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美人像真ッ二つ
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美人像真ッ二つ
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)佐治五郎《さじごろう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二|吋《インチ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)※[#感嘆符疑問符、1-8-78]
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[#3字下げ]「横われる女」の買手は見知らぬ九州の金持[#「「横われる女」の買手は見知らぬ九州の金持」は中見出し]
佐治五郎《さじごろう》は美術雑誌「新東美術」の若い記者である。まだ大学の美学科を出て二年にしかならないが、中々の敏腕家で、入社すると直《す》ぐ若い彫刻家たちを集め、「新古典派」という団体《グループ》を作り雑誌の上でその主張を説いたり、春秋二度ずつ定期展覧会を催したりして、美術界にすばらしい話題を投げていた。
今年は特に年末を期して、特別展覧会を開こうという計画を樹《た》て、十五名の会員を総動員してその準備を急いでいた。――年末の美術展覧会なんて、美術商人の売立《うりた》てを除いては余り例のない事だし、なにしろ当時評判の新古典派が顔を揃えて傑作を出すというのだから、早くも美術界には噂の波が拡がっていた。尤《もっと》もこの企ては佐治五郎の発案で、なにしろ新進芸術家と云《い》えば、先《ま》ず貧乏という事に相場が定《きま》っている。新古典派の会員たちも作品こそすばらしいが金には不自由している者ばかり、そこで季節外れながら力作を揃えて会を催し、みんなに楽しい正月をさせようという意味があるのだった。
もう開期に間のない十二月十五日のこと、佐治五郎は会員たちの仕事の進み具合を見廻るために、先ず同じ大森にいる木谷《きだに》順吉のアトリエを訪ねた。
「まあ佐治さん被入《いらっしゃ》い」
木谷の妹の眸子《ひとみ》は、佐治を見ると両手を翼のように拡げながら跳んで来た。
「どうしたの、馬鹿に嬉しそうじゃないか、何か良い事でもあったの?」
眸子《ひとみ》は悪戯《いたずら》そうにくるくると眼を動かしながら、五郎の手を取って、
「早く来て見て頂戴、あたしお正月の服を買ったのよ、それから靴も、帽子も手革包《ハンド・バック》も……」
「夢みたいな話だね、それ本当なの?」
貧乏な彫刻家の中でも、木谷は妹を抱えているのでその貧しさも一倍で、ひどい時こなると兄妹《きょうだい》して馬鈴薯《じゃがいも》ばかり喰べている事さえある。その事情を知っていたから、佐治は時折自分の小遣《こづかい》を割いて与えたり、彫刻の売口を捜したりして助けて来たのである。口の悪い連中は、
――佐治があんなに木谷の面倒をみるのはあの妹が好きだからなんだぜ、佐治の奴はいまに眸子《ひとみ》さんをお嫁に貰う積《つもり》でいるんだ。
などと蔭口をきいている。実際のところ五郎は眸子《ひとみ》を好いていた。いや五郎ばかりではない、気立《きだて》が優しくて明朗で、おまけにずば[#「ずば」に傍点]抜けて美しい眸子《ひとみ》は、会員仲間から「美の女神」と云って愛されていた。――然《しか》し眸子《ひとみ》の方でも、そんな大勢に騒がれる事より、唯《ただ》一人の五郎の親切を心から有難《ありがた》く思い、誰に会うより五郎と会うことを歓んでいたのである。
実は今日も来る途中、五郎は木谷に少しばかり金を渡そうと思っていたのだから、眸子《ひとみ》の意外な容子《ようす》を見てすっかり驚かされて了《しま》ったのだ。
「佐冶さんに見て頂いてから着ようと思って、服も帽子もまだ箱から出さずに置いてあるのよ。早く来て見て頂戴、迚《とて》もすばらしいわ」
「どうした訳だか僕には分らないよ、天使が小切手でも持ってきたのかい」
「正に天使だ!」
仕事部屋《アトリエ》の窓から木谷順吉が首を出して叫んだ。
「尤も其奴《そいつ》は地面を歩いて来たがね、小切手を持って来たのは慥《たし》かだよ」
「おい、作品を買いに来たのか」
「然《しか》も粘土型を見ただけだ」
「あの『横《よこた》われる女』か?」
「そうだ、ひと眼見ると、いきなり五百円で買おうと云うんだ。手附《てつけ》として二百円だけ小切手で置いて行ったよ」
佐治五郎は跳込《とびこ》むように、眸子《ひとみ》と手を執《と》り合ったまま仕事部屋へ入って行った。――其処には粘土で作った『横われる女』の等身大の原型がある、制作中のことで室内は足の踏場《ふみば》もなく取散《とりち》らされてあった。
「是《これ》が五百円か、若《も》し是が藤居幸助氏の作だったら三倍は慥《たしか》だが、まあ此際《このさい》だから仕方がないだろう。――ところで買ったのは何者だ。君に眼をつけたとすると『造形社』の親爺《おやじ》か」
「いや美術商じゃないんだ。九州から出て来ている林田という金持《かねもち》だそうだ。此処《ここ》へ買いに来たのはその秘書だがね」
「占《し》めた。その金持はきっと君の作品が好きなんだぜ、うまく行くと将来君の作品はみんな其奴《そいつ》が買うぞ」
「馬鹿な事を云え。君にも随分永いこと迷惑をかけているし、正月を控えて眸子《ひとみ》の着る物もないから仕方なしに売ったんだ。己《おれ》は金持のお気に入る作家にゃ成りたくないよ。――まあそんなことは何方《どっち》でも宜《い》いや、君が来たら祝杯を挙げようと思って葡萄酒《ぶどうしゅ》が買ってあるんだ。一杯やろう!」
「あら厭《いや》よお兄さま」
眸子《ひとみ》が向うからボール箱を運んで来ながら叫んだ。
「祝杯はあと、あたし服や帽子を佐治さんに見て頂くんだわ」
[#3字下げ]喫茶店セネガルから大至急の呼出電話[#「喫茶店セネガルから大至急の呼出電話」は中見出し]
