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万太郎船
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万太郎船
山本周五郎
山本周五郎
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)万太郎《まんたろう》
(例)万太郎《まんたろう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)年|経《た》
(例)年|経《た》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定]
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符二つ、1-8-75]
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符二つ、1-8-75]
[#5字下げ]一[#「一」は中見出し]
「これがお約束の百両です」
「……ありがとう」
「あらためてみてください。たしかに百両、ございますね」
二十五両の包みを四つ、万太郎《まんたろう》が正直にひとつひとつかぞえるのを待って、仁兵衛《にへえ》は煙管《きせる》のすいがらをハタきながら、
「その百両をおわたし申すについて、あらためて申しあげますが、これが長崎屋のご身代の最後の金です。もう一分《いちぶ》の金の出どころもございません、どうかそれをご承知のうえお持ちくださいまし」
「……これでおしまい、この百両で、もうあとはなんにもないのかい」
「ございません、根っきり葉っきりおつかいになりました」
「へえ……そいつは知らなかったねえ」
「これまでになんどもご意見を申しあげました、けれどもあなたはどうしてもお道楽がやまない、無いが意見の総じまいだと申しますが、これであなたもすこしはお考えが変わるでしょう。この百両をつかいはたしてああまちがっていたとお気のつくことがあったらここへおいでください、そのときはあらためてご相談にのります。そこにお気がつかず、いつまでも狂人沙汰《きちがいざた》のお道楽に凝っていらっしゃるあいだは、失礼ながらどうかこの家《うち》へおいでくださるな、これはいまはっきりと申しあげておきます」
「待ってくれ、そう矢つぎばやに突っこまれてはわけがわからないよ、いったいそれはどういう理屈なんだい」
「若旦那《わかだんな》……」仁兵衛はひょいと眼《め》をあげた、「あなたは大旦那のおなくなりなさった年《とし》をおぼえていらっしゃるか」
「知っているさ、安永二年の五月だった」
「それからなん年|経《た》ちます」
「今年が六年だから、三、四、五と、まる四年になるだろう。それがどうした」
ふっくらとした色の白い顔も、静かな澄んだ双の眼も、よく云《い》えば汚《よご》れのない、悪く云えばま[#「ま」に傍点]の抜けた感じである。仁兵衛はその眼をつよく見いりながら、
「長崎屋といえばお膝《ひざ》もとの舟大工《ふなだいく》のなかでも三番とさがらぬ店でした。職人の八九十人は絶やしたこともなく、お上の御用まで勤めた立派な頭梁《とうりょう》でございました。それを……大旦那がなくなってから四年のあいだに、あなたは釜《かま》の下までさらうようにつかいはたしておしまいになった、子飼いの職人もひとり残らずちりぢりばらばら、相川町《あいかわちょう》から玉井町へかけての地面も、百四五十軒あった家作も、舟大工にはなくてはならない河岸割《かしわ》りの株も、あなたの狂人じみたお道楽のためにすっからかんになくなってしまいました」
「そいつは云いすぎだ、きちがいじみた道楽というのは云いすぎだ、あたしは舟大工の伜《せがれ》として自分のすべきことを……」
「ようございます、云いすぎなら云いすぎとしておきましょう」
仁兵衛はにべもなくさえぎった、「それについていまさらとやかく云うつもりはありません。わたしは十二の年に長崎屋へご奉公にあがり、三十の年にこうしてここへ家《いえ》を持たせていただきました、みんな大旦那のおかげで、そのご恩のほどは海山にもたとえることはできませんが、このままではあなたのお眼のさめるときがない、大旦那には申しわけありませんがわたしはもうあなたのご面倒をみることはお断わりです。……どうか心をいれかえて、これからまじめにやり直す、まちがっていたとお気のつくまでは、家へおいでになるのをやめてくださいまし」
「……そうか」黙って聞いていた万太郎は、やがて大きくうなずきながら云った。
「そうか、よくわかった。あたしのしていることがまちがっているかどうかは、いずれ時がくればわかるだろう。……どうもながいこと迷惑をかけてすまなかった。じゃあこの金はもらっていくから」
「お待ちください、もうひとつお話がございます」
仁兵衛は下から万太郎を見あげながら、「あなたとご縁談のできていた佐野庄《さのしょう》のお雪さん、あれも破談になりましたからご承知置きをねがいます」
「ほう、……あれが破談になったのかい」
「長崎屋のお店があのとおり、あなたも末の見込みがないというので佐野庄から破談のおはなしがございました。いなやを申す余地がございませんから一存でお受けをしておいたのです、ご異存がございますか」
「……ありがとう」
「あらためてみてください。たしかに百両、ございますね」
二十五両の包みを四つ、万太郎《まんたろう》が正直にひとつひとつかぞえるのを待って、仁兵衛《にへえ》は煙管《きせる》のすいがらをハタきながら、
「その百両をおわたし申すについて、あらためて申しあげますが、これが長崎屋のご身代の最後の金です。もう一分《いちぶ》の金の出どころもございません、どうかそれをご承知のうえお持ちくださいまし」
「……これでおしまい、この百両で、もうあとはなんにもないのかい」
「ございません、根っきり葉っきりおつかいになりました」
「へえ……そいつは知らなかったねえ」
「これまでになんどもご意見を申しあげました、けれどもあなたはどうしてもお道楽がやまない、無いが意見の総じまいだと申しますが、これであなたもすこしはお考えが変わるでしょう。この百両をつかいはたしてああまちがっていたとお気のつくことがあったらここへおいでください、そのときはあらためてご相談にのります。そこにお気がつかず、いつまでも狂人沙汰《きちがいざた》のお道楽に凝っていらっしゃるあいだは、失礼ながらどうかこの家《うち》へおいでくださるな、これはいまはっきりと申しあげておきます」
「待ってくれ、そう矢つぎばやに突っこまれてはわけがわからないよ、いったいそれはどういう理屈なんだい」
「若旦那《わかだんな》……」仁兵衛はひょいと眼《め》をあげた、「あなたは大旦那のおなくなりなさった年《とし》をおぼえていらっしゃるか」
「知っているさ、安永二年の五月だった」
「それからなん年|経《た》ちます」
「今年が六年だから、三、四、五と、まる四年になるだろう。それがどうした」
ふっくらとした色の白い顔も、静かな澄んだ双の眼も、よく云《い》えば汚《よご》れのない、悪く云えばま[#「ま」に傍点]の抜けた感じである。仁兵衛はその眼をつよく見いりながら、
「長崎屋といえばお膝《ひざ》もとの舟大工《ふなだいく》のなかでも三番とさがらぬ店でした。職人の八九十人は絶やしたこともなく、お上の御用まで勤めた立派な頭梁《とうりょう》でございました。それを……大旦那がなくなってから四年のあいだに、あなたは釜《かま》の下までさらうようにつかいはたしておしまいになった、子飼いの職人もひとり残らずちりぢりばらばら、相川町《あいかわちょう》から玉井町へかけての地面も、百四五十軒あった家作も、舟大工にはなくてはならない河岸割《かしわ》りの株も、あなたの狂人じみたお道楽のためにすっからかんになくなってしまいました」
「そいつは云いすぎだ、きちがいじみた道楽というのは云いすぎだ、あたしは舟大工の伜《せがれ》として自分のすべきことを……」
「ようございます、云いすぎなら云いすぎとしておきましょう」
仁兵衛はにべもなくさえぎった、「それについていまさらとやかく云うつもりはありません。わたしは十二の年に長崎屋へご奉公にあがり、三十の年にこうしてここへ家《いえ》を持たせていただきました、みんな大旦那のおかげで、そのご恩のほどは海山にもたとえることはできませんが、このままではあなたのお眼のさめるときがない、大旦那には申しわけありませんがわたしはもうあなたのご面倒をみることはお断わりです。……どうか心をいれかえて、これからまじめにやり直す、まちがっていたとお気のつくまでは、家へおいでになるのをやめてくださいまし」
