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豪傑ばやり
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豪傑ばやり
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)鱒八《ますはち》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)川|賢信《たかのぶ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#8字下げ]
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[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
「誰にも嘘だなどとは云わせねえ」
これが出るともう酔った証拠である。鱒八《ますはち》は肩を怒らせながら喚きたてた。
「卑怯でもなく未練でもなく、おらあ[#「おらあ」に傍点]は此手で猪打権右衛門《ししうちごんえもん》を討取ったのだ、おのし[#「おのし」に傍点]等は疑わしげなれどもおらあ[#「おらあ」に傍点]は嘘は云わねえ、おらあ[#「おらあ」に傍点]は慥《たし》かに此手で猪打権衛右門を討取ったのだ」
「貴公の猫打殿はまあそっちへ引込めて呉れ」
鼻の九十郎がおでこの突出た頭を小さな肩の上で張子の虎のように揺りながら、
「拙者大阪の折には天王寺口にあって、いや天王寺口と安くは云うまい、あそこ真田《さなだ》丸でがっしと固めた謂わば大阪城の大手だ」
「おらあ[#「おらあ」に傍点]が談《はなし》をぶってるにあぜ[#「あぜ」に傍点]横からそうしゃしゃ張り出るだあ」
「まあそう喚くな、貴公の猫打殿などは」
「猫打ではねえ猪打だ、猪打権右衛門だ、道明寺口でははあ[#「はあ」に傍点]山川|賢信《たかのぶ》の旗本で二と下らねえ豪傑だ、嘘は云わねえ八幡かけて猪打権右衛門は豪傑であった」
「待つべし待つべし」
荏柄宮内《えがらくない》が団扇《うちわ》のような手で空気を引掻き廻しながら呶鳴りだした。
「貴様たちは天王寺だことの猫打だことのと埒《らち》もない高慢を並べるが、まあ聞け、今日という今日こそこの荏柄宮内が本当の戦場談を聴かしてやる」
「猫打ではねえぞ、おらあ[#「あらあ」に傍点]はっきり断って置くが猫打ではねえぞ」
奥州三春城の外曲輪《そとくるわ》にある侍大将|苅屋《かりや》源太兵衛の頼士《よりし》長屋では、今日もまた新規御取立ての勇士たちが酒を囲んで騒いでいる。
時は元和《げんな》五年の晩秋。
大阪役が終ってから四年目で、諸国の大名たちは争って勇士豪傑を召抱えていた時代である。これは徳川氏の天下統一と共に各藩領地が一応安定し、それにつれて小身から大身に昇った大名が多いので、内外の辺幅を飾るためもありまた、戦国の余風として名ある勇士を尊重したためである。徳川頼宣が福島家の浪人大崎|玄蕃《げんば》を八千石で抱えたのを初め、多少知られた人物は千石二千石で羽の生えたように売れて行った。
三春城の秋田家でもその世風に洩れず、頻りに浪人者を取立てているのだが、どうも余り目星い人物はいないらしい。侍大将苅屋源太兵衛に預けてあるこの五人も、名目は大阪役の豪傑ということではあるが、大酔して自ら語るところを聞くとどうやら自慢の出来るほどの者では無さそうである。
「貴様は猫打猫打と大層らしく云うが、一体その男は何者なんだ」
「是は魂消《たまげ》た、おのし[#「おのし」に傍点]猪打権右衛門を知りさらんのか。いや是は大魂消だ、猪打権右衛門を知ららんで大阪陣に働いたとは」
「妙なことを云うなこれ、拙者は天王寺口で真田の先鋒と槍を合せたが」
「道明寺口じゃ、山川賢信は道明寺口を固めてあった、然れば猪打権右衛門も道明寺口にあったが正じゃ、おらあ[#「おらあ」に傍点]はあ嘘は吐《つ》かねえ」
「どうしてまた嘘を吐かないのだ、え?……なにか後暗いことでもあるかよ」
「な、なにを云いなさる。なにを」
「鎮まれ」
長屋の大戸を明けて破鐘《われがね》のように呶鳴った者がある。
「やっ、おい鎮まれ、お旗頭だ」
荏柄宮内の声で一遍にみんな声をのんだ。一同の頼親《よりおや》、苅屋源太兵衛である。
「馬頭鹿毛之介《ばとうかげのすけ》は居るか」
「はあ、その、馬頭めは先刻その、馬を洗うとか申しまして」
「誰か迎えに行って来い」
「はっ」
大海《おおうみ》鱒八がむくむくと立上った。
「屋敷の方へ来るように申せ、急ぐぞ」
源太兵衛の声から逃げるように、鱒八は裏手へとび出して行った。
奥州三春は名駒の産地で、城中にも厩《うまや》が並び、家臣たちは身分に応じて何頭、何十頭と飼立ての責任を負っている。苅屋の預っている厩は外曲輪の空濠に添ってあった。……鱒八がやって来たのはその空濠で、其処ではいま大肌脱ぎになった男が、一人の娘と一緒に馬洗いをしているところだった。
男は頼士の一人で馬頭鹿毛之介。
娘は源太兵衛の二女で萩枝《はぎえ》という。……十八という年に比べて四肢の育ちきった体つき、裾を端折り袂を背に結んだ甲斐甲斐しい支度でせっせと馬足を洗っている。
眉間の広い、眼鼻だちのおおらかな、力のある健康な美貌だ。惜気もなく露わにした脛《はぎ》も、腋《わき》の下まで見えそうに捲りあげた二の腕も、光の暈《かさ》を放つほど白く豊かである。
「だいぶ上手になられましたな」
「不器用者で、さぞ……御笑止なことでございましょう」
「いや御覧なさい、こいつめ」
鹿毛之介は馬の平首を叩いて、
「さも心地好さそうに眼を細くして居りますよ、畜生でも矢張り佳き人の世話は冥加に思っているのでしょう」
「……まあ」
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
萩枝は唇を右へ曲げる癖の微笑を見せながら優しく睨んで、
「それは鹿毛之介さまの事ですわ、貴方のお手が掛ると馬という馬はみんな猫のように温和しくなって、……誰をも近寄せない『荒波』でさえ鹿毛之介さまには耳を伏せるのですもの、憎らしいくらいでございますわ」
「それで馬頭鹿毛之介と云うのでしょうか、事に依ると前世は馬だったかも知れませんよ」
「もしそうでしたら日本一の名馬だったでございましょう」
二人は声を合せて笑った。
「叱《し》っ、叱っ、そんねな声で笑いさって」
鱒八が両手で押えつけるような恰好をしながら走って来た。
「お旗頭が長屋へ来てござるぞ、もし聞えでもしたらどうしめさる」
「なにを独りで慌てているんだ」
「なにがって、おらあ[#「おらあ」に傍点]はあ」
鱒八は眼を白黒させながら、
「鹿毛之介は何処だってえ呶鳴らしったで横っ飛びにやって来たのだ、きっと毎《いつ》もお嬢様をこんな処へそびき出していることが」
「これこれ、口を慎まぬか」
「うんにゃあ、おらあ[#「おらあ」に傍点]は知っているだ、おらあ[#「おらあ」に傍点]には隠さねえでもいいのだ、それあ表向は馬洗いを教えるという事になってるだが」
「よしよし、おまえの察しの良いことは分った」
鹿毛之介は苦笑して、
「それで、馳《か》けつけて来た用事はそれだけか」
「いんにゃ、屋敷の方へ直ぐ来いと云わしってだ、えらく怒ってござる様子だからおらあ[#「おらあ」に傍点]が思うには、きっとお旗頭はこの事に感付かれたに違いない」
「無駄言はよせ」
鹿毛之介は馬|盥《だらい》の水をうちまけながら、
「それでは拙者は御用を伺って来るから、おまえ代りに此処でお手伝いをして呉れ」
「……鹿毛之介さま」
萩枝は気遣《きづか》わしそうな眼で見上げた。鹿毛之介は静かに笑いながら、
「なに直ぐ戻って来ます」
と云って肌を入れた。
馬頭鹿毛之介は巌のような肩を持った六尺近い偉丈夫である。……浅黒い顎骨の張った顔は、濃い一文字眉とひき結んだ唇を中心に凛々《りり》しい力感をもち、その声調は静かであるが腹の底から出る強い響が溢れている。
彼は二年前、河内守俊季《かわちのかみとしすえ》が大阪から三春へ入部する途中で召抱えられたもので、大阪役には水野勝成の陣馬を借りて戦った浪人隊のなかで働いたという。……浪人が陣馬を借りて戦うということは関ヶ原で終っているが、事実は大阪陣でもかなり有ったらしい。殊に水野勝成の陣場で働いた夏目|図書《ずしょ》という人物は、百余人の浪人隊を率いて奮戦し、道明寺|磧《がわら》に於ける五月六日の戦争を圧倒的な勝利に導いた殊功者であった。
馬頭鹿毛之介はその夏目図書の旗下で働いたというので、河内守に拾われたのだが、まだ正式に家臣としての秩禄はなく源太兵衛の頼士として扶持を受けているに過ぎない。……尤も是は鹿毛之介が自ら望んだことで、
――御当家に取ってなんの手柄もないのだから人並の食禄は要りません、馬の世話でもして粟飯一椀|頂《いただ》ければ結構です。
とたって給禄を拒んだのである。
それで今日まで約二年、源太兵衛の頼士長屋で、大海鱒八、荏柄宮内などと共に扶持されながら、専念に三春駒の飼立てをやっているのだった。
「お召しなされましたそうで」
屋敷の大庭で待っていた源太兵衛は、鹿毛之介を見るといきなり呶鳴りつけるように、
「怪しからん、どうする積りじゃ」
と唾を飛ばしながら云った。
「儂《わし》は貴公を信じて間違いのない人物じゃと思っていた、しかるに是はなんとした事だ」
「仰せの意味がよく分りませんが」
「なに、訳が分らんと?」
「なにか拙者に落度でもございますか」
「落着いている場合ではないぞ」
