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荒野の怪獣
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荒野の怪獣
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)云《い》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)十|糎《センチ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)※[#「てへん+毟」、第4水準2-78-12]
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[#3字下げ][#中見出し]どくろ[#「どくろ」に傍点]の森[#中見出し終わり]
「お兄さま早くいらしって」
いま、散歩して来ると云《い》って、小村英吉と一緒に出て行ったばかりの真里子が、白く息を凍らせながら事務室へとび込んで来た。
「なんだい、僕は散歩には行かないぜ」
「そうじゃないのよ、なんだか熊田が人夫たちと一緒に表へ来ているの。お兄さまに会ってお話があるんですって」
「話があるなら此処《ここ》へ来いと云ってくれ。僕はいま用水路の設計で忙《いそ》がしいんだ」
「だって大勢ですもの、迚《とて》も此処《ここ》へ入りきれやしないわ」
「熊田と代表だけ来れば宜《い》いさ。――例の馬鹿げた話に定《きま》ってるんだ」
「じゃそう云うわ」
真里子が出て行くと暫《しばら》くして六名の人夫たちと人夫頭の熊田良平が入って来た。――みんな仕事着を脱いでいる。開墾地の午前十時に、人夫たちが、汚れていない絆纏《はんてん》股引《ももひき》で綺麗な手をしているのは、何か変った事のある証拠だ。
「どうしたんだ」
山中庄三郎《やまなかしょうざぶろう》はペンを投げて立上《たちあが》った
「もう十時になるというのに、みんな仕事にも出ずに何をしているんだ。話があるなら晩にでも聞こう。とにかく直《す》ぐ耕地に出てくれ給え」
「若旦那――」
人夫頭の熊田が、手に持った帽子をいじりながらおずおずと云った。
「人夫たちは帰りたいと云うでがす。とても此処《ここ》で働くこたあ出来ねえと云うでがす」
「冗談じゃない、賃銀も増してやったし……」
「いんや!」
八木という老人夫が強く首を振って云った。
「例《たと》え一日十両が二十両でも居らんねえだ。今日限り帰《けえ》らして貰《もれ》えます。わっし等《ら》でも家へ帰《けえ》りゃあ女房子供もあるし親兄弟もあるでがす。金で命は売れねえでがす」
「待ち給え、誰が金で命を買うと云った。――君たちはまさか化物《ばけもの》の噂に怯《おび》えたのじゃあるまいな? 子供ならともかく男一疋の君たちがまさかあんな噂ぐらいで……」
「噂じゃあねえだ」
老人夫が押返《おしかえ》して云った。――庄三郎はぐっと其方《そっち》へ向直《むきなお》って、
「噂でないって? じゃあ証拠があるのか」
「番小舎《ばんごや》の『黒』がやられたでがす」
「――――」
「佐吉のエスが首を噛切《かみき》られてから、地主屋敷の土佐犬がやられ、事務所の番犬がやられ、またゆうべ黒が……やられたでがす」
「それは、……それは――」
庄三郎は拳を撫でながら、
「こんな山奥だから、恐らく熊でも出て来るのだろう。猪かもしれない」
「旦那さんは何も御存じでねえだ」
別の人夫が云った。
「熊や猪なら足跡ですぐ分るだ。あの足跡は熊でも猪でもねえ、その他のどんな獣物《けもの》でもねえだ。ありゃあ決して普通《ただ》の生物《いきもの》の足跡じゃあねえだよ」
「足跡って……何かそんな物をみつけたのか?」
庄三郎が怪訝《けげん》そうに訊《き》くと、人夫たちは互いに不安そうな眼を見交わして頷合《うなずきあ》った。――そして暫くしてから熊田良平が恐る恐る云った。
「実ぁ若旦那、どくろ[#「どくろ」に傍点]の森から五番耕地へ、おそろしくでかい[#「でかい」に傍点]何かの足跡がついているでがす」
「――何かの足跡って?」
「とても口であ言えましねえ、若旦那が御覧なさってもお分りにゃあなるめえと思いますだ。恐ろしい恰好でござります。実に怖ろしい恰好をして居りますだ」
「見に行こうじゃないか」
真里子と共に、扉口《ドアぐち》に立っていた小村英吉が云った。庄三郎も頷いて、
「宜《よ》し、その足跡を見よう。熊田、案内して呉《く》れ」
と帽子を取った。
そしてみんな揃って事務所を出た。
此処《ここ》は静岡県の富士山麓、方五里に余る広漠たる「陣場ヶ原」という高原である。山中庄三郎は農科大学を出たばかりの若い学士で、学生時代から眼をつけていたこの荒野の開墾を思立《おもいた》ち、先《ま》ず二十町歩あまりを買取《かいと》ったうえ、三十八名の人夫を雇って乗込《のりこ》んで来た。――妹の真里子と、親友の小村英吉の二人が、庄三郎の協力者としてやって来たのは二週間ほどまえの事であるが、その時は耕地の端《はず》れに庄三郎たちの住居《すまい》を兼ねた事務所も出来、人夫たちの小舎《バラック》や、番小舎《ばんごや》なども建って、すでに区劃《くかく》された耕地の開墾が始められていたのである。
こうして事業は第一歩を開始したのであるが、五六日まえから妙な事件が次々と起り、危く一頓挫しようとしているのである、――妙な事件とは、いま人夫たちの口から出た「怪物」がそれだ。この荒野の北側にどくろ[#「どくろ」に傍点]の森と呼ばれる深い密林地帯がある。富士山麓に特有の奥知れぬ樹海のひとつで、まだ一人の樵夫《きこり》も入ったことが無く、全く神秘に包まれていた。
[#3字下げ]怪獣の足跡[#「怪獣の足跡」は中見出し]
五六日まえの或夜、――その森の中で奇妙な呻声《うめきごえ》のするのを人夫たちは聞いた。恐ろしくはばのある太い声だった。五分ほどずつ間を置いて二三度聞えただけであるが、腹の底へしみ透るような不気味さであった。
人々は恐る恐るカンテラを持って外へ出てみた。むろん何者の姿も見えなかった。
――何だろう、熊かしら。
――狼かしら。
みんな落着《おちつ》かぬ気持で囁合《ささやきあ》った。然《しか》し熊でもなく狼でもない事は分りきっていた。彼等の知っている限りでは、どんな獣《けだもの》の咆声《ほえごえ》にも似たものではなかったのだ。――そして不安な気持で寝た明《あく》る朝、佐吉という人夫の飼犬《かいいぬ》が、首を噛切られて死んでいるのを発見した。