「……そうか」黙って聞いていた万太郎は、やがて大きくうなずきながら云った。
「そうか、よくわかった。あたしのしていることがまちがっているかどうかは、いずれ時がくればわかるだろう。……どうもながいこと迷惑をかけてすまなかった。じゃあこの金はもらっていくから」
「お待ちください、もうひとつお話がございます」
仁兵衛は下から万太郎を見あげながら、「あなたとご縁談のできていた佐野庄《さのしょう》のお雪さん、あれも破談になりましたからご承知置きをねがいます」
「ほう、……あれが破談になったのかい」
「長崎屋のお店があのとおり、あなたも末の見込みがないというので佐野庄から破談のおはなしがございました。いなやを申す余地がございませんから一存でお受けをしておいたのです、ご異存がございますか」
[#5字下げ]二[#「二」は中見出し]
(ご異存がございますか)
万太郎はひょいと呟《つぶ》やいてみた。
「……なるほど、そう云われてみれば異存の云える身上ではなさそうだ、仁兵衛がそう云うのも無理じゃあないよ」
深川冬木河岸《ふかがわふゆきがし》の仁兵衛の家をでると、そとは夕焼けの赤い黄昏《たそがれ》の街だった。万太郎は河岸に沿って歩きながら、四年間のこしかたをぼんやり思いかえしてみた。
彼は深川松川町の長崎屋万助という、江戸でも指折りの舟大工の家に生まれた。小さいときから細工物が好きで、仕事場へはいっては鑿《のみ》を手に、木片《きぎれ》でいろいろな物を作るのがなによりのたのしみだった。そしていつかしら作るものが舟だけにきまったのをみて、父親の万助はひじょうによろこび、
――こいつはいい二代目だ、いまにきっと長崎屋の名をあげるぞ。
そう云って自慢のたねにしていた。
事実そのとおりだった。長崎屋という大頭梁の子でありながら、十三四のころから彼は、職人たちと同様に仕事場で木屑《きくず》だらけになって働きだした。そればかりではない、職人たちが定《きま》りきった仕事を定りきった順序でやっているのに反し、彼はたえずなにか新しい工夫を考えだした。平底舟の舳先《へさき》をまるくして安全率の高いものにしたり、早舟の水切り、舷側《げんそく》のはね[#「はね」に傍点]をひろげて速度を大きくしたり、舵《かじ》の切りかたを変えて転舵《てんだ》の効果をつよめたり、実地の役にたつ工夫改良をつぎつぎと考案した。
ところが安永二年の五月、父親の万助が死ぬと間もなく、彼はだんだん仕事場から遠のきだして、一日じゅうぼんやりとなすこともなく日を暮らすようになった。
――いったい若旦那はどうしたんだい。
――まったく人が変わったようだぜ、昨日も河岸っぷちでいちんち石地蔵をきめこんでたようだ。
まわりの者はそんなことを云っていたが、万太郎はそのとき、新しい舟の考案で夢中になっていたのである。
新しい舟といってもこれまでのような形の工夫ではない、人間の力や風の力によらないで舟を動かそうというのだった。つまり櫓《ろ》や櫂《かい》や帆のほかに、もっと速く、しかも波や風を乗り切って舟を動かす方法を考えていたのだ。……あるとき彼は、幕府の砲術家が石川島で大砲《おおづつ》の射撃演習をするのを見た。大砲を射《う》つと、弾丸《たま》がとびだして、同時に砲身がはげしく後方へ反動をおこす。こいつをくり返し見ていた万太郎は、火薬の力の大きさにおどろくとともに、
――もしもあの力で舟を動かすことができたら……?
ということをひょいと思いついた。
万太郎は家へとんで帰ると、すぐに冬木河岸の仁兵衛を呼んで仔細《しさい》をはなし、金の調達をたのんだ。仁兵衛は長崎屋の子飼いの職人で腕を見込まれて、三十の年にじぶん一軒の仕事場を持たせてもらい、当時はもうひとかどの頭梁株になっていたし、万太郎の後見をたのまれて、万助なきあとの財産管理のような役をひき受けていた。
仁兵衛は話を聞いてはじめつよく反対したが、万太郎はそれを押し切った。
――舟大工で貯《た》めた金を舟の工夫につかうのは当然だ、たとえ家を裸にしても、成功すればお父つぁんはほめてくださるにちがいない。
道理はとおっているから、そう押して云われるとそれでもいけないとは云えなかった。仁兵衛の負けで、万太郎はいよいよ新しい工夫にのりだしたのである。……なにしろ大砲の原理を舟へ利用しようとするのだから、仕事のむずかしさもさることながら金をつかうことも大きなもので、二年たらずのあいだに三千両というものが消えてしまった。
むろん仁兵衛はそのあいだにずいぶん意見をしたが、万太郎はまるで耳にもかけない、それで一策を思いついた仁兵衛は、中洲《なかす》に店のある廻船《かいせん》問屋、佐野屋庄左衛門の娘でお雪という、十六になる評判の小町娘を、万太郎の嫁にもらいたいと話をすすめた。……佐野庄も指折りの資産家で、商売|柄《がら》、まえから長崎屋とは関係《かかわり》があるし、先方でも万太郎のことは知っていたので縁談はめでたくまとまった。
――これでよし、女房がきまればつまらない道楽もやむだろう。
仁兵衛はそう思ってひと安心した気でいた。ところが万太郎はすこしも変わらなかった。
――婚礼はこの工夫が成功してからだ。
そう云ってあいかわらず夢中で工夫にうちこんでいた。……こうしてまる四年、ついに仁兵衛からきょう縁を切ると云われるところまできてしまったのである。
「まったく仁兵衛や佐野庄が見切りをつけるのも無理じゃないかもしれない、われながら今度の工夫はいまだに目鼻がつかないんだから」
そう呟やきながらあるいてゆく。
万年町の舟入り堀のほうへ、河岸っぷちを曲がったとたんに、夕焼けの赤い空をきって、ぶうんとなにか飛んで来たかと思うと、万太郎の横顔へいきなりそいつがぱしッとぶっつかった。
万太郎はひょいと呟《つぶ》やいてみた。
「……なるほど、そう云われてみれば異存の云える身上ではなさそうだ、仁兵衛がそう云うのも無理じゃあないよ」
深川冬木河岸《ふかがわふゆきがし》の仁兵衛の家をでると、そとは夕焼けの赤い黄昏《たそがれ》の街だった。万太郎は河岸に沿って歩きながら、四年間のこしかたをぼんやり思いかえしてみた。
彼は深川松川町の長崎屋万助という、江戸でも指折りの舟大工の家に生まれた。小さいときから細工物が好きで、仕事場へはいっては鑿《のみ》を手に、木片《きぎれ》でいろいろな物を作るのがなによりのたのしみだった。そしていつかしら作るものが舟だけにきまったのをみて、父親の万助はひじょうによろこび、
――こいつはいい二代目だ、いまにきっと長崎屋の名をあげるぞ。
そう云って自慢のたねにしていた。
事実そのとおりだった。長崎屋という大頭梁の子でありながら、十三四のころから彼は、職人たちと同様に仕事場で木屑《きくず》だらけになって働きだした。そればかりではない、職人たちが定《きま》りきった仕事を定りきった順序でやっているのに反し、彼はたえずなにか新しい工夫を考えだした。平底舟の舳先《へさき》をまるくして安全率の高いものにしたり、早舟の水切り、舷側《げんそく》のはね[#「はね」に傍点]をひろげて速度を大きくしたり、舵《かじ》の切りかたを変えて転舵《てんだ》の効果をつよめたり、実地の役にたつ工夫改良をつぎつぎと考案した。
ところが安永二年の五月、父親の万助が死ぬと間もなく、彼はだんだん仕事場から遠のきだして、一日じゅうぼんやりとなすこともなく日を暮らすようになった。
――いったい若旦那はどうしたんだい。
――まったく人が変わったようだぜ、昨日も河岸っぷちでいちんち石地蔵をきめこんでたようだ。
まわりの者はそんなことを云っていたが、万太郎はそのとき、新しい舟の考案で夢中になっていたのである。
新しい舟といってもこれまでのような形の工夫ではない、人間の力や風の力によらないで舟を動かそうというのだった。つまり櫓《ろ》や櫂《かい》や帆のほかに、もっと速く、しかも波や風を乗り切って舟を動かす方法を考えていたのだ。……あるとき彼は、幕府の砲術家が石川島で大砲《おおづつ》の射撃演習をするのを見た。大砲を射《う》つと、弾丸《たま》がとびだして、同時に砲身がはげしく後方へ反動をおこす。こいつをくり返し見ていた万太郎は、火薬の力の大きさにおどろくとともに、
――もしもあの力で舟を動かすことができたら……?