源太兵衛はどっかりと広縁に腰を下ろしながら、太い指を突出して云った。
「貴公、大阪陣には何処で働いた」
「今更改めてのお訊ねはどういう訳か存じませんが、夏目図書の浪人隊に加わって水野様の御陣場で働きました、むろん予て申上げた通りでございます」
「夏目図書の下にいたということは事実だな」
「なにかお疑いがございますか」
鹿毛之介の平然たる態度とは逆に、源太兵衛はひどく急《せ》きこんでいる。
「事実なら訊ねるが、貴公当家へ随身するとき夏目図書の身の上に就てなんと云った」
[#8字下げ]三[#「三」は中見出し]
「それは、……申上げました通り、大阪役の終ると共に故郷へ隠遁なされたと承りましたが」
「貴公はそういった」
源太兵衛は又しても太い指を振りながら、
「夏目図書は道明寺磧の勇士、遖《あっぱ》れ豪勇の士として諸大名が懸命に捜していた。噂に依れば薄田隼人兼相《すすきだはやとかねすけ》を討取ったのも彼だという。御当家に於ても是非彼を召抱えたい思召で、この源太兵衛が捜し出す役目を仰付かった。……ところが、貴公は夏目図書は山中へ遁世して了った、捜しても無駄だというので、その趣を言上したのだ」
「それに相違はないと存じましたが」
「存ずるも存ぜぬもない、夏目図書はいま相馬家に召出されて居るぞ」
「それは、……それは不思議な……」
「なにが不思議だ、大膳亮《だいぜんのすけ》殿は千石でお召抱えになったという、お上にはそれを聞し召されて大変な御立腹、是非とも当家へ引抜いて参れという御厳命だぞ」
鹿毛之介は合点がいかぬという風で、
「しかし慥《たし》かに夏目殿は隠遁なすった筈ですが、なにしろ世俗の慾の無い人で」
「今更そんなことを申しても当人が相馬家に抱えられたのだから仕様があるまい……捜し出して召抱える役を申付かっていた拙者の責任として、相馬家から当家へ引抜いて来いという御上意は辞退することが出来ぬ」
「御尤もでございます」
「なにが御尤もだ、犬や描と違って人間だぞ、それも諸国の大名方が随身させようとして争っていた豪傑だ、一旦他家が召抱えたものを、こっちへ引抜くなどという事が容易に出来ると思うか」
鹿毛之介は困惑したように眼を伏せた。
前にもちょっと触れた通り、当時の大名たちは争って勇士豪傑を召抱え、自分の家には何の某がいる、誰と彼とがいるという風に、一種の見栄にもしていた時である。……秋田河内守も同様であったが、残念ながらまだ是と云って世間に誇れるほどの豪傑が手に入らない、許りでなく、大阪以来眼をつけていた夏目図書を、まんまと相馬大膳亮に召抱えられて了ったのだから、――
是が非でも引抜いて来い。
と厳命を下したのは無理からぬ次第であろう。
「お旗頭……」
鹿毛之介はやがて顔をあげた。
「夏目殿が本当に相馬家に随身し、また河内守様がどうしてもこっちへ引抜けという仰せでしたら、そう難しい事ではないと存じますが」
「難しくないと云って、なにか法があるか」
「お旗頭が若し御自身でおいでなさるのでしたら思案を申上げましょう」
「むろん、儂が自分で参る」
「それなら五百石お増しなされませ、相馬家は千石、夏目図書殿に千石は安うございましょう、千五百石出すといえば必ず談は纒まります」
「なるほど愚案だな」
源太兵衛は蔑むように、
「遖れ勇士豪傑たる者は、五百石ぐらい多く出すからと云ってそう無造作に主人を変えると思うか、馬鹿なことを申せ」
「しかし士は己を識る者のために死すとも申します。福島浪人の大崎玄蕃は徳川頼宣侯に八千石で召出されました。夏目殿にしても千石より千五百石の方が己の真価を認められる訳で、同じ仕えるなら自分の価値を認める者に仕えたいのは人情でございましょう」
「ふうむ、……それも、理窟だのう」
「そのうえ相馬家が譜代の主君というでもなく、謂わば売物買物でございますから、是はきっと談が纒まるに違いありません」
源太兵衛は腕組をして考えこんだ。
――士は己を識る者のために死す。
この場合には少し的外れの譬《たとえ》だし、そう云いながら鹿毛之介も笑を噛殺している様子であった。が、藁《わら》をも掴みたい源太兵衛にはひと理窟に思えたらしい。
「よし、思切って当ってみよう」
やがて決然と眼をあげた。
「物事は当って砕けろだ、いざとなったらまた思案も出るだろう、幸い部下に在った貴公も当家に居るのだから、それを話したら……」
「それは困ります」
鹿毛之介は驚いて遮《さえぎ》った。
「困る? なにが困るのだ」
「いえ実は……その、……いや、こうなったら申上げますが」
鹿毛之介はひどく困惑した様子で、
「実は拙者は、夏目図書殿とは面識がないのです。つまり、大阪陣で水野様の御陣場で働いたのは事実なのですが、夏目殿の旗下にいた訳ではなかったのです」
「なに、な、なんと云う」
「夏目殿の旗下にいたと申上げたのは随身したいためで、実は全く違うのです。ですからどうか拙者のことは御内聞に」
「……呆れた男だな、貴公は」
[#8字下げ]四[#「四」は中見出し]
「どんな御用でございましたの?」
萩枝は戻って来た鹿毛之介を見ると急いで走寄った。
「父は怒って居りまして」
「怒っていました」
鹿毛之介は苦笑しながら、
「呆れた奴だと呶鳴られましたよ」
「まあ、……済みませぬこと、萩枝が無理に馬洗いのお教えを願ったのが悪かったのでございますわ、わたくしから父に訳を話して」
「いや、ははははは、違います、違います」
「…………」
「叱られたのはその事ではありません。大阪陣の嘘が露顕したのです、夏目図書の旗下で働いたといえば召抱えられることが分ったものですから、そう云って御当家に随身したのですが、妙な事からたった今それがばれて了ったのです。それで叱られました」
「まあ、……では貴方は……」
「大阪で働いたのは事実ですが、夏目の部下ではありませんでした、貴女も……お怒りになりますか」
「いいえ、いいえ」
萩枝は強く頭を振った。
「わたくし鹿毛之介さまを……御立派な方と存じますだけで、たとえ大阪陣で働いたことがお有りなさらなくても、わたくしの心には少しも変りがございませんわ」
「豪傑でなくてもいいのですか、馬頭鹿毛之介などという馬飼い侍でも」
「そんな風に御自分を仰有っては悲しくなります。もうその話はやめに致しましょう。そして早く『荒波』を洗ってやって下さいまし……さっきから待兼ねてあのように嘶《な》いて居りますわ」
「宜しい」
鹿毛之介は明るく云った。
「あいつが本当に拙者を呼ぶのか、それとも実は貴女を呼ぶのか、今日はひとつ本音を吐かしてやるとしましょう」
「まあ、貴方に定って居りますわ」
「定っているかどうか、さあ行きましょう」
えへん! という声が叢《くさむら》の中から聞えた。しかし二人の耳に入らなかったのか、そのまま揃って厩の方へ登って行った。
「やれやれ、おらあ[#「おらあ」に傍点]も辛いぞ」
叢の中からむっくり起き上ったのは鱒八であった。……彼は眼を細くしながら二人の後姿を見送っていたが、やがて大息をつきながら独言《ひとりごと》を云った。
「立派だなあ馬頭は、誰がなんと云っても、おらあ[#「おらあ」に傍点]は馬頭の家来分になる心組《つもり》だあ、あいつはきっと偉くなるに違えねえだあ」
そうかしらん?
十日ほど過ぎた或日、鹿毛之介は源太兵衛に呼ばれた。……中村から戻った許りのところらしくしかも非常な機嫌である。
「御帰城おめでとう存じます」
「やあ馬頭か、喜んで呉れ旨くいったぞ、上々の首尾で大役を果したぞ」
「夏目殿は御承知なさいましたか」
「貴公の言葉が役に立っての」
源太兵衛は嬉しそうに声をひそめて、
「士は己を識る者のために死す、夏目図書ともある人物が千石で安んずる法はない、当家では千五百石で是非とも御随身を願う、……こう申したらな、さすがに夏目殿も分りが早い、如何にも士は己を識る者のために死すという、それほど自分を認めて呉れるなら御意に任せようと、直ぐに話が定ったという訳じゃ」
「矢張り拙者の愚案が当りましたな」
「許すから威張れ、ははははは」
はははははと笑い応ずる鹿毛之介を、源太兵衛は極上の機嫌で押えながら、
「直ぐに皆を集めて呉れ、披露をしよう」
と云って立上った。
忽ち家来たちが集められた、預っている槍足軽二十人も加わって押合いへし[#「へし」に傍点]合い大庭へ居並ぶと、間もなく源太兵衛が現われた。
「みんな集った、よし」
広縁の端まで出てずっと見廻しながら、
「今日は一同に喜んで貰いたい事がある。皆も予て知っていよう、大阪陣に道明寺口で勇名を轟かした浪人隊の旗頭、夏目図書重信殿、数年来我が君がお捜し遊ばしていた豪傑夏目殿を、この度当家へお迎え申すことが出来たぞ」
わっと大庭がどよみ上った。
「お目通りまでのあいだ当分この屋敷に客分として御滞在になる。一同もお目にかかって御武運にあやかるがよい、静かに」
そう云って振返る。……すると奥から、のっしのっしと一人の偉丈夫が出て来た。
正にのっしのっしという感じである、背丈は六尺三寸もあろうか、猛牛のような偉躯、眉太く眼鋭く、力そのもののような顎は髯《ひげ》の剃り跡青々として、まさに威風凛然たる相貌である、……彼は広縁まで進出ると、のしかかるような調子で云った。
「拙者が夏目図書じゃ、見覚えて置け」
[#8字下げ]五[#「五」は中見出し]
「腹じゃ、腹じゃ!」
拳骨で自分の腹をだぶだぶと叩きながら、
「その上にも腹、最後まで腹じゃ、……とこう云われた。剣槍弓射の類は技《わざ》の末節、大丈夫が戦場に臨んで必勝するところのものは、でん[#「でん」に傍点]と据えた腹ひとつにある、とこう云われた、さすがに天下の豪傑たる者は考えが違うぞ」