やがて塩豚《ハム》と葡萄酒で三人は元気に祝杯をあげたが、五郎は塑像《そぞう》の方へ振返《ふりかえ》って、
「だが、むろん展覧会へ出品することは話したろうな?」
「初めは出来上ったら直ぐ引渡して呉《く》れと云ったがね、展覧会が迫っていてどうしても一度出品しなければならぬ事を説明したやったら、それでは展覧会が終ったら残金三百円と引換《ひきか》えに受取《うけと》ると承知したよ。――然し佐治、是は君だけに話したんだから他の者には黙っていて呉れよ」
「どうしてだい」
「買主《かいぬし》の希望なんだ。時節がらこんな金を遣うことが世間へ知れては面白くないから、絶対に他人《ひと》には話して呉れるなと云うんだ」
「はははは金持なんて不自由なものだな、自分の金を遣うのにも世間に気兼《きがね》をしなくちゃあならないなんて、馬鹿な話さ」
五郎は笑って杯《グラス》を置いた。
木谷と別れた五郎は、省線で新橋まで行き、内幸町にある「新東美術社」の社長室へ顔を出した。――其処《そこ》には矢張《やは》り同じ会員の、矢土蒼生《やつちそうせい》が来合せていたが、五郎の顔を見ると、
「じゃあお願いします」
と社長に挨拶して直ぐ立上った。
「なんだい、僕の顔を見ると直ぐ帰らなくても宜いじゃないか」
「そういう訳じゃないよ、社長に頼みがあって来たんだが、もう済んだから帰ろうと思っていたところなんだ」
「仕事はどうした、旨く行ってるかい」
「もう石膏を叩くばかりさ」
「じゃあ充分間に合うな、――吉田や波木井《はきい》はどうしてる?」
「二人ともやっているよ」
「まあ精々《せいぜい》頑張って呉れよ、季節外れの会で批評家の眼が光ってるから、迂闊《うっかり》して敲《たた》かれないように頼むぜ」
「まあ見ていて呉れよ」
矢土蒼生は自信あり気に言って立去った。――五郎は矢土のかけていた椅子《いす》を取って、
「社長、吉報がありますよ」
と云うと、秋山社長も身を乗出して、
「吉報は此方《こっち》にもあるんだ」
「吉報の鉢合せですか、何です社長の吉報と云うのは?」
「是を見給え」社長が笑いながら差出《さしだ》したのは、矢土蒼生の名宛て二百円の小切手だった。――振出人《ふりだしにん》は下山健市とある。
「矢土君のが売れたんですか」
「実は誰にも話さんで呉れと云うのだがね、今度の展覧会へ出す『秋光を浴びて』という裸体が売れたんだそうだ。然も買手の方から訪ねて来て四百円と値をつけ、残金は展覧会が終ると同時に渡すという話さ、――今この小切手を持って来たから、僕が現金を立替えてやってやったところだよ」
「そいつは妙な暗号ですね」
と云いかけて、佐治はふと口を噤《つぐ》んだ、――余りによく似た話である。木谷の買主は九州の富豪で林田と聞いたし此方《こっち》の小切手は下山健市というのだから、買主は違うらしいが話の筋は全く同じようだ。
「ところで君の吉報と云うのは何だね」
「はあ、それが実は――」
云いかけた時、給仕が扉口《とぐち》から、
「佐治さん電話ですよ」と呼んだので、救われたように五郎は編輯《へんしゅう》室へ出て来た。――電話の相手は会員の中で一番若い野口庄三郎であった。
「佐治さんですか、僕いま銀座のセネガルにいるんですがね、些《ちょ》っとお話がありますから急いで来て呉れませんか」
「セネガルって喫茶店の方かい?」
「そうです、待ってますから」
そこで電話は切れた。
木谷の事を社長には話しても宜いと思ったのだが、矢土蒼生の話を聞くと何だか訳の分らぬ不安を感じ始め、暫《しばら》く話はせずに置く方が宜いと思直《おもいなお》したので、電話を幸《さいわい》に五郎はそのまま社をとび出した。
銀座二丁目の喫茶店セネガルには、野口庄三郎の他に吉田喜作がいた、二人は五郎を待兼《まちか》ねていたように、
「感謝感謝、よく来て呉れました」
と両方から手を差出した。
「悦《よろこ》んで下さい佐治さん、愈々《いよいよ》『新古典派』も世間の声価を獲得しました。育ての親の貴方《あなた》の苦労も酬《むく》いられる時が来ましたよ」
「なんだい、だしぬけに」
「僕の作品が売れたんです」野口は昂奮しながら云った。
「大阪の金持で河野という人が来ましてね、今度の展覧会へ出す塑像を五百円で買って呉れたんです」
「え? 君もか、君もか?」五郎は唖然と眼を瞠《みは》った。――ああ是は全体どうした訳だ? 本当に幸運の神か訪れたのであろうか、それとも……それとも? ――五郎の頭にふと凶《まが》しい物の影が揺れ動いた。
[#3字下げ][#中見出し]深夜の仕事部屋《アトリエ》に、あッ! 誰かいる誰か![#中見出し終わり]
愈々《いよいよ》明日は会場へ陳列という前夜だった。
あれ以来会員たちを訪ね廻って歩いた五郎は、木谷、矢土、野口の他に更《さら》に二名、越川、米田とつまり五名の者が殆《ほとん》ど同じ条件で作品を買われている事実を知った。
「妙だ、どうも話に妙なところがある」
五郎はなんだか騙《だま》されているような気がしてならない、単なる「幸運の訪れ」と云って了《しま》えない気がするのだ。――今日も五人めを訪れた帰りに、銀座の酒場《バアー》で好きなフェネシイの三星《みつぼし》を飲みながら、この奇妙な買手に就《つい》て考えを纏《まと》めてみた。五人が五人とも共通している点が三つあるのだ。
第一は、五人とも、買われたのは女性の裸体の等身塑像である点。
第二は、小切手の振出人こそ違うが、扱い銀行が同一である点。
第三は、五人とも買約を秘密にして呉れと固く口止めされている点。
右の三つが五人に共通した条件である。まだ市価も確《しか》と定《きま》っていない新人の、然も大作ばかりを四百円、五百円で買うという点も、考えると余りにうま過ぎる話だ。
「こいつは唯じゃあねえぞ」
思わず飲み過ぎているのも知らず、五郎は長いこと彼《あれ》か是かと考えてみた。
「殊《こと》に依《よ》ると是は、新古典派の勢力に怖れをなした奴等が裏から何か策動を始めたのかも知れないぞ。例えば有望な作家を手馴《てな》ずけて引抜くとか、例えば部内の団結を分裂させて、会をぶち壊すとか、そうだ、恐らくそんなところかも知れない」
統率者として、会員の作品の売れた事をさえ心配しなければならぬ五郎の立場は、実に皮肉な苦々しいものであった。
