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風格
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風格
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)眸《ひとみ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)室|左喜男《さきお》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#8字下げ]
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[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
眸《ひとみ》が自分に愛情をもっているということを松室《まつむろ》君がはっきり自分に納得させるまでにはずいぶんと長い時が必要であった。
眸がはじめて彼に微妙な意志表示をしたのは五年まえのことで、そのとき彼女は大胆な眼つきをしながら、「松室先生、どこかへあたくしをトリップに伴れて行ってくださいません?」と云ったのである。
それは疑うまでもなく彼女が待ちきれなくなっていた感情の表白であったのだが、松室君は静かに微笑みながら、「君もそういうことを云う年になったのかね」と答えただけであった。
そのとき彼は眸の表白を感じなかったのではない、むしろ少女の言葉がもっているニュアンスのどんな隅までも了解したのであるが、そういう了解のしかたを自らたしなめるのを松室君はエチケットとしていたのである。
それからまもなく眸は、兄の平吾《へいご》君が始めた酒場へ手伝いに出るようになり、松室君もしばしば友達を伴れてそこへ現れたが、ふたりの関係はそのまま。ながいことなんらの進展をしなかった。――もっともそのあいだに、松室君の周囲にいる青年たちが、はやくも眸のまなざしや松室君のそれに応える表情から、ふたりをつないでいる一種の情緒を感じとっていたことは云い添えなければなるまい。同時にまた松室君がそういう青年たちの敏感につきまとわれるのを煩わしく感じて、「プシケを掠う風神《ザイール》には髭がない」という即興詩を示したこともいちおうことに記しておかなければならぬ。
松室君は若いうちから長者の風をそなえていた。一例をとってみれば、彼ははやくから仏蘭西《フランス》語と数学に達していたし、また象徴派の詩にもすぐれていた、そしてこれらのうちどのひとつにおいてもじゅうぶんに一家を成すだけの才能を示していたにかかわらず、松室君の場合にはそれが奇妙なことにどうしても旦那芸になってしまうのである。――つまり彼の風格は彼みずからのすぐれた才能をさえ喰ってしまうほど立派であったのだ。
X大学の仏文科に入ると間もなく、同志を集めて『箒木《ははきぎ》』という詩の雑誌を創刊したが、そのとき松室君は十七人の仲間でいちばん年少であったのに、いつかしら主幹の地位を占めてしまい、それを誰一人として不審に思う者がなかった、そればかりではなくかえって、その頃まだそれほどひろく知られていなかったジャン・コクトオの新しい詩をつづけざまに紹介する松室君の逞しさにみんな圧倒されていたくらいであった。
その時分『箒木』の同人はしばしば茶の会をひらいて、文壇の人たちや学校に講座をもっている文学者を招待したが、そうした席における松室君の態度はほとんど仲間の羨望の的になっていた。たとえばその頃主知派の詩人として一世に名をあげていた渡春六平《とはるろっぺい》氏が席にいたとする、――みんな固くなって隅のほうにすっかりかしこまっているとき、松室君だけは背の高い体をそりみにして贅沢なイギリス煙草をふかしながら、少し鼻にかかった含み声で「渡春さん、何々はこうではありませんか」とかあるいはまた、「何々はこうでありましょうか、こうこうで……?」
などと話しかけるのだ。
あるとき仏文科の教授で同時に特異な情痴小説の作家として知られた永野庄吉《ながのしょうきち》氏が、その愛人を伴れて帝国ホテルの舞踏会へ行ったことがある、そのとき一隅から立って来て氏の愛人にプロポオズした青年が、教え子の松室君であるのを知って少からず驚かされたという話は有名であった。
かくて松室君は同人たちから自分たちの仲間とは違うというような畏敬の眼で見られたばかりでなく、やがてはずっと先輩の人たちとも友達づきあいをするようになり、そしてすこしもそれが不自然でなかったのである。