ぐいと酒を呷《あお》って、荏柄宮内は唇を横撫でにしながら一座を見廻し、
「しかるに我々はどうだ」
と拳骨を突出して叫んだ。
「剣法がどうの槍術がどうの、やれ馬の弓のと詰らぬ事に暇を潰して居る。馬鹿げたことだ、馬鹿げたことだぞ。我々は須《すべか》らく英雄豪傑たれである。足軽小者に類する末節を捨てよ、腹を養え腹を! さらば天下は即ち我らの掌中にあるんだ」
「そうだ。腹だ、腹だ、腹だ」
富田七兵衛がっんのめるように喚いた。
みんなそれに和した。
夏目図書が来て以来、この頼士長屋の面々はすっかり逆上して了った。彼等とても幾度か戦塵を浴び、生死の境を潜って来たのである。そして是からもまた剣を執って征馬を遣《や》る機《おり》があるであろう。しかるに一方は夏目図書として千石、千五百石と諸侯から引張り凧《だこ》にされ、片方は頼士長屋で蟄伏《ちっぷく》しなければならぬ、……これなんの故ぞと疑っているところへ、図書から「腹だ腹だ」と云われたのである。
――剣槍弓射の法などは足軽小者の技に過ぎぬ、英雄豪傑たる者はもっと大きく、でん[#「でん」に傍点]とひとつ腹を据えて動かぬ胆力が必要だ。大行は細瑾を顧みずと云うぞ。
そう煽《おだ》てられたのだから、みんな一時にかあっ[#「かあっ」に傍点]とのぼせあがって了ったのだ。
事実、図書がこの屋敷へ来てからの挙措言動は豪快を極めていた。朝起きるとからの酒で、言葉通りでん[#「でん」に傍点]と腰を据えたまま浴びるように飲む。酔えば調子も節も度外れな声で放歌する、よく聞いていると、
――ああ やんれさの やんれさの ああやんれさの やんれさの やんれさの。
何処まで行っても同じ言の羅列なのだが、文句などに拘《こだ》わらぬところが実に壮絶で、なるほど豪傑というものは末節に関わらぬものだという気がする。
――ああやんれさの やんれさの なんだおまえたち、なにをきょろきょろしちょる。腹だ、腹だ、腹を据えて飲め。豪傑たる者が小さな事にくよくよするなッち、おまえらの事はこの夏目図書が引受けたぞ、さあ歌え、やんれさの ああやんれさの やんれさの。
ざっとこういう次第である。
おまえたちの一生は引受けたぞ。……天下の豪傑からこう云われて感奮しない者はなかろう、左様、みんな感奮した。
――大行は細瑾を顧みずだ。
みんな腹を据えた。
――些々《ささ》たる小事がなんぞ、豪傑たる者は小さな事にくよくよするなッち。
という訳で、頼士長屋の人々は俄に大人物の腹構えを持ち始めたのである。
是は一種の熱病であった。
そしてこの事実は、誰にも咎《とが》めることが出来ないであろう。夏目図書はどこ迄も夏目図書であり、荏柄宮内たちは逆立をしても荏柄宮内たちでしかないのだが、豪傑たらんとする熱情、大人物たらんとする欲望の点では甲乙がないのである。彼等がそう欲する限り一朝有事の際には英雄豪傑たり得るかも知れないのだ、なんぞ感奮せざるを得んやである。
しかし此処に唯一人だけ、その熱病に取憑《とりつ》かれない男がいた。大海鱒八である。……彼はまえから馬頭鹿毛之介が好きで、若しこんど戦争でもあるような時には、進んで鹿毛之介の馬の轡《くつわ》を取ろうと覚悟しているくらいだった。
ところが夏目図書が現われてからというものは、苅屋源太兵衛はじめ屋敷中の人気が、まるで嵐に吹捲られるような勢で図書に集り、鹿毛之介のことなどてんで忘れ果てたような有様になって了ったのだ。
――なにが豪傑だ。
鱒八は腹を立てた。
――酒を呑んで威張るだけが豪傑なら、この鱒八などは大豪傑だ。歌といえばやんれさのやんれさの、けッ、なにがやんれさだ、おらあ[#「おらあ」に傍点]が覚えてるには、あいつは石運び人足が唄ってたもんだぞ。
同じ歌でも観方に依るとこうなって了う。
「おい鱒八、貴様そんな処でなにを呆やりしとる、呑まんのか」
鼻の九十郎が振返って喚いた。
「ひとつ底の抜けるほど飲んで、また猫打殿との一騎打ちを一席ぶて[#「ぶて」に傍点]、聴いてやるぞ」
「やれやれッ鱒八、貴様この頃豪傑らしくなくなったぞ」
「やかましい、おらあ[#「おらあ」に傍点]は」
呶鳴り返そうとして鱒八はひょいと振返った。
[#8字下げ]六[#「六」は中見出し]
長屋の外に遽しい跫音《あしおと》がして、萩枝がさっと走り込んで来たのだ。
「……あ、どうなさいました」
「馬頭さまは」
顔が蒼白《あおざ》めている、鱒八はすぐ土間へとび下りながら、
「厩の方にいると存じますが」
「夏目さまに追われていますの、父は御殿へあがって留守だし……」
「こっちから出てお逃げなさいまし」
鱒八は素早く萩枝を裏口に導き、引戸を明けて外へ出してやった。
萩枝は乱れている髪を撫でながら、気もそぞろに厩の方へ走って行った。……丁度そのとき、空濠から馬を曳《ひ》いて上って来た鹿毛之介がそれを認めて、
「何処へおいでなさる」
と声をかけた。
「ま、鹿毛之介さま」
「どうしました」
「……口惜しゅうございます」
巨きな楡《にれ》の木がある、その木蔭のところで、萩技はそう云って走り寄ると、思わず噎《むせ》びあげながら鹿毛之介の胸へ身を投げかけた。
「一体どうしたのです。なにごとです」
「夏目さまが、……無礼なことを」
「無礼なこと」
鹿毛之介の眼がかっと輝いた。
「今日だけではありませんの、初めの夜からもう酒に酔うと、婢《はしため》たちにお戯れなさいますし、わたくしにまで厭らしいことを仰せられたり、黙っていれば袖を掴《つか》み手を握り……今日などは父が留守なものですから」
「それで逃げて来たのですか」
鹿毛之介は娘の体を引離して云った。
「貴女は何歳になります?」
「…………」
「貴女は武士の娘だ、やがて武士の妻になるべき人だ、それがこんな事くらいに取乱して逃廻るなどとは何事です」
「……でも、鹿毛之介さま」
「父上も在さず拙者も居らず、四辺《あたり》に頼るべき者のいない場合にはどうしますか、……武家に生れた以上、たとえ女子少年でも当って身一つの始末をする覚悟はあるべき筈、そのように心弱いことでは、武士の妻には成れませんぞ」
萩枝ははっ[#「はっ」に傍点]と男の眼を見上げた。
強い言葉とは反対に、男の眼は深い愛情の色を湛えて見下ろしていた。
「あさはかでございました」
萩枝は涙を押拭って呟くように、
「つい……取乱しまして、どうぞ今日の事はお忘れ下さいまし、萩枝はきっと……」
「やあ、ははははは此処においでか」
咆《ほ》えるような声と共に、夏目図書がずしんずしんと近寄って来た。
「捜したぞ捜したぞ、人馴れぬ牝豹《めひょう》に手を噛まれて、快い痛みがずんと骨身に堪《こた》えた、陸奥の娘たちは手強《てごわ》いが、そこがまたこの道の味というものじゃ、さあ来やれ、いま一度その珠のような歯で噛まれてみたい」
「御機嫌でござるな」
鹿毛之介が静かに萩枝を背へ庇《かば》った。
「英雄色を好む、矢張り豪傑たる御仁は濶達でよい。それでなくては天下に名を成すことは出来ますまいな」
「誰だ貴公、……ははあ」
夏目図書は酔眼を剥いて睨みつけた。
「ははあ、大阪陣で拙者の旗下にいたとか、嘘を云って当家へ仕官した男じゃな、たしか名は……」
「馬頭鹿毛之介と申します」
「それよ、馬頭、馬の頭だな、うん、よいよい、偽りにせよ拙者の名で仕官が出来たのだから、以後も眼をかけてやるぞ」
「はあ、呉々も宜しく」
「大丈夫、貴様の生涯は引受けた。そこで退《ど》いて貰おうか、萩枝どのは拙者の妻になるべき人だ、挨拶をして向うへ行け」
萩枝は身震いをしながら鹿毛之介を見た、しかしこっちは平然たるもので、
「それは祝着ですな、貴殿のような豪傑の妻になれるとあれば、萩枝どのもさぞ本望なことでござろう、……が先ず、此処は兎も角お引取りなさるが宜しゅうござる。こいつは荒馬で暴れだしたら始末におえませんから」
「荒馬だと、わははははは」
ぐいと曳出した馬を見て、図書は腹を揺りながら笑った。
「荒馬などがなんだ。拙者は大阪道明寺口の合戦で、薄田隼人兼相を討取った……」
「ああそら、暴れだしたぞ」
鹿毛之介の右手がちらと動いた。馬は嘶《いなな》きながらぱっと桿立《さおだ》になった、不意を喰った図書は煽られたように横へのめる。
「危い! お、押えろ」
「お逃げなさい、蹴殺されますぞ」
「お、押えろ、押えて呉れ、あ、危い」
「早くお逃げなさい」
[#8字下げ]七[#「七」は中見出し]
図書は空濠の方へ逃げだしたので、斜面に足を取られてごろごろと転げ落ち、そのまま恐ろしい勢で疾風のように逃去って行った。
「ははははは御覧なさい、奔馬豪傑を走らすの図です。いや、逃足の早いこと」
「鹿毛之介さま」
萩枝はそんなことには眼も向けず、
「いまの言葉をお聞きなさいまして……?」
「なんです、いまの言葉とは」
鎮まった馬を引寄せ、平首を叩きながら鹿毛之介はけろりと振返った。
「わたくしを妻に娶るということですの、いいえ、出任せではございません、夏目さまは父にもそう申込んだ様子でございますわ」
「ほう、……してお父上は」
「父は、あの通り、すっかり夏目さま贔屓《びいき》でございますから、恐らく……」
「貴女の覚悟を拝見できるところですね」
鹿毛之介は静かに云った。
「貴女は秋田家の侍大将の娘だ。自分の覚悟さえ決っていればどんな困難に遭っても狼狽はしない筈、分っていますね」
「……はい」
「ひと言申上げるが、拙者は間もなく退身するかも知れません」
「まあ!」
「そらまた驚く!」
鹿毛之介は轡を持変えながら、
「そう詰らぬ事にすぐ驚くようでは、武士の妻になれませんぞ、……三春へ来た拙者の目的はもう果したのです、もう是以上留っている要がなくなりました、だから近く退身することになるでしょうが、そのときの、貴女の覚悟をしっかり決めて置いて下さい」
