harukaze_lab @ ウィキ
秋風恋
最終更新:
harukaze_lab
-
view
秋風恋
山本周五郎
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)毛氈《もうせん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)分|月代《さかやき》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#8字下げ]
-------------------------------------------------------
[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
若草がもえて、葦の芽がのびている。真青に晴れた空だ。空いっぱいに銀粉をぶちまけたようにきらきらと陽の光が光ってあふれて、眼のむくところ、野にも、つつみにも、水のうえにさえ、かげろうがゆらゆらともえている。
緋の毛氈《もうせん》をしいてお重をひろげて、ひさどの酒が二三巡めぐると、だれももうじっとしてはいなかった。
おもいおもい勝手なところにちらばって、つくしをぬいたり、花をつんだり、追っかけごっこをしたり、蓮葉なくらいにぎやかな声を野面いっぱい、空いっぱいにひびかせているのだ。
はなやかな情景である。
色とりどりな南京玉を緑のびろうどのうえにばらまいたようなとでもたとえようか――鳥のように空のたかいところにあって、この情景を見おろすことができたら、きっとそうたとえたにちがいない。
京の島原の置屋、叶屋の遊女たちの野あそびなのである。
太夫、天神、白人、鹿恋《かこい》――などと、この社会にもいろいろと階級があって、おなじく人にこびを売る身の上ながら、いつもは厳重なきまりがあるのだが、きょう一日はそんなことはわすれようと――いわば、今の言葉でいう慰安日なのである。
太夫の花扇《はなおうぎ》は見るものすべてがめずらしかった。もともと花扇は丹波の在所のうまれであるが、六つの年に叶屋に買われてきて、ことし十七になるまで、年に一度のこの野あそび以外には廓《くるわ》のそとに出たことがない。それゆえに、こうして一年ぶりに野に出て、空をあおぎ、野の草を見、水のながれを見ると、おさないときのおもいでがかすかな哀愁をとめた。なつかしさをともなってよみがえってくるのである。
「これは茅花《つばな》というもの。たべられるのですえ」
八つになる禿《かぶろ》の曳手《ひくて》におしえて、絹糸のようにやわらかな芽花を剥いてたべて見せているところに、もうひとりの禿の曳代《ひくよ》が風をきるようないきおいでとんできた。
「太夫さま、こちらにいらっしゃい。こちらに。お地蔵さまが赤いよだれかけかけていなさります」
長い裾をかいがいしくからげて、はしゃぎきった声だ。まるい頬は色づいたくだもののように赤くなって、こまかな汗がこばなのあたりににじんでいる。酔ったように懸命な眼の色をしている。
花扇はわらった。
「お地蔵さまはどこのお地蔵さまも赤いよだれかけをなすっていらっしゃるに」
「いいえ、かわいい顔していらっしゃるお地蔵さまなの。かわいい顔を……」
そして花扇の手をひっぱって、ぐんぐんつれて行くのだ。
つつみをあがったところに竹藪があって、その地蔵さまは竹藪の外れにあった。
ちいさい地蔵さまだ。たけは一尺七八寸、二尺とはあるまい。色のあせた赤いよだれかけを幾枚もかけて、寂然とひなたぼっこをなすっていらっしゃる。なるほど、かわいいまるであかんぼのようにあどけない顔をしている。
「まあ、お人形さまのようね」
花扇は云って、手を合わせてふしおがんだが、もうそのときは、当の曳代は、自分がひっぱって来たことなどわすれたように、そのあたりをはしりまわりながら、小石をひろっては、つつみの下の水に投げこんでいるのだ。とろりとすこしよどんで淵になったしずかな水面に、どぼんどぼんと石の落ちるたびに、ゆらゆらと波紋がひろがっていくのがうれしくてたまらないらしいのである。
ちょいとおもしろそうだ。
覚えず、心をさそわれて、花扇が石をひろったときだった。
「こりゃたまらん」
いきなり淵の岸の枯れた葦がすさまじくしげっているところに声がしたかと思うと、のっそりと立ちあがった男があった。
武士《さむらい》――それも五分|月代《さかやき》で、浪人風と見えた。釣竿を手にもっている。
武士は、器用な手つきで糸をくるくると竿にまきつけると、魚籠《びく》をさげてのそのそあがって来た。
こちらはどきっとした。
知らないこととはいいながら、釣をしているところにめがけて石をなげこんだのだ。花扇も、曳手も、曳代も、恐怖のために真青になった。
が、浪人は、はらをたてているようすはみえなかった。年頃、二十四五とみえたが、あさぐろい、凛々《りり》しいといいたいほどきりっとしまった顔に、気楽な微笑をうかべて、三人を見たのである。
「いたずらをするのう」
「すみません。釣をなすっていらっしゃると知らなかったものですから」
相手のきさくなようすに、ほっとして、わびると、
「いや、釣れないので、竿をおいたままいねむりしていたのだて。はははははは」
風のようにこだわりのない声でわらって、ぶらぶらと行ってしまった。
「あたい、どないしようかと思うた。こわかったわ」
「だけど、あの浪人さんやさしい人ね」
陽のななめにさしている竹藪のわきを、魚籠をふりふり遠ざかって行くうしろすがたを見おくりながら、二人の子供らははなし合ったが、しばらくたつと、もうすっかりわすれてしまったらしく、まえにもまして、快活に、乱暴にはしりまわって遊びたわむれた。
花扇もわすれた。
子供にかえって、子供といっしょにはしゃいで一日を送った。
が、その日、灯ともしどきになって、家にかえって部屋におちついて、すこし疲れを感じた足を人に揉ましているとき、なんのきっかけもなく、あの浪人のことを思いだした。
笑ったとき、歯が美しかったこと、眼がきれながで、真黒で美しいくせに、気象の精悍《せいかん》さをそのままにあらわしたように光がつよかったこと、剃あとの青いあごのあたりに微かな剃刀《かみそり》傷があったこと――まざまざと思いうかべられたのである。
じっと、その俤《おもかげ》を追っていると、胸がときめいて、からだじゅうが熱くなるようなきもちだった。
おさないときから色里に育っている彼女には、このきもちがなにを意味するかよくわかっている。
(どうしたのだろう、あたしは……)
花扇は、われながら自分の心がわからずに、眼をとじた。
長いよくそろったまつげが、花びらのような瞼の上にちりちりと小きざみにふるえていたのである。
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
一方、男のほうである――
男は堤の上を久世《くぜ》の橋まで行って、そこから西国街道を京のほうに向った。
男の住居は下京の八条、東寺の学寮の坊さんたちを相手に筆や墨や紙などを商う家の離室《はなれ》であった。店の横の露路から入って、板塀についた片びらきの戸を開くと、樹木の多い庭があって、そこに、南を受けて陽あたりよく建っているのだった。
「お帰りやす。たんと釣れましたでございますか」
庭に出ていた若い手代がそばに寄って来て魚籠をのぞきこんだ。
「釣れぬな。いい気持で、半日昼寝してきた」
男は笑って、釣竿のしまつをしてから、井戸端に入って、小桶に水を張って釣ってきた五六尾の小鮒を丹念にうつして、しばらく楽しげに眺めた末、手や顔を洗って離室に入って行った。
離室は、入口が三畳、奥が六畳になっている。青年は奥の六畳に通って、明るい障子際にすえた机の前に坐った。心気を静めて読書でもしようとするのだろう。香をたいて端坐して眼を閉じていたが急に疲れが出たのだろう、ごろりと横になった。
すぐ、軽い眠りに入ったが、うとうととしている間に夢を見た――
最初のうちはどこだかわからなかった。
たそがれどきのような幽暗の中に一人の女が立っていた。見たことのあるような女なので、近づきながらしきりに眼を凝らしたが、よくわからない。
いらいらした気持だった。
「こまる、じつにこまる」
彼はそうつぶやいた。その女は、美しい声で云った。
「すみません。すぐわかります」
すると、どういうわけか、あたりがにわかに明るくなった。
華やかな陽が氾濫している若草の堤の上である。
「わかりまして?」
女はあでやかに笑った。したたるような黒い眼が媚《こび》をもって、花びらのように笑みわれる紅い唇の中から白い歯が花蕋《かずい》のようにきらきらと光った。
こちらは狼狽して、胸が急にどきどきしはじめた――
途端に眼をさました。
全身にびっしょりと汗をかいて、はげしい波に乗っているように動悸がからだ全体をゆり動かしていた。
そのときになって、はじめて、はっきりと気がついた。
きょう、桂川の堤の上で見た遊女だったのだ。
青年は汗も拭かずに、長いあいだ、身動きもしないで天井を見つめていたが、やがて、にがにがしい笑いがその顔に浮かんだ。
自嘲するような笑いだった。
「おれが、人の家に厄介になってやっと生命をつないでいるおれが……」
そして、はげしい動作で起き上ったとき、庭に足音がした。
「印東《いんどう》さま」
「はい」