学校を出るとともに、『箒木』の同人の中から三人ばかり作家として文壇へ出た、松室君もそのうちのひとりで、数年のあいだは熱心に作品を発表していたし、世評もべつに悪いほうではなかったのであるが、やがて彼は自分のまえに奇妙な状態が生じてくるのを知った。――それは、いつも自分が『別者』の扱いを受けているということである、作品がたとえもっとも高い価値をもっていたとしても、それが松室|左喜男《さきお》の作である場合には『別物』とされてしまうのだ。この奇妙な現象を適確に説明することができるであろうか。
数年のあいだに松室君の存在は文学に携わる人たちのあいだで知らぬ者のないほど有名になり、その人たちは誰も彼も松室君の立派な風格と博学とに尊敬の眼を向けた。
彼の周囲にはいつか多くの青年が集まってきた、そして新しい文学運動の議論などが出るときには、
「松室さんはこう云われた」とかまたある者は、「松室先生がこう云われたからそれはこうである」とか云い合うのである。
しかし結局それはそれだけのことでしかなかった、彼がどんな傑作を書こうと、どんなに卓抜な文学的意見をもっていようと、誰ひとりとしてそれに反対する者もなく、したがってまた現実的関心をももたないのだ。
「松室さんがこう云われた」とかあるいはまた、「昨日松室君が誰それと酒を呑んでいた」とか云う、それだけ人々にはじゅうぶんであったのだ。
こういう時期に眸が現れたのである。
彼女はやはり松室君の家へ出入りをしていた画家の妹で、はじめて会ったとき彼女はまだ十六でしかなかったが、すんなりした体つきのわりに肉付の良い、腰のまるい眼の大きな少女で、人を見るときのまなざしには云い知れぬなまめかしさが含まれていた。
彼女が青年たちのあいだに烈しい情熱をまきちらしたのは云うまでもない。しかし松室君だけはそういう魅力を受取ることが無礼であると思い、自分のなかにふくれあがってくる愛情を冷やかに摘み取っていた。
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
「プシケを掠う風神には髭がない」
そういう即興詩を青年たちに示してから間もなくのことであった。ある朝、松室君が珈琲をすすっていると何のまえぶれもなく眸が訪ねて来た。
そんなことは数年このかた無かったので、黒づくめのドレスを着て豊かな肢体の線をあらわに見せた眸が、不意に書斎の硝子《ガラス》窓を外から叩いたとき、松室君は思わずどきりとして熱い珈琲で舌を焦がした。
「お邪魔ではありません?」
「いや」
松室君は動揺した気持を隠しながら答えた、「かまわないからお入り、そのドアが明いているはずだ、――靴のままでいいよ」
眸は部屋へ入って来ると、示されたソファにかけてなつかしそうに書斎の中を見廻した。松室君は女中に珈琲を命じてから、パイプに火をつけて眸の前へ腰をおろした。
「どうしたんだ、ばかに早いじゃないか」
「すみません」
眸は充血しているためどうかすると淫蕩にさえ見える眼でじっと松室君をみつめながら云った、「まだ先生はおやすみでしょうと思ったのですけれど、お願いがあったものですからおでかけにならないうちにと思って……」
「なんだね、お願いとは」
「云ってもいいかしら」
眸は肩をすくめながら、猜るそうにくすっと笑った。そして松室君が微笑しながら黙って待っていると、不意に話題を変えて松室君の周囲に集まる青年たちの品評を始めた。
「佐野《さの》さんのこと先生どうお思いになって、ずいぶんあの人おかしいわ」
「どうかしたのかね」
「いいえ、なんでもないんですけれど」と今度はまた急に眉を曇らせ、「あたしがこんなこと云ったなんておっしゃらないでね先生、本当はね、佐野さんはあたしに結婚を申しこんでいるんですって、――いやですわあたし」
松室君はこのときもう一度はげしく動揺した。佐野|勇吉《ゆうきち》は青年たちのなかでもぬきんでた才能をもっている男で、容貌もすぐれていたし家も良かったから、眸の相手としてはじゅうぶんに資格があるのだ。
「君に直接申しこんだのかい」
「いえ、兄さんから話があったんですの、でもあたし佐野さんは好きになれないんです、なんだか怖いわあの人」
「頼みというのはそのことかね」
「いいえ違いますわ」
眸は強く否定したが、それには隠しきれぬ混乱があった。
「ゆうべ瀬尾《せのお》さんがいらっしゃいましたわ」
「ふーむ」
「あのかたとてもむっつり屋ねえ、いつも頭をぼうぼうにして、それに……」と云いかけたが、松室君の不興げな表情に気付いたか慌てて話を戻した。
「お願っていうのはねえ先生、――あたし小説を書いてみたいんですの、こんなことをしていて結婚までひきずられてしまうのが、とてもこの頃つらくなってきましたわ」
