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花咲かぬリラの話
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花咲かぬリラの話
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)谷口《たにぐち》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)口|宗吉《そうきち》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「なにがし」に傍点]
-------------------------------------------------------
――谷口《たにぐち》の事大主義がとうとうダンスを始めたとさ。
社員のあいだにそういう画が弘《ひろ》まったころ、谷口|宗吉《そうきち》はどうやらホールへ行けるくらいには踊れるようになっていた。
何によらず流行につくことがいやで(というのも生来の無器用から新しくものごとを会得するのがなかなか困難であったから)麻雀にしてもベービイ・ゴルフにしても、彼がどうやら手を出すとろには、もう仲間はとうにべつのものへ移っているのが例であった。
――踊るって本当かい、君。
――うん。
――相変らず古典趣味だな。その課で一番の発展で通る小野《おの》が云った。――しかしよく始めた、ダンス熱もひと冷めきたところで、騒々しい連中がいなくなったから本当にエンジョイできるのはこれからというところさ、案内しようか。
――うん頼むよ。
ある夜、谷口は小野に連れられて街へでかけていった。
ずいぶんみっちり習ったつもりだったが、はじめのうちは華やかな雰囲気に圧倒され、なかなかうまく調子が出なかった。けれども三軒ほど廻って赤坂のなにがし[#「なにがし」に傍点]というダンスホールへ入って行ったときには、どうやら度胸もでき、途中で煽ってきた一杯のラムの酔いもてつだって、谷口の体には快いリズムがわきあがっていた。
――先に断っておくがね。小野は椅子にかけるとすぐに囁いた。あの三番めの娘《こ》はいけないぜ、あれはおれのもんなんだ。
――へえそういうものかい。
谷口は苦笑しながら小野のいうシイトのほうへ眼をやったがそのとき彼の視線は三番目の女へゆく先にもう一人の顔で止まった。そして眼がそれと認識するよりもはやく、どきんと激しく胸が鳴るのを感じた。たしかにどこかで見覚えのある顔なのだ。
――誰だろう。
そのとき音楽が始まって人々は立あがった、谷口は椅子を放れるとまっすぐに行って、そのダンサアに申込んだ。
女は髪を断り、オレンジ色のドレスに水晶の首飾をかけ、蛇皮の飾のある靴をはいている、やや尻さがりの眉、細くはあるが表情に艶のある眼、うすでに美しい波をうっている唇、右腕にロケットの付いた贅沢な腕輪をしていた。谷口は調子よく相手をリイドしながら、まぢかにある顔が誰であったか想出そうとしてみた。しかし、さっき見た横顔があんなにも自分を愕かしたのに、正面から見るとまるでそれは縁のないものになり、相手のこっちを見る眼にもまったく人違いであることが表白されていた。
音楽が終って、ともすればひどくがっかりしているらしい自分に気がついた谷口は、チケットの束を全部女に渡して椅子のほうへ戻ると、まだ残っているという小野に別れてホールを出た。
――しかし誰だったろう、あの顔は。
ひんやりと冷える夜気のなかで、谷口はどうかして自分の胸を攪乱《かきみだ》した顔の主を捜しだそうと骨折ったが、朧げにちらちらする記憶の帷のかなたで、どうしても捉えることができるうちに麻布の家まで帰り着いていた。
妻が風邪ぎみであったり、子供が消化不良を起したので、谷口がふたたび赤坂のダンス・ホールへ行ったのは、それから一週間ばかり経ったあとのことだった。
あまり豊かでもなさそうなのに気前の良い客だというので憶えていたのだろう、女は谷口を見ると表情の深い眼で挨拶を送ってきた。
――あの顔だ。
谷口はまたしても妖しく心のおどるのを覚えながら、こんどこそは想い出してみせるぞと力んでみたが、結局そばへ寄ると幻想の聯関を断たれて突き戻され、やりきれない気持で椅子にかえるのであった。
その夜女のくれた名刺には青桐《あおぎり》みどりという名が認めてあった。
――青桐みどり。
むろんそれはホールでの名に違いない、しかしどこかに本当の名を聯想させるものがありはすまいか。前夜と同じように、家まで歩いて帰る途中いろいろと記憶にある女の名を口にしてみたが、それさえもついには無駄骨折りに終ってしまった。