酒場《バアー》を出たのが午前一時を過ぎていた。省線の終電車に危く間に合って大森へ着いた時には、飲過《のみす》ぎた酔《よい》が一遍に出て、迚も自分の下宿まで帰れそうもなかった。
「迂闊《うっかり》すると途中で参るかも知れないぞ、仕方がないから木谷の仕事部屋《アトリエ》へ泊めて貰うとしよう」
そう思いついたので、五郎は木原山にある木谷順吉の家を訪れた。――もう午前二時を過ぎていたが、こんな事は初めてではないから、生垣を乗越えて玄関の扉《ドア》を叩いた。すると待兼ねていたように、
「お帰りなさい!」
と云って扉《ドア》を開けたのは眸子《ひとみ》だった。
「あら、佐治さん?」
「ああ君か、木谷は留守なのかい」
「ええ出掛けたまま未《ま》だ帰らないのよ、林田さんの御招待で出たんですけど」
「林田って……ああ彫刻を買って呉れた人か、そいつは、――いや、実は銀座で晩《おそ》くなったんで泊めて貰う積《つもり》で来たんだがね」
「お上んなさいよ、外は寒いわ」
「だって君一人じゃあね」
「つまらない遠慮なんかしっこ[#「しっこ」に傍点]無し、あたし独りで淋しくて仕様がなかったのよ。もう二時過ぎだし、若しお兄さまが帰らなかったらどうしようかと思っていたんだわ、――泊っていらっしゃいよ」
「じゃあお邪魔しよう」
眸子《ひとみ》は甲斐甲斐しく外套を脱がせたり帽子をとってやったりしながら、五郎を居間の方へ案内した。
「厭だわ、お酒あがってらっしゃるのね」
「少し考え事があったのさ、それでつい飲過ぎちゃったんだ。直ぐ寝かして貰うぜ」
「向うへお床を敷くわ」
「いや此処《ここ》で宜いよ」
烈しい酔に堪《たま》らなくなって、五郎は其処《そこ》へごろりと横になった。
「駄目ねえ、それじゃ仕事部屋《アトリエ》から毛布を持って来るわ、待っててね」
そう云って眸子《ひとみ》は、兎《と》に角《かく》外套を足の方へ掛けてやって居間を出た。――『横われる女』はもう石膏を叩き終り、もう粘土も抜いてあるので、今夜は石膏を流す筈《はず》になっていた。その時使うために、普段必要のない毛布や蒲団はみんな仕事部屋《アトリエ》へ運んであったのだ。――仕事部屋《アトリエ》へやって来た眸子《ひとみ》は、馴れているので窓明りを頼りに、隅の方に重ねてある毛布を取ろうと、部屋の中へ二三歩入って行ったが、不意に人の気配を感じて、
「――誰? 其処《そこ》にいるの誰※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
と叫んで振返った。――兄の作りかけている石膏像の側に誰かいる。
「あ! 佐治さんッ」
悲鳴をあげて逃出《にげだ》そうとした刹那、塑像の側に跼《かが》んでいた人影は、飛鳥の如く眸子《ひとみ》に跳りかかって来た。
[#3字下げ]ふと足下に落ちていた凸凹型の石膏のかけら[#「ふと足下に落ちていた凸凹型の石膏のかけら」は中見出し]
「おい、起きないか佐治、おい」
強く揺起《ゆりおこ》されて、ふっと眼覚めた佐治五郎は、前に立っている木谷順吉を見て、
「おや、帰って来たのか」と怪訝《けげん》そうに眼を擦《こす》った。
「帰って来たのかって何時だと思ってるんだ、もうさっき正午《ひる》を過ぎたぜ、僕はもう仕事をして了《しま》ったんだ。来て出来栄えを見て呉れよ」
「そうか、酔ってたもんですっかり寝込んじゃった。眸子《ひとみ》さんは?」
「君も出掛けたのを知らんのか?」
木谷は持っていた紙片《かみきれ》を示して、
「今朝帰ってみたら是が置いてあったんだ。牛込の叔母《おば》の所へ行くと書いてある」
「なんだい、佐治さん! って呼んだのを夢のように覚えているが、じゃあ彼《あ》の時出掛けたんだな、よっぽど俺は参ってたとみえる」
起きようとした時五郎は、足に外套を掛けたまま寝ていた事に気付いた、――はてなと思ったが別に深くも考えず、顔を洗って仕事部屋《アトリエ》へ行って見《み》た。木谷の塑像はすっかり出来上っていた。美しい裸体の美人が、岩の上へ横わっている上作で、実に見事な出来栄えである。
「すばらしい、是が五百円とは勿体ないぞ、――すぐ会場へ運んで呉れ」
「もう運送屋へ頼んであるんだ」
「早手廻しだな、じゃあ僕は社へ行こう」
そう云って塑像の前から離れようとした五郎は、足許に落ちている二|吋《インチ》四方くらいの石膏の固《かたま》りをみつけて何気なく拾い上げた。
「何んだい是《これ》ぁ――?」
「さあ、知らんね」
見ると四角の一面に山脈の一部のような凹凸が彫ってあり、裏側に、
(B・3)という字が書きつけてある。
「こんな印がつけてあるぜ」
「知らないね、僕はそんな物を弄《いじ》った覚えはないよ」
五郎は暫く捻《ひね》っていたが、何か気懸りな事があるらしく、小首を傾げ傾げ、
「どうも妙だよ、妙な事|許《ばかり》つづくよ」と呟《つぶや》きながら外套を着た。
木谷が作品を運んで行ったのは其《その》日の午後三時頃であった。銀座の会場にはもう殆ど全会員の作品が揃っていて、新東美術社の者がせっせと陳列を急いでいるところだった。
「佐治君はどうしたの?」
「何だか急用があるから此方《こっち》へは来られないと云っていました」
「仕様がないな、大事な陳列に立合って呉れなくちゃ困るぜ」
みんなは不平そうに呟き合った。――するとその噂へ影のさすように、佐治から木谷へ電話だと知らせて来た。
「ああ木谷か、僕だ」五郎の声は妙に苛々していた。「ゆうべ林田から招待されたそうだが、それは君一人か?」
「そうだよ、日本橋の料理屋で林田の秘書と二人っきりだったが、其《それ》がどうかしたのか」
「――済まないが矢土と代って呉れ」
「君は会場へ来ないのか」
「何でも宜いから矢土に出て貰って呉れよ、急ぐんだ」
常に似合わず気短《きみじか》な調子である、木谷は直ぐ矢土を呼んだ。矢土はまた少し電話で話すと今度は野口庄三郎に代り、それから越川、米田と順々に五人の者が電話口へ呼出《よびだ》されて何事か訊《き》かれた。――そして最後に、
「僕は陳列に立会えないから、君たちで宜《よろ》しくやって呉れ給え。それからね、どの作品にも買約済の札を貼らないようにしろって、厳重に云って置いて呉れ給え!」