ということをひょいと思いついた。
万太郎は家へとんで帰ると、すぐに冬木河岸の仁兵衛を呼んで仔細《しさい》をはなし、金の調達をたのんだ。仁兵衛は長崎屋の子飼いの職人で腕を見込まれて、三十の年にじぶん一軒の仕事場を持たせてもらい、当時はもうひとかどの頭梁株になっていたし、万太郎の後見をたのまれて、万助なきあとの財産管理のような役をひき受けていた。
仁兵衛は話を聞いてはじめつよく反対したが、万太郎はそれを押し切った。
――舟大工で貯《た》めた金を舟の工夫につかうのは当然だ、たとえ家を裸にしても、成功すればお父つぁんはほめてくださるにちがいない。
道理はとおっているから、そう押して云われるとそれでもいけないとは云えなかった。仁兵衛の負けで、万太郎はいよいよ新しい工夫にのりだしたのである。……なにしろ大砲の原理を舟へ利用しようとするのだから、仕事のむずかしさもさることながら金をつかうことも大きなもので、二年たらずのあいだに三千両というものが消えてしまった。
むろん仁兵衛はそのあいだにずいぶん意見をしたが、万太郎はまるで耳にもかけない、それで一策を思いついた仁兵衛は、中洲《なかす》に店のある廻船《かいせん》問屋、佐野屋庄左衛門の娘でお雪という、十六になる評判の小町娘を、万太郎の嫁にもらいたいと話をすすめた。……佐野庄も指折りの資産家で、商売|柄《がら》、まえから長崎屋とは関係《かかわり》があるし、先方でも万太郎のことは知っていたので縁談はめでたくまとまった。
――これでよし、女房がきまればつまらない道楽もやむだろう。
仁兵衛はそう思ってひと安心した気でいた。ところが万太郎はすこしも変わらなかった。
――婚礼はこの工夫が成功してからだ。
そう云ってあいかわらず夢中で工夫にうちこんでいた。……こうしてまる四年、ついに仁兵衛からきょう縁を切ると云われるところまできてしまったのである。
「まったく仁兵衛や佐野庄が見切りをつけるのも無理じゃないかもしれない、われながら今度の工夫はいまだに目鼻がつかないんだから」
そう呟やきながらあるいてゆく。
万年町の舟入り堀のほうへ、河岸っぷちを曲がったとたんに、夕焼けの赤い空をきって、ぶうんとなにか飛んで来たかと思うと、万太郎の横顔へいきなりそいつがぱしッとぶっつかった。
[#5字下げ]三[#「三」は中見出し]
「あ、いてえ!」
びっくりして立ちどまる、万太郎の足もとへはらりとなにか落ちた。
見るとそれは「竹とんぼ」だった。
「なんだ、竹とんぼか」と拍子ぬけのした気持で拾いあげるところへ、むこうから八つくらいになる子供が走って来た。
「ごめんよ小父《おじ》さん、痛くしたかい」
「痛くはしないがびっくりした、これはおまえのかい」
「おいらんだ」子供はくりくりとした眼をあげて、
「おいらがじぶんでこさえたんだ、仲間でいちばん飛ぶんだぜ。どのくらい飛ぶか、小父さん見たくはねえかい」
「そうさな、見たくはないが、おまえ見せたいんなら飛ばしてみな」
「へ※[#感嘆符二つ、1-8-75] 恩に着せるようなことを云うぜ」
子供はぺろっと掌《てのひら》をなめると、竹とんぼの軸を両手のあいだにはさみ、くるくると調子をつけながらぐいっと空をにらんだ。
「いいかい、飛ばすぜ」
そらっという声とともに、小気味のいいうなりをたてながら、竹とんぼは子供の手をはなれて勢いよく夕焼けの空へ舞いあがった。
自慢したほどあってそれは実によく飛んだ。ほとんど蚊のように小さく舞いあがり、しずかな南風に吹きながされて、二十間ばかりむこうの道へひらと落ちて来た。……すると、それをじっと見ていた万太郎が、
「……あっ」と低く口のなかで声をあげた。
「どうでえ、ちょいとしたもんだろう小父さん」
子供は万太郎の声を感嘆されたものと思ったようすで、得意になって、竹とんぼを拾いに走って行った。万太郎は子供がもどって来るのを待ちかねて、
「坊や、それを小父さんに売ってくれないか、お金はほしいだけやるぜ、売ってくれ、いいだろう坊や」
そう云いながらふところをさぐる、仁兵衛の手からうけ取って来たばかりの金の包みをやぶいて、小判を一枚とりだすと、
「さ、これだけやる、買ったぜ坊や」
あっけにとられている子供の手へ、金を握らせて竹とんぼを取ると、まるで憑《つ》きものでもしたように走りだしていた。……子供はぽかんと口をあいてそのうしろ姿を見送っていたが、手のなかの小判を見ると、さすがに子供である、きゅうに仰天して、なにかわめきながら裏町のほうへつぶてのようにかけていった。
竹とんぼ一つを一両で買った万太郎は、なにを思いついたのであろう、まっしぐらに松川町の家へ帰って来ると、そのまま舟《ふな》おろし場へ出ていって、竹とんぼを流れのなかへいれながら食事も忘れてなにか考えはじめた。
それから二三日というものはじぶんで、大小幾十となく竹とんぼを作り、こいつを流れにひたしてはにらみっくらをしていた。
広い家のなかに住む者は万太郎ひとり、食べものを近所の仕出し屋からはこんでくるほかはおとずれる人もなく、江戸じゅうに名を知られた長崎屋の建物もいまはがらんとして化物屋敷どうぜんだった。
月のいい晩だった。
いつものとおり、舟おろし場へ高張提灯《たかはりぢょうちん》を二つ持ちだして、次ぎ次ぎと竹とんぼを流れにひたしてはなにか考えていると、右手の空地へ誰か人のはいってくる跫音《あしおと》がした。
(――いまじぶん誰だろう)そう思ってひょいとふりかえって見ると、空地を下りて来た人影が、そのままするすると水際《みずぎわ》へやってくる。
(――芥《ごみ》でも捨てに来たのか)と見るうちに、それがすいと河のなかへ足をいれ、ずんずん前へ出てゆく、水は膝《ひざ》をひたし腰を越えた。万太郎にはまだなにをしているのかわからない、間もなくその人影は深みへ出たとみえて、ずぶりと水のなかへ沈んだ。
(――あっ、身投げだ)
そう気がついたのは、いちど沈んだ頭がひょいと波の上へうかびあがったときである、万太郎は反射的に河のなかへとびこんだ。
びっくりして立ちどまる、万太郎の足もとへはらりとなにか落ちた。
見るとそれは「竹とんぼ」だった。
「なんだ、竹とんぼか」と拍子ぬけのした気持で拾いあげるところへ、むこうから八つくらいになる子供が走って来た。
「ごめんよ小父《おじ》さん、痛くしたかい」
「痛くはしないがびっくりした、これはおまえのかい」
「おいらんだ」子供はくりくりとした眼をあげて、
「おいらがじぶんでこさえたんだ、仲間でいちばん飛ぶんだぜ。どのくらい飛ぶか、小父さん見たくはねえかい」
「そうさな、見たくはないが、おまえ見せたいんなら飛ばしてみな」
「へ※[#感嘆符二つ、1-8-75] 恩に着せるようなことを云うぜ」
子供はぺろっと掌《てのひら》をなめると、竹とんぼの軸を両手のあいだにはさみ、くるくると調子をつけながらぐいっと空をにらんだ。
「いいかい、飛ばすぜ」
そらっという声とともに、小気味のいいうなりをたてながら、竹とんぼは子供の手をはなれて勢いよく夕焼けの空へ舞いあがった。
自慢したほどあってそれは実によく飛んだ。ほとんど蚊のように小さく舞いあがり、しずかな南風に吹きながされて、二十間ばかりむこうの道へひらと落ちて来た。……すると、それをじっと見ていた万太郎が、
「……あっ」と低く口のなかで声をあげた。
「どうでえ、ちょいとしたもんだろう小父さん」
子供は万太郎の声を感嘆されたものと思ったようすで、得意になって、竹とんぼを拾いに走って行った。万太郎は子供がもどって来るのを待ちかねて、
「坊や、それを小父さんに売ってくれないか、お金はほしいだけやるぜ、売ってくれ、いいだろう坊や」
そう云いながらふところをさぐる、仁兵衛の手からうけ取って来たばかりの金の包みをやぶいて、小判を一枚とりだすと、
「さ、これだけやる、買ったぜ坊や」
あっけにとられている子供の手へ、金を握らせて竹とんぼを取ると、まるで憑《つ》きものでもしたように走りだしていた。……子供はぽかんと口をあいてそのうしろ姿を見送っていたが、手のなかの小判を見ると、さすがに子供である、きゅうに仰天して、なにかわめきながら裏町のほうへつぶてのようにかけていった。