結婚生活があしかけ五年になり、子供も四つになっている家庭の、穏かな調和のとれた朝夕が、どうやら人並にすこしばかり怠屈になってきたときであった。青桐みどりの横顔が、そんなにも彼の心に波紋をなげつけてから、緩んでいた神経が快く緊張しはじめ、ともすれば仕事なかばに口笛を吹いていたり、ペンを握ったままぼんやり空を見ていたりする自分をみつけて、谷口は自らけしかけるような浮気っぽい気持に誘われるのであった。
あの横顔が誰に似ていたか、もうそんなことはどうでもよろしい、誰に似ているよりも余計に、今は彼女自身が谷口には美しく可憐に思われるのだ。よくあることだが、人は自分の好みにぴったり合った相手をみつけると、しばしばそれがかつてどこかで会ったことのある者のような錯覚を起す、そして間もなくそれが誤りであったことを知るにしても、その強い印象からのがれることはできない。恋ではないがもっと柔かく、ともすれば肉感的なうかれ心が谷口をとらえた。
夏にはいってから間もなく。二年ばかり会う機会のなかった杉山昭三《すぎやましょうぞう》という先輩から電話をもらった。
杉山は彼にとって先輩というだけでなく、家庭的にも親しくほとんど兄弟のようなつきあいをもっていたし、かつて杉山の妹の早苗《さなえ》に求婚した失敗の思出だけでも、忘れることのできないあいだがらであった。
――また東京詰めになったよ、落着いたら知らせるからやって来たまえ。
――それはおめでとう、皆さんお達者ですか。
――達者だ、じゃあ今日は失敬。
しばらく長崎の支店詰めになっていたのが、東京へ戻って来たのであろう。谷口はその日まっすぐ家へ帰ると、夕食のあとで独り机に向って古い手帳や日記を取出してみた。
杉山の電話で、深い恋の傷手が甦ってきたのである。
郷里の女学校を卒《お》えて、早苗が東京の杉山の家へ来たのは十八の春であった。ふだんから口数の尠い杉山は、妹のあることなどほのめかしもしなかったので、ある日たずねて行った谷口は、早苗にひきあわされてすっかりどぎまぎしてしまった。
田舎の訛りを気にしてか、早苗はなかなか谷口に話しかける機会を与えなかったが、美しい変化に富んだ眸の表情は、いつも彼にやさしい好意を働きかけるように思われた。まだ子供らしさのぬけきらぬ肩つき、しめった唇の朱、まつ毛の濃いつぶらな眼、それから小麦色の緊まった体、――それらの幻が狂おしいまでに谷口の心をかきみだし始めたのはそう大してのちのことではなかった。そして二三度一緒に映画を観たり、湘南を案内して廻ったりするうちに、自分では彼女の心をたしかめ得たつもりで、夏のはじめごろ杉山にそっと結婚の意志をもらした。
杉山はいちおう考えておくと云ったが、間もなく細君と相談の結果異存がないと答え、しかし郷里の父に承諾をうけるから、しばらく現在のままつきあっていてくれということになった。
谷口にとっては二十六にもなってほとんど初めてといってもいい恋である。それからのふた月を、彼がどんな歓びに酔っていたかはここに語るまでもあるまい。
プルリイ・ラルボオはある小説の中で、若い主人公が恋人の名を繰返し飽かずに誦む場面をきわめて美しく描いているが、どうしてそんなにまで人の名が神秘な響をもつのであろう、綴字のひとつひとつ、幾度くりかえしてみても飽きることがない。早苗――さなえ――、手帳にも書冊の余白にも、煙草の箱にも、日記のどの頁、その辺に落ちている紙片にまで、同じ名が数限りなく書かれ、そしていつまでもその響は新しく匂やかなのだ。
ふた月の美しい夢想は、しかし間もなくひどい絶望に変った。秋のはじめにちょっと故郷へ帰ると云ったまま早苗はそっちである若い銀行員と結婚してしまったのである。――谷口はその年はじめて酒を飲むことを覚えた。
杉山はそのことについて、どうしてそんな手違いを生じたか、精しく谷口に説明して聞かせたが、彼の受けた打撃は理由のいかんにかかわらず彼をやっつけて、ひどくうち挫いてしまった。それからの二年間、谷口の生活はまったく酒と遊蕩に塗潰されて過ぎたのである。
あれから六年、二十八で現在の妻を娶り、明る年の冬に子が生れてから、谷口はいつか早苗のことを忘れていた。
――どうしているだろう。
彼は今机の上に古い日記を取出して繰ひろげながら呟くのだった。そして眼の裏に彼女の面影を描いてみたが、彼の心はもう冷たく沈んでいて、すこしの感情も動かぬことを知り、安らかさといくらかの寂しさを感ずるのであった。
杉山から二度めの電話で、谷口が代々木の家を訪ねたのはその次の土曜日であった。
――だあれ?