手をのばして障子を開けると、この家の主人が、今外出先から帰ったところか、折目のついた外着姿で、煙草入を携えてにこにこ笑いながら立っていた。いかにも、坊さん相手に筆墨でも商っている店の主人らしく、小肥りに肥って、色の白い品のよい四十がらみの主人である。
じつを云うと、青年は、この人の来るのを先刻から心待ちしていた。釣と、この人を相手の碁とが無聊な毎日を慰めるものになっているのだった。
「お上りください」
主人が上ると、青年は、すぐ床の間の碁盤を持って来ようとした。すると、主人はあわてて遮った。
「それもですが、その前に、きょうは吉報をお伝えしたいと思いましてな」
「…………」
「きょう、東寺様の執行所にまいりますと、阿州の蜂須賀《はちすか》様の御重臣のかたが見えておりましてな、このかたは、東寺様の檀那衆で、わたくし前から御|贔屓《ひいき》にあずかっているかたでございますが、ふとあなた様の御話をいたしましたところ、そういうお人ならばぜひお近づきになりたい。じつは国許において、このたび、若君御成年につき御近侍として、腕の立つ人を求めているところゆえ、お近づきになったうえで、そちの云うとおりのお人ならば、御推挙したい――とかように仰せられます。願ってもないこと、とわたくし飛んで帰って着替えもせずにまいったのでございますがいかがでございましょうか」
青年は礼をのべて、なおよろしく頼むと云った。
「それでは、今夜にでも、御旅館に伺いましょう。東寺様の中の瑞春院へお泊りでござりますゆえ、わけはござりません。なに、きっとうまくまいりましょう。おめでたいことで――では一石いきますかな。いや、まず、着替えをしてまいります」
主人は母家に帰って行った。
そのころになって、青年はやっと嬉しくなってきた。わけあって、国許を退転して二年、普通の浪人のように生活苦こそなかったものの、よりどころのない心細さは身にしみて感じていた。
[#8字下げ]三[#「三」は中見出し]
青年は名を印東|数馬《かずま》という。
加賀の大聖寺前田《だいしょうじまえだ》家の浪人である。
二年前の正月――
ふとしたことから、出頭の権者《きりもの》石田半左衛門《いしだはんざえもん》を斬らねばならぬことになった。
ことは子供の喧嘩から起った。
数馬の弟の吉之助が、侍小路の辻で、友達と一緒に獅子舞を見物していると、石田家の次男が押しのけて前に出ようとした。咎めだてすると、供していた石田の仲間が突き飛ばして、
「糊米ほどの御扶持をもらっていても、お侍面ができますのかな」
と雑言したうえ、斬って捨てようとするのを雪解のぬかるみに押し倒したというのである。数馬は昂奮して、無礼な下郎を手討にしてくれと泣き叫けぶ弟を慰めて、石田家からの使者の来るのを待った。これほどの無礼を自家の下郎が働いたのだから、きっとわびの挨拶に来るものと思った。
が、夕方まで待っても何の音沙汰はなかった。
数馬は心を決して、母の前に出て、このうえはこちらから石田かたに行くほかはないと云った。
行くということは、石田を斬りに行くということである。斬れば、たとへ手際よくしとめることができたとしても、数馬の身は安穏ではおられない。殿の覚え第一の権力者を斬ったとあっては、御怒りにふれてよくいって切腹か、悪くすれば斬罪か――母はおどおどと云った。
「高の知れた子供の喧嘩のようなもの、取りあげてかれこれ云うほどのことはあるまいと思いますがの」
数馬は行かなければならない理由をのべた。
「下郎の分際として、士分の者に対して糊米ほどの知行《ちぎょう》云々などと雑音を吐きかけたことはひとり吉之助を罵ったのみではなく、わたくし、ひいては亡父上をも併せて罵ったものなること一つ。かほどの無礼を自家の下郎に働かせながら、今まで挨拶なきは当家を小身と思い侮ってのこととしか考えられぬこと、これ二つ。石田は大身、しかも覚えめでたき当時第一の権人なるにくらべて、当家は小身なれば、これを黙していては、権威に怯けて武士たるの道を取り外したと批判さるべきこと必定なること、これ三つ。とかく、まいらねばすまぬことでござります」
母の泣くのを見て、吉之助はわっと泣き出した。
「兄様、嘘でござります。吉之助は喧嘩などいたしませぬ。誰も吉之助を手込めにもせねば雑言もしませぬ。あれは嘘でござりました。このまま家にいてくださりませ」
と叫びながら兄の胸に武者ぶりついて泣いてとめたが、数馬はその手をもぎはなし、叱りつけて出て行った。
見事に数馬は石田と下郎を斬った。
はじめの計画では、その場を去らずに切腹するつもりであったが、そこに駆けつけた叔父や一族の者はそれをとめて、
「このたびのことは、誰に聞かせようと、石田が悪い。されば、一時は殿も御怒りになるかも知れぬが、いずれは御怒りをお解きになって、帰参、赦免の御沙汰が下るに相違ないと思わる故、当分のところ、国許を去っておれ」
と云って、叔父の囲碁友達である檀那寺の住職から、今、数馬が厄介になっているこの家の主人にあてた添状をもらってやって、京都に向わしたのである。
頼って来たこの家では、親切に世話してくれたが、国許の事情は予想とうらはらだった。寵臣を殺された殿の激は募る一方だった。まず、叔父をはじめ一族の者がそれぞれ罪を問われた。ほしいままに徒党して藩中を騒がしたという罪状であった。わりに軽い処罰ですみはしたものの、一時はどうなるかと案ぜられたほどだった。
もちろん、数馬の行くえは、厳重に探索された。母も、叔父も、一族の者も、幾度となく尋問を受けた。
この知らせを数馬は、国を立去って半年目に受け取った。
[#ここから2字下げ]
……皆様、心を一つにして口を固くなしてくだされ候により、御案じなさるまじく。しかし、御家中よりお前様探索の人も出ている由なれば、くれぐれも御用心なされて、皆様をはじめ、母が心づくしを無になさるようなことなきよう、たのみまいらせ候……
[#ここで字下げ終わり]
こういう母の手紙だった。
数馬は母や一族の人々の情を泣いて感謝したが、このときから、前途に何の希望も持てぬ頼りない浪人の生活に落ちたのだった。
さびしかったし、苦しかった。
さびしかったのは、二度ともうなつかしい故郷を踏むことのできない身となったことだったし、苦しかったのは、母と弟とがどうして生活しているかと考えることだった。殿の怒りがそれほどにはげしいものならば、印東の家がそのままにしておかれるわけのものではない、きっと、家禄没収の処分になっていると想像された。どうして生活しているか、多分は叔父か一族の者の家にかかり人《うど》になっているのであろう。だが、きいてやっても、それについては母も叔父も確かな返事はよこさなかった。心配することはない、もったいないほど毎日を安楽に過している――とのみ書いてよこすのだった。押して聞いてやりたかったが、数馬はそれをしなかった。たとえ、本当のことを知ることができたとしても、今の数馬にどうすることができよう――
せつない念《おも》いを抱いて、数馬は母と弟との毎日を思いやるのみだった。
[#8字下げ]四[#「四」は中見出し]
その夜数馬は主人とともに瑞春院《ずいしゅんいん》を訪れた。
「ようこそ在せられた」
阿州家の重役というのは、六十年輩の恰幅のよい人であったが、愛想よく数馬を迎えてくれた。
「どうですな、阿波へいらせられますか」
それとない世間話の間に、数馬の人物を見ていて気に入ったのだろう、くだけた調子でこう云った。
「ありがとうござります。願ってもなきことでござりまするが、一応、拙者の身の上をお話しいたしたうえにて、なお、それにてもかまわぬとの仰せなれば、お言葉にあまえたいと存じまする」
数馬は、自分の素性、経歴を漏もなく物語った。
「いや、よろしい。拙者とて、さような立場におかれてはきっと貴殿と同じことをいたしたに相違ござらぬ。武士としてはやみ難きこと、よくぞいたされたと申したい」
頼もしく云ってくれるのだった。
「ありがとうござる」
感じ易くなっている数馬は涙ぐんだ。
その夜はそれですんだ。
「当分のうち、拙者はまだこちらに滞在いたさねばなりませぬ。夜はたいていの日、ひまでござれば、ちょいちょい遊びに来てくだされ。帰国いたすまでのあいだに、精々お知合いになっておきましょうぞ」
別れるとき、そう云ってくれたのだった。
数馬は二三日おきに訪問した。
格別な用談もなかった。碁を囲んだり、雑談をしたり、酒の相手をしたり、ときによるとちょいとした用を頼まれたりするうちには、すっかりうちとけてしまったし、相手もますます数馬が気に入ったらしかった。
春がたけて、宇治川の螢の噂などがちらほらと立つころだった。
その夜も、数馬は瑞春院に行って、酒の御馳走になって、かなりに更けてから帰途についた。
月のない、うるんだように星の美しい夜だった。ほろ酔いの顔をさわやかな夜風になぶらせて、くねくねと曲って、堤の上から濠をのぞきこむように斜にのびた老松が四五間おきに並んでいる東寺の濠端を、住居のほうに帰って行くうち、ふと前方の松の蔭に黒い人影がかくれたように思った。
敵を持つ身には寸時の油断もない。一時に酔はさめた。腰をさぐって、刀の鯉口を押し切って、いつでも応戦のできるようにしたくをととのえはしたが、足どりは依然として変らぬゆるやかさで近づいて行った。
三間ばかりの距離まで近づいた。
武士だ。二本差している。だが、その姿は、向うむきになったまま、左手を松の幹にかけて、落ちついた姿で白く光っている濠を見ているのだ。涼みにでも出たような迫らない姿だった。
(違ったかな)
と思ひながら、油断なく横目で見ながら通り過ぎようとした。
途端!
