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津山の鬼吹雪
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津山の鬼吹雪
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)備後国《びんごのくに》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#疑問符感嘆符、1-8-77]
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[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
文化三年九月はじめのある日、備後国《びんごのくに》三原から尾道への途中に当る杖折峠の急坂を二人の浪人者がひょろひょろと登っていた。
片方は肥えているし、片方は又ひどく痩せた男であるが、落魄した風態といい気抜けのした足取りといい、両方とも疲れと飢えにすっかり参っている様子が分る、――そのうちにの八合目がかりへ来た時、遂に肥えた方がくたくたと其処へ腰を据えて了った。
「おい、せ、拙者はもう駄目だぞ」
「また始めたのか」
「今度こそ本当に駄目だ、もう是以上はひと足も歩けない」
「そんな事を云わずに元気を出せよ、もう其処に峠茶屋が見えている」
「いや、茶店が有ろうと飯屋があろうと、飲めも食えも出来る訳ではない、もう厭だ、拙者は此処で腹を切る」
そう云って肥えた男は差添の柄へ手をかけた。痩せた方は吃驚してその腕へ囓りついた。
「陣馬《じんば》、ば、馬鹿な事をするな」
「止めるな大河《おおかわ》、五年以来の惨めな浪々で、大抵の苦しさには慣れて来たが、この四五日の食わず飲まずには迚も耐えられぬ」
「そんな腹の減ったぐらいが何だ」
「貴公は痩せているからそう云うが、この苦しさは肥っている者でなければ分らんぞ。それに、――例え一時の凌ぎがついたところで、先の望みのない事は、五年来の経験でよく分っている、もう沢山だ、黙って腹を切らせて呉れ」
「待て、待て陣馬」
痩せた男は無理やり友達の手を引放した。
「貴公が腹を切るとまで覚悟をきめたのなら、改めて拙者から相談がある」
「もう宜い、妙策の種も尽した」
「まあ聞け、実のところ拙者も今度ばかりは参った。此処まで行詰れば尋常の手段では凌ぎはつかぬ、そこで考えたのだが、――なあ陣馬、貴公も死ぬと覚悟を決めたからには何でも出来るだろう。どうだ、思い切ってやってみる気はないか」
「何をやるのだ」
「つまり、ひと口に云えば山賊だ」
肥えた男はむくっと居直った。
「おい、大河、不思議だな、実は拙者もそれを考えていた、そして考えている事に気付いたから、恥しくなって腹を切ろうと思ったのだ」
「じゃやるか?」
「破れかぶれだ、こうなれば山賊でも追剥でも何でもするぞ。――だが大河、やるとしても町人百姓には決して手を出すまい、武士に限ると約束して呉れ」
「心得た、拙者も武士だ、約束をしよう」
二人は誇らかに頷き合った。
所謂『化政度』と云って、士道の最も弛廃した時代、一方には特権階級が奢侈淫楽の限を尽し、一方庶民階級には極度の貧困が襲いつつあった時代、更に無数の浪人たちが、事実上飢えに迫られて来た時代、――その時代の潮流に浮く二粒の泡にも似た、陣馬大助と大河治部とは、永年の飢渇に耐えられず、遂に武士として最後の盟を結んだのである。
盟は結んだものの、さて中々おいそれと事が運ぶ訳のものではない、丁度季節のことで旅人は少くなかったが、大抵は町人か百姓、女子供や托鉢僧という有様である。
「皮肉だな、諸国を浪々していると何処《どこ》も彼処《かしこ》も武士だらけで、息の詰まるような気持だったが、こうやって見ていると矢張り武士より町人百姓の方が多いぞ」
「全くだ、うっかりすると武士の来ない内に此方が飢え死にをして了うかも知れぬ」
初めの約束がそろそろ危くなりかかった時、峠道を一人の武士が登って来た。年の頃四十二三、筋骨の逞しい口髭を立てた、身妝《みなり》も立派な男である。
「おい来たぞ?」
「うん……」
陣馬も大河もさっと顔色が変った。
「き、貴公やるか」
「いや、こういう事は押出しが肝心だ、貴公は体もでっぷりとして重々しいから、先ず一番槍は貴公に譲ろう」
「そんな、その、肥っていると云ったところで」
「頼む、早くしないと逃して了うぞ、あとで鱈腹やれるんだ、頑張れ陣馬」
とんと押されて、陣馬大助はひょろひょろと武士の前へよろめき出た。
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
旅の武士は足を停めてじろりと見た。大助は危く踏止まると、相手の鋭い視線にぶっつかってひやりとしながら、半ば夢中で、
「ま、待たれい」
と声をかけた。相手は立停まったまま眤《じっ》と睨んでいる、力のある圧倒的な眼光だ、――大助は思わずぺこりと低頭した。
「何か御用か?」
「いや、その、あれでござる」
唇がわなわなと震えた。
「――?」
「それ、あの、う……大阪へはどう参ったら宜しゅうござろうか?」
「大阪は此の道を東へ東へと参る」
「はあ、東へ東へ――?」
「左様、東へ東へと参る」
云い捨てて旅の武士は峠を登って行った。
陣馬大助は茫然とその後姿を見送っていたが、ふと気がつくと膝頭は音のするほどがくがく震えているし、背筋から脇の下へかけて流れるような汗だった。
「どうしたのだ陣馬!」
大河治部はいまいましそうに呶鳴った。
「覚悟の程にも似合わぬ、この必死の場合に大阪へはどう参る……馬鹿々々しい、なんだってまた大阪へ行く道などを訊くんだ」
「そう云うがな大河、こいつは考えたほど楽な仕事じゃないぞ、なにか用かと云われた時には言句に詰った。――まさか手前は山賊でござるとも云えまいし、大体あの場合なんと云ったら宜いのだ?」
「教えてやるから見て居れ」
大河治部が顎をしゃくった。――見ると峠の上から、武家者と見える旅姿の娘が、老僕を供にして下りて来る。
「おい、おい、女をやるのか」
「仕方がない、選り好みをしているうちには此方が餓え死んで了う。見ていろ」
決然として治部は道へ出て行った。
娘と老僕は秋の山路を楽しむように、流れる雲、遠い山脈《やまなみ》を眺めながら、足も軽々と坂を下りて来る、――治部は一二間やり過しておいて、ぎらり大剣を抜きながら、
「これこれ、暫く待て!」
と声をかけた。娘と従者は足を停めて振返ったが、治部の姿を見るとさっと色を変え、老僕は娘を背に庇いながら、
「こ、是は――、何ぞ、御用で、……」
「用は云わずとも知れていよう、浪々の身上で難渋する者だ、所持金残らず置いて行けば宜し、四の五申すと斬って捨てるぞ」
「ばかな、ばかな事を云わっしゃるな、私共も宮島へ参詣の戻り道、お金などは」
「黙れ、身ぐるみ脱げと申すところだが、娘と見てそれだけは許してやるのだ」
「そんな無法な」
「うぬ、斬って取るぞ!」
治部が大声で喚いて踏出した時、不意にどこからか礫が飛んで来てばらばらと治部の面へ当った、あっと叫んで思わずたじろぐ、――と、坂を駈け登って来た一人の若い武士が
「早くお逃げなさい、早く!」
と叫んで、娘と老僕を押しやり、立直って来る治部の前へぐいと立塞がった。――治部は思わず一歩退って相手を見た、まだ若い男で年は二十四五、痩形の長身で眼鼻だちの冴えたすばらしい美男である。(後に軍学者で一代の兵法家、子竜《しりょう》平山行蔵がこの男を評して、「三百石でも安い男振」と云ったほどずばぬけた美男だった)
治部は勇気を盛返した。なんだ女みたいなにやけ男め、こんな奴のために折角の仕事を邪魔されたかと思うと、
「うぬ、貴様、そこ動くな」
と怒声をあげて斬りつけた。
「あ、危い、待たれい」
若侍はひらりと横へ跳ぶと、
「危い、どうか、命ばかりはお助け」
「ええ動くな、斬って呉れる」