格子を明けると奥から、そう云いながら駈けだして来た娘がある、ちょっと見た瞬間それが誰か分らぬほど大きくなっているが、杉山の長女の三千絵《みちえ》であった。
――みっちゃんじゃないか、しばらく。
谷口が声をかけると、訝しそうに限と彼の顔を覓めていたが、
――あ、鰐口さん?
――こいつ、まだ云うか。
谷口が威すように拳骨を握ると、三千絵はぽうとほほをそめ、慌てて口をおさえながらばたばたと奥へ引返して行った。
――谷口さんよ。
奥で叫ぶ声を聞きながら、三千絵ももう今年は女学校へあがっているはずだなと思っていると、小走りの足音が近づいて来て、
――いらっしゃいませ、どうぞ。
と障子の蔭に座って手をついた者がある、谷口は細君か女中かと思ったのだが、相手の顔を見ると同時に、それが早苗であるのに気付いて立竦んだ。
紫色の銘仙の単衣《ひとえ》に、きりきりと高く紋羽二重の帯をしめ、頬の肉が痩せて色の蒼白めた顔に、長めに断った濃い髪のかかるのが妖しい美しさを見せている。――あのころ彼が、もう少し年をとったらこうなるであろうと思っていた、想像の俤とはおおよそ違う姿でありながら、しかもどこまでも彼女は早苗であった。
杉山夫妻に三千絵、長男の研一《けんいち》、次男の徳児《とくじ》、それに谷口と早苗を加えて、賑やかな晩餐が終った。
それから間もなく子供たちは寝室へやられ、四人が茶をかこんで十一時近くまで話し更かしたが、絶えず彼の眼を求めて働く早苗の視線に苦しめられて、彼は妙にいらいらと落着かぬときを過してしまった。
――失礼しましょう。
十一時半近いのに驚いて彼が卓子《テーブル》からはなれると、早苗も椅子を立った。
――あたくしも帰るわ。
――そう、じゃあ途中まで谷口さんに送っていただくといいわ。
――大丈夫だよ、そんな――。
嫂のほうをちょっと睨む真似をして、早苗は応接間を出て行ったが、まもなく古風なビイズ綴のハンドバックを持って出て来た。ふたりだけで歩ける機会があろうなどとは考えもしなかったので、谷口は唆られるような心のときめきを感じながら別れの挨拶をして玄関へ出た。
――どうも晩くまで失礼。
――またどうぞ。
――谷口さん。杉山の細君がいたずらな調子で云った、――早苗さんお願いしてよ。
しかしそれには応酬する言葉も考える余裕もなく、谷口は急いで外へ出た。
夜気はひややかにしめりけを帯び、おそい月がひっそりと森の上にあった。
道傍の茂みや近くの草原で虫がとりどりに啼き、ときおり高く頭の上を渡る鳥の声がした。
――ずっと東京ですか。
感動していることを覚られまいとしながら谷口が訊いた。早苗は顔を傾けて、大胆に彼を覓めながら、ええと答えた。
何か語ろうとしている、谷口はさっきから早苗の眼の動きにそれを感じていた。――何かを。けれど奇妙なことに彼は、その眼の示すものを受取ることが恐ろしかった。
――お変りになってねえ。
――あなたも変りましたよ。
――そう。早苗は低く呟くように、――変りましたとも、あれからいろいろなことがあったのですもの。
早苗の口調が驚くほどデスペレートなので、彼はますます追詰められるように思い、しばらくはその圧迫をはね返す気力もなく、黙って歩いた。
――お子様がおできになりましたのね。
――できました。
――可愛いでしょう?
早苗はふたたび覗きこむようにした、谷口は挑むように振返り、初めて相手の眼を覓めながら云った。
――あなはどうです。
――あたくし、子供なんてありませんわ、それに……。
谷口は次の言葉を待っていたが、坂を下りきるまでついには早苗はあとを続けなかった。郊外電車の駅はま近になっていた、谷口はそのときになって、心の奥に屈していた烈しいものが、ようやくじりじりとこみあげてくるのを感じ、明るい軒燈のところで立止まると、頬笑みさえうかべながら云った。
――もうすこし歩きませんか。
――いけませんわ、電車がなくなりますもの、それに……。
――またそれに[#「それに」に傍点]ですね、
――駄目よ。早苗は谷口の感情を気づいたらしく、慌てて強く頭を振った、――だめ、またこんどゆっくりお会しますわ。
――いつです。
――明日、いえ明後日。
――どこで?