しかしそれが彼女の本当の頼みでないということは松室君にすぐ分った。彼女もまたそれを感じたのであろう、気乗りのしない調子でしばらくとりとめないことを話していたが、やがて思い出したようにソファから立上って、「あたしもう帰らなければ」と呟くように云った。
彼女の体がそんなにも激しく匂ったことはない。充血した眼はいらいらと動いてやまず、絶えず何かに唆しかけられているように、乳の盛上った胸が高く波打っている。そしてしなしなした長い手指までが紊れきっている心をそのまま表現するように黒いドレスの上を悩ましげに這い廻るのだ。――こういう雰囲気に松室君の堪えられぬのは云うまでもない、彼は自分の感覚が眸の放つみだらな温度にひき寄せられるのを知ると、わけの分らぬ怒りを感じながら立上った。
眸は帰って行った。
[#8字下げ]三[#「三」は中見出し]
一週間ほど経ったある朝、同じような時間に松室君は眸から電報を受取った。「旅行のおしたくで十一時までに東京駅までお出ください、ぜひともお出ください」という意味のものであった。
松室君はそのとき、かつて眸がどこかへ旅に伴れて行けと云ったことのあるのを思い出し、電文のなかに含まれている大胆な、つきつめた感情と比較しながらそっと微笑した。
小さなスーツ・ケースを持って松室君が東京駅の一二等待合室へ着いたのは十一時少し過ぎであった。眸は待ちかねていたように婦人待合室から走り出てきた。
「よくいらしてくださいましたね、先生お怒りになりはしないかと思ってとても心配していましたのよ、うれしいわ」
「どうしたのだね」
松室は久しぶりで着た合服の衿を気にしながら眩しそうに相手を見た。眸はすっかり寛いだ調子で、先日と同じ黒いドレスの胸で手を握りあわせ、こみあげるような微笑をたえず顔いちめんに刻みあげていた。
「あたし兄と喧嘩をしてしまいましたの、それでもう帰らないからって出て来たんですけれど、本当はそのとき先生にお願いしてどこかへ伴れて行っていただこうと独りできめてしまったんですわ……だって松室先生ったらいくらお願いしても約束ばかりで一度も伴れて行ってくださらないのですもの」
眸の眼はつきあげるような愛情にきらめいていたし、体ぜんたいが抑えきれぬ意慾にゆれて、遠慮会釈もなく荒々しい情熱を松室君に浸みこませるのだ。
「どうして平吾《へいご》君喧嘩などをしたんだ」
「あとでお話しいたしますわ、でも……本当は佐野さんのことなんですの、兄はわたしに承知しなさいと云うしわたしはどうしてもいやなんです、どうしても」
眸は言葉尻に力をこめて云いながら、洞察することのできぬまなざしで強く強く松室君をみつめ、またしても身をゆりあげて、「それより早く切符を買いましょうよ、向うへ行ってから何もかもお話しいたしますわ。あたしうれしくってじっとしていられないのよ、この気持が先生に分ってくださったらいいんだけれど……」
「どこへ行きたいんだ」
「京都がいいわ、ねえ京都にしましょうよ」
松室君はいつか眸の荒々しい情熱に動かされていた、こうしてのしかかってこられることを、拒む余地を与えぬ逞しさを松室君のエチケットはひそかに待っていたのである。そして彼はそれを掴んだ。
「荷物は……?」
「このままですわ」
眸はハンド・バックを持っただけの両手をひろげて微笑した。
松室君は眸を待たせておいて外へ出た。平吾君に眸を伴れて旅に出るという電報をうち、それから丸ビルへ入って二三の買物をした。そのなかには眸に着せるためのなまめかしい薄紫のピジャマも加わっていた。
松室君が女とこういう交渉をもつのはむろんそれが始めてではない、それにしてもこれは今までのどのひとつと比較することもできぬほど新鮮な魅力をもっていた、彼女の体は伸びきった今年竹のように水々しく、薄い衣装の下に現われる筋肉のまるみは、脂ぎった白さを豊富な情慾、それも逞しい若芽のように匂やかな弾みの強い情慾に脈うっている。――彼女がまだ十六の年であった初めてのときから、このかた、体の線が描きだしていたあらゆる未知の慾求は、このごとく成長していま松室君のまえにさし伸べられているのである。
[#8字下げ]四[#「四」は中見出し]
松室君がそのとき眸の自分に対する愛情を疑わなくなったことについては、誰にも咎めることはできないと思う、繰返して云えば、そうなるまでには五年もかかっていたのだ、したがって次に起ってきた事件はまったく彼の責任ではなかったのである。
ふたりが京都へ着いたのは深夜であった、松室君の行きつけは京都ホテルであったが、この新しい冒険のためには新しいベッドが必要である、そこで彼は駅を出るとすぐ、かねて友達に聞いていた御室《おむろ》のほうの旅館へ宿をとろうと思い、手をあげて車を呼んだ。
しかし車がやって来たとき、松室君が行先を命ずるより先に、眸が走って行って、「三条ホテルまで」と云ってしまった。