「そう云わずに御勘弁、あ、危い」
遮二無二斬りたてる治部の太刀尖を、若侍は怖ろしそうに逃げ廻る、――いやその素早いこと、連日の飢えと疲労に、すっかり体の参っている治部は忽ちへたばって、道の上へ尻餅をつきながら悲鳴をあげた。
「おい、じ、陣馬、貴様なにをぼんやり見ているんだ、来て此奴を、此奴を……」
「駄目だ、沢山だ」
陣馬大助は弱々しく頭を振った。
「そんな蝶々みたいな奴を追い廻すくらいなら、拙者は腹を切る方が楽だ」
「畜生、大河治部の天運も尽きたか」
そう云って治部はおろおろと泣きだした。――若侍は少し離れた所から此の様を見ていたが、もう危険は無いと思ったか、静かに近寄って来て、
「失礼ながら、――」
と声をかけた。
「御両所とも大分お弱りの様子でござるな」
「み、三日も、飲まず食わずでいれば、大抵の人間は、弱るのが当り前だ」
「では貧ゆえの山賊でござるか」
「誰が好き好んで、こんな浅間しい事をするものか、今日まで散々労苦を舐め、どたん場に及んで二進《にっち》も三進《さっち》も行かず、――い、今のが仕事始めだ、それを、き、貴様が」
「そうであったか」
若侍は美しい眉を顰めて、
「それはお気の毒、と申し度いが山賊にまで落ちずとも生きる道はござろう、お邪魔をした詫び――と云うのも失礼ながら、些《いささ》か手前に思案がござる、兎も角その辺で食事でも参りながら御相談を仕ろう」
「え? しょ、食事、食事を※[#疑問符感嘆符、1-8-77]」
陣馬大助が眼の色を変えて立上った。
[#8字下げ]三[#「三」は中見出し]
阿部能登守十一万石の城下、福山の西下屋敷町に『一放流剣道指南梶原庄右衛門』と看板を掲げた兵法道場がある。前の日から二日めの昼まえ、この道場を訪れた三人伴れの浪人があった――云うまでもなく陣馬大助、大河治部、それに秋津男之助《あきつおとこのすけ》と名乗る例の奇妙な若侍である。
「では宜しゅうござるか、是から先日お話し申した新手《あらて》の道場破り、食いはぐれのない戦術を御覧に入れるから貴殿方は門弟のつもりでお願い申しますぞ」
男之助が念を押した。
「仕方がない、約束だからそのつもりでやってみよう」
「然し大丈夫だろうな」
「まあ御覧下さい」
男之助は玄関へかかって案内を乞うた。――それからが大変だった、取次の者が出て来ると、体に似合わぬ大音声で滔々と、
「拙者ことは天涯無禄の浪士にて秋津男之助と申す。幼より兵法を精研し、天真正伝神道流に発して鞍馬八流を究め、それより神陰流一刀流、鐘捲流、小野派忠也派、諏訪流、涼天覚清流等、凡そ剣の道として学ばざるなく、また学んで秘奥を極めざるはなく、全国を遍歴すること七年有半、此の間試合を挑むこと一千二百余回、一度として敗を取りたる例なき者でござる。当国に梶原先生ありと承わり、道次を枉げて参上仕った、願わくばひと手お立合下さるよう、右宜しく御披露のほど頼み入る」
「……はあ、――」
取次の者は驚いて奥へとんで行ったが、陣馬、大河の二人も呆れて眼を剥いた。
「おい、あんな大法螺を吹いて宜いのか」
「見ていれば分りますよ」
「然しあんな法螺に恐れて例え十文の草鞋銭でも出すような好人物はもう居らんぞ」
「なに、奥の手は是からです」
男之助は平気なものである。――陣馬も大河も「こいつ迂濶りすると酷い目に遭うぞ」と思って急に怯気づいたが、そこへ取次が戻って来たので逃げ出す訳にもゆかず、薄氷を踏む思いで道場へ通った。
道場には三十人あまりの門弟たちがいて、この並外れた三人伴れの武芸者を前に、好奇の眼を見交しながら隅の方へかたまった。――出て来た主人の梶原庄右衛門というのは、四十そこそこの逞しい体つきで、眼鼻の大きい唇の厚い、精悍そのもののような面魂を持っていた。
「初めにお断り申すが」
挨拶が済むと直ぐ男之助が云った。
「拙者流儀の掟として、他流試合には御師範と直《じか》にお手合せを願わねばなりません。世間には未熟な師範がいて自分の腕を知らるるが厭さに、門弟などを出してごまかす人物が屡々居ります。むろん当道場などはそんな」
「承知した、手前直ぐにお相手仕る」
梶原庄右衛門は憤然と相手の言葉を遮って起った。――と、男之助は静かに笑みを含みながら、
「それから道具でござるが、面《めん》籠手《こて》を着けた竹刀剣術では真の腕は知れぬもの、素面素籠手に木剣で致し度いが如何であろう」
「望むところだ!」
庄右衛門は吐出すように喚いた。
他流試合でも素面素籠手に木剣などを使ったのは寛永頃までの事で、是ではひどく怪我をするし、死者の出る例も少くないところから、後には法度《はっと》にさえなったくらいである、――それをこの歌舞伎役者のような男が自ら望んだのだから驚いた。陣馬大助は顔色を変えて、
「おい大河、あいつ[#「あいつ」に傍点]奴《め》、新手《あらて》の道場破りを教えるなどと云っていたが、気が狂っているに相違ない、是は大変な事になったぞ」
「己達はどういう事になるだろう」
「梶原先生すっかり怒っているから、あいつ[#「あいつ」に傍点]は打殺されるに違いない、我々も唯じゃ済まんな是は」
「いまのうちに逃げるか」
「いや、門人達が逃がすまいよ」
二人はごくりと生唾をのんだ。
このあいだに庄右衛門と男之助は、手早く身仕度をして木剣を執り、会釈を交してさっと左右に離れた。
両者の間、凡そ二間、相青眼につけて呼吸を計った、――庄右衛門は一撃の下に打据えて呉れようと、満面に敵意と怒気を漲らせている。それに反して男之助の方は唇辺に微笑さえうかべ、木剣を持つ拳も軽く、女のような優しい澄んだ眸子で相手を見ていた。
「えーイッ」
卒如として男之助が第一声を放った。道場の四壁を劈《つんざ》いたかと思われるような、力の溢れた凄い気合である、――同時に庄右衛門はさっと一間ばかり跳退いた。顔面が蒼白になって、眼光俄に殺気を帯びて来たと思うと、爪摺りにじりじりと間を縮める。
「えイッ、やあッ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
と叩きつけるような気合――けれど男之助は微動もしなかった。庄右衛門はそれ以上進まず、男之助も石像のように黙したままである、道場は一瞬墓地のような静かさに包まれた。……一撃の下に打殺されると思っていたのに、なんだか様子が変なので、一同が我知らず膝を乗出す、刹那! 男之助がひらりと後へ跳退って、
「参ったァ!」
と叫びながら木剣を控えた。
[#8字下げ]四[#「四」は中見出し]
「いや遖《あっぱ》れお見事の御腕前!」
男之助は大声で云った。
「廻国七年有半、曽て後《おくれ》を取った例なき秋津男之助、今日初めて真の達人に会い申した、失礼ながら貴殿ほどの御仁は、天下広しと雖も江戸に於ては戸ヶ崎熊太郎、尾州家の鈴木斧八郎、真陰流の赤石軍次兵衛、これらを措いて他に匹敵する剣士はござるまい、願わくは今日より拙者も、門下として御教導に与りたく存ずるが」
「いやいやその辞儀では痛み入る」
庄右衛門は額の汗を拭きながら、「お若いに似合わぬ御練達、拙者も些か勉強を仕った、兎に角席を改めて一盞献じ申そう」
そう云って身支度を解いた。
それから奥へ招じられて酒肴が出る。久し振りの馳走に有りついて、陣馬も大河も心ゆくまで呑み、且つ食った。そのあいだにも男之助は盛んに庄右衛門を褒める、なにしろ門弟連のいる前で天下の名人達と肩を並べて褒められるのだから、庄右衛門はずんと気を好くしたらしいが、どこやら無気味でもあるらしかった。――二刻あまりして別れを告げる
「些少ながら御餞別に」
と云って包んだ物を差出した。
道場を出て四五丁行くあいだ、陣馬と大河は歯を食いしばって笑いを耐えていたが、もう大丈夫と思うといきなり、満腹の腹を抱えて爆笑を始めた。
「わはははは、あはははは」
「いやどうも、驚いた奴だな貴公、あんな手が有ろうとは気がつかなかったぞ、大した奴だ、呆れたものだ」
「褒めも褒めたり天下の名人とは、や、あの梶原先生の嬉しそうだった事、わははははは」