――お手紙を差上げます、そのほうがよろしいわ、でも奥様に悪いかしら。
――僕のほうなら、かまいません。
僕のほうなら、という言葉に力をいれて云ったのだが、早苗はそれが彼女の良人を想像させるつもりなのだということを感じなかったのか、そっと頷いたまま急ぎ足に駅のほうへだらだら坂を登った。
本郷のほうへ帰る早苗と、麻布へ帰る谷口とは新宿の駅の前で別れた。
――ねえ。別れるとき早苗は口早に云った、あなたからいただいたリラ、あれっきりまだ咲きませんのよ。
――リラ?
あたりは右往左往する人のどよみで、早苗の言葉がよく聞取れなかったから、谷口は耳を寄せるようにして訊返したが、早苗は一瞬淋しげなまたたきをすると、
――さようなら。
と云って素早く身を躱し、谷口に声をかける暇も与えずに去ってしまった。彼が早苗の云った言葉を理解したのは、電車で麻布まで来てからのことである。ある夜ふたりで銀座を歩いていたとき(たしか映画を観ての戻りであろう)夜店で売っていたライラックの苗をみつけて買い、早苗に贈ったものであった。――そのとき彼は早苗とふたりのつつましい家庭に、やがて美しく咲くであろうライラックの花を想像していたのであった。
――あれをまだ持っていたのか。
谷口はそう気付くと、まだ咲かぬ、と云った早苗の言葉が鋭い暗示をもっているように思われ、すばらしい餌食のある罠を前にした獣のような、荒々しい情熱が盛上ってくるのを覚えた。
それにもかかわらず、早苗はついに手紙をよこす気配もなく毎日のように待っている電話もかかってはこなかった。
十日ばかりは辛棒していたが、どうにも紊れる心を押えきれなくなったので、彼は杉山の社へ電話をかけてみた。そして早苗がその三日前に大阪へ去ったことを知った。
――まだ君には話してなかったが。と杉山は云った、――早苗はおととし良人と別れたのだよ、いろいろその間に事情もあるが、こんど会ったときに精しく話をしよう。
谷口は突放されたような落胆と驚きとにうたれながら電話を切った。――しかし驚きはそれだけでなかった。
その夜、やりきれない気持を粉らそうとして呑んだラムの酔に乗じて、しばらく遠のいていた赤坂のダンス・ホールへ行ってみると、青桐みどりの姿はなくて、顔見知りのダンサアの一人から一通の手紙を渡された。
=お約束を反古《ほご》にしたこと、どうぞお赦しくださいませ、二度めの失望をお与えすること苦しく思いながら、私は大阪へ参ります。六年前の悲しいお別れのとき、私があなたをどうお慕い申しあげていたかということは、きょうまであのリラを手放さずいたことでお察しくださいませ。――私が大阪へ行く決心を致しましたのは、けれど道徳的な動機からではございません、先夜あなたに兄の家でおめにかかるまで、あなたに奥様やお子様がおありのことを承知で、できたら六年前の私たちの償いをしたいと存じていたのです。それにしてもあのとき、玄関に立ったあなたをみつけた私の驚きはどんなであったか、今にしてあなたにもお分り遊ばすと存じます。幾度もいくたびも、手を組合って踊っていた相手のあなたが、六年前に悲しい別れをしたその人であろうとは、あんなにまで近く顔を見合せ、なんども話さえしたあなたがその人であろうとは。
――どうして気付かなかったのでしょう、どうして、どうして。
二十年も三十年も遠く離れ離れになっていた恋人同志が、街の人混の中に行会ってお互いに相手を見つけ、手を執りあって泣くという話を、私はいくたびも物語りで読みました。良人と別れて東京へ出てきた私の心の底には、もしやあなたに会うことがありはすまいかという希望が絶えず働いていたのです、それが全部でないまでも――。そして本当にあなたとめぐり会ったときには、もうあなたを見分けることもできなくなっていたのです。恋物語が私におしえてくれたことは、結局伝説にすぎなかったのでしょう。いただいたリラは折り棄てました、今日まで花をつけなかったことが、何か私たちに暗示しているようで苦しかったからです。奥様にも子供様にもよろしくとは申しあげません、そしてこれから先またお眼にかかるときのないように祈ります。
[#地から1字上げ]早苗=
おりおり小野がダンスに誘っても、それから谷口は二度と踊りには行かなくなった。そして早苗の噂もふっつりと絶えてしまった。
底本:「現代小説集」実業之日本社
1978(昭和53)年9月25日 初版発行
底本の親本:「アサヒグラフ」
1934(昭和9)年8月1日号
初出:「アサヒグラフ」