敵は意外なところから出た。人ありとも見えなかった堤の中程から毬《まり》の弾むようにおどり出して来た者があって、さっと足許を薙いだ。
「卑怯!」
一躍して、刎《は》ね越えて、その足がまだ地につくかつかないかに、最初の武士が旋風《つむじかぜ》の翻るように身をかえして、片手なぐりに斬って下りてきた。
かわす間はなかった。受ける間もない。数馬は、抜いた刀をそのまま、左手を刀棟《むね》にそえて突進した。
このはげしい数馬の刀法に、敵は狼狽して飛び退ろうとしたが、高みからはずみをかけて駆け下ってきた体勢は、退りきれず、かわしきれず、どうと横倒しになって、からくも胸を突かれることは避け得たが、したたか肩先を突かれていた。
数馬は、突いた刀を引き抜くや、片膝ついて、さっと後を払った。
勁烈《けいれつ》、俊敏をきわめた刀法に拝み討ちに背後から迫っていた敵は、悲鳴に似た叫びをあげて飛び退った。鳥の舞い立つように数馬は立ち上って、一飛びに堤に駆け上って老松を小楯に取った。
「何者だ! 人に狙わるる覚えある身ながら、聞こう、名乗れ!」
と叱咤したが、名乗らない。無言のまま、じりじりと両方からつめてくる。だが、最初の一撃を食って、一人の構えは著しく脆弱だ。ともすれば、切先が下り気味になるし、ふるえるし、足許もよろめくように見えながら、一歩も退ろうとしない。ふいごを押すようなせわしない、呼吸をきざみながら、きりきりと歯を噛みならしながら近づいてくるのである。
「名乗れ!」
重ねて、数馬は叱咤したが、同時に相手の顔がわかった。二人ともに、前田家の若い家臣の中で、使い手の評判を取った青年たちであった。
「尋常に立合っては、所詮かなわぬと見て、この闇撃か。これが上意討の作法といえるか……」
と罵ったとき、やや離れた闇の中から声がかかった。
「印東殿、存分に働かれい。身共、これにて御技倆のほど、とっくりと見せていただく」
今別れてきた阿波の重役の落ちつきはらった声だった。
二人がかりで、しかも闇撃に等しいことをしてさえ、この苦戦になったのだ。数馬に助勢――たとえ、それが口先だけのものであろうとも、――が出ては、もう敵でなかった。目に見えて刀法に精彩のなくなってきた二人だった。またたく間、数馬は斬って捨てた。
「お見事」
老人は、近づいて来て、数馬の肩を叩いてほめた。
[#8字下げ]五[#「五」は中見出し]
この事件があってから、老人はいっそう数馬が気に入ったように見えた。数馬の訪問を待ちかねて、少し遅くなると、迎えの者をよこすほどになった。
二十日ばかり立って、いよいよ両三日のうちに阿波に立つという日のことだった。
いつになく、まだ日も没《はい》らない時刻に、老人は迎えの者をよこした。
「きょうは、ちと趣向があるゆえ、至急に来ていただきたい」
という口上である。
行ってみると、門前に駕を二挺置いて、老人は外出の身支度をして待ちかねていた。
「やあ、来られたな。待ちかねましたぞ。さあ、出かけましょう」
「どこにいらせられるのでござります」
「黙ってついて来られい。面白いところへまいるのだ」
腑に落ちなさそうな顔をしていると、老人は、からからと笑って、
「太夫買ひにまいるのじゃよ」
「え?」
「ははははは、御用向きもことなくすんだし、帰国の日も迫ったし、京の名残に島原とやらへ行ってみるも一興と存じてな。はははははは」
これは意外だった。特別な趣向があるというのだから、螢狩りにでも行くつもりかとは思いはしたものの、廓へ行くのだとは思いもかけないことだった。
「おいやか。若いに、お固いことだな」
ひやかすように老人は笑う。
「いやではございませんが」
若いだけに、そぼろな自分の服装がいささか気恥かしい。むろん、ここへ訪ね来るときは、礼儀上、いつもよそ行きの着物を着ては来るものの、遊里に行く人の着るものにくらべては話にならない粗末さである。
だが、今度は、そんなことを考える心が恥かしくなった。
「まいります。まいりますとも」
思わず知らず断乎とした調子になっていたのである。
「ははははは、そう力まずともよろしい」
東寺から島原の廓までは十町あるやなしやの距離である。二人は、日が没ったか、没らぬかに島原についた。
大門で駕籠を下りて当時の悪所通いの風習に従って、茶屋で借りた編笠を目深かに、狭い通りを揚屋のほうに歩いて行った。軒につるした華麗な提灯、白粉の濃い女たちの行きかい、至るところから湧いてくる絃歌のさんざめき、見るもの、聞くもの、数馬には皆めずらしい。数馬は、次第に自分の心が落ちつきを失ってくるのを感じた。
「あれ!」
足許から悲鳴が起ったかと思った。
「あ!」
数馬は、驚いて一足退った。
女の子である。長い袂を胸に抱いて、禿に切りそろえた髪をゆさゆさと肩に打たして、濃い白粉、濃い口紅、八つばかりの子が、黒い眼をみはって立ち竦んでいるのだ。ぼんやり歩いていて、突き当ろうとしたらしいのである。
「これは失礼」
数馬はわびて、すり抜けて行こうとしたが、ふとその子供の後二三間のところに、同じような、禿を前に立てて、男衆を後ろに従えて微笑をふくんで立っている遊女の姿を見ると、あっと小さく叫んだ。
あの女だ。
服装こそ、あのときと違って、えびらにさした矢のようにたくさんの笄《こうがい》をさし、金銀の糸で繍《ぬ》った華麗な裲襠《うちかけ》の褄を右手に取って、左の脇を張って、素足に丹塗の下駄――という姿でいるが、まごうかたなく、この春、桂川の岸で見た女に相違なかった。
数馬はそこを動けなかった。たちまちのあいだに、見るもの、聞くもの、一切の意識が去って、女の姿のみが、闇の中の一点の光明のように残った。
突立ったまま動かない数馬を、禿は不審そうに編笠の下から覗きこんだが、
「あら、魚釣りの浪人様やわ」
と叫んで、こっぽりにつけた鈴をちゃらちゃらと猫のように鳴らして、花扇の側に走り寄って呼吸をきらして云った。
「花扇様、あのときの浪人様よ。桂川に摘草に行ったとき、釣をしていらした浪人様があったでしょ。あたしと曳代さんと石を投げた……」
花扇の顔にも動く色があった。
しとやかに近づいてきて、こぼれるようなあでやかな微笑とともに、
「あの節はとんだ御無礼を」
「いや、なに……」
そのときになって、数馬ははじめて、五六間向うで、老人がからかうような微笑を浮かべて待っていることに気がついて、かっと顔が熱してきた。
「失礼、連れが待っておりますゆえ」
そして、老人の側に近づくと、老人は早速にからかった。
「えろうむつまじげでござったな。お馴染かの。固そうに見せかけていて、案外に味なところを見せるお人だの。何屋の何という太夫でござる。うかがっておかんと、余の太夫ではお気に召すまいでの」
弁解したが、老人は面白がって聞こうとしない。
「いや、おうかがいせずともわかるわかる」
そして、引手茶屋からの案内の男衆に聞きはじめた。
「なに、叶屋の花扇? そうか、そうか――お馴染は叶屋の花扇と申すのでござるとの。地獄耳、こう聞いたからにはめったに忘れることではござらぬ」
[#8字下げ]六[#「六」は中見出し]
現とは思えない。酔った頭には夢の中に夢を見ているような気がする。
百花織乱の花畠に遊ぶ春禽を描いた六曲の大屏風、螺鈿《らでん》の小机、銀の香爐から立昇る糸筋ほどに細いしなやかな香煙、丹漆の絹行燈《きぬあんどん》のひろげる柔らかな光――茫然とした眼で、数馬は見廻していた。
「どうしてこんなことになったのだろう」
この家に来ると、老人は叶屋の花扇を呼ぶように云った。
(花扇様?――さあ、今全盛の太夫衆、よほどのお馴染でございませんと……」
みすぼらしい数馬の姿を見て、渋る色が仲居にはあった。
数馬は居ても立ってもいられないほどの羞恥を感じた。
(いらぬいらぬ、拙者はただの御供でまいったのじゃ。女など滅相もない)
と首を振ったが、老人は強引におさえつけた。
(人をみくびるにもほどがあるぞ。口をかけてみい。飛んで来る。たとえ大名衆の席に呼ばれていようとも、きっと来る。そちはこの美男と花扇とがとんだ深間であることを知らぬな」
仲居は困りきった顔をして席を出て行った。
それからの数馬の心の苦痛は言語に絶した。来るはずはない、いい恥をかくばかりだと思いはしても、万一をたのむ心をおさえることはできなかった。この相反する二つの感情のあいだに、数馬の心は波に揺り動かされる小舟のように動揺した。
が――
その花扇が来たのだ。
何という喜びであったことか!