「時に、――幾ら入っている?」
男之助は黙って紙包をわたした、――大河治部が開いて見ると、
「や、十、十両、――十両あるぞ」
「ほ、ほ、ほ、本当か、どれ見せろ。――や本当だ、小判で十両!」
一両あれば高い時でも米が四斗ほど買えた時代の十両である。二人は眼を剥出して愕いた。
「山賊よりは楽でしょう? 如何」
男之助は事もなげに笑った。
福山でもう一軒、無念流の岡村金十郎という道場を訪れ、此処でも全く同じ手を用いて是は五両になった。一日に十五両、――その夜は神辺《かんなべ》の町に泊って明る日は備中《びっちゅう》岡田藩へ向う、とその途中、山陽道と道の分れる所へさしかかった時、陣馬と大河の二人が、
「秋津公ちょっと待って呉れ」
と立停った。
「何でござるか」
「実は此処で我々は別れたいのだが」
「それは又どうして」
「二人して貴公の脛を噛るのも気の毒だし、お蔭で道場破りの新手も覚えたから、我々もひとつ貴公に模《なら》ってやって行こうと思う」
「――正直だな貴殿方は」
男之助はにっと微笑して、
「だがそれは難しい、何故と云って此の手には一種のこつ[#「こつ」に傍点]があるので、そう容易《たや》く誰にでも出来る訳ではござらぬ、悪いことは云わぬから」
「いや大丈夫!」
陣馬大助は自信たっぷりに頷いて、
「初めに天下の大豪傑と名乗って驚かし、堂々と木剣試合を望んで胆を抜き、いざという場合に参ったと声をかけ、門弟達の前で褒めたてる、――つまり是だけの順序ではないか」
「陣馬の云う通り、実は昨夜の宿ですっかり相談したのだ、どうか此処で別れさせて呉れ」
「そうか」
男之助は頷いて云った。
「それでは気儘にするが宜い、拙者は是から十日の予定で美作国《みまさかのくに》の津山へ参る、また折もあらば会うとしよう」
「宜かろう、今度会う時は我々も大名旅行だ」
「たっぷり返礼の馳走をするぞ」
「どうかそう頼む、――では御健固で」
会釈を交して左右へ別れた。
この奇妙な男、平山行蔵をして『三百石でも安い』と讃歎せしめた男振り、歌舞伎役者にも無い美丈夫は誰であるか、また、――新手《あらて》の道場破りと云っている妙な試合は、果してただ金を得る目的だけのものか是等のことは次の章で明かになるだろう。
[#8字下げ]五[#「五」は中見出し]
岡田藩から浅尾、松山と巡って、板倉から美作国に入った秋津男之助は、九月半ばのある日、松平十万石の城下津山の街に草鞋を脱いだ。――その夜夕食の時、給仕に出た宿の婢が、男之助の様子を見ながら、
「お武家様も武術御修行でいらっしゃいますか」
「――そう見えるか?」
「あんまりお綺麗なので、初めは歌舞伎芝居の役者衆かと存じましたが、先程お風呂へ入っておいでなさるところを拝見して……」
「呆れたのか?」
「いいえ、女のようなお肌でぞっと致しました、ほほほほ」
婢は給仕盆で笑いを隠しながら、「でも、幾らお綺麗でもお武家様のお体は違いますわ、直ぐ御修行のお方だと分りますもの」
「当地へも武術修行者が来るとみえるな」
「武術修行やら、恋修行やら」
「なんだ、恋修行とは?」
「あら、御承知のくせに、――貴方様も村瀬様の道場を訪ねていらしったのでございましょう。なにしろ村瀬道場のお嬢さまは、津山の赫夜姫《かぐやひめ》と云われて中国一円から京大阪にまで評判のお方、津山へいらっしゃる御修行のお武家様方が、みんなお目当に遊ばすのも当り前でございますわ」
婢の饒舌に恐れをなした男之助は、早々に食事を切上げて寝床の支度を命じた。
明る日はすっきりと晴れた秋日和で、山国の冷やりした風も肌に快よく、国境の山脈の上には、白い千切れ雲が静かに東へ東へと流れていた。――宿を出た男之助は、先ず津山城を大手から見物して、武家屋敷の方へ廻ろうと、川端町をやって来ると、或る屋敷裏の草原から、いきなり、
「秋津氏、秋津氏――――ッ」
と叫びながら跳出して来たものがある、こんな所に知己はないがと思って振返ると、此方へよろめきよろめき走って来る浪人体の男が二人、――見るまでもなく男之助は、
「やあ、陣馬に大河の御両所」
「有難い、有難い、地獄で仏だ」
と喘ぎながら近寄ったのは、正に陣馬大助に大河治部の二人であった。然し驚いた事には、あれほど意気込んで別れた彼等が、杖折峠で会った時より幾層倍もひどい恰好をしている、乞食のようなと云いたいが、そう云ったら乞食から文句が出ようという姿だ。
男之助は笑って、
「どうだ新手《あらて》の道場破りは? 今度会ったら返礼に馳走して呉れる約束だったが、早速どこかで一盞頂こうか」
「冗談を云っている場合じゃない、直ぐに何か喰べさせて呉れ、今日までまる三日というもの、水ばかり飲んで貴公の来るのを待っていたのだ」
「頼む、どうか直ぐに頼む、でないと……」
男之助は笑いながら道を引返した。
それから間もなく、伯耆《ほうき》街道への立場《たてば》茶屋で、陣場に大河は酒と飯とを一緒に詰込みながら、男之助へ失敗談を語っていた。
「あの時貴公はこつ[#「こつ」に傍点]があると云ったが、実際なにか余程の口伝《くでん》があるんだな。なにしろ此方は道場の主を煽てるのが目的なのに、我々ではどうもおいそれと主が出て呉れない、先ず門人と立合うか、でなければお断わりだと来る」
「仕方がないから始め二三軒は先ず門人とやってみたがいけない、永の浪人で体が参っているから本当に負けて了う」
「門人に負けたってお世辞にならんからな」
「是はいかんと思ったので、その後はひた押しに頑張って道場の主と立合うことに決めたが、さて又こいつが難かしい、初めの時には『参った』と云う暇もなく打込まれた」
「その次の道場では拙者がなんでも是は早く負けを名乗るに限ると思って、位取《くらいど》りをするが否や『参った』とやった、ところが其の時、相手がまだ身構えもしていなかったので、門人たちが遠慮もなく失笑しやがった」
「はははははは」
男之助も堪らず肩をゆすって笑いだした――。話すほどに食うほどに、やがて二人は曖《おくび》が出るまで満腹し、酔った。
「さて秋津氏、こうなったら何処までも貴公に付いて行くつもりだが、まさか厭とは申されまいな、尤も我々は無理にも離れぬ覚悟だが」
「宜いとも、旅は道伴れと云う、来給え」
「それで全く生返った」
二人は言葉通り甦った顔色である。
「で、――是からどうする」
「正月までに江戸へ帰るのだが、殊に依ると此の土地に暫く滞在するかも知れぬ、今日はこれから村瀬という道場へ参るのだ」
「また例の口か?」
「ははははは、そうかも知れぬ」
笑いながら男之助は立上った。――勘定を済まして其処を出た三人は道を尋ねながら村瀬道場へ向った。
「だがどうも不思議だよ」
陣馬が首を捻って、「あんな簡単な『参った戦術』が、貴公に出来て我々に出来んというのは腑に落ちぬ」
「見ているうちには、やがて貴公らにも得心が参るであろうよ」
男之助は事もなげに微笑していた。
[#8字下げ]六[#「六」は中見出し]
村瀬騎兵衛の道場は御蔵屋敷のはずれにあった、藩公から扶持されているだけに構えも堂々としていたが、稽古休みででもあるか、竹刀の音はしていなかった。――男之助を先に、玄関へかかろうとすると、右手の庭口の方から一人の娘が出て来てばったり行会った。
ちらと眼を合せたとたんに、男之助は思わず眼を瞠った。――彼はもともと自分の男振りなど気にした事もなく、大抵の美人に会っても眼を惹かれた例など無い方だったが、その娘の美しさには驚いた。それはただ美しいというだけでなく、気高さと優美とを兼ねて輝くばかりに思われた。
――是が津山の赫夜姫《かぐやひめ》だな。
そう思い、そして、『赫夜姫とはいみじくも呼んだり』と思った。娘の方でも男之助の秀でた美男振りを見て、はっと眼の縁を染めたが行過ぎようとしたが、何を思ったかふと二三歩戻って、
「あの、失礼でございますが」
と声をかけた。
「は、――?」
「違いましたらお許し遊ばせ。もしや貴方さまは備後《びんご》の杖折峠で、賊に襲われていたところをお救い下された方ではいらっしゃいませぬか?」