「君はそんなところを知っているの」
「ええ」
眸はシイトの上で松室君のほうへ体をすり寄せながら、しすましたりという表情で頷き、胸いっぱいの秘密をたのしむかのように喉をふくらませた。
車が進むにつれて眸のようすが落着かなくなってきた、唇は痙攣するように歪み、両手は膝のうえで帛手《ハンカチ》を揉み、それから堪えがたそうに大きく吐息をつくのだ。松室君にはそれがたまらなく可憐に思われて、こんなことはじつに些細なものだということを幾度か了解させようと考えたが、汽車に乗っているあいだからずっとこのことに話を触れなかったので、それをきりだすきっかけがどうしてもみつからなかった。
車は三条ホテルへ着いた。それは鴨川に面した洋風の白堊館で、前庭に芭蕉を植えこんだ古めかしい建物であった。
先へ車を下りた松室君が、眸の手をとって援けおろしたときである、「先生――」という聞き覚えのある声をうしろに聞いて松室君がぎょっとしながら振り返ると、一人の青年が学帽をとりながらホテルの玄関から走り出て来るのがみえた。
「…………」
とっさに松室君は眸のほうへ眼をかえした、彼女はしかしもうそのときには青年のほうへ大股に進んで行くところだったのである。
「電報みて……?」
「ああ、それで迎えに行って今帰って来たところなんだ」
「ひと汽車後れたのよ、どうしても家を出られなかったんですもの」
口早に話すふたりの会話がすっかり事情を説明した。青年は松室君の周囲に集まる男のひとりで瀬尾というのであった。
「どうもすみませんでした」
青年は松室君のほうへもう一度頭をさげながら、ちょうどそれは松室君の若い頃のような落着きと自負した調子で云った。「どうぞ先生を利用したというふうにとらないでください、平吾さんや佐野の手から逃れるには、どうしても先生のお骨折りを願わなくてはならなかったのです、――とにかくお入りくださいませんか」
「先生、どうぞ」
眸が青年のあとから云った。
松室君はそのときすでにまったく自分を取り戻していた。へたな振舞をして自分の混乱したところを見られてはならない、――それが何よりもたいせつなのである。眸がたくみの罠に自分をおとしたのであるなら、自分がその罠にかかったという認識を彼女に許してはおけないのだ。――松室君は頷いて、ふたりのあとからホテルの中へ入って行った。
ささやかなロビイで十分ほど三人は話しあった、そして十二時の鳴るのを聞くと松室君は立上った。
「ではこれで失敬しよう」と彼は静かに云った、
「金が必要なら云ってよこしたまえ、僕は二三日京都ホテルに泊っている、それから……これは君たちへの贈物だ」
「僕たちですって?」
青年は驚いて包物を受取った。松室君は無表情な眼を壁のほうへ向けながら、「君はいつか眸には何よりも紫が似合うと云っていたはずだ、急いだのでもっと良い物をと思ったのだが間に合わなかった、しかし多分君の気にいるだろうと思う」
「まあ!」
眸が低い感嘆の声をあげた「では先生、あたしたちのこと御存じだったんですの?」
「このあいだの朝、君自身が僕のところで告白していたじゃないか」
「猜いわ先生、もうあのとき知ってらしったのね、いやだあ」
「君」と松室君振返った、「これからは無精をしてはいかんぜ、眸は僕にそれを云いつけに来たんだ、もっと剃刀を当てたまえ」
「プシケを掠う風神《ザイール》には髭がないですか」
青年と眸とは声を合せて笑った。
松室君はみごと罠を返上した。
青年は自分がかつて――眸には紫が似合う――と云ったことがあるかどうか、おそらく考えようともしないであろう、そして包の中から薄紫のピジャマが出たとき、それが世界中のどの色よりも彼女に似合うことを発見し松室君が自分たちのことを知っていてとくにそれを選んだということを改めて信ずるに違いない。
松室君は更けた道を歩いていた。
彼は危く自分が道化にならずにすんだことを悦んだ。彼らがそのピジャマについて、彼の下心をあえて疑おうとしないであろうことは確実である、――そういう疑いのきりこむ余地を与えないだけのきちんとした風格が自分にあることを松室君はじゅうぶんに知っているのだ。
しかしそれはそれとして松室君が深い憂欝に襲われはじめたのは事実である。そしてその原因が彼自身の動かしがたき風格にかかわっていたことはいうまでもない、彼はそのような危地にはまってさえ立派であった、彼らはなんの疑いもなく彼の行動を信じてしまうのだ……松室君はその風格のためにここでもやはり『別者』であったのだ。
底本:「現代小説集」実業之日本社
1978(昭和53)年9月25日 初版発行
底本の親本:「アサヒグラフ」
1935(昭和10)年6月19日号
初出:「アサヒグラフ」