1934(昭和9)年8月1日号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)谷口《たにぐち》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)口|宗吉《そうきち》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「なにがし」に傍点]
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――谷口《たにぐち》の事大主義がとうとうダンスを始めたとさ。
社員のあいだにそういう画が弘《ひろ》まったころ、谷口|宗吉《そうきち》はどうやらホールへ行けるくらいには踊れるようになっていた。
何によらず流行につくことがいやで(というのも生来の無器用から新しくものごとを会得するのがなかなか困難であったから)麻雀にしてもベービイ・ゴルフにしても、彼がどうやら手を出すとろには、もう仲間はとうにべつのものへ移っているのが例であった。
――踊るって本当かい、君。
――うん。
――相変らず古典趣味だな。その課で一番の発展で通る小野《おの》が云った。――しかしよく始めた、ダンス熱もひと冷めきたところで、騒々しい連中がいなくなったから本当にエンジョイできるのはこれからというところさ、案内しようか。
――うん頼むよ。
ある夜、谷口は小野に連れられて街へでかけていった。
ずいぶんみっちり習ったつもりだったが、はじめのうちは華やかな雰囲気に圧倒され、なかなかうまく調子が出なかった。けれども三軒ほど廻って赤坂のなにがし[#「なにがし」に傍点]というダンスホールへ入って行ったときには、どうやら度胸もでき、途中で煽ってきた一杯のラムの酔いもてつだって、谷口の体には快いリズムがわきあがっていた。
――先に断っておくがね。小野は椅子にかけるとすぐに囁いた。あの三番めの娘《こ》はいけないぜ、あれはおれのもんなんだ。
――へえそういうものかい。
谷口は苦笑しながら小野のいうシイトのほうへ眼をやったがそのとき彼の視線は三番目の女へゆく先にもう一人の顔で止まった。そして眼がそれと認識するよりもはやく、どきんと激しく胸が鳴るのを感じた。たしかにどこかで見覚えのある顔なのだ。
――誰だろう。
そのとき音楽が始まって人々は立あがった、谷口は椅子を放れるとまっすぐに行って、そのダンサアに申込んだ。
女は髪を断り、オレンジ色のドレスに水晶の首飾をかけ、蛇皮の飾のある靴をはいている、やや尻さがりの眉、細くはあるが表情に艶のある眼、うすでに美しい波をうっている唇、右腕にロケットの付いた贅沢な腕輪をしていた。谷口は調子よく相手をリイドしながら、まぢかにある顔が誰であったか想出そうとしてみた。しかし、さっき見た横顔があんなにも自分を愕かしたのに、正面から見るとまるでそれは縁のないものになり、相手のこっちを見る眼にもまったく人違いであることが表白されていた。
音楽が終って、ともすればひどくがっかりしているらしい自分に気がついた谷口は、チケットの束を全部女に渡して椅子のほうへ戻ると、まだ残っているという小野に別れてホールを出た。
――しかし誰だったろう、あの顔は。
ひんやりと冷える夜気のなかで、谷口はどうかして自分の胸を攪乱《かきみだ》した顔の主を捜しだそうと骨折ったが、朧げにちらちらする記憶の帷のかなたで、どうしても捉えることができるうちに麻布の家まで帰り着いていた。
妻が風邪ぎみであったり、子供が消化不良を起したので、谷口がふたたび赤坂のダンス・ホールへ行ったのは、それから一週間ばかり経ったあとのことだった。
あまり豊かでもなさそうなのに気前の良い客だというので憶えていたのだろう、女は谷口を見ると表情の深い眼で挨拶を送ってきた。
――あの顔だ。
谷口はまたしても妖しく心のおどるのを覚えながら、こんどこそは想い出してみせるぞと力んでみたが、結局そばへ寄ると幻想の聯関を断たれて突き戻され、やりきれない気持で椅子にかえるのであった。
その夜女のくれた名刺には青桐《あおぎり》みどりという名が認めてあった。
――青桐みどり。
むろんそれはホールでの名に違いない、しかしどこかに本当の名を聯想させるものがありはすまいか。前夜と同じように、家まで歩いて帰る途中いろいろと記憶にある女の名を口にしてみたが、それさえもついには無駄骨折りに終ってしまった。