男之助はあっ[#「あっ」に傍点]と云った。
「では貴女があの折の……」
「はい、その折の者でござります、矢張り貴方さまでございましたか」
「是は、実に、奇遇な」
正に奇遇である、杖折峠で陣馬、大河の俄山賊に襲われていた老僕伴れの娘、あの時は咄嗟の場合で此方は顔を見る暇もなかったが、娘の方では彼を覚えていたのである。――男之助と娘が互いに頬を染めながら、慕わしそうに礼やら挨拶やら取交している、――その側で、いや陣馬、大河のてれ[#「てれ」に傍点]まい事か、男之助の背を突つきながら、消えも入りたげに外向いていた。
「実は先生を訪ねて参ったのですが、御在宅でございましょうか」
「それは生憎でございました、父は早朝から御門人衆を伴れて、城山へ野馳け試合を催しに出て居ります、でも……もう帰る頃でございますからどうぞお待ち遊ばして」
「いや、それでは又出直して――」
と云っているところへ、どかどかと十四五名の浪人者達が玄関へ踏込んで来た。――見るといずれもひと癖あり気な面魂で、身妝《みなり》も悪く、ばか長い無反《むぞり》の大剣をさしたのや、樫の六尺棒を持ったのや種々雑多で、この頃流行の徒党を組んで押歩く悪浪人の群だということは誰の目にも直ぐ分った。
「やあ、いるぞいるぞ」
浪人達の中から、娘を見つけた奴が胴間声をあげた。
「おい見ろ、これが評判の活弁天楊貴妃、津山の赫夜姫《かぐやひめ》さまだ、みんな寄って拝み奉れ」
「なるほど美形だな、どれどれ」
卑しげに眼を光らせながら、遠慮もなく娘を取巻こうとした。男之助は静かにその前へ立塞がって、
「失礼ながら御用の趣は?」
と訊いた。すると仲間の頭らしい六尺棒を持った奴が、ぬっと髭面をつき出して、
「御用だと、貴様はなん[#「なん」に傍点]だ?」
「――当家の門人でござる」
「ふん、そんな生白いにやけた面で武芸をやるのか、己はまた男の小間使いかと思ったぞ、門人なら道場の主に取次げ、天下の浪人大横田左馬介が『微塵組』の同志十五名と共に参った、評判娘の赫夜姫《かぐやひめ》を賭けて、ひと勝負申込むと、――分ったか。それから断って置くが、我々はいずれも鞍馬八流から一刀流、自源流、諏訪流、凡ゆる流派を極めた腕揃いだ、関東、京阪、中国、武芸者という武芸者を微塵に打挫いで来た、微塵組の名の由来するところだと、よくそう申すのだ」
「ふふふふこいつは拙者の上手《うわて》だ」
男之助は思わず失笑した。
「な、何を笑う」
「いや、折角でござるが、今日は先生はじめ重なる門弟は他出中でござる、残念ながら後日改めて」
「云うな云うな、その手は食わんぞ」
大横田浪人喚きたてた、「此方が強いと見れば居留守を使う、そんな甘手に乗る我等ではない、早く取次がぬと踏込むぞ」
「それより、我々を恐れるのは腕前未熟のためであろう、さすれば勝負は勝ちも同様だからその赫夜姫を貰って行く方が早かろう」
「うん、頑州《がんしゅう》め旨い事を申すな」
大横田はにたりと笑って、
「その方がいっそ手数が省ける、さあ若造そこを退け、賭け試合の代物を受取ってやるぞ、退かぬか」
「それは困る」
男之助は弱々しく云った。
[#8字下げ]七[#「七」は中見出し]
「気持の悪い声を出すな、困ろうと困るまいと此方の知った事でははない」
「いや其方が困るので……」
「なんだと※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
男之助は振返って、
「陣馬さん、この人達の噂を知っているか」
「し、知っている」
陣馬大助は隅の方から蒼い顔で答えた。
「知っている、秋津氏。手出しをしない方が宜い、殺されて了うぞ」
「へえーそんなに強いか」
「中国筋で評判だ、他流試合と云って何人打殺されたか知れない、黙っている方が宜い、黙って」
「そいつは怖いな」
男之助がにっと微笑した時、
「此奴、人を嘲弄するかッ」
喚いて、頑州《がんしゅう》と呼ばれた男がいきなり横から殴りかかった。――娘はあっ[#「あっ」に傍点]と悲鳴をあげたが、男之助は躱しもせず、
「や、気の早い」
と素早く相手の腕を取って逆に捻上げる、ぼきっ[#「ぼきっ」に傍点]と骨のへし折れる無気味な音がして、
「ぎゃ!」
と喉を鳴らしながら頑州の体は二三間右へけし飛んだ。陣馬、大河の二人は仰天して眼を剥出した。然し本当に吃驚したのはそれから後の事である。
「ああ悪い事をした、腕を折って了った」
男之助が気の毒そうに云う、刹那! 大横田が一歩ひらいて、物をも云わず六尺棒を発止とばかり打込んだ。とたんに男之助の姿が見えなくなった。
「おや?」
陣馬と大河が呟く、と、取巻いていた浪人の群が蜂の巣を突いたように破れて、右の端へちらと男之助の体が見えた。そして次の瞬間には左手へ、まるで光のような素早さで縦横に隠見する、その度に、骨を打砕く凄まじい音がして、三人五人と見る見る浪人達は打斃されて行った。――正に鬼神の技である。
「鎮まれ、鎮まれーッ」
大音に叫ぶ声がした、はっとして見ると、五十人余りの若侍を指揮して、五十歳前後の武士が、この騒動を囲むように、道の上下を犇々《ひしひし》と固めていた。――争闘の群も思わず手を控えたが、それと見ていきなり娘が走寄った。
「父上さま」
「おお百代《ももよ》、是はどうした事だ」
「狂犬狩りでござる、村瀬氏!」
男之助が声をかけた、――村瀬騎兵衛が振返って見る、いつか大横田から奪い取ったらしい六尺棒を持って、冴えた笑いを見せている男之助のすばらしい美丈夫振り。
「そう申される貴殿は――?」
「父上さま」
側から娘が「いつぞや宮島詣での戻りに、杖折峠で危いところを救って頂いたお方でござります」
「おお、あの時の御仁か」
「今日もまた偶然父上を訪ねていらしったところへ、あの浪人たちが来て、既に乱暴をされようとしたのを」
と手短に仔細を語る。――うまく行ったら他流試合に事を托して、云いぬけた上、幾らかにしようと思っていた浪人たちの残りの七八名は、この様子ではとても逃れぬと見たか、
「ええ、此奴を道伴れにいずれも死ね」
喚きざま、猛然と男之助へ斬りつけた。
「あれッ父上さま」
娘が叫ぶ、騎兵衛も出ようとしたが、その暇はなかった。体を開いた男之助、
「え、やあーッ」
耳を劈《つんざ》く掛声と共に、六尺棒が一閃、二閃、風を截って飛ぶよと見るや、額を割られ、肋骨を折られて、瞬く間に五人を打伏せる、――余りの凄まじさに、残った三人がばらばらと逃出したが、どっこい、道を塞いでいた門人たちのために、忽ち其処へ取詰められて了った。
「わあーっ」
とあがる門人たちの歓声。陣馬大助と大河治部も狂喜して駈寄りながら、
「分ったぞ、分ったぞ秋津氏」
と喚きたてた、「新手《あらて》の道場破り、口伝《くでん》のこつ[#「こつ」に傍点]というのは、つまり此方が本当に強かったのじゃないか」
「猾《ずる》いぞ猾いぞ。そうだ、此方がずばぬけて強く、しかも負けてやった上に天下の名人だなんて褒めるのだ。是では我々が失敗するのも当り前だ、そうとは知らなかったぞ」
「ははははは、だから云ったではないか」
男之助は冴え冴えと笑って云った。
「いまに貴公たちにも得心が参るとな、分ってみれば雑作のない話、今度は貴公たちも成功するに違いない」
「ちえっ、それを云うな」
陣馬と大河は首を縮めて、然し心から嬉しく、頼母しそうに男之助の顔を見上げるのだった。
秋津男之助、本名は吹雪代三郎《ふぶきだいざぶろう》、後に算得《さんとく》と改めた。江戸神田小川町の櫛淵弥兵衛(神道一心流の達人で一橋家の師範役)門下随一の達者と呼ばれた剣豪である、――此の時の事件が縁となって、彼は間もなく津山公に召抱えられ、村瀬騎兵衛の娘を妻にし、津山藩に永く『鬼の吹雪算得』の名を残した。……陣馬、大河の二人がどうなったか、それは伝わっていない。
底本:「幕末小説集」実業之日本社
1975(昭和50)年1月10日 初版発行
1979(昭和54)年2月15日 五版発行
底本の親本:「キング」