1935(昭和10)年6月19日号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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《》:ルビ
(例)眸《ひとみ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)室|左喜男《さきお》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#8字下げ]
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[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
眸《ひとみ》が自分に愛情をもっているということを松室《まつむろ》君がはっきり自分に納得させるまでにはずいぶんと長い時が必要であった。
眸がはじめて彼に微妙な意志表示をしたのは五年まえのことで、そのとき彼女は大胆な眼つきをしながら、「松室先生、どこかへあたくしをトリップに伴れて行ってくださいません?」と云ったのである。
それは疑うまでもなく彼女が待ちきれなくなっていた感情の表白であったのだが、松室君は静かに微笑みながら、「君もそういうことを云う年になったのかね」と答えただけであった。
そのとき彼は眸の表白を感じなかったのではない、むしろ少女の言葉がもっているニュアンスのどんな隅までも了解したのであるが、そういう了解のしかたを自らたしなめるのを松室君はエチケットとしていたのである。
それからまもなく眸は、兄の平吾《へいご》君が始めた酒場へ手伝いに出るようになり、松室君もしばしば友達を伴れてそこへ現れたが、ふたりの関係はそのまま。ながいことなんらの進展をしなかった。――もっともそのあいだに、松室君の周囲にいる青年たちが、はやくも眸のまなざしや松室君のそれに応える表情から、ふたりをつないでいる一種の情緒を感じとっていたことは云い添えなければなるまい。同時にまた松室君がそういう青年たちの敏感につきまとわれるのを煩わしく感じて、「プシケを掠う風神《ザイール》には髭がない」という即興詩を示したこともいちおうことに記しておかなければならぬ。
松室君は若いうちから長者の風をそなえていた。一例をとってみれば、彼ははやくから仏蘭西《フランス》語と数学に達していたし、また象徴派の詩にもすぐれていた、そしてこれらのうちどのひとつにおいてもじゅうぶんに一家を成すだけの才能を示していたにかかわらず、松室君の場合にはそれが奇妙なことにどうしても旦那芸になってしまうのである。――つまり彼の風格は彼みずからのすぐれた才能をさえ喰ってしまうほど立派であったのだ。
X大学の仏文科に入ると間もなく、同志を集めて『箒木《ははきぎ》』という詩の雑誌を創刊したが、そのとき松室君は十七人の仲間でいちばん年少であったのに、いつかしら主幹の地位を占めてしまい、それを誰一人として不審に思う者がなかった、そればかりではなくかえって、その頃まだそれほどひろく知られていなかったジャン・コクトオの新しい詩をつづけざまに紹介する松室君の逞しさにみんな圧倒されていたくらいであった。
その時分『箒木』の同人はしばしば茶の会をひらいて、文壇の人たちや学校に講座をもっている文学者を招待したが、そうした席における松室君の態度はほとんど仲間の羨望の的になっていた。たとえばその頃主知派の詩人として一世に名をあげていた渡春六平《とはるろっぺい》氏が席にいたとする、――みんな固くなって隅のほうにすっかりかしこまっているとき、松室君だけは背の高い体をそりみにして贅沢なイギリス煙草をふかしながら、少し鼻にかかった含み声で「渡春さん、何々はこうではありませんか」とかあるいはまた、「何々はこうでありましょうか、こうこうで……?」
などと話しかけるのだ。
あるとき仏文科の教授で同時に特異な情痴小説の作家として知られた永野庄吉《ながのしょうきち》氏が、その愛人を伴れて帝国ホテルの舞踏会へ行ったことがある、そのとき一隅から立って来て氏の愛人にプロポオズした青年が、教え子の松室君であるのを知って少からず驚かされたという話は有名であった。
かくて松室君は同人たちから自分たちの仲間とは違うというような畏敬の眼で見られたばかりでなく、やがてはずっと先輩の人たちとも友達づきあいをするようになり、そしてすこしもそれが不自然でなかったのである。