竹とんぼ一つを一両で買った万太郎は、なにを思いついたのであろう、まっしぐらに松川町の家へ帰って来ると、そのまま舟《ふな》おろし場へ出ていって、竹とんぼを流れのなかへいれながら食事も忘れてなにか考えはじめた。
それから二三日というものはじぶんで、大小幾十となく竹とんぼを作り、こいつを流れにひたしてはにらみっくらをしていた。
広い家のなかに住む者は万太郎ひとり、食べものを近所の仕出し屋からはこんでくるほかはおとずれる人もなく、江戸じゅうに名を知られた長崎屋の建物もいまはがらんとして化物屋敷どうぜんだった。
月のいい晩だった。
いつものとおり、舟おろし場へ高張提灯《たかはりぢょうちん》を二つ持ちだして、次ぎ次ぎと竹とんぼを流れにひたしてはなにか考えていると、右手の空地へ誰か人のはいってくる跫音《あしおと》がした。
(――いまじぶん誰だろう)そう思ってひょいとふりかえって見ると、空地を下りて来た人影が、そのままするすると水際《みずぎわ》へやってくる。
(――芥《ごみ》でも捨てに来たのか)と見るうちに、それがすいと河のなかへ足をいれ、ずんずん前へ出てゆく、水は膝《ひざ》をひたし腰を越えた。万太郎にはまだなにをしているのかわからない、間もなくその人影は深みへ出たとみえて、ずぶりと水のなかへ沈んだ。
(――あっ、身投げだ)
そう気がついたのは、いちど沈んだ頭がひょいと波の上へうかびあがったときである、万太郎は反射的に河のなかへとびこんだ。
[#5字下げ]四[#「四」は中見出し]
「冗談じゃない、本当に死ぬ気だったのかい」
「ええ、……死ぬつもりでした」
助けあげたのは娘だった、たいして水を飲んだわけではないが、話のできるようになるまでには、半刻《はんとき》あまりもかかった。……さて行燈《あんどん》を中にして向き合ってみると、眼鼻だちのととのったすばらしい縹緻である、二十六という年まで女というものに興味を持ったことのない万太郎が、(――これは美しい)と思ったくらいだから、くだくだしく説明する要はないだろう。万太郎はそう思うのといっしょに、これは色恋のはての身投げだなと推察した。
「いったいどうして死ぬ気になんぞなったんだ」
万太郎は、あり合わせの男物の浴衣《ゆかた》を着て、じっとうつむいている娘の、絖《ぬめ》のような衿《えり》あしを見ながら云った。
「こうしてあたしが助けたというのもなにかの縁だろう、死ぬ気になったわけを話してごらんよ、どうせついでだ、あたしで足りることなら力になってあげようじゃないか」
「ありがとう存じます、……でも、……」
「ざっくばらんに聞くけれど、金かい、それとも色恋かい」
「まあ……」
娘はふっと、つぶらなひとみをあげて万太郎を見た。そしてしずかに頭《こうべ》をふりながら、
「ちがいます、そんな、そんなことではありません」
「金でなし色恋でなしとすると」
「あたし、……行くところがないんです」
「というと」
まじりけのない万太郎の気持がわかったのであろう、娘はぽつりぽつりと、拾うような口調で身上ばなしをはじめた。娘の名はおすえ[#「おすえ」に傍点]と云った。
葛飾《かつしか》在の百姓の娘で、十二の年に深川佐賀町のさる大商人《おおあきんど》の店へ奉公にあがり、小間づかいとして六年のあいだ働いていた。ところが年ごろになるとともにそういう身分で美貌《びぼう》の者にありがちな災いがおこってきた。その家の伜《せがれ》で平吉というのら息子がおすえ[#「おすえ」に傍点]に眼をつけ、土蔵前《くらまえ》で袖《そで》をひいたり、文《ふみ》をつけたり、しまいには力ずくでかかりそうにさえなった。
「六年も働いたご恩のあるお店ですけれど」娘はそのときのことを思いだしたように、美しい眉《まゆ》をひそめながら云った。
「それ以上いては若旦那のためにもならず、あたしのからだも心配ですから、思いきってそっとぬけだしましたの」
「むろんだとも、いることがあるものか」
「そして葛飾の家へ帰りましたら、家はすっかり荒れはてて誰もいません。近所できいてみましたら、おととしの冬、御年貢が納められないために一家そろって行方知れずになったというんです」
「おまえさんに知らせはなかったのかい」
「ありませんでした」娘はそっと眼がしらへ袖をあてた。
「きっとあたしに心配をかけてはいけないと思ったんですわ、父は気の弱いひとですから」
「それで親類かなにか……」
「親類も縁者もいませんの、家はもともと奥州のほうから移って来たのだと聞いていました。しかたなしにまた江戸へもどって来たのですけれど、あのお店のことを考えると二度とよそへ奉公にあがる気にもなれず、といってどこにも頼るあてはなし。……もうもう生きているのがいやになって……」
「そうだったのかい」万太郎はふかく感動させられた。
(――人生はいろいろだ)これだけの美貌にめぐまれて、ふつうならどんな面白い世間でも見られそうなものなのに、この娘の場合にはそれがかえって身の仇《あだ》になっている、人の運命《めぐりあわせ》ほどわからぬものはないと、万太郎ははじめて世の中のきびしさの一面にふれたように思った。
「いったい、その佐賀町の店というのはどこだい」
「それは申しあげられませんわ、若旦那の恥を話してしまったのですもの、あたしには辛《つら》いお店でしたけれど、でもやはりお世話になったご主人のお店ですから、店の名を云うことだけはかに[#「かに」に傍点]してくださいまし」
「いいことを云うね」けじめの正しい娘の言葉に万太郎はもういちどふかく心を動かされた。
「こいつはきくあたしのほうが悪かった。ではあらためて相談だが、あたしが大丈夫という家を世話したら奉公にでる気があるかい」
「……でも」
「家もなく身寄たよりがないとすると、どこか堅い店へ奉公にでるほかはないだろう、あたしがひとり者でなければここにいてもらってもいいんだが」
「置いてくださいまし」娘はすがりつくように云った。「ここへ置いてくださいまし、煮炊《にた》きでもお洗濯《せんたく》でもなんでもいたします。おねがいですからここへ置いてくださいまし」
「ええ、……死ぬつもりでした」
助けあげたのは娘だった、たいして水を飲んだわけではないが、話のできるようになるまでには、半刻《はんとき》あまりもかかった。……さて行燈《あんどん》を中にして向き合ってみると、眼鼻だちのととのったすばらしい縹緻である、二十六という年まで女というものに興味を持ったことのない万太郎が、(――これは美しい)と思ったくらいだから、くだくだしく説明する要はないだろう。万太郎はそう思うのといっしょに、これは色恋のはての身投げだなと推察した。
「いったいどうして死ぬ気になんぞなったんだ」
万太郎は、あり合わせの男物の浴衣《ゆかた》を着て、じっとうつむいている娘の、絖《ぬめ》のような衿《えり》あしを見ながら云った。
「こうしてあたしが助けたというのもなにかの縁だろう、死ぬ気になったわけを話してごらんよ、どうせついでだ、あたしで足りることなら力になってあげようじゃないか」
「ありがとう存じます、……でも、……」
「ざっくばらんに聞くけれど、金かい、それとも色恋かい」
「まあ……」
娘はふっと、つぶらなひとみをあげて万太郎を見た。そしてしずかに頭《こうべ》をふりながら、
「ちがいます、そんな、そんなことではありません」
「金でなし色恋でなしとすると」
「あたし、……行くところがないんです」
「というと」
まじりけのない万太郎の気持がわかったのであろう、娘はぽつりぽつりと、拾うような口調で身上ばなしをはじめた。娘の名はおすえ[#「おすえ」に傍点]と云った。
葛飾《かつしか》在の百姓の娘で、十二の年に深川佐賀町のさる大商人《おおあきんど》の店へ奉公にあがり、小間づかいとして六年のあいだ働いていた。ところが年ごろになるとともにそういう身分で美貌《びぼう》の者にありがちな災いがおこってきた。その家の伜《せがれ》で平吉というのら息子がおすえ[#「おすえ」に傍点]に眼をつけ、土蔵前《くらまえ》で袖《そで》をひいたり、文《ふみ》をつけたり、しまいには力ずくでかかりそうにさえなった。