1938(昭和13)年12月号
初出:「キング」
1938(昭和13)年12月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)備後国《びんごのくに》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#疑問符感嘆符、1-8-77]
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[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
文化三年九月はじめのある日、備後国《びんごのくに》三原から尾道への途中に当る杖折峠の急坂を二人の浪人者がひょろひょろと登っていた。
片方は肥えているし、片方は又ひどく痩せた男であるが、落魄した風態といい気抜けのした足取りといい、両方とも疲れと飢えにすっかり参っている様子が分る、――そのうちにの八合目がかりへ来た時、遂に肥えた方がくたくたと其処へ腰を据えて了った。
「おい、せ、拙者はもう駄目だぞ」
「また始めたのか」
「今度こそ本当に駄目だ、もう是以上はひと足も歩けない」
「そんな事を云わずに元気を出せよ、もう其処に峠茶屋が見えている」
「いや、茶店が有ろうと飯屋があろうと、飲めも食えも出来る訳ではない、もう厭だ、拙者は此処で腹を切る」
そう云って肥えた男は差添の柄へ手をかけた。痩せた方は吃驚してその腕へ囓りついた。
「陣馬《じんば》、ば、馬鹿な事をするな」
「止めるな大河《おおかわ》、五年以来の惨めな浪々で、大抵の苦しさには慣れて来たが、この四五日の食わず飲まずには迚も耐えられぬ」
「そんな腹の減ったぐらいが何だ」
「貴公は痩せているからそう云うが、この苦しさは肥っている者でなければ分らんぞ。それに、――例え一時の凌ぎがついたところで、先の望みのない事は、五年来の経験でよく分っている、もう沢山だ、黙って腹を切らせて呉れ」
「待て、待て陣馬」
痩せた男は無理やり友達の手を引放した。
「貴公が腹を切るとまで覚悟をきめたのなら、改めて拙者から相談がある」
「もう宜い、妙策の種も尽した」
「まあ聞け、実のところ拙者も今度ばかりは参った。此処まで行詰れば尋常の手段では凌ぎはつかぬ、そこで考えたのだが、――なあ陣馬、貴公も死ぬと覚悟を決めたからには何でも出来るだろう。どうだ、思い切ってやってみる気はないか」
「何をやるのだ」
「つまり、ひと口に云えば山賊だ」
肥えた男はむくっと居直った。
「おい、大河、不思議だな、実は拙者もそれを考えていた、そして考えている事に気付いたから、恥しくなって腹を切ろうと思ったのだ」
「じゃやるか?」
「破れかぶれだ、こうなれば山賊でも追剥でも何でもするぞ。――だが大河、やるとしても町人百姓には決して手を出すまい、武士に限ると約束して呉れ」
「心得た、拙者も武士だ、約束をしよう」
二人は誇らかに頷き合った。
所謂『化政度』と云って、士道の最も弛廃した時代、一方には特権階級が奢侈淫楽の限を尽し、一方庶民階級には極度の貧困が襲いつつあった時代、更に無数の浪人たちが、事実上飢えに迫られて来た時代、――その時代の潮流に浮く二粒の泡にも似た、陣馬大助と大河治部とは、永年の飢渇に耐えられず、遂に武士として最後の盟を結んだのである。
盟は結んだものの、さて中々おいそれと事が運ぶ訳のものではない、丁度季節のことで旅人は少くなかったが、大抵は町人か百姓、女子供や托鉢僧という有様である。
「皮肉だな、諸国を浪々していると何処《どこ》も彼処《かしこ》も武士だらけで、息の詰まるような気持だったが、こうやって見ていると矢張り武士より町人百姓の方が多いぞ」
「全くだ、うっかりすると武士の来ない内に此方が飢え死にをして了うかも知れぬ」
初めの約束がそろそろ危くなりかかった時、峠道を一人の武士が登って来た。年の頃四十二三、筋骨の逞しい口髭を立てた、身妝《みなり》も立派な男である。
「おい来たぞ?」
「うん……」
陣馬も大河もさっと顔色が変った。
「き、貴公やるか」
「いや、こういう事は押出しが肝心だ、貴公は体もでっぷりとして重々しいから、先ず一番槍は貴公に譲ろう」
「そんな、その、肥っていると云ったところで」
「頼む、早くしないと逃して了うぞ、あとで鱈腹やれるんだ、頑張れ陣馬」
とんと押されて、陣馬大助はひょろひょろと武士の前へよろめき出た。
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
旅の武士は足を停めてじろりと見た。大助は危く踏止まると、相手の鋭い視線にぶっつかってひやりとしながら、半ば夢中で、
「ま、待たれい」
と声をかけた。相手は立停まったまま眤《じっ》と睨んでいる、力のある圧倒的な眼光だ、――大助は思わずぺこりと低頭した。
「何か御用か?」
「いや、その、あれでござる」
唇がわなわなと震えた。
「――?」
「それ、あの、う……大阪へはどう参ったら宜しゅうござろうか?」
「大阪は此の道を東へ東へと参る」
「はあ、東へ東へ――?」
「左様、東へ東へと参る」
云い捨てて旅の武士は峠を登って行った。
陣馬大助は茫然とその後姿を見送っていたが、ふと気がつくと膝頭は音のするほどがくがく震えているし、背筋から脇の下へかけて流れるような汗だった。
「どうしたのだ陣馬!」
大河治部はいまいましそうに呶鳴った。
「覚悟の程にも似合わぬ、この必死の場合に大阪へはどう参る……馬鹿々々しい、なんだってまた大阪へ行く道などを訊くんだ」
「そう云うがな大河、こいつは考えたほど楽な仕事じゃないぞ、なにか用かと云われた時には言句に詰った。――まさか手前は山賊でござるとも云えまいし、大体あの場合なんと云ったら宜いのだ?」
「教えてやるから見て居れ」
大河治部が顎をしゃくった。――見ると峠の上から、武家者と見える旅姿の娘が、老僕を供にして下りて来る。
「おい、おい、女をやるのか」
「仕方がない、選り好みをしているうちには此方が餓え死んで了う。見ていろ」
決然として治部は道へ出て行った。
娘と老僕は秋の山路を楽しむように、流れる雲、遠い山脈《やまなみ》を眺めながら、足も軽々と坂を下りて来る、――治部は一二間やり過しておいて、ぎらり大剣を抜きながら、
「これこれ、暫く待て!」
と声をかけた。娘と従者は足を停めて振返ったが、治部の姿を見るとさっと色を変え、老僕は娘を背に庇いながら、
「こ、是は――、何ぞ、御用で、……」
「用は云わずとも知れていよう、浪々の身上で難渋する者だ、所持金残らず置いて行けば宜し、四の五申すと斬って捨てるぞ」
「ばかな、ばかな事を云わっしゃるな、私共も宮島へ参詣の戻り道、お金などは」
「黙れ、身ぐるみ脱げと申すところだが、娘と見てそれだけは許してやるのだ」
「そんな無法な」
「うぬ、斬って取るぞ!」
治部が大声で喚いて踏出した時、不意にどこからか礫が飛んで来てばらばらと治部の面へ当った、あっと叫んで思わずたじろぐ、――と、坂を駈け登って来た一人の若い武士が
「早くお逃げなさい、早く!」
と叫んで、娘と老僕を押しやり、立直って来る治部の前へぐいと立塞がった。――治部は思わず一歩退って相手を見た、まだ若い男で年は二十四五、痩形の長身で眼鼻だちの冴えたすばらしい美男である。(後に軍学者で一代の兵法家、子竜《しりょう》平山行蔵がこの男を評して、「三百石でも安い男振」と云ったほどずばぬけた美男だった)
治部は勇気を盛返した。なんだ女みたいなにやけ男め、こんな奴のために折角の仕事を邪魔されたかと思うと、
「うぬ、貴様、そこ動くな」
と怒声をあげて斬りつけた。
「あ、危い、待たれい」
若侍はひらりと横へ跳ぶと、
「危い、どうか、命ばかりはお助け」
「ええ動くな、斬って呉れる」
「そう云わずに御勘弁、あ、危い」
遮二無二斬りたてる治部の太刀尖を、若侍は怖ろしそうに逃げ廻る、――いやその素早いこと、連日の飢えと疲労に、すっかり体の参っている治部は忽ちへたばって、道の上へ尻餅をつきながら悲鳴をあげた。