それからのことは、夢の中に夢をたどるような気持だ。
酒席をひけにしてからのことも、朧月夜に真珠色の霧を透して見るように、おぼろで、あまく、やわらかで、なつかしく……
(あのときから、、わたくし、あなた様を忘れかねていました)
はじらいながら、そう云ったのである。
(拙者も……)
と舌の先まで出てきた言葉を、数馬はのみこんだ。
遊里の女、恋とからだを金で取引きする女の、めずらしからぬ口舌ではないか――ほろにがく、おのれのあまい心をわらった。
その数馬の心の動きがわかったのであろうか。女はもう何にも会わなかった。哀しげに涙ぐんでいた。それすらも、数馬は心の隅でつめたく考えた。これは、こうした女の手練とやらいうもの。二度とふたたびくることのできぬ廓、手練と知りつつ乗って遊ぶも一興――
華やかな嬌声と、絃歌と、ひっきりなしに表を往来していた素見《ぞめき》の足音が、いつのまにともなく絶えると、にわかに夜の更けたことが痛いほど感ぜられた。
やや狭げに見える磨き上げたように白くつややかな額、細く、濃く弧を描いた端正な眉、匂やかな影を頬に投げている長い揃った睫毛は、刻み上げたようにくっきりとした鼻を出入するおだやかな呼吸のたびにちりちりとふるえている。乳色の頸筋にぽつりと一点ある黒子《ほくろ》は、何と蠱惑《こわく》的なのだろう。それは、白磁にはめこんだ黒曜石のようにつややかに見えた。
「どういう因縁が、おれとこの女とのあいだには結ばれていたのだろう。この春まで、おれはこの女がこの世にいるということすら知らなかった。桂川の堤で見てからも、二度と逢うことのない人間だとしか思えなかった。だのに運命の不可思議さは、ふたたび二人を会わせた」
胸の迫るような気持だった。
ぱちりと花扇の眼が開いた。酔っているように定まらぬ瞳の色であったが、自分が見つめられていることを知ると、両手で顔を蔽《おお》うた。
「お人の悪い」
こちらも狼狽した。頬に上る血を感じながら、
「そなたがあまり美しいゆえ」
いとしさが、男の胸にこみ上げてきた。
静かな廊下を、草履の音がいそがしげに近づいて来て、隣りのひかえの間の前にとまった。
襖の開く音がして、ぼそぼそと話す声が聞えて、しばらくすると、忍びやかに声をかけた。
「もし、太夫様え」
花扇は顔をしかめて見せたが、声は晴れやかに、
「何でござんすえ」
「御客様のお宿許から、お人が見えました。お国許から、急飛脚で今しがた届いた手紙とかを御持参なされているとかでござんすが」
「わしにか?」
数馬は、老人へではないかと思ってそう云って問いかえしたが、
「いいえ、お若いお客様のほう、印東様へとのことでござんす」
「よし、入ってくれ」
数馬は起き上って、床の上に坐った。
[#8字下げ]七[#「七」は中見出し]
手紙は二通あった。
一通は叔父から、一通は母から。
数馬はまず叔父の手紙から読んだ。
花扇が甲斐甲斐しく引き寄せて、灯を掻き立ててくれる行燈の下で数馬は叔父の持前の判りにくい文字をたどっていたが、半分ほど読むと、愕然として顔色を変えた。
容易ならぬ文面だった。
このほど、藩では、せっかくの刺客がかえって殺されたことを怒って、老母に対してこういうことを云いわたした。数馬の隠れ家はもうこちらにはわかっている。それゆえ、そのほうから、数馬に帰国自首しておさばきを受けるように申してやれ。もし、数馬が帰国しなかったならば、数馬のかわりにそのほうを一生の間禁獄する――。無体な命令だとは思うが、何ともいたしかたはない云々……
花扇はおろおろと問いかけた。
「どうなされたのでござります」
数馬ははげしく首を振って、母の手紙を読んだ。
[#ここから2字下げ]
……泣く子に地頭、ぜひなきことにこそ。このうえは数馬に覚悟してもらうよりほかはなしと、おじどのは申され候て、母にもその旨申してやれと申され候えば、この文したため申せども、真実の母が心はそうでなく候。親の子をいつくしみ思うは生きとし生けるものの、本然の情。老いて末もなきこの身、そなたの生命にかわりて苦しむはかえってうれしきことに思いおり候。また、そなたは印東の家の名を後に残すべき身なれば、かまえてかまえて母が身など思いて帰国などなさるまじく。このこと背きて、帰国いたされ候ては、母はなげき悲しみ候ぞ。今生後生の不孝第一のことと思い候ぞ。いかなることをなされ候とも、今の母が身としては、そなたが心を強く持ちて、帰国せぬにまさる孝養はあるまじく……
[#ここで字下げ終わり]
数馬は後を読むに堪えなかった。
熱い母の情が火のように胸を灼《や》いて、涙があふれてきた。
「数さま、数さま……」
うつ伏して、泣き咽ぶ数馬の背を撫でて、花扇はのぞきこんだ。
「泣かしてくれ。思う存分、泣かしてくれ」
数馬は、項是《がんぜ》ない子供のように泣いた。
何という皮肉な、何という残酷な……
泣くだけ泣くと、数馬は顔を上げた。そして、心配げに自分を見つめている花房に、笑ってみせた。
「はしたないことをしたの」
青白い顔に浮んだその微笑は消え入るように哀しいものだった。
「どうなされたのございます」
「なんでもない、なんでもない。そなたに申したところで詮ないことじゃ」
女は黙っていた。そしてうつ向いたが、その膝にほろほろと涙がこぼれ落ちた。
泣いている?
意外さに、相手の気をはかりかねて、数馬はまじまじと女の顔を見つめた。
すると、女はまた顔を上げて、影のようにはかなく微笑した。
「今夜はじめておあいしただけのあたし、うかがってみたところで、どうしようもないことでござんした。ごめんなさい」
数馬はぎゅっと胸がしぼられるように感じた。
「聞いてくりゃるか」
いきなり、そう云って、女の手をつかんでいた。
「聞きましょうとも! いいえ、聞かしてくださいまし!」
女は強く数馬の眼を見つめて、はげしくからだをふるわした。
数馬の話はまたたき一つせずに聞いていたが、話が終ると、崩れるように胸に泣きすがった。
「それであなた様は、それであなた様は……」
「云うまでもないこと、帰らねばならぬ。母者がどう申されようと、子として母者に難儀がかかると知りながら、どうして見過しにできようか、帰らねばならぬのだ」
「そうでございましょうとも、そうでございましょうとも」
なおも、はげしく泣く花扇であった。
(なぜ泣くのだろう。なぞ、こんなにも泣いてくれるのだろう」
しみ入るような女の泣声を聞きながら、数馬は憂欝で、ものうかった。
夜が明けた。
「御宿もとから急ぎの使いがまいったとか聞きましたが、何でござったかな」
顔を合わせると、老人はきいた。
「あとで改めて申しあげます。別段なことはござりませぬ」
数馬は落ちついて答えた。昨夜の悲しみもなげきも忘れたように快活な明るい顔になっているのだった。
女たちは揃って、大門の見返り柳まで送って来た。
「そなたのこと、あの世に行っても忘れませぬぞ」
別れるとき、数馬は花扇に云った。微笑して、冗談めかした調子の言葉だったが、花扇は胸をしめつけられるような切ない思いがした。
「わたしも忘れませぬ……」
こちらも、冗談めかして答えようとしたが、言葉なかばに涙がにじんできて顔を伏せた。
陽のまだ出ない水色の空に、見残した夢のように淡い月が細くかかっている。
男たちの姿は、田植前の鋤返したり、水を張ったりした田圃の中の道をしだいに遠くなっていった。未練はないのであろうか、一度もふりかえらない。心強く逞ましく一歩一歩露じめりした大地を踏みしめて行く。
「一夜の情」
ふと口に上った言葉に、つめたい涙が頬を伝った。
[#8字下げ]八[#「八」は中見出し]
その夜、花扇は昨夜の老人の酒席に呼ばれた。
「あわれなことよ。あの若者は死ぬために帰国した。そちにくれぐれもよろしく申してくれと云って、朝のうちに発足した。おしい若者を殺すことの。浅からぬ因縁のあることであろう、線香の一つも手向《たむ》けてくれ」
二人は、とぼとぼと国許へ急ぐ若者の姿を思いやって、長いあいだ、黙って坐っていた。
このときから三年――
花扇は数馬の噂を聞かなかった、北陸筋の人に会ふたびにそれとなく聞いてみるのだが、誰も知らなかった。
我ながらあやしい心であった。
千人に枕を交し、千人に唇を許すといわれる遊女の身でありながら、花扇は数馬のことを忘れかねた。
夜ごとにかわる客の顔に、姿に、数馬のに似た人のあるときは心嬉しく、似ぬ人に会うときは悲しかった。
「恋。これが恋というもの、真実の恋というもの」
何という皮肉。恋の港ともいうべきこの廓にいて、この稼業でありながら、花扇はこれまで、真実の恋を知らなかったのだと思った。自分ひとりが知らないのではない。誰も知らない。この廓の女は誰も真実の恋を知らない。恋に似たものを恋だと思っているに過ぎないのだと、思った。それだけに、このところがいとしかった。親鳥が雛鳥をはぐくむように、花扇はこの念いを胸に抱きしめていた。
三年たって花扇は年季が明いた。
その前から、引かして妻にしようという大町人や、世話をしたいという客もあったが、花扇はずっとこれを断りつづけて、年季があくとともに、故郷《くに》に帰ると云いふらしておいて、人知れず加賀に向った。
京はまだ暑い夏だったが、加賀はもう秋がきていた。
大聖寺の町についた夜、花扇は数馬のことを知ることができた。
「お気の毒なことでござりました。こちらにお帰りになって十日ほど経って、切腹を仰せつけられなされまして、あえない御最期でござりました。ずいぶんとおひどい御処分と町人どもは申すまでもなく、御家中のかたがたでも仰せられる人々もござりますが、お上のほうでは、切腹ということにしたのは、格別のお情けによると申しておられますとか」
宿の主は、この見知らぬ美女と数馬とのあいだにどういう関係があるか、強い好奇心を抱きながらも、親切に教えてくれた。
もしかすると――と抱いてきたはかない望みも今は絶《き》れたが、花扇は静かな気持でいることができた。
翌日、やはり宿の主の教えてくれたまま、数馬の母を訪ねた。
数馬の母は、叔父の家に、吉之助とともに厄介になっているということだった。
秋晴れの寂然《しん》とした陽の照っている屋敷町を歩いて、花扇はめざす家についた。