「六年も働いたご恩のあるお店ですけれど」娘はそのときのことを思いだしたように、美しい眉《まゆ》をひそめながら云った。
「それ以上いては若旦那のためにもならず、あたしのからだも心配ですから、思いきってそっとぬけだしましたの」
「むろんだとも、いることがあるものか」
「そして葛飾の家へ帰りましたら、家はすっかり荒れはてて誰もいません。近所できいてみましたら、おととしの冬、御年貢が納められないために一家そろって行方知れずになったというんです」
「おまえさんに知らせはなかったのかい」
「ありませんでした」娘はそっと眼がしらへ袖をあてた。
「きっとあたしに心配をかけてはいけないと思ったんですわ、父は気の弱いひとですから」
「それで親類かなにか……」
「親類も縁者もいませんの、家はもともと奥州のほうから移って来たのだと聞いていました。しかたなしにまた江戸へもどって来たのですけれど、あのお店のことを考えると二度とよそへ奉公にあがる気にもなれず、といってどこにも頼るあてはなし。……もうもう生きているのがいやになって……」
「そうだったのかい」万太郎はふかく感動させられた。
(――人生はいろいろだ)これだけの美貌にめぐまれて、ふつうならどんな面白い世間でも見られそうなものなのに、この娘の場合にはそれがかえって身の仇《あだ》になっている、人の運命《めぐりあわせ》ほどわからぬものはないと、万太郎ははじめて世の中のきびしさの一面にふれたように思った。
「いったい、その佐賀町の店というのはどこだい」
「それは申しあげられませんわ、若旦那の恥を話してしまったのですもの、あたしには辛《つら》いお店でしたけれど、でもやはりお世話になったご主人のお店ですから、店の名を云うことだけはかに[#「かに」に傍点]してくださいまし」
「いいことを云うね」けじめの正しい娘の言葉に万太郎はもういちどふかく心を動かされた。
「こいつはきくあたしのほうが悪かった。ではあらためて相談だが、あたしが大丈夫という家を世話したら奉公にでる気があるかい」
「……でも」
「家もなく身寄たよりがないとすると、どこか堅い店へ奉公にでるほかはないだろう、あたしがひとり者でなければここにいてもらってもいいんだが」
「置いてくださいまし」娘はすがりつくように云った。「ここへ置いてくださいまし、煮炊《にた》きでもお洗濯《せんたく》でもなんでもいたします。おねがいですからここへ置いてくださいまし」
[#5字下げ]五[#「五」は中見出し]
葛飾|郡《ごおり》砂村新田《すなむらしんでん》の地はずれ、中川の海へそそぐ川口寄りに、もと漁師の舟小屋につかっていた古い大きな建物がある。その建物を買いとってすこしばかり手入れをしたうえ、ささやかな家財を持ちこんで若い男女のひと組がすむようになってから三月《みつき》ほどたった。
若い男女とはいうまでもなく万太郎とおすえ[#「おすえ」に傍点]であった。
娘の哀れな身上を聞いた万太郎は、どうせじぶんも当分は世間と縁のないからだなので、すこしでも生活費をきりつめるため、ひとつには邪魔のはいらない場所でゆっくり仕事がしたいと思ったので、あれからすぐにこの家を捜し、松川町をひきはらって移って来たのであった。
まわりはいちめんの蘆原《あしはら》、ところどころに小松の林があって、白鷺《しらさぎ》が翼をやすめている景色など見ると、江戸からひとまたぎの場所とは思えないほど閑寂なものを感じた。……万太郎はいちんちいっぱい仕事場にこもりきりであった。まずしい食事の膳《ぜん》へ差し向いになってもほとんどうちとけて話をするようなことはない。おすえ[#「おすえ」に傍点]にはそれが物足らぬようすで、炊事、縫い張りの暇々には、どこか遠くを見るような眼をしては溜息《ためいき》をつくことが多かった。
五月の末に移ってきて、六、七、八月と、自然はようやく秋にいりかけた。
「おまえ[#「おまえ」に傍点]さん、淋《さび》しそうだね」ある夜《よ》、夕食の膳にむかったとき、万太郎がふと眼をあげて云った。
「こんな蘆原のなかの一つ家《や》だから淋しいことはあたりまえだが、そろそろ江戸が恋しくなったんじゃあないのかい、気が変わって奉公するつもりがでたら江戸へ送ってあげるよ、そんなことに遠慮はないんだぜ」
「江戸へかえりたいなんて、そんな気持はすこしもありませんわ」
「だってときどき溜息なんぞついてるところをみると、あたしはおまえさんが可哀《かわい》そうで胸が痛くなる。……あたしの仕事はいつになれば終わるというものじゃないんだ、あたしに付き合うつもりなら考えなくちゃいけないぜ」
「ひとつだけ、伺いたいことがありますの」万太郎の言葉にはかまわず、おすえ[#「おすえ」に傍点]は思いきったようにきいた。
「お仕事のことだけは口出しをしないつもりでしたけれど、あなたの苦心していらっしゃるごょうすを見るたびに、あたし胸が苦しくなってどうしようもなくなるんです」
「いやだね、はははは」めずらしくも万太郎が笑った。おすえ[#「おすえ」に傍点]の溜息を聞いて彼が胸に痛みをおぼえると云った、その口のしたから、こんどはおすえ[#「おすえ」に傍点]が彼の苦心のさまを見て胸苦しくなるという。(――それじゃ五分五分じゃないか)と云おうとして、万太郎はあわてて笑うのをやめた。きゅうにおすえ[#「おすえ」に傍点]が泣きだしたのである。
「どうしたんだ、おすえ[#「おすえ」に傍点]さん」
「あたし、……あなたがお気の毒で……」
「気の毒だって、あたしが気の毒だっていうのかい」
「そうですわ」娘はそっと涙をおさえながら、「あたし、助けていただいて、松川町のお家《うち》にいるあいだ、ご近所の噂《うわさ》であなたのことをすっかり伺ったんです」
「どんな噂を聞いたんだい」
「冬木河岸の仁兵衛という人のことですわ」
「……仁兵衛のこと」万太郎は妙なことを云うと思いながら、「仁兵衛がどうしたっていうんだい」
「冬木河岸は腹黒い人で、あなたが舟の工夫に凝って世間のことを知らないのをさいわい、長崎屋のご身代をすっかり自分のふところへ入れてしまったというんです」
「ばかな、ばかなことを云うものじゃない」
「いいえ、ばかなことじゃございません」
おすえ[#「おすえ」に傍点]はつよく頭をふって云った、「冬木河岸さんが本当にあなたのためを思う人なら、あなたをこんなお身上にしないうちになんとかしているはずです。口で意見を云うくらいは他人同士でもすること、心《しん》そこお店のためあなたのためを思うなら、口さきだけの意見でなく、もっと本当に役だつ手段《てだて》があったはずです。……それなのに、仁兵衛という人は忠義らしいふりをして、実際はあなたのおっしゃるままに金をつかわせ、ぎりぎり結着まで追いこんでしまったんです。地面を売った、家作を売った、株を売った、売ったことはたしかでしょうけれど、売ったお金の半分は冬木河岸のお人がごまかしたのだと云いますわ」
おすえ[#「おすえ」に傍点]はそう云って、近所の噂の出どころのたしかさを数え、うろんだと思うなら地面家作の買い主にあたってみるがよいとまで云った。
若い男女とはいうまでもなく万太郎とおすえ[#「おすえ」に傍点]であった。
娘の哀れな身上を聞いた万太郎は、どうせじぶんも当分は世間と縁のないからだなので、すこしでも生活費をきりつめるため、ひとつには邪魔のはいらない場所でゆっくり仕事がしたいと思ったので、あれからすぐにこの家を捜し、松川町をひきはらって移って来たのであった。
まわりはいちめんの蘆原《あしはら》、ところどころに小松の林があって、白鷺《しらさぎ》が翼をやすめている景色など見ると、江戸からひとまたぎの場所とは思えないほど閑寂なものを感じた。……万太郎はいちんちいっぱい仕事場にこもりきりであった。まずしい食事の膳《ぜん》へ差し向いになってもほとんどうちとけて話をするようなことはない。おすえ[#「おすえ」に傍点]にはそれが物足らぬようすで、炊事、縫い張りの暇々には、どこか遠くを見るような眼をしては溜息《ためいき》をつくことが多かった。