学校を出るとともに、『箒木』の同人の中から三人ばかり作家として文壇へ出た、松室君もそのうちのひとりで、数年のあいだは熱心に作品を発表していたし、世評もべつに悪いほうではなかったのであるが、やがて彼は自分のまえに奇妙な状態が生じてくるのを知った。――それは、いつも自分が『別者』の扱いを受けているということである、作品がたとえもっとも高い価値をもっていたとしても、それが松室|左喜男《さきお》の作である場合には『別物』とされてしまうのだ。この奇妙な現象を適確に説明することができるであろうか。
数年のあいだに松室君の存在は文学に携わる人たちのあいだで知らぬ者のないほど有名になり、その人たちは誰も彼も松室君の立派な風格と博学とに尊敬の眼を向けた。
彼の周囲にはいつか多くの青年が集まってきた、そして新しい文学運動の議論などが出るときには、
「松室さんはこう云われた」とかまたある者は、「松室先生がこう云われたからそれはこうである」とか云い合うのである。
しかし結局それはそれだけのことでしかなかった、彼がどんな傑作を書こうと、どんなに卓抜な文学的意見をもっていようと、誰ひとりとしてそれに反対する者もなく、したがってまた現実的関心をももたないのだ。
「松室さんがこう云われた」とかあるいはまた、「昨日松室君が誰それと酒を呑んでいた」とか云う、それだけ人々にはじゅうぶんであったのだ。
こういう時期に眸が現れたのである。
彼女はやはり松室君の家へ出入りをしていた画家の妹で、はじめて会ったとき彼女はまだ十六でしかなかったが、すんなりした体つきのわりに肉付の良い、腰のまるい眼の大きな少女で、人を見るときのまなざしには云い知れぬなまめかしさが含まれていた。
彼女が青年たちのあいだに烈しい情熱をまきちらしたのは云うまでもない。しかし松室君だけはそういう魅力を受取ることが無礼であると思い、自分のなかにふくれあがってくる愛情を冷やかに摘み取っていた。
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
「プシケを掠う風神には髭がない」
そういう即興詩を青年たちに示してから間もなくのことであった。ある朝、松室君が珈琲をすすっていると何のまえぶれもなく眸が訪ねて来た。
そんなことは数年このかた無かったので、黒づくめのドレスを着て豊かな肢体の線をあらわに見せた眸が、不意に書斎の硝子《ガラス》窓を外から叩いたとき、松室君は思わずどきりとして熱い珈琲で舌を焦がした。
「お邪魔ではありません?」
「いや」
松室君は動揺した気持を隠しながら答えた、「かまわないからお入り、そのドアが明いているはずだ、――靴のままでいいよ」
眸は部屋へ入って来ると、示されたソファにかけてなつかしそうに書斎の中を見廻した。松室君は女中に珈琲を命じてから、パイプに火をつけて眸の前へ腰をおろした。
「どうしたんだ、ばかに早いじゃないか」
「すみません」
眸は充血しているためどうかすると淫蕩にさえ見える眼でじっと松室君をみつめながら云った、「まだ先生はおやすみでしょうと思ったのですけれど、お願いがあったものですからおでかけにならないうちにと思って……」
「なんだね、お願いとは」
「云ってもいいかしら」
眸は肩をすくめながら、猜るそうにくすっと笑った。そして松室君が微笑しながら黙って待っていると、不意に話題を変えて松室君の周囲に集まる青年たちの品評を始めた。
「佐野《さの》さんのこと先生どうお思いになって、ずいぶんあの人おかしいわ」
「どうかしたのかね」
「いいえ、なんでもないんですけれど」と今度はまた急に眉を曇らせ、「あたしがこんなこと云ったなんておっしゃらないでね先生、本当はね、佐野さんはあたしに結婚を申しこんでいるんですって、――いやですわあたし」
松室君はこのときもう一度はげしく動揺した。佐野|勇吉《ゆうきち》は青年たちのなかでもぬきんでた才能をもっている男で、容貌もすぐれていたし家も良かったから、眸の相手としてはじゅうぶんに資格があるのだ。
「君に直接申しこんだのかい」
「いえ、兄さんから話があったんですの、でもあたし佐野さんは好きになれないんです、なんだか怖いわあの人」
「頼みというのはそのことかね」
「いいえ違いますわ」
眸は強く否定したが、それには隠しきれぬ混乱があった。
「ゆうべ瀬尾《せのお》さんがいらっしゃいましたわ」
「ふーむ」
「あのかたとてもむっつり屋ねえ、いつも頭をぼうぼうにして、それに……」と云いかけたが、松室君の不興げな表情に気付いたか慌てて話を戻した。
「お願っていうのはねえ先生、――あたし小説を書いてみたいんですの、こんなことをしていて結婚までひきずられてしまうのが、とてもこの頃つらくなってきましたわ」
しかしそれが彼女の本当の頼みでないということは松室君にすぐ分った。彼女もまたそれを感じたのであろう、気乗りのしない調子でしばらくとりとめないことを話していたが、やがて思い出したようにソファから立上って、「あたしもう帰らなければ」と呟くように云った。