それだけ云うと五郎は電話を切って了《しま》った。
斯《こ》うしてその日は結局佐治五郎は会場に姿を見せず、陳列は会員たちと雑誌社の者の手で行われたうえ、夜になってようやく皆別れた。
明くれば愈々《いよいよ》展覧会の第一日である。何しろいま評判の新古典派が、全会員腕をふるっての力作揃いというので、美術愛好家の人気はすばらしく、会場はもう午前中から押《おし》かける人で湧きかえっていた。――すると午後三時近い頃、寝不足らしく眼を充血させた佐治五郎が、疲れきったという風で会場へとび込んで来た。
「おい、木谷はいないか」
「事務所の方にいますよ」
野口が答えるのを押除けるようにして、五郎は会場の一部にある事務所へ入って行った。ところが事務所の中では、いま一人の紳士が木谷を捉えて盛んに何か抗議をしている。
「困りますよ是は、貴方《あなた》の作品は私が買ったのです。買約の札を貼って下さらなければ若し他人《ひと》が買おうと云ったらどうします。――直ぐ買約の札を貼って下さい」
「その話は僕が伺いましょう」
そう叫びながら五郎は大股に事務所の中へ入って行った。
[#3字下げ]ああ無残、何たる狂態、美人像は真ッ二つ[#「ああ無残、何たる狂態、美人像は真ッ二つ」は中見出し]
「あ、佐治、――」
驚いた木谷は、五郎の方へ走寄《はしりよ》って、
「おい、眸子《ひとみ》の行衛《ゆくえ》が知れないんだ。牛込の叔母の方へは行っていないと云う……」
「まあ待て、此方《こっち》から先に片附けよう」
そう云って五郎は紳士の方へ向直《むきなお》った。
「貴方《あなた》ですね、木谷の作品を買った九州の林田とか云う人の、秘書をしていらっしゃる方は、貴方《あなた》ですね?」
「そうです」
「支那人でしょう、君は※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「な、なんですか、君は何を……」
林田の秘書という男はさっ[#「さっ」に傍点]と顔色を変えた。然し五郎は平然として、
「いや、今お話の買約札ですね、あれを貼らぬように云ったのは僕なんです。それに就て説明しますから会場へ来て下さいませんか」
「宜しいとも、買った作品に買約済の札を貼るのは当然の事でしょう。理由があるなら承わりたいと思います」
「承知しました、どうぞ」
にっこり笑って、五郎は会場の方へ出て行った。――会場の人混《ひとごみ》の中へ出た時、五郎が右手をあげて誰かに何事か合図をした事に気付いた者は一人もなかった。
「是ですね」五郎は『横われる女』の前へ来た、「傑作ですな、五百円では安いものです。実にすばらしい出来栄《できばえ》じゃありませんか」
「して買約札を貼らぬ理由は」
「――その理由は、そらッ」
と叫びざま、何を思ったか五郎は、いきなり『横われる女』の塑像を、力任せにぐっと押倒した。――何で堪ろう塑像はどうっ[#「どうっ」に傍点]と倒れて粉砕する。
「あっ! 何をする」「佐治!」
仰天して人々が叫ぶ、然し五郎は狂気したか、飛鳥のように身を跳《おど》らせると、並んでいる作品の中から美人像ばかり五体、矢土、野口、越川、米田と、眼にも留まらぬ早業《はやわざ》で次々と押倒して粉砕して廻った。
会員たちは素《もと》より、観衆も意外な出来事に仰天し、どよめき立ってあれよあれよと騒ぐばかり。――林田の秘書という男も、暫くは呆気《あっけ》にとられていたが、急に身を翻して出口の方へ脱出しようとした。とたんに、
「動くな、動くと射つぞ!」と喚きながら、十四五人の私服刑事が、拳銃《ピストル》をつきつけて彼の周囲《まわり》を取巻いた。――そして同時に、刑事たちの後から走出た眸子《ひとみ》が、
「お兄さま!」と噎《む》せぶように叫びながら、呆然と立竦《たちすく》んでいる木谷順吉に抱きついた。
それから二時間後――閉めた会場の中では、会員や刑事たちの前で、佐治五郎がワイシャツ一枚になり、木谷の仕事部屋《アトリエ》で拾ったのと同じ二|吋《インチ》四方ほどの石膏を沢山《たくさん》積んで裏に書いてある記号と照合《てらしあわ》せながら平面に並べていた、――出来あがったのを見ると、二メートル四方ほどに縮写した港の地形であった。
「出来ました」五郎は額の汗を押拭って説明を始めた。「御覧なさい、是は軍港XXXの立体地型です。奴等は是を某某国へ密送するために、二|吋《インチ》四方に切って記号を付け、五個の美人像の中へ隠したのです、是なら絶対に発見される惧《おそれ》が有りませんからね。――五人をそれぞれ別に招待し、留守に忍込《しのびこ》んで塑像の中へ五つに分けて塗込《ぬりこ》んだところは遉《さすが》に考えたものですよ」
「そうだったのか」
会員たち始め刑事も思わず感嘆の声をあげた。
「ただ奴等は木谷の像へ塗込める時、『B・3』を一個入れ忘れたのです。是は眸子《ひとみ》さんが入って来たので、慌てて眸子《ひとみ》さんを誘拐しようとした為に忘れたのでしょう。――是が失策の一つ。もう一つは、買主の小切手の名だけはみんな変えたが、銀行が同じだった事です。僕は直ぐ銀行を洗って泊っているホテルを突止《つきと》め、刑事諸君に張込《はりこ》んで貰いました。果して奴等はそこの一室に眸子《ひとみ》さんも監禁していたんです」
「すばらしい頭だ。それだけの才能があれば美術雑誌の記者なんか止《よ》して、立派に探偵局長が勤まるぜ」
「だが、どうして此事件の緒口《いとぐち》を掴んだのかね?」
そう云われて五郎を振返った。
「それは眸子《ひとみ》さんのお蔭なんだ。何故《なぜ》かと云うと、僕は足へ外套を掛けただけでごろ寝をしていた。いつもの眸子《ひとみ》さんなら決してそんな不親切な事をする筈がない、――是は毛布を取りに行ったまま仕事部屋《アトリエ》から戻って来なかったんだな、と気がついたんだ。それが事件に手をつける端緒だったのさ」
「畜生、眸子《ひとみ》さんは毎《いつ》もそんなに親切にするのか」
一人が喚いた。
「そうとも、ねえ眸子《ひとみ》さん」と云われて、眸子《ひとみ》は思わずぱっと頬を染めた。それを見たとたんに、今までの重苦しい気分から解放された人々の、胸いっぱいの哄笑で、部屋は明るい反響を呼起した。