続いて次の夜、此処《ここ》から十丁ほど下にある、地主の家の大きな土佐犬が急にいなくなった。そしてどくろ[#「どくろ」に傍点]の森の入口に、その犬の毛が散乱しているのをみつけたのは二日後のことである。無慙《むざん》に※[#「てへん+毟」、第4水準2-78-12]《むし》り取られひき千切られたものである。――然《しか》も更《さら》に番小舎《ばんごや》の犬が掠《さら》われ、昨夜《ゆうべ》は「黒」がやられた黒はグレート・デーン種の犢《こうし》ほどもある巨《おお》きなやつで、ライオンとすら闘うと云われる勇猛な犬だ。それさえ苦もなくやられたのである。……何ものであろう。あの咆声と、この恐ろしい事実は、明《あきら》かにどくろ[#「どくろ」に傍点]の森になにか奇怪な獣のいることを証拠だてている。熊ではない、狼でも猪でもない。もっと巨《おお》きな、もっと兇猛な獣なのだ。
人夫頭の案内で、庄三郎たちは五番耕地へやって来た。其処《そこ》はどくろ[#「どくろ」に傍点]の森に一番近く、地面が他に比べてずっと柔かいので、もう半分以上も鋤返《すきかえ》されている。
「――其処《そこ》を御覧なさいやし」
耕地の北寄りへ来た時、熊田良平がそう云って、鋤返された地面の一部を指さした。
「そこの窪みでがす」
「…………」
庄三郎は覗込《のぞきこ》むようにして見た。小村も真里子も見た。
はじめ、それは足跡とは思えなかった。長さ五十|糎《センチ》、幅三十|糎《センチ》ほど、ぽかりと深く土か窪んでいるが、余り大きいので足跡という感じからは遠かった。――然し熟《よ》く見ると窪みには凸凹《でこぼこ》があり、踵と指とが判《はっ》きり印されている。簡単に云うと指の長い人間の足跡を七八倍にしたという感じなのだ。
「ゴリラだわ」
真里子がぶるっと身震いをしながら呟《つぶや》いた。
「ばかな、此処《ここ》は阿弗利加《アフリカ》じゃない」
「ゴリラだわ。だってこの足跡はその他のどんな獣のものでもないわ。御覧なさいお兄さま、これは二本もで歩いているじゃないの、……こんな大きな足で、這わずに立って歩くなんてゴリラの他に何かいる?」
足跡は六|呎《フィート》ぐらいの間隔《あいだ》を置いて、ずっとどくろ[#「どくろ」に傍点]の森まで続いていた。
「わし等は帰《けえ》らして貰《もれ》えますだ」
老人夫の八木が云った。それと一緒に、跟《つ》いて来ていた人夫たちはがやがやと口々に、
「帰《けえ》らして貰うだ。こんな処にゃあ一刻もいられねえだ」
「今日までの日当を払って貰うべえ」
「そうだとも、直ぐ払って貰うだぞ」
と喚きたてた。――庄三郎は熱心に足跡を検《しら》べていた。妹の云う通り、それは如何《いか》にもゴリラの物のようである。然し熱帯にしか棲《す》むことの出来ないあの野獣が、この冬のさ[#「さ」に傍点]中に、然も殊《こと》に寒冷な富士山麓にどうして生きていられよう。ゴリラでは無い! それは慥《たしか》な事だ。然し――では何であろうか? 土佐犬をひき千切り、犢《こうし》ほどもあるグレート・デーンを打殺《うちころ》すほどの兇猛さを持ち、この大きな恐るべき足跡を残すような獣が他にあるだろうか?
「待ち給え諸君、――」
庄三郎は振返《ふりかえ》って叫んだ。
「僕はもう諸君の怖れを疑いはしない。此処《ここ》には慥《たしか》に何かがいる。正直に云えば非常に危険な怪獣がいるらしい。――だが考えてくれ給え、いま日本は史上|稀有《けう》の聖戦に当面している。銃後を護る我々は有《あら》ゆる困苦に耐え、出来る限りの力で生産を押拡げ充実させなければならない。工場でも農村でも、余っている力を利用してまだ開発されていないものを開発し、捨てられている荒地を開拓して、聖戦の大目的のために尽さなければならぬ時だ。……そしていま我々に与えられている任務は、この荒果《あれは》てた二十町歩の土地の開墾にある。この荒野を鋤返して立派な耕地にする事は、それだけ日本の生産力を拡げる事になるのだ。――僕はいま敢《あえ》て戦地の例はひかない。然し諸君に改めてお願いする。踏止《ふみとどま》って呉れ給え。いま祖国日本が当面している重大な時期を考えて、怪獣などのためにこの仕事を投出《なげだ》さないてくれ給え※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
人夫たちは黙っていた。みんなひどく当惑している様子だ、庄三郎は暫くそれを見やっていたが、――やがて静かな声で云った。
「僕の云った事は分ったと思う、それでも帰るという者は敢て止めはしない。事務所で金を受取《うけと》って自由に帰り給え」
そして妹と小村を促して其処《そこ》を立去った。
[#3字下げ]夜の怪声[#「夜の怪声」は中見出し]
然し駄目だった。――庄三郎の説得にも拘わらず、人夫たちは夕食前になると全部、今日までの賃銀を受取って立去って了《しま》った。
残ったのは山中兄弟と小村と、人夫頭の良平と炊事係の老人久助だけである。お人|好《よ》しで気の弱い、毎《いつ》もしょぼしょぼと眼を伏せていると云った風な熊田良平は、人夫たちを抑える事が出来なかったのを恥じてか、淋しい四人きりの食事のあいだ、小さくなって溜息ばかりついていた。
「で、――是《これ》からどうするんだ」
食事のあとで小村が訊いた。
「どうするって、斯《こ》うなったら当分どうしようもない」
庄三郎は硝子《がらす》窓から荒涼たる耕地の闇を見やりながら答えた。
「新しく人夫を集めるにしたって、こんな噂を聞いては来る者はあるまい。先ず問題は噂を無くす事だよ」
「噂を無くす――と云うと?」
「怪獣の正体をつきとめるのさ。古風に云えばやつ[#「やつ」に傍点]を退治するんだ。僕はどんな怪神魔獣をも怖れない、寧《むし》ろそんな物に惑わされる事の方を怖れるよ。……僕はやつ[#「やつ」に傍点]を仕止めてみせる」
「僕の不安なのは、やつ[#「やつ」に傍点]の正体が分らない事さ。正体を見せさえしたら――ね」
英吉は拳をぴしっと打った。
真里子は何も云わなかった。けれどさっきから眤《じっ》と兄の横顔を覓《みつ》めている眸《ひとみ》には、例《たと》えどんな事があっても兄と共に踏止るという固い決心を示していた。
「――若旦那さま」
良平かおずおずと呼びかけた、そして庄三郎が振返ると、気後《きおく》れのした様子でズボンの膝を撫でたり、そら[#「そら」に傍点]咳をしたりしながら云った。
「わし[#「わし」に傍点]が思うには、その、此処《ここ》をお立退きなさるが宜いと、思いますがのう。折角《せっかく》これまで手をつけて置いて、いまさら投出すちゅうは残念でがしょうが、それでもはあ、命には替えられましねえ、他に荒地も無《ね》えじゃあなし、ここは思切って立退きなさるのが、皆さんのおためだと存じますだがのう。――お買いなさっただけの金で、地主に買戻させる交渉はわし[#「わし」に傍点]が致しやすだで、御損のいかねえように……」
「有難《ありがと》う熊田、君の気持はよく分るよ、だが僕は断じて中止はしない。此処《ここ》は学生時代からの憧憬《あこがれ》の土地だったんだ、僕は此処《ここ》へ骨を埋める積《つもり》でいるんだ。二度とそんな事は云わないて呉れ、然し君の立退く事は構わないよ」