「鹿毛之介さま!」
「飛騨の山奥ですよ、……」
そう云って、鹿毛之介は馬を曳きつつ去って行った。
その翌々日のことであった。
三春城には水野日向守勝成の老臣、早瀬伝右衛門が客として到着した。
水野勝成は大阪以来秋田俊季と親交があり、今度勝成が郡山《こおりやま》六万石から備後福山十万石に移封されたので、その祝いの使者を遣わしたのへ、答礼として老臣早瀬伝右衛門を寄来したのである。
折も良し河内守俊季は夏目図書を召抱えたので、これを伝右衛門に見せて自慢をしようと、酒宴を設けながら直ぐ苅屋源太兵衛にその旨を命じ、更にまた、
――ただ目通りをするだけでは面白くないから、酒宴の庭前で試合をさせるよう、家中から然《しか》る可き者を選んで来い。
と申付けた。
源太兵衛はすぐ老臣たちと協議して、旗下の中から会田内膳という者を相手に選び、自分は屋敷へ図書を迎えに戻った。
愈《いよいよ》千五百石の豪傑の披露である。
しかも大阪で図書が陣場を借りた、水野家の使者の前で初の披露をするのだから、世話役たる源太兵衛すっかり張切っていた……するとその支度の最中に、馬頭鹿毛之介が是非お話し申上げたいことがあるからと面談を願い出た。
鹿毛之介には図書引抜きに助言されているので、今日の吉報も知らせてやろうと居間へ呼んだ。
「……御用中でございましたか」
「うん、今日は是から夏目殿の御前披露があるでの、時に話というのはなんじゃ」
「余り突然で不躾《ぶしつけ》かも知れませぬが」
鹿毛之介は無造作に云った。
「萩枝どのを妻に頂戴したいのです」
「な、……」
なにをと云おうとしたまま源太兵衛は舌が動かなくなった。そして鼻の穴が大きくふくらみ、呻くような太い鼻息を洩らすと、
「ばかな、ばかな、なにを云う」
と喚きだした。「萩枝は儂の秘蔵娘だ。遖れ天下の勇士豪傑に娶《めあわ》せようと丹精籠めて育てて来たのだ。一体、いや一体貴公はどれだけの人物か」
「どれだけの人物かと仰せられましても」
「いや、話が出たから聞かせるが、萩枝には夏目図書からも是非にと申込まれているのだ、それでも貴公は自分に呉れなどと大胆な言が云えるか」
「それは、夏目殿は天下の豪傑でございましょう、しかし拙者とても武士として夏目殿に後れを取らぬ覚悟はございます」
「そうかも知れぬ、ふむ」
源太兵衛は嘲るように云った。
「実際また貴公の方が夏目殿より強いかも知れんて、しかし……それだからと云って夏目図書が天下の夏目図書であり、貴公は唯の馬頭鹿毛之介ということに変りはあるまい」
[#8字下げ]八[#「八」は中見出し]
「なるほど、してみると大切なのは人ではなくてその名だということになりますな」
「武士は名こそ惜しけれ、当然のことだ」
だいぶ見当違いの譬《たとえ》だが、是は先日の鹿毛之介の譬に対して、巧まざる竹篦《しっぺ》返しになったから妙である。
「では致方がございません」
鹿毛之介は微笑しながら云った。
「もうこの上お願いは致しますまい、しかし念のために申上げますが、お旗頭は拙者の方が夏目殿より強いということを今お認めになったのですな」
「いや貴公の方が強いなどとは云わん、物の譬にだ」
「武士の一言は金鉄と申します。夏目図書殿は名だけで千五百石、扶持米取りの馬頭鹿毛之介にも及ばぬ名ばかりの豪傑……是は評判になりましょう」
「ばかなことを、そんな根もないことを貴公は触れ歩く気か」
「触れ歩かなくとも分ることは」
と鹿毛之介は座を立ちながら云った。「やがて萩枝どのを拙者が妻に申受けるという事実です。いや、どう仰有ろうと覚悟は決っているのですから、ただ念のために申上げて置くだけです」
「待て、待て、そんな無法なことを」
まるで気を呑まれた源太兵衛、本来なら言下に叱り飛ばせるべきものが、妙に圧倒されたかたちで語句が継げない、すると其処へ、
「ならんぞ鹿毛之介」
と喚きながら、すっかり支度の出来た夏目図書が入って来た。……いま、部屋を去ろうとしていた鹿毛之介が振返る、その鼻先へ大股に近寄りながら、
「萩枝どのの事はまあ措く、その方いま拙者を名ばかりの豪傑と申したの」
「お耳に入りましたか」
「扶持米取りの馬飼いよりも弱い、名だけの千五百石と申したの、……勇気のある奴だ、夏目図書のいる処でそれだけ云い切った者はない、褒《ほ》めてやるぞ」
「それは御親切な……」
鹿毛之介はにやりと笑った、……とたんに図書は真赤になって拳《こぶし》を挙げながら、
「苅屋氏、これから御前で家中の士と立合う相手、この鹿毛之介にして下されい、余の者では立合いませんぞ、この鹿毛之介を相手に真実いずれが強いかお眼にかける、頼みましたぞ」
まるで猛牛の咆えるような声であった。
当の図書の望みだし、源太兵衛に取っても失言の禍を断つ好機なので、直ぐ御殿へ上って老臣たちに計ったうえ、遂に御前試合は図書と鹿毛之介ということに決定した。
場所は新御殿の庭。
河内守俊季は侍女、近習と共に上座で、客の早瀬伝右衛門はやや下って、静かに酒宴を続けながら待兼ねている、……やがて身仕度をして二人が庭前へ式退した。
夏目図書は三尺二寸はあろうという無反《むそり》の木剣、鹿毛之介は二尺そこそこのものだ、……検分役として階下に蹲《うずくま》っているのは苅屋源太兵衛である。
式退が済むと、二人はあいだ二間ほど隔てて左右へ別れた。
分りきった事だが、当時の試合は素面素籠手の木剣だから、腕の一本や肋骨《あばらぼね》の一本ぐらいぶち折られるのは普通で、下手をすると致命に及ぶという荒っぽいものである、……みんな息を殺して見|戍《まも》るうちに、図書は木剣をさっ[#「さっ」に傍点]と大上段にふりあげながら、
「えーい」
第一声と共にじりりと出た。
鹿毛之介は動かない。
呼吸にして十二三、図書は第二声を放ちながら跳躍して打ちを入れた、満身の力を籠めた木剣を叩きつけるような体勢である、真面《まとも》に受けるべきものではない体を躱《かわ》すであろうと見たが、鹿毛之介は逆に踏出しざま、
「えいッ」
と初太刀で相手の木剣をはね上げ、二の太刀で肩を打つと共に二間あまり後ろへ跳退いた。
瞬《またた》く暇もない早業だ。
図書の木剣は遠い泉水の畔まで飛び、図書の巨体はへなへなとその場へ俯伏《うつぶ》せに倒れた。……御殿の上も下も、あっと眼を瞠《みは》ったまま暫くは声も出ない。
「……お旗頭」
鹿毛之介は御前に向って拝揖《はいゆう》すると、呆れている源太兵衛に、
「医者に診せておやりなさい、肩の骨は折れていようが死なずには済む筈です、御免」
そういって去ろうとした。その時、……今まで凝《じっ》と試合の様子を見ていた客の早瀬伝右衛門がつかつかと立って来て、
「お待ちあれ夏目氏」と声をかけて、
「早瀬伝右衛門でござる、よもやお見忘れはござるまいが」
××××
あの時ばかりは胆《きも》がでんぐり返ったとは、苅屋源太兵衛が後に告白したところである。単に源太兵衛だけではなく、恐らく列座の人々全部が胆を潰したに違いない。……なにしろ二年のあいだ源太兵衛の頼士として、些々たる扶持米を貰いながら黙々と馬の飼立てをやっていた彼が、実は天下諸侯の捜し求めていた夏目図書その人だったというのだから、これは驚くのが当然である。
鹿毛之介……ではない、真の図書は直ぐ主客の席へ召出された。
挨拶が済むか済まぬに、河内守は、「さりとは心憎い」と盃を与えながら、「仮名《かめい》を使って住込まずとも、名乗って参れば食禄に糸目はつけなかったものを、無論このまま当家へ随身して呉れるであろうな」
「恐れながらその儀は辞退仕ります」
図書は静かに笑って云った。
「早瀬氏にも御存じの如く、曽て大阪役の折にも日向守様(水野勝成)よりの御懇望を辞して世を隠れましたので、何方《いずかた》にも御随身は仕らぬ所存でございます。……元来」
と微笑を浮べながら、「泰平の今日、諸侯方が争って豪傑を求められるのは、深き理由もない見栄の如きもので、そのため騙《かた》り者の豪傑に高禄を与えるという結果にも及びます。御当家には素より御譜代の家臣方あり、幾十百年のあいだ御家のために身命を賭し、忠勤を励んだ人々でございます。それでも千石、千五百石という高禄を頂く御仁は尠《すく》のうございましょう。……如何に天下の豪傑と雖も、曽て御家になんの功なき者を、高禄にてお召抱え遊ばすというは譜代の御家臣を軽んずるも同様、恐れながら武将たる道とは存じ兼ねます」
そう云ってぎろりと見上げた図書の眼を、河内守は真面に受止めることは出来なかった。そして益々その人柄に惹付けられた様子で、
「……如何にも、いまの言葉は尤もだ、豪傑を抱えて飾物にしようとしたのは過であった。では改めて頼む、無禄、客分として当家に随身して呉れぬか」
「有難き仰せですがその儀も平に……」
「ではなんのために当家へ来たのだ、なんのために今日まで、変名して源太兵衛の許に身を寄せていたのか」
「御当地は名駒の産地、その飼立てにも独得の法ありと伺いましたので、それを学ぶためにまいりました。しかしどうやらその望みも果しましたし」と云って図書はにっ[#「にっ」に傍点]と笑った、
「……また他に又となき土産も出来ましたゆえ、一日も早く飛騨へ帰り、生涯を馬の飼立てに尽したいと存じます」
「又となき土産、……土産とはなんだ」
「……苅屋どの」
図書は振返って、静かに笑いながら云った。
「言上しても宜しゅうござろうな、萩枝どのを妻に頂戴してまいると」
底本:「武道小説集」実業之日本社
1973(昭和48)年1月20日 初版発行
1979(昭和54)年2月15日 新装第七刷発行(通算10版)
底本の親本:「講談倶楽部」
1940(昭和15)年10月号