五月の末に移ってきて、六、七、八月と、自然はようやく秋にいりかけた。
「おまえ[#「おまえ」に傍点]さん、淋《さび》しそうだね」ある夜《よ》、夕食の膳にむかったとき、万太郎がふと眼をあげて云った。
「こんな蘆原のなかの一つ家《や》だから淋しいことはあたりまえだが、そろそろ江戸が恋しくなったんじゃあないのかい、気が変わって奉公するつもりがでたら江戸へ送ってあげるよ、そんなことに遠慮はないんだぜ」
「江戸へかえりたいなんて、そんな気持はすこしもありませんわ」
「だってときどき溜息なんぞついてるところをみると、あたしはおまえさんが可哀《かわい》そうで胸が痛くなる。……あたしの仕事はいつになれば終わるというものじゃないんだ、あたしに付き合うつもりなら考えなくちゃいけないぜ」
「ひとつだけ、伺いたいことがありますの」万太郎の言葉にはかまわず、おすえ[#「おすえ」に傍点]は思いきったようにきいた。
「お仕事のことだけは口出しをしないつもりでしたけれど、あなたの苦心していらっしゃるごょうすを見るたびに、あたし胸が苦しくなってどうしようもなくなるんです」
「いやだね、はははは」めずらしくも万太郎が笑った。おすえ[#「おすえ」に傍点]の溜息を聞いて彼が胸に痛みをおぼえると云った、その口のしたから、こんどはおすえ[#「おすえ」に傍点]が彼の苦心のさまを見て胸苦しくなるという。(――それじゃ五分五分じゃないか)と云おうとして、万太郎はあわてて笑うのをやめた。きゅうにおすえ[#「おすえ」に傍点]が泣きだしたのである。
「どうしたんだ、おすえ[#「おすえ」に傍点]さん」
「あたし、……あなたがお気の毒で……」
「気の毒だって、あたしが気の毒だっていうのかい」
「そうですわ」娘はそっと涙をおさえながら、「あたし、助けていただいて、松川町のお家《うち》にいるあいだ、ご近所の噂《うわさ》であなたのことをすっかり伺ったんです」
「どんな噂を聞いたんだい」
「冬木河岸の仁兵衛という人のことですわ」
「……仁兵衛のこと」万太郎は妙なことを云うと思いながら、「仁兵衛がどうしたっていうんだい」
「冬木河岸は腹黒い人で、あなたが舟の工夫に凝って世間のことを知らないのをさいわい、長崎屋のご身代をすっかり自分のふところへ入れてしまったというんです」
「ばかな、ばかなことを云うものじゃない」
「いいえ、ばかなことじゃございません」
おすえ[#「おすえ」に傍点]はつよく頭をふって云った、「冬木河岸さんが本当にあなたのためを思う人なら、あなたをこんなお身上にしないうちになんとかしているはずです。口で意見を云うくらいは他人同士でもすること、心《しん》そこお店のためあなたのためを思うなら、口さきだけの意見でなく、もっと本当に役だつ手段《てだて》があったはずです。……それなのに、仁兵衛という人は忠義らしいふりをして、実際はあなたのおっしゃるままに金をつかわせ、ぎりぎり結着まで追いこんでしまったんです。地面を売った、家作を売った、株を売った、売ったことはたしかでしょうけれど、売ったお金の半分は冬木河岸のお人がごまかしたのだと云いますわ」
おすえ[#「おすえ」に傍点]はそう云って、近所の噂の出どころのたしかさを数え、うろんだと思うなら地面家作の買い主にあたってみるがよいとまで云った。
[#5字下げ]六[#「六」は中見出し]
(――そうかもしれない)
これが長崎屋の身代のさいごの金だといって百両わたされたとき、いや、それよりまえにもときどき仁兵衛のやりかたに疑念をもったことがあった。しかし……疑念をもったとしても、そのときふっと心をかすめたくらいのもので、彼にとっては新造の舟のほうが重大だった。仁兵衛のことなどはほとんど考える暇もなかったのである。
「おすえ[#「おすえ」に傍点]さん」万太郎は坐り直して云った。「おまえがそういう噂を聞いて、あたしのためにくやしがってくれるのはありがたい、けれどもそいつはやめておくれ」
「…………」
「もし仁兵衛が本当にそんなことをしたとしても、それであたしが気の毒だという考えはまちがっている。万太郎は気の毒どころかしあわせな人間だぜ」
「そうおっしゃられるとよけい悲しくなりますわ」
「いや負け惜しみじゃあない、証拠を見せてあげるからおいで、いいから一緒においでよ」
出たばかりの月が、蘆原いっぱいに淡い光を投げていた。わくような虫の音《ね》のなかを、川口のほうへ三四十間ゆくと、五六本小松の生えている汀《みぎわ》に小さな小屋がある。万太郎はおすえ[#「おすえ」に傍点]に提灯《ちょうちん》をわたして小屋の戸をあけ中から畳一|帖《じょう》ほどの小さな平底舟をひき出して来た。
「さあ、提灯を持ってこれを見てくれ」
おすえ[#「おすえ」に傍点]はそばへ寄った。「この船の下にあるのをなんだと思う」
「……竹とんぼの大きいのみたいですわね」
「そうだ、竹とんぼなんだ」
万太郎はしずかに云った、「あたしは舟をこぐのに、櫓《ろ》や櫂《かい》や帆ではなく、もっと速くそして波や風を乗り切って動かすことのできる方法を工夫していた。そしてあるとき大砲《おおづつ》の射撃を見ているうちに、火薬の炸裂《さくれつ》する力の強さを舟に用いてみたらと思いつき、ながいこと苦心してみた。……ところがこの夏のはじめ、ふと子供が竹とんぼを飛ばしているのを見たんだ」
竹とんぼが舞いあがるのは、反対にそり[#「そり」に傍点]をもった左右のはね[#「はね」に傍点]が空気を截《き》るからである。もしそれで水を截ったらどうなるだろう。……少年のころにはじぶんでもずいぶん玩具《おもちゃ》にしたものだが、そのとき子供の飛ばしている竹とんぼを見て、ふとその原理に思いついた彼は、すぐにそれを買ってかえり、隅田《すみだ》川の流れにひたして実験してみた。そして、竹とんぼのはね[#「はね」に傍点]が広ければ広いほど、またその左右反対のそり[#「そり」に傍点]方が大きければ大きいほど強く廻転することがわかった。
「流れる水で廻るのを、逆に竹とんぼを廻せば、つまり水を截って前へ進むことができるわけだ。もし舟のうしろへ取り付けて廻転すれば舟が動くにちがいない、……あたしは火薬の炸裂する力で動かそうとする工夫をひとまずやめて、すぐにこっちの工夫にかかった」
「でも、どうしてこの大きな竹とんぼをまわしますの」
「それだ、いろいろやってみたが、じかに手で軸をまわすだけでは力が足りない、そこで、轆轤《ろくろ》を思いだした、物をつりあげるにも轆轤でやるとわずかな力で重い物があがる、その理屈をつかって、五つの歯車をかみあわせる工夫をした。見てごらん……それがこの舟だ」
提灯の光でおすえ[#「おすえ」に傍点]が見ると、その舟の艫《とも》には手廻しで五つの歯車の廻る仕掛けができていた。
「さあ、動かしてみるぜ」万太郎はくるっと裾《すそ》を端折《はしお》ると、小舟を水の上へ押しだして乗り、把手《とって》を握って、からからと歯車を廻しはじめた。
舟は動きだした。月光のくだける川波のうえを、はじめは徐々に、しだいに速く、流れを横切ってかなりな速度ではしりだした。
「……まあ!」おすえ[#「おすえ」に傍点]は思わず嘆賞の声をあげながら、眼もはなさず舟のゆくえを見まもっていた。
万太郎はすぐに舟をもどしてきた。
「見たかいおすえ[#「おすえ」に傍点]さん」彼は舟からとびあがって云った。そして、感動のあまり声をあげることも忘れた娘の顔を、力のある眼でじっと見おろしながら、
「これはほんのためし造りだ、この歯車ではすこし大きな舟は動かせない、もっともっと強い力でこの軸をまわす工夫が必要だ、本当の仕事はこれからだ。けれども、……とにかくあたしの工夫はここまで成功している。もし仁兵衛があたしをだまし、長崎屋の身代を横領したとしても、その金はつかえばなくなってしまうものだ。……おすえ[#「おすえ」に傍点]さん、あたしは舟大工だ、あたしにとっていちばん大事なのは金じゃない、仕事だ、この新しい舟を立派に造りあげることのほうが、十万二十万の金よりあたしには大切なんだぜ」