「わし[#「わし」に傍点]は、わし[#「わし」に傍点]は、……居りますだ。わし[#「わし」に傍点]は此処《ここ》に居りますだよ」
「危険があるから強《しい》ては勧めない、だが君の好きなようにし給え」
「わし[#「わし」に傍点]は残りますだよ」
そう云って良平は恥しげに立った。
良平が去ると、小村も二階の寝室へあがって行った。――これで当分仕事は一頓挫のかたちになったが、耕地へ引く用水路の設計だけでも仕上げて置こうと、庄三郎はランプを明るくして机に向った。
「真里子、君も寝たらどうだ」
「お兄さまと一緒にするわ、あたしスウェタアを編みかけてるの、此処《ここ》で編んでもお邪魔じゃないでしょう?」
「君も怪獣が怖いんだな?」
「怖くないって云ったら嘘になるわね、でもお兄さまの側なら安心よ。昼間みんなに話していらしった時、とてもお立派だったわ」
「褒めても此処《ここ》じゃあ贅《おご》る物はないぜ」
真里子は笑いながら編物《あみもの》を取りに行った。
この荒野では日が暮れると共に、まるで深夜のような静寂が天地を包む。何方《どっち》を見ても灯影ひとつなく、果しもなく真暗《まっくら》な闇が眼を遮るだけだ。物音と云ったら空高く渡る鳥か、裏の雑木林の枯れた梢《こずえ》を鳴らす風か、または遠く折々聞える小さな野獣の咆え叫ぶ声くらいのものである。
「今夜は特別静かだこと……」
「そうさ、四十人近くもいた人間が、一遍に五人になったんだもの、それに――もう黒もいなくなったし」
「――黒は可哀そうだったわねえ」
真里子はふと[#「ふと」に傍点]編棒を止めて眼を閉じた。
時計が十時を打った。――するとその音が微かに微《かす》かに、尾をひいて消えて行こうとする時、……どくろ[#「どくろ」に傍点]の森の方から妙な声がひびいて来た。初めは低く、次は高く、その次は更に高く――あうあう[#「あうあう」に傍点]というような、妙に喉にひっかかる声だ。ひどく太くて、然も空気を震動させる力は恐ろしく巨《おお》きい。例えて云えば法螺貝《ほらがい》の音を空洞《がらんどう》に反響させたらそれに似るかも知れない。
「――――」
「…………」
真里子はぶるっ[#「ぶるっ」に傍点]と身を震わせながら兄の方を見た。庄三郎はペンを止めたまま、凝乎《じっ》と身動きもせずに耳を澄している。……息の詰るような数分間であった。
[#3字下げ]窓の顔[#「窓の顔」は中見出し]
咆声は聞えなくなった、それでも五分ばかりのあいだ、二人は身動きもせずに黙っていた
「――もう寝たらどうだ」暫くして庄三郎が云った。
「ええ……お兄さまもお寝《やす》みになったら?」
「僕はもう少し」と云いかけた時、
「きゃあッ」
突然、ひき裂くように絶叫しながら、真里子が椅子《いす》からとびあがった。
「どうした、何だ真里子」
「あれ、――あれ!」
真里子は震える手で窓を指さした。――庄三郎が振返ると、闇の中から窓|硝子《がらす》越しに部屋の中を覗いている奇怪な獣の顔が見えた。
それは慄然《ぞっ》とするような恐ろしいものであった。大きさは四斗樽ほどもあろうか、灰色の毛に包まれ、赤い大きな口から剥出《むきだ》された牙は、今にもとびかかって来そうな凄《すさま》じさである。――ゴリラだ、否《いや》ゴリラではない、それに似た怪獣という他にない。……庄三郎は咄嗟《とっさ》に立って壁の猟銃を取下《とりお》ろした。然しそれより早く、怪獣の顔はすっと闇の中へ消えて行った。悲鳴を聞いて小村英吉が馳下《かけお》りて来た時、庄三郎は妹を背に庇《かば》いながら、猟銃を構えでじっと窓を睨みつけていた。
「どうしたんだ、何かあったのか」
「――うん」庄三郎の顔は遉《さすが》に血気《ちのけ》を喪《うしな》っていた。
「いま、その窓からやつ[#「やつ」に傍点]が覗いたんだ」
「やつ[#「やつ」に傍点]が……怪獣か」
「はっきりと見たんだ」
小村は窓の側へ走寄《はしりよ》って、勇敢に硝子《がらす》戸を押明けた。外は墨壺のような闇だった。
この事務所は小高い丘の端に建ててある、その窓の外は石垣で、平地から十|米《メートル》ほども切立《きりた》っているのだ。だから窓から覗くには何か台をするか、それだけの身丈《みのたけ》がなくてはならない。
「本当に此処《ここ》から覗いたのか」
「妹も僕も見たんだ。奴はそこから覗いたよ。そして――だが待て、……だが待てよ」
急に庄三郎はどしん[#「どしん」に傍点]と猟銃を床へおろして首を垂れた。それから不意に顔をあげると、振返って後を見た。……壁の上部に回転窓があって、廊下の終夜灯が明るく輝いている。
「どうしたんだ山中」
「なんだか変だ、僕はいま……」
庄三郎はそこでまたぷつりと黙った。
真里子は心配そうにおろおろと兄の様子を見戍《みまも》っていた。急に考え事を始めた兄の態度が、もしや怪獣を見たために理性を喪ったのではないかと思われたのである。――然し間もなく庄三郎は落着いた声で、
「いや、もう今夜は止《よ》そう」
と云った。「ともかく僕はやつ[#「やつ」に傍点]の正体を見たんだ。今夜はそれだけで充分だ。――真里子、行ってお寝《やす》み」
「でも……お兄さま」
「いや大丈夫、もう怪獣は来やしないよ。小村も寝給え、あとは明日の事だ」
そして独言《ひとりごと》のように呟いた。
「僕は必ずやつ[#「やつ」に傍点]を仕止めてやるよ!」
その明《あく》る日である。
庄三郎は朝食が済むとすぐ、良平を伴《つ》れて駅まで用足しに出掛けた。――帰って来たのは十二時近かった。
そしてゆうべの怪獣の話が出るだろうと思っていると、庄三郎はただ忙がしそうに昼食をかきこんで、
「夕方までには帰るから」
と云ったまま今度は一人で何処《どこ》かへ出掛けて行った。
真里子は一日中小村英吉と一緒にいた。ゆうべ見た窓の顔が、まだ眼前《めさき》にちらついて離れないともすると不意に後から襲われそうな恐怖が身を戦《おのの》かせるのだった。
「お兄さまは何をしているんでしょう。……また今夜もあの恐い獣が来るのかしら」
「真里子さん」
英吉は労《いた》わるように云った。
「僕は貴女《あなた》が帰った方か宜いと思うがな、貴女《あなた》にはこんな冒険は無理だ。山中の事は僕が引受《ひきう》けるから明日は帰る方が宜い」
「あたし兄と一緒でなければ帰りません。あたしまで帰って了《しま》っては、新しく人夫を集めるにしても来る者はないに決っていますわ。あたし兄と一緒ならどんな冒険でもする決心ですの」
「――有難う、真里子」
そう叫びながら、庄三郎が入って来た。……余り突然だったので、小村も真里子も吃驚《びっくり》して立上った。