彼女の体がそんなにも激しく匂ったことはない。充血した眼はいらいらと動いてやまず、絶えず何かに唆しかけられているように、乳の盛上った胸が高く波打っている。そしてしなしなした長い手指までが紊れきっている心をそのまま表現するように黒いドレスの上を悩ましげに這い廻るのだ。――こういう雰囲気に松室君の堪えられぬのは云うまでもない、彼は自分の感覚が眸の放つみだらな温度にひき寄せられるのを知ると、わけの分らぬ怒りを感じながら立上った。
眸は帰って行った。
[#8字下げ]三[#「三」は中見出し]
一週間ほど経ったある朝、同じような時間に松室君は眸から電報を受取った。「旅行のおしたくで十一時までに東京駅までお出ください、ぜひともお出ください」という意味のものであった。
松室君はそのとき、かつて眸がどこかへ旅に伴れて行けと云ったことのあるのを思い出し、電文のなかに含まれている大胆な、つきつめた感情と比較しながらそっと微笑した。
小さなスーツ・ケースを持って松室君が東京駅の一二等待合室へ着いたのは十一時少し過ぎであった。眸は待ちかねていたように婦人待合室から走り出てきた。
「よくいらしてくださいましたね、先生お怒りになりはしないかと思ってとても心配していましたのよ、うれしいわ」
「どうしたのだね」
松室は久しぶりで着た合服の衿を気にしながら眩しそうに相手を見た。眸はすっかり寛いだ調子で、先日と同じ黒いドレスの胸で手を握りあわせ、こみあげるような微笑をたえず顔いちめんに刻みあげていた。
「あたし兄と喧嘩をしてしまいましたの、それでもう帰らないからって出て来たんですけれど、本当はそのとき先生にお願いしてどこかへ伴れて行っていただこうと独りできめてしまったんですわ……だって松室先生ったらいくらお願いしても約束ばかりで一度も伴れて行ってくださらないのですもの」
眸の眼はつきあげるような愛情にきらめいていたし、体ぜんたいが抑えきれぬ意慾にゆれて、遠慮会釈もなく荒々しい情熱を松室君に浸みこませるのだ。
「どうして平吾《へいご》君喧嘩などをしたんだ」
「あとでお話しいたしますわ、でも……本当は佐野さんのことなんですの、兄はわたしに承知しなさいと云うしわたしはどうしてもいやなんです、どうしても」
眸は言葉尻に力をこめて云いながら、洞察することのできぬまなざしで強く強く松室君をみつめ、またしても身をゆりあげて、「それより早く切符を買いましょうよ、向うへ行ってから何もかもお話しいたしますわ。あたしうれしくってじっとしていられないのよ、この気持が先生に分ってくださったらいいんだけれど……」
「どこへ行きたいんだ」
「京都がいいわ、ねえ京都にしましょうよ」
松室君はいつか眸の荒々しい情熱に動かされていた、こうしてのしかかってこられることを、拒む余地を与えぬ逞しさを松室君のエチケットはひそかに待っていたのである。そして彼はそれを掴んだ。
「荷物は……?」
「このままですわ」
眸はハンド・バックを持っただけの両手をひろげて微笑した。
松室君は眸を待たせておいて外へ出た。平吾君に眸を伴れて旅に出るという電報をうち、それから丸ビルへ入って二三の買物をした。そのなかには眸に着せるためのなまめかしい薄紫のピジャマも加わっていた。
松室君が女とこういう交渉をもつのはむろんそれが始めてではない、それにしてもこれは今までのどのひとつと比較することもできぬほど新鮮な魅力をもっていた、彼女の体は伸びきった今年竹のように水々しく、薄い衣装の下に現われる筋肉のまるみは、脂ぎった白さを豊富な情慾、それも逞しい若芽のように匂やかな弾みの強い情慾に脈うっている。――彼女がまだ十六の年であった初めてのときから、このかた、体の線が描きだしていたあらゆる未知の慾求は、このごとく成長していま松室君のまえにさし伸べられているのである。
[#8字下げ]四[#「四」は中見出し]
松室君がそのとき眸の自分に対する愛情を疑わなくなったことについては、誰にも咎めることはできないと思う、繰返して云えば、そうなるまでには五年もかかっていたのだ、したがって次に起ってきた事件はまったく彼の責任ではなかったのである。
ふたりが京都へ着いたのは深夜であった、松室君の行きつけは京都ホテルであったが、この新しい冒険のためには新しいベッドが必要である、そこで彼は駅を出るとすぐ、かねて友達に聞いていた御室《おむろ》のほうの旅館へ宿をとろうと思い、手をあげて車を呼んだ。
しかし車がやって来たとき、松室君が行先を命ずるより先に、眸が走って行って、「三条ホテルまで」と云ってしまった。
「君はそんなところを知っているの」
「ええ」