結婚生活があしかけ五年になり、子供も四つになっている家庭の、穏かな調和のとれた朝夕が、どうやら人並にすこしばかり怠屈になってきたときであった。青桐みどりの横顔が、そんなにも彼の心に波紋をなげつけてから、緩んでいた神経が快く緊張しはじめ、ともすれば仕事なかばに口笛を吹いていたり、ペンを握ったままぼんやり空を見ていたりする自分をみつけて、谷口は自らけしかけるような浮気っぽい気持に誘われるのであった。
あの横顔が誰に似ていたか、もうそんなことはどうでもよろしい、誰に似ているよりも余計に、今は彼女自身が谷口には美しく可憐に思われるのだ。よくあることだが、人は自分の好みにぴったり合った相手をみつけると、しばしばそれがかつてどこかで会ったことのある者のような錯覚を起す、そして間もなくそれが誤りであったことを知るにしても、その強い印象からのがれることはできない。恋ではないがもっと柔かく、ともすれば肉感的なうかれ心が谷口をとらえた。
夏にはいってから間もなく。二年ばかり会う機会のなかった杉山昭三《すぎやましょうぞう》という先輩から電話をもらった。
杉山は彼にとって先輩というだけでなく、家庭的にも親しくほとんど兄弟のようなつきあいをもっていたし、かつて杉山の妹の早苗《さなえ》に求婚した失敗の思出だけでも、忘れることのできないあいだがらであった。
――また東京詰めになったよ、落着いたら知らせるからやって来たまえ。
――それはおめでとう、皆さんお達者ですか。
――達者だ、じゃあ今日は失敬。
しばらく長崎の支店詰めになっていたのが、東京へ戻って来たのであろう。谷口はその日まっすぐ家へ帰ると、夕食のあとで独り机に向って古い手帳や日記を取出してみた。
杉山の電話で、深い恋の傷手が甦ってきたのである。
郷里の女学校を卒《お》えて、早苗が東京の杉山の家へ来たのは十八の春であった。ふだんから口数の尠い杉山は、妹のあることなどほのめかしもしなかったので、ある日たずねて行った谷口は、早苗にひきあわされてすっかりどぎまぎしてしまった。
田舎の訛りを気にしてか、早苗はなかなか谷口に話しかける機会を与えなかったが、美しい変化に富んだ眸の表情は、いつも彼にやさしい好意を働きかけるように思われた。まだ子供らしさのぬけきらぬ肩つき、しめった唇の朱、まつ毛の濃いつぶらな眼、それから小麦色の緊まった体、――それらの幻が狂おしいまでに谷口の心をかきみだし始めたのはそう大してのちのことではなかった。そして二三度一緒に映画を観たり、湘南を案内して廻ったりするうちに、自分では彼女の心をたしかめ得たつもりで、夏のはじめごろ杉山にそっと結婚の意志をもらした。
杉山はいちおう考えておくと云ったが、間もなく細君と相談の結果異存がないと答え、しかし郷里の父に承諾をうけるから、しばらく現在のままつきあっていてくれということになった。
谷口にとっては二十六にもなってほとんど初めてといってもいい恋である。それからのふた月を、彼がどんな歓びに酔っていたかはここに語るまでもあるまい。
プルリイ・ラルボオはある小説の中で、若い主人公が恋人の名を繰返し飽かずに誦む場面をきわめて美しく描いているが、どうしてそんなにまで人の名が神秘な響をもつのであろう、綴字のひとつひとつ、幾度くりかえしてみても飽きることがない。早苗――さなえ――、手帳にも書冊の余白にも、煙草の箱にも、日記のどの頁、その辺に落ちている紙片にまで、同じ名が数限りなく書かれ、そしていつまでもその響は新しく匂やかなのだ。
ふた月の美しい夢想は、しかし間もなくひどい絶望に変った。秋のはじめにちょっと故郷へ帰ると云ったまま早苗はそっちである若い銀行員と結婚してしまったのである。――谷口はその年はじめて酒を飲むことを覚えた。
杉山はそのことについて、どうしてそんな手違いを生じたか、精しく谷口に説明して聞かせたが、彼の受けた打撃は理由のいかんにかかわらず彼をやっつけて、ひどくうち挫いてしまった。それからの二年間、谷口の生活はまったく酒と遊蕩に塗潰されて過ぎたのである。
あれから六年、二十八で現在の妻を娶り、明る年の冬に子が生れてから、谷口はいつか早苗のことを忘れていた。
――どうしているだろう。
彼は今机の上に古い日記を取出して繰ひろげながら呟くのだった。そして眼の裏に彼女の面影を描いてみたが、彼の心はもう冷たく沈んでいて、すこしの感情も動かぬことを知り、安らかさといくらかの寂しさを感ずるのであった。
杉山から二度めの電話で、谷口が代々木の家を訪ねたのはその次の土曜日であった。
――だあれ?