「いまの決心を聞いて安心したよ真里子、僕たちは今夜こそ本当の冒険をやるんだ。僕はやつ[#「やつ」に傍点]を仕止めると云った。だが――小村、運命は逆転した。もう耕地開墾なんて小さな問題じゃなくなったよ。理由はあとで話すが、聞いたら恐らく仰天するだろう」
「どうしたんだ、まるで訳が分らん」
「いまに分るさ。真里子、今夜は三人で人夫|小舎《ごや》へ泊るんだぜ」
「――まあ、あんな寂しい小舎《こや》へ?」
「先ず怪獣を退治《たいじ》るのさ」
庄三郎は元気いっぱいに叫んだ。
「あの怪獣をね※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
[#3字下げ]冒険と銅[#「冒険と銅」は中見出し]
その夜の十二時過ぎであった。
二番耕地にある人夫|小舎《ごや》の中には、煌々《こうこう》とランプが輝いていた。――夕飯のあとで、庄三郎兄妹と小村英吉の三人は、夜食のサンドイッチを持ってこの小舎へ移って来たのだ。
今夜もまた底冷えのする雪催《ゆきもよ》いの闇であった。事務所と違ってこの小舎《こや》はどくろ[#「どくろ」に傍点]の森から百|米《メートル》ほどしか離れていない。わざわざ危険の方へ近寄って来た訳である。然も庄三郎は別に何をしようともしなかった。武器は猟銃一挺、弾丸《たま》は五発、罠も掛けてはないし、其《その》他のどんな手段も講じてはなかった。
十二時を少し過ぎた時、
「ああ退屈だな」
と庄三郎が大きく伸びをした。
「早く出て来れば宜《よ》いのに、陸獣め、なにをぐずぐずしているんだろう。――真里子、元気を出せよ、トランプでもやろうか」
「まあ、お兄さま暢気《のんき》ねえ」
「おっと待て、忘れていたっけ」
庄三郎はズボンの|隠し《ポケット》へ手を入れて、きらきら光る一塊の鉱石を取出した。そして小村の手に渡しながら、
「見て呉れ、何だと思う?」
「……鉱石だね、――よく分らないが黄銅じゃないか」
「僕もそう思ったよ」
「是がどうしたんだ」
「――叱《し》ッ」
庄三郎が急に制止の声をあげた。
どくろ[#「どくろ」に傍点]の森で咆声がする。――あの声だ、……一声、二声、――森にこだま[#「こだま」に傍点]して、闇を震わせて響く。真里子は思わず椅子の背をぎゅっと握緊《にぎりし》めた。
「小村、此処《ここ》を動くな」
庄三郎は猟銃を持って立ち、
「真里子もじっとしているんだ。立ったり逃げたりしちゃ駄目だぞ、宜いか」
「――君はどうするんだ」
「僕か、僕は……まあ見ていろ!」
そう云って、辷《すべ》るように裏手から出て行った。
真里子は思わず英吉の側へすり寄った。英吉はその手を握ってやりながら、凝乎《じっ》と息を殺して待った。何を? 何かは知らぬ、恐ろしい時が刻々に近づいて来る。怪獣がいま一歩一歩この小舎《こや》へ近寄って来るのだ。――咆声はやんだ、音という音が絶えた。この小舎《こや》を取巻く無限の闇は、死のような静かさと共に想像を許さぬ重みでのしかかって来る。
「――あっ!」
小村が不意に、まるで殴られでもしたように叫んだ。窓|硝子《がらす》からすうっ[#「すうっ」に傍点]と顔が覗いたのだ。真里子も小村の声で窓を見るや、
「小村さん※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
と叫びながら英吉にとびついた。
その刹那!
だんッ だんッ だんッ
戸外に鋭い銃声がした。同時に、窓の顔は闇の中へ消えたが、次の瞬間には、人の格闘する凄じい物音が聞えて来た。
「小村さん、お兄さまが!」
「――此処《ここ》を動かないで」
英吉はそう云いざま、扉《ドア》を明《あ》けて戸外へとび出して行った。――真里子は身動きも出来なかった。恐布に血を凍らせながら、あの怪獣のために引裂かれる男の姿を想像して、
「ああ、ああ、神さま!」
と夢中で叫んだ。
恐らくその数分間こそ、真里子にとって生涯忘れられぬものであろう。もう少しで気が狂うかと思われる恐怖のなかで、不意に兄の明るい笑声《わらいごえ》を聞いて振返ると、――泥まみれになった庄三郎が、小村と共に人夫頭の熊田良平を引立てて入って来た。
「まあお兄さま、お怪我《けが》は※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
と狂喜して走寄る妹の方へ、
「怪我なんかするもんか、さあよく見てごらん真里子、これが怪獣の正体だよ」
「え? ――怪獣ですって※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「そうさ、宮本武蔵は※[#「けものへん+非」、U+7305、293-7]々《ひひ》を斬捨《きりす》てたが、僕はゴリラの怪物を生捕《いけど》りにしたんだ。腕は僕の方が上だぜ」
そう云って高々と笑った。
「説明すれば簡単さ。――良平はもと足尾の銅山にいて鉱物に対する知識があったんだ。そして此処《ここ》を掘起《ほりおこ》している内に、この地下がすばらしい黄銅脈の宝庫だという事を知った。……奴はそれを自分の物にする野心を持って、僕たちを追払《おいはら》おうとしたのさ。さっき小村に見せたのが此処《ここ》から出た鉱石だ。
僕は今日、良平をつれて駅へ出たろう。あの時忘れ物がある振《ふり》をして良平を駅に待たせて置き、引返して来て奴の小屋を検べたんだ。するとあの怪獣の顔の張抜《はりぬき》と、この鉱石がごろごろ出て来た。そこで午後っから耕地を調査してみた結果、この土地が黄銅鉱のすばらしい山だという事が分ったのさ。……とこう云えばあとの事は分るだろう。犬を掠《さら》ったのも奴だ、人夫を退去させたのも彼だ。――但《ただ》し、唯《た》だ一人仲間がいる。それは八木という例の老人夫さ。此奴《こいつ》は森で竹法螺《たけぼら》を吹く役をしていたんだ」
「竹法螺? ――じゃあ彼《あ》の咆声は竹法螺だったの? お兄さま」
「いまに八木を捕えれば分るだろう。その竹法螺も小屋にあったよ」
「だが……」
と英吉が不審そうに訊いた。
「ゆうべ事務所の窓から覗いたのはどうしたんだ。十|米《メートル》もある高さをどうして登ったんだ。台も無かったしまた……」
「いやいや、あれこそ本当のお笑草さ」
庄三郎は苦笑しながら答えた。
「あれは窓から覗いたんじゃない。実はうしろの廊下から、あの廻転窓から覗いたんだ。それが光の反射でそのまま窓|硝子《がらす》へ映ったのさ。つまり事実はうしろにあったんだよ。あれには僕もいっぱい嵌《は》められたが……然し、その値打は充分にあったよ」
庄三郎は鉱石を弄《もてあそ》びながら附加《つけくわ》えた。
「二十町歩の畑地より、黄銅脈の発見の方が今のお国のためには百倍も役立つからね」
底本:「山本周五郎探偵小説全集 第三巻 怪奇探偵小説」作品社
2007(平成19)年12月15日第1刷発行
底本の親本:「少年少女譚海」