思いもかけない人の訪問に、老母と吉之助とはいぶかしげに迎えた。顔を合せたとき、花扇は深い皺をたたんだ老母の顔に、吉之助の顔に、数馬の俤を見た。胸が迫って、堰を切ったように涙があふれてきた。
話を聞いているうちに、老母の顔にも深い感動の色が表れた。
「数馬はしあわせ者でござりました。今まではあれほどふしあわせな者はあるまいとなげいていましたが、そなた様ほどの人にそれほどまで想われていたこととは、何というしあわせ者でござりましょう。礼を云います。礼を云います」
皺深い顔に、限りもなくつづく涙を見ると、花扇はもう堪らなかった。
「母様!」と叫んで泣きすがった。
「おお」
老母は抱きしめて、花扇のかぼそい肩に顔を伏せて泣きむせんだ。
吉之助も泣き出した。数馬によく似た凛々しい顔をしたこの前髪の少年は、泣いてはならないと我慢しているらしく、きびしく唇をかみしめ、眼を瞑《つぶ》っていたが、いきなりわっと泣いて二人に縋りついた。
「母様と云わしてくださりませ。弟と云わしてくださりませ。もったいのうござりますが、そう云わして……」
「礼を云います、礼を云います」
あい抱いたまま、三人はいつまでも動かなかった。
底本:「抵抗小説集」実業之日本社
1979(昭和54)年2月10日 初版発行
1979(昭和54)年3月1日 二版発行
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)毛氈《もうせん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)分|月代《さかやき》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#8字下げ]
-------------------------------------------------------
[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
若草がもえて、葦の芽がのびている。真青に晴れた空だ。空いっぱいに銀粉をぶちまけたようにきらきらと陽の光が光ってあふれて、眼のむくところ、野にも、つつみにも、水のうえにさえ、かげろうがゆらゆらともえている。
緋の毛氈《もうせん》をしいてお重をひろげて、ひさどの酒が二三巡めぐると、だれももうじっとしてはいなかった。
おもいおもい勝手なところにちらばって、つくしをぬいたり、花をつんだり、追っかけごっこをしたり、蓮葉なくらいにぎやかな声を野面いっぱい、空いっぱいにひびかせているのだ。
はなやかな情景である。
色とりどりな南京玉を緑のびろうどのうえにばらまいたようなとでもたとえようか――鳥のように空のたかいところにあって、この情景を見おろすことができたら、きっとそうたとえたにちがいない。
京の島原の置屋、叶屋の遊女たちの野あそびなのである。
太夫、天神、白人、鹿恋《かこい》――などと、この社会にもいろいろと階級があって、おなじく人にこびを売る身の上ながら、いつもは厳重なきまりがあるのだが、きょう一日はそんなことはわすれようと――いわば、今の言葉でいう慰安日なのである。
太夫の花扇《はなおうぎ》は見るものすべてがめずらしかった。もともと花扇は丹波の在所のうまれであるが、六つの年に叶屋に買われてきて、ことし十七になるまで、年に一度のこの野あそび以外には廓《くるわ》のそとに出たことがない。それゆえに、こうして一年ぶりに野に出て、空をあおぎ、野の草を見、水のながれを見ると、おさないときのおもいでがかすかな哀愁をとめた。なつかしさをともなってよみがえってくるのである。
「これは茅花《つばな》というもの。たべられるのですえ」
八つになる禿《かぶろ》の曳手《ひくて》におしえて、絹糸のようにやわらかな芽花を剥いてたべて見せているところに、もうひとりの禿の曳代《ひくよ》が風をきるようないきおいでとんできた。
「太夫さま、こちらにいらっしゃい。こちらに。お地蔵さまが赤いよだれかけかけていなさります」
長い裾をかいがいしくからげて、はしゃぎきった声だ。まるい頬は色づいたくだもののように赤くなって、こまかな汗がこばなのあたりににじんでいる。酔ったように懸命な眼の色をしている。
花扇はわらった。
「お地蔵さまはどこのお地蔵さまも赤いよだれかけをなすっていらっしゃるに」
「いいえ、かわいい顔していらっしゃるお地蔵さまなの。かわいい顔を……」
そして花扇の手をひっぱって、ぐんぐんつれて行くのだ。
つつみをあがったところに竹藪があって、その地蔵さまは竹藪の外れにあった。
ちいさい地蔵さまだ。たけは一尺七八寸、二尺とはあるまい。色のあせた赤いよだれかけを幾枚もかけて、寂然とひなたぼっこをなすっていらっしゃる。なるほど、かわいいまるであかんぼのようにあどけない顔をしている。
「まあ、お人形さまのようね」
花扇は云って、手を合わせてふしおがんだが、もうそのときは、当の曳代は、自分がひっぱって来たことなどわすれたように、そのあたりをはしりまわりながら、小石をひろっては、つつみの下の水に投げこんでいるのだ。とろりとすこしよどんで淵になったしずかな水面に、どぼんどぼんと石の落ちるたびに、ゆらゆらと波紋がひろがっていくのがうれしくてたまらないらしいのである。
ちょいとおもしろそうだ。
覚えず、心をさそわれて、花扇が石をひろったときだった。
「こりゃたまらん」
いきなり淵の岸の枯れた葦がすさまじくしげっているところに声がしたかと思うと、のっそりと立ちあがった男があった。
武士《さむらい》――それも五分|月代《さかやき》で、浪人風と見えた。釣竿を手にもっている。
武士は、器用な手つきで糸をくるくると竿にまきつけると、魚籠《びく》をさげてのそのそあがって来た。
こちらはどきっとした。
知らないこととはいいながら、釣をしているところにめがけて石をなげこんだのだ。花扇も、曳手も、曳代も、恐怖のために真青になった。
が、浪人は、はらをたてているようすはみえなかった。年頃、二十四五とみえたが、あさぐろい、凛々《りり》しいといいたいほどきりっとしまった顔に、気楽な微笑をうかべて、三人を見たのである。
「いたずらをするのう」
「すみません。釣をなすっていらっしゃると知らなかったものですから」
相手のきさくなようすに、ほっとして、わびると、
「いや、釣れないので、竿をおいたままいねむりしていたのだて。はははははは」
風のようにこだわりのない声でわらって、ぶらぶらと行ってしまった。
「あたい、どないしようかと思うた。こわかったわ」
「だけど、あの浪人さんやさしい人ね」
陽のななめにさしている竹藪のわきを、魚籠をふりふり遠ざかって行くうしろすがたを見おくりながら、二人の子供らははなし合ったが、しばらくたつと、もうすっかりわすれてしまったらしく、まえにもまして、快活に、乱暴にはしりまわって遊びたわむれた。
花扇もわすれた。
子供にかえって、子供といっしょにはしゃいで一日を送った。
が、その日、灯ともしどきになって、家にかえって部屋におちついて、すこし疲れを感じた足を人に揉ましているとき、なんのきっかけもなく、あの浪人のことを思いだした。
笑ったとき、歯が美しかったこと、眼がきれながで、真黒で美しいくせに、気象の精悍《せいかん》さをそのままにあらわしたように光がつよかったこと、剃あとの青いあごのあたりに微かな剃刀《かみそり》傷があったこと――まざまざと思いうかべられたのである。
じっと、その俤《おもかげ》を追っていると、胸がときめいて、からだじゅうが熱くなるようなきもちだった。
おさないときから色里に育っている彼女には、このきもちがなにを意味するかよくわかっている。
(どうしたのだろう、あたしは……)
花扇は、われながら自分の心がわからずに、眼をとじた。
長いよくそろったまつげが、花びらのような瞼の上にちりちりと小きざみにふるえていたのである。
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
一方、男のほうである――
男は堤の上を久世《くぜ》の橋まで行って、そこから西国街道を京のほうに向った。
男の住居は下京の八条、東寺の学寮の坊さんたちを相手に筆や墨や紙などを商う家の離室《はなれ》であった。店の横の露路から入って、板塀についた片びらきの戸を開くと、樹木の多い庭があって、そこに、南を受けて陽あたりよく建っているのだった。
「お帰りやす。たんと釣れましたでございますか」
庭に出ていた若い手代がそばに寄って来て魚籠をのぞきこんだ。
「釣れぬな。いい気持で、半日昼寝してきた」
男は笑って、釣竿のしまつをしてから、井戸端に入って、小桶に水を張って釣ってきた五六尾の小鮒を丹念にうつして、しばらく楽しげに眺めた末、手や顔を洗って離室に入って行った。
離室は、入口が三畳、奥が六畳になっている。青年は奥の六畳に通って、明るい障子際にすえた机の前に坐った。心気を静めて読書でもしようとするのだろう。香をたいて端坐して眼を閉じていたが急に疲れが出たのだろう、ごろりと横になった。
すぐ、軽い眠りに入ったが、うとうととしている間に夢を見た――
最初のうちはどこだかわからなかった。
たそがれどきのような幽暗の中に一人の女が立っていた。見たことのあるような女なので、近づきながらしきりに眼を凝らしたが、よくわからない。
いらいらした気持だった。
「こまる、じつにこまる」
彼はそうつぶやいた。その女は、美しい声で云った。
「すみません。すぐわかります」
すると、どういうわけか、あたりがにわかに明るくなった。
華やかな陽が氾濫している若草の堤の上である。
「わかりまして?」
女はあでやかに笑った。したたるような黒い眼が媚《こび》をもって、花びらのように笑みわれる紅い唇の中から白い歯が花蕋《かずい》のようにきらきらと光った。
こちらは狼狽して、胸が急にどきどきしはじめた――
途端に眼をさました。
全身にびっしょりと汗をかいて、はげしい波に乗っているように動悸がからだ全体をゆり動かしていた。