初出:「講談倶楽部」
1940(昭和15)年10月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)鱒八《ますはち》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)川|賢信《たかのぶ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#8字下げ]
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[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
「誰にも嘘だなどとは云わせねえ」
これが出るともう酔った証拠である。鱒八《ますはち》は肩を怒らせながら喚きたてた。
「卑怯でもなく未練でもなく、おらあ[#「おらあ」に傍点]は此手で猪打権右衛門《ししうちごんえもん》を討取ったのだ、おのし[#「おのし」に傍点]等は疑わしげなれどもおらあ[#「おらあ」に傍点]は嘘は云わねえ、おらあ[#「おらあ」に傍点]は慥《たし》かに此手で猪打権衛右門を討取ったのだ」
「貴公の猫打殿はまあそっちへ引込めて呉れ」
鼻の九十郎がおでこの突出た頭を小さな肩の上で張子の虎のように揺りながら、
「拙者大阪の折には天王寺口にあって、いや天王寺口と安くは云うまい、あそこ真田《さなだ》丸でがっしと固めた謂わば大阪城の大手だ」
「おらあ[#「おらあ」に傍点]が談《はなし》をぶってるにあぜ[#「あぜ」に傍点]横からそうしゃしゃ張り出るだあ」
「まあそう喚くな、貴公の猫打殿などは」
「猫打ではねえ猪打だ、猪打権右衛門だ、道明寺口でははあ[#「はあ」に傍点]山川|賢信《たかのぶ》の旗本で二と下らねえ豪傑だ、嘘は云わねえ八幡かけて猪打権右衛門は豪傑であった」
「待つべし待つべし」
荏柄宮内《えがらくない》が団扇《うちわ》のような手で空気を引掻き廻しながら呶鳴りだした。
「貴様たちは天王寺だことの猫打だことのと埒《らち》もない高慢を並べるが、まあ聞け、今日という今日こそこの荏柄宮内が本当の戦場談を聴かしてやる」
「猫打ではねえぞ、おらあ[#「あらあ」に傍点]はっきり断って置くが猫打ではねえぞ」
奥州三春城の外曲輪《そとくるわ》にある侍大将|苅屋《かりや》源太兵衛の頼士《よりし》長屋では、今日もまた新規御取立ての勇士たちが酒を囲んで騒いでいる。
時は元和《げんな》五年の晩秋。
大阪役が終ってから四年目で、諸国の大名たちは争って勇士豪傑を召抱えていた時代である。これは徳川氏の天下統一と共に各藩領地が一応安定し、それにつれて小身から大身に昇った大名が多いので、内外の辺幅を飾るためもありまた、戦国の余風として名ある勇士を尊重したためである。徳川頼宣が福島家の浪人大崎|玄蕃《げんば》を八千石で抱えたのを初め、多少知られた人物は千石二千石で羽の生えたように売れて行った。
三春城の秋田家でもその世風に洩れず、頻りに浪人者を取立てているのだが、どうも余り目星い人物はいないらしい。侍大将苅屋源太兵衛に預けてあるこの五人も、名目は大阪役の豪傑ということではあるが、大酔して自ら語るところを聞くとどうやら自慢の出来るほどの者では無さそうである。
「貴様は猫打猫打と大層らしく云うが、一体その男は何者なんだ」
「是は魂消《たまげ》た、おのし[#「おのし」に傍点]猪打権右衛門を知りさらんのか。いや是は大魂消だ、猪打権右衛門を知ららんで大阪陣に働いたとは」
「妙なことを云うなこれ、拙者は天王寺口で真田の先鋒と槍を合せたが」
「道明寺口じゃ、山川賢信は道明寺口を固めてあった、然れば猪打権右衛門も道明寺口にあったが正じゃ、おらあ[#「おらあ」に傍点]はあ嘘は吐《つ》かねえ」
「どうしてまた嘘を吐かないのだ、え?……なにか後暗いことでもあるかよ」
「な、なにを云いなさる。なにを」
「鎮まれ」
長屋の大戸を明けて破鐘《われがね》のように呶鳴った者がある。
「やっ、おい鎮まれ、お旗頭だ」
荏柄宮内の声で一遍にみんな声をのんだ。一同の頼親《よりおや》、苅屋源太兵衛である。
「馬頭鹿毛之介《ばとうかげのすけ》は居るか」
「はあ、その、馬頭めは先刻その、馬を洗うとか申しまして」
「誰か迎えに行って来い」
「はっ」
大海《おおうみ》鱒八がむくむくと立上った。
「屋敷の方へ来るように申せ、急ぐぞ」
源太兵衛の声から逃げるように、鱒八は裏手へとび出して行った。
奥州三春は名駒の産地で、城中にも厩《うまや》が並び、家臣たちは身分に応じて何頭、何十頭と飼立ての責任を負っている。苅屋の預っている厩は外曲輪の空濠に添ってあった。……鱒八がやって来たのはその空濠で、其処ではいま大肌脱ぎになった男が、一人の娘と一緒に馬洗いをしているところだった。
男は頼士の一人で馬頭鹿毛之介。
娘は源太兵衛の二女で萩枝《はぎえ》という。……十八という年に比べて四肢の育ちきった体つき、裾を端折り袂を背に結んだ甲斐甲斐しい支度でせっせと馬足を洗っている。
眉間の広い、眼鼻だちのおおらかな、力のある健康な美貌だ。惜気もなく露わにした脛《はぎ》も、腋《わき》の下まで見えそうに捲りあげた二の腕も、光の暈《かさ》を放つほど白く豊かである。
「だいぶ上手になられましたな」
「不器用者で、さぞ……御笑止なことでございましょう」
「いや御覧なさい、こいつめ」
鹿毛之介は馬の平首を叩いて、
「さも心地好さそうに眼を細くして居りますよ、畜生でも矢張り佳き人の世話は冥加に思っているのでしょう」
「……まあ」
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
萩枝は唇を右へ曲げる癖の微笑を見せながら優しく睨んで、
「それは鹿毛之介さまの事ですわ、貴方のお手が掛ると馬という馬はみんな猫のように温和しくなって、……誰をも近寄せない『荒波』でさえ鹿毛之介さまには耳を伏せるのですもの、憎らしいくらいでございますわ」
「それで馬頭鹿毛之介と云うのでしょうか、事に依ると前世は馬だったかも知れませんよ」
「もしそうでしたら日本一の名馬だったでございましょう」
二人は声を合せて笑った。
「叱《し》っ、叱っ、そんねな声で笑いさって」
鱒八が両手で押えつけるような恰好をしながら走って来た。
「お旗頭が長屋へ来てござるぞ、もし聞えでもしたらどうしめさる」
「なにを独りで慌てているんだ」
「なにがって、おらあ[#「おらあ」に傍点]はあ」
鱒八は眼を白黒させながら、
「鹿毛之介は何処だってえ呶鳴らしったで横っ飛びにやって来たのだ、きっと毎《いつ》もお嬢様をこんな処へそびき出していることが」
「これこれ、口を慎まぬか」
「うんにゃあ、おらあ[#「おらあ」に傍点]は知っているだ、おらあ[#「おらあ」に傍点]には隠さねえでもいいのだ、それあ表向は馬洗いを教えるという事になってるだが」
「よしよし、おまえの察しの良いことは分った」
鹿毛之介は苦笑して、
「それで、馳《か》けつけて来た用事はそれだけか」
「いんにゃ、屋敷の方へ直ぐ来いと云わしってだ、えらく怒ってござる様子だからおらあ[#「おらあ」に傍点]が思うには、きっとお旗頭はこの事に感付かれたに違いない」
「無駄言はよせ」
鹿毛之介は馬|盥《だらい》の水をうちまけながら、
「それでは拙者は御用を伺って来るから、おまえ代りに此処でお手伝いをして呉れ」
「……鹿毛之介さま」
萩枝は気遣《きづか》わしそうな眼で見上げた。鹿毛之介は静かに笑いながら、
「なに直ぐ戻って来ます」
と云って肌を入れた。
馬頭鹿毛之介は巌のような肩を持った六尺近い偉丈夫である。……浅黒い顎骨の張った顔は、濃い一文字眉とひき結んだ唇を中心に凛々《りり》しい力感をもち、その声調は静かであるが腹の底から出る強い響が溢れている。
彼は二年前、河内守俊季《かわちのかみとしすえ》が大阪から三春へ入部する途中で召抱えられたもので、大阪役には水野勝成の陣馬を借りて戦った浪人隊のなかで働いたという。……浪人が陣馬を借りて戦うということは関ヶ原で終っているが、事実は大阪陣でもかなり有ったらしい。殊に水野勝成の陣場で働いた夏目|図書《ずしょ》という人物は、百余人の浪人隊を率いて奮戦し、道明寺|磧《がわら》に於ける五月六日の戦争を圧倒的な勝利に導いた殊功者であった。
馬頭鹿毛之介はその夏目図書の旗下で働いたというので、河内守に拾われたのだが、まだ正式に家臣としての秩禄はなく源太兵衛の頼士として扶持を受けているに過ぎない。……尤も是は鹿毛之介が自ら望んだことで、
――御当家に取ってなんの手柄もないのだから人並の食禄は要りません、馬の世話でもして粟飯一椀|頂《いただ》ければ結構です。
とたって給禄を拒んだのである。
それで今日まで約二年、源太兵衛の頼士長屋で、大海鱒八、荏柄宮内などと共に扶持されながら、専念に三春駒の飼立てをやっているのだった。
「お召しなされましたそうで」
屋敷の大庭で待っていた源太兵衛は、鹿毛之介を見るといきなり呶鳴りつけるように、
「怪しからん、どうする積りじゃ」
と唾を飛ばしながら云った。
「儂《わし》は貴公を信じて間違いのない人物じゃと思っていた、しかるに是はなんとした事だ」
「仰せの意味がよく分りませんが」
「なに、訳が分らんと?」
「なにか拙者に落度でもございますか」
「落着いている場合ではないぞ」
源太兵衛はどっかりと広縁に腰を下ろしながら、太い指を突出して云った。
「貴公、大阪陣には何処で働いた」
「今更改めてのお訊ねはどういう訳か存じませんが、夏目図書の浪人隊に加わって水野様の御陣場で働きました、むろん予て申上げた通りでございます」