1939(昭和14)年1月
初出:「少年少女譚海」
1939(昭和14)年1月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)云《い》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)十|糎《センチ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)※[#「てへん+毟」、第4水準2-78-12]
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[#3字下げ][#中見出し]どくろ[#「どくろ」に傍点]の森[#中見出し終わり]
「お兄さま早くいらしって」
いま、散歩して来ると云《い》って、小村英吉と一緒に出て行ったばかりの真里子が、白く息を凍らせながら事務室へとび込んで来た。
「なんだい、僕は散歩には行かないぜ」
「そうじゃないのよ、なんだか熊田が人夫たちと一緒に表へ来ているの。お兄さまに会ってお話があるんですって」
「話があるなら此処《ここ》へ来いと云ってくれ。僕はいま用水路の設計で忙《いそ》がしいんだ」
「だって大勢ですもの、迚《とて》も此処《ここ》へ入りきれやしないわ」
「熊田と代表だけ来れば宜《い》いさ。――例の馬鹿げた話に定《きま》ってるんだ」
「じゃそう云うわ」
真里子が出て行くと暫《しばら》くして六名の人夫たちと人夫頭の熊田良平が入って来た。――みんな仕事着を脱いでいる。開墾地の午前十時に、人夫たちが、汚れていない絆纏《はんてん》股引《ももひき》で綺麗な手をしているのは、何か変った事のある証拠だ。
「どうしたんだ」
山中庄三郎《やまなかしょうざぶろう》はペンを投げて立上《たちあが》った
「もう十時になるというのに、みんな仕事にも出ずに何をしているんだ。話があるなら晩にでも聞こう。とにかく直《す》ぐ耕地に出てくれ給え」
「若旦那――」
人夫頭の熊田が、手に持った帽子をいじりながらおずおずと云った。
「人夫たちは帰りたいと云うでがす。とても此処《ここ》で働くこたあ出来ねえと云うでがす」
「冗談じゃない、賃銀も増してやったし……」
「いんや!」
八木という老人夫が強く首を振って云った。
「例《たと》え一日十両が二十両でも居らんねえだ。今日限り帰《けえ》らして貰《もれ》えます。わっし等《ら》でも家へ帰《けえ》りゃあ女房子供もあるし親兄弟もあるでがす。金で命は売れねえでがす」
「待ち給え、誰が金で命を買うと云った。――君たちはまさか化物《ばけもの》の噂に怯《おび》えたのじゃあるまいな? 子供ならともかく男一疋の君たちがまさかあんな噂ぐらいで……」
「噂じゃあねえだ」
老人夫が押返《おしかえ》して云った。――庄三郎はぐっと其方《そっち》へ向直《むきなお》って、
「噂でないって? じゃあ証拠があるのか」
「番小舎《ばんごや》の『黒』がやられたでがす」
「――――」
「佐吉のエスが首を噛切《かみき》られてから、地主屋敷の土佐犬がやられ、事務所の番犬がやられ、またゆうべ黒が……やられたでがす」
「それは、……それは――」
庄三郎は拳を撫でながら、
「こんな山奥だから、恐らく熊でも出て来るのだろう。猪かもしれない」
「旦那さんは何も御存じでねえだ」
別の人夫が云った。
「熊や猪なら足跡ですぐ分るだ。あの足跡は熊でも猪でもねえ、その他のどんな獣物《けもの》でもねえだ。ありゃあ決して普通《ただ》の生物《いきもの》の足跡じゃあねえだよ」
「足跡って……何かそんな物をみつけたのか?」
庄三郎が怪訝《けげん》そうに訊《き》くと、人夫たちは互いに不安そうな眼を見交わして頷合《うなずきあ》った。――そして暫くしてから熊田良平が恐る恐る云った。
「実ぁ若旦那、どくろ[#「どくろ」に傍点]の森から五番耕地へ、おそろしくでかい[#「でかい」に傍点]何かの足跡がついているでがす」
「――何かの足跡って?」
「とても口であ言えましねえ、若旦那が御覧なさってもお分りにゃあなるめえと思いますだ。恐ろしい恰好でござります。実に怖ろしい恰好をして居りますだ」
「見に行こうじゃないか」
真里子と共に、扉口《ドアぐち》に立っていた小村英吉が云った。庄三郎も頷いて、
「宜《よ》し、その足跡を見よう。熊田、案内して呉《く》れ」
と帽子を取った。
そしてみんな揃って事務所を出た。
此処《ここ》は静岡県の富士山麓、方五里に余る広漠たる「陣場ヶ原」という高原である。山中庄三郎は農科大学を出たばかりの若い学士で、学生時代から眼をつけていたこの荒野の開墾を思立《おもいた》ち、先《ま》ず二十町歩あまりを買取《かいと》ったうえ、三十八名の人夫を雇って乗込《のりこ》んで来た。――妹の真里子と、親友の小村英吉の二人が、庄三郎の協力者としてやって来たのは二週間ほどまえの事であるが、その時は耕地の端《はず》れに庄三郎たちの住居《すまい》を兼ねた事務所も出来、人夫たちの小舎《バラック》や、番小舎《ばんごや》なども建って、すでに区劃《くかく》された耕地の開墾が始められていたのである。
こうして事業は第一歩を開始したのであるが、五六日まえから妙な事件が次々と起り、危く一頓挫しようとしているのである、――妙な事件とは、いま人夫たちの口から出た「怪物」がそれだ。この荒野の北側にどくろ[#「どくろ」に傍点]の森と呼ばれる深い密林地帯がある。富士山麓に特有の奥知れぬ樹海のひとつで、まだ一人の樵夫《きこり》も入ったことが無く、全く神秘に包まれていた。
[#3字下げ]怪獣の足跡[#「怪獣の足跡」は中見出し]
五六日まえの或夜、――その森の中で奇妙な呻声《うめきごえ》のするのを人夫たちは聞いた。恐ろしくはばのある太い声だった。五分ほどずつ間を置いて二三度聞えただけであるが、腹の底へしみ透るような不気味さであった。
人々は恐る恐るカンテラを持って外へ出てみた。むろん何者の姿も見えなかった。
――何だろう、熊かしら。
――狼かしら。
みんな落着《おちつ》かぬ気持で囁合《ささやきあ》った。然《しか》し熊でもなく狼でもない事は分りきっていた。彼等の知っている限りでは、どんな獣《けだもの》の咆声《ほえごえ》にも似たものではなかったのだ。――そして不安な気持で寝た明《あく》る朝、佐吉という人夫の飼犬《かいいぬ》が、首を噛切られて死んでいるのを発見した。
続いて次の夜、此処《ここ》から十丁ほど下にある、地主の家の大きな土佐犬が急にいなくなった。そしてどくろ[#「どくろ」に傍点]の森の入口に、その犬の毛が散乱しているのをみつけたのは二日後のことである。無慙《むざん》に※[#「てへん+毟」、第4水準2-78-12]《むし》り取られひき千切られたものである。――然《しか》も更《さら》に番小舎《ばんごや》の犬が掠《さら》われ、昨夜《ゆうべ》は「黒」がやられた黒はグレート・デーン種の犢《こうし》ほどもある巨《おお》きなやつで、ライオンとすら闘うと云われる勇猛な犬だ。それさえ苦もなくやられたのである。……何ものであろう。あの咆声と、この恐ろしい事実は、明《あきら》かにどくろ[#「どくろ」に傍点]の森になにか奇怪な獣のいることを証拠だてている。熊ではない、狼でも猪でもない。もっと巨《おお》きな、もっと兇猛な獣なのだ。