底本:「山本周五郎探偵小説全集 第三巻 怪奇探偵小説」作品社
2007(平成19)年12月15日第1刷発行
底本の親本:「少年少女譚海」
1938(昭和13)年1月
初出:「少年少女譚海」
1938(昭和13)年1月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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佐治五郎《さじごろう》は美術雑誌「新東美術」の若い記者である。まだ大学の美学科を出て二年にしかならないが、中々の敏腕家で、入社すると直《す》ぐ若い彫刻家たちを集め、「新古典派」という団体《グループ》を作り雑誌の上でその主張を説いたり、春秋二度ずつ定期展覧会を催したりして、美術界にすばらしい話題を投げていた。
今年は特に年末を期して、特別展覧会を開こうという計画を樹《た》て、十五名の会員を総動員してその準備を急いでいた。――年末の美術展覧会なんて、美術商人の売立《うりた》てを除いては余り例のない事だし、なにしろ当時評判の新古典派が顔を揃えて傑作を出すというのだから、早くも美術界には噂の波が拡がっていた。尤《もっと》もこの企ては佐治五郎の発案で、なにしろ新進芸術家と云《い》えば、先《ま》ず貧乏という事に相場が定《きま》っている。新古典派の会員たちも作品こそすばらしいが金には不自由している者ばかり、そこで季節外れながら力作を揃えて会を催し、みんなに楽しい正月をさせようという意味があるのだった。
もう開期に間のない十二月十五日のこと、佐治五郎は会員たちの仕事の進み具合を見廻るために、先ず同じ大森にいる木谷《きだに》順吉のアトリエを訪ねた。
「まあ佐治さん被入《いらっしゃ》い」
木谷の妹の眸子《ひとみ》は、佐治を見ると両手を翼のように拡げながら跳んで来た。
「どうしたの、馬鹿に嬉しそうじゃないか、何か良い事でもあったの?」
眸子《ひとみ》は悪戯《いたずら》そうにくるくると眼を動かしながら、五郎の手を取って、
「早く来て見て頂戴、あたしお正月の服を買ったのよ、それから靴も、帽子も手革包《ハンド・バック》も……」
「夢みたいな話だね、それ本当なの?」
貧乏な彫刻家の中でも、木谷は妹を抱えているのでその貧しさも一倍で、ひどい時こなると兄妹《きょうだい》して馬鈴薯《じゃがいも》ばかり喰べている事さえある。その事情を知っていたから、佐治は時折自分の小遣《こづかい》を割いて与えたり、彫刻の売口を捜したりして助けて来たのである。口の悪い連中は、
――佐治があんなに木谷の面倒をみるのはあの妹が好きだからなんだぜ、佐治の奴はいまに眸子《ひとみ》さんをお嫁に貰う積《つもり》でいるんだ。
などと蔭口をきいている。実際のところ五郎は眸子《ひとみ》を好いていた。いや五郎ばかりではない、気立《きだて》が優しくて明朗で、おまけにずば[#「ずば」に傍点]抜けて美しい眸子《ひとみ》は、会員仲間から「美の女神」と云って愛されていた。――然《しか》し眸子《ひとみ》の方でも、そんな大勢に騒がれる事より、唯《ただ》一人の五郎の親切を心から有難《ありがた》く思い、誰に会うより五郎と会うことを歓んでいたのである。
実は今日も来る途中、五郎は木谷に少しばかり金を渡そうと思っていたのだから、眸子《ひとみ》の意外な容子《ようす》を見てすっかり驚かされて了《しま》ったのだ。
「佐冶さんに見て頂いてから着ようと思って、服も帽子もまだ箱から出さずに置いてあるのよ。早く来て見て頂戴、迚《とて》もすばらしいわ」
「どうした訳だか僕には分らないよ、天使が小切手でも持ってきたのかい」
「正に天使だ!」
仕事部屋《アトリエ》の窓から木谷順吉が首を出して叫んだ。
「尤も其奴《そいつ》は地面を歩いて来たがね、小切手を持って来たのは慥《たし》かだよ」
「おい、作品を買いに来たのか」
「然《しか》も粘土型を見ただけだ」
「あの『横《よこた》われる女』か?」
「そうだ、ひと眼見ると、いきなり五百円で買おうと云うんだ。手附《てつけ》として二百円だけ小切手で置いて行ったよ」
佐治五郎は跳込《とびこ》むように、眸子《ひとみ》と手を執《と》り合ったまま仕事部屋へ入って行った。――其処には粘土で作った『横われる女』の等身大の原型がある、制作中のことで室内は足の踏場《ふみば》もなく取散《とりち》らされてあった。
「是《これ》が五百円か、若《も》し是が藤居幸助氏の作だったら三倍は慥《たしか》だが、まあ此際《このさい》だから仕方がないだろう。――ところで買ったのは何者だ。君に眼をつけたとすると『造形社』の親爺《おやじ》か」
「いや美術商じゃないんだ。九州から出て来ている林田という金持《かねもち》だそうだ。此処《ここ》へ買いに来たのはその秘書だがね」
「占《し》めた。その金持はきっと君の作品が好きなんだぜ、うまく行くと将来君の作品はみんな其奴《そいつ》が買うぞ」
「馬鹿な事を云え。君にも随分永いこと迷惑をかけているし、正月を控えて眸子《ひとみ》の着る物もないから仕方なしに売ったんだ。己《おれ》は金持のお気に入る作家にゃ成りたくないよ。――まあそんなことは何方《どっち》でも宜《い》いや、君が来たら祝杯を挙げようと思って葡萄酒《ぶどうしゅ》が買ってあるんだ。一杯やろう!」
「あら厭《いや》よお兄さま」
眸子《ひとみ》が向うからボール箱を運んで来ながら叫んだ。
「祝杯はあと、あたし服や帽子を佐治さんに見て頂くんだわ」
[#3字下げ]喫茶店セネガルから大至急の呼出電話[#「喫茶店セネガルから大至急の呼出電話」は中見出し]
やがて塩豚《ハム》と葡萄酒で三人は元気に祝杯をあげたが、五郎は塑像《そぞう》の方へ振返《ふりかえ》って、
「だが、むろん展覧会へ出品することは話したろうな?」
「初めは出来上ったら直ぐ引渡して呉《く》れと云ったがね、展覧会が迫っていてどうしても一度出品しなければならぬ事を説明したやったら、それでは展覧会が終ったら残金三百円と引換《ひきか》えに受取《うけと》ると承知したよ。――然し佐治、是は君だけに話したんだから他の者には黙っていて呉れよ」