これが長崎屋の身代のさいごの金だといって百両わたされたとき、いや、それよりまえにもときどき仁兵衛のやりかたに疑念をもったことがあった。しかし……疑念をもったとしても、そのときふっと心をかすめたくらいのもので、彼にとっては新造の舟のほうが重大だった。仁兵衛のことなどはほとんど考える暇もなかったのである。
「おすえ[#「おすえ」に傍点]さん」万太郎は坐り直して云った。「おまえがそういう噂を聞いて、あたしのためにくやしがってくれるのはありがたい、けれどもそいつはやめておくれ」
「…………」
「もし仁兵衛が本当にそんなことをしたとしても、それであたしが気の毒だという考えはまちがっている。万太郎は気の毒どころかしあわせな人間だぜ」
「そうおっしゃられるとよけい悲しくなりますわ」
「いや負け惜しみじゃあない、証拠を見せてあげるからおいで、いいから一緒においでよ」
出たばかりの月が、蘆原いっぱいに淡い光を投げていた。わくような虫の音《ね》のなかを、川口のほうへ三四十間ゆくと、五六本小松の生えている汀《みぎわ》に小さな小屋がある。万太郎はおすえ[#「おすえ」に傍点]に提灯《ちょうちん》をわたして小屋の戸をあけ中から畳一|帖《じょう》ほどの小さな平底舟をひき出して来た。
「さあ、提灯を持ってこれを見てくれ」
おすえ[#「おすえ」に傍点]はそばへ寄った。「この船の下にあるのをなんだと思う」
「……竹とんぼの大きいのみたいですわね」
「そうだ、竹とんぼなんだ」
万太郎はしずかに云った、「あたしは舟をこぐのに、櫓《ろ》や櫂《かい》や帆ではなく、もっと速くそして波や風を乗り切って動かすことのできる方法を工夫していた。そしてあるとき大砲《おおづつ》の射撃を見ているうちに、火薬の炸裂《さくれつ》する力の強さを舟に用いてみたらと思いつき、ながいこと苦心してみた。……ところがこの夏のはじめ、ふと子供が竹とんぼを飛ばしているのを見たんだ」
竹とんぼが舞いあがるのは、反対にそり[#「そり」に傍点]をもった左右のはね[#「はね」に傍点]が空気を截《き》るからである。もしそれで水を截ったらどうなるだろう。……少年のころにはじぶんでもずいぶん玩具《おもちゃ》にしたものだが、そのとき子供の飛ばしている竹とんぼを見て、ふとその原理に思いついた彼は、すぐにそれを買ってかえり、隅田《すみだ》川の流れにひたして実験してみた。そして、竹とんぼのはね[#「はね」に傍点]が広ければ広いほど、またその左右反対のそり[#「そり」に傍点]方が大きければ大きいほど強く廻転することがわかった。
「流れる水で廻るのを、逆に竹とんぼを廻せば、つまり水を截って前へ進むことができるわけだ。もし舟のうしろへ取り付けて廻転すれば舟が動くにちがいない、……あたしは火薬の炸裂する力で動かそうとする工夫をひとまずやめて、すぐにこっちの工夫にかかった」
「でも、どうしてこの大きな竹とんぼをまわしますの」
「それだ、いろいろやってみたが、じかに手で軸をまわすだけでは力が足りない、そこで、轆轤《ろくろ》を思いだした、物をつりあげるにも轆轤でやるとわずかな力で重い物があがる、その理屈をつかって、五つの歯車をかみあわせる工夫をした。見てごらん……それがこの舟だ」
提灯の光でおすえ[#「おすえ」に傍点]が見ると、その舟の艫《とも》には手廻しで五つの歯車の廻る仕掛けができていた。
「さあ、動かしてみるぜ」万太郎はくるっと裾《すそ》を端折《はしお》ると、小舟を水の上へ押しだして乗り、把手《とって》を握って、からからと歯車を廻しはじめた。
舟は動きだした。月光のくだける川波のうえを、はじめは徐々に、しだいに速く、流れを横切ってかなりな速度ではしりだした。
「……まあ!」おすえ[#「おすえ」に傍点]は思わず嘆賞の声をあげながら、眼もはなさず舟のゆくえを見まもっていた。
万太郎はすぐに舟をもどしてきた。
「見たかいおすえ[#「おすえ」に傍点]さん」彼は舟からとびあがって云った。そして、感動のあまり声をあげることも忘れた娘の顔を、力のある眼でじっと見おろしながら、
「これはほんのためし造りだ、この歯車ではすこし大きな舟は動かせない、もっともっと強い力でこの軸をまわす工夫が必要だ、本当の仕事はこれからだ。けれども、……とにかくあたしの工夫はここまで成功している。もし仁兵衛があたしをだまし、長崎屋の身代を横領したとしても、その金はつかえばなくなってしまうものだ。……おすえ[#「おすえ」に傍点]さん、あたしは舟大工だ、あたしにとっていちばん大事なのは金じゃない、仕事だ、この新しい舟を立派に造りあげることのほうが、十万二十万の金よりあたしには大切なんだぜ」
[#5字下げ]七[#「七」は中見出し]
「わかりました、よくわかりましたわ」
「本当にわかったかい、気の毒なのはあたしじゃない、仁兵衛のほうだということがわかったかい」
「わかりました、そして……」云いかけて、ふとおすえ[#「おすえ」に傍点]はなにか口ごもりながら、黙って男の眼を見あげた。
それから四五日したある夜のことだった。夕食のあとで、歯車舟《はぐるまぶね》の小屋へでかけた万太郎が、提灯の光でこつこつ仕事をしていると、ふと遠くからするどい女の叫び声が聞こえてきた。……立ちあがって耳を澄ますとまたひと声、しかもそれはじぶんの家の方角である。
(――おすえ[#「おすえ」に傍点]じゃないか)そう思うよりはやく提灯を手に彼は脱兎《だっと》のごとくかけだしていた。
三四十間をひと走りに、
「どうかしたか」とわめきながら、ぬれ縁へとびあがって障子をあけると。……部屋の中では三人の若者が、いましもおすえ[#「おすえ」に傍点]を手ごめにしようとしているところだった。
「こいつら、なにをする」叫びざま、一人を蹴《け》倒し、一人の脾腹《ひばら》を突きあげ、すばやくおすえ[#「おすえ」に傍点]をたすけ起こして背にかこった。……不意をくらった三人は、どぎもをぬかれてとびさがったが、万太郎はそのなかの一人をみつけて、
「ああ、おまえは平吉!」とびっくりして声をあげた。冬木河岸の仁兵衛の伜《せがれ》で平吉、万太郎より三つ年下で、手のつけられぬのら息子だった。
「おまえ、ここへなにしに来た」
「しらばっくれるない」平吉はふてぶてしく肩をゆりあげて、
「おらあ女房を迎えに来たんだ、じぶんの女房を迎えに来たんだよ」
「女房……どれがおまえの女房だ」
「そこにいるお雪さんよ、廻船問屋佐野庄の小町娘、お雪さんはおいらの許嫁《いいなずけ》だ、許嫁は女房も同然だ、さんざん捜しあるいてやっとみつけたから迎えに来たんだ。おい万さん、こう聞いてもおめえ文句があるか」
万太郎は愕然《がくぜん》とたちすくんだ。
(――この娘が佐野庄のお雪)あんまりいきなりな話で、彼にはどう解釈することもできず、救いをもとめるようにおすえ[#「おすえ」に傍点]のほうへふりかえった。……すると、その眼へ全身を投げかけるように、
「万太郎さん、かに[#「かに」に傍点]してください」
と娘が必死に叫んだ、「あなたと許嫁の約束が破談になり、すぐあとで冬木河岸から縁談があったんです、でもあたしは……あたしの心はもうあなたのものでした。だから、だからあたしは……」
きゅうに万太郎はすべてを理解した。すべてがはっきりしてきた。仁兵衛のからくりが今こそ裸になった、それを彼女が知っていたのは噂を聞いたためではなく、彼女が佐野庄の娘だったからだ。……そして彼女は、娘らしい思いつめた知恵で、身投げのまねまでして彼の腕へとびこんできたのだ。
「わかった、もうなんにも云わなくってもいいぜお雪さん、あとのことはあたしがひきうける」
万太郎はそう云ってふりかえった。「平吉、あらためて云うがお雪さんとあたしとは二年まえからの許嫁だ、いまおまえも聞いたろう、あたしの心はあなたのものでしたと……お雪さんの口からはっきり云っている、これを土産に帰ったらどうだ」
「洒落《しゃれ》たことを云うな、来たからにゃ腕ずくでも連れてけえるんだ、やっちまえ!」