人夫頭の案内で、庄三郎たちは五番耕地へやって来た。其処《そこ》はどくろ[#「どくろ」に傍点]の森に一番近く、地面が他に比べてずっと柔かいので、もう半分以上も鋤返《すきかえ》されている。
「――其処《そこ》を御覧なさいやし」
耕地の北寄りへ来た時、熊田良平がそう云って、鋤返された地面の一部を指さした。
「そこの窪みでがす」
「…………」
庄三郎は覗込《のぞきこ》むようにして見た。小村も真里子も見た。
はじめ、それは足跡とは思えなかった。長さ五十|糎《センチ》、幅三十|糎《センチ》ほど、ぽかりと深く土か窪んでいるが、余り大きいので足跡という感じからは遠かった。――然し熟《よ》く見ると窪みには凸凹《でこぼこ》があり、踵と指とが判《はっ》きり印されている。簡単に云うと指の長い人間の足跡を七八倍にしたという感じなのだ。
「ゴリラだわ」
真里子がぶるっと身震いをしながら呟《つぶや》いた。
「ばかな、此処《ここ》は阿弗利加《アフリカ》じゃない」
「ゴリラだわ。だってこの足跡はその他のどんな獣のものでもないわ。御覧なさいお兄さま、これは二本もで歩いているじゃないの、……こんな大きな足で、這わずに立って歩くなんてゴリラの他に何かいる?」
足跡は六|呎《フィート》ぐらいの間隔《あいだ》を置いて、ずっとどくろ[#「どくろ」に傍点]の森まで続いていた。
「わし等は帰《けえ》らして貰《もれ》えますだ」
老人夫の八木が云った。それと一緒に、跟《つ》いて来ていた人夫たちはがやがやと口々に、
「帰《けえ》らして貰うだ。こんな処にゃあ一刻もいられねえだ」
「今日までの日当を払って貰うべえ」
「そうだとも、直ぐ払って貰うだぞ」
と喚きたてた。――庄三郎は熱心に足跡を検《しら》べていた。妹の云う通り、それは如何《いか》にもゴリラの物のようである。然し熱帯にしか棲《す》むことの出来ないあの野獣が、この冬のさ[#「さ」に傍点]中に、然も殊《こと》に寒冷な富士山麓にどうして生きていられよう。ゴリラでは無い! それは慥《たしか》な事だ。然し――では何であろうか? 土佐犬をひき千切り、犢《こうし》ほどもあるグレート・デーンを打殺《うちころ》すほどの兇猛さを持ち、この大きな恐るべき足跡を残すような獣が他にあるだろうか?
「待ち給え諸君、――」
庄三郎は振返《ふりかえ》って叫んだ。
「僕はもう諸君の怖れを疑いはしない。此処《ここ》には慥《たしか》に何かがいる。正直に云えば非常に危険な怪獣がいるらしい。――だが考えてくれ給え、いま日本は史上|稀有《けう》の聖戦に当面している。銃後を護る我々は有《あら》ゆる困苦に耐え、出来る限りの力で生産を押拡げ充実させなければならない。工場でも農村でも、余っている力を利用してまだ開発されていないものを開発し、捨てられている荒地を開拓して、聖戦の大目的のために尽さなければならぬ時だ。……そしていま我々に与えられている任務は、この荒果《あれは》てた二十町歩の土地の開墾にある。この荒野を鋤返して立派な耕地にする事は、それだけ日本の生産力を拡げる事になるのだ。――僕はいま敢《あえ》て戦地の例はひかない。然し諸君に改めてお願いする。踏止《ふみとどま》って呉れ給え。いま祖国日本が当面している重大な時期を考えて、怪獣などのためにこの仕事を投出《なげだ》さないてくれ給え※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
人夫たちは黙っていた。みんなひどく当惑している様子だ、庄三郎は暫くそれを見やっていたが、――やがて静かな声で云った。
「僕の云った事は分ったと思う、それでも帰るという者は敢て止めはしない。事務所で金を受取《うけと》って自由に帰り給え」
そして妹と小村を促して其処《そこ》を立去った。
[#3字下げ]夜の怪声[#「夜の怪声」は中見出し]
然し駄目だった。――庄三郎の説得にも拘わらず、人夫たちは夕食前になると全部、今日までの賃銀を受取って立去って了《しま》った。
残ったのは山中兄弟と小村と、人夫頭の良平と炊事係の老人久助だけである。お人|好《よ》しで気の弱い、毎《いつ》もしょぼしょぼと眼を伏せていると云った風な熊田良平は、人夫たちを抑える事が出来なかったのを恥じてか、淋しい四人きりの食事のあいだ、小さくなって溜息ばかりついていた。
「で、――是《これ》からどうするんだ」
食事のあとで小村が訊いた。
「どうするって、斯《こ》うなったら当分どうしようもない」
庄三郎は硝子《がらす》窓から荒涼たる耕地の闇を見やりながら答えた。
「新しく人夫を集めるにしたって、こんな噂を聞いては来る者はあるまい。先ず問題は噂を無くす事だよ」
「噂を無くす――と云うと?」
「怪獣の正体をつきとめるのさ。古風に云えばやつ[#「やつ」に傍点]を退治するんだ。僕はどんな怪神魔獣をも怖れない、寧《むし》ろそんな物に惑わされる事の方を怖れるよ。……僕はやつ[#「やつ」に傍点]を仕止めてみせる」
「僕の不安なのは、やつ[#「やつ」に傍点]の正体が分らない事さ。正体を見せさえしたら――ね」
英吉は拳をぴしっと打った。
真里子は何も云わなかった。けれどさっきから眤《じっ》と兄の横顔を覓《みつ》めている眸《ひとみ》には、例《たと》えどんな事があっても兄と共に踏止るという固い決心を示していた。
「――若旦那さま」
良平かおずおずと呼びかけた、そして庄三郎が振返ると、気後《きおく》れのした様子でズボンの膝を撫でたり、そら[#「そら」に傍点]咳をしたりしながら云った。
「わし[#「わし」に傍点]が思うには、その、此処《ここ》をお立退きなさるが宜いと、思いますがのう。折角《せっかく》これまで手をつけて置いて、いまさら投出すちゅうは残念でがしょうが、それでもはあ、命には替えられましねえ、他に荒地も無《ね》えじゃあなし、ここは思切って立退きなさるのが、皆さんのおためだと存じますだがのう。――お買いなさっただけの金で、地主に買戻させる交渉はわし[#「わし」に傍点]が致しやすだで、御損のいかねえように……」
「有難《ありがと》う熊田、君の気持はよく分るよ、だが僕は断じて中止はしない。此処《ここ》は学生時代からの憧憬《あこがれ》の土地だったんだ、僕は此処《ここ》へ骨を埋める積《つもり》でいるんだ。二度とそんな事は云わないて呉れ、然し君の立退く事は構わないよ」