「どうしてだい」
「買主《かいぬし》の希望なんだ。時節がらこんな金を遣うことが世間へ知れては面白くないから、絶対に他人《ひと》には話して呉れるなと云うんだ」
「はははは金持なんて不自由なものだな、自分の金を遣うのにも世間に気兼《きがね》をしなくちゃあならないなんて、馬鹿な話さ」
五郎は笑って杯《グラス》を置いた。
木谷と別れた五郎は、省線で新橋まで行き、内幸町にある「新東美術社」の社長室へ顔を出した。――其処《そこ》には矢張《やは》り同じ会員の、矢土蒼生《やつちそうせい》が来合せていたが、五郎の顔を見ると、
「じゃあお願いします」
と社長に挨拶して直ぐ立上った。
「なんだい、僕の顔を見ると直ぐ帰らなくても宜いじゃないか」
「そういう訳じゃないよ、社長に頼みがあって来たんだが、もう済んだから帰ろうと思っていたところなんだ」
「仕事はどうした、旨く行ってるかい」
「もう石膏を叩くばかりさ」
「じゃあ充分間に合うな、――吉田や波木井《はきい》はどうしてる?」
「二人ともやっているよ」
「まあ精々《せいぜい》頑張って呉れよ、季節外れの会で批評家の眼が光ってるから、迂闊《うっかり》して敲《たた》かれないように頼むぜ」
「まあ見ていて呉れよ」
矢土蒼生は自信あり気に言って立去った。――五郎は矢土のかけていた椅子《いす》を取って、
「社長、吉報がありますよ」
と云うと、秋山社長も身を乗出して、
「吉報は此方《こっち》にもあるんだ」
「吉報の鉢合せですか、何です社長の吉報と云うのは?」
「是を見給え」社長が笑いながら差出《さしだ》したのは、矢土蒼生の名宛て二百円の小切手だった。――振出人《ふりだしにん》は下山健市とある。
「矢土君のが売れたんですか」
「実は誰にも話さんで呉れと云うのだがね、今度の展覧会へ出す『秋光を浴びて』という裸体が売れたんだそうだ。然も買手の方から訪ねて来て四百円と値をつけ、残金は展覧会が終ると同時に渡すという話さ、――今この小切手を持って来たから、僕が現金を立替えてやってやったところだよ」
「そいつは妙な暗号ですね」
と云いかけて、佐治はふと口を噤《つぐ》んだ、――余りによく似た話である。木谷の買主は九州の富豪で林田と聞いたし此方《こっち》の小切手は下山健市というのだから、買主は違うらしいが話の筋は全く同じようだ。
「ところで君の吉報と云うのは何だね」
「はあ、それが実は――」
云いかけた時、給仕が扉口《とぐち》から、
「佐治さん電話ですよ」と呼んだので、救われたように五郎は編輯《へんしゅう》室へ出て来た。――電話の相手は会員の中で一番若い野口庄三郎であった。
「佐治さんですか、僕いま銀座のセネガルにいるんですがね、些《ちょ》っとお話がありますから急いで来て呉れませんか」
「セネガルって喫茶店の方かい?」
「そうです、待ってますから」
そこで電話は切れた。
木谷の事を社長には話しても宜いと思ったのだが、矢土蒼生の話を聞くと何だか訳の分らぬ不安を感じ始め、暫《しばら》く話はせずに置く方が宜いと思直《おもいなお》したので、電話を幸《さいわい》に五郎はそのまま社をとび出した。
銀座二丁目の喫茶店セネガルには、野口庄三郎の他に吉田喜作がいた、二人は五郎を待兼《まちか》ねていたように、
「感謝感謝、よく来て呉れました」
と両方から手を差出した。
「悦《よろこ》んで下さい佐治さん、愈々《いよいよ》『新古典派』も世間の声価を獲得しました。育ての親の貴方《あなた》の苦労も酬《むく》いられる時が来ましたよ」
「なんだい、だしぬけに」
「僕の作品が売れたんです」野口は昂奮しながら云った。
「大阪の金持で河野という人が来ましてね、今度の展覧会へ出す塑像を五百円で買って呉れたんです」
「え? 君もか、君もか?」五郎は唖然と眼を瞠《みは》った。――ああ是は全体どうした訳だ? 本当に幸運の神か訪れたのであろうか、それとも……それとも? ――五郎の頭にふと凶《まが》しい物の影が揺れ動いた。
[#3字下げ][#中見出し]深夜の仕事部屋《アトリエ》に、あッ! 誰かいる誰か![#中見出し終わり]
愈々《いよいよ》明日は会場へ陳列という前夜だった。
あれ以来会員たちを訪ね廻って歩いた五郎は、木谷、矢土、野口の他に更《さら》に二名、越川、米田とつまり五名の者が殆《ほとん》ど同じ条件で作品を買われている事実を知った。
「妙だ、どうも話に妙なところがある」
五郎はなんだか騙《だま》されているような気がしてならない、単なる「幸運の訪れ」と云って了《しま》えない気がするのだ。――今日も五人めを訪れた帰りに、銀座の酒場《バアー》で好きなフェネシイの三星《みつぼし》を飲みながら、この奇妙な買手に就《つい》て考えを纏《まと》めてみた。五人が五人とも共通している点が三つあるのだ。
第一は、五人とも、買われたのは女性の裸体の等身塑像である点。
第二は、小切手の振出人こそ違うが、扱い銀行が同一である点。
第三は、五人とも買約を秘密にして呉れと固く口止めされている点。
右の三つが五人に共通した条件である。まだ市価も確《しか》と定《きま》っていない新人の、然も大作ばかりを四百円、五百円で買うという点も、考えると余りにうま過ぎる話だ。
「こいつは唯じゃあねえぞ」
思わず飲み過ぎているのも知らず、五郎は長いこと彼《あれ》か是かと考えてみた。
「殊《こと》に依《よ》ると是は、新古典派の勢力に怖れをなした奴等が裏から何か策動を始めたのかも知れないぞ。例えば有望な作家を手馴《てな》ずけて引抜くとか、例えば部内の団結を分裂させて、会をぶち壊すとか、そうだ、恐らくそんなところかも知れない」
統率者として、会員の作品の売れた事をさえ心配しなければならぬ五郎の立場は、実に皮肉な苦々しいものであった。
酒場《バアー》を出たのが午前一時を過ぎていた。省線の終電車に危く間に合って大森へ着いた時には、飲過《のみす》ぎた酔《よい》が一遍に出て、迚も自分の下宿まで帰れそうもなかった。
「迂闊《うっかり》すると途中で参るかも知れないぞ、仕方がないから木谷の仕事部屋《アトリエ》へ泊めて貰うとしよう」