そのときになって、はじめて、はっきりと気がついた。
きょう、桂川の堤の上で見た遊女だったのだ。
青年は汗も拭かずに、長いあいだ、身動きもしないで天井を見つめていたが、やがて、にがにがしい笑いがその顔に浮かんだ。
自嘲するような笑いだった。
「おれが、人の家に厄介になってやっと生命をつないでいるおれが……」
そして、はげしい動作で起き上ったとき、庭に足音がした。
「印東《いんどう》さま」
「はい」
手をのばして障子を開けると、この家の主人が、今外出先から帰ったところか、折目のついた外着姿で、煙草入を携えてにこにこ笑いながら立っていた。いかにも、坊さん相手に筆墨でも商っている店の主人らしく、小肥りに肥って、色の白い品のよい四十がらみの主人である。
じつを云うと、青年は、この人の来るのを先刻から心待ちしていた。釣と、この人を相手の碁とが無聊な毎日を慰めるものになっているのだった。
「お上りください」
主人が上ると、青年は、すぐ床の間の碁盤を持って来ようとした。すると、主人はあわてて遮った。
「それもですが、その前に、きょうは吉報をお伝えしたいと思いましてな」
「…………」
「きょう、東寺様の執行所にまいりますと、阿州の蜂須賀《はちすか》様の御重臣のかたが見えておりましてな、このかたは、東寺様の檀那衆で、わたくし前から御|贔屓《ひいき》にあずかっているかたでございますが、ふとあなた様の御話をいたしましたところ、そういうお人ならばぜひお近づきになりたい。じつは国許において、このたび、若君御成年につき御近侍として、腕の立つ人を求めているところゆえ、お近づきになったうえで、そちの云うとおりのお人ならば、御推挙したい――とかように仰せられます。願ってもないこと、とわたくし飛んで帰って着替えもせずにまいったのでございますがいかがでございましょうか」
青年は礼をのべて、なおよろしく頼むと云った。
「それでは、今夜にでも、御旅館に伺いましょう。東寺様の中の瑞春院へお泊りでござりますゆえ、わけはござりません。なに、きっとうまくまいりましょう。おめでたいことで――では一石いきますかな。いや、まず、着替えをしてまいります」
主人は母家に帰って行った。
そのころになって、青年はやっと嬉しくなってきた。わけあって、国許を退転して二年、普通の浪人のように生活苦こそなかったものの、よりどころのない心細さは身にしみて感じていた。
[#8字下げ]三[#「三」は中見出し]
青年は名を印東|数馬《かずま》という。
加賀の大聖寺前田《だいしょうじまえだ》家の浪人である。
二年前の正月――
ふとしたことから、出頭の権者《きりもの》石田半左衛門《いしだはんざえもん》を斬らねばならぬことになった。
ことは子供の喧嘩から起った。
数馬の弟の吉之助が、侍小路の辻で、友達と一緒に獅子舞を見物していると、石田家の次男が押しのけて前に出ようとした。咎めだてすると、供していた石田の仲間が突き飛ばして、
「糊米ほどの御扶持をもらっていても、お侍面ができますのかな」
と雑言したうえ、斬って捨てようとするのを雪解のぬかるみに押し倒したというのである。数馬は昂奮して、無礼な下郎を手討にしてくれと泣き叫けぶ弟を慰めて、石田家からの使者の来るのを待った。これほどの無礼を自家の下郎が働いたのだから、きっとわびの挨拶に来るものと思った。
が、夕方まで待っても何の音沙汰はなかった。
数馬は心を決して、母の前に出て、このうえはこちらから石田かたに行くほかはないと云った。
行くということは、石田を斬りに行くということである。斬れば、たとへ手際よくしとめることができたとしても、数馬の身は安穏ではおられない。殿の覚え第一の権力者を斬ったとあっては、御怒りにふれてよくいって切腹か、悪くすれば斬罪か――母はおどおどと云った。
「高の知れた子供の喧嘩のようなもの、取りあげてかれこれ云うほどのことはあるまいと思いますがの」
数馬は行かなければならない理由をのべた。
「下郎の分際として、士分の者に対して糊米ほどの知行《ちぎょう》云々などと雑音を吐きかけたことはひとり吉之助を罵ったのみではなく、わたくし、ひいては亡父上をも併せて罵ったものなること一つ。かほどの無礼を自家の下郎に働かせながら、今まで挨拶なきは当家を小身と思い侮ってのこととしか考えられぬこと、これ二つ。石田は大身、しかも覚えめでたき当時第一の権人なるにくらべて、当家は小身なれば、これを黙していては、権威に怯けて武士たるの道を取り外したと批判さるべきこと必定なること、これ三つ。とかく、まいらねばすまぬことでござります」
母の泣くのを見て、吉之助はわっと泣き出した。
「兄様、嘘でござります。吉之助は喧嘩などいたしませぬ。誰も吉之助を手込めにもせねば雑言もしませぬ。あれは嘘でござりました。このまま家にいてくださりませ」
と叫びながら兄の胸に武者ぶりついて泣いてとめたが、数馬はその手をもぎはなし、叱りつけて出て行った。
見事に数馬は石田と下郎を斬った。
はじめの計画では、その場を去らずに切腹するつもりであったが、そこに駆けつけた叔父や一族の者はそれをとめて、
「このたびのことは、誰に聞かせようと、石田が悪い。されば、一時は殿も御怒りになるかも知れぬが、いずれは御怒りをお解きになって、帰参、赦免の御沙汰が下るに相違ないと思わる故、当分のところ、国許を去っておれ」
と云って、叔父の囲碁友達である檀那寺の住職から、今、数馬が厄介になっているこの家の主人にあてた添状をもらってやって、京都に向わしたのである。
頼って来たこの家では、親切に世話してくれたが、国許の事情は予想とうらはらだった。寵臣を殺された殿の激は募る一方だった。まず、叔父をはじめ一族の者がそれぞれ罪を問われた。ほしいままに徒党して藩中を騒がしたという罪状であった。わりに軽い処罰ですみはしたものの、一時はどうなるかと案ぜられたほどだった。
もちろん、数馬の行くえは、厳重に探索された。母も、叔父も、一族の者も、幾度となく尋問を受けた。
この知らせを数馬は、国を立去って半年目に受け取った。
[#ここから2字下げ]
……皆様、心を一つにして口を固くなしてくだされ候により、御案じなさるまじく。しかし、御家中よりお前様探索の人も出ている由なれば、くれぐれも御用心なされて、皆様をはじめ、母が心づくしを無になさるようなことなきよう、たのみまいらせ候……
[#ここで字下げ終わり]
こういう母の手紙だった。
数馬は母や一族の人々の情を泣いて感謝したが、このときから、前途に何の希望も持てぬ頼りない浪人の生活に落ちたのだった。
さびしかったし、苦しかった。
さびしかったのは、二度ともうなつかしい故郷を踏むことのできない身となったことだったし、苦しかったのは、母と弟とがどうして生活しているかと考えることだった。殿の怒りがそれほどにはげしいものならば、印東の家がそのままにしておかれるわけのものではない、きっと、家禄没収の処分になっていると想像された。どうして生活しているか、多分は叔父か一族の者の家にかかり人《うど》になっているのであろう。だが、きいてやっても、それについては母も叔父も確かな返事はよこさなかった。心配することはない、もったいないほど毎日を安楽に過している――とのみ書いてよこすのだった。押して聞いてやりたかったが、数馬はそれをしなかった。たとえ、本当のことを知ることができたとしても、今の数馬にどうすることができよう――
せつない念《おも》いを抱いて、数馬は母と弟との毎日を思いやるのみだった。
[#8字下げ]四[#「四」は中見出し]
その夜数馬は主人とともに瑞春院《ずいしゅんいん》を訪れた。
「ようこそ在せられた」
阿州家の重役というのは、六十年輩の恰幅のよい人であったが、愛想よく数馬を迎えてくれた。
「どうですな、阿波へいらせられますか」
それとない世間話の間に、数馬の人物を見ていて気に入ったのだろう、くだけた調子でこう云った。
「ありがとうござります。願ってもなきことでござりまするが、一応、拙者の身の上をお話しいたしたうえにて、なお、それにてもかまわぬとの仰せなれば、お言葉にあまえたいと存じまする」
数馬は、自分の素性、経歴を漏もなく物語った。
「いや、よろしい。拙者とて、さような立場におかれてはきっと貴殿と同じことをいたしたに相違ござらぬ。武士としてはやみ難きこと、よくぞいたされたと申したい」
頼もしく云ってくれるのだった。
「ありがとうござる」
感じ易くなっている数馬は涙ぐんだ。
その夜はそれですんだ。
「当分のうち、拙者はまだこちらに滞在いたさねばなりませぬ。夜はたいていの日、ひまでござれば、ちょいちょい遊びに来てくだされ。帰国いたすまでのあいだに、精々お知合いになっておきましょうぞ」
別れるとき、そう云ってくれたのだった。
数馬は二三日おきに訪問した。
格別な用談もなかった。碁を囲んだり、雑談をしたり、酒の相手をしたり、ときによるとちょいとした用を頼まれたりするうちには、すっかりうちとけてしまったし、相手もますます数馬が気に入ったらしかった。
春がたけて、宇治川の螢の噂などがちらほらと立つころだった。
その夜も、数馬は瑞春院に行って、酒の御馳走になって、かなりに更けてから帰途についた。
月のない、うるんだように星の美しい夜だった。ほろ酔いの顔をさわやかな夜風になぶらせて、くねくねと曲って、堤の上から濠をのぞきこむように斜にのびた老松が四五間おきに並んでいる東寺の濠端を、住居のほうに帰って行くうち、ふと前方の松の蔭に黒い人影がかくれたように思った。
敵を持つ身には寸時の油断もない。一時に酔はさめた。腰をさぐって、刀の鯉口を押し切って、いつでも応戦のできるようにしたくをととのえはしたが、足どりは依然として変らぬゆるやかさで近づいて行った。
三間ばかりの距離まで近づいた。
武士だ。二本差している。だが、その姿は、向うむきになったまま、左手を松の幹にかけて、落ちついた姿で白く光っている濠を見ているのだ。涼みにでも出たような迫らない姿だった。
(違ったかな)
と思ひながら、油断なく横目で見ながら通り過ぎようとした。
途端!