「わし[#「わし」に傍点]は、わし[#「わし」に傍点]は、……居りますだ。わし[#「わし」に傍点]は此処《ここ》に居りますだよ」
「危険があるから強《しい》ては勧めない、だが君の好きなようにし給え」
「わし[#「わし」に傍点]は残りますだよ」
そう云って良平は恥しげに立った。
良平が去ると、小村も二階の寝室へあがって行った。――これで当分仕事は一頓挫のかたちになったが、耕地へ引く用水路の設計だけでも仕上げて置こうと、庄三郎はランプを明るくして机に向った。
「真里子、君も寝たらどうだ」
「お兄さまと一緒にするわ、あたしスウェタアを編みかけてるの、此処《ここ》で編んでもお邪魔じゃないでしょう?」
「君も怪獣が怖いんだな?」
「怖くないって云ったら嘘になるわね、でもお兄さまの側なら安心よ。昼間みんなに話していらしった時、とてもお立派だったわ」
「褒めても此処《ここ》じゃあ贅《おご》る物はないぜ」
真里子は笑いながら編物《あみもの》を取りに行った。
この荒野では日が暮れると共に、まるで深夜のような静寂が天地を包む。何方《どっち》を見ても灯影ひとつなく、果しもなく真暗《まっくら》な闇が眼を遮るだけだ。物音と云ったら空高く渡る鳥か、裏の雑木林の枯れた梢《こずえ》を鳴らす風か、または遠く折々聞える小さな野獣の咆え叫ぶ声くらいのものである。
「今夜は特別静かだこと……」
「そうさ、四十人近くもいた人間が、一遍に五人になったんだもの、それに――もう黒もいなくなったし」
「――黒は可哀そうだったわねえ」
真里子はふと[#「ふと」に傍点]編棒を止めて眼を閉じた。
時計が十時を打った。――するとその音が微かに微《かす》かに、尾をひいて消えて行こうとする時、……どくろ[#「どくろ」に傍点]の森の方から妙な声がひびいて来た。初めは低く、次は高く、その次は更に高く――あうあう[#「あうあう」に傍点]というような、妙に喉にひっかかる声だ。ひどく太くて、然も空気を震動させる力は恐ろしく巨《おお》きい。例えて云えば法螺貝《ほらがい》の音を空洞《がらんどう》に反響させたらそれに似るかも知れない。
「――――」
「…………」
真里子はぶるっ[#「ぶるっ」に傍点]と身を震わせながら兄の方を見た。庄三郎はペンを止めたまま、凝乎《じっ》と身動きもせずに耳を澄している。……息の詰るような数分間であった。
[#3字下げ]窓の顔[#「窓の顔」は中見出し]
咆声は聞えなくなった、それでも五分ばかりのあいだ、二人は身動きもせずに黙っていた
「――もう寝たらどうだ」暫くして庄三郎が云った。
「ええ……お兄さまもお寝《やす》みになったら?」
「僕はもう少し」と云いかけた時、
「きゃあッ」
突然、ひき裂くように絶叫しながら、真里子が椅子《いす》からとびあがった。
「どうした、何だ真里子」
「あれ、――あれ!」
真里子は震える手で窓を指さした。――庄三郎が振返ると、闇の中から窓|硝子《がらす》越しに部屋の中を覗いている奇怪な獣の顔が見えた。
それは慄然《ぞっ》とするような恐ろしいものであった。大きさは四斗樽ほどもあろうか、灰色の毛に包まれ、赤い大きな口から剥出《むきだ》された牙は、今にもとびかかって来そうな凄《すさま》じさである。――ゴリラだ、否《いや》ゴリラではない、それに似た怪獣という他にない。……庄三郎は咄嗟《とっさ》に立って壁の猟銃を取下《とりお》ろした。然しそれより早く、怪獣の顔はすっと闇の中へ消えて行った。悲鳴を聞いて小村英吉が馳下《かけお》りて来た時、庄三郎は妹を背に庇《かば》いながら、猟銃を構えでじっと窓を睨みつけていた。
「どうしたんだ、何かあったのか」
「――うん」庄三郎の顔は遉《さすが》に血気《ちのけ》を喪《うしな》っていた。
「いま、その窓からやつ[#「やつ」に傍点]が覗いたんだ」
「やつ[#「やつ」に傍点]が……怪獣か」
「はっきりと見たんだ」
小村は窓の側へ走寄《はしりよ》って、勇敢に硝子《がらす》戸を押明けた。外は墨壺のような闇だった。
この事務所は小高い丘の端に建ててある、その窓の外は石垣で、平地から十|米《メートル》ほども切立《きりた》っているのだ。だから窓から覗くには何か台をするか、それだけの身丈《みのたけ》がなくてはならない。
「本当に此処《ここ》から覗いたのか」
「妹も僕も見たんだ。奴はそこから覗いたよ。そして――だが待て、……だが待てよ」
急に庄三郎はどしん[#「どしん」に傍点]と猟銃を床へおろして首を垂れた。それから不意に顔をあげると、振返って後を見た。……壁の上部に回転窓があって、廊下の終夜灯が明るく輝いている。
「どうしたんだ山中」
「なんだか変だ、僕はいま……」
庄三郎はそこでまたぷつりと黙った。
真里子は心配そうにおろおろと兄の様子を見戍《みまも》っていた。急に考え事を始めた兄の態度が、もしや怪獣を見たために理性を喪ったのではないかと思われたのである。――然し間もなく庄三郎は落着いた声で、
「いや、もう今夜は止《よ》そう」
と云った。「ともかく僕はやつ[#「やつ」に傍点]の正体を見たんだ。今夜はそれだけで充分だ。――真里子、行ってお寝《やす》み」
「でも……お兄さま」
「いや大丈夫、もう怪獣は来やしないよ。小村も寝給え、あとは明日の事だ」
そして独言《ひとりごと》のように呟いた。
「僕は必ずやつ[#「やつ」に傍点]を仕止めてやるよ!」
その明《あく》る日である。
庄三郎は朝食が済むとすぐ、良平を伴《つ》れて駅まで用足しに出掛けた。――帰って来たのは十二時近かった。
そしてゆうべの怪獣の話が出るだろうと思っていると、庄三郎はただ忙がしそうに昼食をかきこんで、
「夕方までには帰るから」
と云ったまま今度は一人で何処《どこ》かへ出掛けて行った。
真里子は一日中小村英吉と一緒にいた。ゆうべ見た窓の顔が、まだ眼前《めさき》にちらついて離れないともすると不意に後から襲われそうな恐怖が身を戦《おのの》かせるのだった。
「お兄さまは何をしているんでしょう。……また今夜もあの恐い獣が来るのかしら」
「真里子さん」
英吉は労《いた》わるように云った。
「僕は貴女《あなた》が帰った方か宜いと思うがな、貴女《あなた》にはこんな冒険は無理だ。山中の事は僕が引受《ひきう》けるから明日は帰る方が宜い」
「あたし兄と一緒でなければ帰りません。あたしまで帰って了《しま》っては、新しく人夫を集めるにしても来る者はないに決っていますわ。あたし兄と一緒ならどんな冒険でもする決心ですの」
「――有難う、真里子」
そう叫びながら、庄三郎が入って来た。……余り突然だったので、小村も真里子も吃驚《びっくり》して立上った。
「いまの決心を聞いて安心したよ真里子、僕たちは今夜こそ本当の冒険をやるんだ。僕はやつ[#「やつ」に傍点]を仕止めると云った。だが――小村、運命は逆転した。もう耕地開墾なんて小さな問題じゃなくなったよ。理由はあとで話すが、聞いたら恐らく仰天するだろう」