そう思いついたので、五郎は木原山にある木谷順吉の家を訪れた。――もう午前二時を過ぎていたが、こんな事は初めてではないから、生垣を乗越えて玄関の扉《ドア》を叩いた。すると待兼ねていたように、
「お帰りなさい!」
と云って扉《ドア》を開けたのは眸子《ひとみ》だった。
「あら、佐治さん?」
「ああ君か、木谷は留守なのかい」
「ええ出掛けたまま未《ま》だ帰らないのよ、林田さんの御招待で出たんですけど」
「林田って……ああ彫刻を買って呉れた人か、そいつは、――いや、実は銀座で晩《おそ》くなったんで泊めて貰う積《つもり》で来たんだがね」
「お上んなさいよ、外は寒いわ」
「だって君一人じゃあね」
「つまらない遠慮なんかしっこ[#「しっこ」に傍点]無し、あたし独りで淋しくて仕様がなかったのよ。もう二時過ぎだし、若しお兄さまが帰らなかったらどうしようかと思っていたんだわ、――泊っていらっしゃいよ」
「じゃあお邪魔しよう」
眸子《ひとみ》は甲斐甲斐しく外套を脱がせたり帽子をとってやったりしながら、五郎を居間の方へ案内した。
「厭だわ、お酒あがってらっしゃるのね」
「少し考え事があったのさ、それでつい飲過ぎちゃったんだ。直ぐ寝かして貰うぜ」
「向うへお床を敷くわ」
「いや此処《ここ》で宜いよ」
烈しい酔に堪《たま》らなくなって、五郎は其処《そこ》へごろりと横になった。
「駄目ねえ、それじゃ仕事部屋《アトリエ》から毛布を持って来るわ、待っててね」
そう云って眸子《ひとみ》は、兎《と》に角《かく》外套を足の方へ掛けてやって居間を出た。――『横われる女』はもう石膏を叩き終り、もう粘土も抜いてあるので、今夜は石膏を流す筈《はず》になっていた。その時使うために、普段必要のない毛布や蒲団はみんな仕事部屋《アトリエ》へ運んであったのだ。――仕事部屋《アトリエ》へやって来た眸子《ひとみ》は、馴れているので窓明りを頼りに、隅の方に重ねてある毛布を取ろうと、部屋の中へ二三歩入って行ったが、不意に人の気配を感じて、
「――誰? 其処《そこ》にいるの誰※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
と叫んで振返った。――兄の作りかけている石膏像の側に誰かいる。
「あ! 佐治さんッ」
悲鳴をあげて逃出《にげだ》そうとした刹那、塑像の側に跼《かが》んでいた人影は、飛鳥の如く眸子《ひとみ》に跳りかかって来た。
[#3字下げ]ふと足下に落ちていた凸凹型の石膏のかけら[#「ふと足下に落ちていた凸凹型の石膏のかけら」は中見出し]
「おい、起きないか佐治、おい」
強く揺起《ゆりおこ》されて、ふっと眼覚めた佐治五郎は、前に立っている木谷順吉を見て、
「おや、帰って来たのか」と怪訝《けげん》そうに眼を擦《こす》った。
「帰って来たのかって何時だと思ってるんだ、もうさっき正午《ひる》を過ぎたぜ、僕はもう仕事をして了《しま》ったんだ。来て出来栄えを見て呉れよ」
「そうか、酔ってたもんですっかり寝込んじゃった。眸子《ひとみ》さんは?」
「君も出掛けたのを知らんのか?」
木谷は持っていた紙片《かみきれ》を示して、
「今朝帰ってみたら是が置いてあったんだ。牛込の叔母《おば》の所へ行くと書いてある」
「なんだい、佐治さん! って呼んだのを夢のように覚えているが、じゃあ彼《あ》の時出掛けたんだな、よっぽど俺は参ってたとみえる」
起きようとした時五郎は、足に外套を掛けたまま寝ていた事に気付いた、――はてなと思ったが別に深くも考えず、顔を洗って仕事部屋《アトリエ》へ行って見《み》た。木谷の塑像はすっかり出来上っていた。美しい裸体の美人が、岩の上へ横わっている上作で、実に見事な出来栄えである。
「すばらしい、是が五百円とは勿体ないぞ、――すぐ会場へ運んで呉れ」
「もう運送屋へ頼んであるんだ」
「早手廻しだな、じゃあ僕は社へ行こう」
そう云って塑像の前から離れようとした五郎は、足許に落ちている二|吋《インチ》四方くらいの石膏の固《かたま》りをみつけて何気なく拾い上げた。
「何んだい是《これ》ぁ――?」
「さあ、知らんね」
見ると四角の一面に山脈の一部のような凹凸が彫ってあり、裏側に、
(B・3)という字が書きつけてある。
「こんな印がつけてあるぜ」
「知らないね、僕はそんな物を弄《いじ》った覚えはないよ」
五郎は暫く捻《ひね》っていたが、何か気懸りな事があるらしく、小首を傾げ傾げ、
「どうも妙だよ、妙な事|許《ばかり》つづくよ」と呟《つぶや》きながら外套を着た。
木谷が作品を運んで行ったのは其《その》日の午後三時頃であった。銀座の会場にはもう殆ど全会員の作品が揃っていて、新東美術社の者がせっせと陳列を急いでいるところだった。
「佐治君はどうしたの?」
「何だか急用があるから此方《こっち》へは来られないと云っていました」
「仕様がないな、大事な陳列に立合って呉れなくちゃ困るぜ」
みんなは不平そうに呟き合った。――するとその噂へ影のさすように、佐治から木谷へ電話だと知らせて来た。
「ああ木谷か、僕だ」五郎の声は妙に苛々していた。「ゆうべ林田から招待されたそうだが、それは君一人か?」
「そうだよ、日本橋の料理屋で林田の秘書と二人っきりだったが、其《それ》がどうかしたのか」
「――済まないが矢土と代って呉れ」
「君は会場へ来ないのか」
「何でも宜いから矢土に出て貰って呉れよ、急ぐんだ」
常に似合わず気短《きみじか》な調子である、木谷は直ぐ矢土を呼んだ。矢土はまた少し電話で話すと今度は野口庄三郎に代り、それから越川、米田と順々に五人の者が電話口へ呼出《よびだ》されて何事か訊《き》かれた。――そして最後に、
「僕は陳列に立会えないから、君たちで宜《よろ》しくやって呉れ給え。それからね、どの作品にも買約済の札を貼らないようにしろって、厳重に云って置いて呉れ給え!」
それだけ云うと五郎は電話を切って了《しま》った。
斯《こ》うしてその日は結局佐治五郎は会場に姿を見せず、陳列は会員たちと雑誌社の者の手で行われたうえ、夜になってようやく皆別れた。