敵は意外なところから出た。人ありとも見えなかった堤の中程から毬《まり》の弾むようにおどり出して来た者があって、さっと足許を薙いだ。
「卑怯!」
一躍して、刎《は》ね越えて、その足がまだ地につくかつかないかに、最初の武士が旋風《つむじかぜ》の翻るように身をかえして、片手なぐりに斬って下りてきた。
かわす間はなかった。受ける間もない。数馬は、抜いた刀をそのまま、左手を刀棟《むね》にそえて突進した。
このはげしい数馬の刀法に、敵は狼狽して飛び退ろうとしたが、高みからはずみをかけて駆け下ってきた体勢は、退りきれず、かわしきれず、どうと横倒しになって、からくも胸を突かれることは避け得たが、したたか肩先を突かれていた。
数馬は、突いた刀を引き抜くや、片膝ついて、さっと後を払った。
勁烈《けいれつ》、俊敏をきわめた刀法に拝み討ちに背後から迫っていた敵は、悲鳴に似た叫びをあげて飛び退った。鳥の舞い立つように数馬は立ち上って、一飛びに堤に駆け上って老松を小楯に取った。
「何者だ! 人に狙わるる覚えある身ながら、聞こう、名乗れ!」
と叱咤したが、名乗らない。無言のまま、じりじりと両方からつめてくる。だが、最初の一撃を食って、一人の構えは著しく脆弱だ。ともすれば、切先が下り気味になるし、ふるえるし、足許もよろめくように見えながら、一歩も退ろうとしない。ふいごを押すようなせわしない、呼吸をきざみながら、きりきりと歯を噛みならしながら近づいてくるのである。
「名乗れ!」
重ねて、数馬は叱咤したが、同時に相手の顔がわかった。二人ともに、前田家の若い家臣の中で、使い手の評判を取った青年たちであった。
「尋常に立合っては、所詮かなわぬと見て、この闇撃か。これが上意討の作法といえるか……」
と罵ったとき、やや離れた闇の中から声がかかった。
「印東殿、存分に働かれい。身共、これにて御技倆のほど、とっくりと見せていただく」
今別れてきた阿波の重役の落ちつきはらった声だった。
二人がかりで、しかも闇撃に等しいことをしてさえ、この苦戦になったのだ。数馬に助勢――たとえ、それが口先だけのものであろうとも、――が出ては、もう敵でなかった。目に見えて刀法に精彩のなくなってきた二人だった。またたく間、数馬は斬って捨てた。
「お見事」
老人は、近づいて来て、数馬の肩を叩いてほめた。
[#8字下げ]五[#「五」は中見出し]
この事件があってから、老人はいっそう数馬が気に入ったように見えた。数馬の訪問を待ちかねて、少し遅くなると、迎えの者をよこすほどになった。
二十日ばかり立って、いよいよ両三日のうちに阿波に立つという日のことだった。
いつになく、まだ日も没《はい》らない時刻に、老人は迎えの者をよこした。
「きょうは、ちと趣向があるゆえ、至急に来ていただきたい」
という口上である。
行ってみると、門前に駕を二挺置いて、老人は外出の身支度をして待ちかねていた。
「やあ、来られたな。待ちかねましたぞ。さあ、出かけましょう」
「どこにいらせられるのでござります」
「黙ってついて来られい。面白いところへまいるのだ」
腑に落ちなさそうな顔をしていると、老人は、からからと笑って、
「太夫買ひにまいるのじゃよ」
「え?」
「ははははは、御用向きもことなくすんだし、帰国の日も迫ったし、京の名残に島原とやらへ行ってみるも一興と存じてな。はははははは」
これは意外だった。特別な趣向があるというのだから、螢狩りにでも行くつもりかとは思いはしたものの、廓へ行くのだとは思いもかけないことだった。
「おいやか。若いに、お固いことだな」
ひやかすように老人は笑う。
「いやではございませんが」
若いだけに、そぼろな自分の服装がいささか気恥かしい。むろん、ここへ訪ね来るときは、礼儀上、いつもよそ行きの着物を着ては来るものの、遊里に行く人の着るものにくらべては話にならない粗末さである。
だが、今度は、そんなことを考える心が恥かしくなった。
「まいります。まいりますとも」
思わず知らず断乎とした調子になっていたのである。
「ははははは、そう力まずともよろしい」
東寺から島原の廓までは十町あるやなしやの距離である。二人は、日が没ったか、没らぬかに島原についた。
大門で駕籠を下りて当時の悪所通いの風習に従って、茶屋で借りた編笠を目深かに、狭い通りを揚屋のほうに歩いて行った。軒につるした華麗な提灯、白粉の濃い女たちの行きかい、至るところから湧いてくる絃歌のさんざめき、見るもの、聞くもの、数馬には皆めずらしい。数馬は、次第に自分の心が落ちつきを失ってくるのを感じた。
「あれ!」
足許から悲鳴が起ったかと思った。
「あ!」
数馬は、驚いて一足退った。
女の子である。長い袂を胸に抱いて、禿に切りそろえた髪をゆさゆさと肩に打たして、濃い白粉、濃い口紅、八つばかりの子が、黒い眼をみはって立ち竦んでいるのだ。ぼんやり歩いていて、突き当ろうとしたらしいのである。
「これは失礼」
数馬はわびて、すり抜けて行こうとしたが、ふとその子供の後二三間のところに、同じような、禿を前に立てて、男衆を後ろに従えて微笑をふくんで立っている遊女の姿を見ると、あっと小さく叫んだ。
あの女だ。
服装こそ、あのときと違って、えびらにさした矢のようにたくさんの笄《こうがい》をさし、金銀の糸で繍《ぬ》った華麗な裲襠《うちかけ》の褄を右手に取って、左の脇を張って、素足に丹塗の下駄――という姿でいるが、まごうかたなく、この春、桂川の岸で見た女に相違なかった。
数馬はそこを動けなかった。たちまちのあいだに、見るもの、聞くもの、一切の意識が去って、女の姿のみが、闇の中の一点の光明のように残った。
突立ったまま動かない数馬を、禿は不審そうに編笠の下から覗きこんだが、
「あら、魚釣りの浪人様やわ」
と叫んで、こっぽりにつけた鈴をちゃらちゃらと猫のように鳴らして、花扇の側に走り寄って呼吸をきらして云った。
「花扇様、あのときの浪人様よ。桂川に摘草に行ったとき、釣をしていらした浪人様があったでしょ。あたしと曳代さんと石を投げた……」
花扇の顔にも動く色があった。
しとやかに近づいてきて、こぼれるようなあでやかな微笑とともに、
「あの節はとんだ御無礼を」
「いや、なに……」
そのときになって、数馬ははじめて、五六間向うで、老人がからかうような微笑を浮かべて待っていることに気がついて、かっと顔が熱してきた。
「失礼、連れが待っておりますゆえ」
そして、老人の側に近づくと、老人は早速にからかった。
「えろうむつまじげでござったな。お馴染かの。固そうに見せかけていて、案外に味なところを見せるお人だの。何屋の何という太夫でござる。うかがっておかんと、余の太夫ではお気に召すまいでの」
弁解したが、老人は面白がって聞こうとしない。
「いや、おうかがいせずともわかるわかる」
そして、引手茶屋からの案内の男衆に聞きはじめた。
「なに、叶屋の花扇? そうか、そうか――お馴染は叶屋の花扇と申すのでござるとの。地獄耳、こう聞いたからにはめったに忘れることではござらぬ」
[#8字下げ]六[#「六」は中見出し]
現とは思えない。酔った頭には夢の中に夢を見ているような気がする。
百花織乱の花畠に遊ぶ春禽を描いた六曲の大屏風、螺鈿《らでん》の小机、銀の香爐から立昇る糸筋ほどに細いしなやかな香煙、丹漆の絹行燈《きぬあんどん》のひろげる柔らかな光――茫然とした眼で、数馬は見廻していた。
「どうしてこんなことになったのだろう」
この家に来ると、老人は叶屋の花扇を呼ぶように云った。
(花扇様?――さあ、今全盛の太夫衆、よほどのお馴染でございませんと……」
みすぼらしい数馬の姿を見て、渋る色が仲居にはあった。
数馬は居ても立ってもいられないほどの羞恥を感じた。
(いらぬいらぬ、拙者はただの御供でまいったのじゃ。女など滅相もない)
と首を振ったが、老人は強引におさえつけた。
(人をみくびるにもほどがあるぞ。口をかけてみい。飛んで来る。たとえ大名衆の席に呼ばれていようとも、きっと来る。そちはこの美男と花扇とがとんだ深間であることを知らぬな」
仲居は困りきった顔をして席を出て行った。
それからの数馬の心の苦痛は言語に絶した。来るはずはない、いい恥をかくばかりだと思いはしても、万一をたのむ心をおさえることはできなかった。この相反する二つの感情のあいだに、数馬の心は波に揺り動かされる小舟のように動揺した。
が――
その花扇が来たのだ。
何という喜びであったことか!