「おい、じ、陣馬、貴様なにをぼんやり見ているんだ、来て此奴を、此奴を……」
「駄目だ、沢山だ」
陣馬大助は弱々しく頭を振った。
「そんな蝶々みたいな奴を追い廻すくらいなら、拙者は腹を切る方が楽だ」
「畜生、大河治部の天運も尽きたか」
そう云って治部はおろおろと泣きだした。――若侍は少し離れた所から此の様を見ていたが、もう危険は無いと思ったか、静かに近寄って来て、
「失礼ながら、――」
と声をかけた。
「御両所とも大分お弱りの様子でござるな」
「み、三日も、飲まず食わずでいれば、大抵の人間は、弱るのが当り前だ」
「では貧ゆえの山賊でござるか」
「誰が好き好んで、こんな浅間しい事をするものか、今日まで散々労苦を舐め、どたん場に及んで二進《にっち》も三進《さっち》も行かず、――い、今のが仕事始めだ、それを、き、貴様が」
「そうであったか」
若侍は美しい眉を顰めて、
「それはお気の毒、と申し度いが山賊にまで落ちずとも生きる道はござろう、お邪魔をした詫び――と云うのも失礼ながら、些《いささ》か手前に思案がござる、兎も角その辺で食事でも参りながら御相談を仕ろう」
「え? しょ、食事、食事を※[#疑問符感嘆符、1-8-77]」
陣馬大助が眼の色を変えて立上った。
[#8字下げ]三[#「三」は中見出し]
阿部能登守十一万石の城下、福山の西下屋敷町に『一放流剣道指南梶原庄右衛門』と看板を掲げた兵法道場がある。前の日から二日めの昼まえ、この道場を訪れた三人伴れの浪人があった――云うまでもなく陣馬大助、大河治部、それに秋津男之助《あきつおとこのすけ》と名乗る例の奇妙な若侍である。
「では宜しゅうござるか、是から先日お話し申した新手《あらて》の道場破り、食いはぐれのない戦術を御覧に入れるから貴殿方は門弟のつもりでお願い申しますぞ」
男之助が念を押した。
「仕方がない、約束だからそのつもりでやってみよう」
「然し大丈夫だろうな」
「まあ御覧下さい」
男之助は玄関へかかって案内を乞うた。――それからが大変だった、取次の者が出て来ると、体に似合わぬ大音声で滔々と、
「拙者ことは天涯無禄の浪士にて秋津男之助と申す。幼より兵法を精研し、天真正伝神道流に発して鞍馬八流を究め、それより神陰流一刀流、鐘捲流、小野派忠也派、諏訪流、涼天覚清流等、凡そ剣の道として学ばざるなく、また学んで秘奥を極めざるはなく、全国を遍歴すること七年有半、此の間試合を挑むこと一千二百余回、一度として敗を取りたる例なき者でござる。当国に梶原先生ありと承わり、道次を枉げて参上仕った、願わくばひと手お立合下さるよう、右宜しく御披露のほど頼み入る」
「……はあ、――」
取次の者は驚いて奥へとんで行ったが、陣馬、大河の二人も呆れて眼を剥いた。
「おい、あんな大法螺を吹いて宜いのか」
「見ていれば分りますよ」
「然しあんな法螺に恐れて例え十文の草鞋銭でも出すような好人物はもう居らんぞ」
「なに、奥の手は是からです」
男之助は平気なものである。――陣馬も大河も「こいつ迂濶りすると酷い目に遭うぞ」と思って急に怯気づいたが、そこへ取次が戻って来たので逃げ出す訳にもゆかず、薄氷を踏む思いで道場へ通った。
道場には三十人あまりの門弟たちがいて、この並外れた三人伴れの武芸者を前に、好奇の眼を見交しながら隅の方へかたまった。――出て来た主人の梶原庄右衛門というのは、四十そこそこの逞しい体つきで、眼鼻の大きい唇の厚い、精悍そのもののような面魂を持っていた。
「初めにお断り申すが」
挨拶が済むと直ぐ男之助が云った。
「拙者流儀の掟として、他流試合には御師範と直《じか》にお手合せを願わねばなりません。世間には未熟な師範がいて自分の腕を知らるるが厭さに、門弟などを出してごまかす人物が屡々居ります。むろん当道場などはそんな」
「承知した、手前直ぐにお相手仕る」
梶原庄右衛門は憤然と相手の言葉を遮って起った。――と、男之助は静かに笑みを含みながら、
「それから道具でござるが、面《めん》籠手《こて》を着けた竹刀剣術では真の腕は知れぬもの、素面素籠手に木剣で致し度いが如何であろう」
「望むところだ!」
庄右衛門は吐出すように喚いた。
他流試合でも素面素籠手に木剣などを使ったのは寛永頃までの事で、是ではひどく怪我をするし、死者の出る例も少くないところから、後には法度《はっと》にさえなったくらいである、――それをこの歌舞伎役者のような男が自ら望んだのだから驚いた。陣馬大助は顔色を変えて、
「おい大河、あいつ[#「あいつ」に傍点]奴《め》、新手《あらて》の道場破りを教えるなどと云っていたが、気が狂っているに相違ない、是は大変な事になったぞ」
「己達はどういう事になるだろう」
「梶原先生すっかり怒っているから、あいつ[#「あいつ」に傍点]は打殺されるに違いない、我々も唯じゃ済まんな是は」
「いまのうちに逃げるか」
「いや、門人達が逃がすまいよ」
二人はごくりと生唾をのんだ。
このあいだに庄右衛門と男之助は、手早く身仕度をして木剣を執り、会釈を交してさっと左右に離れた。
両者の間、凡そ二間、相青眼につけて呼吸を計った、――庄右衛門は一撃の下に打据えて呉れようと、満面に敵意と怒気を漲らせている。それに反して男之助の方は唇辺に微笑さえうかべ、木剣を持つ拳も軽く、女のような優しい澄んだ眸子で相手を見ていた。
「えーイッ」
卒如として男之助が第一声を放った。道場の四壁を劈《つんざ》いたかと思われるような、力の溢れた凄い気合である、――同時に庄右衛門はさっと一間ばかり跳退いた。顔面が蒼白になって、眼光俄に殺気を帯びて来たと思うと、爪摺りにじりじりと間を縮める。
「えイッ、やあッ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
と叩きつけるような気合――けれど男之助は微動もしなかった。庄右衛門はそれ以上進まず、男之助も石像のように黙したままである、道場は一瞬墓地のような静かさに包まれた。……一撃の下に打殺されると思っていたのに、なんだか様子が変なので、一同が我知らず膝を乗出す、刹那! 男之助がひらりと後へ跳退って、
「参ったァ!」
と叫びながら木剣を控えた。
[#8字下げ]四[#「四」は中見出し]
「いや遖《あっぱ》れお見事の御腕前!」
男之助は大声で云った。
「廻国七年有半、曽て後《おくれ》を取った例なき秋津男之助、今日初めて真の達人に会い申した、失礼ながら貴殿ほどの御仁は、天下広しと雖も江戸に於ては戸ヶ崎熊太郎、尾州家の鈴木斧八郎、真陰流の赤石軍次兵衛、これらを措いて他に匹敵する剣士はござるまい、願わくは今日より拙者も、門下として御教導に与りたく存ずるが」
「いやいやその辞儀では痛み入る」
庄右衛門は額の汗を拭きながら、「お若いに似合わぬ御練達、拙者も些か勉強を仕った、兎に角席を改めて一盞献じ申そう」
そう云って身支度を解いた。
それから奥へ招じられて酒肴が出る。久し振りの馳走に有りついて、陣馬も大河も心ゆくまで呑み、且つ食った。そのあいだにも男之助は盛んに庄右衛門を褒める、なにしろ門弟連のいる前で天下の名人達と肩を並べて褒められるのだから、庄右衛門はずんと気を好くしたらしいが、どこやら無気味でもあるらしかった。――二刻あまりして別れを告げる
「些少ながら御餞別に」
と云って包んだ物を差出した。
道場を出て四五丁行くあいだ、陣馬と大河は歯を食いしばって笑いを耐えていたが、もう大丈夫と思うといきなり、満腹の腹を抱えて爆笑を始めた。
「わはははは、あはははは」
「いやどうも、驚いた奴だな貴公、あんな手が有ろうとは気がつかなかったぞ、大した奴だ、呆れたものだ」
「褒めも褒めたり天下の名人とは、や、あの梶原先生の嬉しそうだった事、わははははは」
「時に、――幾ら入っている?」
男之助は黙って紙包をわたした、――大河治部が開いて見ると、
「や、十、十両、――十両あるぞ」
「ほ、ほ、ほ、本当か、どれ見せろ。――や本当だ、小判で十両!」