明くれば愈々《いよいよ》展覧会の第一日である。何しろいま評判の新古典派が、全会員腕をふるっての力作揃いというので、美術愛好家の人気はすばらしく、会場はもう午前中から押《おし》かける人で湧きかえっていた。――すると午後三時近い頃、寝不足らしく眼を充血させた佐治五郎が、疲れきったという風で会場へとび込んで来た。
「おい、木谷はいないか」
「事務所の方にいますよ」
野口が答えるのを押除けるようにして、五郎は会場の一部にある事務所へ入って行った。ところが事務所の中では、いま一人の紳士が木谷を捉えて盛んに何か抗議をしている。
「困りますよ是は、貴方《あなた》の作品は私が買ったのです。買約の札を貼って下さらなければ若し他人《ひと》が買おうと云ったらどうします。――直ぐ買約の札を貼って下さい」
「その話は僕が伺いましょう」
そう叫びながら五郎は大股に事務所の中へ入って行った。
[#3字下げ]ああ無残、何たる狂態、美人像は真ッ二つ[#「ああ無残、何たる狂態、美人像は真ッ二つ」は中見出し]
「あ、佐治、――」
驚いた木谷は、五郎の方へ走寄《はしりよ》って、
「おい、眸子《ひとみ》の行衛《ゆくえ》が知れないんだ。牛込の叔母の方へは行っていないと云う……」
「まあ待て、此方《こっち》から先に片附けよう」
そう云って五郎は紳士の方へ向直《むきなお》った。
「貴方《あなた》ですね、木谷の作品を買った九州の林田とか云う人の、秘書をしていらっしゃる方は、貴方《あなた》ですね?」
「そうです」
「支那人でしょう、君は※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「な、なんですか、君は何を……」
林田の秘書という男はさっ[#「さっ」に傍点]と顔色を変えた。然し五郎は平然として、
「いや、今お話の買約札ですね、あれを貼らぬように云ったのは僕なんです。それに就て説明しますから会場へ来て下さいませんか」
「宜しいとも、買った作品に買約済の札を貼るのは当然の事でしょう。理由があるなら承わりたいと思います」
「承知しました、どうぞ」
にっこり笑って、五郎は会場の方へ出て行った。――会場の人混《ひとごみ》の中へ出た時、五郎が右手をあげて誰かに何事か合図をした事に気付いた者は一人もなかった。
「是ですね」五郎は『横われる女』の前へ来た、「傑作ですな、五百円では安いものです。実にすばらしい出来栄《できばえ》じゃありませんか」
「して買約札を貼らぬ理由は」
「――その理由は、そらッ」
と叫びざま、何を思ったか五郎は、いきなり『横われる女』の塑像を、力任せにぐっと押倒した。――何で堪ろう塑像はどうっ[#「どうっ」に傍点]と倒れて粉砕する。
「あっ! 何をする」「佐治!」
仰天して人々が叫ぶ、然し五郎は狂気したか、飛鳥のように身を跳《おど》らせると、並んでいる作品の中から美人像ばかり五体、矢土、野口、越川、米田と、眼にも留まらぬ早業《はやわざ》で次々と押倒して粉砕して廻った。
会員たちは素《もと》より、観衆も意外な出来事に仰天し、どよめき立ってあれよあれよと騒ぐばかり。――林田の秘書という男も、暫くは呆気《あっけ》にとられていたが、急に身を翻して出口の方へ脱出しようとした。とたんに、
「動くな、動くと射つぞ!」と喚きながら、十四五人の私服刑事が、拳銃《ピストル》をつきつけて彼の周囲《まわり》を取巻いた。――そして同時に、刑事たちの後から走出た眸子《ひとみ》が、
「お兄さま!」と噎《む》せぶように叫びながら、呆然と立竦《たちすく》んでいる木谷順吉に抱きついた。
それから二時間後――閉めた会場の中では、会員や刑事たちの前で、佐治五郎がワイシャツ一枚になり、木谷の仕事部屋《アトリエ》で拾ったのと同じ二|吋《インチ》四方ほどの石膏を沢山《たくさん》積んで裏に書いてある記号と照合《てらしあわ》せながら平面に並べていた、――出来あがったのを見ると、二メートル四方ほどに縮写した港の地形であった。
「出来ました」五郎は額の汗を押拭って説明を始めた。「御覧なさい、是は軍港XXXの立体地型です。奴等は是を某某国へ密送するために、二|吋《インチ》四方に切って記号を付け、五個の美人像の中へ隠したのです、是なら絶対に発見される惧《おそれ》が有りませんからね。――五人をそれぞれ別に招待し、留守に忍込《しのびこ》んで塑像の中へ五つに分けて塗込《ぬりこ》んだところは遉《さすが》に考えたものですよ」
「そうだったのか」
会員たち始め刑事も思わず感嘆の声をあげた。
「ただ奴等は木谷の像へ塗込める時、『B・3』を一個入れ忘れたのです。是は眸子《ひとみ》さんが入って来たので、慌てて眸子《ひとみ》さんを誘拐しようとした為に忘れたのでしょう。――是が失策の一つ。もう一つは、買主の小切手の名だけはみんな変えたが、銀行が同じだった事です。僕は直ぐ銀行を洗って泊っているホテルを突止《つきと》め、刑事諸君に張込《はりこ》んで貰いました。果して奴等はそこの一室に眸子《ひとみ》さんも監禁していたんです」
「すばらしい頭だ。それだけの才能があれば美術雑誌の記者なんか止《よ》して、立派に探偵局長が勤まるぜ」
「だが、どうして此事件の緒口《いとぐち》を掴んだのかね?」
そう云われて五郎を振返った。
「それは眸子《ひとみ》さんのお蔭なんだ。何故《なぜ》かと云うと、僕は足へ外套を掛けただけでごろ寝をしていた。いつもの眸子《ひとみ》さんなら決してそんな不親切な事をする筈がない、――是は毛布を取りに行ったまま仕事部屋《アトリエ》から戻って来なかったんだな、と気がついたんだ。それが事件に手をつける端緒だったのさ」
「畜生、眸子《ひとみ》さんは毎《いつ》もそんなに親切にするのか」
一人が喚いた。
「そうとも、ねえ眸子《ひとみ》さん」と云われて、眸子《ひとみ》は思わずぱっと頬を染めた。それを見たとたんに、今までの重苦しい気分から解放された人々の、胸いっぱいの哄笑で、部屋は明るい反響を呼起した。
底本:「山本周五郎探偵小説全集 第三巻 怪奇探偵小説」作品社
2007(平成19)年12月15日第1刷発行
底本の親本:「少年少女譚海」
1938(昭和13)年1月
初出:「少年少女譚海」
1938(昭和13)年1月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