格子を明けると奥から、そう云いながら駈けだして来た娘がある、ちょっと見た瞬間それが誰か分らぬほど大きくなっているが、杉山の長女の三千絵《みちえ》であった。
――みっちゃんじゃないか、しばらく。
谷口が声をかけると、訝しそうに限と彼の顔を覓めていたが、
――あ、鰐口さん?
――こいつ、まだ云うか。
谷口が威すように拳骨を握ると、三千絵はぽうとほほをそめ、慌てて口をおさえながらばたばたと奥へ引返して行った。
――谷口さんよ。
奥で叫ぶ声を聞きながら、三千絵ももう今年は女学校へあがっているはずだなと思っていると、小走りの足音が近づいて来て、
――いらっしゃいませ、どうぞ。
と障子の蔭に座って手をついた者がある、谷口は細君か女中かと思ったのだが、相手の顔を見ると同時に、それが早苗であるのに気付いて立竦んだ。
紫色の銘仙の単衣《ひとえ》に、きりきりと高く紋羽二重の帯をしめ、頬の肉が痩せて色の蒼白めた顔に、長めに断った濃い髪のかかるのが妖しい美しさを見せている。――あのころ彼が、もう少し年をとったらこうなるであろうと思っていた、想像の俤とはおおよそ違う姿でありながら、しかもどこまでも彼女は早苗であった。
杉山夫妻に三千絵、長男の研一《けんいち》、次男の徳児《とくじ》、それに谷口と早苗を加えて、賑やかな晩餐が終った。
それから間もなく子供たちは寝室へやられ、四人が茶をかこんで十一時近くまで話し更かしたが、絶えず彼の眼を求めて働く早苗の視線に苦しめられて、彼は妙にいらいらと落着かぬときを過してしまった。
――失礼しましょう。
十一時半近いのに驚いて彼が卓子《テーブル》からはなれると、早苗も椅子を立った。
――あたくしも帰るわ。
――そう、じゃあ途中まで谷口さんに送っていただくといいわ。
――大丈夫だよ、そんな――。
嫂のほうをちょっと睨む真似をして、早苗は応接間を出て行ったが、まもなく古風なビイズ綴のハンドバックを持って出て来た。ふたりだけで歩ける機会があろうなどとは考えもしなかったので、谷口は唆られるような心のときめきを感じながら別れの挨拶をして玄関へ出た。
――どうも晩くまで失礼。
――またどうぞ。
――谷口さん。杉山の細君がいたずらな調子で云った、――早苗さんお願いしてよ。
しかしそれには応酬する言葉も考える余裕もなく、谷口は急いで外へ出た。
夜気はひややかにしめりけを帯び、おそい月がひっそりと森の上にあった。
道傍の茂みや近くの草原で虫がとりどりに啼き、ときおり高く頭の上を渡る鳥の声がした。
――ずっと東京ですか。
感動していることを覚られまいとしながら谷口が訊いた。早苗は顔を傾けて、大胆に彼を覓めながら、ええと答えた。
何か語ろうとしている、谷口はさっきから早苗の眼の動きにそれを感じていた。――何かを。けれど奇妙なことに彼は、その眼の示すものを受取ることが恐ろしかった。
――お変りになってねえ。
――あなたも変りましたよ。
――そう。早苗は低く呟くように、――変りましたとも、あれからいろいろなことがあったのですもの。
早苗の口調が驚くほどデスペレートなので、彼はますます追詰められるように思い、しばらくはその圧迫をはね返す気力もなく、黙って歩いた。
――お子様がおできになりましたのね。
――できました。
――可愛いでしょう?
早苗はふたたび覗きこむようにした、谷口は挑むように振返り、初めて相手の眼を覓めながら云った。
――あなはどうです。
――あたくし、子供なんてありませんわ、それに……。
谷口は次の言葉を待っていたが、坂を下りきるまでついには早苗はあとを続けなかった。郊外電車の駅はま近になっていた、谷口はそのときになって、心の奥に屈していた烈しいものが、ようやくじりじりとこみあげてくるのを感じ、明るい軒燈のところで立止まると、頬笑みさえうかべながら云った。
――もうすこし歩きませんか。
――いけませんわ、電車がなくなりますもの、それに……。
――またそれに[#「それに」に傍点]ですね、
――駄目よ。早苗は谷口の感情を気づいたらしく、慌てて強く頭を振った、――だめ、またこんどゆっくりお会しますわ。
――いつです。
――明日、いえ明後日。
――どこで?