「夏目図書の下にいたということは事実だな」
「なにかお疑いがございますか」
鹿毛之介の平然たる態度とは逆に、源太兵衛はひどく急《せ》きこんでいる。
「事実なら訊ねるが、貴公当家へ随身するとき夏目図書の身の上に就てなんと云った」
[#8字下げ]三[#「三」は中見出し]
「それは、……申上げました通り、大阪役の終ると共に故郷へ隠遁なされたと承りましたが」
「貴公はそういった」
源太兵衛は又しても太い指を振りながら、
「夏目図書は道明寺磧の勇士、遖《あっぱ》れ豪勇の士として諸大名が懸命に捜していた。噂に依れば薄田隼人兼相《すすきだはやとかねすけ》を討取ったのも彼だという。御当家に於ても是非彼を召抱えたい思召で、この源太兵衛が捜し出す役目を仰付かった。……ところが、貴公は夏目図書は山中へ遁世して了った、捜しても無駄だというので、その趣を言上したのだ」
「それに相違はないと存じましたが」
「存ずるも存ぜぬもない、夏目図書はいま相馬家に召出されて居るぞ」
「それは、……それは不思議な……」
「なにが不思議だ、大膳亮《だいぜんのすけ》殿は千石でお召抱えになったという、お上にはそれを聞し召されて大変な御立腹、是非とも当家へ引抜いて参れという御厳命だぞ」
鹿毛之介は合点がいかぬという風で、
「しかし慥《たし》かに夏目殿は隠遁なすった筈ですが、なにしろ世俗の慾の無い人で」
「今更そんなことを申しても当人が相馬家に抱えられたのだから仕様があるまい……捜し出して召抱える役を申付かっていた拙者の責任として、相馬家から当家へ引抜いて来いという御上意は辞退することが出来ぬ」
「御尤もでございます」
「なにが御尤もだ、犬や描と違って人間だぞ、それも諸国の大名方が随身させようとして争っていた豪傑だ、一旦他家が召抱えたものを、こっちへ引抜くなどという事が容易に出来ると思うか」
鹿毛之介は困惑したように眼を伏せた。
前にもちょっと触れた通り、当時の大名たちは争って勇士豪傑を召抱え、自分の家には何の某がいる、誰と彼とがいるという風に、一種の見栄にもしていた時である。……秋田河内守も同様であったが、残念ながらまだ是と云って世間に誇れるほどの豪傑が手に入らない、許りでなく、大阪以来眼をつけていた夏目図書を、まんまと相馬大膳亮に召抱えられて了ったのだから、――
是が非でも引抜いて来い。
と厳命を下したのは無理からぬ次第であろう。
「お旗頭……」
鹿毛之介はやがて顔をあげた。
「夏目殿が本当に相馬家に随身し、また河内守様がどうしてもこっちへ引抜けという仰せでしたら、そう難しい事ではないと存じますが」
「難しくないと云って、なにか法があるか」
「お旗頭が若し御自身でおいでなさるのでしたら思案を申上げましょう」
「むろん、儂が自分で参る」
「それなら五百石お増しなされませ、相馬家は千石、夏目図書殿に千石は安うございましょう、千五百石出すといえば必ず談は纒まります」
「なるほど愚案だな」
源太兵衛は蔑むように、
「遖れ勇士豪傑たる者は、五百石ぐらい多く出すからと云ってそう無造作に主人を変えると思うか、馬鹿なことを申せ」
「しかし士は己を識る者のために死すとも申します。福島浪人の大崎玄蕃は徳川頼宣侯に八千石で召出されました。夏目殿にしても千石より千五百石の方が己の真価を認められる訳で、同じ仕えるなら自分の価値を認める者に仕えたいのは人情でございましょう」
「ふうむ、……それも、理窟だのう」
「そのうえ相馬家が譜代の主君というでもなく、謂わば売物買物でございますから、是はきっと談が纒まるに違いありません」
源太兵衛は腕組をして考えこんだ。
――士は己を識る者のために死す。
この場合には少し的外れの譬《たとえ》だし、そう云いながら鹿毛之介も笑を噛殺している様子であった。が、藁《わら》をも掴みたい源太兵衛にはひと理窟に思えたらしい。
「よし、思切って当ってみよう」
やがて決然と眼をあげた。
「物事は当って砕けろだ、いざとなったらまた思案も出るだろう、幸い部下に在った貴公も当家に居るのだから、それを話したら……」
「それは困ります」
鹿毛之介は驚いて遮《さえぎ》った。
「困る? なにが困るのだ」
「いえ実は……その、……いや、こうなったら申上げますが」
鹿毛之介はひどく困惑した様子で、
「実は拙者は、夏目図書殿とは面識がないのです。つまり、大阪陣で水野様の御陣場で働いたのは事実なのですが、夏目殿の旗下にいた訳ではなかったのです」
「なに、な、なんと云う」
「夏目殿の旗下にいたと申上げたのは随身したいためで、実は全く違うのです。ですからどうか拙者のことは御内聞に」
「……呆れた男だな、貴公は」
[#8字下げ]四[#「四」は中見出し]
「どんな御用でございましたの?」
萩枝は戻って来た鹿毛之介を見ると急いで走寄った。
「父は怒って居りまして」
「怒っていました」
鹿毛之介は苦笑しながら、
「呆れた奴だと呶鳴られましたよ」
「まあ、……済みませぬこと、萩枝が無理に馬洗いのお教えを願ったのが悪かったのでございますわ、わたくしから父に訳を話して」
「いや、ははははは、違います、違います」
「…………」
「叱られたのはその事ではありません。大阪陣の嘘が露顕したのです、夏目図書の旗下で働いたといえば召抱えられることが分ったものですから、そう云って御当家に随身したのですが、妙な事からたった今それがばれて了ったのです。それで叱られました」
「まあ、……では貴方は……」
「大阪で働いたのは事実ですが、夏目の部下ではありませんでした、貴女も……お怒りになりますか」
「いいえ、いいえ」
萩枝は強く頭を振った。
「わたくし鹿毛之介さまを……御立派な方と存じますだけで、たとえ大阪陣で働いたことがお有りなさらなくても、わたくしの心には少しも変りがございませんわ」
「豪傑でなくてもいいのですか、馬頭鹿毛之介などという馬飼い侍でも」
「そんな風に御自分を仰有っては悲しくなります。もうその話はやめに致しましょう。そして早く『荒波』を洗ってやって下さいまし……さっきから待兼ねてあのように嘶《な》いて居りますわ」
「宜しい」
鹿毛之介は明るく云った。
「あいつが本当に拙者を呼ぶのか、それとも実は貴女を呼ぶのか、今日はひとつ本音を吐かしてやるとしましょう」
「まあ、貴方に定って居りますわ」
「定っているかどうか、さあ行きましょう」
えへん! という声が叢《くさむら》の中から聞えた。しかし二人の耳に入らなかったのか、そのまま揃って厩の方へ登って行った。
「やれやれ、おらあ[#「おらあ」に傍点]も辛いぞ」
叢の中からむっくり起き上ったのは鱒八であった。……彼は眼を細くしながら二人の後姿を見送っていたが、やがて大息をつきながら独言《ひとりごと》を云った。
「立派だなあ馬頭は、誰がなんと云っても、おらあ[#「おらあ」に傍点]は馬頭の家来分になる心組《つもり》だあ、あいつはきっと偉くなるに違えねえだあ」
そうかしらん?
十日ほど過ぎた或日、鹿毛之介は源太兵衛に呼ばれた。……中村から戻った許りのところらしくしかも非常な機嫌である。
「御帰城おめでとう存じます」
「やあ馬頭か、喜んで呉れ旨くいったぞ、上々の首尾で大役を果したぞ」
「夏目殿は御承知なさいましたか」
「貴公の言葉が役に立っての」
源太兵衛は嬉しそうに声をひそめて、
「士は己を識る者のために死す、夏目図書ともある人物が千石で安んずる法はない、当家では千五百石で是非とも御随身を願う、……こう申したらな、さすがに夏目殿も分りが早い、如何にも士は己を識る者のために死すという、それほど自分を認めて呉れるなら御意に任せようと、直ぐに話が定ったという訳じゃ」
「矢張り拙者の愚案が当りましたな」
「許すから威張れ、ははははは」
はははははと笑い応ずる鹿毛之介を、源太兵衛は極上の機嫌で押えながら、
「直ぐに皆を集めて呉れ、披露をしよう」
と云って立上った。
忽ち家来たちが集められた、預っている槍足軽二十人も加わって押合いへし[#「へし」に傍点]合い大庭へ居並ぶと、間もなく源太兵衛が現われた。
「みんな集った、よし」
広縁の端まで出てずっと見廻しながら、
「今日は一同に喜んで貰いたい事がある。皆も予て知っていよう、大阪陣に道明寺口で勇名を轟かした浪人隊の旗頭、夏目図書重信殿、数年来我が君がお捜し遊ばしていた豪傑夏目殿を、この度当家へお迎え申すことが出来たぞ」
わっと大庭がどよみ上った。
「お目通りまでのあいだ当分この屋敷に客分として御滞在になる。一同もお目にかかって御武運にあやかるがよい、静かに」
そう云って振返る。……すると奥から、のっしのっしと一人の偉丈夫が出て来た。
正にのっしのっしという感じである、背丈は六尺三寸もあろうか、猛牛のような偉躯、眉太く眼鋭く、力そのもののような顎は髯《ひげ》の剃り跡青々として、まさに威風凛然たる相貌である、……彼は広縁まで進出ると、のしかかるような調子で云った。
「拙者が夏目図書じゃ、見覚えて置け」
[#8字下げ]五[#「五」は中見出し]
「腹じゃ、腹じゃ!」
拳骨で自分の腹をだぶだぶと叩きながら、
「その上にも腹、最後まで腹じゃ、……とこう云われた。剣槍弓射の類は技《わざ》の末節、大丈夫が戦場に臨んで必勝するところのものは、でん[#「でん」に傍点]と据えた腹ひとつにある、とこう云われた、さすがに天下の豪傑たる者は考えが違うぞ」
ぐいと酒を呷《あお》って、荏柄宮内は唇を横撫でにしながら一座を見廻し、
「しかるに我々はどうだ」
と拳骨を突出して叫んだ。