一両あれば高い時でも米が四斗ほど買えた時代の十両である。二人は眼を剥出して愕いた。
「山賊よりは楽でしょう? 如何」
男之助は事もなげに笑った。
福山でもう一軒、無念流の岡村金十郎という道場を訪れ、此処でも全く同じ手を用いて是は五両になった。一日に十五両、――その夜は神辺《かんなべ》の町に泊って明る日は備中《びっちゅう》岡田藩へ向う、とその途中、山陽道と道の分れる所へさしかかった時、陣馬と大河の二人が、
「秋津公ちょっと待って呉れ」
と立停った。
「何でござるか」
「実は此処で我々は別れたいのだが」
「それは又どうして」
「二人して貴公の脛を噛るのも気の毒だし、お蔭で道場破りの新手も覚えたから、我々もひとつ貴公に模《なら》ってやって行こうと思う」
「――正直だな貴殿方は」
男之助はにっと微笑して、
「だがそれは難しい、何故と云って此の手には一種のこつ[#「こつ」に傍点]があるので、そう容易《たや》く誰にでも出来る訳ではござらぬ、悪いことは云わぬから」
「いや大丈夫!」
陣馬大助は自信たっぷりに頷いて、
「初めに天下の大豪傑と名乗って驚かし、堂々と木剣試合を望んで胆を抜き、いざという場合に参ったと声をかけ、門弟達の前で褒めたてる、――つまり是だけの順序ではないか」
「陣馬の云う通り、実は昨夜の宿ですっかり相談したのだ、どうか此処で別れさせて呉れ」
「そうか」
男之助は頷いて云った。
「それでは気儘にするが宜い、拙者は是から十日の予定で美作国《みまさかのくに》の津山へ参る、また折もあらば会うとしよう」
「宜かろう、今度会う時は我々も大名旅行だ」
「たっぷり返礼の馳走をするぞ」
「どうかそう頼む、――では御健固で」
会釈を交して左右へ別れた。
この奇妙な男、平山行蔵をして『三百石でも安い』と讃歎せしめた男振り、歌舞伎役者にも無い美丈夫は誰であるか、また、――新手《あらて》の道場破りと云っている妙な試合は、果してただ金を得る目的だけのものか是等のことは次の章で明かになるだろう。
[#8字下げ]五[#「五」は中見出し]
岡田藩から浅尾、松山と巡って、板倉から美作国に入った秋津男之助は、九月半ばのある日、松平十万石の城下津山の街に草鞋を脱いだ。――その夜夕食の時、給仕に出た宿の婢が、男之助の様子を見ながら、
「お武家様も武術御修行でいらっしゃいますか」
「――そう見えるか?」
「あんまりお綺麗なので、初めは歌舞伎芝居の役者衆かと存じましたが、先程お風呂へ入っておいでなさるところを拝見して……」
「呆れたのか?」
「いいえ、女のようなお肌でぞっと致しました、ほほほほ」
婢は給仕盆で笑いを隠しながら、「でも、幾らお綺麗でもお武家様のお体は違いますわ、直ぐ御修行のお方だと分りますもの」
「当地へも武術修行者が来るとみえるな」
「武術修行やら、恋修行やら」
「なんだ、恋修行とは?」
「あら、御承知のくせに、――貴方様も村瀬様の道場を訪ねていらしったのでございましょう。なにしろ村瀬道場のお嬢さまは、津山の赫夜姫《かぐやひめ》と云われて中国一円から京大阪にまで評判のお方、津山へいらっしゃる御修行のお武家様方が、みんなお目当に遊ばすのも当り前でございますわ」
婢の饒舌に恐れをなした男之助は、早々に食事を切上げて寝床の支度を命じた。
明る日はすっきりと晴れた秋日和で、山国の冷やりした風も肌に快よく、国境の山脈の上には、白い千切れ雲が静かに東へ東へと流れていた。――宿を出た男之助は、先ず津山城を大手から見物して、武家屋敷の方へ廻ろうと、川端町をやって来ると、或る屋敷裏の草原から、いきなり、
「秋津氏、秋津氏――――ッ」
と叫びながら跳出して来たものがある、こんな所に知己はないがと思って振返ると、此方へよろめきよろめき走って来る浪人体の男が二人、――見るまでもなく男之助は、
「やあ、陣馬に大河の御両所」
「有難い、有難い、地獄で仏だ」
と喘ぎながら近寄ったのは、正に陣馬大助に大河治部の二人であった。然し驚いた事には、あれほど意気込んで別れた彼等が、杖折峠で会った時より幾層倍もひどい恰好をしている、乞食のようなと云いたいが、そう云ったら乞食から文句が出ようという姿だ。
男之助は笑って、
「どうだ新手《あらて》の道場破りは? 今度会ったら返礼に馳走して呉れる約束だったが、早速どこかで一盞頂こうか」
「冗談を云っている場合じゃない、直ぐに何か喰べさせて呉れ、今日までまる三日というもの、水ばかり飲んで貴公の来るのを待っていたのだ」
「頼む、どうか直ぐに頼む、でないと……」
男之助は笑いながら道を引返した。
それから間もなく、伯耆《ほうき》街道への立場《たてば》茶屋で、陣場に大河は酒と飯とを一緒に詰込みながら、男之助へ失敗談を語っていた。
「あの時貴公はこつ[#「こつ」に傍点]があると云ったが、実際なにか余程の口伝《くでん》があるんだな。なにしろ此方は道場の主を煽てるのが目的なのに、我々ではどうもおいそれと主が出て呉れない、先ず門人と立合うか、でなければお断わりだと来る」
「仕方がないから始め二三軒は先ず門人とやってみたがいけない、永の浪人で体が参っているから本当に負けて了う」
「門人に負けたってお世辞にならんからな」
「是はいかんと思ったので、その後はひた押しに頑張って道場の主と立合うことに決めたが、さて又こいつが難かしい、初めの時には『参った』と云う暇もなく打込まれた」
「その次の道場では拙者がなんでも是は早く負けを名乗るに限ると思って、位取《くらいど》りをするが否や『参った』とやった、ところが其の時、相手がまだ身構えもしていなかったので、門人たちが遠慮もなく失笑しやがった」
「はははははは」
男之助も堪らず肩をゆすって笑いだした――。話すほどに食うほどに、やがて二人は曖《おくび》が出るまで満腹し、酔った。
「さて秋津氏、こうなったら何処までも貴公に付いて行くつもりだが、まさか厭とは申されまいな、尤も我々は無理にも離れぬ覚悟だが」
「宜いとも、旅は道伴れと云う、来給え」
「それで全く生返った」
二人は言葉通り甦った顔色である。
「で、――是からどうする」
「正月までに江戸へ帰るのだが、殊に依ると此の土地に暫く滞在するかも知れぬ、今日はこれから村瀬という道場へ参るのだ」
「また例の口か?」
「ははははは、そうかも知れぬ」
笑いながら男之助は立上った。――勘定を済まして其処を出た三人は道を尋ねながら村瀬道場へ向った。
「だがどうも不思議だよ」
陣馬が首を捻って、「あんな簡単な『参った戦術』が、貴公に出来て我々に出来んというのは腑に落ちぬ」
「見ているうちには、やがて貴公らにも得心が参るであろうよ」
男之助は事もなげに微笑していた。
[#8字下げ]六[#「六」は中見出し]
村瀬騎兵衛の道場は御蔵屋敷のはずれにあった、藩公から扶持されているだけに構えも堂々としていたが、稽古休みででもあるか、竹刀の音はしていなかった。――男之助を先に、玄関へかかろうとすると、右手の庭口の方から一人の娘が出て来てばったり行会った。
ちらと眼を合せたとたんに、男之助は思わず眼を瞠った。――彼はもともと自分の男振りなど気にした事もなく、大抵の美人に会っても眼を惹かれた例など無い方だったが、その娘の美しさには驚いた。それはただ美しいというだけでなく、気高さと優美とを兼ねて輝くばかりに思われた。
――是が津山の赫夜姫《かぐやひめ》だな。
そう思い、そして、『赫夜姫とはいみじくも呼んだり』と思った。娘の方でも男之助の秀でた美男振りを見て、はっと眼の縁を染めたが行過ぎようとしたが、何を思ったかふと二三歩戻って、
「あの、失礼でございますが」
と声をかけた。
「は、――?」
「違いましたらお許し遊ばせ。もしや貴方さまは備後《びんご》の杖折峠で、賊に襲われていたところをお救い下された方ではいらっしゃいませぬか?」
男之助はあっ[#「あっ」に傍点]と云った。
「では貴女があの折の……」
「はい、その折の者でござります、矢張り貴方さまでございましたか」
「是は、実に、奇遇な」
