表と睨《にら》みっこです、なにかの暗示記号だということは署長の言葉でわかるのですが、さて一時六分から始まる十三列の数字を、どういう鍵《かぎ》で解いたらいいかとなると見当もつきません、――やがて車は松田屋へ着きました。
それでなくとも寂れた温泉宿は、殆んど客もなく森閑としていました。私たちはすぐさま湯に入って温たまり、寛《くつろ》いで酒を舐《な》めながら将棋盤に向いましたが、例の署長の長考が始まると、私は手帳の数字と格闘を続けたのです。――宿の裏にある小川のせせらぎ、筧《かけひ》の水音、そして絶えず雨戸にかかる粉雪のさらさらという囁《ささや》き、夜はしみいるような静かさに更《ふ》けてゆく。将棋盤に向って、考えているのか眠っているのかわからない、漠然《ばくぜん》とした所長の姿、ほの暗い電燈に照らされたその逞《たくま》しい顔にふと眼を惹《ひ》かれた私は、愈いよこの人とも別れるのだ、こう思ってにわかに胸苦しいほどの悲しいやるせない気持におそわれました。この一夜の思い出にはもっともっと語りたい事がたくさんあるのですが、残念ながら御想像に任せるとして話を進めましょう。
幾ら考えても暗号は解けず、夜が明けてひと風呂あびるとすぐまた数字と格闘を始めましたが、十時頃になってとうとう甲《かぶと》をぬぎました。署長は炬燵《こたつ》に入って、障子の硝子《ガラス》ごしに見える谷峡の雪景色、若木の杉林のすっかり綿帽子を冠《かぶ》ったのへ、なおさらさらと雪の降りしきるのを眺めていましたが、「一時から五時まで、――詰り一から五まで」と、もの憂そうに云いました。
「おれの頭にはすぐ五十音表がぴんときた、片仮名の五十音表がね、――時数が母音、分数《ふんすう》が子音、それで注意してみると分数はみな十以下だ、音表にぴったりじゃないか」
私は拳骨《げんこつ》で自分の頭を殴《なぐ》り、すぐに手帳へ五十音表を書きました。署長は知らん顔で窓の外を見ています、私は音表と十三列の数字を突合せながら、順々に次のような字を拾いだしたのです、一時はア列、六分はその六番目で「ハ」二番目の三時はウ列、四分はその四番目で「ツ」です、並べると「ハツカニオワルユヌマニマツ」こうなりました。
「そのとおりだよ」署長は炬燵の上の茶碗《ちゃわん》を取りながら、「もちろん関口がおれに宛《あ》てた伝言さ、亀三郎の家の床下から出た着物、さも家捜しをされたような家の中、それだけの条件を拵《こしら》えたが、十三個の時計でおれに伝言だけは遺《のこ》した、おれならみつけるだろうと信じてな」
「じゃあ亀三郎は知っていたんですね」
「知らないのは久美子君だけだろう、いや、君もその一人だったな」署長はにやっと笑いました、「なにしろ石段の処《ところ》で会った奇怪な人物、亀三郎の一生懸命に描いてみせたのが、眼の前にいるこの寝ぼけ署長そのままだということさえ、君には気がつかなかったんだからな」
「然しいったい」私はまじめに坐り直しました、「いったいどうして関口は、こんな拵え事をしたんですか、なぜこんな面倒くさい」
「おれの転任日を今日まで延ばしたかったのさ、一世一代の積りで、おれのために作っていた日本ロンジン、それを仕上げておれに呉れたかったんだろう、伝言のオワルというのがその意味だよ」
「馬鹿ばかしいそんな事で、そんな詰らない事でこんな騒ぎを起こしたんですか」私は肚《はら》が立ってきました、「そしてそれを承知で、署長もそれを承知でこんな」
「おれにはおれで、時間が必要だったのさ」署長はこう云って、また窓外へ眼を移しました、「――留任運動の、あの気違いめいた大騒ぎ、ああいうから騒ぎと、おれがどんなに縁遠い人間か君は知っているだろう、……おれはあの市《まち》が好きだ、静かな、人情に篤《あつ》い、純朴な、あの市が大好きだ、色いろな人たちと近づきになり、短い期間だったが、一緒にこのむずかしい人生を生きた、別れるなら静かに別れたい、……なんとしてもあの気違《きちが》い沙汰《ざた》で送られたくはなかった、此処《ここ》へ来たときのように、誰にも知られずに、そっとおれは別れてゆきたいんだ、そっと、……それだけの時間がおれにも必要だったんだよ」
私は頭を垂れました。署長はふと立って障子を明け、暫く雪を見ていましたが、やがて詠《うた》うような調子で次のように呟《つぶや》きました。
「――※[#「广+龍」、第3水準1-94-86]居士《ほうこじ》、薬山《やくさん》を辞す、……山《さん》、十人の禅客に命じ、相送って門首に至らしむ、……居士、空中の雪を指して云わく、……好雪片片、別処に落ちず」
関口泰三が訪《たず》ねて来たのはそれから一時間ほど後でした。むろん日本ロンジンを持ってです。亀三郎も、渡辺老人も、そして久美子も恥ずかしそうに笑いながら、――わが寝ぼけ署長はその日の午後、どこかへ散歩にでもゆくような姿で、こっそりと独りこの市を去ってゆきました。好雪片片不[#レ]落別処。署長はいまどこにおちついていることでしょうか。
底本:「山本周五郎全集第四巻 寝ぼけ署長・火の杯」新潮社
1984(昭和59)年1月25日 発行
※表題は底本では、「最後の挨拶《あいさつ》」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