平吉が歯をむきだして叫ぶのといっしょに、二人の若者が猛然ととびかかった。……しかし、いずれも金で買われた男たちが、全身|忿怒《ふんぬ》に燃えあがっている万太郎とは勝負になるはずがない。ほとんどあっという間《ま》に、二人ともばりばりと障子もろともぬれ縁のそとへ叩《たた》き出された。
それを見た平吉は、むろんじぶんでかかる勇気はない。
「畜生、おぼえていろ」きまり文句を云うのが精いっぱいで、毬《まり》のように蘆原のかなたへ逃げていった。
身をおののかせながらすくんでいたおすえ[#「おすえ」に傍点]、いやお雪は、万太郎がつづいてあとからとびだしてゆこうとするのを見てびっくりして、袖にとびついた。
「万太郎さんいけません、待って」
「そうじゃない、追っかけるんじゃないんだお雪さん」
万太郎は、一瞬のうちにすっかり表情の変わった顔でふりかえった。
「あいつらはいま鉄砲玉のように逃げていった、鉄砲玉のようにと思ったときひょいと気がついたんだ、あたしはこのまえに火薬の炸裂する力で舟を動かそうとした。いいかい、その炸裂する力で、竹とんぼの軸を廻したら、……こいつだ、もしこいつができれば大きな舟が動かせる、この工夫がつけばもっともっと大きな舟が動かせる」
「まあ……」
「すぐはじめよう、おすえ[#「おすえ」に傍点]さん、仕事場へあかりを頼むよ」あれだけの騒ぎをけろりと忘れたように、万太郎は仕事場のなかへとびこんでいった。
「……おすえ[#「おすえ」に傍点]」お雪はそっと万太郎の口まねをした。かりそめにつけたその名が、今はなんとぴったり二人の生活にしみこんでいることだろう、……お雪はもういちどその名を口のうちでまねながら、いそいそとあかり[#「あかり」に傍点]行燈《あんどん》をつけに立った。
火薬の炸裂する力で竹とんぼの軸を廻す、これは後世の内燃機関の原理とおなじである、万太郎ははたしてどの程度までそれを実現することができたろうか。
海からのぼった月は、いまその新しい光でこの家《や》を祝福するように、かがやきだしていた。
[#地から2字上げ](「譚海」昭和十六年八月号)
「本当にわかったかい、気の毒なのはあたしじゃない、仁兵衛のほうだということがわかったかい」
「わかりました、そして……」云いかけて、ふとおすえ[#「おすえ」に傍点]はなにか口ごもりながら、黙って男の眼を見あげた。
それから四五日したある夜のことだった。夕食のあとで、歯車舟《はぐるまぶね》の小屋へでかけた万太郎が、提灯の光でこつこつ仕事をしていると、ふと遠くからするどい女の叫び声が聞こえてきた。……立ちあがって耳を澄ますとまたひと声、しかもそれはじぶんの家の方角である。
(――おすえ[#「おすえ」に傍点]じゃないか)そう思うよりはやく提灯を手に彼は脱兎《だっと》のごとくかけだしていた。
三四十間をひと走りに、
「どうかしたか」とわめきながら、ぬれ縁へとびあがって障子をあけると。……部屋の中では三人の若者が、いましもおすえ[#「おすえ」に傍点]を手ごめにしようとしているところだった。
「こいつら、なにをする」叫びざま、一人を蹴《け》倒し、一人の脾腹《ひばら》を突きあげ、すばやくおすえ[#「おすえ」に傍点]をたすけ起こして背にかこった。……不意をくらった三人は、どぎもをぬかれてとびさがったが、万太郎はそのなかの一人をみつけて、
「ああ、おまえは平吉!」とびっくりして声をあげた。冬木河岸の仁兵衛の伜《せがれ》で平吉、万太郎より三つ年下で、手のつけられぬのら息子だった。
「おまえ、ここへなにしに来た」
「しらばっくれるない」平吉はふてぶてしく肩をゆりあげて、
「おらあ女房を迎えに来たんだ、じぶんの女房を迎えに来たんだよ」
「女房……どれがおまえの女房だ」
「そこにいるお雪さんよ、廻船問屋佐野庄の小町娘、お雪さんはおいらの許嫁《いいなずけ》だ、許嫁は女房も同然だ、さんざん捜しあるいてやっとみつけたから迎えに来たんだ。おい万さん、こう聞いてもおめえ文句があるか」
万太郎は愕然《がくぜん》とたちすくんだ。
(――この娘が佐野庄のお雪)あんまりいきなりな話で、彼にはどう解釈することもできず、救いをもとめるようにおすえ[#「おすえ」に傍点]のほうへふりかえった。……すると、その眼へ全身を投げかけるように、
「万太郎さん、かに[#「かに」に傍点]してください」
と娘が必死に叫んだ、「あなたと許嫁の約束が破談になり、すぐあとで冬木河岸から縁談があったんです、でもあたしは……あたしの心はもうあなたのものでした。だから、だからあたしは……」
きゅうに万太郎はすべてを理解した。すべてがはっきりしてきた。仁兵衛のからくりが今こそ裸になった、それを彼女が知っていたのは噂を聞いたためではなく、彼女が佐野庄の娘だったからだ。……そして彼女は、娘らしい思いつめた知恵で、身投げのまねまでして彼の腕へとびこんできたのだ。
「わかった、もうなんにも云わなくってもいいぜお雪さん、あとのことはあたしがひきうける」
万太郎はそう云ってふりかえった。「平吉、あらためて云うがお雪さんとあたしとは二年まえからの許嫁だ、いまおまえも聞いたろう、あたしの心はあなたのものでしたと……お雪さんの口からはっきり云っている、これを土産に帰ったらどうだ」
「洒落《しゃれ》たことを云うな、来たからにゃ腕ずくでも連れてけえるんだ、やっちまえ!」
平吉が歯をむきだして叫ぶのといっしょに、二人の若者が猛然ととびかかった。……しかし、いずれも金で買われた男たちが、全身|忿怒《ふんぬ》に燃えあがっている万太郎とは勝負になるはずがない。ほとんどあっという間《ま》に、二人ともばりばりと障子もろともぬれ縁のそとへ叩《たた》き出された。
それを見た平吉は、むろんじぶんでかかる勇気はない。
「畜生、おぼえていろ」きまり文句を云うのが精いっぱいで、毬《まり》のように蘆原のかなたへ逃げていった。
身をおののかせながらすくんでいたおすえ[#「おすえ」に傍点]、いやお雪は、万太郎がつづいてあとからとびだしてゆこうとするのを見てびっくりして、袖にとびついた。
「万太郎さんいけません、待って」
「そうじゃない、追っかけるんじゃないんだお雪さん」
万太郎は、一瞬のうちにすっかり表情の変わった顔でふりかえった。
「あいつらはいま鉄砲玉のように逃げていった、鉄砲玉のようにと思ったときひょいと気がついたんだ、あたしはこのまえに火薬の炸裂する力で舟を動かそうとした。いいかい、その炸裂する力で、竹とんぼの軸を廻したら、……こいつだ、もしこいつができれば大きな舟が動かせる、この工夫がつけばもっともっと大きな舟が動かせる」
「まあ……」
「すぐはじめよう、おすえ[#「おすえ」に傍点]さん、仕事場へあかりを頼むよ」あれだけの騒ぎをけろりと忘れたように、万太郎は仕事場のなかへとびこんでいった。
「……おすえ[#「おすえ」に傍点]」お雪はそっと万太郎の口まねをした。かりそめにつけたその名が、今はなんとぴったり二人の生活にしみこんでいることだろう、……お雪はもういちどその名を口のうちでまねながら、いそいそとあかり[#「あかり」に傍点]行燈《あんどん》をつけに立った。
火薬の炸裂する力で竹とんぼの軸を廻す、これは後世の内燃機関の原理とおなじである、万太郎ははたしてどの程度までそれを実現することができたろうか。
海からのぼった月は、いまその新しい光でこの家《や》を祝福するように、かがやきだしていた。
[#地から2字上げ](「譚海」昭和十六年八月号)
底本:「与之助の花」新潮文庫、新潮社
1992(平成4)年9月25日発行
2010(平成22)年4月10日二十三刷改版
底本の親本:「譚海」
1941(昭和16)年8月号
初出:「譚海」
1941(昭和16)年8月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
1992(平成4)年9月25日発行
2010(平成22)年4月10日二十三刷改版
底本の親本:「譚海」
1941(昭和16)年8月号
初出:「譚海」
1941(昭和16)年8月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