眸はシイトの上で松室君のほうへ体をすり寄せながら、しすましたりという表情で頷き、胸いっぱいの秘密をたのしむかのように喉をふくらませた。
車が進むにつれて眸のようすが落着かなくなってきた、唇は痙攣するように歪み、両手は膝のうえで帛手《ハンカチ》を揉み、それから堪えがたそうに大きく吐息をつくのだ。松室君にはそれがたまらなく可憐に思われて、こんなことはじつに些細なものだということを幾度か了解させようと考えたが、汽車に乗っているあいだからずっとこのことに話を触れなかったので、それをきりだすきっかけがどうしてもみつからなかった。
車は三条ホテルへ着いた。それは鴨川に面した洋風の白堊館で、前庭に芭蕉を植えこんだ古めかしい建物であった。
先へ車を下りた松室君が、眸の手をとって援けおろしたときである、「先生――」という聞き覚えのある声をうしろに聞いて松室君がぎょっとしながら振り返ると、一人の青年が学帽をとりながらホテルの玄関から走り出て来るのがみえた。
「…………」
とっさに松室君は眸のほうへ眼をかえした、彼女はしかしもうそのときには青年のほうへ大股に進んで行くところだったのである。
「電報みて……?」
「ああ、それで迎えに行って今帰って来たところなんだ」
「ひと汽車後れたのよ、どうしても家を出られなかったんですもの」
口早に話すふたりの会話がすっかり事情を説明した。青年は松室君の周囲に集まる男のひとりで瀬尾というのであった。
「どうもすみませんでした」
青年は松室君のほうへもう一度頭をさげながら、ちょうどそれは松室君の若い頃のような落着きと自負した調子で云った。「どうぞ先生を利用したというふうにとらないでください、平吾さんや佐野の手から逃れるには、どうしても先生のお骨折りを願わなくてはならなかったのです、――とにかくお入りくださいませんか」
「先生、どうぞ」
眸が青年のあとから云った。
松室君はそのときすでにまったく自分を取り戻していた。へたな振舞をして自分の混乱したところを見られてはならない、――それが何よりもたいせつなのである。眸がたくみの罠に自分をおとしたのであるなら、自分がその罠にかかったという認識を彼女に許してはおけないのだ。――松室君は頷いて、ふたりのあとからホテルの中へ入って行った。
ささやかなロビイで十分ほど三人は話しあった、そして十二時の鳴るのを聞くと松室君は立上った。
「ではこれで失敬しよう」と彼は静かに云った、
「金が必要なら云ってよこしたまえ、僕は二三日京都ホテルに泊っている、それから……これは君たちへの贈物だ」
「僕たちですって?」
青年は驚いて包物を受取った。松室君は無表情な眼を壁のほうへ向けながら、「君はいつか眸には何よりも紫が似合うと云っていたはずだ、急いだのでもっと良い物をと思ったのだが間に合わなかった、しかし多分君の気にいるだろうと思う」
「まあ!」
眸が低い感嘆の声をあげた「では先生、あたしたちのこと御存じだったんですの?」
「このあいだの朝、君自身が僕のところで告白していたじゃないか」
「猜いわ先生、もうあのとき知ってらしったのね、いやだあ」
「君」と松室君振返った、「これからは無精をしてはいかんぜ、眸は僕にそれを云いつけに来たんだ、もっと剃刀を当てたまえ」
「プシケを掠う風神《ザイール》には髭がないですか」
青年と眸とは声を合せて笑った。
松室君はみごと罠を返上した。
青年は自分がかつて――眸には紫が似合う――と云ったことがあるかどうか、おそらく考えようともしないであろう、そして包の中から薄紫のピジャマが出たとき、それが世界中のどの色よりも彼女に似合うことを発見し松室君が自分たちのことを知っていてとくにそれを選んだということを改めて信ずるに違いない。
松室君は更けた道を歩いていた。
彼は危く自分が道化にならずにすんだことを悦んだ。彼らがそのピジャマについて、彼の下心をあえて疑おうとしないであろうことは確実である、――そういう疑いのきりこむ余地を与えないだけのきちんとした風格が自分にあることを松室君はじゅうぶんに知っているのだ。
しかしそれはそれとして松室君が深い憂欝に襲われはじめたのは事実である。そしてその原因が彼自身の動かしがたき風格にかかわっていたことはいうまでもない、彼はそのような危地にはまってさえ立派であった、彼らはなんの疑いもなく彼の行動を信じてしまうのだ……松室君はその風格のためにここでもやはり『別者』であったのだ。
底本:「現代小説集」実業之日本社
1978(昭和53)年9月25日 初版発行
底本の親本:「アサヒグラフ」
1935(昭和10)年6月19日号
初出:「アサヒグラフ」
1935(昭和10)年6月19日号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