それからのことは、夢の中に夢をたどるような気持だ。
酒席をひけにしてからのことも、朧月夜に真珠色の霧を透して見るように、おぼろで、あまく、やわらかで、なつかしく……
(あのときから、、わたくし、あなた様を忘れかねていました)
はじらいながら、そう云ったのである。
(拙者も……)
と舌の先まで出てきた言葉を、数馬はのみこんだ。
遊里の女、恋とからだを金で取引きする女の、めずらしからぬ口舌ではないか――ほろにがく、おのれのあまい心をわらった。
その数馬の心の動きがわかったのであろうか。女はもう何にも会わなかった。哀しげに涙ぐんでいた。それすらも、数馬は心の隅でつめたく考えた。これは、こうした女の手練とやらいうもの。二度とふたたびくることのできぬ廓、手練と知りつつ乗って遊ぶも一興――
華やかな嬌声と、絃歌と、ひっきりなしに表を往来していた素見《ぞめき》の足音が、いつのまにともなく絶えると、にわかに夜の更けたことが痛いほど感ぜられた。
やや狭げに見える磨き上げたように白くつややかな額、細く、濃く弧を描いた端正な眉、匂やかな影を頬に投げている長い揃った睫毛は、刻み上げたようにくっきりとした鼻を出入するおだやかな呼吸のたびにちりちりとふるえている。乳色の頸筋にぽつりと一点ある黒子《ほくろ》は、何と蠱惑《こわく》的なのだろう。それは、白磁にはめこんだ黒曜石のようにつややかに見えた。
「どういう因縁が、おれとこの女とのあいだには結ばれていたのだろう。この春まで、おれはこの女がこの世にいるということすら知らなかった。桂川の堤で見てからも、二度と逢うことのない人間だとしか思えなかった。だのに運命の不可思議さは、ふたたび二人を会わせた」
胸の迫るような気持だった。
ぱちりと花扇の眼が開いた。酔っているように定まらぬ瞳の色であったが、自分が見つめられていることを知ると、両手で顔を蔽《おお》うた。
「お人の悪い」
こちらも狼狽した。頬に上る血を感じながら、
「そなたがあまり美しいゆえ」
いとしさが、男の胸にこみ上げてきた。
静かな廊下を、草履の音がいそがしげに近づいて来て、隣りのひかえの間の前にとまった。
襖の開く音がして、ぼそぼそと話す声が聞えて、しばらくすると、忍びやかに声をかけた。
「もし、太夫様え」
花扇は顔をしかめて見せたが、声は晴れやかに、
「何でござんすえ」
「御客様のお宿許から、お人が見えました。お国許から、急飛脚で今しがた届いた手紙とかを御持参なされているとかでござんすが」
「わしにか?」
数馬は、老人へではないかと思ってそう云って問いかえしたが、
「いいえ、お若いお客様のほう、印東様へとのことでござんす」
「よし、入ってくれ」
数馬は起き上って、床の上に坐った。
[#8字下げ]七[#「七」は中見出し]
手紙は二通あった。
一通は叔父から、一通は母から。
数馬はまず叔父の手紙から読んだ。
花扇が甲斐甲斐しく引き寄せて、灯を掻き立ててくれる行燈の下で数馬は叔父の持前の判りにくい文字をたどっていたが、半分ほど読むと、愕然として顔色を変えた。
容易ならぬ文面だった。
このほど、藩では、せっかくの刺客がかえって殺されたことを怒って、老母に対してこういうことを云いわたした。数馬の隠れ家はもうこちらにはわかっている。それゆえ、そのほうから、数馬に帰国自首しておさばきを受けるように申してやれ。もし、数馬が帰国しなかったならば、数馬のかわりにそのほうを一生の間禁獄する――。無体な命令だとは思うが、何ともいたしかたはない云々……
花扇はおろおろと問いかけた。
「どうなされたのでござります」
数馬ははげしく首を振って、母の手紙を読んだ。
[#ここから2字下げ]
……泣く子に地頭、ぜひなきことにこそ。このうえは数馬に覚悟してもらうよりほかはなしと、おじどのは申され候て、母にもその旨申してやれと申され候えば、この文したため申せども、真実の母が心はそうでなく候。親の子をいつくしみ思うは生きとし生けるものの、本然の情。老いて末もなきこの身、そなたの生命にかわりて苦しむはかえってうれしきことに思いおり候。また、そなたは印東の家の名を後に残すべき身なれば、かまえてかまえて母が身など思いて帰国などなさるまじく。このこと背きて、帰国いたされ候ては、母はなげき悲しみ候ぞ。今生後生の不孝第一のことと思い候ぞ。いかなることをなされ候とも、今の母が身としては、そなたが心を強く持ちて、帰国せぬにまさる孝養はあるまじく……
[#ここで字下げ終わり]
数馬は後を読むに堪えなかった。
熱い母の情が火のように胸を灼《や》いて、涙があふれてきた。
「数さま、数さま……」
うつ伏して、泣き咽ぶ数馬の背を撫でて、花扇はのぞきこんだ。
「泣かしてくれ。思う存分、泣かしてくれ」
数馬は、項是《がんぜ》ない子供のように泣いた。
何という皮肉な、何という残酷な……
泣くだけ泣くと、数馬は顔を上げた。そして、心配げに自分を見つめている花房に、笑ってみせた。
「はしたないことをしたの」
青白い顔に浮んだその微笑は消え入るように哀しいものだった。
「どうなされたのございます」
「なんでもない、なんでもない。そなたに申したところで詮ないことじゃ」
女は黙っていた。そしてうつ向いたが、その膝にほろほろと涙がこぼれ落ちた。
泣いている?
意外さに、相手の気をはかりかねて、数馬はまじまじと女の顔を見つめた。
すると、女はまた顔を上げて、影のようにはかなく微笑した。
「今夜はじめておあいしただけのあたし、うかがってみたところで、どうしようもないことでござんした。ごめんなさい」
数馬はぎゅっと胸がしぼられるように感じた。
「聞いてくりゃるか」
いきなり、そう云って、女の手をつかんでいた。
「聞きましょうとも! いいえ、聞かしてくださいまし!」
女は強く数馬の眼を見つめて、はげしくからだをふるわした。
数馬の話はまたたき一つせずに聞いていたが、話が終ると、崩れるように胸に泣きすがった。
「それであなた様は、それであなた様は……」
「云うまでもないこと、帰らねばならぬ。母者がどう申されようと、子として母者に難儀がかかると知りながら、どうして見過しにできようか、帰らねばならぬのだ」
「そうでございましょうとも、そうでございましょうとも」
なおも、はげしく泣く花扇であった。
(なぜ泣くのだろう。なぞ、こんなにも泣いてくれるのだろう」
しみ入るような女の泣声を聞きながら、数馬は憂欝で、ものうかった。
夜が明けた。
「御宿もとから急ぎの使いがまいったとか聞きましたが、何でござったかな」
顔を合わせると、老人はきいた。
「あとで改めて申しあげます。別段なことはござりませぬ」
数馬は落ちついて答えた。昨夜の悲しみもなげきも忘れたように快活な明るい顔になっているのだった。
女たちは揃って、大門の見返り柳まで送って来た。
「そなたのこと、あの世に行っても忘れませぬぞ」
別れるとき、数馬は花扇に云った。微笑して、冗談めかした調子の言葉だったが、花扇は胸をしめつけられるような切ない思いがした。
「わたしも忘れませぬ……」
こちらも、冗談めかして答えようとしたが、言葉なかばに涙がにじんできて顔を伏せた。
陽のまだ出ない水色の空に、見残した夢のように淡い月が細くかかっている。
男たちの姿は、田植前の鋤返したり、水を張ったりした田圃の中の道をしだいに遠くなっていった。未練はないのであろうか、一度もふりかえらない。心強く逞ましく一歩一歩露じめりした大地を踏みしめて行く。
「一夜の情」
ふと口に上った言葉に、つめたい涙が頬を伝った。
[#8字下げ]八[#「八」は中見出し]
その夜、花扇は昨夜の老人の酒席に呼ばれた。
「あわれなことよ。あの若者は死ぬために帰国した。そちにくれぐれもよろしく申してくれと云って、朝のうちに発足した。おしい若者を殺すことの。浅からぬ因縁のあることであろう、線香の一つも手向《たむ》けてくれ」
二人は、とぼとぼと国許へ急ぐ若者の姿を思いやって、長いあいだ、黙って坐っていた。
このときから三年――
花扇は数馬の噂を聞かなかった、北陸筋の人に会ふたびにそれとなく聞いてみるのだが、誰も知らなかった。
我ながらあやしい心であった。
千人に枕を交し、千人に唇を許すといわれる遊女の身でありながら、花扇は数馬のことを忘れかねた。
夜ごとにかわる客の顔に、姿に、数馬のに似た人のあるときは心嬉しく、似ぬ人に会うときは悲しかった。
「恋。これが恋というもの、真実の恋というもの」
何という皮肉。恋の港ともいうべきこの廓にいて、この稼業でありながら、花扇はこれまで、真実の恋を知らなかったのだと思った。自分ひとりが知らないのではない。誰も知らない。この廓の女は誰も真実の恋を知らない。恋に似たものを恋だと思っているに過ぎないのだと、思った。それだけに、このところがいとしかった。親鳥が雛鳥をはぐくむように、花扇はこの念いを胸に抱きしめていた。
三年たって花扇は年季が明いた。
その前から、引かして妻にしようという大町人や、世話をしたいという客もあったが、花扇はずっとこれを断りつづけて、年季があくとともに、故郷《くに》に帰ると云いふらしておいて、人知れず加賀に向った。
京はまだ暑い夏だったが、加賀はもう秋がきていた。
大聖寺の町についた夜、花扇は数馬のことを知ることができた。
「お気の毒なことでござりました。こちらにお帰りになって十日ほど経って、切腹を仰せつけられなされまして、あえない御最期でござりました。ずいぶんとおひどい御処分と町人どもは申すまでもなく、御家中のかたがたでも仰せられる人々もござりますが、お上のほうでは、切腹ということにしたのは、格別のお情けによると申しておられますとか」
宿の主は、この見知らぬ美女と数馬とのあいだにどういう関係があるか、強い好奇心を抱きながらも、親切に教えてくれた。
もしかすると――と抱いてきたはかない望みも今は絶《き》れたが、花扇は静かな気持でいることができた。
翌日、やはり宿の主の教えてくれたまま、数馬の母を訪ねた。
数馬の母は、叔父の家に、吉之助とともに厄介になっているということだった。
秋晴れの寂然《しん》とした陽の照っている屋敷町を歩いて、花扇はめざす家についた。
思いもかけない人の訪問に、老母と吉之助とはいぶかしげに迎えた。顔を合せたとき、花扇は深い皺をたたんだ老母の顔に、吉之助の顔に、数馬の俤を見た。胸が迫って、堰を切ったように涙があふれてきた。
話を聞いているうちに、老母の顔にも深い感動の色が表れた。
「数馬はしあわせ者でござりました。今まではあれほどふしあわせな者はあるまいとなげいていましたが、そなた様ほどの人にそれほどまで想われていたこととは、何というしあわせ者でござりましょう。礼を云います。礼を云います」
皺深い顔に、限りもなくつづく涙を見ると、花扇はもう堪らなかった。
「母様!」と叫んで泣きすがった。
「おお」
老母は抱きしめて、花扇のかぼそい肩に顔を伏せて泣きむせんだ。
吉之助も泣き出した。数馬によく似た凛々しい顔をしたこの前髪の少年は、泣いてはならないと我慢しているらしく、きびしく唇をかみしめ、眼を瞑《つぶ》っていたが、いきなりわっと泣いて二人に縋りついた。
「母様と云わしてくださりませ。弟と云わしてくださりませ。もったいのうござりますが、そう云わして……」
「礼を云います、礼を云います」
あい抱いたまま、三人はいつまでも動かなかった。
底本:「抵抗小説集」実業之日本社
1979(昭和54)年2月10日 初版発行
1979(昭和54)年3月1日 二版発行
入力:特定非営利活動法人はるかぜ