「剣法がどうの槍術がどうの、やれ馬の弓のと詰らぬ事に暇を潰して居る。馬鹿げたことだ、馬鹿げたことだぞ。我々は須《すべか》らく英雄豪傑たれである。足軽小者に類する末節を捨てよ、腹を養え腹を! さらば天下は即ち我らの掌中にあるんだ」
「そうだ。腹だ、腹だ、腹だ」
富田七兵衛がっんのめるように喚いた。
みんなそれに和した。
夏目図書が来て以来、この頼士長屋の面々はすっかり逆上して了った。彼等とても幾度か戦塵を浴び、生死の境を潜って来たのである。そして是からもまた剣を執って征馬を遣《や》る機《おり》があるであろう。しかるに一方は夏目図書として千石、千五百石と諸侯から引張り凧《だこ》にされ、片方は頼士長屋で蟄伏《ちっぷく》しなければならぬ、……これなんの故ぞと疑っているところへ、図書から「腹だ腹だ」と云われたのである。
――剣槍弓射の法などは足軽小者の技に過ぎぬ、英雄豪傑たる者はもっと大きく、でん[#「でん」に傍点]とひとつ腹を据えて動かぬ胆力が必要だ。大行は細瑾を顧みずと云うぞ。
そう煽《おだ》てられたのだから、みんな一時にかあっ[#「かあっ」に傍点]とのぼせあがって了ったのだ。
事実、図書がこの屋敷へ来てからの挙措言動は豪快を極めていた。朝起きるとからの酒で、言葉通りでん[#「でん」に傍点]と腰を据えたまま浴びるように飲む。酔えば調子も節も度外れな声で放歌する、よく聞いていると、
――ああ やんれさの やんれさの ああやんれさの やんれさの やんれさの。
何処まで行っても同じ言の羅列なのだが、文句などに拘《こだ》わらぬところが実に壮絶で、なるほど豪傑というものは末節に関わらぬものだという気がする。
――ああやんれさの やんれさの なんだおまえたち、なにをきょろきょろしちょる。腹だ、腹だ、腹を据えて飲め。豪傑たる者が小さな事にくよくよするなッち、おまえらの事はこの夏目図書が引受けたぞ、さあ歌え、やんれさの ああやんれさの やんれさの。
ざっとこういう次第である。
おまえたちの一生は引受けたぞ。……天下の豪傑からこう云われて感奮しない者はなかろう、左様、みんな感奮した。
――大行は細瑾を顧みずだ。
みんな腹を据えた。
――些々《ささ》たる小事がなんぞ、豪傑たる者は小さな事にくよくよするなッち。
という訳で、頼士長屋の人々は俄に大人物の腹構えを持ち始めたのである。
是は一種の熱病であった。
そしてこの事実は、誰にも咎《とが》めることが出来ないであろう。夏目図書はどこ迄も夏目図書であり、荏柄宮内たちは逆立をしても荏柄宮内たちでしかないのだが、豪傑たらんとする熱情、大人物たらんとする欲望の点では甲乙がないのである。彼等がそう欲する限り一朝有事の際には英雄豪傑たり得るかも知れないのだ、なんぞ感奮せざるを得んやである。
しかし此処に唯一人だけ、その熱病に取憑《とりつ》かれない男がいた。大海鱒八である。……彼はまえから馬頭鹿毛之介が好きで、若しこんど戦争でもあるような時には、進んで鹿毛之介の馬の轡《くつわ》を取ろうと覚悟しているくらいだった。
ところが夏目図書が現われてからというものは、苅屋源太兵衛はじめ屋敷中の人気が、まるで嵐に吹捲られるような勢で図書に集り、鹿毛之介のことなどてんで忘れ果てたような有様になって了ったのだ。
――なにが豪傑だ。
鱒八は腹を立てた。
――酒を呑んで威張るだけが豪傑なら、この鱒八などは大豪傑だ。歌といえばやんれさのやんれさの、けッ、なにがやんれさだ、おらあ[#「おらあ」に傍点]が覚えてるには、あいつは石運び人足が唄ってたもんだぞ。
同じ歌でも観方に依るとこうなって了う。
「おい鱒八、貴様そんな処でなにを呆やりしとる、呑まんのか」
鼻の九十郎が振返って喚いた。
「ひとつ底の抜けるほど飲んで、また猫打殿との一騎打ちを一席ぶて[#「ぶて」に傍点]、聴いてやるぞ」
「やれやれッ鱒八、貴様この頃豪傑らしくなくなったぞ」
「やかましい、おらあ[#「おらあ」に傍点]は」
呶鳴り返そうとして鱒八はひょいと振返った。
[#8字下げ]六[#「六」は中見出し]
長屋の外に遽しい跫音《あしおと》がして、萩枝がさっと走り込んで来たのだ。
「……あ、どうなさいました」
「馬頭さまは」
顔が蒼白《あおざ》めている、鱒八はすぐ土間へとび下りながら、
「厩の方にいると存じますが」
「夏目さまに追われていますの、父は御殿へあがって留守だし……」
「こっちから出てお逃げなさいまし」
鱒八は素早く萩枝を裏口に導き、引戸を明けて外へ出してやった。
萩枝は乱れている髪を撫でながら、気もそぞろに厩の方へ走って行った。……丁度そのとき、空濠から馬を曳《ひ》いて上って来た鹿毛之介がそれを認めて、
「何処へおいでなさる」
と声をかけた。
「ま、鹿毛之介さま」
「どうしました」
「……口惜しゅうございます」
巨きな楡《にれ》の木がある、その木蔭のところで、萩技はそう云って走り寄ると、思わず噎《むせ》びあげながら鹿毛之介の胸へ身を投げかけた。
「一体どうしたのです。なにごとです」
「夏目さまが、……無礼なことを」
「無礼なこと」
鹿毛之介の眼がかっと輝いた。
「今日だけではありませんの、初めの夜からもう酒に酔うと、婢《はしため》たちにお戯れなさいますし、わたくしにまで厭らしいことを仰せられたり、黙っていれば袖を掴《つか》み手を握り……今日などは父が留守なものですから」
「それで逃げて来たのですか」
鹿毛之介は娘の体を引離して云った。
「貴女は何歳になります?」
「…………」
「貴女は武士の娘だ、やがて武士の妻になるべき人だ、それがこんな事くらいに取乱して逃廻るなどとは何事です」
「……でも、鹿毛之介さま」
「父上も在さず拙者も居らず、四辺《あたり》に頼るべき者のいない場合にはどうしますか、……武家に生れた以上、たとえ女子少年でも当って身一つの始末をする覚悟はあるべき筈、そのように心弱いことでは、武士の妻には成れませんぞ」
萩枝ははっ[#「はっ」に傍点]と男の眼を見上げた。
強い言葉とは反対に、男の眼は深い愛情の色を湛えて見下ろしていた。
「あさはかでございました」
萩枝は涙を押拭って呟くように、
「つい……取乱しまして、どうぞ今日の事はお忘れ下さいまし、萩枝はきっと……」
「やあ、ははははは此処においでか」
咆《ほ》えるような声と共に、夏目図書がずしんずしんと近寄って来た。
「捜したぞ捜したぞ、人馴れぬ牝豹《めひょう》に手を噛まれて、快い痛みがずんと骨身に堪《こた》えた、陸奥の娘たちは手強《てごわ》いが、そこがまたこの道の味というものじゃ、さあ来やれ、いま一度その珠のような歯で噛まれてみたい」
「御機嫌でござるな」
鹿毛之介が静かに萩枝を背へ庇《かば》った。
「英雄色を好む、矢張り豪傑たる御仁は濶達でよい。それでなくては天下に名を成すことは出来ますまいな」
「誰だ貴公、……ははあ」
夏目図書は酔眼を剥いて睨みつけた。
「ははあ、大阪陣で拙者の旗下にいたとか、嘘を云って当家へ仕官した男じゃな、たしか名は……」
「馬頭鹿毛之介と申します」
「それよ、馬頭、馬の頭だな、うん、よいよい、偽りにせよ拙者の名で仕官が出来たのだから、以後も眼をかけてやるぞ」
「はあ、呉々も宜しく」
「大丈夫、貴様の生涯は引受けた。そこで退《ど》いて貰おうか、萩枝どのは拙者の妻になるべき人だ、挨拶をして向うへ行け」
萩枝は身震いをしながら鹿毛之介を見た、しかしこっちは平然たるもので、
「それは祝着ですな、貴殿のような豪傑の妻になれるとあれば、萩枝どのもさぞ本望なことでござろう、……が先ず、此処は兎も角お引取りなさるが宜しゅうござる。こいつは荒馬で暴れだしたら始末におえませんから」
「荒馬だと、わははははは」
ぐいと曳出した馬を見て、図書は腹を揺りながら笑った。
「荒馬などがなんだ。拙者は大阪道明寺口の合戦で、薄田隼人兼相を討取った……」
「ああそら、暴れだしたぞ」
鹿毛之介の右手がちらと動いた。馬は嘶《いなな》きながらぱっと桿立《さおだ》になった、不意を喰った図書は煽られたように横へのめる。
「危い! お、押えろ」
「お逃げなさい、蹴殺されますぞ」
「お、押えろ、押えて呉れ、あ、危い」
「早くお逃げなさい」
[#8字下げ]七[#「七」は中見出し]
図書は空濠の方へ逃げだしたので、斜面に足を取られてごろごろと転げ落ち、そのまま恐ろしい勢で疾風のように逃去って行った。
「ははははは御覧なさい、奔馬豪傑を走らすの図です。いや、逃足の早いこと」
「鹿毛之介さま」
萩枝はそんなことには眼も向けず、
「いまの言葉をお聞きなさいまして……?」
「なんです、いまの言葉とは」
鎮まった馬を引寄せ、平首を叩きながら鹿毛之介はけろりと振返った。
「わたくしを妻に娶るということですの、いいえ、出任せではございません、夏目さまは父にもそう申込んだ様子でございますわ」
「ほう、……してお父上は」
「父は、あの通り、すっかり夏目さま贔屓《びいき》でございますから、恐らく……」
「貴女の覚悟を拝見できるところですね」
鹿毛之介は静かに云った。
「貴女は秋田家の侍大将の娘だ。自分の覚悟さえ決っていればどんな困難に遭っても狼狽はしない筈、分っていますね」
「……はい」
「ひと言申上げるが、拙者は間もなく退身するかも知れません」
「まあ!」
「そらまた驚く!」
鹿毛之介は轡を持変えながら、
「そう詰らぬ事にすぐ驚くようでは、武士の妻になれませんぞ、……三春へ来た拙者の目的はもう果したのです、もう是以上留っている要がなくなりました、だから近く退身することになるでしょうが、そのときの、貴女の覚悟をしっかり決めて置いて下さい」
「鹿毛之介さま!」
「飛騨の山奥ですよ、……」
そう云って、鹿毛之介は馬を曳きつつ去って行った。
その翌々日のことであった。