「どうしたんだ、まるで訳が分らん」
「いまに分るさ。真里子、今夜は三人で人夫|小舎《ごや》へ泊るんだぜ」
「――まあ、あんな寂しい小舎《こや》へ?」
「先ず怪獣を退治《たいじ》るのさ」
庄三郎は元気いっぱいに叫んだ。
「あの怪獣をね※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
[#3字下げ]冒険と銅[#「冒険と銅」は中見出し]
その夜の十二時過ぎであった。
二番耕地にある人夫|小舎《ごや》の中には、煌々《こうこう》とランプが輝いていた。――夕飯のあとで、庄三郎兄妹と小村英吉の三人は、夜食のサンドイッチを持ってこの小舎へ移って来たのだ。
今夜もまた底冷えのする雪催《ゆきもよ》いの闇であった。事務所と違ってこの小舎《こや》はどくろ[#「どくろ」に傍点]の森から百|米《メートル》ほどしか離れていない。わざわざ危険の方へ近寄って来た訳である。然も庄三郎は別に何をしようともしなかった。武器は猟銃一挺、弾丸《たま》は五発、罠も掛けてはないし、其《その》他のどんな手段も講じてはなかった。
十二時を少し過ぎた時、
「ああ退屈だな」
と庄三郎が大きく伸びをした。
「早く出て来れば宜《よ》いのに、陸獣め、なにをぐずぐずしているんだろう。――真里子、元気を出せよ、トランプでもやろうか」
「まあ、お兄さま暢気《のんき》ねえ」
「おっと待て、忘れていたっけ」
庄三郎はズボンの|隠し《ポケット》へ手を入れて、きらきら光る一塊の鉱石を取出した。そして小村の手に渡しながら、
「見て呉れ、何だと思う?」
「……鉱石だね、――よく分らないが黄銅じゃないか」
「僕もそう思ったよ」
「是がどうしたんだ」
「――叱《し》ッ」
庄三郎が急に制止の声をあげた。
どくろ[#「どくろ」に傍点]の森で咆声がする。――あの声だ、……一声、二声、――森にこだま[#「こだま」に傍点]して、闇を震わせて響く。真里子は思わず椅子の背をぎゅっと握緊《にぎりし》めた。
「小村、此処《ここ》を動くな」
庄三郎は猟銃を持って立ち、
「真里子もじっとしているんだ。立ったり逃げたりしちゃ駄目だぞ、宜いか」
「――君はどうするんだ」
「僕か、僕は……まあ見ていろ!」
そう云って、辷《すべ》るように裏手から出て行った。
真里子は思わず英吉の側へすり寄った。英吉はその手を握ってやりながら、凝乎《じっ》と息を殺して待った。何を? 何かは知らぬ、恐ろしい時が刻々に近づいて来る。怪獣がいま一歩一歩この小舎《こや》へ近寄って来るのだ。――咆声はやんだ、音という音が絶えた。この小舎《こや》を取巻く無限の闇は、死のような静かさと共に想像を許さぬ重みでのしかかって来る。
「――あっ!」
小村が不意に、まるで殴られでもしたように叫んだ。窓|硝子《がらす》からすうっ[#「すうっ」に傍点]と顔が覗いたのだ。真里子も小村の声で窓を見るや、
「小村さん※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
と叫びながら英吉にとびついた。
その刹那!
だんッ だんッ だんッ
戸外に鋭い銃声がした。同時に、窓の顔は闇の中へ消えたが、次の瞬間には、人の格闘する凄じい物音が聞えて来た。
「小村さん、お兄さまが!」
「――此処《ここ》を動かないで」
英吉はそう云いざま、扉《ドア》を明《あ》けて戸外へとび出して行った。――真里子は身動きも出来なかった。恐布に血を凍らせながら、あの怪獣のために引裂かれる男の姿を想像して、
「ああ、ああ、神さま!」
と夢中で叫んだ。
恐らくその数分間こそ、真里子にとって生涯忘れられぬものであろう。もう少しで気が狂うかと思われる恐怖のなかで、不意に兄の明るい笑声《わらいごえ》を聞いて振返ると、――泥まみれになった庄三郎が、小村と共に人夫頭の熊田良平を引立てて入って来た。
「まあお兄さま、お怪我《けが》は※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
と狂喜して走寄る妹の方へ、
「怪我なんかするもんか、さあよく見てごらん真里子、これが怪獣の正体だよ」
「え? ――怪獣ですって※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「そうさ、宮本武蔵は※[#「けものへん+非」、U+7305、293-7]々《ひひ》を斬捨《きりす》てたが、僕はゴリラの怪物を生捕《いけど》りにしたんだ。腕は僕の方が上だぜ」
そう云って高々と笑った。
「説明すれば簡単さ。――良平はもと足尾の銅山にいて鉱物に対する知識があったんだ。そして此処《ここ》を掘起《ほりおこ》している内に、この地下がすばらしい黄銅脈の宝庫だという事を知った。……奴はそれを自分の物にする野心を持って、僕たちを追払《おいはら》おうとしたのさ。さっき小村に見せたのが此処《ここ》から出た鉱石だ。
僕は今日、良平をつれて駅へ出たろう。あの時忘れ物がある振《ふり》をして良平を駅に待たせて置き、引返して来て奴の小屋を検べたんだ。するとあの怪獣の顔の張抜《はりぬき》と、この鉱石がごろごろ出て来た。そこで午後っから耕地を調査してみた結果、この土地が黄銅鉱のすばらしい山だという事が分ったのさ。……とこう云えばあとの事は分るだろう。犬を掠《さら》ったのも奴だ、人夫を退去させたのも彼だ。――但《ただ》し、唯《た》だ一人仲間がいる。それは八木という例の老人夫さ。此奴《こいつ》は森で竹法螺《たけぼら》を吹く役をしていたんだ」
「竹法螺? ――じゃあ彼《あ》の咆声は竹法螺だったの? お兄さま」
「いまに八木を捕えれば分るだろう。その竹法螺も小屋にあったよ」
「だが……」
と英吉が不審そうに訊いた。
「ゆうべ事務所の窓から覗いたのはどうしたんだ。十|米《メートル》もある高さをどうして登ったんだ。台も無かったしまた……」
「いやいや、あれこそ本当のお笑草さ」
庄三郎は苦笑しながら答えた。
「あれは窓から覗いたんじゃない。実はうしろの廊下から、あの廻転窓から覗いたんだ。それが光の反射でそのまま窓|硝子《がらす》へ映ったのさ。つまり事実はうしろにあったんだよ。あれには僕もいっぱい嵌《は》められたが……然し、その値打は充分にあったよ」
庄三郎は鉱石を弄《もてあそ》びながら附加《つけくわ》えた。
「二十町歩の畑地より、黄銅脈の発見の方が今のお国のためには百倍も役立つからね」
底本:「山本周五郎探偵小説全集 第三巻 怪奇探偵小説」作品社
2007(平成19)年12月15日第1刷発行
底本の親本:「少年少女譚海」
1939(昭和14)年1月
初出:「少年少女譚海」
1939(昭和14)年1月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