――お手紙を差上げます、そのほうがよろしいわ、でも奥様に悪いかしら。
――僕のほうなら、かまいません。
僕のほうなら、という言葉に力をいれて云ったのだが、早苗はそれが彼女の良人を想像させるつもりなのだということを感じなかったのか、そっと頷いたまま急ぎ足に駅のほうへだらだら坂を登った。
本郷のほうへ帰る早苗と、麻布へ帰る谷口とは新宿の駅の前で別れた。
――ねえ。別れるとき早苗は口早に云った、あなたからいただいたリラ、あれっきりまだ咲きませんのよ。
――リラ?
あたりは右往左往する人のどよみで、早苗の言葉がよく聞取れなかったから、谷口は耳を寄せるようにして訊返したが、早苗は一瞬淋しげなまたたきをすると、
――さようなら。
と云って素早く身を躱し、谷口に声をかける暇も与えずに去ってしまった。彼が早苗の云った言葉を理解したのは、電車で麻布まで来てからのことである。ある夜ふたりで銀座を歩いていたとき(たしか映画を観ての戻りであろう)夜店で売っていたライラックの苗をみつけて買い、早苗に贈ったものであった。――そのとき彼は早苗とふたりのつつましい家庭に、やがて美しく咲くであろうライラックの花を想像していたのであった。
――あれをまだ持っていたのか。
谷口はそう気付くと、まだ咲かぬ、と云った早苗の言葉が鋭い暗示をもっているように思われ、すばらしい餌食のある罠を前にした獣のような、荒々しい情熱が盛上ってくるのを覚えた。
それにもかかわらず、早苗はついに手紙をよこす気配もなく毎日のように待っている電話もかかってはこなかった。
十日ばかりは辛棒していたが、どうにも紊れる心を押えきれなくなったので、彼は杉山の社へ電話をかけてみた。そして早苗がその三日前に大阪へ去ったことを知った。
――まだ君には話してなかったが。と杉山は云った、――早苗はおととし良人と別れたのだよ、いろいろその間に事情もあるが、こんど会ったときに精しく話をしよう。
谷口は突放されたような落胆と驚きとにうたれながら電話を切った。――しかし驚きはそれだけでなかった。
その夜、やりきれない気持を粉らそうとして呑んだラムの酔に乗じて、しばらく遠のいていた赤坂のダンス・ホールへ行ってみると、青桐みどりの姿はなくて、顔見知りのダンサアの一人から一通の手紙を渡された。
=お約束を反古《ほご》にしたこと、どうぞお赦しくださいませ、二度めの失望をお与えすること苦しく思いながら、私は大阪へ参ります。六年前の悲しいお別れのとき、私があなたをどうお慕い申しあげていたかということは、きょうまであのリラを手放さずいたことでお察しくださいませ。――私が大阪へ行く決心を致しましたのは、けれど道徳的な動機からではございません、先夜あなたに兄の家でおめにかかるまで、あなたに奥様やお子様がおありのことを承知で、できたら六年前の私たちの償いをしたいと存じていたのです。それにしてもあのとき、玄関に立ったあなたをみつけた私の驚きはどんなであったか、今にしてあなたにもお分り遊ばすと存じます。幾度もいくたびも、手を組合って踊っていた相手のあなたが、六年前に悲しい別れをしたその人であろうとは、あんなにまで近く顔を見合せ、なんども話さえしたあなたがその人であろうとは。
――どうして気付かなかったのでしょう、どうして、どうして。
二十年も三十年も遠く離れ離れになっていた恋人同志が、街の人混の中に行会ってお互いに相手を見つけ、手を執りあって泣くという話を、私はいくたびも物語りで読みました。良人と別れて東京へ出てきた私の心の底には、もしやあなたに会うことがありはすまいかという希望が絶えず働いていたのです、それが全部でないまでも――。そして本当にあなたとめぐり会ったときには、もうあなたを見分けることもできなくなっていたのです。恋物語が私におしえてくれたことは、結局伝説にすぎなかったのでしょう。いただいたリラは折り棄てました、今日まで花をつけなかったことが、何か私たちに暗示しているようで苦しかったからです。奥様にも子供様にもよろしくとは申しあげません、そしてこれから先またお眼にかかるときのないように祈ります。
[#地から1字上げ]早苗=
おりおり小野がダンスに誘っても、それから谷口は二度と踊りには行かなくなった。そして早苗の噂もふっつりと絶えてしまった。
底本:「現代小説集」実業之日本社
1978(昭和53)年9月25日 初版発行
底本の親本:「アサヒグラフ」
1934(昭和9)年8月1日号
初出:「アサヒグラフ」
1934(昭和9)年8月1日号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