三春城には水野日向守勝成の老臣、早瀬伝右衛門が客として到着した。
水野勝成は大阪以来秋田俊季と親交があり、今度勝成が郡山《こおりやま》六万石から備後福山十万石に移封されたので、その祝いの使者を遣わしたのへ、答礼として老臣早瀬伝右衛門を寄来したのである。
折も良し河内守俊季は夏目図書を召抱えたので、これを伝右衛門に見せて自慢をしようと、酒宴を設けながら直ぐ苅屋源太兵衛にその旨を命じ、更にまた、
――ただ目通りをするだけでは面白くないから、酒宴の庭前で試合をさせるよう、家中から然《しか》る可き者を選んで来い。
と申付けた。
源太兵衛はすぐ老臣たちと協議して、旗下の中から会田内膳という者を相手に選び、自分は屋敷へ図書を迎えに戻った。
愈《いよいよ》千五百石の豪傑の披露である。
しかも大阪で図書が陣場を借りた、水野家の使者の前で初の披露をするのだから、世話役たる源太兵衛すっかり張切っていた……するとその支度の最中に、馬頭鹿毛之介が是非お話し申上げたいことがあるからと面談を願い出た。
鹿毛之介には図書引抜きに助言されているので、今日の吉報も知らせてやろうと居間へ呼んだ。
「……御用中でございましたか」
「うん、今日は是から夏目殿の御前披露があるでの、時に話というのはなんじゃ」
「余り突然で不躾《ぶしつけ》かも知れませぬが」
鹿毛之介は無造作に云った。
「萩枝どのを妻に頂戴したいのです」
「な、……」
なにをと云おうとしたまま源太兵衛は舌が動かなくなった。そして鼻の穴が大きくふくらみ、呻くような太い鼻息を洩らすと、
「ばかな、ばかな、なにを云う」
と喚きだした。「萩枝は儂の秘蔵娘だ。遖れ天下の勇士豪傑に娶《めあわ》せようと丹精籠めて育てて来たのだ。一体、いや一体貴公はどれだけの人物か」
「どれだけの人物かと仰せられましても」
「いや、話が出たから聞かせるが、萩枝には夏目図書からも是非にと申込まれているのだ、それでも貴公は自分に呉れなどと大胆な言が云えるか」
「それは、夏目殿は天下の豪傑でございましょう、しかし拙者とても武士として夏目殿に後れを取らぬ覚悟はございます」
「そうかも知れぬ、ふむ」
源太兵衛は嘲るように云った。
「実際また貴公の方が夏目殿より強いかも知れんて、しかし……それだからと云って夏目図書が天下の夏目図書であり、貴公は唯の馬頭鹿毛之介ということに変りはあるまい」
[#8字下げ]八[#「八」は中見出し]
「なるほど、してみると大切なのは人ではなくてその名だということになりますな」
「武士は名こそ惜しけれ、当然のことだ」
だいぶ見当違いの譬《たとえ》だが、是は先日の鹿毛之介の譬に対して、巧まざる竹篦《しっぺ》返しになったから妙である。
「では致方がございません」
鹿毛之介は微笑しながら云った。
「もうこの上お願いは致しますまい、しかし念のために申上げますが、お旗頭は拙者の方が夏目殿より強いということを今お認めになったのですな」
「いや貴公の方が強いなどとは云わん、物の譬にだ」
「武士の一言は金鉄と申します。夏目図書殿は名だけで千五百石、扶持米取りの馬頭鹿毛之介にも及ばぬ名ばかりの豪傑……是は評判になりましょう」
「ばかなことを、そんな根もないことを貴公は触れ歩く気か」
「触れ歩かなくとも分ることは」
と鹿毛之介は座を立ちながら云った。「やがて萩枝どのを拙者が妻に申受けるという事実です。いや、どう仰有ろうと覚悟は決っているのですから、ただ念のために申上げて置くだけです」
「待て、待て、そんな無法なことを」
まるで気を呑まれた源太兵衛、本来なら言下に叱り飛ばせるべきものが、妙に圧倒されたかたちで語句が継げない、すると其処へ、
「ならんぞ鹿毛之介」
と喚きながら、すっかり支度の出来た夏目図書が入って来た。……いま、部屋を去ろうとしていた鹿毛之介が振返る、その鼻先へ大股に近寄りながら、
「萩枝どのの事はまあ措く、その方いま拙者を名ばかりの豪傑と申したの」
「お耳に入りましたか」
「扶持米取りの馬飼いよりも弱い、名だけの千五百石と申したの、……勇気のある奴だ、夏目図書のいる処でそれだけ云い切った者はない、褒《ほ》めてやるぞ」
「それは御親切な……」
鹿毛之介はにやりと笑った、……とたんに図書は真赤になって拳《こぶし》を挙げながら、
「苅屋氏、これから御前で家中の士と立合う相手、この鹿毛之介にして下されい、余の者では立合いませんぞ、この鹿毛之介を相手に真実いずれが強いかお眼にかける、頼みましたぞ」
まるで猛牛の咆えるような声であった。
当の図書の望みだし、源太兵衛に取っても失言の禍を断つ好機なので、直ぐ御殿へ上って老臣たちに計ったうえ、遂に御前試合は図書と鹿毛之介ということに決定した。
場所は新御殿の庭。
河内守俊季は侍女、近習と共に上座で、客の早瀬伝右衛門はやや下って、静かに酒宴を続けながら待兼ねている、……やがて身仕度をして二人が庭前へ式退した。
夏目図書は三尺二寸はあろうという無反《むそり》の木剣、鹿毛之介は二尺そこそこのものだ、……検分役として階下に蹲《うずくま》っているのは苅屋源太兵衛である。
式退が済むと、二人はあいだ二間ほど隔てて左右へ別れた。
分りきった事だが、当時の試合は素面素籠手の木剣だから、腕の一本や肋骨《あばらぼね》の一本ぐらいぶち折られるのは普通で、下手をすると致命に及ぶという荒っぽいものである、……みんな息を殺して見|戍《まも》るうちに、図書は木剣をさっ[#「さっ」に傍点]と大上段にふりあげながら、
「えーい」
第一声と共にじりりと出た。
鹿毛之介は動かない。
呼吸にして十二三、図書は第二声を放ちながら跳躍して打ちを入れた、満身の力を籠めた木剣を叩きつけるような体勢である、真面《まとも》に受けるべきものではない体を躱《かわ》すであろうと見たが、鹿毛之介は逆に踏出しざま、
「えいッ」
と初太刀で相手の木剣をはね上げ、二の太刀で肩を打つと共に二間あまり後ろへ跳退いた。
瞬《またた》く暇もない早業だ。
図書の木剣は遠い泉水の畔まで飛び、図書の巨体はへなへなとその場へ俯伏《うつぶ》せに倒れた。……御殿の上も下も、あっと眼を瞠《みは》ったまま暫くは声も出ない。
「……お旗頭」
鹿毛之介は御前に向って拝揖《はいゆう》すると、呆れている源太兵衛に、
「医者に診せておやりなさい、肩の骨は折れていようが死なずには済む筈です、御免」
そういって去ろうとした。その時、……今まで凝《じっ》と試合の様子を見ていた客の早瀬伝右衛門がつかつかと立って来て、
「お待ちあれ夏目氏」と声をかけて、
「早瀬伝右衛門でござる、よもやお見忘れはござるまいが」
××××
あの時ばかりは胆《きも》がでんぐり返ったとは、苅屋源太兵衛が後に告白したところである。単に源太兵衛だけではなく、恐らく列座の人々全部が胆を潰したに違いない。……なにしろ二年のあいだ源太兵衛の頼士として、些々たる扶持米を貰いながら黙々と馬の飼立てをやっていた彼が、実は天下諸侯の捜し求めていた夏目図書その人だったというのだから、これは驚くのが当然である。
鹿毛之介……ではない、真の図書は直ぐ主客の席へ召出された。
挨拶が済むか済まぬに、河内守は、「さりとは心憎い」と盃を与えながら、「仮名《かめい》を使って住込まずとも、名乗って参れば食禄に糸目はつけなかったものを、無論このまま当家へ随身して呉れるであろうな」
「恐れながらその儀は辞退仕ります」
図書は静かに笑って云った。
「早瀬氏にも御存じの如く、曽て大阪役の折にも日向守様(水野勝成)よりの御懇望を辞して世を隠れましたので、何方《いずかた》にも御随身は仕らぬ所存でございます。……元来」
と微笑を浮べながら、「泰平の今日、諸侯方が争って豪傑を求められるのは、深き理由もない見栄の如きもので、そのため騙《かた》り者の豪傑に高禄を与えるという結果にも及びます。御当家には素より御譜代の家臣方あり、幾十百年のあいだ御家のために身命を賭し、忠勤を励んだ人々でございます。それでも千石、千五百石という高禄を頂く御仁は尠《すく》のうございましょう。……如何に天下の豪傑と雖も、曽て御家になんの功なき者を、高禄にてお召抱え遊ばすというは譜代の御家臣を軽んずるも同様、恐れながら武将たる道とは存じ兼ねます」
そう云ってぎろりと見上げた図書の眼を、河内守は真面に受止めることは出来なかった。そして益々その人柄に惹付けられた様子で、
「……如何にも、いまの言葉は尤もだ、豪傑を抱えて飾物にしようとしたのは過であった。では改めて頼む、無禄、客分として当家に随身して呉れぬか」
「有難き仰せですがその儀も平に……」
「ではなんのために当家へ来たのだ、なんのために今日まで、変名して源太兵衛の許に身を寄せていたのか」
「御当地は名駒の産地、その飼立てにも独得の法ありと伺いましたので、それを学ぶためにまいりました。しかしどうやらその望みも果しましたし」と云って図書はにっ[#「にっ」に傍点]と笑った、
「……また他に又となき土産も出来ましたゆえ、一日も早く飛騨へ帰り、生涯を馬の飼立てに尽したいと存じます」
「又となき土産、……土産とはなんだ」
「……苅屋どの」
図書は振返って、静かに笑いながら云った。
「言上しても宜しゅうござろうな、萩枝どのを妻に頂戴してまいると」
底本:「武道小説集」実業之日本社
1973(昭和48)年1月20日 初版発行
1979(昭和54)年2月15日 新装第七刷発行(通算10版)
底本の親本:「講談倶楽部」
1940(昭和15)年10月号
初出:「講談倶楽部」
1940(昭和15)年10月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