正に奇遇である、杖折峠で陣馬、大河の俄山賊に襲われていた老僕伴れの娘、あの時は咄嗟の場合で此方は顔を見る暇もなかったが、娘の方では彼を覚えていたのである。――男之助と娘が互いに頬を染めながら、慕わしそうに礼やら挨拶やら取交している、――その側で、いや陣馬、大河のてれ[#「てれ」に傍点]まい事か、男之助の背を突つきながら、消えも入りたげに外向いていた。
「実は先生を訪ねて参ったのですが、御在宅でございましょうか」
「それは生憎でございました、父は早朝から御門人衆を伴れて、城山へ野馳け試合を催しに出て居ります、でも……もう帰る頃でございますからどうぞお待ち遊ばして」
「いや、それでは又出直して――」
と云っているところへ、どかどかと十四五名の浪人者達が玄関へ踏込んで来た。――見るといずれもひと癖あり気な面魂で、身妝《みなり》も悪く、ばか長い無反《むぞり》の大剣をさしたのや、樫の六尺棒を持ったのや種々雑多で、この頃流行の徒党を組んで押歩く悪浪人の群だということは誰の目にも直ぐ分った。
「やあ、いるぞいるぞ」
浪人達の中から、娘を見つけた奴が胴間声をあげた。
「おい見ろ、これが評判の活弁天楊貴妃、津山の赫夜姫《かぐやひめ》さまだ、みんな寄って拝み奉れ」
「なるほど美形だな、どれどれ」
卑しげに眼を光らせながら、遠慮もなく娘を取巻こうとした。男之助は静かにその前へ立塞がって、
「失礼ながら御用の趣は?」
と訊いた。すると仲間の頭らしい六尺棒を持った奴が、ぬっと髭面をつき出して、
「御用だと、貴様はなん[#「なん」に傍点]だ?」
「――当家の門人でござる」
「ふん、そんな生白いにやけた面で武芸をやるのか、己はまた男の小間使いかと思ったぞ、門人なら道場の主に取次げ、天下の浪人大横田左馬介が『微塵組』の同志十五名と共に参った、評判娘の赫夜姫《かぐやひめ》を賭けて、ひと勝負申込むと、――分ったか。それから断って置くが、我々はいずれも鞍馬八流から一刀流、自源流、諏訪流、凡ゆる流派を極めた腕揃いだ、関東、京阪、中国、武芸者という武芸者を微塵に打挫いで来た、微塵組の名の由来するところだと、よくそう申すのだ」
「ふふふふこいつは拙者の上手《うわて》だ」
男之助は思わず失笑した。
「な、何を笑う」
「いや、折角でござるが、今日は先生はじめ重なる門弟は他出中でござる、残念ながら後日改めて」
「云うな云うな、その手は食わんぞ」
大横田浪人喚きたてた、「此方が強いと見れば居留守を使う、そんな甘手に乗る我等ではない、早く取次がぬと踏込むぞ」
「それより、我々を恐れるのは腕前未熟のためであろう、さすれば勝負は勝ちも同様だからその赫夜姫を貰って行く方が早かろう」
「うん、頑州《がんしゅう》め旨い事を申すな」
大横田はにたりと笑って、
「その方がいっそ手数が省ける、さあ若造そこを退け、賭け試合の代物を受取ってやるぞ、退かぬか」
「それは困る」
男之助は弱々しく云った。
[#8字下げ]七[#「七」は中見出し]
「気持の悪い声を出すな、困ろうと困るまいと此方の知った事でははない」
「いや其方が困るので……」
「なんだと※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
男之助は振返って、
「陣馬さん、この人達の噂を知っているか」
「し、知っている」
陣馬大助は隅の方から蒼い顔で答えた。
「知っている、秋津氏。手出しをしない方が宜い、殺されて了うぞ」
「へえーそんなに強いか」
「中国筋で評判だ、他流試合と云って何人打殺されたか知れない、黙っている方が宜い、黙って」
「そいつは怖いな」
男之助がにっと微笑した時、
「此奴、人を嘲弄するかッ」
喚いて、頑州《がんしゅう》と呼ばれた男がいきなり横から殴りかかった。――娘はあっ[#「あっ」に傍点]と悲鳴をあげたが、男之助は躱しもせず、
「や、気の早い」
と素早く相手の腕を取って逆に捻上げる、ぼきっ[#「ぼきっ」に傍点]と骨のへし折れる無気味な音がして、
「ぎゃ!」
と喉を鳴らしながら頑州の体は二三間右へけし飛んだ。陣馬、大河の二人は仰天して眼を剥出した。然し本当に吃驚したのはそれから後の事である。
「ああ悪い事をした、腕を折って了った」
男之助が気の毒そうに云う、刹那! 大横田が一歩ひらいて、物をも云わず六尺棒を発止とばかり打込んだ。とたんに男之助の姿が見えなくなった。
「おや?」
陣馬と大河が呟く、と、取巻いていた浪人の群が蜂の巣を突いたように破れて、右の端へちらと男之助の体が見えた。そして次の瞬間には左手へ、まるで光のような素早さで縦横に隠見する、その度に、骨を打砕く凄まじい音がして、三人五人と見る見る浪人達は打斃されて行った。――正に鬼神の技である。
「鎮まれ、鎮まれーッ」
大音に叫ぶ声がした、はっとして見ると、五十人余りの若侍を指揮して、五十歳前後の武士が、この騒動を囲むように、道の上下を犇々《ひしひし》と固めていた。――争闘の群も思わず手を控えたが、それと見ていきなり娘が走寄った。
「父上さま」
「おお百代《ももよ》、是はどうした事だ」
「狂犬狩りでござる、村瀬氏!」
男之助が声をかけた、――村瀬騎兵衛が振返って見る、いつか大横田から奪い取ったらしい六尺棒を持って、冴えた笑いを見せている男之助のすばらしい美丈夫振り。
「そう申される貴殿は――?」
「父上さま」
側から娘が「いつぞや宮島詣での戻りに、杖折峠で危いところを救って頂いたお方でござります」
「おお、あの時の御仁か」
「今日もまた偶然父上を訪ねていらしったところへ、あの浪人たちが来て、既に乱暴をされようとしたのを」
と手短に仔細を語る。――うまく行ったら他流試合に事を托して、云いぬけた上、幾らかにしようと思っていた浪人たちの残りの七八名は、この様子ではとても逃れぬと見たか、
「ええ、此奴を道伴れにいずれも死ね」
喚きざま、猛然と男之助へ斬りつけた。
「あれッ父上さま」
娘が叫ぶ、騎兵衛も出ようとしたが、その暇はなかった。体を開いた男之助、
「え、やあーッ」
耳を劈《つんざ》く掛声と共に、六尺棒が一閃、二閃、風を截って飛ぶよと見るや、額を割られ、肋骨を折られて、瞬く間に五人を打伏せる、――余りの凄まじさに、残った三人がばらばらと逃出したが、どっこい、道を塞いでいた門人たちのために、忽ち其処へ取詰められて了った。
「わあーっ」
とあがる門人たちの歓声。陣馬大助と大河治部も狂喜して駈寄りながら、
「分ったぞ、分ったぞ秋津氏」
と喚きたてた、「新手《あらて》の道場破り、口伝《くでん》のこつ[#「こつ」に傍点]というのは、つまり此方が本当に強かったのじゃないか」
「猾《ずる》いぞ猾いぞ。そうだ、此方がずばぬけて強く、しかも負けてやった上に天下の名人だなんて褒めるのだ。是では我々が失敗するのも当り前だ、そうとは知らなかったぞ」
「ははははは、だから云ったではないか」
男之助は冴え冴えと笑って云った。
「いまに貴公たちにも得心が参るとな、分ってみれば雑作のない話、今度は貴公たちも成功するに違いない」
「ちえっ、それを云うな」
陣馬と大河は首を縮めて、然し心から嬉しく、頼母しそうに男之助の顔を見上げるのだった。
秋津男之助、本名は吹雪代三郎《ふぶきだいざぶろう》、後に算得《さんとく》と改めた。江戸神田小川町の櫛淵弥兵衛(神道一心流の達人で一橋家の師範役)門下随一の達者と呼ばれた剣豪である、――此の時の事件が縁となって、彼は間もなく津山公に召抱えられ、村瀬騎兵衛の娘を妻にし、津山藩に永く『鬼の吹雪算得』の名を残した。……陣馬、大河の二人がどうなったか、それは伝わっていない。
底本:「幕末小説集」実業之日本社
1975(昭和50)年1月10日 初版発行
1979(昭和54)年2月15日 五版発行
底本の親本:「キング」
1938(昭和13)年12月号
初出:「キング」
1938(昭和13)年12月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